2019年 9月 の投稿一覧

苦手なものと向き合おう

 

自分の目の前に

現れる

あらゆる「現実」は

 

自分自身の

『生き方』

の反映である。

 

言い切ってもよいのでは

ないか、と

私は常々痛感している。

 

現実は

思う通りには

いかない。

 

この

「思う通り」とは、

顕在意識レベルでの

意図や思惑のことを

言っている。

 

自分の意図通りには

現実は進まない。

 

もし

進んでいるとしたら、

それは

「挑戦」をしていない

からだろう。

 

真の成長や進化とは、

自分の枠を

超えていくことで

成される。

 

枠を超えるためには

どうしても

「思い通りにはいかない」

という現実が

私達には必要だ。

 

しかし本当に大事なのは、

思い通りにいかない現実

が現れた時、

 

それに対して

自分がどうするか?

 

だ。

 

ここで「生き方」が

問われる。

 

・・・・・・

 

本当は、

思い通りにいかない現実

そのものを

楽しめるように

なるといい。

 

でも、

なかなかそれは

難しい。

 

でも、

楽しめる自分

はぜひ、

目指してほしい。

 

そのために必要な

ことは、

 

今ここで起きている

現実を

あるがままに

しっかりと

観察すること、

だ。

 

思い通りにならない現実

からは

私達はどうしても

目をそらしてしまう。

 

逃げようと

してしまう。

 

そこを

踏ん張るのだ。

 

どのような現実も

自分に与えられたものだ。

 

自分の人生だ。

 

自分のものだ。

 

という意識を持ち、

ただただ

向き合うのだ。

 

対処のしようが

わからなくても

いい。

 

うろたえても

いい。

 

弱い心が

噴出してもいい。

 

どんな自分になっても

いいから、

しかしそれでも

向き合う。

 

この「生き方」こそが

すべての道を

開いていく。

結果的には。

 

・・・・・・

 

そういった意味では、

あえて

次のように

言うこともできる。

 

苦手なものほど、

しっかりと

向き合い、

見つめよう。

 

と。

 

例えば、

苦手な人ほど

しっかりと

向き合い、

見つめよう。

 

最初は

辛いかもしれないが、

しかし、

逃げるよりは

よっぽど楽だ。

 

逃げることばかりを

考えている時ほど、

私達が弱く

なることはない。

 

私達が苦しく

なることはない。

 

ちゃんと向き合おう

と、

開き直った時に、

スーッと心が

楽になっていく。

 

本来の自分に

戻っていく。

 

その感覚こそが、

 

『自由』

 

の感覚だ。

 

これを

当たり前のように

知った者こそが、

 

自らの人生において

「本当にやりたいこと」

見つけることが

できるんだ。

 

つづく

 

一歩一歩だろ

 

一日、一日、

着実に

自分の為すべきことを

決めよう。

 

今日は必ず

これをする、

と、

 

一日の始めに

完全に決めよう。

 

そして

それは必ず

やる。

 

小さなことで

いい。

 

これを毎日

繰り返そう。

 

それだけのことで

人生は

好転し始める。

 

・・・・・・

 

無理難題に

見えることでも、

 

一歩一歩だ。

 

50mを一気に

ジャンプすることは

無理でも、

 

毎日、50cmずつ

進めば、

100日で、50m進める。

 

3ヶ月強だ。

 

でも、

50mは難しいなぁ、

と言いながら

何もしなければ、

3ヶ月経っても

同じ場所にいる。

 

この差は

大きい。

 

この一歩一歩を

実践する人か?

 

そうでない人か?

 

ひょっとすると

それだけでは

ないのか。

 

望む現実を

手に入れる人と、

そうでない人の

違いは。

 

と思うことが

よくある。

 

・・・・・・

 

願いは

一気に叶うものでは

決してない。

 

一歩一歩の

積み重ねで

叶うもの。

 

しかも

無理をする一歩で

なくていい。

 

できる一歩

踏み出し

続ける

だけだよね。

 

つづく

 

なんでこんなに好きなんだろう

 

恋愛だけに

限らず、

 

人が人を

好きになる

 

というのは

とても尊いことだ。

 

それにしても、

 

『好き』

 

という感覚は

これは一体

何だろうね。

 

考えたことある?

 

本当に不思議な

感覚だね。

 

この感覚って

多分、

人間だけが持つ

ものではないよね。

 

動物もみんな

持っている

ある意味、

 

宇宙普遍

 

 

宇宙不変

 

感覚だね、

きっと。

 

これがあるから

私達は、

人生がとても

幸せなものになるし、

 

豊かなものに

なる。

 

似たものとして

「愛」

というのがあるけど、

 

愛とは

エネルギーだ

 

と私は

思っている。

 

バラバラだったものが

一つになろうとする

エネルギー。

 

でも、

「好き」という感覚は

それとはまたちょっと

違う気がするね。

 

「好き」と「愛」が

絡み合い

融合するとき、

 

なんか

実在のレベルでは

とてつもないことが

起きている

気がする。

 

これは

何だろうね。

 

それが

この世の中を、

宇宙を

動かしている

のではないかな。

 

・・・・・・

 

気がつけば、

 

とても

ありがたいことに、

 

私の周りは、

私が「大好き」な

人達ばかりである。

 

一緒に仕事をする

仲間も

お客様も

みんな

大好きな人達

ばかりだ。

 

今日は

◯◯さんに

会える。

 

明日は

△△さんに

会える。

 

・・・と

手帳のスケジュールを

見ているだけで、

幸せになる。

 

いつの間に

こんなに幸せな

毎日になれたのだろう?

不思議に

思う。

 

私は昔は、

人間が嫌いな

人間だった。

 

心の奥では

自分のことも

他人のことも

すべて

嫌いだった。

 

もし、

人生を

誰にも会わずに

生きることができるなら、

 

一生、

誰にも会いたくない、

くらいに

思っていた時期も

あった。

 

そんな私が

いつの間にか、

人間が

大好きになっており、

 

そして

大好きな人達と

一緒に進んでいる。

 

なんでこんな現実が

起きているのか?と

最近は特に

不思議に思うのだ。

 

もちろんそれは、

真本音で生き続けた

という結果である

 

というのは

わかってるんだけど、

 

そうじゃなくて、

何と言うかな、

 

そうそう、

 

もっと根源的な

もの、

 

「好き」という

感覚の奥にある

根源的な何か、

 

それを私は

理解したい。

 

そのためにも

私は

もっともっと

この

 

『好き』

 

という感覚を

大事にしようと

思う。

 

この

あまりにも

人間的な

気持ちをね。

 

つづく

 

おいおい、軽いなぁ

 

私のビジネスパートナーの

一人は

今、

自分の会社のホームページを

創っている。

 

どうやらそこに

私も載せてくれる

らしい。

 

「たけうちさん、

たけうちさんの写真を

載せたいのですが、

二つ候補がありまして。

写真Aと写真Bですが、

どっちがいいですか?」

 

2枚の写真を

見せられた。

 

私は迷うことなく、

 

「Aはちょっと変だから、

Bがいいな」

 

返した。

 

「わかりました!

そうします」

 

返事。

 

数日後、

ほぼ出来上がったホームページ

を見せてもらった。

 

そこに載っていたのは

写真Bじゃなくて

写真A。

 

「あれ?

写真Aになってるけど・・・」

 

「あーそれですね。

やっぱ、Aの方がいいかな

って思って。あはは」

 

・・・この軽さ。

 

私はこの軽さを

『真剣』

と呼ぶ。

 

・・・・・・

 

本当に真剣な

人は、

 

軽い。

 

もちろん、

真剣じゃない人で

軽い人も

いっぱいいる。

 

そういう軽さは

私は勘弁してもらいたい

のだが、

 

真剣な人の持つ

その独特の軽さを

私は愛する。

 

それは言葉を

換えれば、

 

『遊び心』

 

とも言える。

 

遊び心とは

柔軟性そのもの

でもあるが、

 

その柔軟性とは、

 

「常に原点に返る」

柔軟性だ。

 

あらゆる情報を

自らにインプットし、

あらゆる経験や

あらゆる試行錯誤を

経て、

 

その上で

原点に返る。

 

そして

答えを出す。

 

こんな情報が

あったから

こうしよう。

・・・ではない。

 

こんな経験をしたから

こうしよう。

・・・でもない。

 

打合せでこう決まった

から

こうしよう。

・・・すらない。

 

あらゆることを経て、

すべてを自分自身に

インプットした上で

 

原点に返るのだ。

 

そして

決断をする。

 

だから一見すると、

突拍子もない答えに

なることもある。

 

しかしそれが

真剣な人の

特長の一つだ。

 

これ、

一歩間違えれば、

単なるいい加減

と見られたり、

独断

と見られたりして、

 

ギクシャクや混乱の

もとになることも

あるが、

 

本当に真剣な人が

これをやると、

 

結果的にはすべてが

調和する。

 

これが実に

楽しい。

 

・・・・・・

 

気がつけば、

私の周りは

真剣な人ばかりだ。

 

だから皆、

軽い。笑

 

軽くて

明るい。

 

しかし、

深い。

 

そんな人達と今、

いろんなビジネスが

展開し始めている。

 

だから私も

ますます真剣に

なる。

 

つまり、

軽くなる。

 

一年後が

どうなっているのか、

まったく予測のつかない

展開になっているが、

 

この

予測のつかなさ

も、

軽やかに楽しみながら

進むつもりだ。

 

つづく

 

なぜ縛るんだ?

