一つ

向き合う、の本質

 

人生をかけて

一つの楽器を探究し続けている

ある演奏家が

 

その楽器を弾いていると、

 

自分がその楽器を

弾いているのか、

 

自分がその楽器から

弾かれているのか、

 

わからなくなる、

 

という話を

聴いたことがある。

 

つまり、

 

自分と楽器の

区別が

つかなくなるらしい。

 

そうなると

完全に

自分という範疇を超えた

メロディーが

流れ出すらしい。

 

そしてそのメロディーを

聴きながら、

さらに

そのメロディーに

委ね、

 

自分と楽器と

メロディーと、

 

それらの区別が

つかなくなる

らしい。

 

実はこれ、

 

すごくよくわかる。

 

私もコーチングで

クライアントさんと

向き合っていると、

 

よくその状態に

なる。

 

自分と目の前の

クライアントさんとの

区別がつかなくなる。

 

今、語っている

その言葉が、

 

自分の言葉なのか

クライアントさんの

言葉なのか、

 

よくわからなく

なる。

 

しかしそういう時に

こそ、

 

びっくりするような

感動的な発想が

生まれる。

 

だけど、それは

後でそう思うことで、

その時その瞬間は

その発想そのものが

 

自分である、

 

という感覚なので、

そこにその発想が

存在すること自体が

 

とても自然で、

 

そこにその発想が

あるのが当たり前

 

という感覚だ。

 

恐らく私は

その状態こそが、

私達人間が

最も創造性に富んでいる

状態なのだろうと

思っている。

 

楽器と向き合う。

 

人と向き合う。

 

それは本質的には

同じことだ。

 

向き合う

ということには

それ自体に

力があり、

 

それこそが

私達人間本来の

力だ。

 

私達は

向き合うための

存在

とすら思えてくる。

 

向き合わずして

何が人間か、

とすら思うのだ。

 

向き合うことで

私達は

 

「一つ」

 

になる。

 

一つになることで

創造が始まる。

 

ただし、

 

無理に一つに

なる必要はないし、

 

上記で書いたような

相手と自分の

区別がつかなくなる

というところまで

行く必要もない。

 

むしろ、

むやみにそこまで

入り込むことは

しない方が良い。

 

ただ、

 

感覚として、

 

あぁこの人と私は

今、

一つになれている感覚が

ちょっと芽生えてるな、

 

くらいが

ちょうど良い。

 

相手と自分を

ちゃんと分離して

区別している自分と、

 

相手と自分が

それでもどこか

一つになれている

感覚と、

 

その両方を感じ取れる

状態。

 

これが

ベストだ。

 

そしてこの状態には

誰もがなれる。

 

向き合えば

良いだけだ。

 

向き合うことに

慣れればいい。

 

向き合うとは、

意識を相手に

向け続けること。

 

それを真摯に

やり続けるだけだ。

 

つづく

 

あれか・・・

 

星が

観えてきた。

 

斜め上、前方

遥か彼方

だが。

 

でも、

これまで一度も

観えなかった

星が

ついに姿を

現した。

 

これからは

ずっと

それを

見つめればいい。

 

そこを

目指せばいい。

 

そうすれば

私は

生まれてきた

意義を果たせる。

 

わかる。

 

・・・・・・

 

誰にでも

「星」はある。

 

それを

見つけ出せるのは

大いなる悦びだ。

 

皆、

そうなれると

いい。

 

もちろん

その「星」は

あなたの中に

ある。

 

誰もの

中にある。

 

しかしそれは

「外」に

観える。

 

内側には

決して

見つからない。

 

「内」と「外」が

一致してこそ、

それは

観えるのだ。

 

・・・・・・

 

「内」と「外」の

一致。

 

これが

我々人間の

目指すもの。

 

しかしそれは

「最初に目指すもの」

だ。

 

それが

実現すれば、

次はその「星」そのものを

目指すことになる。

 

不一致を

一致させる人生と、

 

一致した上で

進む人生。

 

どちらも

充実したものだが、

その「充実」を

味わうことが

人生の醍醐味だ。

 

結果よりも

過程に我々は

幸せを感じ、

 

幸せを感じながら

進むからこそ

結果が出る。

 

そういった意味で

過程と結果は

「一つ」だ。

 

・・・・・・

 

我々の中で

別物だと

思っていたもの、

 

分離

していたもの、

 

それらが

すべて

「一つ」になっていく。

 

それが

我々の

「正しい人生」だ。

 

別に人生は

正しくなければ

ならない、

というわけではない。

 

しかし

何が「正しい」か?

