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- 躊躇
無茶する人が
多い。
多い、というか
増えている。
そう言えば
以前にもこんなこと
書いたっけな。
しかし
その時以上に今、
急増している。
無茶がいけない
わけではないが、
あまりの無茶は
不調和を
起こしてしまう。
たとえその方向が
真本音が望む
方向だとしても。
最大速で
進むことは大事だが、
自分の限界を超えた
最大速は
自己コントロールを
失わせる。
今、自分が出せる
最大速は
どこまでだろうか?
という視点は
とても大事なんだ。
それこそが
自己マネジメントでは
ないかな。
・・・・・・
自分に問うて
みてほしい。
私は今、
躊躇しているだろうか?
と。
していない。
と直観的に
答えが浮かべば
OK。
次に問うて
ほしい。
自分は今、
無理をしているだろうか?
と。
直観的に
している。
と返ってきたら、
それは
あまりよろしくない。
躊躇はしていないが、
無理はしている
という状態。
これは残念ながら
長続きしない。
それどころか
シワ寄せが
周りに与えられてしまう。
結果的に
物事の展開が
遅くなってしまう。
101%でもなく、
99%でもなく、
ちょうど100%の
力とスピードで
進もう。
それを見極めることが
今の私達の
テーマでもある。
これができれば
世の中は
進化を続けられる。
すると、
私達の100%そのものが
進化をし、
さらにスピードアップ
できる。
それによりさらに
世の中の進化も
スピードアップする。
この循環を
創り出そう。
躊躇はしなくて
いいが、
無理はするな。
楽しみながら
進もう。
つづく
自分の中に
「躊躇」
が現れたとき、
私はそれと
しっかり真摯に
向き合うことにしている。
その「躊躇」には
非常に多くの
示唆が含まれている
からだ。
「躊躇」するのは
悪くない。
よく
すぐに決断できない
自分を
責める人がいる。
それは
意味のない
時間だ。
その時間を
「躊躇」としっかり
向き合う時間に
変えた方がいい。
「躊躇」を
観察してみよう。
もしくは
「躊躇」の声を
とことんまで
聴き切ってみよう。
そこまで明確で
なければ、
「躊躇」と一体になる
くらいまで、
それを感じてみよう。
その上で
ふとした瞬間に
浮かんでくる
一つ一つの気持ちや
発想を
丁寧にキャッチしよう。
「躊躇」は
自分自身に
何をメッセージ
しているだろうか?
・・・・・・
人は、
恐らく
「躊躇」としっかりと
向き合わないからこそ、
自分を見失っていく。
「躊躇」にフタをし、
気合いと根性だけの
(つまりは表面的な)
決断を無理にしてしまい、
先に進む。
その結果、
気合いと根性が
途切れた時に、
あっという間に
止まってしまう。
そして
後悔する。
何度も言うが、
「躊躇」は
良くないものでは
ない。
「躊躇」と向き合わない
のが
良くないのだ。
・・・・・・
「躊躇」と向き合えば、
自分が何に対して
「無理」をしているのか?
がわかる。
これを知るのが怖い
という人もいるが、
怖がっている場合
ではない。
しっかり
見つめよう。
自分の「無理」を
知れば、
その次は、
その「無理」は
しない方がいいか?
それとも、
あえて今は
その「無理」をし続けた
方がいいか?
の判断がつく。
そうしたら、
その判断の通りに
行けばいい。
もう無理はしては
ダメだ。
と判断したならば、
思いきって
その「無理」していることを
手放そう。
たとえ今、手放さなくても
いずれはそれは
手放す瞬間が来る。
そういった場合の
多くは、
手放すのが
後になればなるほど
辛くなるし、
ダメージも大きくなる。
いつ手放すの?
今でしょ。
ということだ。
・・・・・・
意図的であるならば、
「無理」は
してもいい。
そのかわり、その場合は
それこそ躊躇せずに
とことん無理をすること。
「無理」をするか?
しないか?
は、
0か100か?