 

今、

自分を縛っている

ものは何か?

 

という視点で

自分自身を

客観的に見つめることを

オススメする。

 

縛っているものが

悪いわけではない。

 

それを

なくそうという

話でもない。

 

ただ、

それを自覚する

ことが大事だ。

 

私は今、

〜〜に縛られている。

 

その結果、

このような影響を

受けている、

分析できると

尚、良い。

 

・・・・・・

 

自分を縛るものが

皆無な人は

いない。

 

生きる、ということは

何かに縛られる

ということでもある

からだ。

 

そして

自分を縛っている

ものには、

必ずメリットが

ある。

 

メリットがあるからこそ、

私達は

縛られることを

容認している。

 

例えば

ある社長は、

自分が

「経営」に縛られている

ことに気づかれた。

 

正確に言えば、

「これまでの世の中の

経営の仕方」

にだ。

 

だから、

「本当は私はこんな

経営をしたい」

という願いがあったが、

それを無意識に抑え、

世の中のやり方に

倣っていた。

 

それにより

相当のストレスと

迷いを持ちながら

ここまで来たのだが、

 

しかしその道のりには

彼なりの

メリットがあった。

 

彼はもともと

直観型の人間で、

あらゆることを

自分の直観を信じて

推進して来たのだが、

 

経営においては

それを封印した。

 

しかしそのおかげで、

「戦略」と「仕組み創り」

という力を

彼は得ることができた。

 

これが彼にとっての

メリットだった。

 

しかし彼は

もうすでに

「完了感」を得ていた。

 

つまり、

得るべき力は

もう得ることができた、

彼自身が満足

していた。

 

だからこそ彼は

直観型に戻った。

 

戻ったのだが、

これまで培った

戦略と仕組み創りの力が

活きた。

 

直観を戦略や仕組みに落とす

ことが

できるようになったのだ。

 

このように、

縛られているものを

自覚することで、

 

何のために自分は

縛られているのか?

わかるようになる。

 

そして、

それを今後、

どのように活かせば

良いか?

わかるようになる。

 

つまり、

次のステージへの

大事な布石となる。

 

・・・・・・

 

どうせ

縛られるのならば、

 

自らの意思と

願いに基づいて

自らを縛ろう。

 

それもまた

『自由』

ということでは

ないだろうか。

 

つづく

 

なんて弱いんだ

 

私の仕事は、

人の弱さと向き合う

仕事でもある。

 

なんて弱いんだ、

この人は。

 

と思うことは

日常茶飯事だ。

 

しかし。

 

だからと言って、

この人はダメだ、

とは

決してならない。

 

なぜなら、

私自身にもまた

同じ弱さが

確かに存在している

からだ。

 

人は皆、

同じだ。

 

・・・・・・

 

自分の弱さに

負け、

逃げる方向に

人生の舵を切る人と、

 

自分の弱さに

負けずに、

現実に立ち向かう人。

 

その違いは、

 

ほんのわずかな

ものだ。

 

昔の私は

随分と

逃げた。

 

格好いいことを

言ったり、

格好いいふりも

随分としたが、

 

陰でこっそり

いつも逃げていた。

 

そして

そんな自分を

誰よりも

憎んだ。

 

自分自身を

憎み続けた。

 

そしてそのストレスで

心はさらに

弱くなり、

 

さらに

現実から逃げた。

 

そんな悪循環。

 

そこから抜け出せたのは、

様々な人との

出会いと、

 

そして

自らの真本音との

出会いのおかげ

だった。

 

・・・・・・

 

人の生き方は

そんなに簡単には

変わらない。

 

人が

別人になることは

ない。

 

しかし、

今の自分の心よりも

 

もっと本質的な、

もっと本来に近い

自分自身の心と

出会えば、

 

変われるかも

しれない。

 

いやそれは、

変わるというよりも、

本当の自分に

一歩近づくこと。

 

その一歩一歩を

進むことで、

いつしか人は

 

自分の弱さに

溺れなくなる。

 

・・・これが私の

体験であり、

これに基づいて

私は

今のお仕事を

続けさせていただいている。

 

・・・・・・

 

最後は

どこまでいっても

その人の生き方で

人生は決まる。

 

自分の弱さによって

逃げてしまうか、

それとも

立ち向かうか。

 

それを決めるのは

本人だ。

 

ちゃんと立ち向かえる

自分になるために、

強くなれ!

 

とは私は

言わない。

 

私がいつも

お伝えしているのは、

 

自分の弱さを

しっかり

見つめよう。

 

ということだ。

 

弱さから

目を反らすから、

弱さに

取り込まれる。

 

自らの弱さは

自ら

見つめる。

 

あぁなんて

自分は弱いのか。

と、

自らを

理解する。

 

それだけで

いい。

 

それができれば、

真本音の望む

生き方を、

 

人は

できるようになるのだ。

 

・・・・・・

 

・・・ってね。

 

でも、それ自体も

言うは易し、

行なうは難し、

だ。

 

自分の弱さを

自分で見つめること

すら

やっぱり

難しいんだ。

 

それは

わかる。

 

でも、

それは

やるしかない。

 

そこは

やるしかない。

 

その人が

そうできるように、

 

最後は

その人が決める

ことだと

よくわかっているが、

 

しかしそれでも

私は

 

他者としてできる

最大のことは

やり続けたいと

思っている。

 

つづく

 

自由の前で茫然とするあなたへ

 

どうやら

多くの人達が

 

大海原に

 

自らの船を

漕ぎ出したようだ。

 

その大海原に

名前をつけるとしたら、

 

『自由』

 

ということに

なるだろうか。

 

しかし、大海原と

言うだけあって、

その世界は

果てしなく

広がっている。

 

これまで

自分の船を漕ぎ出すんだ!

がんばってきたのだが、

 

いざ、漕ぎ出してみると、

そのあまりの

世界の広大さに

茫然としているのでは

ないだろうか。

 

「自由」とは、

一見、とても居心地の良い

言葉であるが、

 

いざ、本当に自由になれば

途端に、

これまでとは別次元の

恐怖や不安が

襲ってくるだろう。

 

しかし私は

本当に心を込めて

伝えたい。

 

恐怖に負けるな!

不安に負けるな!

 

と。

 

ここまで来た

自らの意志と願いを

いつも思い出そう!

 

と。

 

・・・・・・

 

いくら大海原に

出たとは言え、

 

進み方は

これまでと同じだ。

 

目の前の

一つ一つの「現実」を

大切にすることだ。

 

大海原は

無限に広がっていても、

私達が一日に

できることは

限られている。

 

ステージが変わった

と言っても、

すぐにスーパーマンに

なれるわけではないのだ。

 

ここにいるのは、

これまでと同じ

自分だ。

 

ただ、

これまで心の中に

渦巻いていた

余分なものが

解消されている。

 

本来の自分の

願いが、

ここにあるはずだ。

 

だからこそ、

「自由」という大海原に

出られたのだ。

 

だからここからは、

願いを持って

進もう。

 

常に。

 

それだけが

これまでとの違いだ。

 

私達にできるのは、

今、ここにいる

自分を

大切にすること。

 

それはつまり、

今、ここにある現実を

すべて

大切にすること。

 

これまで続けて来た

仕事や

人間関係や

趣味や

あらゆることを

 

これまで以上に

大切にすること。

 

誠実に

向かうこと。

 

願いを持った自分

として。

 

それだけの

ことだ。

 

何かを意図的に

大きく変えなければ

ならないわけではない。

 

そうやって

しっかりと現実の

一つ一つに向かえば、

 

自然に

道が観えてくるんだ。

 

どこに

自分が舵を取れば

よいのか?が、

次第にね。

 

それが観える

までは、

 

一つ一つ丁寧に。

 

一つ一つ誠実に。

 

この「日常」を

大切にしよう。

 

つづく

 

新たなステージのあなたへ

 

真の「決意」は

自分を根底から

静かにしてくれる。

 

真の「決意」は

心も体も魂からも

余分な力を抜き、

 

実に落ち着いた

状態を

もたらしてくれる。

 

あなたの中には

今、

どのような「決意」が

あるだろうか?

