枠はね

 

枠を超えていく

のが

人の価値であり

醍醐味だ。

 

極端に言えば、

最初から枠のない

人生なんて

意味がないし

つまらない。

 

そういうもんなんだな、

最近はつくづく

思う。

 

なぜなら

最近の私のクライアントさん達の

枠の外し方、

 

もしくは

壊し方、

 

もしくは

溶かし方、

 

が凄い。

 

その様子を

拝見していると、

 

枠はあっては

ならないものだ、

 

などと

短絡的に捉えている

場合ではないな、

思えるのだ。

 

枠を超えた

その瞬間とか、

 

枠を超える

その直前とか、

 

もっと言えば、

枠に近づいた

一番苦しい時期とか、

 

そういう時に

その人の持つ

潜在された本当の

魅力が

滲み出す。

 

そしてその魅力は

枠を超えた後の

その人の歩みの

パートナーとなる。

 

そういうのを

観ていると、

 

枠というのは

宝物なんだな、

 

つくづくね。

 

とは言え、

 

本人にとっちゃ

そんなことは

言ってはいられない。

 

「枠は宝物なんだ」

などと

余裕をかましている

うちは、

 

そんなものは

本物の枠ではない。

 

枠は

苦しみの源

でしかない。

 

でもやはり

私達の人生には

なくてはならないもの。

 

人生っていうのは

面白い、というか

何というか・・・。

 

つづく

 

そんなに壊しちゃうの?

 

成長には

2種類ある。

 

自分の枠内での

成長と、

 

自分の枠を壊す

成長だ。

 

一般的な成長とは

ほとんどが

前者だ。

 

本当の意味で

後者を行なう人は

わずかだ。

 

なぜならここは

他者の力や支えの

及ばない場所だから。

 

そこは、

本人の意志と意思と

覚悟のみで

決まる場所だから。

 

しかもそこは、

あまりに強い

恐怖と不安と不安定の

場所だから。

 

私はこの仕事を

させていただく中で、

なんとかして

後者の成長のサポートが

できないものか、と

試行錯誤して来た。

 

現時点での

結論は、

 

「できない」

 

だ。

 

自分の枠を壊す

その直前までは

サポートできる。

 

しかし最後の一歩は

本人が

「一人で」

越えねばならない。

 

現時点での私は、

そこを「一人で」越えること

そのものが

人間としての尊厳であると

思っている。

 

だから、

もしたとえ何らかの

サポート方法が見つかったと

しても、

そこは他者が

手をかけてはならないのだと

思っている。

 

でも、

であるが故に

私は祈る。

 

自分の枠を

その人が自ら壊し、

本来の自分を

取り戻せますように。

 

そして、

その人が本当に望む

人生の役割を見出し、

それを全うできますように。

 

これが私の

祈りだ。

 

ところが。

 

今の若い人達の

中には、

果敢に後者の成長に

向かう人が

増えて来た。

 

ある意味、

無茶とも言えるし、

無謀とさえも言える、

そんな勢いだ。

 

しかしなぜ彼らが

それをするかと言うと、

そこには

目を見張るほどの

使命感がある。

 

自分の決めた

自分の使命を

何としてでも果たすのだ、

という

人生への覚悟がある。

 

逆に私は

そういう人達をみると、

 

ちょ、ちょ、ちょっと

待って。

大丈夫?

もう、その辺で

やめておけば?

 

と、

ついつい言ってしまう

くらいだ。

 

しかしそんな私の

助言などには

一切構わずに、

彼らは、進む。

 

枠を

次々に壊していく。

 

さすがの私も

感動する。

 

すげーな、

人間って!

 

改めて感嘆する。

 

私のすべきことは、

それだけの覚悟と

勢いを持った

彼らを、

 

彼らが

自らのエネルギーに

呑まれてしまわないように、

 

彼らが本当に

自由に進めるように、

 

他者だからこそできる

最大のサポートを

し続けることだと、

つくづく

思ったよ。

 

つづく

 

自由、についてつぶやく

 

私の人生において

最重要のテーマの一つは

 

『自由』

 

だ。

 

自由とは何か?

 

本当の自由とは?

