観察

意識を向ける①

 

すべての存在を

・自分

・自分以外

分けたとする。

 

そして

自分以外のことを

「世界」

と表現するとする。

 

すると

すべての存在は

・自分

・世界

のどちらか

ということになる。

 

さて。

 

皆さんは、

・自分

・世界

どちらにいつも

意識を向けている

だろうか?

 

意識を向ける、

とは

もう少し具体的に言えば、

 

「観察する」

 

とか

 

「声を聴く」

 

とか

 

「感じ取る」

 

とか。

 

そういったことだ。

 

ちなみに、

頭の中で思考を

したり、

解釈をしたり

することは

上記の3つのどれとも

違う。

 

頭の中の思考

は、

意識が内側に籠もっている

状態で、

 

それは主観的だ。

 

意識を向ける

とは、

 

客観的だ。

 

つまりは

「知ろう」

とすることだ。

 

もしくは

「体験しよう」

という表現でも

良いかも。

 

そう捉えると、

・自分

にも

・世界

にも、

 

どちらにも

意識を向けていない

人は多い。

 

いつも意識は

内側にあり、

主観的な状態だけで

生きている

という人だ。

 

そういった人は

残念ながら

なかなか自分の視界

から抜け出ることは

できないし、

 

本質的な成長も

難しい。

 

私達は

・自分

を生きているし、

・世界

の中で生きている。

 

まずはその二つに

客観的目線を

向けることが大切だ。

 

それがつまり

「意識を向ける」

ことであり、

 

観察したり

声を聴いたり

感じ取ることだ。

 

さて、

 

今回はここまで。

 

このお話は

明日も続けます。

 

つづく

 

荒れてもいい

 

心が荒れていたら、

行動も荒れ、

 

心が静かであれば、

行動も静かになる。

 

・・・という人生から

脱け出よう。

 

自分の心の状態が

自分の行動を

・・・つまりは

自分の人生を

左右する。

 

・・・という人生から

脱け出よう。

 

そんなこと

できるの?

 

と思われるかも

しれないが、

 

そんなこと

できるんだ。

 

誰もが。

 

もちろん

心を無くす

ということではない。

 

むしろ逆だ。

 

心を本当に

大切にするんだ。

 

心が荒れると、

その「荒れ」を

止めようとしてしまう。

 

まずは

それをやめる。

 

荒れている心を

そのまま

大切にする。

 

そのためには、

荒れている心を

そのまま

観察するんだ。

 

もしくは

そのまま

「感じる」。

 

それをすると

一見、とても苦しい

ような気もするが、

 

「荒れ」から

逃げよう逃げよう

とか

「荒れ」を

無くそう無くそう

とするから

余計に苦しくなる。

 

むしろ逆に

自ら積極的に

その「荒れ」を

あるがままに

見つめよう、

感じよう、

するんだ。

 

すると、

ある時はその「荒れ」は

スーッと抜けて

いくし、

 

ある時は「荒れ」は

そのまま残るけど、

その「荒れ」から

少し距離を置いた状態に

なれる。

 

こういったことに

慣れていくと、

 

だんだんと

どんな「荒れ」が来ても、

 

すべての「荒れ」が

愛おしくなってくる。

 

まぁすべて

自分の心だからね。

 

自分の心の状態の

すべてを

常に慈しみを持った

眼差しで見つめ、

感じることが

できるようになる。

 

すると

だんだんと

どんな「荒れ」が

来ても、

へっちゃらになってくる。

 

「荒れ」は

そのままに。

 

あるがままに。

 

しかし

どんな「荒れ」が

あっても、

自らの次の行動は

落ち着いた状態で

しっかりと

真本音で決める

ことができるようになる。

 

すると

自分の行動に

関してはもう

「自由自在」だ。

 

そこからだ。

 

人生が本当に

面白くなるのは。

 

つづく

 

もっとしっかり感じ取ろう

 

自分の心の揺れ

と、

 

世の中の揺れ

を、

 

それぞれ別個に

あるがままに

感じ取ってみよう。

 

その二つは、

どのような関係に

あるだろうか?

 

私達は、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

二つの揺れの狭間で

生きている。

 

二つの揺れに

常に迫られながら、

次の自分の一歩

決めている。

 

人生を生きる

というのは

そういうことなのだが、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

混在しながらも

区別がつかなくなる

ところから

 

私達は

「わけがわからなく」

なる。

 

わけがわからなく

なった状態で

次の一歩を決めるよりも、

当然、

わけがわかった状態で

決めた方がいい。

 

そのためには

まずは

「観察」だ。

 

両方の揺れを

観察することだ。

 

人生の始まりは

「観察」

だ。

 

・・・・・・

 

内側も外側も

両方すべてを

観察しようとする時、

 

つまりは、

あるがままに

捉えようとする時、

 

その

捉えている自分が

両方の揺れから

「分離」する。

 