 

・・・・・・

 

その「決意」を

あなたの体の

中心だと思うところに

置くといい。

 

そこにまるで

生まれたばかりの

赤ちゃんを

抱くように。

 

その光を

大切に大切に

育んでいくといい。

 

そしてできれば、

その「決意」の光を、

 

毎日、

24時間、

感じ続けるといい。

 

「決意を持った自分」

として、

 

そのまま、

 

「日常」に

入っていくといい。

 

歯を磨くのも、

 

トイレに入るのも、

 

ご飯を食べるのも、

 

電車に乗るのも、

 

「おはよう」の挨拶を

するのも、

 

一つ一つの仕事に

取り組むのも、

 

一人一人の人と

会話をするのも、

 

一人でボーッと

時間を過ごすのも、

 

テレビを観るのも、

 

家族で団欒するのも、

 

お風呂に入るのも、

 

布団に入るのも、

 

・・・日常の

あらゆるすべての

活動を、

 

「決意を持った自分」

 

として

行なうといい。

 

それは、

あなたの空気感を

変え、

 

ちょっとした

振る舞いや仕草を

変え、

 

波動の流れを

変え、

 

すべての「現実」を

変え始めるだろう。

 

・・・・・・

 

「決意」とは

あなた自身だ。

 

「決意」とあなたは

一つだ。

 

「決意を持った自分」

として

これからの人生を

楽しんでほしいな。

 

つづく

 

気づきの源泉

 

私は

一人の時間を

とても大事にしている。

 

普段、

人と向き合うことを

仕事にしているので、

 

余計に

大事にしている。

 

一人の時間が

いかに重要か?を

知ったのは、

恐らく

大学で登山をしていた

時だ。

 

当時、私はよく一人で

山に入って行った。

 

自らテントを担ぎ、

誰ともほとんど会話せず

山の中を何日も

歩き回った。

 

そこには

独特の孤独感があったが、

病みつきになるような

幸せ感もあった。

 

一人で山の中にいたり、

一人でテントの中にいれば、

いろんなことを考えるだろう、

と思われるかも

しれない。

 

確かにグルグルと

いろんな思考は駆け巡って

いたかもしれないが、

 

しかしほとんどの時間は

「何もしていなかった」。

 

何もしない

時間。

 

これが人生に

測り知れない影響を

与えていた。

 

・・・・・・

 

山の中では

何もしなかったが、

帰って来てから

私は必ず

紀行文を書いた。

 

誰に読ませるもの

でもない。

 

しかし日記でも

ない。

 

書いている私の意識には

確かに、

「読んでもらう相手」

がいた。

 

その相手に私は

自分の感じたことを

克明に説明しようとした。

 

それをひたすらに

文章にした。

 

自分の感じたこと、

自分の気持ちを

私は妥協なく言葉で

表現しようとした。

 

どうしても良い言葉が

思いつかなければ、

本を読んだり

辞書を調べたりしながら

自分の感覚に最も近い

言葉を

探し続けた。

 

そんなことを

山に行くたびに

続けていた。

 

山の中では

「何もしなかった」のだが、

帰って来てから

文章を書くと、

面白いように自分の気持ち達が

湧いて出た。

 

へぇ、あの時、俺は

こんなことを感じて

いたのか。

 

こんなことを

考えていたのか。

 

など、

文章を書く段で初めて

気づくことばかりだった。

 

山では何もせず、

帰って来てから

文章を書いて

様々な何かに気づく。

 

この繰り返しで

私は私の人生の道が

ほぼ決まったのだと、

 

今から振り返れば

思う。

 

・・・・・・

 

今でも私は

同じようなことを

している。

 

ただ、

山に行くのがなくなった

だけだ。

 

今の私は

山に行かなくとも

山に行ったのと同じ状態に

なれる。

 

私は毎日、必ず

「一人で何もしない時間」

を取る。

 

思考もすべて

停止させる。

 

何もしないでいると、

すぐに、

 

自分と自分以外

 

の区別が

つかなくなる。

 

自分は世界であり

世界は自分である

 

ということが

当たり前の感覚になる。

 

しばらくその状態でいると、

その後、自然に

様々な

「気づき」

が始まる。

 

その「気づき」達は

かなり具体的なものが

多い。

 

ほとんどが

仕事に直結するもの。

 

そして私は

その「気づき」の通りに

行動を起こす。

 

すると、

すべてが

調和する。

 

これが私の日課

であり、

 

セルフコーチングの

基本だ。

 

そう言えば、

一人で山に入っていた時、

私は

自分と山との

区別がつかなくなることが

よくあった。

 

あれは

今のセルフコーチング法を

実践できるようになるための

練習をしていたのだな、

と思う。

 

・・・・・・

 

この私のやり方を

セルフコーチングとは

一般的には呼ばないのかも

しれない。

 

しかしこれは間違いなく

自分自身へのコーチングであり、

 

「気づきの源泉」

となるものだ。

 

自分で自分の道を

しっかりと選択し、

自らの未来を開くためには

なくてはならないものだ。

 

これがあるからこそ、

私はここまで来れたし、

 

未来が開く実感も

得ることができる。

 

これを私は

多くの人達に

できるようになってもらいたい。

 

そう。

 

今はまだ

ほとんどの人が

「何もしない」

ことができないのだ。

 

私のビジネスパートナーが

とても良い表現を

思いついてくれた。

 

『リブート』

 

つまり、

 

『再起動』

 

だ。

 

私はこれを毎日

行なっている。

 

リブートのための

セルフコーチング法。

 

この講座を

今、準備している。

 

つづく

 

自由、についてつぶやく

 

私の人生において

最重要のテーマの一つは

 

『自由』

 

だ。

 

自由とは何か?

 

本当の自由とは?

 

ということを

もう30年以上、

探究しているのでは

ないか。

 

自由について、

いろんな角度から

このブログでも書いて

いきたいのだが、

 

今日は

こんな角度は

どうだろう。

 

「自由を求めるならば、

枠を大事にしよう。」

 

・・・・・・

 

枠は大事だ。

 

この世は

「枠」だ。

 

私達は

「枠」の中に生まれ、

さらに

「枠」をはめられ続け、

 

生きている。

 

男性女性の区別も

「枠」だ。

 

名前も「枠」だ。

 

生まれた地域も

環境もすべて

「枠」だ。

 

一日が24時間というのも

「枠」だし、

重力も「枠」だし、

 

体が一個しかないのも

「枠」だ。

 

私達の思考さえも

「枠」と言えるかもしれない。

 

この世は

「枠」

しかないではないか。

 

自由とは、

それらの「枠」を

取り払うことだろうか?

 

いや、

そうではない

私は思う。

 

だって

「枠」はなくならないし。

 

それどころか、

「枠」があること自体が

この世の意味だし

意義だし

価値だから。

 

「枠」の否定は

むしろ

 

不自由の象徴

 

のように

私には映る。

 

それは、

この世界の否定

だからだ。

 

否定は

不自由だ。

 

かといって

肯定も

不自由だ。

 

肯定も否定も

どちらでもいいじゃないか、

 

というのが

本来だし、

そこはちょっと

「自由」な感じがする。

 

・・・・・・

 

「枠」を取り払おうと

する人は

多いが、

 

その姿はとても

不自由に

映る。

私には。

 

私は

こう思うのだ。

 

「自由」とは、

どのような「枠」の中でも

自由でいること。

 

わけわからんかな?

 

でもこれは

本質だと思っている。

 

・・・・・・

 

「私は自由に生きたいから、

好きなことしか

やらないんだ」

 

という人を見ると、

本当に不自由な人だな、

と思う。

 

なぜならそれは

 

「好きなことしかできない」

人生だから。

 

好きなことのできる

環境であれば

自由になれて、

 

そうでない環境で

あれば、

自由になれない、

 

ということでしょ。

 

これって完全に

環境に左右されている

人生だ。

 

つまりは、

人生のハンドルが

「環境」にある。

 

人生のハンドルが

「自分」にはない。

 

それを「自由」とは

到底言えないだろう。

 

どんな環境においても

自由に生きれる人が

「自由」な人だと

私は思う。

 

嫌いなことは

やらない。

好きなことだけ

やる。

 

のではなく、

 

すべてを

自分らしく自由に

できることが

「自由」ではないかな。

 

もちろん、

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちが

湧くだろう。

 

しかしその気持ちが

あることで

不自由になるなんて

弱過ぎないかい。

 

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちすら

あるがままにさせて

おけばいい。

 

自由にさせて

おけばいい。

 

でもって

ちゃんとやるべきことを

自分の意志と意思で

行なっていく。

 

これができている時

私達は

「自由」を手に入れている

のだと私は思うけど、

 

どうかな?

 

・・・・・・

 

その人が自由かどうか?

顔を見ればすぐに

わかる。

 

自由な人は

険しさがない。

 

不自由な人は、

どれだけ好きなことを

やっていても

必ず顔に

険しさが出る。

 

自由な人は、

絶対に

何かを否定はしない。

 

無理な肯定も

しない。

 

そんなものからは

自由になっているからだ。

 

好きは好き。

嫌いは嫌い。

 

自由は自由。

不自由は不自由。

 

やりたいことは

やりたいこと。

やりたくないことは

やりたくないこと。

 

以上。

 

となっている人が、

自由ではないか。

 

だから自由な人は

「枠」を本当に大事に

している。

 

それはこの「世界」を

大事にしていることと

イコールだから。

 

そこにあるものすべて

(つまりは、枠のすべて)

を大事に

しているんだ。

 

自由だから。

 

つづく

 

手に負えない、という喜び

 

人に励ましてもらいながら、

勇み足で進むよりも、

 

着実に一歩ずつ

自力で進んだ方が

よい。

 

その方が結果的には

超加速になってゆく。

 

ということを

最近はつくづく

感じる。

 

私のクライアントさんで

自力で進もう

という意志を持った

人達の成長ぶりが

 

なかなかに

凄い。

 

面白いことに

自力で進もう

という意志を持つ人にこそ

サポートは

意味を成す。

 

自力で進む人にこそ

コーチングは

効果を発揮する。

 

そういった意味では、

この人は

コーチングなんぞ

必要ないだろうな、

思える人ほど

コーチングを受けた方がいい、

とも言える。

 

・・・・・・

 

私のコーチングを

受けたクライアントさんの

多くは、

 

私の手に負えなく

なる。(笑)

 

そうなる状態を

私はとても強く

望んでいる。

 

私の範疇には

収まらず、

 

いったいこの人を

どうサポートしたら

よいのだろうか?と

 

まったくもって

わからなくなる。

 

実は、

ここからが本当の

コーチングのスタートだ。

 

ここからが

コーチングの醍醐味

だ。

 

手に負えない人を

どうサポートするか?

