開き直る

開き直れ

 

自分の中の

最もエネルギーの高い

自分の心に

到達しようとすると、

 

そこは

必ず、

 

厚くて黒い雲に

覆われている。

 

ある意味、

最も近づきたくない

場所なんだ、

そこは。

 

しかし、

その雲に

私達は

立ち向かわなければ

ならない。

 

雲から逃げずに

雲に

突入しなければ

ならない。

 

雲をくぐり抜けてこそ、

初めて

自分の「真」を

目の当たりにすることが

できるからだ。

 

その勇気を

持てる人を

私は育成している

のだと思う。

 

それが私の

志であり、

 

もし10人に一人の人が

それが

できるようになれば、

 

この世の中は

大きく変わると

思っている。

 

・・・・・・

 

「立ち向かう」

と言うと、

どうしてもかなり

キツいイメージが

ついてしまう。

 

勇気と言うと、

怖いとか、

気合いとか、

そんなイメージも

あるかも。

 

しかし私は

真の勇気とは

 

『遊気』

 

だと

思っている。

 

遊び心。

 

人生、

遊ぶが如し。

 

これは、

少し短絡的に言えば、

 

結果を気にしない

 

ということ

でもある。

 

もちろん

「結果」は大事だ。

 

ある意味、この世は

結果がすべて

とも言える。

 

仕事や経営では

特にそうだ。

 

しかしそれを

すべて

受け入れた上で、

 

あえて、

 

結果を

気にしない。

 

人事を尽くして

天命を待つ

 

ではないが、

どのような結果が

出ても

それはそれで

しょうがないではないか、

との

開き直りができると、

逆に

凄いパワーが出ることが

ある。

 

もちろん

すべての結果を

自分自身が

飲み込む覚悟があっての

話だが、

 

その覚悟ができると

人は

途端に

楽になる。

 

力が抜ける。

 

自然体になる。

 

そうなった時に

発生するのが

「遊気」

だ。

 

そういった意味で

言えば、

 

遊気をもって

事に当たれる人

 

を、

私は育成したいし、

それがやはり

私の志だ。

 

・・・・・・

 

人は

怖気づく。

 

当たり前だ。

 

それが

人だ。

 

それをなくす

必要は

ない。

 

一切ない。

 

というか、

なくそうとしては

ならない。

 

なくならない

からだ。

 

なくならないところに

人の価値と

存在意義が

あるからだ。

 

怖気づく

ヘナチョコな

自分。

 

それと共に

歩む。

 

その覚悟を

持った時に、

 

遊気は

生まれるね。

 

つづく

 

開き直って進もう

 

もう

10年以上前の

ことだ。

 

ある企業様での

研修直前。

 

研修会場に

着いてから。

 

私は突然、

すべてが

怖くなった。

 

研修で

皆さんの前に立つ、

そのこと自体も

 

とてつもなく

怖くなった。

 

私は

研修会場を

飛び出した。

 

・・・・・・

 

外は、

土砂降りの雨

だった。

 

ちょうどその時

前線が上空を

通過していたのだろうか。

 

あまりの雨の

勢いで、

私は傘ごと

潰されそうだった。

 

私は

あてもなくさまよい、

気がつけば

ある小さな公園に

いた。

 

土砂降りなので

当然

誰もいない。

 

私は公園の広場の

中央に立った。

 

凄い雨。

 

傘を打つ

雨の音と勢いが

凄まじい。

 

そんな中

私は自分の足元

だけを見ていた。

 

このまま

いなくなってしまいたい。

 

もう人生が

終わってほしい。

 

自分の足に

降りかかる水飛沫を

見ながら

思った。

 

本当に

すべてが

怖かったのだ。

 

・・・・・・

 

どれだけの時間、

そうしていたの

だろう。

 

実際には

5分とか10分くらい

だったのかも

しれない。

 

足元を見ながら

私は空っぽに

なっていた。

 

もうここからは

一歩も動けない

気がした。

 

その時、

ふと、

 

私は

誰かから

応援をされている

感覚に襲われた。

 

それも

ただの応援では

ない。

 

もの凄い数の

人達の

もの凄い勢いの

応援。

 

まるで

今の土砂降りの

雨音が

 

歓声のように

聴こえてきたのだ。

 

私は

顔を上げて、

空を見上げた。

 