 

ということを

もう30年以上、

探究しているのでは

ないか。

 

自由について、

いろんな角度から

このブログでも書いて

いきたいのだが、

 

今日は

こんな角度は

どうだろう。

 

「自由を求めるならば、

枠を大事にしよう。」

 

・・・・・・

 

枠は大事だ。

 

この世は

「枠」だ。

 

私達は

「枠」の中に生まれ、

さらに

「枠」をはめられ続け、

 

生きている。

 

男性女性の区別も

「枠」だ。

 

名前も「枠」だ。

 

生まれた地域も

環境もすべて

「枠」だ。

 

一日が24時間というのも

「枠」だし、

重力も「枠」だし、

 

体が一個しかないのも

「枠」だ。

 

私達の思考さえも

「枠」と言えるかもしれない。

 

この世は

「枠」

しかないではないか。

 

自由とは、

それらの「枠」を

取り払うことだろうか?

 

いや、

そうではない

私は思う。

 

だって

「枠」はなくならないし。

 

それどころか、

「枠」があること自体が

この世の意味だし

意義だし

価値だから。

 

「枠」の否定は

むしろ

 

不自由の象徴

 

のように

私には映る。

 

それは、

この世界の否定

だからだ。

 

否定は

不自由だ。

 

かといって

肯定も

不自由だ。

 

肯定も否定も

どちらでもいいじゃないか、

 

というのが

本来だし、

そこはちょっと

「自由」な感じがする。

 

・・・・・・

 

「枠」を取り払おうと

する人は

多いが、

 

その姿はとても

不自由に

映る。

私には。

 

私は

こう思うのだ。

 

「自由」とは、

どのような「枠」の中でも

自由でいること。

 

わけわからんかな?

 

でもこれは

本質だと思っている。

 

・・・・・・

 

「私は自由に生きたいから、

好きなことしか

やらないんだ」

 

という人を見ると、

本当に不自由な人だな、

と思う。

 

なぜならそれは

 

「好きなことしかできない」

人生だから。

 

好きなことのできる

環境であれば

自由になれて、

 

そうでない環境で

あれば、

自由になれない、

 

ということでしょ。

 

これって完全に

環境に左右されている

人生だ。

 

つまりは、

人生のハンドルが

「環境」にある。

 

人生のハンドルが

「自分」にはない。

 

それを「自由」とは

到底言えないだろう。

 

どんな環境においても

自由に生きれる人が

「自由」な人だと

私は思う。

 

嫌いなことは

やらない。

好きなことだけ

やる。

 

のではなく、

 

すべてを

自分らしく自由に

できることが

「自由」ではないかな。

 

もちろん、

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちが

湧くだろう。

 

しかしその気持ちが

あることで

不自由になるなんて

弱過ぎないかい。

 

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちすら

あるがままにさせて

おけばいい。

 

自由にさせて

おけばいい。

 

でもって

ちゃんとやるべきことを

自分の意志と意思で

行なっていく。

 

これができている時

私達は

「自由」を手に入れている

のだと私は思うけど、

 

どうかな?

 

・・・・・・

 

その人が自由かどうか?

顔を見ればすぐに

わかる。

 

自由な人は

険しさがない。

 

不自由な人は、

どれだけ好きなことを

やっていても

必ず顔に

険しさが出る。

 

自由な人は、

絶対に

何かを否定はしない。

 

無理な肯定も

しない。

 

そんなものからは

自由になっているからだ。

 

好きは好き。

嫌いは嫌い。

 

自由は自由。

不自由は不自由。

 

やりたいことは

やりたいこと。

やりたくないことは

やりたくないこと。

 

以上。

 

となっている人が、

自由ではないか。

 

だから自由な人は

「枠」を本当に大事に

している。

 

それはこの「世界」を

大事にしていることと

イコールだから。

 

そこにあるものすべて

(つまりは、枠のすべて)

を大事に

しているんだ。

 

自由だから。

 

つづく

 

そのこだわりは、「あなた」ではない

自分の今いる場所が、

無限に広がる世界であると感じても、

それは決して無限ではありません。

 

その世界そのものが、

一つの「枠」です。

 

そこには限界と境界があります。

 

私達が、今いる世界の中で進化を続ければ、

必ずその「枠」の存在を感じるようになります。

これまで無限だと思っていた世界なのに、

窮屈さを感じるようになるのです。

 

それは、「枠」を壊す前兆です。

 

刻一刻と私達は進化を続け、

自らは大きく大きくなっていきます。

 

そして自分自身が「枠」いっぱいに

広がります。

 

広がるけれど、すぐには「枠」は

壊れません。

ですからどんどん窮屈さが増していきます。

 

