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「言葉」を
単なる意味として、
解釈として
頭で捉えるのでは
なく、
体験として
捉えてみる。
過去の自分の
体験として。
しかしそれは
過去を
思い出している
というだけに
留めない。
例えば、
『楽しむ』
という言葉がある。
意味は誰もが
知っているだろう。
しかしそれは
解釈に過ぎない。
解釈は
解釈だ。
そこで終わっていると
私達はその本質には
到達し得ない。
過去の自分の
「楽しむ」体験を
思い出そう。
最も「楽しむ」ことの
できた体験を。
しかもそれは
思い出すだけでは
いけない。
もう一度、
今ここで
その体験を
し直そう。
今ここで
まさにその出来事が
起きているかの
ように。
そして、
まだ、これでも
足りない。
その「体験」を
「楽しむ」
そのものとして
味わうのだ。
頭の解釈
ではない。
その体験を
通じて、
自分自身が
「楽しむ」そのもの
となるのだ。
私は
「楽しむ」
だ。
・・・と。
自分の
全身全霊すべてが
「楽しむ」そのもの
となる。
その時になって
初めて私達は、
「楽しむ」の本質
を理解する。
もちろんそれは
その人それぞれの
理解で良い。
自分なりの
「楽しむ」の本質
で良い。
私がこれを
やったら、
私が
「楽しむ」そのもの
となったら、
私は私の「中心」に
何かの存在を
感じた。
それは「卵」の
ような
何か。
私はそれを
「守っていた」。
とてつもない
深い愛で、
それを
守っていた。
それを守りながら
私は
高いエネルギーを
もって
活性化をしていた。
そこで
理解したのだ。
私にとっての
「楽しむ」
とは、
「守るべきを守り
活性化すること」
であると。
以上が、
「言葉」を
真に「自分のものとする」
ということだ。
この世の言葉は
すべて
記号に過ぎない。
しかしその記号は
すべて
本質と繋がっている。
特に
自分にとって
大切にしたい言葉、
好きな言葉、
は
自分自身の本質と
相まって
ここに存在している。
こういったことを
一つ一つしっかり
理解することこそ、
自己理解
ではないか。
自分の人生を
理解する
ということでは
ないか。
つづく
口から出る
そのたった一言に
魂が乗る時、
私はその一言
そのものとなる。
言葉というのは
ある意味
恐ろしい。
目には見えない
のに、
時には
とてつもない威力を
出す。
言霊という
言い方もあるが、
確かに
言葉に魂は
乗る。
たった一つの
何気ない言葉が、
自分の知らないところで
他者の人生に
甚大な影響を及ぼす
こともある。
私は時々、
魂の乗った私の言葉の
あまりの威力に
びっくりすることがある。
気をつけねば
と思う。
私達のコミュニケーションは
言葉を介している。
私達は言葉と共に
生きており、
言葉をどう扱うか
は
人生をどう扱うか
と
ほぼイコールだとすら
言える。
良い言葉を
私は人に
伝えたい。
「良い言葉」とは
その人が本当に
欲している言葉だ。
もしその人が
真本音で、
自分を叱ってくれる
言葉を欲しているなら、
私は喜んで
それを伝える。
その人が
最も欲しいタイミングで。
私はそれが
「良い言葉」だと
思っている。
その人に向ける
言葉は
その人のものだ。
その人のもの
となる言葉を
私は吐く。
乱雑に扱っては
ならない。
言葉は
丁寧に。
誠実に。
良い言葉を
吐くためにも、
私は私自身の
生き方を
大事にする。
言葉に魂を
乗せ、
最善のタイミングで
その人に伝える
ためには、
私自身が
私の納得できる
生き方を
実践し続けていなければ
ならない。
魂が乗る
とは
生き方が乗る
ということだ。
言葉は
私達自身だ。
言葉は
言葉ではない。
私達の存在
そのものだ。
本当に
大切にしよう。
つづく
私は
「言葉」
を大事にしたい。
コーチングに
おいて
よく私は、
「その今のお答えを
もっと、あなたらしく
言い換えると
どうなりますか?」
という
問いを投げさせて
いただく。
そして時には、
意味合いとして
まったく同じでも、
本当に
その人らしい
一言を見つけるために
長い時間をかける
こともある。
例えば
その人が
「楽しい」
という言葉を
言われたとして、
99.9%は
ピンと来るとしても
ほんのほんのわずかの
違和感があり、
しかも
これはとてもその人に
とって
重要なキーワードだと
思えれば、
上記の問いを
投げる。
その結果、
「楽しい」
ではなく、
「楽しく」
となったり
する。
一文字変わる
だけだ。
しかしその一文字
で、
その人の想いが
100%込められる
感覚がするので
ある。
このほんのわずかな差
が、
とてつもなく大きいと
ある時に
強烈にわかった。
100%の言葉は
その人の
魂の言葉だ。
つまりは
真本音の言葉だ。
それは
その人の中に
ずっと残る。
というよりも、
これまでもずっと
そこにあった
ものだ。
そこにあった
言葉を
掘り起こすのと、
今ここで
言葉をつくる
のでは
雲泥の差だ。
そして
100%の言葉は
このように一度、
顕在化すれば
ずっとその人の
心の中心に
据えられ、
意識される。
たとえ
時間が経ち
その言葉自体を
忘れてしまっても、
「楽しく」
という視点の
アンテナは立ち続け、
その人にとっての
必要な情報が
インプットされたり、