 

何を

「正しい」と

我々は決めているか?

 

知っておいた方が

いい。

 

皆、誰もが、

「正しい人生」は、

今、この瞬間から

始めることは

できるのだしね。

 

つづく

 

わからないけどよくわかる

 

私の周りには、

子どものような人が

多い。

 

いや。

 

その言い方は

語弊があるな。

 

子どものような

純粋さを持った人が

多い。

 

・・・だな。

 

彼らは

未来を語るときに、

実に

キラキラした目で

語る。

 

未来がはっきりと

観えている

わけではない。

 

むしろ

暗中模索の人が

多いのだが、

 

しかしそうであっても

未来に向かう

眼差しは、

実に清々しい。

 

「未来の自分」

とすでに

つながっているのだ。

 

・・・・・・

 

私達の高い次元の

意識では、

 

「時間」は

分離していない。

 

過去も今も未来も

「一つ」

である。

 

「すべて」が

ここにある。

 

真本音度合いが

高まることで、

自らのそんな意識を

常に感じ取れるように

なる。

 

この世で生きている

私達の意識は

もちろん、

 

すべてと「分離」

している。

 

あなたと私は

別物だし、

 

目の前のパソコンと

私も別物だ。

 

空気と私も

別物だし、

 

自動車と私も

別物。

 

時間と私も

別物だ。

 

それが通常の

私達の意識であるが、

 

それとはまた

別のところで

「すべてと一つ」である

自分自身の意識が

ある。

 

それがいわゆる

高い次元の意識

なのだが、

 

そんな自分を

常に実感しながら、

 

分離している意識と

共に

生きるようになる。

 

それが

真本音度合いの高い

生き方である。

 

つまりは、

「すべてと一つの自分」

「すべてと分離した自分」

コラボである。

 

このコラボが

本当に面白い。

 

人生の醍醐味とは

ここにあるのでは

ないか。

 

・・・・・・

 

だから、

未来が観えなくとも

未来と一つである

自分が

ここにいる。

 

自分が未来で

創り出す現実は

具体的にはわからなくとも

 

でも、

未来のことは

よくわかっている。

 

自分が

何をすべきか?も

わからないのに、

よくわかっている。

 

わからないのに

よくわかっている

自分として、

今、ここで

未来に思いを馳せる。

 

そんな時

人は、

子どものような

純粋な瞳と表情に

なるのだろう。

 

・・・・・・

 

私にも

かなり壮大なビジョンが

ある。

 

現時点では

本当にそれが

成されるのか

さっぱりわからない。

 

具体的に

どうすればいいのか、

どんな状態を

創り出せばよいのか、

 

わずかしか

観えていない。

 

しかしそれでも、

「それができる」

ことは

確信、・・・というよりも

宇宙の真理くらいに

「当たり前」だと

思っているし、

 

今、私の周りにいる

人達は、

そんな私のビジョンに

直結する人達ばかりだ、

というのも

よくわかる。

 

そして

その輪はこれからさらに

加速的に

広がっていく

のもわかる。

 

わかってないけど、

よくわかる。

 

今ここに生きる

自分として、

 

ここからの一歩一歩を

これまで以上に

楽しみながら

進もうと思う。

 

つづく

 

本当は、あなたは私なんだ

 

私は私。

 

あなたは

あなた。

 

私と

あなたは

別物だ。

 

という

認識。

 

これがこの世の

常識であり

事実だ。

 

しかし、

本当は

実在のレベルの

次元の高い

ところでは、

 

私はあなた

であり、

あなたは私

であり、

 

すべては一つ

 

だ。

 

しかし

こんなことを書くと

 

「わけがわからない」

 

と思われてしまう

可能性の方が

高い。

 

でもこれは

確かに真実であり、

私達はすでに

これまでの人生で

こういったことを

何度も経験

してきているはずだ。

 

・・・・・・

 

例えば、

共に何かに

熱中している時。

 

大好きなアーティストの

ライブとか。

 

誰かの

応援とか。

 

合唱などで

一緒に歌っている

時とか。

 

そこにいるみんなが

本気を出して

同じものを

共有し、

同じことに

意識を向けている

時などは、

 