そこまで

観察できると

いい。

 

逆に言えば、

そこまで観察できない

からこそ、

私達は混乱してしまう

のだ。

 

徹底的な

観察だ。

 

徹底的に

あるがままを

見つめるのだ。

 

「あるがまま」

とは、

評価も判断も解釈も

何もしない

ということだ。

 

見えるものを

ただそのままに

見る。

 

聴こえるものを

ただそのままに

聴く。

 

感じるものを

ただそのままに

感じる。

 

慣れないうちは

かなり難しいだろう。

 

でもぜひ

やり続けてほしい。

 

「分離」が

できるまで。

 

・・・・・・

 

とは言え、

無理な分離は

してはならない。

 

自然な分離で

あることが大事だ。

 

自然な分離に

なるためには、

 

徹底的に、

見て、聴いて、

感じる

しかない。

 

辛いものも

徹底的に

その辛さを

感じるのだ。

 

それは当然

とてつもなく辛い

かもしれないが、

 

でも

逃げずに、

徹底的に。

 

そして

自然な「分離」が

訪れる時、

 

初めて

本当に観える

ものがある。

 

本当にわかる

ことがある。

 

その時に

実感できるのだ。

 

なんだ、

そうか。

私は最初からすべてを

わかっていたじゃないか。

 

・・・とね。

 

つづく

 

待つべし 待つべし

 

目の前に起きている

現象を見ていると、

 

ついつい

物事を複雑に

捉え過ぎてしまう。

 

そして

何をすれば良いか?

わからなくなる。

 

時には

そんな自分に

無力感でいっぱいになる。

 

しかし。

 

現象の根源は

非常にシンプルなことが

多い。

 

一つのシンプルが、

カタチを変えて

様々に現象化している

だけの場合が

多い。

 

だから私は

「観察」を続ける。

 

一つ一つの現象に

対して、

どうしようか?とは

考えない。

 

どうすれば良いか

わからないので

あれば、

 

それが

合図だ。

 

「まだ動くな」

という合図だ。

 

わからなければ

「観察」を続ける。

 

ただ、

何の解釈もせずに

現象の一つ一つを

あるがままに

観察し続ける。

 

意識を

自分の思考に向ける

のではなく、

ただただ「現象」そのものに

向け続ける。

 

これを続ければ、

ある時ある瞬間に

 

フッと

 

何かが観えるのだ。

 

何かがわかるのだ。

 

なるほど

そういうことか!

合点がいくのだ。

 

するとそこで初めて

「これをしよう!」

という

自らの行動が

湧いて来る。

 

これは文字通り

湧いて来る。

確信と共に。

 

現象の奥に潜む

シンプルさを掴み、

 

シンプルに

行動する。

 

その連続で

道は開く。

 

確信の答えが

湧くまで

待つべし。

 

ただ、観察をし、

待つべし。

 

つづく

 

苦手なものと向き合おう

 

自分の目の前に

現れる

あらゆる「現実」は

 

自分自身の

『生き方』

の反映である。

 

言い切ってもよいのでは

ないか、と

私は常々痛感している。

 

現実は

思う通りには

いかない。

 

この

「思う通り」とは、

顕在意識レベルでの

意図や思惑のことを

言っている。

 

自分の意図通りには

現実は進まない。

 

もし

進んでいるとしたら、

それは

「挑戦」をしていない

からだろう。

 

真の成長や進化とは、

自分の枠を

超えていくことで

成される。

 

枠を超えるためには

どうしても

「思い通りにはいかない」

という現実が

私達には必要だ。

 

しかし本当に大事なのは、

思い通りにいかない現実

が現れた時、

 

それに対して

自分がどうするか?

 

だ。

 

ここで「生き方」が

問われる。

 

・・・・・・

 

本当は、

思い通りにいかない現実

そのものを

楽しめるように

なるといい。

 

でも、

なかなかそれは

難しい。

 

でも、

楽しめる自分

はぜひ、

目指してほしい。

 

そのために必要な

ことは、

 

今ここで起きている

現実を

あるがままに

しっかりと

観察すること、

だ。

 

思い通りにならない現実

からは

私達はどうしても

目をそらしてしまう。

 

逃げようと

してしまう。

 

そこを

踏ん張るのだ。

 

どのような現実も

自分に与えられたものだ。

 

自分の人生だ。

 

自分のものだ。

 

という意識を持ち、

ただただ

向き合うのだ。

 

対処のしようが

わからなくても

いい。

 

うろたえても

いい。

 

弱い心が

噴出してもいい。

 

どんな自分になっても

いいから、

しかしそれでも

向き合う。

 

この「生き方」こそが

すべての道を

開いていく。

結果的には。

 

・・・・・・

 

そういった意味では、

あえて

次のように

言うこともできる。

 

苦手なものほど、

しっかりと

向き合い、

見つめよう。

 