雨は

相変わらず

凄い。

 

近くに少し巨大な

木が立っていた。

 

その木が

まるで私に

笑いかけているように

映った。

 

「大丈夫だ。

私達はいつも

応援している」

 

と、

木に語りかけられた

気がした。

 

そうだ。

 

この応援を

必要としている人達が

たくさんいるの

だった。

 

私はこれから

その人達の前に

立つのだった。

 

急に私は

我に返った。

 

その途端に、

今、私を包んでいる

土砂降りの雨が

 

とても

心地良いシャワーの

ように感じられた。

 

シャワーが

私の中にあった

何物かを

洗い流して行く。

 

シャワーが

すべてを

洗い流して行く。

 

ふと

思った。

 

私の人生は

私が

進めて行くしか

ないんだな、

と。

 

他の誰も

それは

やってくれないんだな、

と。

 

そっか。

 

私がやるしか

ないんだ。

 

私は

自然に呟いていた。

 

「あー、オレ

開き直っちまったよ」

 

多分、

他の誰かが

その時の私を

見たとしたら、

きっと私は

笑顔だっただろう。

 

「気持ちいい

雨だなぁ」

 

と、

さらに私は呟き、

 

次の瞬間、

研修会場へと

駆け出していた。

 

ギリギリ

セーフ。

 

私は、

これまでにない

清々しさの中で、

 

何十人もいる

皆さんに

「真本音」について

語った。

 

これまでに

ない

語り方ができた。

 

語りながら、

あぁ、真本音って

こういうことか。

自分自身で

学んでいた。

 

・・・・・・

 

人間なんて

弱いものさ。

 

弱いからこそ

立ち向かうことに

価値が生まれる。

 

自分の人生だ。

 

開き直って

進もう。

 

開き直れば

真本音度合いも

上がるさ。

 

つづく

 

試練に意味を求めないで

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・このような問いを

考えたことはありますか?

 

もし今この問いを

自分に投げたとしたら、

どのような答えが

自分の中から返って来ますか?

 

私達の意識は

次元が低くなればなるほど、

すべてと分離していきます。

 

そして

次元が高くなればなるほど

すべてと「一つ」になります。

 

すべてと

「一つ」になっている自分と、

すべてと

分離している自分が、

共存しているのが

私達人間の心の中です。

 

様々な階層の次元が

共存しているのが

私達人間という生き物です。

 

今、

どの次元の自分を

前面に出して生きているか、

によって

人生の展開は

大きく変わります。

 

最近、

本当によく聴く声が、

「これまでの人生で

最大の試練に

ぶち当たっています」

という悲痛な叫びです。

 

外的な要因も

さることながら、

内面の自分がすべて

壊れてしまいそうなくらいに

揺れ動かされています。

 

我を失う、

という状態。

 

心の中の

大地震。

 

あらゆるものが

無に帰すような

恐怖。

 

まったく道の見えない

絶望感。

 

その中で

もがいている人。

 

もがくことすらできずに

茫然と佇む人。

 

そのような人が

増えています。

 

そのような時に

絶対にしてほしくないことが

一つあります。

 

それは、

「この試練には

どのような意味があるのだろう?」

と考えることです。

 

試練の意味を考える。

・・・それは一見すると

前向きな行為ですが、

私はそれを

現実逃避の第一歩であると

いつも実感します。

 

意味を考え

答えを見出す。

 

もしそれで簡単に答えが

見つかるのであれば、

その試練は

試練とは言えません。

 

あくまでも自分の範疇で

試練のふりをし、

悩んでいるふりを

しているだけのこと。

 

悩みながらも、

自分が進まない理由づけを

して人生をサボっている

だけのことです。

 

本当の試練の中にいる時、

その試練の意味は

決してわかりません。

 

もし無理に答えを

見出せば、

それは「間違った答え」です。

 

間違った答えに基づいて

試練を乗り越えようとすれば、

その試練の本当の意味から

結果的に逃げることに

なってしまいます。

 

本当の意味は

後からわかります。

 

その試練を乗り越え、

その試練が去り、

さらにその後の新たな道を

進む途上で初めて、

ある時ある瞬間に

必然的に「気づき」がきます。

 

その瞬間が来るまで

その試練の意味は

考えないでください。

 

ただ単に、

試練に身を委ねて

ください。

 