自分と周りとの

区別が

つかなくなっている

と思う。

 

皆が

一体化している。

 

例えば、

人と向かい合っている

時。

 

本当に意気投合し、

共感し、

ワクワクしながら

話し込んでいると、

 

自分とその人は

一体化している

はずだ。

 

時間とも

一体化し、

知らぬ間に

何時間も経っている

という

こともある。

 

それが

すべては一つ

となっている

状態だ。

 

これは正確には

「一つになる」

というよりも、

 

「もともと一つだと

いうことを

思い出している」

 

状態だ。

 

次元の高い

状態。

 

これが、

日常において

当たり前と

なったとしたら、

 

世の中は

もっと素晴らしいものに

なると

思えないかな?

 

・・・・・・

 

一つになっている

状態は

 

本来は

特別な状態では

なく、

 

何かに

高揚している

状態でもなく、

 

非常に

静かで

力が抜けていて

普通で

 

自然な

状態だ。

 

実は、

真本音度合いが

高まり、

人としっかりと

向き合うと、

 

いつも

この状態が

当たり前となる。

 

むしろ、

そうでない時の

方が

「珍しい」状態で、

 

違和感を

覚えてしまう。

 

そして、

その状態で

発想される

あらゆることは、

 

とても

創造性に

富んでいる。

 

一人で発想する

よりも

数十倍もの

素晴らしい発想が

生まれる。

 

人と人が

向き合うとは、

 

本来の私達、

つまりは

一つである私達を

思い出す

最も簡単で

自然な方法なのだと

 

私は

思っている。

 

・・・・・・

 

もっと

人と人は

向き合ってほしいな、

いつも思う。

 

でもそれが

できないのには

とても単純な

原因がある。

 

要するに、

 

自分自身と

ちゃんと向き合えて

いないから

だ。

 

自分と

向き合える人は

人とも

向き合える。

 

単純な

ことだ。

 

私が

セルフコーチングの

手法を

多くの方々に

お伝えしたいのは

 

こういった

シンプルな

理由からだ。

 

つづく

 

その人であり、私であり

 

人と向かい合って

いると、

 

その人と

自分との

区別がつかなく

なる時がある。

 

特に

1on1のコーチングを

しているときは

そうだ。

 

決して

その状態を

オススメするわけでは

ない。

 

むしろ

「調和」という

意味においては、

 

その人

自分

 

は、

きちんと分離

していて、

区別ができている

方が望ましい。

 

・・・のだが、

それでも

区別がつかなく

なる時がある。

 

そういった時は

そうなることに

意味があるのだと

 

ある意味

諦めて、

 

私はその状態に

委ねるように

している。

 

すると

当然であるが、

その状態だからこそ

言葉が

私の中から

浮かび上がって

くる。

 

その言葉の

数々は

決して多くはないが、

 

しかし

私の印象としては、

 

「言葉の放流」

 

に感じられる。

 

その言葉達は

私の中から

出るものであり、

 

かつ、

 

その人の

真本音が、

自分自身に対して

向けた

メッセージでも

ある。

 

そのメッセージは

時には

非常に厳しい

ものであるケースも

多い。

 

人と人の

コミュニケーション

というのは

実に奥深い

ものだ。

 

こんなに

区別がつかなく

なるのであれば、

いっそのこと

最初から

「一つ」であれば

いいのに、

 

と思うことも

あるのだが、

 

しかし私達は

「分離」していることに

また

大いなる意味がある。

 

高い次元では

「一つ」

でも

 

低い次元では

「分離」

している。

 

それが

「人間」という

とてつもなく

面白い存在。

 

そんな存在

だからこそ

できることが

あるのだろう。

 

やはりそれは

「進化」。

 

進化とは、

一つのものが

分離し、

また一つに

戻り、

また分離し、

また一つに・・・

 

という繰り返しに

よって

成されて行く。

 

分離している

ものが

一つになろうと

する

エネルギーを

「愛」

と言う。

 

分離していなければ、

愛は

生まれない。

 

愛を生み出すのが

私達「人間」

という存在だ。

 

ということを

区別のつかない

状態のまま

私は実感するのだ。

 

「一つ」を

感じるからこそ、

「分離」している

私のことを

その人のことを

愛おしく思う。

 

この

言いようもない

独特の感覚を

 

私は「コーチ」として

人として

これからも

大事にしていきたい。

 

