ちゃんと苦しんだか?

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私は

苦しみと共に

進みたいのだな、

よく思う。

 

人間の苦しみを

感じ続けたいのだ、

と。

 

もっと楽に

進めば良いのに、

と思う自分も

当然いるのだが。

 

苦しまない

人はなく、

 

誰もが苦しみに

呑まれ、

進めなくなるという

経験を

積んでいる。

 

むしろそういう

経験を積まないと、

「進む」ということの

本質も

掴めないのだろう。

 

苦しむために

苦しむのではなく、

 

進むために

苦しむ。

 

自己満足のための

苦しみではなく、

 

進むために

本当に苦しいこと、

越えるために

本当に苦しいこと、

と対峙する。

 

苦しみに

鈍感になるのでは

なく、

 

むしろ

敏感なままで

進む。

 

ますます敏感に

なろうとまで

する。

 

そういった人を

私はどうしても

応援したくなる。

 

自分がそうだった

から、

というよりも

やはりそこにこそ

私は

人間らしさを

感じるのかもしれない。

 

苦しみには

必ず

「もと」

がある。

 

苦しみのもと。

 

これまで

自分のも含め

本当にたくさんの

「もと」と

対峙してきた。

 

対峙どころか

一体化まで

した。

 

私=苦しみ

にもなった。

 

そういうことを

重ねて初めて

 

本当に

 

実感したことが

ある。

 

苦しみは

「現象」

だ。

 

・・・ということ。

 

「幻影」

と言っても

いい。

 

でも、

だから意味がない

とか

言いたいわけではない。

 

むしろ

幻影だからこそ

苦しいのだ。

 

幻影だからこそ

きっとそこに

価値がある。

 

苦しみという

幻影と共に

人は歩く。

 

幻影なので

それは

自分で創り出して

いるものだ。

 

だから、

自分の苦しみは

自分自身だ。

 

自分が創り出した

幻影と、

どう関わるか?

 

どう向き合うか?

 

幻影だからこそ

向き合わねば

ならない。

 

ちゃんと苦しまなければ、

幻影を超える

こともできないだろう。

 

幻影の世界。

 

現象の世界。

 

私達はそこに

いる。

 

現象の私達

なのだ。

 

それをつくづく

実感できた時、

 

初めて

その奥に

 

実在の自分を

感じ取れるんだ。

 

つづく

 

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