 

これこそが

コーチングスキルの

本質なのだと

私は思う。

 

・・・・・・

 

私の仕事は

本当に

幸せな仕事だ。

 

この仕事のおかげで

私の人生は

想像以上に充実した

ものになっている。

 

クライアントさんは

手に負えない人達

ばかりなので、

 

毎日、何が起こるのか

本当にわからない。

 

でも何が起きても

ちゃんと対応できるように

しておかねばならない。

 

だから

毎日、緊張の連続だ。

 

が、しかし

その分、

毎日、喜びの連続だ。

 

今、

 

私と同じ仕事を

目指してくれる人が

何人かいる。

 

私はその人達と共に

現場に入っている。

 

やはりコーチは

現場の中でしか

育成できないということが

わかったからだ。

 

おかげで

今、一緒にがんばっている

彼らは、

メキメキと力を

つけている。

 

そして

私の手に負えなく

なりつつある。

 

これも私の

喜びの一つだ。

 

そんな、

コーチを目指す人達を

一人、また一人、と

着実に増やしていきたいと

思っている。

 

つづく

 

迷いを超えよう

 

AかBか?

迷ったら、

 

AかBかを迷っている

自分自身を

本当に

大事にしよう。

 

決して、

「迷っているなんて

ダメだ」

とは

思わないこと。

 

迷いは

大事だ。

 

もちろん、

不必要な迷いも

あるが、

 

まずは

今ここで迷っている

自分自身を

そのまま、あるがままに

大事にしよう。

 

すると、

 

場合によっては、

 

その迷いを超えた

答えが

生まれることもある。

 

あくまで

「こともある」

だが。

 

・・・・・・

 

時々、

 

「どれが本当の自分

なのでしょうか?」

 

というご質問をいただく。

 

その人は

「本当の自分として

生きたい」

という想いを

お持ちなのだが。

 

その想い自体は

とても大切だが、

そこに捕らわれすぎると

苦しくなるし、

 

視野が極端に

狭くなる。

 

ここでも大事なのは、

 

「どれも、

ここにあるものは

すべて

本当の自分だろう」

 

という

大らかさと、

 

「どれが本当の自分か?

を悩んでいる自分自身を

大事にしよう」

 

という大らかさだ。

 

そうやって

思い悩んでいる自分も

本当の自分の

一つだ。

 

・・・・・・

 

似た表現で、

私はよく

 

「本来の自分として

生きよう」

 

という言い方を

するし、

 

「本来でない状態で

生きている人が多い」

 

という言い方も

する。

 

だから

「どれが本来なんだ?」

という疑問が湧くのは

当然だと思うし、

 

そういう疑問を

私自身が喚起させて

しまっている

とも思う。

 

でもやはり

その疑問(=問い)を

持つこと自体は

とても重要で、

 

これがなければ

始まらないのだが、

 

しかしやはり

ここでも

「正しい答えを出そう」

とは

思い過ぎない方がいい。

 

それをすると

余計に

答えが遠のいて

しまう。

 

「どれが本来か?」

 

という問いと

共に

 

「どれでもいいじゃない」

 

という大らかさを

持って初めて、

 

私達は

その問いの持つ

真の意味と

 

真の答えに

 

たどり着けるんだ。

 

つづく

 

真のミッションがわかるはずだ

 

自分一人の力で

太刀打ちできることを

ミッションにする、

 

なんてことをするほど

私達人間は

甘くできていない。

 

自分一人では

到底実現できないことを

私達の真本音は

 

自分の人生の目的

と役割

 

として、

自らの魂に刻み込んで

いる。

 

だから、

自分の本当のミッション

に気づいた人の

多くは、

 

その内容に

愕然とする。

 

私は

こんなことを

望んでいるのか・・・、

と。

 

顕在意識のレベル

では、

「そんなの絶対

無理だ!」

拒絶や抵抗感が

生まれるのだが、

 

しかしその一方で、

 

心の奥の方で、

確かに

喜んでいる自分が

いるはずだ。

 

その喜びは

最初は微小な

ものだが、

 

しかし実は、

それこそが

真の喜びであり、

 

本来の自分の

幸せそのものなのだ、

ということを

 

私達は

日に日に

いやでも

実感することになる。

 

なぜなら、

自分の本当のミッション

を自覚した者は

 

意図せずとも、

その方向に

進んでしまうから。

 

その方向に

現実が動いていることに

気づくことで

 

どうしても

喜んでしまう自分を

否定できなく

なるから。

 

そう。

 

ミッションとは

実現できるかどうか?

ではない。

 

その方向に

本気で

一歩

進むだけで、

 

大いなる喜びが

来るものだ。

 

残念ながら、

それを体験してしまうと

もう、

これまでのあらゆる喜びが

霞んでしまうほどだ。

 

これを

真本音の喜び

私は呼んでいる。

 

・・・・・・

 

もちろん、

真本音の喜び

とは

一つだけではない。

 

ミッションに向かう日々

が始まることで、

 

もっと日常的な

ほんの些細な

現象の一つ一つにも

真本音の喜びは

生まれるようになる。

 

喜ぶことに

素直になれる、

 

という表現でも

いいかも。

 

例えば、

ちょっとした道端の

花を見るだけで

泣けて来ることがある。

 

青空を見るだけで

全身がジンジンと

しびれることがある。

 

目の前の人の

何気ないたった一言を

聴くだけで、

世界のすべてが

薔薇色に見えることだって

あるくらいだ。

 

そこまで喜びを

感じられるようになると

次に起こるのは、

 

ほしいものは

すべて手に入る

 

という現実だ。

 

ただしその「ほしいもの」

とは、

本当の本当の本当に

ほしいもののことだ。

 

100%ほしい

と思っているもの

だけだ。

 

だから中途半端に

ほしいものは逆に、

どんどん

手放すことになる。

 

だから多くの場合は

生活がとても

シンプルになっていく。

 

とはいえそれは

単に質素になっていく

のとも違う。

 

本当にほしいものは

ちゃんと

集まって来るからだ。

 

それは

一見すると

不思議な現象である。

 

でもあまりにも

自然の摂理そのもの

でもある。

 

自分のほしいもの達は

ここにある

ことが最も自然だな、

思えるのだ。

 

ここにあるのが

最も自然なものが

ここに集まって来る。

 

ということだ。

 

・・・・・・

 

自分の本当のミッションに

気づき始めている人が

急増中だ。

 

だからこの文章を

書いているのだが、

 

どうか、

自分自身のミッションを

見つめることに

(気づくことに)

躊躇しないでほしい。

 

だってあなたは

そのために

ここに生まれて

来たのだから。

 

そして、

ミッションを自覚することが

ゴールでもない

ということを

よくわかってほしい。

 

ミッションの自覚とは、

本来の人生の

スタートを意味する。

 

やっと人生が

始まるのだ。

 

年齢は関係ない。

 

自覚から

人生は

始まる。

 

早く、

人生を

始めてほしい。

 

私は

そういう人を

サポートしたいのだ。

 

つづく

 

節目を超えたかな

 

人生の

大きな選択が

できたら、

 

一度、

休むといい。

 

今、

疲れているだろう?

 

それはそうだ。

 

あなたは

とてつもなく

大きな山を

越えたのだ。

 

恐らく、

最も辛い道のり

だったろう。

 

最も

自分にとって

弱い部分に

焦点の当たる日々

だったろう。

 

最も行きたくない

と思う方向に

あなたは

必死に意識を

向け続けたのではないか。

 

でもそれは

あなたが次の

新たなステージに

入るためには

必須のことだった。

 

それを

あなたの真本音は

よくわかっており、

 

しかし

あなたの反応本音は

とても抵抗をし、

 

その狭間で

あなたは相当に

揺れ動いたはずだ。

 

しかしそれももう

終わったことだ。

 

人の心には

「ぶり返し」というのがあり、

あなたのその苦しみが

感覚として

フラッシュバックすることは

今後もあるかも

しれない。

 

しかし安心すれば

いい。

 

それは単なる

幻影だ。

 

もうあなたは

それをすでに

超えたのだ。

 

今は少し

休むといい。

 

心や体というよりも

魂が疲れてしまって

いるはずだ。

 

魂の疲れは

気合いで何とかなる

ものではない。

 

充分な休息が

必要だ。

 

そして

エネルギーが

甦ってくる頃に、

 

あなたの次の

道のりへの

想いやビジョンが

溢れ出てくるはずだ。

 

それを

待てばいい。

 

一つのステージが

終わり、

 

次のステージが

始まる。

 

節目だね。

 

おめでとう!

 

やっぱり

その言葉が

ぴったりだね。

 

自分自身に

その言葉、

贈ってあげて

ください。

 

つづく

 

気が遠くなるけど、やり続けるよ

 

私とは

何だろう?

 

私とは

何だろう?

 

私とは

何だろう?

 

・・・と

100万回繰り返し

自分に問うても、

答えは

決してわからない。

 

しかし、

 

私とは

何だろう?