窮屈さが苦しみを生みます。

 

その苦しみを、素直に

認識することこそが大切です。

 

私達は、その苦しみに打ち勝つかのように、

内側から「枠」を壊します。

 

私達が本気で「壊そう」と決めた場合にのみ、

「枠」は壊れます。

 

見事に「枠」が壊れれば、

私達は急に「開放感」と「自由」を得ます。

そこには、

無限の世界が広がっているのです。

 

その無限の世界で、

私達はさらにさらに進化を続け、大きくなります。

 

これまで自分が入っていた「枠」は

信じられないほど小さかったことが

わかります。

 

自分が大きくなるにつれ、

その「枠」はどんどん小さくなり、

しまいには、砂粒くらいになり、やがて

見えなくなります。

 

それくらいの勢いで私達は

大きくなっていきます。

 

無限の世界の中で、

大きくなって行くのです。

 

・・・が。

 

その「無限」だと思っていた世界においても

またもや「枠」の存在を感じるようになります。

 

だんだん窮屈さが生まれ、

その新たな「枠」の中でギュウギュウ詰めと

なります。

 

そしてまたその「枠」を

私達は、内側から壊します。

 

・・・その連続です。

 

これが、私達人間の「自然」な人生です。

進化の人生です。

 

いったいそれはいつまで続くのか?

 

そんな疑問が湧きますが、

それは、それこそ無限に続きます。

 

じゃあいつになったら私達は

達成感を感じるのか?

幸福感を感じるのか?

 

その答えは、

「今この瞬間に」

です。

 

進化とは、過程(プロセス)では

ありません。

進化とは、

それ自体が目的です。

 

本当の進化を続けるならば、

毎日毎日が達成感と完了感と

幸福感に満たされます。

 

それが、

真本音で生きる、ということです。

 

一つの「枠」を壊すことを

『脱皮』と呼んでいます。

 

それは、一つ、次元を高めることでも

あります。

 

脱皮をし、次元を高めると、

私達が、これまでの「枠」の中でこだわっていたことが

本当に些細なことに感じられます。

 

AかBか?

とずっと悩んできたことが、

 

「どっちでもいいじゃん」

となります。

 

逆に言えば、

もし今、AかBか? で悩んでいたとしたら、

「どっちでもいいじゃん」

と呟いてみると、案外、面白いです。

 

これまでとは少し違う、

一つ次元の高いところからの発想が

生まれるかもしれません。

(→前回記事)

 

ところで、

ちょっと話は変わりますが、

皆さんは、「自分らしさ」って

何だと思いますか?

 

実は、ほとんどの人が

反応本音レベルの思考と行動のパターン

を「自分らしさ」であると勘違いされています。

 

それはあくまでも

「よく現れるパターン」であって、

真の「自分らしさ」ではありません。

 

自分の「こだわり」を自分らしさであると

思い込んでいる人も多いです。

 

しかし、真の「自分らしさ」とは

その「こだわり」をすべて手放した時にこそ

発現します。

 

「AではなくてBである」

・・・これが「こだわり」の一つの形です。

 

ですから、「こだわりを手放す」とは、

「AでもBでも、どっちでもいいじゃん」

となることを言います。

 

しかし、一つのこだわりを手放せば、

その奥から、次のこだわりが現れます。

例えば、

「CではなくDである」

というように。

 

これをさらに手放します。

つまり、

「CでもDでも、どっちでもいいじゃん」

と。

 

するとその奥から、

さらに次のこだわりが姿を現します。

 

そしてまたそれを手放します。

・・・・・

 

これを続けて、すべての「こだわり」を

手放したとします。

しかしそれでも最後に残るものがあります。

 

その最後の最後に残ったもの。

それこそが、真の「自分らしさ」の大本です。

 

つまり、

「どっちでもいいじゃん」を

突き詰めれば、

真の自分らしさに、行き着きます。

 

「どっちでもいいじゃん」とは、

強烈な一言なのです。

 

つづく

 

的確な枠こそが、心を自由にさせる

「なぜ木村さんがコーチに向いていないか、

わかります?」

 

「はい、だって私は、

自分が主役でいたいからです。

だから、ロックバンドやってますしね。」

(→前回記事)

 

木村さんがこう答えた時、

私は実在レベルで、

木村さんの雲が完全に取り払われたのを

感じました。

 

そして、雲が取り払われたことによって

姿を見せたものがありました。

それは、

小さな一輪の花でした。

 