と。

 

例えば、

苦手な人ほど

しっかりと

向き合い、

見つめよう。

 

最初は

辛いかもしれないが、

しかし、

逃げるよりは

よっぽど楽だ。

 

逃げることばかりを

考えている時ほど、

私達が弱く

なることはない。

 

私達が苦しく

なることはない。

 

ちゃんと向き合おう

と、

開き直った時に、

スーッと心が

楽になっていく。

 

本来の自分に

戻っていく。

 

その感覚こそが、

 

『自由』

 

の感覚だ。

 

これを

当たり前のように

知った者こそが、

 

自らの人生において

「本当にやりたいこと」

見つけることが

できるんだ。

 

つづく

 

焦って進めば遅くなる

 

どんどん加速をして

スピードを速めよう

とする人ほど、

どうしても

焦る傾向にあります。

 

また、

人にもよりますが、

真本音度合いが高まり、

高い次元の自分の意識を

認識できるように

なることで、逆に

 

低い次元の自分の

ノロさや、

現実の進む遅さや、

変化のあまりの

少なさに、

 

これまで経験したことの

ない

焦りを感じ、

「早く何とかしなければ」

右往左往し始めてしまう

ことがあります。

 

私の表現で

端的に言えば、

 

「実在と現象のギャップ」

 

というヤツです。

 

このギャップを感じる

感性を得ると、

「このままではいけない」

という使命感が

湧いてきます。

 

その使命感自体は

とても大切なもの

ですが、

あえてそういった方々に

私が申し上げたいのは、

 

焦ってはならない!

 

ということです。

 

焦っても

何も始まらない

からです。

 

そして、

せっかく真本音度合いが

高まっているのに、

焦ることで

大切なものが

観えなくなってしまいます。

 

その結果、

真本音度合いが

低まってしまうことも

あります。

 

焦りの気持ちが

芽生えた時こそ、

 

一度、止まる。

 

ドッシリと構える。

 

自分を

自然体に戻す。

 

そして、

様々な現実の

一つ一つを

しっかりと

あるがままに

観察する。

 

ということを

お勧めします。

 

余分な行動(言動)の

一つが

一つの不調和を

起こします。

 

焦りからくる

行動(言動)は

一切やめて、

 

ただ、

じっと観察を

続けましょう。

 

そして、

本当に自分が

迷うことなく、

 

「今、これをしよう!」

 

と、100%思えること

のみを

行動に移しましょう。

 

やみくもに

石を池に投げ入れても、

波紋が入り乱れるだけ

です。

 

たった一つの

的確な波紋を

広げましょう。

 

その波紋は

深く深く

影響を及ぼしながら

永遠に広がり

続けます。

 

たった一つの石で

すべての展開が

根底から変わることも

あるのです。

 

焦ったら、

止まりましょう。

 

そして、

ここぞという瞬間に

走り出しましょう。

 

どうせなら

気持ちの良い

全力疾走を。

 

つづく

 

逃げずに観察しよう

 

怖い。

 

・・・こんな感情が湧くとき、

私達は思わず

その怖いものから

目を逸らしてしまいます。

 

その瞬間から

私達の中には

解釈と

イメージが

始まります。

 

イメージとは

幻影です。

 

事実とは

異なるもの。

 

私達が勝手に

自分の解釈により

生み出しているもの。

 

それにより、

恐怖はますます

増長し、

ますます私達は

その対象を

見れなくなります。

 

見ないことによる

恐怖。

 

観ないことによる

恐怖。

 

これが私達を

苦しめます。

 

怖いものほど

光を

当ててしまう。

 

怖いものほど

つぶさに

観察してしまう。

 

その勇気を

出すことで、

私達はどれほど楽に

進めることか・・・。

 

・・・・・・

 

夏だけに、

最近よくテレビで

怪談話をしている

ようです。

 

もし、

あなたの目の前に

幽霊が現れたら

どうしますか?

 

多分、

怖いから

一目散に逃げようと

しますよね。

 

私も以前でしたら

絶対そうしてました。

 

でも

恐らく今の私は

その幽霊に

光を当てると

思います。

 

もし、

光がなければ、

暗い中でも

かなり真剣に、

その幽霊を

観察すると思います。

 

・・・というか、

毎日、それを

しているようなものですけど。

 

私は日々、

たくさんの人達から

エンティティ

(ストレスの実体化したもの)

を受け取っています。

 

エンティティとは

日本語で

「生き霊」と

訳されます。

 

まぁ、恐らく、

幽霊というのは

こういうのを言うのだろうな、

と毎日思っています。

 

それはもう

なかなかに凄いです。

 

どんな人にも

エンティティは必ずあり、

それを私は大量に

受け取るので、

毎日が

幽霊だらけのような

ものです。

 

で、私は帰ってから

その幽霊たちを

つぶさに観察します。

 