 

という問いを

大事にしながら、

 

目の前にある

「現実」に

一つずつ丁寧に

向かっていくと、

 

答えは

徐々に

観えてくる。

 

これが

私達人間だ。

 

私達は

「社会的生き物」

だ。

 

社会を構成する

という前提のもとで

生まれている。

 

「社会」という言葉が

固ければ、

 

「人との関わりを

前提に」

 

と表現し直しても

いい。

 

そして

「現実との関わりを

前提に」

 

とも言える。

 

私達は、

「内に籠もる」

ようにはできていない。

 

「外と向き合う」

ように

できている。

 

ちゃんと

「外と向き合う」

ことで、

内を理解する。

 

そのように

できている。

 

・・・・・・

 

とは言え、

外にだけ

(現実にだけ)

向かえばいい、

 

というものでも

ない。

 

内をないがしろにし、

外にだけ向かえば

それはそれで

自分を見失う。

 

内だけでも

ダメ。

 

外だけでも

ダメ。

 

内と外の

コラボレーションによって

進化をするのが

 

私達人間の

本質だ。

 

・・・・・・

 

残念ながら、

今の私達の多くは、

 

内も外も

両方

大事にしていない。

 

していない、

というよりも

できていない、

ということかな。

 

内も外も

大事にする

そのやり方を

忘れてしまった人が

多いのが

今の社会だ。

 

だから

「自分」を生きて

いない。

 

それが

実に悲しいことだ

ということすら、

自覚していない。

 

このままじゃ

いかんだろ。

 

と、

やっぱりどうしても

私は

思ってしまう。

 

なんとか

せねば、と。

 

・・・・・・

 

世の中のために、

 

という言葉を

私はあまり

安直に使いたくは

ないのだが、

 

しかしこの想いは

どうしても私の中に

ある。

 

昔、

まだ真本音という

概念すらなかった頃、

 

私は

自己愛のみで生きて

きたし、

 

自己満足の毎日

だったし、

 

自分だけでなく

知らぬ間に

人も多く傷つけて、

 

仕事も

家族も

ボロボロにして

しまった。

 

思い返せば

とてもとても

ひどい人間だったが、

 

しかし、

 

そんな時代にも

私の中にずっと

あり続けたのが

この

「世の中のために」

だ。

 

恐らく、

生まれた時から

持ち続けている。

 

もちろん

それが「特別なこと」

とか

私が「特別な人間」

などとは

思わない。

(そのように傲慢に

思っていた時期は

あったが。)

 

すべての人が

「自分のために」

「世の中のために」

心の根底で

つながっているから。

 

それが今はよく

わかるから。

 

その当たり前の

事実を

皆、思い出せると

いいとは思うが、

 

まぁしかし

そんな硬いことは

言わない。

 

せめてみんな、

本当に真剣に

「自分のために」

生きてほしい。

 

それが結果的に

「世の中のために」

なるからだ。

 

これは私の

願いというよりも、

「祈り」

だな。

 

その祈りに素直に

私は

一日一日を

生きていく。

 

今日も、

 

東京のある街に

行ったら、

 

そこにいる人達の

そのあまりの

「自分を大切にしていない」

度合いの高さを

感じてしまい、

 

吐き気がして

気が遠くなった。

 

これまでも

よくそういったことは

あったのだが、

 

今日のはちょっと

強烈で、

 

こういうのを

感じると、

絶望的にもなったり

するのだが、

 

しかしそれでも、

私の中の「祈り」は

まったく衰えず、

光り輝いている。

 

私はただ

それを大切に

抱き続けて

いくだけだ。

 

今日やることを

自ら決めて

やるだけだ。

 

人生が終わる

最期の最期まで

私はやり続けるよ。

 

つづく

 

私達は中心だ

 

宇宙の中心に

自分がいるイメージを

してみよう。

 

宇宙全体から

中心である自分を

見つめる感じだ。

 

全体から

自分を見ると、

 

どう見えるかな?

 

自分は

どんな光を

発しているだろうか?

 

自分は

宇宙全体に

どのような影響を

及ぼしているだろう?

 

そして

宇宙全体から

どのような影響を

受けているだろう?

 

「自分」と「宇宙」は

常に

互いに

エネルギーのキャッチボールを

し続けている。

 

それはまるで

呼吸のように。

 

吐いては吸い、

吸っては吐いて、

 

共に

存在し合っている。

 

本来は

共に進化をし合えると

良いのだが。

 

どうかな?

 

では、今度は、

中心である自分の

場所に戻ろう。

 

自分から

宇宙全体を

眺めると、

 

どう見えるかな?

 

いったん自分を

離れてから

もう一度、今

自分に戻ったわけだけど、

 

何か

宇宙の感じ方に

変化はあるかな?

 

宇宙は

自分に

何を呼びかけて

いるだろう?

 

どんなメッセージを

投げかけて

いるだろうか?

 

・・・・・・

 

私達は

「中心」

だ。

 

すべての「人」が

宇宙の「中心」

にいる。

 

というのが

実在のレベルでの

真実だ。

 

それを

忘れてしまうことで

私達は

自分を失う。

 

常に

「中心」としての

自覚を持ち続けることが、

 

自分の人生を

本来の自分として

生きるための

 

大事な在り方

なんだ。

 

つづく

 

つくづく、美しいなぁ、と

 

もし

未来を見通す力が

あったならば、

人生はもっと楽だろうな、

と思う人は

多いかもしれない。

 

私もそう思う時があるが、

しかし、

やはり、

未来がわからないところに

人生の醍醐味は

あるのだろう。

 

そしてこの

3次元の世界の

意味や意義も

あるのだろう。

 

・・・・・・

 

もし

未来がわかって

しまったら、

 

私達は

「覚悟を持つ」

という体験が

できるだろうか?

 

とも思う。

 

あの独特の

体験。

 

未来がわからない

ままに、

「この道を行こう」

完全に決めた時の

あの感覚。

 

あの

すがすがしさ。

 

それまで

自分を縛っていた

あらゆるものから

解放され、

 

自分は本当は

自由だったんだ、

 

理屈を超えたところで

その真実を

思い出す、

 

あの感覚。

 

あれは

未来がわからない

からこそ

得られるものの

一つではないか。

 

・・・・・・

 

人は進む。

 

未来が見えても

見えなくても、

 

人は進む。

 

どうせ進むなら、

この世界にいる

私達は

 

未来が見えないままに

進もう。

 

それが

私達がここに来た

意味だから。

 

覚悟を持った

人は

 

美しい。

 

新たなステージに

進む

その姿は、

 

未来が見えない

人生だからこそ

出会うことのできる

 

宝物の一つだと

 

私は今日も

つくづく思ったよ。

 

つづく

 

自分の幸せをもっと考えよう

 

毎日、笑顔で

いたいですか?

 

と、

問われれば、

多くの人が

Yes

と答えるだろう。

 

しかし、

どうすれば

本当に毎日、

笑顔でい続けられるか?

真剣に考えている

人は

あまり多くないのでは。

 

この仕事を

始めた20年以上前から

この印象は

さして変わっていない。

 

もっとみんな

自分の幸せについて

真剣になればいいのに、

と思う。

 

・・・・・・

 

真剣さの第一歩は

考えることだ。

 

しかしそれを

している人は

少ない。

 

例えば、

 

「あなたは本当は

何が好きですか?」

 

という質問をして、

すぐにその人自身の

真本音だと思われる

スッキリした答えを

返してくる人は

 

極めて

稀なのだ。

 

なぜもっと

考えないのだろう?

 

なぜもっと

自分自身に

意識を向けないのだろう?

 

なぜもっと

自分の人生の幸せを

探求しないのだろう?

 

と、

単純にいつも

思う。

 

みんな

惰性で

生きているのか。

 

そうなってしまっているのが

今の社会なのか。

 

でも、

そんなのは嫌だ、

そんな社会であって

ほしくないし、

そんな人生で

終わりたくない、

と、みんな

思っているだろう。

 

もっとその気持ちに

素直になれば

いいのに。

 

その気持ちに

向き合う気力すら

もう

湧かないのか?

 

諦めて

しまっているのか?

 

・・・・・・

 

死ぬときに

「あぁ、いい人生だった」

思いたい。

 

・・・という気持ちを、

私はいろんな人達から

聴いた。

 

じゃあそのためには、

今日という一日を

いい一日だった、と

思える一日にすることが

基本であると、

私は思う。

 

幸せな一日一日が

幸せな人生を

創り上げていく。

 

それが当たり前だと

思うのだけど、

どうだろう?

 

今日という一日が

幸せになるために、

何ができるか?

 

一日の満足度を

上げるために、

自分は

何をし、

何をしないように

すればいいのか?

 

自分は

何かを変える必要が

あるのだろうか?

 

などなど、

もっともっと

自問自答するといい。

 

あなたの人生は

あなたの人生

なのだから。

 

つづく

 

さぁ、決めよう

 

これまで

どうしても

答えの出せなかった

ことの

 

答えを

出そう。

 

もう、

決めよう。

 

決断を

するのだ。

 

一つの答えを

明確に決めて、

それ以外の選択肢を

完全に「断つ」のだ。

 

もう、

これに関しては

一生、

答えを変えることはない、

 

決めるのだ。

 

それができれば、

次のステージに

あなたは進める。

 

人生は

大きく先に

進む。

 

進化もする。

 

決断には

決断の

タイミングがある。

 

今は

絶好のチャンスだ。

 

今、私達は

潮目にいるのだから。

 

・・・・・・

 

どうしても

決断できない場合は、

 

その勇気が

出ない場合は、

 

「今回は諦めよう」

しっかり決めよう。

 

諦めても

人生が終わるわけでは

ない。

 

ただ、

もう一度「やり直し」を

するだけ。

 

次の潮目が来るまで

同じステージで

さらに経験を

積むことになる。

 

それもまた

人生だ。

 

次のステージに

進むか?

進まないか?

 

あなたの人生だ。

 

しっかり

自覚して

自分で決めよう。

 

つづく

 

ここは自力で進んでください

 

コーチというお仕事を

する上で、

最も大切なことは

何ですか?