つづく

 

チームにも魂が宿ります

 

私は年間契約で

継続的に企業様に

サポートに入るケースが

多いのですが、

 

毎月、その企業様に

通い続け、

皆様の真本音度合いが

高まる中で、

 

ある時ある瞬間に、

 

その会社独自の

「真本音の願い」

が誕生するのを

必ず

感じ取ります。

 

この瞬間。

 

これは

言葉では言い表せない

くらいの

嬉しさに

私は満たされます。

 

その会社の

真本音の願い。

 

これは、

個人個人の

真本音の願いとは

また少し

違った次元のものです。

 

例えば

100人の社員さんが

いたとして、

その100人の願いが

すべて集積・集約されて

その会社の願いが

醸成される

わけではないのです。

 

それは、

 

ポンっと

 

まったく新しい

命として

生まれるもの

なのです。

 

・・・・・・

 

よく、

自分の人生の願いと

会社の願いの

共通部分を

見つけ出したり、

増やしたりしながら

働くことが大切です、

 

と言われます。

 

確かに

その通り。

 

その通りなのですが、

私はここで

いつもちょっとだけ

違和感を覚えます。

 

共通部分を

見出すということは、

逆に言えば、

ズレた部分もある、

ということです。

 

もちろん、

自分=会社で

ない限り、

ズレた部分はあります。

 

それは当然ですが、

でもやはり、

私は

違和感を覚えます。

 

自分=会社に

なりなさい、

というお話では

ありません。

 

自分は自分。

 

会社は会社。

 

それは

その通り。

 

でも、

ちょっと違うのです。

 

・・・・・・

 

その会社に

真本音の願いが

生まれると

大きく変わることが

一つあります。

 

それは、

私自身が、

「その会社の真本音」

と語り合えるように

なるのです。

まるで個人の真本音と

語り合うように。

 

会社は

法人と言いますね。

 

それは一人の

人として見立てた

言い回しなのですが、

 

まさしく

会社の真本音の願いが

生まれるということは、

一人の人間が

誕生するのと

同じようなものです。

実在レベルでは。

 

で、私は、

実在レベルで、

その会社の真本音と

語り合いながら

サポートを進めます。

 

多くの場合、

そこからサポートの展開が

大きく変わります。

 

現実の展開が

大きく変わるのです。

 

私から観れば、

そこにいる社員さん達と

その会社は、

 

「一つ」

 

だと、どうしても

思えてしまうように

なるのです。

 

先程も書きました通り、

個人と会社は

別物ですし、

皆さんはもちろん

そう思っています。

 

そこは何も

変わらないのですが、

でも、

どうしても、

皆さんが

 

「一つ」

 

に観えてしまうのです。

 

もちろん

「一つ」だからと言って、

皆さんが

会社人間になってしまう

わけではありません。

 

考え方が

統一されるわけでも

ありません。

 

愛社精神が

一気に高まるわけでも

ありません。

 

仕事に対する

考え方も

変わらないでしょう。

 

それでも

「一つ」

なんです。

 

そして、

「一つ」である皆さんに

私が向かい合うと、

 

今、

誰にどんなサポートを

すれば良いか?

 

という次の一手の

ヒントが

とても掴みやすく

なるのです。

 

その会社が

大きく変わり始めるのは

そこからです。

 

・・・・・・

 

会社も組織もチームも

本来は

「生き物」です。

 

しかし、最初は

魂がそこには

存在していません。

 

ですからそれまでは

単なる

「個人の集合体」

です。

 

でも、

ある時から魂が宿ることで、

それは

「生き物」として

誕生します。

 

そうなることで、

そこにいる人達は

「一つ」

となっていくのでしょう。

 

そして

「一つ」になることで、

ますます

一人一人の個性は

際立ち、

異なる個性同士が

相乗効果を発揮

し始めるのでしょう。

 

この状態に

なるところまでが

まずは私の

サポートの第1幕。

 

そして、

第2幕からが

本当の意味での

躍進ステージに

入っていくのです。

 

つづく

 

あなたは自分と出会えてますか?

