永遠

永遠なんだよ

 

物事に

終わりはない。

 

終わったな、

という感覚は

あるが。

 

それは一つの

区切りだ。

 

区切ったら

すぐ「次」が

始まる。

 

だからそれは

終わりではなく

始まりでもある。

 

物事に

終わりはない。

 

人生も

同様だ。

 

・・・・・・

 

私達は

何かを残して

ゆく。

 

人生において。

 

いや、私なんかは

何も残せない。

 

と思う人は

多いようだが。

 

しかし、

その人がそこにいた、

という

ほんのわずかな一瞬の

空気感と

存在感さえ、

 

永遠に

残るのだ。

 

それが

「実在」

というものだ。

 

世の中には

ほんの一瞬だけ

この世に生まれ、

そして

すぐに死んでしまう

赤ちゃんがいる。

 

「私はそんな

赤ちゃんを

抱きしめて、

あなたの命には

大いなる意味が

あるんだよ、

という想いを込めて

笑顔を贈りたい。

それが

私の夢です。」

 

と言われる

経営者がいた。

 

そう。

 

ほんのわずかな

一生だとしても、

 

それは永遠に

ここに

残るのだ。

 

それが

「実在」だ。

 

最近、

この2〜3ヶ月

かな。

 

久しぶりに

たくさんの本を

読んでいる。

 

たまたま本屋さんで

出会った一冊の本が

きっかけで、

 

立て続けに

次から次へと

本を購入し、

 

今は

約30冊を

同時に読み続けて

いる。

 

ある一つのことを

研究した本も

あれば、

 

哲学書や

昔の文学や

大学の名誉教授の

書かれた

人生の成果や

 

ある作家が

生涯を通じて

書き続けている

小説や

 

ジャンルは

いろいろだ。

 

ちょっとずつ

併読しているので

 

わけが

わからなくなる。笑

 

何がどこに

書かれているのか、

頭は混乱

混沌となる。

 

しかしそれを

私は望んでいる

ようだ。

 

これまで

あまり読んだことの

ない傾向の本も

あるのだが、

 

「実在」について

書かれてあるものや、

 

言葉は使われなくても

あぁこの人は

「実在」を感じ取りながら

書いてるんだな、

思われるものが、

 

私が想像していたよりも

ずっと多いことに

私はちょっと

嬉しくなっている。

 

「実在」を

感知できるということは

 

常に

「永遠」を

感知できるということだ。

 

「永遠」の視点で

「今」を

観て、感じることが

できるということだ。

 

その感性を、

すべての人が

思い出せるといいな

と思う。

 

もともと

すべての赤ちゃんは

実在を感じながら

生まれてくるの

だから。

 

実在と現象の

合間にいるのが

赤ちゃんだから。

 

私達はみんな

それを

経験しているのだから。

 

その感覚を

思い出せれば、

 

あらゆる命に

永遠の価値がある

よくわかるんだけどな。

 

つづく

 

私達は永遠の1秒にいる

 

半世紀以上も

生きていると、

 

1分1秒という

一刻一刻の時間が

とても

愛おしくなる。

 

そんな感覚

わかりますよね?

 

私は時々、

何もせずに

目を瞑り、

 

1秒1秒の時間が

過ぎていくこと

のみを

 

感じるようにしている。

 

それ以外の

ことは考えない。

 

ただ

時間の流れのみ

見つめる。

 

すると

不思議な感覚に

なる。

 

そこに

「永遠」

を感じるのだ。

 

1秒という

時間の奥には

「永遠」

がある。

 

そこはまるで

無限の宇宙の

ようだ。

 

しかも

とてつもなく

神秘的だ。

 

その「永遠」は

真っ暗闇の

ように

感じることも

あれば、

 

白色に輝く

光の世界のように

感じることも

ある。

 

どちらが良い悪い

ではなく、

どちらも

そこにはあるのだろう。

 

そして

その「世界」を

この1秒に

込めている。

 

「永遠」を

込めている。

 

これが

私達の本来

なのだろう。

 

私達は

1秒という永遠

生きている

存在なのだ。

 

この3次元の

世の中では、

1秒という時間は

過ぎてしまえば

消えていく。

 