 

というご質問を

いただくことがある。

 

もちろん

様々な視点から

様々な答えがある

のだが、

 

そんな時に

私がよくお答えするのは、

 

「サポートしては

ならない時に、

決してサポートしないこと」

 

ということだ。

 

私はこれを

本当に大切にしている。

 

人は、

自力で進まねば

ならない時が

ある。

 

人からの

サポートを

受けてはならない

時がある。

 

その見極めは

残念ながら

本人がすることは

とても難しい。

 

コーチである私が

せねばならないことだと

思っている。

 

だから私は

コーチングのご依頼を

お断りすることが

時々ある。

 

特に多いのが、

以前のクライアントさん

から、

「もう一度、コーチングを

お願いします」

と言われる時だ。

 

もちろん、

サポートさせていただくことが

最善のこともある。

 

しかし、

私のコーチングをご卒業

された方は、

基本的にはもう

私のコーチングは

必要ない。

 

どれだけ

苦しくても、

どれだけ

混乱しても、

ちゃんと自らの力で

道を開く力を

すでにお持ちだからだ。

 

真本音で生きる

ということの本質を

もう

会得しているからだ。

 

もし今、

かつてないような

混乱に見舞われていたと

しても、

 

それは、

自らの真本音が

自らに

与えているもの。

 

次のステージ進むために

自らに

課しているもの。

 

そこは

自力で行かねば

ならない。

 

自力で行かねば

先はない。

 

同じ場所を

堂々巡りするだけだ。

 

それをわかっていて

サポートをしてしまう

というような

ひどいことを

私はどうしても

することができない。

 

コーチとして

というよりも、

人として

することができない。

 

・・・・・・

 

手を差し伸べては

ならない時に

 

手を差し伸べて

しまったら、

 

私はその時点で

コーチを

辞めるだろうな。

 

つづく

 

一つの決意

 

恐らく、

これまでの私の

仕事の仕方を

このまましていれば、

 

私は幸せな人生を

送り続けることが

できるだろう。

 

これまで通り、

良い方々と出会い、

良いお客様に恵まれ、

良い仕事をし、

 

大変なことも

たくさんあるだろうが、

それ以上に幸せな瞬間を

多く味わい、

 

満足して人生を

終えることが

できるだろう。

 

ある意味、

私流の仕事の仕方は

確立できた。

 

いろんな試行錯誤を

経て、

「こうすればいいんだ」

というものは

かなり確立できた。

 

普通であれば、

大満足

である。

 

が・・・。

 

この延長線上での

道のりを

私の真本音は

望んでいない。

 

私は

これまでずっと

培って来た

ここまでの道から

 

逸脱したい

 

のだ。

 

これまで

体験したことのない

 

新たな世界

 

に突入したいのだ。

 

なぜなら、

それをしなければ、

私は

私の人生の目的も

意味も意義も

達成できないからだ。

 

あと27年。

 

私は現役で

い続ける。

 

27年後までに

実現すべきこと

(したいことでもある)

がある。

 

ビジョンがある。

 

これまでの道のりは

そのビジョンに向かう

ためのものだったが、

 

ここで

新たな段階に

入らねばならない。

 

これまでの道から

大きく

飛び出なければ

ならないのだ。

 

これまでも

ヒリヒリして来た

人生だったが、

 

これからの

ヒリヒリは

かなり次元の異なる

ものとなるだろうな。

 

そんな新たな

旅に

これから入っていこう

かと思っている。

 

つづく

 

ニヤニヤ見られてる

 

今、

私の体の中心

(心の中心、と言ってもいい)

に、

 

青い火柱が

立っている。

 

火柱とは言え、

メラメラとした感覚は

皆無で、

 

むしろ、

静けさや落ち着きを

感じさせる。

 

ずっと以前から

ここにあったような

気もするが、

 

つい最近

できた気もする。

 

ただそれは

重要なことではなく、

 

それよりも、

その火柱が私に

静かに語りかけてくる

メッセージに

耳を傾けたい。

 

・・・・・・

 

火柱の中に

入ってみると、

 

そこには

仲間達がいる。

 

皆、静かに

笑っている。

 

仲間達は

私を見ながら

言うのだ。

 

もう

大丈夫じゃ

ないっすかね。

 

・・・と。

 

何が大丈夫?

 

と問うと、

 

ニヤニヤしながら

教えてくれない。

 

あぁそうか。

 

最近、なんかずっと

誰かから

ニヤニヤされながら

見られている感覚が

あったが、

 

このニヤニヤだ。

 

別に悪い感じは

なく、

いたずら小僧達が、

私の振る舞いを

楽しんでいるかの

ようだ。

 

・・・・・・

 

彼らのニヤニヤの

意味はわからないが、

 

火柱から出ると、

何か大事なメッセージを

受け取った

気がする。

 

ちょっと言葉に

してみようか。

 

んー、そうだな。

 

・・・

『もうすぐ始まるよ。

どうせあなたは

我を失うくらいに

楽しむだろうけど、

せっかくなんで

味わいながら

行きましょうよ。』

 

・・・かな。

 

意味はまったく

わからないが、

何か

すごくよくわかる。

 

多分、

ワクワクしすぎて

卒倒しそうなくらいの

私がいるのだろう。

 

それを見て、

みんなが

ニヤニヤしている。

 

まぁまぁ

落ち着いて、と。

 

青い火柱でも

見ながら、

落ち着いて、と。

 

じゃあまぁ、

そうするか。

 

あえて今は

何も考えないように

するが、

 

きっと

これまでの人生の

すべての意味が

わかるようなことが

 

これから

始まるのだと

思う。

 

つづく

 

焦って進めば遅くなる

 

ちょっと結果を焦り過ぎ

の人が

最近は多い気がする。

 

最速で進もうと

すること自体は良いけれど、

 

最速で進むことと

焦ることは

 

当然のことながら

まったく異なることだ。

 

真逆と言っていい。

 

焦れば焦るほど、

スピードは落ちていくから。

 

最速で進むために

必須のことは、

 

地に足をつけること。

 

未来を見つめることも

大事だが、

 

未来に続く

「今」

を大切にせねば

意味がない。

 

今自分の立っている

足元をしっかりと

見つめること。

 

そして、

 

地道に一つ一つ

誠実に一つ一つ

着実に一つ一つ

 

自分のすべきことを

ちゃんと丁寧に決め、

 

淀みなく決め、

 

それを

魂を込めて実行する

ことだ。

 

だいたいそれを

していると、

自然に

「習慣化」

ができる。

 

一見すると、

毎日同じルーティンを

回しているような

コツコツとしたことを

やるようになる。

 

そのコツコツが

大事だな。

 

一度に大きなことをして

大きな成果を

手に入れよう

 

としても、

この世ではそれは

なかなかに難しい。

 

こう見えて、

この3次元の世界は

実に

「反応の遅い」

世界だ。

 

鈍感で

打っても響かず、

暖簾に腕押しの

実に多い世界だ。

 

そこを生き、

しかもちゃんと道を

創るには、

 

コツコツ

やり続けること

こそが、

 

最速につながる可能性は

高い。

 

だから私がいつも

大事にしているし、

皆さんにも

お伝えし続けているのが、

 

真本音で

今日やろう、と思うことは

今日、必ずやり、

 

今日はやらない、と思うことは

今日は、やらない。

 

ほんの些細なことも

すべてそれで

決めていく

ということだ。

 

それにより、

自然にシンプルな

習慣もできる。

 

「スモールスタート」が

「ビッグウェイブ」に

つながるんだ。

 

つづく

 

これからの一本道のテーマは?

 

あなたは

海を見ている。

 

水平線の彼方から

今、

朝陽が昇った。

 

太陽の光が

赤く海を染めた。

 

陽が昇るにつれて、

あなたと太陽を

結ぶ

光の帯が海に映え、

 

それがやがて

一本道となった。

 

これから

新しい一日が

始まる。

 

新しい人生の

ステージが

始まる。

 

あなたと太陽を

結ぶ一本道は

 

本当の

一本道となった。

 

海の景色は

変わり、

 

あなたは

一本道に

佇んでいる。

 

あなたは

とても気持ちの良い

場所にいる。

 

その幸せを

存分に感じながら、

 

あなたの足元から

前に続く

その一本道に

 

名前を

つけてみよう。

 

その名前は、

これからのあなたの

人生の

テーマであれば、

尚のこと良い。

 

・・・・・・

 

私自身が上記を

行なったら、

 

とても意外な

名前が浮かんだ。

 

『慶を得る道』

 

だ。

 

喜び、ではなく、

慶、という文字が

浮かんだ。

 

珍しい。

 

しかも

私が何かをする

というよりも

私が「得る」ことが

大事だし、

 

その「得る」とは、

得るためにどうするか?