実は彼らは

観察するだけで

成仏していきます、

多くの場合。

 

観察とは

意識を向けること。

 

意識を向けるとは、

愛のエネルギーを

注ぐ

第一歩です。

 

つまり彼らは

愛を求めています。

 

その愛を感じることで

彼らは

どんどん浄化、

成仏します。

 

私は彼らの声を

聴きます。

 

彼らの声を聴くことで、

エンティティの持ち主が

普段、どのような傾向の

苦しみを抱えているのかを

理解することができます。

 

実は、

エンティティの浄化で

夜眠れずに

朝までかかってしまった

ということは

ザラにあります。

 

実は、

私がこのブログを

夜中に書いていますのは、

どちらにしても

エンティティの浄化を

夜中に行なうためです。

 

浄化して

スッキリしたところで

このブログを

書いています。

 

まぁ時々、

スッキリできないままに

書くこともありますが。

 

しかし、

真本音度合いを

高めれば、

どれだけ強い

エンティティでも

それによってこちらが

揺らぐことは

一切ありません。

 

真本音の光は

エンティティを

癒すのです。

 

エンティティ達は皆、

「ありがとう」と

言いながら

成仏していきます。

 

こういうの

霊感っていうのかなぁ?

 

でも私には

霊感があるとは

思えないのですよね。

 

ただ実在を

キャッチしているだけ。

 

実在のキャッチと

霊感は

本質的に異なるものだと

私には思うのですが、

まぁ、

よくわかりません。

 

・・・・・・

 

光を

当てましょう。

 

怖いものがあったら、

そこに光を

当てるのです。

 

そしてそれらを

つぶさに

観察します。

 

事実がどうなのか?

 

実際がどうなのか?

 

を知るのです。

 

それだけのこと。

 

それだけのことで

道は

観えてくるのです。

 

逃げる人生は

苦しい。

 

向き合う人生は

楽。

 

その単純な法則を

大切にしたいですね。

 

つづく

 

自分と向き合う力を養うために

「問うて、待つ」

 

これがセルフコーチングの

基本です。

(→前回記事)

 

それは、

単に「思考する」のとは

本質的に異なる

行為です。

 

「思考する」とは

自分事です。

 

「問うて、待つ」とは

ある意味、

他人に対するコミュニケーション

です。

 

他人に対して

向き合っている

ようなもの。

 

この

「向き合う」

というのが

とても大事です。

 

よく私は

「自分と向き合う」

という表現を使います。

 

これはつまり、

自分をまるで

他人のようにして

客観的に

向かい合うということです。

 

それは、

自分から離れる

ということにもなります。

 

自分からいったん離れ、

離れた場所から

自分を見つめる、

自分の声を聴く、

自分の空気感を

味わう、

ということになります。

 

そこで

ポイントとなるのが、

「意識を完全に向ける」

ということです。

 

・・・・・・

 

「意識を完全に向ける」

 

とは、

どういうことでしょうか?

 

例えば、

目の前にペットボトルが

あるとします。

 

それを見て、

「あぁ、ペットボトルが

ここにあるなぁ」

と思うことは、

意識を完全に向けていることには

なりません。

 

それは単に、

「ペットボトルがあるなぁ」

と解釈している

もしくは、思考している

だけのことです。

 

意識を完全に向けるとは、

そのペットボトルを

よく観察する

ということです。

 

よく観察すると、

細かい部分が

リアルに見えてきます。

 

例えば、

ペットボトルの

ラベル。

どのような色を使い、

どのような文字を使い、

どのような文言が

そこに書かれているか?

 

例えば、

ペットボトルの

形状。

どんな形をしていて、

どこがどのように

でこぼこしていて、

どんな直線があり、

どんな曲線があり・・・。

 

などなど、

ペットボトルの

「あるがまま」が

「事実」として

見えてきます。

 

これを

「観える」

と言います。

 

対して、

「見える」

とは、

自分の解釈の入った

みえ方です。

もしくは、

自分のフィルターのかかった

みえ方です。

 

私達は常に、

あらゆる物事を

自分の解釈や思考や

自分なりの思い込み

(これをフィルターと言います)

を通して

みています。

 

それを普通に

「見る」とか

「見える」

と表現します。

 

「観察」とは

あるがままをみること、

それを

「観る」とか

「観える」

と表現します。

 

「意識を完全に向ける」

とはつまり、

それを「観る」

ということです。

 

・・・・・・

 

そして

「向き合う」とは、

相手を「観る」

ということに

他ありません。

 

何の思考も

解釈も

思い込みも

なく、

何のフィルターも

なく、

ただ、あるがままを

観る。

 

そして、

あるがままを

聴く。

 

そして、

あるがままを

感じる。

 

これが

「向き合う」

ということです。

 

そのため、

「自分と向き合う」

とは、

いったん自分から

離れて、

その上で

あるがままを

観察したり

聴いたり

感じることを

言います。

 