紫色で、とても小さく可愛らしい花ですが、

スッと一直線に茎を伸ばし、

凛として立っています。

 

イメージとして表現するとそんな感じですが、

「実在」ですので、

それは脳を使わずに感知したものです。

 

あぁ木村さんはやっと

木村さんの本来の花を咲かせ始めたんだな、

と思いました。

 

今後はその花を

大切に育てていくことです。

 

「やっと本来の木村さんらしさが

出て来ましたね。

どうですか木村さん、

自分が主役でいたい、と改めて認識されて、

今の木村さんの心は自由ですか?」

 

「はい、自由です。

なんか、急に肩の荷が降りた感じがします。

とても楽になりました。」

 

「じゃあ木村さん、

木村さんはこれからご自分のエネルギーを

何に向けたいですか?」

 

彼はニッコリ笑いながら言いました。

 

「もちろん、新規事業プロジェクトの成功です。

なんか、自分がなぜプロのコーチになりたい、と

言ったのか、まったくわからなくなって来ました。

そんなことはどうでもいい。

私はプロジェクトリーダーとして全力を尽くしたい。

そしてそれを成功させて、

平井を喜ばせたい。

あっ、たけうちさん、私は平井のためにやるんじゃないですよ。

自分のためにやりたいんです。」

 

「笑。わかってますよ。

自分のため=平井さんのため、でしょ。

平井さんを喜ばせたい、というのも木村さんの真本音です。

自分の喜び=平井さんの喜び、になってますよね。」

 

「そうなんです。

私は本当に平井のことが好きなんですねぇ。」

 

このブログをお読みの皆さんは覚えて

いらっしゃるでしょうか?

 

この木村さんとのやりとりをご紹介しているのは、もともと

「私達人間は、的確な枠(もしくは、限度・限界)を与えることで

可能性を伸ばす」

という原理をご理解いただくためでした。

(→【自分の可能性は無限? それはハッタリです】)

 

この場合の木村さんにとっての「的確な枠」とは、

新規事業プロジェクト

に他ありません。

 

つまり、今の彼は、彼自身に与えられた

新規事業プロジェクトのリーダーという役割を全うすること

によって、彼自身の最大の進化を引き起こせる

ということです。

 

しかし彼は、イケイケのパターン(クセ)を出し、

その枠を外れた発想(=プロコーチになる)を始め、

エネルギーが完全に分散してしまいました。

 

実は「コーチング力を伸ばしたい」という想い自体は

彼の真本音だったのですが、

その真本音の想いを実現するためには

「新規事業プロジェクトリーダーという役割の中で

コーチング力を伸ばす」

というのがベストだったわけです。

 

そしてもうお気づきのように、

こういった「的確な枠」とは、本人にとっては

「枠である」

という認識がありません。

 

「ここでこそ、全力を注ぎたい」

とか

「今はここに集中したい」

といったように、エネルギーの焦点化を起こすような

モチベーションのもと、になります。

 

つまり、「的確な枠」をはめることで

モチベーションが高まるのです。

 

逆に言えば、

人には、最もモチベーションの高まる「枠」が

存在するということです。

 

それを見つけることも

コーチとしての大事な役割の一つです。

 

つづく

 

自信家になったら、危険信号

私達人間の真本音は、

自分自身に「的確な枠」をはめることを

大切にしています。

(→前回記事)

 

「無限の可能性」を発揮できないように、

わざと仕向けます。

 

自分に制限をかけます。

ストッパーをかけます。

 

その制限とストッパーに縛られる中で、

私達は、もがきます。

しかしその「もがき」は

非常に重要な「もがき」であり「試行錯誤」となります。

 

そしてその「もがき」の結果、

自ら「枠」を壊す瞬間がやってきます。

 

私はそれを

『脱皮』

と呼んでいます。

 

人は『脱皮』をすると、

ステージが一つ上がります。

次元が一つ上がります。

通常の成長(進化)とはレベルの違う

変化が起きます。

そして、まるで生まれ変わったかのように

新たな自分となります。

 

しかしその新たな自分とは、

これまでとは別人になるのではなく、

本来の自分に「一気に近づく」ということです。

 

人の成長(進化)とは

比例直線のように上がっていくわけではありません。

「階段状」に上がっていきます。

 

緩やかな進化の段階と、

一気にステップアップする段階と。

 

そのステップアップこそが、『脱皮』の瞬間です。

 