ということがテーマ

ではなく、

むしろ

「素直にいただく」

という意味らしい。

 

そう言えば、昨晩、

長年、共に歩んできた

ある社長さんと

食事をした。

 

バーに行って

一緒にお酒を飲んだが、

 

その会話の中で、

ちょっと俺、ここまで

がんばり過ぎたかな、

 

と思ったのだ。

 

ここまでの人生、

特に今の仕事を始めての

23年、

決して美しい道では

なかったが、

 

回り道ばかりだったが、

我ながら

本当によくがんばって

きたと思った。

 

こんな風に自分を

振り返るのは

ひょっとすると初めて

かも。

 

それだけ年を取って

しまったということかも

しれないが、

 

いや〜、しかし今も

本当に

日々、これだけ真剣に

生きているのは

我ながら

ちょっと凄いな、と

 

ひょっとすると

初めてこのように

自分を褒めたかもしれない。

 

まだまだこれから

やることは

いっぱいあるし、

 

むしろ

ここからが本番

なのだが、

 

ここから先は

「素直にいただく」

ことを

テーマにすると良いのだな、

思ったのだ。

 

そして今日、私は

その社長さんと

食事をしながら、

その社長さんから

ずっと

抱擁されているような

感覚になっていた。

 

もちろん

実際にそんなことは

ないのだが、

感覚、ね。

 

実に幸せな

時間だったのだが、

その幸せ感を

素直にいただく、

のが

これからの私の

テーマなのかな、と。

 

で、

浮かんだのが

『慶』

という文字。

 

私はこれからも

たくさん

皆様に私のできることを

ご提供するが、

 

皆様からも

たくさんの『慶』を

いただき、

それを素直に感じ、

私自身も慶に満ちることを

あえて

これからのテーマに

しよう、と、

 

そう思ったのだ。

 

もちろんこれまでも

「慶」は得ていたが、

これからは、

もっともっと

そこに身を委ねてみよう、と。

 

で、

がんばり過ぎないで

おこう、とも思った。

 

あと27年は

私は最速で進みたい

のだが、

 

最速で進むためには

がんばり過ぎないことが

これからは

大事だな、と。

 

「進め!」

よりも

「慶を得る」

の方が、

私は速く進めそうだ。

 

という風に

気づいたわけさ。

 

あなたの

これからの

一本道は

どうだい?

 

どんな

名前かな?

 

どんな

テーマかな?

 

つづく

 

だいぶ自由になってきた

 

ふと、昨日、

ちょうど一年前のこのブログの

記事を読んでみた。

 

実は私は

自分の書いた過去記事を

ほとんど読み返さない。

 

だから、

ブログを毎日

お読みいただいている

クライアントの皆さんの方が

私よりも

ブログの内容に詳しかったり

する。(苦笑)

 

以前もあるクライアントさんが

「たけうちさん、

こんな文章を見つけたんですよ」

と、

コーチングセッションの最中に

その文章を私の前で

朗読された。

 

「へぇ、なかなか

いい文章ですね。

その人に会ってみたいですね」

 

と私が言うと、

 

「何言ってるんですか。

たけうちさんのブログの

文章ですよ」

 

と、

笑えない冗談のような

やりとりがあった。

 

まぁそれはともかく、

 

珍しくもふと昨日、

ちょうど一年前の自分の

文章を読み返して

みたのだ。

 

すると、

内容云々ではなく、

ある重要なことに

気づくことができた。

 

今の私は

一年前よりも

随分と自由に

文章を書いているな。

 

気づいたのだ。

 

・・・・・・

 

これ、

実は、とても重要な

ことだ。

 

私が躊躇なく

文章を書けるということは、

 

世の中全体の

真本音度合いが

高まっている

ということなのだ。

 

正直、

今の私が完全に

自由か?

と問われれば、

 

まだまだ

躊躇しながら

この文章も書いている。

 

不特定多数の方々が

読まれる文章なので、

当然と言われれば

当然なのだが、

 

私としては

いつも

自分の中にある文章を

そのまま表出している、

というよりも、

 

この文章を書くときは、

常に意識は

「外」に向かっており、

 

「外」との

無意識レベルでの

キャッチボールを

丁寧に行ない、

 

その結果としての

文章を書いている。

 

だからおかげさまで

よく、

「昨日のあの記事、

私のことでしょ」

クライアントさん達から

おっしゃっていただける。

 

それはとても

嬉しいことだが、

でもいつも

誰かを特定して

書いているのではなく、

 

世の中全体との

キャッチボールをしながら

書いている

イメージなのだ。

 

今日も、

そうなんだけどね。

 

そして

その結果として

私が自由に書けるように

なってきたということは、

 

取りも直さず、

世の中全体の

自由度合いが高まっている

ということだ。

 

それが単純に

嬉しい。

 

ただ、

まだまだだけどね。

 

・・・・・・

 

そう言えば最近、

やたらと私の頭の中に

 

「自由」

 

という言葉が

浮かんでくる。

 

自由度合いが

高まる

 

ということと、

 

真本音度合いが

高まる

 

ということは

私はイコールであると

思っているのだが、

 

しかし、

 

「自由」という言葉を

使うと、

とてつもない誤解を

与えることもある。

 

例えば、

最近よく

若い人達から聴く言葉

として、

 

「私は自由に生きたい。

だから

好きなことしかやらない」

 

というものがある。

 

しかしその言葉を

聴くたびに私は、

 

「あぁこの人は

不自由な人だなぁ」

 

と思ってしまう。

 

自由を

履き違えているのだ。

 

だから、

「自由」

ということについて、

 

このブログでは

これから頻繁に

扱っていきたいかな、

とも

思っている。

 

・・・・・・

 

世の中は

本質的な意味で

今、

 

自由度合いを

高めている。

 

・・・と実感している。

 

だからこそ

本来の自由が

広まるように、

 

そんな願いを込めて、

さらにこのブログも

続けていきたい。

 

つづく

 

もっとちゃんと生きようよ

 

私達は、

今この瞬間、

 

「今ここ」

 

にいる。

 

他のどこにも

いない。

現実のレベル

では。

 

体は

一つしかない

からだ。

 

「今ここ」

 

が唯一の

現実。

 

人生を大切にする

とは、

現実を大切にする

こと。

 

つまりは、

「今ここ」を

大切にすること。

 

・・・・・・

 

ところが、

 

「今ここにいる自分」

「本来の自分ではない」

言う人がいる。

 

いやいや、

あなたは

あなたでしょ。

 

「本来の自分」として

「今ここ」に

いようよ。

 

そう言うと、

 

「ここでは本来の自分を

出せないから」

 

と返ってくる。

 

もちろん

出せないことも

あるよね。

 

でもちょっと

環境のせいに

し過ぎてないかい?

 

この会社では

〜〜できない。

 

この仕事では

〜〜できない。

 

この人とでは

〜〜できない。

 

・・・

 

それを言っている内は

どの環境にいても

同じことだ。

 

ずっと

「本来の自分」で

生きることはできない。

 

なぜなら、

環境のせいにする

生き方は、

私達の真本音が

望んでいない生き方

だから。

 

私達の真本音は、

「環境は関係ない」

と思っている。

ちょっと短絡的に

言えば。

 

「どの環境でも、

自分らしく生きよう」

 

と思っている。

 

「どの環境でも、

本来の自分として

生きよう」

 

と思っている。

 

もちろん

難しいこともある。

 

でも、

 

「本来の自分として

今この環境で、

今ここの現実に

向かっていこう」

 

という

意志をとても

大切にしているんだ。

 

これを大切にする人は、

真本音が活性化し、

 

真本音度合いが

著しく高まる。

 

どんな環境でも

「今ここ」を

大切にする。

 

それが

人生を大切にする

ことだ。

 

自分を大切に

することだ。

 

そして

それができる人に

こそ、

 

結果として、

 

現実が

開かれていく。

 

環境が徐々に

自分の味方に

なっていく。

 

自分と環境の

調和が

起こり、

 

自由が増えていく。

 

・・・・・・

 

この仕事は

私が選んだ仕事

じゃない。

 

この仕事は

与えられたから

やっていることだ。

 

だから

私らしくは

仕事できない。

 

いやいやいや。

 

それやっていると

一生、

天職には出会えないから。

 

どんな仕事でも

自分らしく

取り組もうと

しようよ。

 

「今ここ」

にある

自分のすべきことに

対して、

 

魂を

込めようよ。

 

つづく

 

良いセルフコーチングをするには

 

私はよく

セルフコーチングを

する。

 

つまりは、

自分に問うて

自分で答えを出す、

ということを

じっくりと落ち着いて

する。

 

それは

街中にあるカフェで

行なうし、

電車の中でも

行なう。

 

私の場合、

結構、雑踏が好きだ。

 

周りがガヤガヤしていて

人の気配があって、

いろんな「人生」が

私の周りに

溢れている状況が

良い。

 

電車に乗るときも、

ガラガラよりも

ある程度混み合って

いた方が良い。

 

そうだな。

 

一番いいのは、

座席がすべて埋まっていて、

立っている人が

チラホラいる。

 

これくらいが

ちょうどいい。

 

私はいつも電車では

立って

セルフコーチングをする。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングを

するときは、

 

まずは、

 

自分の中に今、

「どんな問いがあるか?」

を探る。

 

探る、と言っても

頭で考えるわけではない。

 

自分自身の

「等身大」

を感じながら、

「無心」

になるのだ。

 

「ただそこに在るだけ」

 

という状態に

なる。

 

そして、

待つ。

 

ただ、

待つ。

 

すると、

私の中にある問いが

自然に

浮上してくる。

 

それはまさに

「浮上」

という言葉がピッタリだ。

 

別の表現を使えば、

「思い出す」

感覚に近い。

 

つまりは、

「問いを創り出している」

わけではないのだ。

 

「そこに在るものを

見つける」のだ。

あくまでも。

 

そういった問いが

見つかれば、

自動的に

「答え」もわかる。

 

なぜなら

「そこにある問い」には

必ず、

「最善の答え」がセットで

ついているからだ。

 

「最善の答え」がわかれば、

人生も仕事も

実に楽に

進むことができる。

 

・・・・・・

 

しかし

セルフコーチングの前提である

 

「等身大で無心になる」

 

というのが、

一般的には

難しいようだ。

 

これができるように

なるためには、

 

心の中の

状態管理ができなければ

ならない。

 

心がいつも

混沌・混乱していては

 

もしくは、騒がしい状態で

あっては

 

なかなか「無心」には

なれない。

 

じゃあどうすれば良いか?

