未熟さがあるからこそ

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自分自身の未熟さを

責める人がいるが、

それはまったく

見当違いだ。

 

誰もが、

未熟から成熟

へと

階段を上がっていく。

 

未熟という

プロセスを経ない

成熟はない。

 

当たり前の

ことだ。

 

未熟さをもし

責めるだけの

エネルギーが

あるならば、

 

未熟であるが

故の、

今にしかできないことを

精一杯

すればいい。

 

例えば、

私はずっと毎日、

日記を書いている。

 

書いた日記を

読み返すことは

ほとんどないの

だが、

時々、思い出した

ように

昔の日記を見たり

する。

 

例えば、

「真本音」という概念が

私自身の中で

生まれた頃の

日記がある。

 

17〜8年前の

日記だ。

 

それを読むと

未熟だなぁ、

と思う。

 

しかし、

その文章は

その時の私にしか

書けない文章

であり、

 

その日の

気づきは、

その時の私にしか

得られないもの

だ。

 

未熟であるが

とても伝わって

くる文章。

 

そしてその一日は

今の私には

到底できない一日

だ。

 

未熟かどうか?

 

ではない。

 

今の自分にしか

できない

一日を

創り出すこと。

 

それこそが

大事ではないか。

 

未熟であることを

恥じることも

責めることも

ない。

 

ただ、

早く一人前になろう

という

その意志は

大事だ。

 

意志に基づき、

今日という一日を

精一杯

生きる。

 

実はそれは

今の私も

まったく変わって

いない。

 

私は

今の私に

まったく満足

していない。

 

いまだ

未熟だ。

 

だから、

今にしかできない

一日を

創り出す。

 

ずっと変わらずに

それをやっている。

 

だから今、

こんなにも

人生が楽しいのだな、

思える。

 

つづく

 

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