試練

その試練に意味はある?

 

あぁ、なるほど!

と思う。

 

そういうことか、

と。

 

あとですべて

合点が行く。

 

そんな瞬間が

来る。

 

私はその瞬間が

来るまでは、

物事の意味を

あえて

考えないようにしている。

 

よく、

前向きに物事を

捉えようとする傾向の人に

多いのだが、

 

どんな物事にも

意味を見出そうと

する。

 

それ自体は

大事なことだが、

それを

頭で解釈しているのは、

実は

オススメできない。

 

確かに

物事には意味が

ある。

 

その意味を摑むことも

大事だが、

それは「解釈」すること

ではない。

 

むしろ

解釈することで、

本来の意味とは

別の意味を

自ら見出し、

本来学ぶべきことを

学ばずして、

 

もしくは

学んだつもりになって

 

次の一歩に向かって

しまう。

 

そしてそれにより

様々な不調和が

起こる。

 

極端な例だが、

以前に

ものすごく体調不良に

悩まされている人がいて、

 

しかしその人は

「この体調不良には意味が

あるんです。

ここをしっかりと乗り越えなさい

という思し召しなんです」

言われていたが、

 

私は思わず、

「早く医者に行きなさい」

言わざるを得なかった。

 

前向きな人は

特に、

「試練」を意味あることとして

必然的なものとして

前向きに捉えようと

する傾向が高いが、

 

それも大事なんだけどね、

でもあえて

極端に言うよ、

 

そんな、

試練ばかりに向かうよりも

もっと

楽な道を行こうよ。

 

あえてもっと

極端に言っちゃおう。

 

試練にわざわざ

向かうなんて、

暇なんじゃない?

 

・・・と。

 

試練探しをして

自己満足している人は

残念ながら

多い。

 

物事に意味を見出そうと

する人ほど

その傾向が高いのは

本当に残念だ。

 

しかし。

 

私達にはもっと

やるべきことが

あるのではないか?

 

もっと

そんなことよりも

全力を尽くすべきことが

あるのではないか?

 

自分自身との

(自分の真本音との)

約束があるだろう。

 

人生の願いが

あるだろう。

 

そこに

向かおうよ。

素直に。

 

そして、

真剣にそこに

向かおうとする人は、

常に、

 

真剣に

最も楽な道を

見出そうとする。

 

そして

一つ一つの物事、

自分に降りかかる

あらゆる現実を

 

真摯に

受け止める。

 

真摯に受け止めはするが、

解釈はしない。

 

ただ、

受け止めるだけ。

 

それをすれば、

ある時ある瞬間に

必ず

「わかる」ときは来る。

 

あぁなるほど、

そういうことだったか、

と。

 

これも一つの

人生の醍醐味では

ないか。

 

つづく

 

試練に意味を求めないで

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・このような問いを

考えたことはありますか?

 

もし今この問いを

自分に投げたとしたら、

どのような答えが

自分の中から返って来ますか?

 

私達の意識は

次元が低くなればなるほど、

すべてと分離していきます。

 

そして

次元が高くなればなるほど

すべてと「一つ」になります。

 

すべてと

「一つ」になっている自分と、

すべてと

分離している自分が、

共存しているのが

私達人間の心の中です。

 

様々な階層の次元が

共存しているのが

私達人間という生き物です。

 

今、

どの次元の自分を

前面に出して生きているか、

によって

人生の展開は

大きく変わります。

 

最近、

本当によく聴く声が、

「これまでの人生で

最大の試練に

ぶち当たっています」

という悲痛な叫びです。

 

外的な要因も

さることながら、

内面の自分がすべて

壊れてしまいそうなくらいに

揺れ動かされています。

 

我を失う、

という状態。

 

心の中の

大地震。

 

あらゆるものが

無に帰すような

恐怖。

 

まったく道の見えない

絶望感。

 

その中で

もがいている人。

 

もがくことすらできずに

茫然と佇む人。

 

そのような人が

増えています。

 

そのような時に

絶対にしてほしくないことが

一つあります。

 

それは、

「この試練には

どのような意味があるのだろう?」

と考えることです。

 

試練の意味を考える。

・・・それは一見すると

前向きな行為ですが、

私はそれを

現実逃避の第一歩であると

いつも実感します。

 

意味を考え

答えを見出す。

 

もしそれで簡単に答えが

見つかるのであれば、

その試練は

試練とは言えません。

 

あくまでも自分の範疇で

試練のふりをし、

悩んでいるふりを

しているだけのこと。

 

悩みながらも、

自分が進まない理由づけを

して人生をサボっている

だけのことです。

 

本当の試練の中にいる時、

その試練の意味は

決してわかりません。

 

もし無理に答えを

見出せば、

それは「間違った答え」です。

 

間違った答えに基づいて

試練を乗り越えようとすれば、

その試練の本当の意味から

結果的に逃げることに

なってしまいます。

 

本当の意味は

後からわかります。

 

その試練を乗り越え、

その試練が去り、

さらにその後の新たな道を

進む途上で初めて、

ある時ある瞬間に

必然的に「気づき」がきます。

 

その瞬間が来るまで

その試練の意味は

考えないでください。

 

ただ単に、

試練に身を委ねて

ください。

 

試練に身を委ねるとは

何もしない、

ということではありません。

 

試練と

対峙するのです。

 

向き合うのです。

 

武器は持ちません。

 

裸になるイメージで

あるがままの自分を

試練の前にさらします。

 

肩の力を抜き、

正面から試練を

見つめます。

 

観察をします。

 

その結果、

心は大揺れに揺れ、

我を失うかもしれません。

しかし

それでも良いのです。

 

それでも

身をさらします。

 

あえて言えば、

すべてを

あきらめる

のです。

 

開き直る

のです。

 

開き直りとは

すべてを手放した状態

です。

 

その状態に入れた時、

人は言いようのない強さを

発揮しますが、

それは意図をして

できることではありません。

 

私達にできるのは、

何があっても

あるがままの自分として

その試練に

身をさらそうと

し続けることです。

 

試練を乗り越えるか、

試練が去るまで、

それを続けます。

 

試練が永遠に続くことは

ありません。

 

試練から解放された時、

自分自身に

問うてみてください。

 

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・と。

 

もし、

試練の前よりも格段に

「一つ」になれたかな、と

思えれば、

その後、必然的に

その試練の意味は

わかるでしょう。

 

なぜならそれは、

自分自身が次元を一つ

上がれた証拠だからです。

 

一つの次元が上がる

ということは、

景色が変わるということです。

 

新たな次元に立たなければ

見えない景色があります。

 

その景色を前にした時に

初めて、

その試練の意味は

明確にわかるでしょう。

 

人生というのは

その繰り返しですね。

 

つづく