しかし本当は

消えては

いない。

 

その1秒は

「永遠」の中に

入るのだ。

 

いや、

もっと正確に言えば、

その1秒は

「永遠」から

やって来て、

「永遠」に

帰っていくのだ。

 

言葉にすれば、

そんなようなことを

感覚として

得るわけなのだが、

 

そうなるともう、

この1秒が

とてつもなく

愛おしくなる。

 

そして当然ながら、

最高の1秒に

したいな、と

思うし、

 

それが

できている実感は

恐らく人間としての

最高の幸せの

一つだろう。

 

だから私はよく、

時間の流れ

のみに意識を

向け、

 

そこに「永遠」を

感じたら、

その視点で

今からの予定を

立てる。

 

この後の時間を

何のために

どのように

活用するか?

 

すると、

一日はとても

輝くものに

なるんだな。

 

つづく

 

今日も命を感じたよ

 

命って

何でしょうね?

 

私達には皆、

命があります。

 

一般的に

生物と言われる

ものには

命を感じます。

 

しかし実は私は、

生物以外のものにも

命を感じることが

あります。

 

すべてのものに

命はあるのではないか

と、よく

私は思います、

・・・というよりも

そう感じます。

 

例えば、

研修やチームコーチング

などをしていますと、

たくさんの人達と

長時間向き合い

続けます。

 

すると毎度のことですが、

途中から

自分なのか、

その人なのか、

自分が誰なのか、

わからなくなります。

 

皆さんがどう感じるかは

別として、

私は、皆さんと一つに

なっているのだと

思います。

 

そういった時間が

終わり、

一人になった時、

私は

「世界」のすべてに

命を感じます。

 

駅を歩いたり

電車に乗ったり

するその

一刻一刻の時間が

ゆっくりと流れ、

その時間の刻みと共に、

「世界」の息遣いを

ダイレクトに

感じるのです。

 

なんだ、

すべては生きている

ではないか、

と、いつも当たり前のように

思うのです。

 

人も

生きている。

 

物も

生きている。

 

空気も

光も

影も

すべて

生きている。

 

命そのものの

この世界の中に

私は

いる。

 

そう感じるのです。

毎日の

ことですが。

 

この時私は、

「もとに戻れた」

気が

いつもするのです。

 

・・・・・・

 

この仕事を

していますと、

 

人と人が争う

という場に

よく出くわします。

 

AさんとBさんが

言い争っています。

 

その時私は

二人の「そのまま」を

観察し、感じます。

 

すると

人と人の争いには

2種類あることが

わかります。

 

言い争いながら、

どんどん「分離」

していくケースと、

 

言い争いながら

どんどん「一つ」に

なっていくケースです。

 

前者を

「反応本音の言い争い」

 

後者を

「真本音の言い争い」

 

と私は呼んでいます。

 

「真本音の言い争い」

は、

愛の行為です。

 

そういうものが

私は

組織にどんどん

増えていくといいな、と

思います。

 

言い争いそのものが

悪いわけでは

ないのです。

 

つまりは、

表面的な「行為」

だけを見て

物事を判断することは

やめた方がよいです。

 

「真本音の言い争い」が

発生した場合、

私はそれを

どんどん助長します。

 

中途半端に終わろうと

すると、

「いや、そこで

終わってはダメですよ」

と、

言い争いを終わらせ

ません。

 

せっかく「一つ」に

なろうとしているの

ですから、

 

せっかくお互いに

愛を与え合って

いるのですから、

 

それを止めてしまっては

いけません。

 

「真本音の言い争い」に

私は、

命を感じます。

 

言い争えば

言い争うほど、

命の光が強くなるのを

感じます。

 

命とは、

「一つになろう」

という意志が

強まれば強まるほど、

 

明るく

輝くものでは

ないでしょうか。

 

・・・・・・

 

私達は

せっかく命を授かって

ここにいるのですから、

 

自分自身の

命も

 

自分以外の

命も

 

育んでいきたい

ですね。

 

命とは本来、

次の命を

生み出すものでしょう。

 

つまり

命とは

永遠を生み出すもの

だと

私は思うのです。

 

つづく