それをするのが

セルフコーチング

です。

 

・・・・・・

 

ですから、

セルフコーチング力を

高めるためには、

「完全に意識を向ける」

練習をすることを

お勧めします。

 

つまりは、

あらゆるものを

観察する練習を

するのです。

 

例えば、

電車に乗ったら、

一緒の車両にいる人達を

観察します。

 

人を観るのが

ちょっと恥ずかしい場合は、

物でもよいです。

 

天井を観たり、

広告を観たり、

吊り革を観たり、

いろんなものを

あるがままに

観察します。

 

私はよく

研修やコーチングの合間に

散歩をします。

 

その時、必ずしているのが

歩きながら

様々なもの、

もっと言えば

「世界」そのものを

観察しています。

 

意識を完全に

「世界」に向けながら

歩くのです。

 

それが非常に良い

ウォーミングアップになり、

研修中も

人に完全に意識を向ける

ことがしやすくなります。

 

あるがままに

向き合うことが

できれば、

そこから得られる情報は

「凄まじい」ものがあります。

 

よく私は

クライアントさんから

言っていただきます。

「たけうちさん、

どうしてそんなことまで

わかるのですか?」

 

その答えは

実に単純です。

 

「あるがままに観ている」

からです。

 

「あるがままに聴き」

「あるがままに感じている」

からです。

 

この

「あるがまま」を

自分自身に対して

できるようになれば、

「自己理解」は

一気に深まります。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングの基本は

「問うて、待つ」

です。

 

これをもっと

正確に表現すれば、

「問うて、向き合って、待つ」

ということになります。

 

ここでどれだけ

向き合えるか?

つまり、

あるがままを

観たり、聴いたり、

感じ取れるか?

が、

セルフコーチングの質を

決めます。

 

ただ、

このように書くと

非常に難しく

感じられるかもしれません。

 

でもやはりこれも

「慣れ」

です。

 

コツさえわかれば、

一気に

セルフコーチング力は

増していきます。

 

自転車に乗るのと

同じ。

 

自転車も最初は

上手に乗れませんが、

慣れればすぐに

片手運転も

できるようになります。

 

慣れるかどうか?

やるかどうか?

だけのことです。

 

つづく

 

私ほど酷い人は、見たことがない

私達の中にはすでに「道」があり、

その「道」を進むことは

とても勇気の要ることだけれども、

いざその「道」に入ってしまえば、

人としての本来の幸せを

存分に感じることができます。

 

・・・というお話をここまで

させていただいています。

(→前回記事)

 

では、その「道」が

本当の「道」なのかどうか、を

どこで判断すればよいでしょうか?

 

本当の「道」かどうか?

 

とはつまり、

 

真本音の道かどうか?

 

ということです。

 

これを見極めるためには、

真本音と反応本音の区別を

つけられる自分になることが

前提となります。

 

真本音と反応本音の

区別。

 

これは実は、

目と鼻の区別がつくのと

同じくらいに簡単です。

 

でもしかし、

それができる人が

現時点では少ないのが

今の社会です。

 

どうして目と鼻の区別が

つかないの?

目は目だし、

鼻は鼻だし、

目を見て「鼻だ」とは

思わないでしょ。

 

・・・などといつも私は思ってしまう

のですが、

でもそういう私自身も以前は

まったくこの区別がついて

いませんでした。

 

人のことを言えません。

 

だいぶ前のブログでも

書きましたが、

以前の私は本当に酷くて、

いまだに、

以前の私ほど反応本音まみれの

人と出会ったことが

ありません。

 

もちろん以前は、

真本音と反応本音という

区別そのものもありませんでした。

 

でもそれにしても

酷かった。

 

私は、心にフタをする

名人でした。

 

例えば、Aさんのことを

憎んで憎んで憎んで・・・

憎み切っていたのにも関わらず、

そういった心にフタをし、

自分で醜い心を見えないようにし、

「自分はなんてきれいな心の

持ち主なんだ」

と本気で思い込んでいました。

 

その頃の私ともし今

出会ったならば、

出会った瞬間に、

「あぁこの人はダメだな。

どんなサポートも効果がないだろう」

と最初からサポートをしない

と決めるでしょうね。

 

それだけ酷い状態でした。

 

これ、本当にマジなんです。

よく

「たけうちさん、そうは言っても

口で言うほどは酷くなかったでしょ」

と言われるのですが、

本当に、マジなんです。

 

手のつけようのない人間、

とは私のことを言うのだと

今でも本当に思っています。

 

そんな私でも

真本音と反応本音の区別が

つくようになりました。

 

ということは、

人類すべての人が

これはできることであると

私は本当に思っています。

 

では、

それだけ酷かった私が

どのようにして

区別がつけられるようになったか?

