- ホーム /
- 観る
自分の人生で起こる
すべての現実は
すべて自分自身が
引き起こしているものであると
本当に自覚した人は
幸せです。
頭での理解ではなく、
肚での理解。
まったく本当にその通りだと
わずかな淀みもなく
そう理解できた状態を
『覚悟』
と言います。
人は、
覚悟を持つと
軽やかになります。
すべてから解放・開放された
感覚に満たされます。
それは言葉を換えれば、
『自由』
です。
ですから私は
「覚悟」と「自由」は
イコールであると思っています。
自分自身の人生に対して、
そして
すべての現実に対して、
人が
「覚悟」を持つ瞬間と
私は多く立ち合ってきました。
「覚悟」を持った瞬間の
その人の
晴れやかな表情を
どう表現すればよいでしょうか。
恐らくその瞬間とは、
人間としての幸せのすべてが
凝縮されているのだと
私には思えます。
その瞬間から
人は、
「逃げる」必要がなくなるから
です。
私達の魂を淀ませるものの
本質とは
「現実逃避」です。
いざとなれば
逃げればいい。
ここから
逃げ出したい。
逃げれば
何とかなる。
・・・そういった
「逃げ」への可能性を
心のどこかに秘めている内は
私達は
苦しみ続けます。
自分を救おうとするために
「逃げ」という選択肢を
私達は持つのですが、
実はその選択肢そのものが
自分を苦しめている
というのが人生のカラクリの
一つです。
かと言って、
「逃げを手放そう」
としてもいけません。
「逃げを手放そう」
とすればするほど、
「逃げ」に執着するのも
私達人間です。
「逃げを手放したフリ」を
している人も
私は数多く拝見してきましたが、
そういった人達は
本当に苦しそうです。
手放したつもりで
執着の度合いを高めている
からです。
私はよく、
「人はもっと楽に
生きることができる」
という表現を使います。
しかしその言葉を聴くことで、
すぐに「逃げ」に入る人も
います。
それにより、余計に苦しむ
ことになります。
ですので、
「人はもっと楽に
生きることができる」
という言葉は使うべきではないかな、
と思った時期もありました。
しかしそれでもやはり、
私は言わねばなりません。
人はもっと楽に
生きることができます。
そのためには、
逃げなければよいのです。
しかしそのために
「逃げ」をなくそう、とか
「逃げ」を手放そうと
してはなりません。
じゃあ、
どうすればよいのでしょうか?
実はその答えは、
私がこれまでずっと
このブログでお伝えし続けてきた
ことと同じです。
「逃げようとしている自分」を
あるがままに
観察する、ということです。
「観る」
ということです。
そして、その自分を
操作しようと
しないことです。
存在を承認する、
それだけのことです。
「逃げようとしている自分」と
真摯に
向き合ってみてください。
自分は
何から逃げようと
しているでしょうか。
それは
ほんの些細なことから
かも知れません。
もしくは、
人生を左右する大きな
ことかも知れません。
物事の大小は
重要ではありません。
逃げようとしている
その姿勢そのものが
本質です。
その本質を
きちんと観つめること。
観つめ続けること。
じーっと
観つめていれば、
ある瞬間から
そんな自分を可愛らしく
感じるはずです。
すべての反応本音は
本当は
可愛らしいのです。
可愛らしく
感じることができたら、
そんな「逃げる自分」に
伝えてあげてください。
「君は可愛いなぁ。
君はそこにいていいんだよ。
だって
それが人間じゃないか。」
その瞬間に
私達は解放・開放されます。
解放・開放されたときに
自分が立っている大地。
その瞬間の自分。
それが、私達の
『真本音』
です。
「真本音で生きる」とは
覚悟を持ち自由に生きる
ことなのです。
つづく
「直観力」を増すには、
「普通の生き方」を取り戻すことが
重要。
そしてそのための第一のステップが
『観察』
であり
『観る』
ことです。
・・・というところまで
お話ししました。
(→前回記事)
「観る」とは、
あるがままを見る、
ということなのですが、
実はこれはさらに本質的なことを
言えば、
「脳を使わずに見る」
ということにもなります。
こういう書き方をすると
かなり難しい印象を
受けるかもしれません。
しかしあえてここでは、
本質的な表現を
使わせていただきます。
「観る」とは
ここにあるすべてのものを
脳を使わずに見ることであり、
感じることであり、
それをしている自分自身は
その瞬間は、
「ここに在るだけの存在」
となります。
つまり、自分には
何の解釈もなく
何の評価もなく
何の判断もない
状態です。
これは正しい、とか
それは素晴らしい、とか
反対に
これはおかしい、とか
これはつまらない、とか
そういった
自分の中から発生する心、
つまりは反応本音からは
完全に解放されています。
ただし、解放とは、
それらの反応本音をゼロにするとか
抹消するということでは
ありません。
それらの反応本音それ自体も
観ている状態です。
つまり、
自分の心の中にあるものも
外にあるものも、
すべての存在を
観ている状態であり、
それをしている自分自身は
すべてから解放されています。
「ただ在る」
それ以上でも
それ以下でも
ない状態となっています。
そこには
何があっても
よいのです。
そして、
すべてから
解放されています。
自由です。
これこそが
「自然体」と言えるもの。
私達人間にとって
「普通」の状態です。
いやいや、
そんな、まるで悟りを開いたかのような
状態が普通であるはずかない、
それは修行を積んだ
特別な人が手に入れる
特別な状態だ、
と思われる人もいるかも
しれません。
いやいや、
その固定観念こそが
私達の生き方と
今のこの世の状態を
創り出してしまっています。
それは本当に
特別な状態ではなく、
誰もがもともと持っている
普通の状態です。
別にその状態になることで
人格者になるわけでも
ありませんし、
超人になるわけでも
ありませんし、
稀有の存在になるわけでも
ありません。
何があっても
オールOK。
しかしその「オールOK」とは
解釈による「オールOK」ではなく
本当にただそこに在るだけの
「オールOK」です。
そうなれた時、
私達は
今ここに在るすべてのものを
リアルに
ダイレクトに
実感できます。
それはある意味
実に感動的です。
かといって
気持ちが高ぶる感動ではなく、
トツトツとした
魂が静かになるような
安心感と安堵感に満たされた
感動です。
その時の実感をあえて
心の声として表現すると、
「あぁなんだ。
すべてが普通ではないか」
・・・というような感じに
なります。
すべての存在に対してそれが
「存在していることを承認」
しています。
すると自分自身から
とてつもないエネルギーが
発生します。
それは、すべてを存在承認しながら
その「分離」を楽しんでいるが故に
発生するエネルギーです。
そのエネルギーは
分離して存在している
あらゆるものを
大切にしよう、
それらと
一つになろう、
というエネルギーです。
それを私達の言葉で
『愛』
と言います。
この「愛」を発する状態で
すべての物事と向き合い、
関われば、
あらゆる物事が
調和していきます。
物事がすぐに
頓挫する人生を送る人と、
物事がどんどん
調和する人生を送る人の
違いが
この「愛」の発生量です。
私達がもともと持っている
このエネルギーを
使いながら生きるかどうか?