無限のステップアップをするために、

私達の真本音は、

今のステップに必要な「枠」を

自分自身に与えるのです。

 

ところが・・・。

 

この「枠」のはめ方を間違えると、

『脱皮』の瞬間は永遠にやってきません。

 

「枠」は

大き過ぎても、小さ過ぎても

ダメなのです。

 

自分にとって的確な枠をはめることこそが

重要であり、

それができているかどうか?を客観的に

観察するのがコーチの役割の一つです。

 

木村さんは、これが下手でした。

 

彼はもともと、自信家でした。

しかしその自信は、不安の裏返しでもありました。

 

俺が一番だ。

 

ということを証明するために、

常に自信のある自分を「演出」する必要が

ありました。

 

俺が一番、

・・・でなきゃ立っていられなかった、

のです。

 

そういった自信は、非常に不安定で、

何か一つのきっかけがあるとすぐに木村さんは

自信喪失状態に入りました。

 

すると今度は、

引きこもりに近い精神状態となり、

非常にウジウジとしながら

必要な行動を何もしなくなってしまいます。

 

物事が上手く行き出すと、自信家になり、

物事が頓挫すると、引きこもる。

これを繰り返していました。

 

このように、

「自信家」と「引きこもり」は表裏の関係にあり、

この二つを行ったり来たりするパターンの人は

かなり多いです。

 

そしてこういったパターンを持った人は一様に

自分自身への「枠のはめ方」が

下手です。

 

つまりは、

自信家の時は、枠を大きくし過ぎて、

引きこもりの時は、枠を小さくし過ぎるのです。

 

木村さんのその「下手さ」によって、

彼は、脱皮のチャンスを何度も逃しました。

 

しかしそれでも、彼は脱皮し続ける彼に

なっていくのですが。

最初の頃は大変でした。

 

彼はある日突然、私に向かって

「私はプロのコーチになります」

と宣言されたのです。

 

つづく

 

自分の可能性は無限? それはハッタリです

このブログをお読みいただいている皆さんは、

自分自身の可能性について

考えたことがあるでしょうか?

 

恐らく、「ある」と答えられる人が

ほとんどだと思います。

 

では、「可能性」とは何でしょうか?

 

可能性とは、無限でしょうか?

それとも、有限でしょうか?

 

今回は、

可能性とは「有限」です、

というお話です。

 

現在このブログでは、

木村さんストーリーをご紹介しています。

(→前回記事)

 

彼はこの後、すごい活躍をすることに

なるのですが、

その彼の活躍の「本質」をお伝えするためには、

その前提として、

どうしても明らかにしておかねばならないことが

いくつかあります。

 

その第1回目が今回である、

という位置付けです。

 

それが、

「可能性とは有限である」

ということなのですが、

ただ、その「有限」の意味が重要です。

 

「有限」という言葉を辞書で調べますと、

「限度・限界のあること」

とあります。

 

私達人間は、自分自身に対して

限度と限界を設ける

という特性を持っています。

 

必ず、自分自身を「枠」にはめるのです。

常に、

今の自分に見合った限度と限界を設定

するのです。

 

これは、私達の真本音の意図です。

 

ですので、よく

「私の可能性は無限です!」

といった言葉を使う人がいますが、

その言葉を放つその人自身の空気感には必ず

不自然・無理

が伴います。

 

つまりは、

ハッタリでそう言っている

ように感じ取れます。

実際に

ハッタリに過ぎません。

 

私達の真本音は、

自分自身に限度と限界を設けることを

非常に大事にしているからです。

 

なぜ限度と限界を設けることを大事にするか?

と言いますと、それは、

自分自身の無限の可能性を発現するため

なんです。

 

なんか、変な言い方になってますが、

これが本質です。

 

つまり、私達人間は、

その時その時の自分に対して的確な限度と限界を

設定することで、結果的に

自分自身を無限に進化させることができる

・・・ということになります。

 

ですから、

今の自分は、自分自身にどのような限度と限界を

設定しているか?