 

その第一歩目は、

 

「反応本音を隠さない」

 

ということでした。

 

つまりは、

すべての反応本音を

観察する、ということです。

 

やはりここでも

「観察」

は重要なのです。

 

人間誰しも

見たくない心はあります。

 

こんな心が

自分の中にあってほしくない、

あってはならない、

人として。

・・・そう思う心はあります。

 

でも、

どんな心があっても

よいのです。

 

何があってもOK。

というおおらかな気持ちで

自分の心と向き合うこと。

 

これが重要です。

 

重要ですが、

すぐにできるわけではありません。

 

そこでお勧めは、

自分の心の声を

どんどん紙に書いてみる

ということです。

 

「書く」という行為は

かなり強力です。

 

書いているうちに、

フタが外れるのです。

 

勇気を持って

ちょっとだけ醜い自分の心を

書き始めてみると、

まるでダムが決壊したかのように、

フタをしていた心たちが

溢れ出ます。

 

それをそのまま

書き殴っていくのです。

 

私は初めてこれをやった時、

涙が止まらなく

なりました。

 

あまりに酷い言葉の

数々だったからです。

 

自分が書いている言葉なのに、

自分の言葉とは信じられないくらい

酷い言葉たち。

 

情けなくて悔しくて、

惨めで、

本当に人としての自分を

許せない気持ちになりながらも

それでも

書き続けました。

 

するとある瞬間に

フッと

楽になるのです。

 

私はこれをパソコンで

やっていたのですが、

そのあまりに酷い言葉の数々を

印刷し、

印刷したものを

燃やしました。

 

燃えていく紙を見つめながら

私は自分の心が

燃えていくのを感じました。

 

と同時に

さらに心が楽になるのを

感じました。

 

かといって、

次の日からすぐに

心が変わるわけではありません。

 

次の日もまた、

同じように酷い言葉達が

自分の中から溢れました。

 

でも同じく、

すべてを書きました。

 

そして

燃やしました。

 

これを繰り返すうちに、

数日のうちには、

私はかなりおおらかになっている

自分に気づきました。

 

そうか。

こんな気持ち達を持っているのが

私という人間なんだな。

であれば、それはそれで

しょうがないか。

 

というような、

そんな気持ち。

 

さらにそれを続けると、

そのうちに酷い言葉達は

もう出なくなりました。

 

何かが完了した感覚。

 

出し切った感覚。

 

と同時にわかったのです。

「あの酷い心は

確かに私の心ではあったが、

ただ、私の中に溜まっていた

だけのものなんだな」

と。

 

そうです。

心の中に溜まっているもの。

それが反応本音です。

 

もちろん反応本音とは、

悪いものばかりでは

ありません。

 

人としての喜びとか

嬉しさと、幸せとか

前向きな気持ちとか、

やってやろうという意欲とか、

色々なものがあります。

 

でもそれらの全ては

溜まっている気持ち達。

 

吐き出されれば

消えていきます。

 

すべてが吐き出されても

それでも自分の中に

残っているもの。

 

すべてを吐き出しても

揺るがずに

そこにあり続けるもの。

 

それが

真本音です。

 

私は、

自分の気持ち達を書き続け、

吐き出し続けることによって

初めて真本音の存在を

実感できたのです。

 

つづく

 

自分の中には確かに道がある

「直観力」とは

もともと私達誰にも備わっている

当たり前の力です。

 

それを発揮するためには、

私達は人間としての

「普通の生き方」

をすることが大切です。

 

それができていないので、

本来持っている直観力が

発揮されなくなっているのが

現在の私達です。

 

では、

「普通の生き方」を取り戻すために

大事なのは何でしょうか?

 

その最初のキーワードが

『観察』

でした。

 

この「観察」について

前回まで書かせていただきました。

(→前回記事)

 

ここからは次の

キーワードをご紹介します。

 

「普通の生き方」を取り戻す

次のキーワードは、

 

『道』

 

です。

 

私達の中には

「道」がすでに

できています。

 

私達は自分自身の

「道」を

決めているのです。

 

それに一度でも気づいた人は

もう決してその道を

変えることはありません。

 

どんな環境に自分がいようとも、

そこでどのような現実が

起きようとも、

どのような妨害や障害に

遭おうとも、

その道をあきらめたり、

変更することは

ありません。

 

それは

本人にとっては

とてつもなく太く、

まっすぐで

安定して

気持ち良い

これ以上ない「確かさ」を湛えた

道なのです。

 

一瞬でもそれを

感じ取った人は

そのあまりの存在感に

ある意味、

我を忘れます。

 

しかしそれは本当は

「我を忘れる」のではなく

「我を思い出す」

という状態です。

 

本当の自分、

本来の自分を

思い出すのです。

 

あぁなんだ、

これが私の人生だった、

これが

私の生まれた意味だった、

と単純に

思い出すのです。

 