その人の無意識の
アウトプット(=行動)
につながる。
私達の顕在意識は
「言葉」
によって生きている。
どのような言葉を
持つかで
人生は変わる。
どのような言葉を
使うかで
人生は変わる。
決して大袈裟な
表現ではない。
だから私は
私の語る言葉の
一つ一つを
大事にしたいし、
人の語る
言葉の一つ一つも
大事にしたい。
言葉を大事に
するということは
人生を大事にする
ということだと
思うのだ。
つづく
人と会うときに
とてもお勧めなのは、
「この人に今回は
どんな言葉を
プレゼントしようか?」
を
前もって真剣に
決めておくことだ。
その言葉とは、
もちろん
やさしい一言とは
限らない。
時には
厳しい一言を
残さなければならないことも
当然ある。
でもやはり
それは
プレゼントだ。
自分の解釈ではなく、
その人のことを
ずっと想いながら、
その人の姿を
浮かべながら、
自然に浮かぶ一言を
私はいつも
胸に抱いた上で
当日、
その人と会う。
するとそのプレゼントを
実際にお渡しできる
こともあれば、
できないこともある。
どちらでもいい。
相手がいること
なので、
その時その場の流れを
大事にすればいい。
でも、
言葉のプレゼントを
渡せても渡せなくても、
言葉のプレゼントを
胸に抱いた状態で
その人と向き合えば、
随分とその場は
あったかいものに
なるよ。
つづく
言葉とは
本当は
多くは要らない。
たった
一言でいい。
その一言が
胸の奥の奥まで
沁み込むことがある。
私が
真本音メッセージ
と呼んでいるものだ。
今日も
そんなメッセージを
いくつかいただいた。
それが
ある種の炎のように
なって、
しかしとても静かに
私の奥で
トツトツと
燃えている。
きっとこの炎は
しばらくは、
何日、いや、何週間かは
私の中のここに
あり続けるのだろう。
その炎は
恐らく
様々な気づきと指針を
私にもたらして
くれるだろう。
そしてその影響が
私のコーチングに、
様々な人へのサポートに
ダイレクトに
及ぶだろう。
つまり、
一人の人の
たった一言が、
多くの人の人生を
変えることすら
あるのだ。
それくらいに
真本音メッセージは
世の中に
響き渡っていく。
多くの人が
これができると
いい。
そうすれば、
世の中は
心地よい響き合いのもとで
進化を続けて
いくだろう。
つづく
泉からトツトツと
水が湧き続けるように、
自分の中からトツトツと
言葉が湧き続けることが
あります。
頭で考えている
わけではなく。
何かを説明しようと
しているわけではなく。
何かを理解してもらおうと
思っているわけではなく。
何らかの意図を
持っているわけではなく。
ただ、
トツトツと
ゆっくりと
湧き続ける言葉達が
あります。
それを私は一つずつ
宝物のように
抱き、愛でながら、
何の解釈も色もつけずに
そのまま
口に出します。
それはまるで
自分がただの
スピーカーになったような
感覚です。
自分で言葉を
口にしながらも、
自分自身も
それを聴いて
楽しんでいます。
次の一言を
自分の口は
何を語るのか?
を楽しみながら、
私は目の前のAさんに
向かって、
トツトツと言葉の一つ一つを
プレゼントします。
やはりそれは
何をどう観ても
私自身の言葉だとは
思えません。
どう観ても、
それは、Aさん自身の
言葉です。
Aさんの
真本音の言葉。
本当はAさん自身が
自力で気づきたい
答え達。
それを私は
Aさんの代わりに
Aさん自身に
お伝えしている。
それだけのこと
のようです。
研修でもコーチングでも
よく皆さんから
おっしゃっていただく
嬉しいお声があります。
「たけうちさんの言葉は
どうしてこんなに
スーッと心の中に
入ってくるんだろう?」
それは
私の言葉では
ないからです。
あなた自身の
真本音の
言葉達だからです。
・・・・・・
皆さんの中にも
「泉」
があるはずです。
その泉は、
地下水脈に
つながっています。
その地下水脈は
目の前のAさんと
共有している
地下水脈です。
地下水脈から
トツトツと
湧き出される
泉を
一つ一つ言葉にする。
そんなコミュニケーションは
本当は
誰もが取れるはずです。
私はこれを
『真本音コミュニケーション』
と呼んでいます。
本当にいつも私は
お会いする人達に
伝え続けています。
真本音コミュニケーションは
私特有の力では
ありません。
人類すべての人が
もともと持っている
普通の力です、と。
ただ、私達は
頭で考え過ぎて
しまうのです。
意図を持ち過ぎて
しまうのです。
自分の考えを
わかってもらおうと
欲し過ぎてしまうのです。
そういった気持ちも
もちろん人間ですから
ありますし、
そういった気持ちは
そういった気持ちとして
大事にすれば
よいでしょう。
しかしちょっとだけ
それらを横に置き、
ただ、
目の前のAさんにのみ
意識を向けて
みてください。
意識を
向け続けて
みてください。
すると、
すぐに「泉」に
気づくはずです。
あとはただ、
その「泉」の言葉だけを
語るようにして、
ただ、
静かに黙っていれば
よいのです。
それだけで
すべての事は
済んでしまいます。
何の説明も
言い合いも
必要なく、
ただ、
泉の言葉をそこに
残せば
よいのです。
それですべては
調和して
行きます。
そんなシンプルな
コミュニケーションライフを
あなたも
楽しんでみませんか?
