命って
何でしょうね?
私達には皆、
命があります。
一般的に
生物と言われる
ものには
命を感じます。
しかし実は私は、
生物以外のものにも
命を感じることが
あります。
すべてのものに
命はあるのではないか
と、よく
私は思います、
・・・というよりも
そう感じます。
例えば、
研修やチームコーチング
などをしていますと、
たくさんの人達と
長時間向き合い
続けます。
すると毎度のことですが、
途中から
自分なのか、
その人なのか、
自分が誰なのか、
わからなくなります。
皆さんがどう感じるかは
別として、
私は、皆さんと一つに
なっているのだと
思います。
そういった時間が
終わり、
一人になった時、
私は
「世界」のすべてに
命を感じます。
駅を歩いたり
電車に乗ったり
するその
一刻一刻の時間が
ゆっくりと流れ、
その時間の刻みと共に、
「世界」の息遣いを
ダイレクトに
感じるのです。
なんだ、
すべては生きている
ではないか、
と、いつも当たり前のように
思うのです。
人も
生きている。
物も
生きている。
空気も
光も
影も
すべて
生きている。
命そのものの
この世界の中に
私は
いる。
そう感じるのです。
毎日の
ことですが。
この時私は、
「もとに戻れた」
気が
いつもするのです。
・・・・・・
この仕事を
していますと、
人と人が争う
という場に
よく出くわします。
AさんとBさんが
言い争っています。
その時私は
二人の「そのまま」を
観察し、感じます。
すると
人と人の争いには
2種類あることが
わかります。
言い争いながら、
どんどん「分離」
していくケースと、
言い争いながら
どんどん「一つ」に
なっていくケースです。
前者を
「反応本音の言い争い」
後者を
「真本音の言い争い」
と私は呼んでいます。
「真本音の言い争い」
は、
愛の行為です。
そういうものが
私は
組織にどんどん
増えていくといいな、と
思います。
言い争いそのものが
悪いわけでは
ないのです。
つまりは、
表面的な「行為」
だけを見て
物事を判断することは
やめた方がよいです。
「真本音の言い争い」が
発生した場合、
私はそれを
どんどん助長します。
中途半端に終わろうと
すると、
「いや、そこで
終わってはダメですよ」
と、
言い争いを終わらせ
ません。
せっかく「一つ」に
なろうとしているの
ですから、
せっかくお互いに
愛を与え合って
いるのですから、
それを止めてしまっては
いけません。
「真本音の言い争い」に
私は、
命を感じます。
言い争えば
言い争うほど、
命の光が強くなるのを
感じます。
命とは、
「一つになろう」
という意志が
強まれば強まるほど、
明るく
輝くものでは
ないでしょうか。
・・・・・・
私達は
せっかく命を授かって
ここにいるのですから、
自分自身の
命も
自分以外の
命も
育んでいきたい
ですね。
命とは本来、
次の命を
生み出すものでしょう。
つまり
命とは
永遠を生み出すもの
だと
私は思うのです。
つづく