を理解することが、「超」がつくほど重要です。

 

ここを誤ると、

物事の進展が、極めて遅くなります。

 

私達は、自分自身が設定している限度と限界に

即した生き方や、目標設定の仕方をする

ことが大切なのです。

 

つまり、「限度と限界」とは

私達人間にとって、無限の進化を持続するためには

なくてはならないもの

なのです。

 

ですから、次の問いがとても重要であり、かつ

必要です。

 

「私は今、どのような限度と限界を

自分自身に設定しているだろうか?」

 

そして、

 

「私は今、どういった限度と限界の枠の中で

物事の発想をすることが必要だろうか?」

 

という問いです。

 

わかりやすく喩えるならば、

例えば、2歳の幼児がいたとして、

その子に、

「君には無限の可能性があるから

自由に自分のやりたいことを発想して

行動しなさい」

と言っても、危険極まりないし、第一、

本人には意味がわからない

ということです。

 

ですから私達はその2歳の子に枠をはめます。

例えば、公園にその子を連れて行き、

「この公園の中は安全だから、

好きなことをしてもいいよ」

と伝えます。

 

その子は、公園という守られた枠の中で、

自由に遊び、その遊びを通じて、

自分の意志を育てて行きます。

 

要するに、そういうことです。

 

私達の真本音とは、喩えて言えば、

自分自身の「親」であり、「師匠」と言ってもいいかな、

と思うことがあります。

もちろん、真本音とは「本来の自分自身」であるのですが、

「本来の自分」と「今の自分」が

あまりにもかけ離れている場合は、

それは「親」であり「師匠」である、と捉えた方が

受け取りやすくなるケースが多いのです。

 

真本音という「親」「師匠」は、

私達自身を最速で、しかも、一歩一歩着実に

育てようとしています。

 

そのためには、

最初からいきなり、「無限」を提示し、

何の枠もない中で、「自由にしてごらん」とは

決してしないものです。

 

きちんと的確な「枠」を設定し、

その「枠」の中で自分を育て上げ、

その「枠」での「自由」を手に入れたら、

その「枠」を壊し、

さらに大きな「枠」を設定し、その中での

「自由」を学ばせる。

 

・・・そんなことをするのです。

 

ですから、

私達人間に必要なのは、

「的確な枠」

であり、それを最もよくわかっているのが、

私達自身の真本音

だということになります。

 

逆に言えば、

その人は今、的確な枠の中にいるだろうか?

という視点でその人を観察し、

枠が小さ過ぎれば、その枠を外し、もっと大きな枠を設定する、

枠が大き過ぎれば、もっと小さな枠の中にあえて入れる、

というサポートが必要です。

 

そういった的確なサポートができる人こそが、

「コーチ」だと思うのです。

 

特に私は、木村さんにはその視点を

大事にしていました。

 

なぜなら、彼は

「枠設定」

が非常に苦手だったからです。

 

つづく

 

自分の誤魔化しは、自分が一番よくわかっている

木村さんの「これまでの心と行動のクセ」を

表現すると、以下の二つになります。

 

・「私は常に、一番でなければらない」

・「結局は、私が一番物事をよくわかっている」

(→前回記事)

 

これだけを見ると、自信家であったり

ある種の傲慢さを感じたりしますが、

しかしこの二つの心の根底にあるのは

「不安」

なのです。

 

その不安とは、「自己保身」からきます。

 

もちろん誰もが「自己保身の心」は持っています。

それがない方が不自然ですし、

自己保身そのものは、人間として必要でしょう。

 

しかし、自己保身しているという事実にフタをして

それを自分自身で理解しないままに

自信家としての自分を出す。

 

・・・これは非常に「不安定」です。

 

しかも周りの人達は皆、その不安定さを

何となくわかっています。

 

木村さんが周りからの信頼感を失くしてしまう

最大のクセが現れたと言ってよいでしょう。

 

ちなみに平井さんは、木村さんのことを

「枠の中から出てこないヤツ」

という評価をされています。

 

「自分が一番であり、自分こそが最も

よくわかっている人間だ」

という彼のパターンは、自分以上の人や意見を

目の当たりにすると、

それを潰しにかかります。

そして、

自分自身も決して「これまでの自分の枠」から

出ようとしません。

 

ですから、

「木村は小心者です。

枠から出ようとしないんです。

能力は高いのに」

という評価を平井さんは下しています。

 

しかしその一方で、真本音レベルで見た場合に

「私は、木村にすごく可能性を感じるんです」

という見方も平井さんはされていました。

だからこそ私に、木村さんのコーチングのご依頼をされました。

 

私はアポなしで事務所に現れました。

 

そして木村さんに声をかけました。

「今、少しだけお時間いただけます?」

 

もうそれだけで木村さんは何かを

察知されました。

 