と言うと、

 

これはやはり

「真本音度合いを上げる」

しかない。

 

真本音度合いの

高い人ほど、

 

心や魂は

静かになっていくからだ。

 

だから、

セルフコーチングのやり方を

お伝えする場合には、

 

まずはどうしても

真本音度合いの高め方を

お伝えしなければ

ならない。

 

真本音度合いが

高まらずして

良いセルフコーチングは

できないのだ。

 

と同時に、

良いセルフコーチングが

できることで

真本音度合いは

さらに高まっていく。

 

その好循環を

創り出すことが

重要だ。

 

・・・・・・・

 

というわけで、

そろそろ

セルフコーチングの講座を

再開しようかと

思っている。

 

11月くらいに

開講できると

いいかなぁ。

 

そこでは

真本音度合いの高め方

から

入っていくことになるだろう。

 

そのうち、

募集動画を創ると

思いますので、

 

ご興味ある人は

コメントください。

 

動画が出来上がりましたら、

お送りします。

 

つづく

 

その美しさに泣く

 

大の大人が

泣く姿を

私は随分と見てきた。

 

その姿の多くは、

美しかった。

 

なぜならそれは

解放・開放の

涙だったから。

 

泣くのは決して

悪いことではない。

 

私も真本音度合いが

高まってから

本当に涙もろくなった。

 

自分の心が

形になって現れるのは、

決して

悪いことではない。

 

・・・・・・

 

真本音の涙

というものがある。

 

心が泣く、

というよりも

魂が泣いている

場合だ。

 

この違い、

わかるだろうか?

 

よく、

「なんで自分が

泣いているのかさっぱり

わからない」

言いながら

泣き続けるクライアントさん

がいる。

 

この場合は大抵、

魂の涙だ。

 

・・・・・・

 

私は人前では

泣かないことにしている

のだが、

 

どうしても

堪えられないことが

ある。

 

それは、

クライアントさんが

ずっと超えられなかった

壁を

乗り越えた瞬間、

というケースもあるが、

 

それよりも多いのは、

 

人と人が

関係性を本質的に

大きく塗り替える瞬間

だ。

 

人というのは

本当に大変で、

 

心のレベルではなく、

魂のレベルで

憎しみ合っている

関係がある。

 

それが

会社の幹部さん同士

というケースも

実に多い。

 

そういった関係は

もう、

誰もが修復は無理だ

と思い込んでいる。

 

もちろん

何をしても不可能な場合も

あるのだが、

 

それでもそれを

乗り越える人達も

いる。

 

あらゆる憎しみを

乗り越えて、

再び繋がり合う人達。

 

それを目の当たりに

した時、

 

私は自分の涙を

堪えられなくなる。

 

・・・・・・

 

憎しみほど、

超えるのに大変な

ものはない。

 

でも、

それを超える人々を

私はたくさん

観てきた。

 

目に

焼き付けてきた。

 

その度に

私は、

 

人の美しさ

 

を実感した。

 

人は

醜い部分は

いっぱいある。

 

その醜さ故に

私も

死にそうになったことは

何度もあるが、

 

それでもやはり、

人は

美しい。

 

そこに私は

目を奪われるのだ。

 

つづく

 

真本音度合い100%とは

 

真本音、真本音、と

もう16、7年言い続けて

いるので、

もちろん私は

真本音100%で

生きている。

 

ただ、100%になれたのは

わずか9年ほど前だ。

 

2010年3月のことだ。

 

ある企業様での

研修の真っ最中。

 

ちょうどミッションについて

講義をしている

最中だった。

 

皆さんの前で

喋りながら、

 

あっ、今、100%に

なれたな、

 

と明確にわかった。

 

そしてその瞬間に

よ〜く理解できた。

 

真本音100%になる

とは、

別人になることでも

特殊な自分になることでも

何でもない、と。

 

「普通の自分」

になることだ、と。

 

「本来の自分」

に戻るだけのことだ、と。

 

と同時に

わかったのは、

 

あぁそうか。

みんな、「本来の自分」では

ない状態で

生きているのだ、と。

 

余分なものを

いっぱいいっぱい

持ちながら

生きているのだ、と。

 

もっと

シンプルに生きれば

いいだけなのに。

 

余分な一言を言い、

余分な行動をし、

余分な寄り道をし、

余分な波紋を広げ、

余分な波に自ら

溺れてしまう。

 

今この瞬間の

ちょっとした

振る舞い。

 

ちょっとした

言動。

 

それらを

本来の自分として

シンプルにすれば

良いだけのこと。

 

ということが、

感覚で理解できた。

 

なんだ、

極めて普通のことじゃ

ないか、

と思えた。

 

そして、

誰もがそれは

できるはずだ、と

確信した。

 

だから私のサポート

とは、

皆さんが

「本来の自分」に戻る、

そのきっかけを

与えることなんだ、と

明確にわかった。

 

その時から私は

それ以上のことは

何もやっていない

気がする。

 

だって、

「本来の自分」に

戻れたら、

その人は

本来の人生を自然に

歩み始めるし、

 

その人の願いは

自然に

成就されていくから。

 

だから私は

その人の願い実現のサポート

をしている

わけではない。

 

あくまでも、

その人が

日々の一歩一歩を

本来の自分として

踏み出すための

サポートだ。

 

その人が

真本音100%になるための

サポートだ。

 

・・・・・・

 

真本音100%になってからは、

私の毎日は

極めて「普通」になった。

 

今日、やろうと思うことを

やる、

だけ。

 

今日、やらないと思うことは

やらない、

だけ。

 

一日一日を

淡々と過ごすだけなのだが、

なぜか

幸せ度合いは

毎日、とてつもなく

増していく。

 

それは

今でもそうだ。

 

状況も変わった。

 

意図したわけでは

ないのに、

次々と願いが叶うように

なった。

 

願いと言っても

大きな願いだけでなく、

日常のほんの些細な願いも

いつの間にか

一つ一つ着実に

叶っていく。

 

もちろん、

上手くいかないことは

ある。

 

失敗したな、

と思うこともある。

 

でもそれを

後悔することはない。

 

すべてが必要な

試行錯誤だと

よくわかる。

 

そこで得られるものが

必ずその後に

活かされる。

 

着実に

人生の願いに向かって

進んでいる実感が

毎日、ある。

 

先日、

私の仲間の一人から

 

「たけうちさんって

いつも飄々としてるでしょ」

 

と、

さもそれが当たり前の

ように言われたが、

私としてはまったく

自覚がなかった。

 

「飄々」なんて、

私の真逆の生き方だと

ずっと思っていた。

 

でもよく考えたら、

確かに

余分な力は入っていない

かもしれない。

 

昔はいつも

「肩に力が入り過ぎ」

と言われたもんだが。

 

・・・・・・

 

飄々としているのは、

私の本来の個性で

あって、

 

真本音100%になったから

と言って、

すべての人が

飄々とするわけではない。

 

その人には

その人の

本来の個性がある。

 

それが出るだけで、

周りの人達からは

「自然体」

と見られるのだろう。

 

私は

すべての人が

自然体で生きることが

できたらいいなぁ、と

本当に思う。

 

今の世の中じゃ無理だよ、

と思われるかも

しれない。

 

いやいやいや。

 

自然体とは、

環境には寄らないものだ。

 

どの環境でも

自然体でいられるのが

本来の自然体だ。

 

そして自然体とは、

「穏やか」

ということとも限らない。

 

怒ったっていい。

 

気が短くても

いい。

 

ただ、

自然体ではない状態で

怒ったり、気が短い人が

多いのが

今の世の中。

 

自然体であれば、

「すべて」と

調和する。

 

真本音100%とは、

自然体の生き方

だ。

 

つづく

 

進む方向に進もう

 

一つの方向に

まるで吸い込まれる

ように、

人生の展開が

進むことがある。

 

そっちに行くのは

まったく意図してないし、

むしろ

そっちに行くのは

気が進まないのに、

 

なぜか

その方向に

進んでしまう。

 

そんな時は

委ねてしまおう。

 

個人の

自分の

思惑を

手放してしまおう。

 

これは

迎合ではないし、

優柔不断でも

ない。

 

自分自身の

真本音と

顕在意識が

乖離してしまっている

だけのこと。

 

私達の顕在意識は

やはりどうしても

「クセ」

がある。

 

これまでの人生経験の

中で培ってきた

クセだ。

 

だから

反応本音レベルのクセ

が多い。

 

その「クセ」からすると

今は絶対に

右に進むべきだと

思うのに、

 

なぜか

展開はすべて

左に進んで行く。

 

いやいやいや

ここは右でしょ!

 

と思うのだが、

どうしても左に

進んで行ってしまう。

 

それは、

これまでの「クセ」を

超える時期に来ている

ということだし、

 

それを強い意志で

(つまりは真本音の意志で)

あなた自身が

進めようとしている

ということだ。

 

顕在意識レベルの

思惑や意図は

手放し、

 

自らの真本音の

意志に

委ねてしまおう。

 

そうして

新たな自分を

開拓しよう。

 

つづく