いつも私が申し上げること

ですが、

私達が存在している

この3次元の世界は、

すべてが分離している

世界です。

 

分離すればするほど、

次元は下がるわけですが、

分離がいけない

ということではありません。

 

分離をしているからこそ

得られるものは

多いです。

 

学べることも

多いです。

 

例えば、

私とAさんは

別人です。

お互いに分離した存在です。

 

しかし

Aさんと向かい合っていますと、

ある瞬間に

「あっ、一つになれたな」

とわかるタイミングが

きます。

 

そうなると

その時点から

Aさんとのコミュニケーションは

極めて楽になります。

 

Aさんの意図や、

言わんとしていることや、

意図を超えた願いとか、

そういった

「あらゆるものが」

まるで手に取るかのように

わかるようになります。

 

ただし、

「わかる」といっても

それは言語化されたもの

ではなく、

あくまでも「感覚」

です。

 

感覚的に

「すべてをわかり合えた」

と思えるのです。

 

その状態は

しばらく続きます。

 

するとその時間は

実に創造性に富んだ

ものとなります。

 

直観や確信は

もちろん次々に

湧いてきますし、

今後の自分達の歩みにおける

大切なヒントを

見出せたりもします。

 

以前は私は

この状態を意図的に

創り出すことが

できませんでした。

 

でも今は

ほぼ毎回、この状態に

入れます。

 

とはいえ、

相手もいることですから

あくまでもAさんの心や

体の状態によって

対応を変えます。

 

Aさんの心が

反応本音やエンティティに

まみれてしまっているときは

「一つ」になるには

かなりのエネルギーを要しますので、

そういった場合は

あまり無理はしません。

 

大切なのはやはり、

まずは自分自身の

真本音度合いが高まること、

そして、

Aさんの真本音度合いが

高まること。

 

そうなればなるほど

簡単に

「一つ」になれます。

 

・・・・・・

 

相手と一つになれる

コミュニケーション。

 

これを私は

「真本音コミュニケーション」

と呼んでいますが、

この力をつけるための

最短の道が

セルフコーチング力を高める

ということなんです。

 

セルフコーチングというのは、

自分自身の様々な

心と向き合います。

 

それをまるで

他人のように

観察したり感じたり

対話をしたりします。

 

その客観性に慣れて

きましたら、

今度は、

客観的になれた自分に対して

「一つ」になることを

するのです。

 

えっ?どういうこと?

と思われるかもしれませんね。

 

自分の心と分離し、

客観性を高めた上で

また一つになる。

 

・・・じゃあ最初から

自分の心は自分なんだから、

一つなんだから、

わざわざそんなこと

しなくてもいいんじゃないの?

 

そう思われるかも

しれないですね。

 

でも、

違うんです。

 

最初から一つである自分自身の

心のままにいることと、

あえて分離して

また、意図的に一つになるのとでは

本質的にまったく

異なる状態になるのです。

 

なぜなら実は、

私達は本当は

最初は自分の心と

「一つ」になれているわけでは

ないからです。

 

「一つ」になっていると

思い込んでいますが、

実はそれは

「ズレて」います。

 

そう。

 

「ズレている」という表現が

最も正確です。

 

自分の心なのに

自分は心と

「ズレた」関係になっている

のです。

 

そのまま私達は

毎日を生きているのです。

 

ですので、

いったん分離し、

その上でしっかりと

「一つ」になる必要があります。

 

すると、

私達は私達自身の心を

「ありあり」と

感じ取り、理解することが

できるようになります。

 

あぁ私は、

こんなことを思っていたんだ、

こんなことを願っていたんだ、

こんなことで苦しんでいたんだ、

こんなことを喜んでいたんだ、

・・・というように

自分自身のことを、

初めて理解できるのです。

 

それを、

あるクライアントさんは

「自分とやっと出会えました」

と表現されました。

 

そうです。

 

私達の多くは、

まだ

「自分と出会っていない」

のです。

 

自分なのに

自分と出会わないままで

人生を進めているのです。

 

それって、

変ですよね。

 

健康な状態とは到底

言えません。

 

・・・・・・

 

以上のように、

セルフコーチングは

自分自身と

・分離したり

・一つになったり

を自由自在に織り交ぜながら

自己理解を進めます。

 

そしてその中で、

自分の

・真本音の意思と

・反応本音の意思を

区別します。

 

そして

・真本音の意思で動く

度合いを高めていきます。

 

それをすることで、

私達はより

「本来の自分らしく」

なれますし、

「自分の本当に望む人生」

を生きることが

できるようになるのです。

 

つづく

 

恐怖は消してはならない

怖い。

 