木村さんが怯え始めたのが

すぐにわかりました。

 

大変面白いことなのですが、

いつもいつも私は真本音コーチングをしていますし、

真本音コミュニケーションをしていますので、

そういったコーチングを一度でも体験された方は

私の顔を見るだけで真本音度合いが高まるようです。

 

真本音度合いが高まれば、

あっ、自分は何かがおかしいかもしれない、

と、すぐに感じるようになります。

 

すると中には、

私の顔を見るだけで、罪悪感も発生させる人も

います。

 

木村さんがそうでした。

 

会議室で私は短時間ですが、

木村さんと向き合いました。

 

私が開口一番、

「村瀬さんとのやりとりを平井さんから

お聴きしました」

とお伝えした瞬間に、

木村さんはすべてを合点したようです。

 

「私、やっちまいましたね。」

 

「何をやっちまったんです?」

 

「以前の自分が出ました。

村瀬を私の枠の中に押し込めました。」

 

「そのようですね。

どうしてそうしてしまったかわかります?」

 

「なんか、すごく面白くなかったんです。

村瀬のことを疎ましい、と思いました。」

 

「木村さん、凄いですね。

一瞬でご自分と向き合えましたね。」

 

「いやぁ、お恥ずかしい。

たけうちさんの顔を見るまで、ずっと自分を

誤魔化してました。

自分の中で、あれは正しかったんだ、って

言い訳を続けてました。」

 

「それを続けて、どんな気分でした?」

 

「いや、やっぱり苦しいし、

気持ちが悪かったです。」

 

「そうですよね。

でもその気持ち悪さは、村瀬さんも、そして

他の人も感じてることなんですよ。」

 

「そうですねぇ・・・。

あのミーティングから、チームの雰囲気が

とても悪いです。

みんな、よそよそしい。

あまり会話したくない雰囲気です。」

 

「木村さん、

ここまで人生理念を大事にしてきた木村さんが、

ここで以前のクセを出してしまった理由は

わかりますか?

そのクセが出る瞬間、

どのような心の声が浮かんできたか

わかります?」

 

しばらく木村さんは考え込みました。

あの時の状況を懸命に思い返しているようでした。

 

「・・・あぁ、わかりました。

いやぁ、お恥ずかしい。」

 

「どんな心の声でした?」

 

「“こいつ、俺よりもできるんじゃないか”、でした。」

 

これを聴いた時、私は本当に木村さんのことを

凄い!と思いました。

 

これだけ素直に自分の心と向き合える人は

そんなにはいません。

その心の声を見つけるまでは、大抵はもっと

時間がかかります。

 

「木村さん、自信を持ってください。

木村さんはご自分と向き合う力が高いです。

私が何のフォローもしなくても、

ご自分の心の声を見つけることができました。

これができれば、大丈夫です。」

 

こんなところで褒められると思っていなかったのでしょう。

木村さんはだいぶホッとされたようです。

それによりさらに、

ニュートラルに自分を見つめられるようになりました。

 

「私がもし、私の部下だったら、

こんなヤツは絶対に嫌ですね。

だって、後輩の可能性をどんどん潰していくヤツですから。

平井もそうやって私のことを見ているのかな・・・。」

 

「平井さんの願いはね、

木村さんが木村さんの真本音に素直に生きること、

真本音で仕事をすること、なんですよ。

それができれば木村さんの本当の魅力が出るに違いない、と

平井さんは見ています。」

 

「でも、ついつい以前の自分が出てしまいますね。

難しいねぇ、これまでの自分を壊すのは。」

 

「いえいえ、簡単なことです。

今回、木村さんはご自分で心の声を発見しましたね。

これまでのクセが出てしまうきっかけとなる心の声を。

“俺より、できるんじゃないか”という。

ここまでわかれば8割方大丈夫です。

あとは、この心の声が発生した瞬間に、自分の行動を

止めるのです。

一時停止して、そこで人生理念を思い出してください。」

 

そしてさらに問いました。

 

「木村さん、もしあの村瀬さんとのやりとりの中で、

木村さんの人生理念、“生まれたばかりの無邪気”

を思い出していたとしたら、

木村さんはどんな一言を発していましたか?

あの場面にもう一度戻ったつもりで発想してみてください。」

 

即座に答えが返ってきました。

 

「お前、すげーなぁ、・・・て叫んでました。」

 

「それです、それ!

それでいいんですよ。」

 

つづく