思い出したらもう

そこを進むだけです。

 

間違っていただきたくないのは、

それは、

「あぁこの会社は違ったな」

とか

「この仕事は違ったな」

とか、

そういったレベルの話では

ないということです。

 

どのような会社にいても

どのような仕事に就いていても、

要するに

どのような環境にいても、

その「道」を進むことは

できるのです。

 

むしろ、

「この環境は違う」

とか

「環境が悪いから自分は

自分の人生を歩めないのだ」

と言っているうちは、

決してその「道」は

見つかりません。

 

一人ひとりに必ず

その人ならではの

「道」

はあります。

 

そしてその「道」を

辿ることは、

今この瞬間から

すぐにできることです。

 

その「道」に

気づいた瞬間から

できることなのです。

 

何の難しさも

複雑さも

準備も

必要ありません。

 

そしていざ

その「道」を歩み始めれば、

人生の時間の

一刻一刻は

本当に満ち足りたものに

なるでしょう。

 

なぜならそこには

「自分を生きている」

という実感が

半端ないからです。

 

傲慢ではなく、

本当に心の底から

「世界の中心は自分である」

と思えます。

しかしかと言って、

自分以外の全ての存在が

ありがたくてしょうがありません。

 

「自分」と「自分以外のもの」

という分離は

あるのだけれども、

しかし確かに

すべては一つであると

感じ取ってもいます。

 

つまりそれは

高い次元の自分の意識が

発動しているからですが、

それは

「道」を歩み始めることで

成されるのです。

 

そういった

自分の「道」。

 

これを見つけるためには

やはり、

自分自身を「観察」することが

必須です。

 

特に、自分の心を

区別しながら観察することが

重要です。

 

その区別こそが、

「真本音」と「反応本音」

です。

 

つづく

今ここで私は何を感じているのだろうか

自分の心を観察する

と言っても、

どうすればよいか?

まったくイメージを持てない

人も多いと思います。

 

実際に、

企業研修の場で

「自分の心を観てみてください」

と私が言っても

大半の方がキョトンと

されています。

 

心とは

目に見えないものです。

 

しかし、

脳を使わなければ、

心とは

ありありと観えてきます。

 

心とは

「実在」です。

 

つまり、

実際に存在するもの

です。

 

3次元のレベルで

それを把握しようとするから

難しいのであって、

もっと高い次元の眼差しを

向ければ、

それはありありと

そこに在るのがわかります。

 

心の「実在」を

感じ取れるようになると、

現代の世の中は

いかに多くの人達の心が

ボロボロであるかが、

本当によくわかります。

 

中には瀕死の重傷を

負っている人もいます。

かと言って

そういった人も

毎日を当たり前のように

お仕事をしながら、

がんばりながら

過ごしています。

 

自動車は

ガソリンが切れれば

ガス欠を起こします。

決して動くことは

ないでしょう。

 

しかし人の心は、

ガス欠を起こしても、

それでも動かしてしまうことが

可能と言えば可能です。

 

ガス欠状態でも

気合だけで動かしている人が

今、いかに多いことか。

 

私からしてみると、

本当によくやってるなぁ、

とある意味驚嘆します。

 

なぜこの人は

こんなにもエネルギーがないのに

これだけ動いていられるのか?

と驚嘆するのです。

 

しかし当たり前ですが、

それは決して良いことでは

ありません。

 

エネルギーのないのが

当たり前。

その状態でもがんばるのが

人間だ。

その状態でもがんばるのが

社会人だ。

その状態でもがんばるのが

ビジネスマンだ。

 

・・・そんな常識は

本当に私達は

捨てるべきです。

 

もっと自分を

エネルギーで満たすことを

考えましょう。

 

そして、

本来のエネルギーとは

自動車のガソリンのように

外から与えられるものでは

ありません。

 

人の心の本来のエネルギー

とは、

内側から自然に

湧き続けるものなのです。

 

つまり私達人間は

すべての人が

心のエネルギーを

自家発電できるのです。

 

しかし残念ながら

それができている人は恐らく、

1割にも満たないでしょう。

 

その事実を

まずは感じ取るためにも

自分自身の心に

意識を向ける必要が

私達にはあります。

 

では、

心に意識を向けるとは

実際には何をすれば

よいでしょうか?

 

その第一歩は、

「今自分が感じていること」

に意識を向ける

ということです。

 

「感じていること」

 

まずはこれが麻痺している人が

あまりに多いです。

 

企業サポートの中での

私の実感値で言えば、

恐らく、

7割以上の人が

麻痺しています。

 

今、自分は

何を感じているのか?

 

イライラしているのか、

心地が良いのか、

悲しいのか、

嬉しいのか、

モヤモヤしているのか、

スッキリしているのか、

恐れているのか、

安心しているのか、

・・・・・・。

 

まず単純に

「快」の状態なのか?

「不快」の状態なのか?