恐怖。

 

この気持ちは、

「分離」によって

もたらされます。

 

「自分」と「周り」との

分離です。

 

「周り」を

「世界」と表現しても

よいです。

 

「自分」と「世界」の

分離。

 

「自分」は

自分だけでしか

ない。

 

周りとも世界とも

別物である。

 

「自分」は

自分。

 

これを

分離感と言います。

 

もちろん、

ほとんどの人が

この分離感と共に

生きています。

 

それにより、

人とは、

怖さや恐怖を抱くことが

当たり前であり、

それが

人というものである、

と、

みんな思っています。

 

私達がいるこの

3次元の世界は、

分離感によって

成り立っています。

 

・・・・・・

 

分離感は

私達人間にとって

極めて辛いものです。

 

しかし、

この3次元世界に

生まれた瞬間から

私達は

その分離感の

真っ只中に入ります。

 

赤ん坊が

生まれた瞬間に

大泣きするのは、

その分離感に

びっくりしているのだと

私は思います。

 

今まで、

お母さんと

一つだったのに、

いきなりそこから

分離した。

 

その

驚くべき感覚が

私達の人生の

第一歩です。

 

そして

その分離感と

私達は常に

闘いながら

生きてきました。

 

分離感の中でも

しっかり歩ける自分に

なろうと、

努力してきました。

 

分離感に

惑わされない自分。

 

分離感に

負けない自分。

 

そんな自分になることが

人としての

成長であると

信じて、

ここまで来ました。

 

しかし残念ながら、

分離感とは

克服するものでは

ありません。

 

どれだけがんばっても、

分離感は

分離感です。

 

克服できたと

思っていても、

それは単に

麻痺しているだけ。

 

人は、

分離感には

勝てないのです。

 

辛いものは

辛い。

 

怖いものは

怖い。

 

そう

あるがままに感じる

自分を

そのままに

受け止めることができて、

初めて人は

分離感から

自由になれます。

 

それは決して

分離感がなくなるわけでも

弱まるわけでも

ありません。

 

分離感は

そのまま。

 

怖いのも

そのまま。

 

でも、

そこから

解放されるのです。

 

それが、

真本音で生きる

ということであり、

 

高い次元の自分を

思い出すという

ことです。

 

・・・・・・

 

皆さんは、

場と

時と

一つになれた、

というご経験は

ありませんか?

 

最近は

若い人達にこういった

表現を使うと、

「あぁ、わかります、わかります」

と返ってくることが

実に多くなりました。

 

最近の若い人達の感性は

本当に凄いなぁと

思います。

 

「一つになる」

という瞬間が、

私達の人生には

必ずあります。

 

しかもその瞬間は

ここ数年で

一気に増えているはずです。

 

場と、時と、

一つになれている時、

私達は

その瞬間は、

分離感や恐怖から

解放されます。

 

何度も言いますが、

分離感や恐怖が

なくなるわけでは

ありません。

 

それがここにあっても、

どうでもいいことだと

思えるのです。

 

それくらいに

「一つになる」

という体験は

インパクトがあります。

 

しかしそれは

何も特別なことではなく、

私達がもともといた場所は

「すべてが一つ」

という世界ですから、

それを「思い出す」

ということで、

インパクトがあるのです。

 

私達の魂に刻まれた

記憶を呼び起こすからこその

インパクトです。

 

・・・・・・

 

船に乗って

航海をしている時、

船と海は

分離しています。

 

ですからもし

嵐が来た場合は、

転覆するのではないか、

という恐れが来ます。

 

しかし、

海も船も自分自身だとしたら

どうでしょうか?

 

しかも海は、

表面上は

嵐によって荒れていますが、

深海に潜れば、

そこは常に安定しています。

 

しかも、

さらに潜れば、

大地があります。

その大地とは

地球そのもの。

 

その地球とも

一つであるとしたら。

 

すべてが私

であるとしたら。

 

もちろんそれでも

恐怖が消えることは

ありませんが、

それでもその恐怖よりも

もっと大きな安定感を

私達は得られるのでは

ないでしょうか。

 

地球とも海とも

一つである自分。

 

それを思い出しながらも、

船として生きる人生を

楽しむ。

 

・・・これが

真本音で生きる感覚です。

 

高い次元を

思い出している

感覚です。

 

