私ほど酷い人は、見たことがない

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私達の中にはすでに「道」があり、

その「道」を進むことは

とても勇気の要ることだけれども、

いざその「道」に入ってしまえば、

人としての本来の幸せを

存分に感じることができます。

 

・・・というお話をここまで

させていただいています。

(→前回記事)

 

では、その「道」が

本当の「道」なのかどうか、を

どこで判断すればよいでしょうか?

 

本当の「道」かどうか?

 

とはつまり、

 

真本音の道かどうか?

 

ということです。

 

これを見極めるためには、

真本音と反応本音の区別を

つけられる自分になることが

前提となります。

 

真本音と反応本音の

区別。

 

これは実は、

目と鼻の区別がつくのと

同じくらいに簡単です。

 

でもしかし、

それができる人が

現時点では少ないのが

今の社会です。

 

どうして目と鼻の区別が

つかないの?

目は目だし、

鼻は鼻だし、

目を見て「鼻だ」とは

思わないでしょ。

 

・・・などといつも私は思ってしまう

のですが、

でもそういう私自身も以前は

まったくこの区別がついて

いませんでした。

 

人のことを言えません。

 

だいぶ前のブログでも

書きましたが、

以前の私は本当に酷くて、

いまだに、

以前の私ほど反応本音まみれの

人と出会ったことが

ありません。

 

もちろん以前は、

真本音と反応本音という

区別そのものもありませんでした。

 

でもそれにしても

酷かった。

 

私は、心にフタをする

名人でした。

 

例えば、Aさんのことを

憎んで憎んで憎んで・・・

憎み切っていたのにも関わらず、

そういった心にフタをし、

自分で醜い心を見えないようにし、

「自分はなんてきれいな心の

持ち主なんだ」

と本気で思い込んでいました。

 

その頃の私ともし今

出会ったならば、

出会った瞬間に、

「あぁこの人はダメだな。

どんなサポートも効果がないだろう」

と最初からサポートをしない

と決めるでしょうね。

 

それだけ酷い状態でした。

 

これ、本当にマジなんです。

よく

「たけうちさん、そうは言っても

口で言うほどは酷くなかったでしょ」

と言われるのですが、

本当に、マジなんです。

 

手のつけようのない人間、

とは私のことを言うのだと

今でも本当に思っています。

 

そんな私でも

真本音と反応本音の区別が

つくようになりました。

 

ということは、

人類すべての人が

これはできることであると

私は本当に思っています。

 

では、

それだけ酷かった私が

どのようにして

区別がつけられるようになったか?

 

その第一歩目は、

 

「反応本音を隠さない」

 

ということでした。

 

つまりは、

すべての反応本音を

観察する、ということです。

 

やはりここでも

「観察」

は重要なのです。

 

人間誰しも

見たくない心はあります。

 

こんな心が

自分の中にあってほしくない、

あってはならない、

人として。

・・・そう思う心はあります。

 

でも、

どんな心があっても

よいのです。

 

何があってもOK。

というおおらかな気持ちで

自分の心と向き合うこと。

 

これが重要です。

 

重要ですが、

すぐにできるわけではありません。

 

そこでお勧めは、

自分の心の声を

どんどん紙に書いてみる

ということです。

 

「書く」という行為は

かなり強力です。

 

書いているうちに、

フタが外れるのです。

 

勇気を持って

ちょっとだけ醜い自分の心を

書き始めてみると、

まるでダムが決壊したかのように、

フタをしていた心たちが

溢れ出ます。

 

それをそのまま

書き殴っていくのです。

 

私は初めてこれをやった時、

涙が止まらなく

なりました。

 

あまりに酷い言葉の

数々だったからです。

 

自分が書いている言葉なのに、

自分の言葉とは信じられないくらい

酷い言葉たち。

 

情けなくて悔しくて、

惨めで、

本当に人としての自分を

許せない気持ちになりながらも

それでも

書き続けました。

 

するとある瞬間に

フッと

楽になるのです。

 

私はこれをパソコンで

やっていたのですが、

そのあまりに酷い言葉の数々を

印刷し、

印刷したものを

燃やしました。

 

燃えていく紙を見つめながら

私は自分の心が

燃えていくのを感じました。

 

と同時に

さらに心が楽になるのを

感じました。

 

かといって、

次の日からすぐに

心が変わるわけではありません。

 

次の日もまた、

同じように酷い言葉達が

自分の中から溢れました。

 

でも同じく、

すべてを書きました。

 

そして

燃やしました。

 

これを繰り返すうちに、

数日のうちには、

私はかなりおおらかになっている

自分に気づきました。

 

そうか。

こんな気持ち達を持っているのが

私という人間なんだな。

であれば、それはそれで

しょうがないか。

 

というような、

そんな気持ち。

 

さらにそれを続けると、

そのうちに酷い言葉達は

もう出なくなりました。

 

何かが完了した感覚。

 

出し切った感覚。

 

と同時にわかったのです。

「あの酷い心は

確かに私の心ではあったが、

ただ、私の中に溜まっていた

だけのものなんだな」

と。

 

そうです。

心の中に溜まっているもの。

それが反応本音です。

 

もちろん反応本音とは、

悪いものばかりでは

ありません。

 

人としての喜びとか

嬉しさと、幸せとか

前向きな気持ちとか、

やってやろうという意欲とか、

色々なものがあります。

 

でもそれらの全ては

溜まっている気持ち達。

 

吐き出されれば

消えていきます。

 

すべてが吐き出されても

それでも自分の中に

残っているもの。

 

すべてを吐き出しても

揺るがずに

そこにあり続けるもの。

 

それが

真本音です。

 

私は、

自分の気持ち達を書き続け、

吐き出し続けることによって

初めて真本音の存在を

実感できたのです。

 

つづく

 

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