つづく
言葉とは
カタチです。
一つの記号とも
言えます。
ですから、
「山」
という一言をつぶやいたとしても、
この一言から想像される山のイメージは
人それぞれです。
しかし、
「山」
という言葉を聴くことによって
「海」ではないことはわかりますし、
思考や発想の方向性を
合わせることもできます。
「今週末、一緒に
山にキャンプに行かないか?」
と言われて、
「じゃあどんな水着で行こうかな」
と考える人はほぼ
いないでしょう。
しかしやはり方向性は
定まるものの、
詳細なイメージは
きちんと共有しなければ
誤解を生むことにもなります。
「山に行こう」と言われて、
すぐ近くの裏山をイメージする人も
いれば、
富士山に行くイメージをする人も
いるでしょう。
私達は、
言葉という「記号」を活用しながら
お互いの想いやイメージを
一致させようとします。
それが私達の普段の
コミュニケーションです。
ところが。
以上はあくまでも
3次元という限定された部分に
限って言えることです。
高い次元の私達の意識は
すべて
つながっています。
いえ、というよりも
「一つ」です。
「一つ」である我々は
本当はもともと最初から
すべてを共有している
とも言えます。
もちろん
人生経験も違いますし、
実際に頭の中で展開される
イメージも、
人それぞれ異なるでしょう。
しかし、
そういった表層的ではない部分で、
私達はまったく同じことを感じ、
まったく同じ想いを
抱いています。
ですから、
高い次元の意識を
発動している人達同士が会えば、
コミュニケーションにおける
「説明としての言葉」
は、ほぼ必要なくなります。
「山に行こうよ」
と言われれば、
「あっそうだよね。
私もそうしようと思ってた」
となりますし、
どんな山に行きたいか?も
ほぼ説明なしで
お互いに理解・共有できて
います。
これが仕事上で起こると、
なかなかに凄いです。
まず、
とてつもなく打合せ時間は
短くなります。
齟齬も誤解もなくなります。
ほんの一言二言
言葉を交わすだけで、
お互いにすべてを納得し、
自分のすべきことが
明確になります。
そしてその通りに動けば、
きちんと成果が
出ます。
とてつもなく
仕事が楽になります。
ここまで来ると逆に、
私は「言葉」の有り難みを
より強く感じます。
たった一言の
言葉という記号があることで、
各々がここまで感じ取ってきたことの
確認と今後の方向性が
一瞬で明確に、シンプルに
なるからです。
言葉っていうのは
ありがたいなぁ、と
いつもつくづく思います。
ですから私は
言葉をとても大切にします。
余分な一言は
決して言いません。
思ってもいないことを
口にしたり、
迎合のためのやりとりは
絶対にしないことに
決めています。
そうすると、
言い合いや自己主張ばかりの
コミュニケーションになってしまう
イメージがあるかもしれませんが、
高い次元の自分で動けば、
すべては
淡々と調和します。
こちらの想いと相手の想いが
「一つ」なのですから
当たり前と言えば当たり前です。
例えば上司と部下の関係で言えば、
上司が部下を何かの件で叱らなければ、
と思った場合、
そのお叱りの言葉を口に出す前に、
部下が自分で自分の過ちに気づき、
自主的にそれを直そうとします。
なんだ、結局叱る必要なかったな、
ということが、私の場合は
毎日のように起きています。
決して大袈裟な表現では
ありません。
高い次元のコミュニケーションとは
そういうものです。
高い次元の自分で生きることは
決して特別なことではない、
というお話を
以前いたしました。
(→人間である以上、誰もにもともとあるもの)
高い次元の自分として生きるのは
もちろん、
苦しいことでもありません。
疲れることでもありません。
まったく逆。
だからこそ
私達の中には
エネルギーが満ちてきます。
そのエネルギーを使って
自分が本当に望む現実を
創り上げることができます。
どうせ同じ人生を
生きるのであれば、
常にエネルギー満タンの自分で
いたくありませんか?
つづく