しかない
と思った方がいい。
一番良くないのは、
中途半端に
無理をし続けること。
これが結果的には
最も辛いし、
自分を見失うことに
なる。
「無理」をするなら、
無理をする自分を
許そう。
「無理」をやめるなら、
無理をやめる自分を
許そう。
許した上で
徹底的に
その方向に進もう。
・・・・・・
つまり、
「躊躇」とは
「決断」のための
大事なステップだ。
「躊躇」としっかりと
向き合うことで
真本音の
「決断」
ができる。
「躊躇」することを
躊躇するな。
「躊躇」も
人生の醍醐味
だ。
つづく
「完了感」。
何かを100%
やり切った
感覚。
99%ではなく、
101%でもなく、
100%の時にしか
得られない
独特の感覚。
それが
今の私にある。
なぜだか
わからないのに、
ある。
時々、
こういうことがある。
理由もなく、
完了感のみが
湧き上がる。
こういう時は
実在のレベルで
何かを
完了させたのだろう。
「実在」とは
心の中の現実。
心の中で
確固たるものとして
生まれたもの。
恐らくであるが、
長年かけて
構築を目指して
やり続けてきたことが
完成したのだろう。
もちろん、
本当の意味での
完成は
ない。
特に実在に
おいては。
しかし、
一つの段階において
何かが完成し、
次のステージに
入っていくのだろう。
・・・・・・
実在における
完了感を得た
ということは、
これからそれが
現象化
するということだ。
つまり、
心の中の現実が
実際のこの世界の
現実として
現れる。
それが何かは
今のところ
まだ自分でも
把握できていないが、
何となく
楽しみである。
・・・・・・
さて。
これから私は
何をしようか?
もちろん
コーチを育成する
ことは
決めている。
そのコーチと一緒に
たくさんの
現場に入ることも
決めている。
まだまだ
やることは多い。
これからさらに
増やしていく。
ただ。
これまでの私を
私は一つ大きく
変えねばならない、
と、今わかった。
これまでの私は
私の真剣さを
私以外の人に向ける
ことを
躊躇してきた。
いや、
そのつもりはなかった
のだが、
今、本当に
そう思った。
変な言い方
であるが、
私は私の真剣さが
実は、ちょっと怖い。
真剣すぎる
からだ。
私のこの真剣さを
受け止め切れるのは、
私の妻だけであると
これまでは
思ってきた。
しかしそれでは
いけない。
それでは
進めない。
私は私の真剣さを
徐々にではあるが、
解放しようと
思う。
実在で
何が完了したかは
わからないが、
そうしなければ
その完成したものは
現象化できないと
今、わかった。
ちょっとずつ
躊躇を
外そう。
う〜む、
勇気が要るね。
つづく
最近、
真本音度合いが
高まった方々から、
ある共通のご相談を
いただくように
なりました。
皆さん、
同じことを
言われます。
「最近、
不調和が多いのです。
私の真本音度合いが
低まってしまっている
のでしょうか?」
いいえ。
むしろ、逆です。
あなたは
さらに加速を
しているのです。
これまでに
経験したことのない
加速に
入っています。
すると多くの場合、
これまで
経験したことのない
「調和の仕方」
が起こるように
なります。
それが一見すると
不調和に
見えてしまっている。
という、
ただそれだけの
ことです。
ですから、
私がお伝えしたいのは、
不調和を感じる
からと言って、
自信をなくし、
臆病になり、
腰が引け、
真本音で進むことを
躊躇するように
ならないでください。
ということです。
・・・・・・
いつも
申し上げることですが、
自信がある
とか
自信がない
とかは、
真本音の歩みには
いっさい
関係がありません。
物事が
上手く行こうが、
上手く行くまいが、
いっさい
関係ありません。
物事が
上手く行くから
真本音で進む、
となった時点でもう
それは
反応本音の歩み
です。
状況に
揺らされている
わけですからね。
もちろん、
真本音も
状況や現実は
大切にします。
自分の理想通りに
進めよう
というのが
真本音ではありません。
状況や現実は
大切にしますが、
それに揺らされる
ことは
ありません。
自分の想いも理想も
大切にし、
かつ
状況も現実も
大切にし、
すべてを大切にした
最善の一歩を
踏み出す、
というのが
真本音の求める
ことであり、
真本音の意志
です。
それをすることに
毅然
としていて
ほしいのです。
すると、
不調和だと思って
いたことが、
実は、
これまでに経験した
ことのないような
素晴らしい調和の形
の一つ
であることが
わかってくるでしょう。
・・・・・・
よくよく考えますと、
調和とか
不調和とか、
それ自体を私達は
自分の解釈(思考)で
決めつけています。
これまでと同じ
スピードで進む人は、
ある意味、
自分の解釈での範疇の
調和は
続くでしょう。
しかし、
これまで以上に
加速しようとする人には
これまでに
見たことのない
新たな世界が
新たな次元が
展開します。
新しいものは
確かに少し(いや、だいぶ?)
怖いかもしれません。
しかしその怖さ
そのものも
感じ、味わいながら
進みましょう。
自分の世界を
広げるのです。
毅然と
進むのです。
あなたの真本音は
それこそを
望んでいるのですから。
つづく