私達人間の実に

面白いところは、

どれだけ高い次元を

思い出しても、

低い次元が

なくなることはない、

すべての次元が

共存している

というところです。

 

これこそが

人間の魅力。

 

人間の

面白さ。

 

人生の

面白さ、です。

 

地球も海も

すべては自分ではないか、

という安定感と、

荒海に揺れる船としての

心細さの

共存。

 

これが

私達人間です。

 

この両方を感じながら

生きるのが

人としての

楽しさの本質です。

 

この本質を

存分に感じ取るために

私達が身につける

最も重要なスキルが

セルフコーチング法であると

私は思っています。

 

セルフコーチングとは

・自分と

・現実と

あるがままに向き合う

手法です。

 

これができることで、

高次元も低次元も

すべての自分と

共に生きることが

できるのです。

 

つづく

 

試練に意味を求めないで

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・このような問いを

考えたことはありますか?

 

もし今この問いを

自分に投げたとしたら、

どのような答えが

自分の中から返って来ますか?

 

私達の意識は

次元が低くなればなるほど、

すべてと分離していきます。

 

そして

次元が高くなればなるほど

すべてと「一つ」になります。

 

すべてと

「一つ」になっている自分と、

すべてと

分離している自分が、

共存しているのが

私達人間の心の中です。

 

様々な階層の次元が

共存しているのが

私達人間という生き物です。

 

今、

どの次元の自分を

前面に出して生きているか、

によって

人生の展開は

大きく変わります。

 

最近、

本当によく聴く声が、

「これまでの人生で

最大の試練に

ぶち当たっています」

という悲痛な叫びです。

 

外的な要因も

さることながら、

内面の自分がすべて

壊れてしまいそうなくらいに

揺れ動かされています。

 

我を失う、

という状態。

 

心の中の

大地震。

 

あらゆるものが

無に帰すような

恐怖。

 

まったく道の見えない

絶望感。

 

その中で

もがいている人。

 

もがくことすらできずに

茫然と佇む人。

 

そのような人が

増えています。

 

そのような時に

絶対にしてほしくないことが

一つあります。

 

それは、

「この試練には

どのような意味があるのだろう?」

と考えることです。

 

試練の意味を考える。

・・・それは一見すると

前向きな行為ですが、

私はそれを

現実逃避の第一歩であると

いつも実感します。

 

意味を考え

答えを見出す。

 

もしそれで簡単に答えが

見つかるのであれば、

その試練は

試練とは言えません。

 

あくまでも自分の範疇で

試練のふりをし、

悩んでいるふりを

しているだけのこと。

 

悩みながらも、

自分が進まない理由づけを

して人生をサボっている

だけのことです。

 

本当の試練の中にいる時、

その試練の意味は

決してわかりません。

 

もし無理に答えを

見出せば、

それは「間違った答え」です。

 

間違った答えに基づいて

試練を乗り越えようとすれば、

その試練の本当の意味から

結果的に逃げることに

なってしまいます。

 

本当の意味は

後からわかります。

 

その試練を乗り越え、

その試練が去り、

さらにその後の新たな道を

進む途上で初めて、

ある時ある瞬間に

必然的に「気づき」がきます。

 

その瞬間が来るまで

その試練の意味は

考えないでください。

 

ただ単に、

試練に身を委ねて

ください。

 

試練に身を委ねるとは

何もしない、

ということではありません。

 

試練と

対峙するのです。

 

向き合うのです。

 

武器は持ちません。

 

裸になるイメージで

あるがままの自分を

試練の前にさらします。

 

肩の力を抜き、

正面から試練を

見つめます。

 

観察をします。

 

その結果、

心は大揺れに揺れ、

我を失うかもしれません。

しかし

それでも良いのです。

 

それでも

身をさらします。

 

あえて言えば、

すべてを

あきらめる

のです。

 

開き直る

のです。

 

開き直りとは

すべてを手放した状態

です。

 

その状態に入れた時、

人は言いようのない強さを

発揮しますが、

それは意図をして

できることではありません。

 

私達にできるのは、

何があっても

あるがままの自分として

その試練に

身をさらそうと

し続けることです。

 

試練を乗り越えるか、

試練が去るまで、

それを続けます。

 

試練が永遠に続くことは

ありません。

 

試練から解放された時、

自分自身に

問うてみてください。

 

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・と。

 