なのです。
・・・
だいぶ今回は
本質をそのまま躊躇なく
表現する文章に
なってしまいました。
できましたら、
今回の文章は
頭で解釈するよりも
魂でそのまま
感じ取っていただけると
よいかな、
と思っています。
次回からは、
自分の心の「観察」の仕方、
自分の心を「観る」コツ
などを
お伝えいたします。
つづく
「直観力」を増すには、
「普通の生き方」を取り戻すことが
大事です。
・・・ということを前回記事で
書かせていただきました。
(→前回記事)
人間としての
普通の生き方・・・。
これも前回書きましたが、
まずそのためには、
私達は私達の心にもっと
意識を向けなければ
なりません。
私達の心とは
宇宙と同じです。
とてつもなく広く
とてつもなく深いです。
そこには
すべての真実が
存在しています。
すべての答えが
すでにあるのです。
にも関わらず、
私達は外に答えを
求めます。
本当の答えとは
外にはありません。
自分の人生の答えは
自分の中にあります。
ただその答えを見出す
きっかけとして
外からの刺激が
必要な時があります。
外に意識を向け、
内側にも意識を向ける。
両方を観察する。
それがまずは、
人としての普通の
生き方です。
つまり最初のテーマは
『観察』
です。
私達は、あまりにも
観察をしていません。
例えば、
机の上に
ペットボトルが置いてあった
とします。
それを見た私達は
「あっ、ペットボトルがあるな」
と思います。
それで終わりです。
しかしそれは
観察ではありません。
「ペットボトルがあるな」
という解釈をしているに
過ぎません。
観察とは、
そのペットボトルを
あるがままに
よく見ることです。
あるがままに見る。
・・・これを
『観る』
と表現することにします。
ペットボトルを観る
ことにより、
そのペットボトルの
細かい部分が目に入る
と思います。
例えば、
ラベルの模様とか、
そこに書かれている文字の形
とか。
ペットボトルに刻まれている
ギザギザの形とか。
もしお手元に
ペットボトルがあれば、
ぜひ一度、まじまじと
観てみてください。
普段、気づいていないものを
たくさん観ることが
できます。
それが
観察です。
ペットボトルの観察が
できたら、
今度は、外にあるあらゆるものを
観察してみてください。
観てください。
例えば、
いつも会社に行く道のりで
目に映る様々なもの。
それらをよく
観てください。
世界が違って
観えるはずです。
それができたら今度は
人を観察してみてください。
いつも接している
職場の人とかご家族とか
お友達とか。
電車の中の見知らぬ人でも
よいです。
いろんな人を
観てください。
ひょっとするとそれだけで
人生観が変わるかも
しれません。
実際に昔、
私がそれをしてみた時は、
私は本当に
人生観が変わったと
思いました。
自分がいかに
世界を観ていなかったか、
現実を観ていなかったか、
人を観ていなかったか、
ということにかなりの
ショックを受けました。
そのように、
外の世界を観察し続けたら、
今度はいよいよ
同じような感覚で、
自分自身を観察します。
まずは鏡で
自分の顔や姿を
ありありと観てみてください。
どんな表情、
どんな空気感でしょうか。
そして
自分の心を観察します。
「心を観察する」のと
「心の中で解釈する」のは、
根本的にまったく
異なります。
自分の心をまるで
他人の心のように、
あるがままに
観てみてください。
最初はそれがどういうことか
まったく理解できない人も
いるかもしれません。
でもそれでも、
観察しようとしてみて
ください。
どうしてもそれができない人は、
自分の心の中に浮かんでくる
自分の気持ち達を
何か紙にそのまま
書いてみてください。
そして紙に書かれた
自分の気持ち達を
観察します。
そういったことを
続けてみてください。
すると、
ある時に自然にわかるはずです。
自分の心の
あまりの広がりと
深さを。
心とは宇宙と同じ
であることを。
それを実感できるまで
続けていただくとよいですね。
心が宇宙と同じくらい
広くて深いものであると
実感できたら、
それだけでもう
人間を観る目が違ってくる
はずです。
つづく