試練に身を委ねるとは

何もしない、

ということではありません。

 

試練と

対峙するのです。

 

向き合うのです。

 

武器は持ちません。

 

裸になるイメージで

あるがままの自分を

試練の前にさらします。

 

肩の力を抜き、

正面から試練を

見つめます。

 

観察をします。

 

その結果、

心は大揺れに揺れ、

我を失うかもしれません。

しかし

それでも良いのです。

 

それでも

身をさらします。

 

あえて言えば、

すべてを

あきらめる

のです。

 

開き直る

のです。

 

開き直りとは

すべてを手放した状態

です。

 

その状態に入れた時、

人は言いようのない強さを

発揮しますが、

それは意図をして

できることではありません。

 

私達にできるのは、

何があっても

あるがままの自分として

その試練に

身をさらそうと

し続けることです。

 

試練を乗り越えるか、

試練が去るまで、

それを続けます。

 

試練が永遠に続くことは

ありません。

 

試練から解放された時、

自分自身に

問うてみてください。

 

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・と。

 

もし、

試練の前よりも格段に

「一つ」になれたかな、と

思えれば、

その後、必然的に

その試練の意味は

わかるでしょう。

 

なぜならそれは、

自分自身が次元を一つ

上がれた証拠だからです。

 

一つの次元が上がる

ということは、

景色が変わるということです。

 

新たな次元に立たなければ

見えない景色があります。

 

その景色を前にした時に

初めて、

その試練の意味は

明確にわかるでしょう。

 

人生というのは

その繰り返しですね。

 

つづく

 

自分の意図に疲れてしまう人生にサヨナラしよう

前回、「自分に委ねる」ということについて

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

今回も、もう少しこの件について。

 

「自分に委ねる」ことのできる人は

ある時には突拍子もない行動に

出たりします。

 

ただしその「突拍子のなさ」は、

本人がそう思う、

というだけのことであり、

周りがどう見るか、ということでは

ありません。

 

つまりは、

これまでの本人の思考と行動パターンを

大幅に逸脱するからこそ

「突拍子もない」と本人が感じる

ということですね。

 

そういった意味での

突拍子のない行動を取る時、

本人の顕在意識は

ドギマギしています。

 

それはそうです。

 

これまでにないパターンの

動きを取るわけですから。

 

しかしそのドキマギを

横に置いて、

何の躊躇もなくその行動を

取ることで、

私達は自然に

「肚が据わる」

という状態に入ります。

 

「開き直る」

と言ってもよいかもしれません。

 

この状態は、

真本音が選択している行動

でなければ生じません。

反応本音レベルの

突拍子のない行動では、

開き直るどころか、

心も体も浮ついてしまいます。

 

顕在意識では

「おいおい、大丈夫かぁ」

となっていても、

周りから見れば、

実に落ち着き、確信に満ちた

表情や空気感を

醸し出す状態が、

開き直っている状態です。

 

この状態に入れば、

道は必ず開かれます。

しかも、

なんでこんなに簡単に開くの?

というくらいに

スムーズにすべての事が

運びます。

 

実在レベルでは

凄いエネルギーが発生し、

それがモロに

すべての人に波及し

強い影響を与えているのです。

 

こちらが、一つ動けば、

10の成果が上がる。

・・・というくらいの印象を

本人は覚えるでしょう。

 

そして一度これを体験すると、

これが

「当たり前」

となります。

 

突拍子もないと思っていた

自分の行動が、

「普通の行動」となります。

 

ますますその人は

肚が据わります。

 

こうして人は、

自分の幅を広げていきます。

 

これが

自由になる

ということです。

 

さて。

 

突拍子もない行動に

慣れてきますと、

基本的に、突拍子もない行動

自体が本人の中からは

なくなってしまいます。

 

すべてを淡々と

決めた通りに行動するだけ

の自分。

 

しかも自分で何かを意図するのでなく、

ただ、自分に委ねているだけ

という感覚です。

 

すると今度は、

余分な行動が激減します。

 

いえ、正確に言えば、

これまでは本人にとっては

それらはすべて

必要な行動である、と

思い込んでいたのですが、

何となく、

どうでもよくなってしまうのです。

 

結果、

どうでもいいと思うことは

すべて行動しなくなります。

 

すると、

じっとしている時間が

増えます。

 

