世界と自分は今、
どれだけ
「一つ」だろうか?
・・・このような問いを
考えたことはありますか?
もし今この問いを
自分に投げたとしたら、
どのような答えが
自分の中から返って来ますか?
私達の意識は
次元が低くなればなるほど、
すべてと分離していきます。
そして
次元が高くなればなるほど
すべてと「一つ」になります。
すべてと
「一つ」になっている自分と、
すべてと
分離している自分が、
共存しているのが
私達人間の心の中です。
様々な階層の次元が
共存しているのが
私達人間という生き物です。
今、
どの次元の自分を
前面に出して生きているか、
によって
人生の展開は
大きく変わります。
最近、
本当によく聴く声が、
「これまでの人生で
最大の試練に
ぶち当たっています」
という悲痛な叫びです。
外的な要因も
さることながら、
内面の自分がすべて
壊れてしまいそうなくらいに
揺れ動かされています。
我を失う、
という状態。
心の中の
大地震。
あらゆるものが
無に帰すような
恐怖。
まったく道の見えない
絶望感。
その中で
もがいている人。
もがくことすらできずに
茫然と佇む人。
そのような人が
増えています。
そのような時に
絶対にしてほしくないことが
一つあります。
それは、
「この試練には
どのような意味があるのだろう?」
と考えることです。
試練の意味を考える。
・・・それは一見すると
前向きな行為ですが、
私はそれを
現実逃避の第一歩であると
いつも実感します。
意味を考え
答えを見出す。
もしそれで簡単に答えが
見つかるのであれば、
その試練は
試練とは言えません。
あくまでも自分の範疇で
試練のふりをし、
悩んでいるふりを
しているだけのこと。
悩みながらも、
自分が進まない理由づけを
して人生をサボっている
だけのことです。
本当の試練の中にいる時、
その試練の意味は
決してわかりません。
もし無理に答えを
見出せば、
それは「間違った答え」です。
間違った答えに基づいて
試練を乗り越えようとすれば、
その試練の本当の意味から
結果的に逃げることに
なってしまいます。
本当の意味は
後からわかります。
その試練を乗り越え、
その試練が去り、
さらにその後の新たな道を
進む途上で初めて、
ある時ある瞬間に
必然的に「気づき」がきます。
その瞬間が来るまで
その試練の意味は
考えないでください。
ただ単に、
試練に身を委ねて
ください。
試練に身を委ねるとは
何もしない、
ということではありません。
試練と
対峙するのです。
向き合うのです。
武器は持ちません。
裸になるイメージで
あるがままの自分を
試練の前にさらします。
肩の力を抜き、
正面から試練を
見つめます。
観察をします。
その結果、
心は大揺れに揺れ、
我を失うかもしれません。
しかし
それでも良いのです。
それでも
身をさらします。
あえて言えば、
すべてを
あきらめる
のです。
開き直る
のです。
開き直りとは
すべてを手放した状態
です。
その状態に入れた時、
人は言いようのない強さを
発揮しますが、
それは意図をして
できることではありません。
私達にできるのは、
何があっても
あるがままの自分として
その試練に
身をさらそうと
し続けることです。
試練を乗り越えるか、
試練が去るまで、
それを続けます。
試練が永遠に続くことは
ありません。
試練から解放された時、
自分自身に
問うてみてください。
世界と自分は今、
どれだけ
「一つ」だろうか?
・・・と。
もし、
試練の前よりも格段に
「一つ」になれたかな、と
思えれば、
その後、必然的に
その試練の意味は
わかるでしょう。
なぜならそれは、
自分自身が次元を一つ
上がれた証拠だからです。
一つの次元が上がる
ということは、
景色が変わるということです。
新たな次元に立たなければ
見えない景色があります。
その景色を前にした時に
初めて、
その試練の意味は
明確にわかるでしょう。
人生というのは
その繰り返しですね。
つづく