もし、

試練の前よりも格段に

「一つ」になれたかな、と

思えれば、

その後、必然的に

その試練の意味は

わかるでしょう。

 

なぜならそれは、

自分自身が次元を一つ

上がれた証拠だからです。

 

一つの次元が上がる

ということは、

景色が変わるということです。

 

新たな次元に立たなければ

見えない景色があります。

 

その景色を前にした時に

初めて、

その試練の意味は

明確にわかるでしょう。

 

人生というのは

その繰り返しですね。

 

つづく

 

そのこだわりは執着です

私達人間は

真本音のこだわりを持つことで

進化します。

 

しかしその「こだわり」は

なぜ持つかと言うと、

「手放す」ためです。

(→前回記事)

 

真本音のこだわりは、

必ず

手放す時が来ます。

 

なぜならそれは

自分自身だからです。

 

私で言えば、

私が初めて見出せた

真本音のこだわりは

「向き合う」

でした。

 

私はそれを自分の人生理念として

大切にし続けました。

それこそ、

24時間、その言葉を

思い出し続けました。

 

特に人とコミュニケーションを

とるときは、

「向き合う」という言葉を

自分の体の中心に

貼り付けているようなイメージを

いつもしていました。

 

すると、本当に

人と向き合うことができた

からです。

 

それ以前の私は、

人と向き合うことが

至難の業でした。

 

向き合っているフリは

できましたが。

 

人生理念「向き合う」ということを

いつも意識し続けることで、

私は私にとっての至難の業だと

思っていたことを

乗り越えることができました。

 

で、ある時に

その「向き合う」という言葉が

どうでもよくなりました。

 

むしろ、

「向き合う」という言葉に

違和感を覚えるように

なりました。

 

「向き合おう」とすると

逆に力が入ってしまうような、

自然体が崩れるような

感覚となりました。

 

それはそうです。

だって、

本当は、

「向き合う」とは

私自身だったから

です。

 

たけうちなおと

という人間は、

「向き合う」が

現象化したものだった

のです。

 

向き合う=私。

私=向き合う。

 

ということです。

 

つまり、

真本音のこだわりとは

本来の自分自身を

ある一面から

表現しているに

過ぎません。

 

「向き合う」と「私」は

同じであり、

「一つ」です。

 

でも、以前の私は

もともと「一つ」であったものが、

分離してしまって

いました。

 

私は向き合うことが

できない人間だ。

 

・・・と私は思い込んで

いました。

本当はそうではないのに。

 

そこで、その分離をなくし、

本来の姿に戻るために、

私はあえて

「向き合う」という言葉を

言語化、明確化し

それを意識するように

したのです。

 

意識し続けることで、

その分離はだんだんと

修正され、

ある時ある瞬間に

「一つ」に戻ることが

できたのです。

 

その瞬間から私は、

「向き合う」ということを

わざわざ言語化すること自体に

不自然さと違和感を

覚えるようになったのです。

 

当然のことです。

 

実はこれは私だけでなく、

誰にでもよくあることです。

 

私達の多くは、

本来の自分を忘れています。

 

そして、

本来の自分を

自分から分離しながら

生きています。

 

それは非常に

不自然な状態です。

 

不自然が故に、

ストレスが生じます。

エンティティが

発生し続けます。

 

その不自然さを

修正するために必要なのが

言葉。

 

言語化することで

修正し、

修正できればもう

その言語は

必要ありません。

 

手放せば

良いのです。

 

ところが、

もうすでに

修正が完了し、

もうすでに

「一つ」に戻れているにも

関わらず、

「まだ自分はそれができていない」

と思い込み、

ずっと自分の「こだわり」に

こだわり続ける人がいます。

 

それは、

本質的なこだわりではなく、

ただの「執着」であり

「依存」です。

 

「執着」の段階に

入ってしまっているにも関わらず、

それにこだわり続ければ、

逆に、

ストレスやエンティティが

発生します。

 

だからこそ

大事なのです、

「手放す」ことが。

 

そこで、

自分自身にぜひ

問うてみてください。

 

私にとっての

最大のこだわりとは

何だろうか?

 

もうそのこだわりは、

私は

手放してもよいのではないか?

 

・・・と。

 

理屈でも何でもなく、

直観として

「そうだな。手放そうかな」

と思えたら、

その通りにすることを

お勧めします。

 

もうあなたは

それ、そのものに

戻れているのですから。

 

つづく