何もしない時間が

増えるのです。

 

そして、

本当に必要だと思う行動のみ

何の迷いもなく、

何の淀みもなく

実行に移します。

 

しかもそこに

思考レベルの思惑や意図はなく、

ただ、

そう思う自分に委ねるだけ

という感覚。

 

しかしそれをすれば、

その一石だけで、

波紋は大きく深く広がり、

物事が想定以上のスピードで

展開していく。

 

そうなるともう、

生産性は

大袈裟ではなく

10倍以上になるのでは

ないでしょうか。

 

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

束縛からの解放

というのは、

「結果を出さなくてもいい」

とか

「責任を負わなくてもいい」

ということではなく、

むしろ、真逆です。

 

束縛から解放されて

本当の意味で自分に委ねることの

できる人は、

「出すべき結果をきちんと出し」

「負うべき責任をきちんと果たす」

ことが自然に

できるようになるのです。

 

現実が思うようにいかないので

あれば、

意図を持ち過ぎです。

 

意図に

執着し過ぎです。

 

執着では

結果は出ません。

 

これからの世の中の潮流においては

ますますその傾向が

高まります。

 

自分の真本音の想いに

素直に、

その時その瞬間に現れる

真本音の意志に

そのまま身を委ねる。

 

そんな生き方(行き方)を

一歩ずつでも

実行してみてください。

 

つづく

 

地に足をつけようとしてはならない時がある

人も組織も

『脱皮』

をする時があります。

 

そして脱皮の段階においては

平常時とは真逆の選択をしなければ

ならないことがあります。

 

平常時の原理原則が

まったく役に立たなくなるのです。

 

例えば、

「自分にどんどん不安定を与える」

ことが大事になります。

(→前回記事)

 

さらに、次のことも

大事です。

それは、

 

「無茶をする」

 

ということです。

 

平常時においては、地に足のついた選択と行動が

大切です。

 

しかし、脱皮をしている間は、

地に足をつけようとしても、

その、「地」そのものがありません。

それはまるで、

空中に浮かんでいるかのようです。

 

足元がないので、

いつでも「落ちる恐怖」に苛まれます。

そこで多くの人は、

バタバタと足を空回りさせ、

悪あがきをします。

 

しかし「地」そのものがないので

どうしようもありません。

 

ですので、脱皮の時は、

地に足をつけること自体を

あきらめます。

 

空中に漂うままにします。

落ちる恐怖や、実際に落ちる感覚もありますが、

そこは、あきらめてしまうのです。

 

そして、

どうせ地面がないのですから、

無茶をしてしまうのです。

 

こんな時こそ、

自由発想です。

 

ただし。

 

わざと「無茶をしよう」と考えることも

厳禁です。

「無茶をしよう」という意図そのものが、

すでに自分に「無茶」という枠を

はめるからです。

 

ただただ純粋な、

自由発想をします。

 

どうせ、何をしても怖いのだから、

怖さは変わらないのだから、

思い切って心を自由にするのです。

 

すると、

本当にとんでもない発想が

出ることがあります。

 

とんでもない発想が出た場合には

そこに、

立ち向かっていくのです。

 

それを実行に移そうとするのです。

 

大丈夫です。

 

脱皮とは、

私達の真本音の意図に

基づいています。

 

行動に移そうとして、

もしそれが本当に行動できたとすれば、

それは、真本音の行動です。

 

行動に移そうとして、

もしそこで体が止まってしまうのであれば、

それは、私達自身の真本音が

止めている、ということになります。

 

ですので、本当に危険なことは

行動に移すことができません。

 

何をどうしても不安定なまま。

・・・という状況の中だからこそ、

私達は、

「開き直る」

ということができます。

 

開き直った人は

強いです。

 

開き直ることで、

これまで体験したことがないくらいに

真本音度合いを高めることが

できるのです。

 

脱皮とは、

そういった自己革新のチャンスである

とも言えます。

 

『不安定をどんどん自分に与え、

しかも無茶をする』

 

それが、脱皮時における

原理原則の一つです。

 

脱皮時に

きちんとそれができる人は、

脱皮そのものの頻度も

上がっていきます。

 

すると、人生が加速します。

 

私たちは、

脱皮そのものに楽しさを

見出すこともできるようになるのです。

 

それが、

人間の凄さであると

私は思います。

 

つづく