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いろんな企業様に
サポートに
入らせていただくと、
もちろんそこには
様々な問題が
ある。
その問題を
引き起こしているのは
ほとんどが
人だ。
誰かが何かの
問題を起こす。
それについて
誰かがそれを
評する。
誰かが
文句を言う。
意見を言う。
それらが絡み合い
ながら、
その問題は
さらに大きくなっていく。
例えば、
AさんはBさんに
問題がある、
と言い、
BさんはAさんに
問題がある、
と言う。
どっちが正しいんだ?
ということに
なったりする。
そんな場合は、
本当に多くの場合、
どっちも正しい
ということが
わかる。
それぞれには
それぞれの
「正しさ」
がある。
もっと大きく言えば、
それぞれには
それぞれの
「正義」
がある。
どっちの正しさが
正しいか?
どっちの正義が
正しいか?
この視点に立っている
限りは、
絶対に答えは
出ない。
例えば、
誰もが「Aさんに問題がある」
と言ったとしても
Aさんに話を聴けば、
やはりAさんにはAさんの
「正義」がある。
私が常に
気をつけていることは
一つの問題に対して
偏った意見のみを聴く
ことはしない、
ということだ。
AさんにはAさんの
視点、
BさんにはBさんの
視点、
がある。
それぞれの視点に
立ち、
それぞれの景色を
知れば、
なるほど
それぞれには
それぞれの「正義」が
あるなぁ、
と
よく思う。
そして結局は、
時間はとても
かかるが、
それぞれの「正義」の
意味を、
その本質を、
お互いが理解し合う
しかない。
理解し合った上で、
「では何が最善か?」
を
決めていくしかない。
しかし
これも多くの場合だが、
ちゃんと向き合い
理解し合うことで
そこで
皆の真本音が
発動する。
すると、
どっちの正義が
正しいか?
を超えた次元の
発想が生まれる。
そうなるための
場創りが
私の仕事だ。
結構時間は
かかるし
大変だし、
どうしようもない
時もあるが、
しかし
あっ!次元が変わった!
と思える瞬間は
本当にたくさん
体験できた。
そういうのを
体験すると、
人間も
やるじゃないか!
と
思えるんだな。
つづく
私達人間のほとんどの苦しみは
幻影です。
幻影と言っても、
実際に起きている現実は、
現実です。
しかし本当は、
その現実が私達に苦しみを与えている
わけではありません。
現実とは
どこまで言っても
現実でしかあり得ません。
その現実をどう受け止めるか?
を私達は自ら決めています。
自ら、解釈をしています。
その段階で、
自らに苦しみを与えます。
例えば、
とても厳しい現実が目の前にあったとしても、
もし似たような経験が過去にあったとすれば、
その人の苦しみは減退するでしょう。
自分は過去に、このような現実を
乗り越えたことがある、
という経験は、私達の苦しみを
減退させます。
しかしだからと言って、
今の現実が変わるわけではありません。
私達の現実を受け止める解釈が
変わるだけのことです。
つまり私達は私達自身の解釈により
苦しみを増減させています。
「人生は苦しい」
と思う人の多くは、
自分でその苦しみを創り出している
だけのことです。
私達はそういった解釈の世界から
脱け出すことが
本当は誰もができます。
ただ、現実をあるがままに
感じ取るだけの日々の始まり。
するとその瞬間から、
現実はまったく違った世界を
私達に見せてくれます。
現実を、あるがままに感じ取ることが
できればできるほど、
私達は、自分自身がいかに自由であるか?
を知ることになります。
脱皮をするというのは、
現実をあるがままに捉えられない原因となる
強い解釈の衣を
一つ脱ぎ捨てることである、
という言い方もできます。
今、弓江さんは
「正義」という解釈を脱ぎ捨てようと
しています。
(→前回記事)
実在レベルで表現すれば、
弓江さんが脱ぎ捨てようとしている
「正義」は、
弓江さんの左足に絡みついています。
それを取り払えば、
弓江さんはその「正義」から自由になれます。
しかしそれが
なかなか取れません。
「どうすれば、
取り払えそうですかね?」
「木村リーダーに
取ってもらおうかな。」
「わかりました。
それはなかなか良いアイデアですね。
では木村さんに取ってもらいましょう。」
思わず、木村さんが言います。
「えっ、私にできますか?
どうすればいいんでしょう?」
「簡単ですよ。
今、弓江さんが言われた“正義”は、
単なるイメージではなく、実在です。
ですから木村さんにもわかるはずです。
意識を弓江さんの左足に
向けてみてください。
何か見えませんか?」
「見える、というよりも、
確かに何か異物があるような
感覚がありますね。」
「それで充分です。
木村さん、その異物は
どうすれば取れると思います?」
「えっ? ・・・そうですね。
どんなやり方でもいいですか?」
「もちろん、いいですよ。」
「私が、私の手ですくい上げても
いいですか?」
「できそうですか?」
「はい。」
そう言われた木村さんは、
弓江さんの左足の踵の近くに手を伸ばし、
一気にその「正義」をもぎ取ってしまいました。
「あっ、軽くなった!」
と弓江さんがびっくり。
「たけうちさん、
今、私の両手にその“正義”がありますが、
これ、どうしたらいいでしょう?」
「どうされたいですか?」
「たけうちさん、
受け取っていただけます?」
私は笑いました。
「しょうがないですね。
じゃあ、私がいただきます」
と言いながら、
私は、木村さんから弓江さんの「正義」を
受け取りました。
ド〜ンと腰の辺りが
重くなりました。
実はこういった展開、
しょっちゅうあるんです。
私はよく、
脱皮をした人の古い皮を
受け取ります。
そして浄化をします。
その古い皮があまりにも重く、
苦しいものであればあるほど、
私の場合は、腰に来ます。
まるでギックリ腰になったかのような
感覚が来るのです。
場合によっては
立てなくなってしまうこともあります。
それだけその古い皮は
その人にとって重いものであった
ということです。
これは「イメージ」の話ではありません。
あくまでも「実在」の話ですので、
こういったことが起こるのです。
そして、重い皮をもらうたびに、
私はいつも思うのです。
人間というのは、
こんなに重いものを抱えながら
生きているんだな、と。
つづく