を自覚するとよいでしょう。

 

まず、これが

できていません。

多くの人が。

 

例えば、

Aさんから一言を

もらった。

 

その一言によって、

自分の心が

どう動いたのか?

 

「快」の方向に動いたのか?

「不快」の方向に動いたのか?

 

その時その瞬間の

特に、人との関わりの現場

において、

自分の心がどう感じているのか?

に敏感になることが

とても重要です。

 

今日一日を振り返って

どうだったか?

というのももちろん大事ですが、

それ以上に、

 

「今この瞬間、

自分はどう感じているのか?」

 

に敏感になることこそが、

人として「普通に生きる」ためには

必須です。

 

人生とは、

現場です。

 

現場とは

今この瞬間です。

 

今この瞬間に

感じていることを

自覚することが

生きる

ということなのです。

 

まずはこの当たり前のことを

できる自分に

戻ることです。

 

これが、

ファーストステップ

です。

 

つづく

 

観察するだけで私達は自由になれる

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

重要。

そしてそのための第一のステップが

『観察』

であり

『観る』

ことです。

・・・というところまで

お話ししました。

(→前回記事)

 

「観る」とは、

あるがままを見る、

ということなのですが、

実はこれはさらに本質的なことを

言えば、

「脳を使わずに見る」

ということにもなります。

 

こういう書き方をすると

かなり難しい印象を

受けるかもしれません。

 

しかしあえてここでは、

本質的な表現を

使わせていただきます。

 

「観る」とは

ここにあるすべてのものを

脳を使わずに見ることであり、

感じることであり、

それをしている自分自身は

その瞬間は、

「ここに在るだけの存在」

となります。

つまり、自分には

何の解釈もなく

何の評価もなく

何の判断もない

状態です。

 

これは正しい、とか

それは素晴らしい、とか

反対に

これはおかしい、とか

これはつまらない、とか

そういった

自分の中から発生する心、

つまりは反応本音からは

完全に解放されています。

 

ただし、解放とは、

それらの反応本音をゼロにするとか

抹消するということでは

ありません。

 

それらの反応本音それ自体も

観ている状態です。

 

つまり、

自分の心の中にあるものも

外にあるものも、

すべての存在を

観ている状態であり、

それをしている自分自身は

すべてから解放されています。

 

「ただ在る」

 

それ以上でも

それ以下でも

ない状態となっています。

 

そこには

何があっても

よいのです。

 

そして、

すべてから

解放されています。

自由です。

 

これこそが

「自然体」と言えるもの。

 

私達人間にとって

「普通」の状態です。

 

いやいや、

そんな、まるで悟りを開いたかのような

状態が普通であるはずかない、

それは修行を積んだ

特別な人が手に入れる

特別な状態だ、

と思われる人もいるかも

しれません。

 

いやいや、

その固定観念こそが

私達の生き方と

今のこの世の状態を

創り出してしまっています。

 

それは本当に

特別な状態ではなく、

誰もがもともと持っている

普通の状態です。

 

別にその状態になることで

人格者になるわけでも

ありませんし、

超人になるわけでも

ありませんし、

稀有の存在になるわけでも

ありません。

 

何があっても

オールOK。

しかしその「オールOK」とは

解釈による「オールOK」ではなく

本当にただそこに在るだけの

「オールOK」です。

 

そうなれた時、

私達は

今ここに在るすべてのものを

リアルに

ダイレクトに

実感できます。

 

それはある意味

実に感動的です。

かといって

気持ちが高ぶる感動ではなく、

トツトツとした

魂が静かになるような

安心感と安堵感に満たされた

感動です。

 

その時の実感をあえて

心の声として表現すると、

「あぁなんだ。

すべてが普通ではないか」

・・・というような感じに

なります。

 

すべての存在に対してそれが

「存在していることを承認」

しています。

 

すると自分自身から

とてつもないエネルギーが

発生します。

 

それは、すべてを存在承認しながら

その「分離」を楽しんでいるが故に

発生するエネルギーです。

 

そのエネルギーは

分離して存在している

あらゆるものを

大切にしよう、

それらと

一つになろう、

というエネルギーです。

 

それを私達の言葉で

『愛』

と言います。

 

この「愛」を発する状態で

すべての物事と向き合い、

関われば、

あらゆる物事が

調和していきます。

 

物事がすぐに

頓挫する人生を送る人と、

物事がどんどん

調和する人生を送る人の

違いが

この「愛」の発生量です。

 

私達がもともと持っている

このエネルギーを

使いながら生きるかどうか?

なのです。

 

・・・

だいぶ今回は

本質をそのまま躊躇なく

表現する文章に

なってしまいました。

 

できましたら、

今回の文章は

頭で解釈するよりも

魂でそのまま

感じ取っていただけると

よいかな、

と思っています。

 

次回からは、

自分の心の「観察」の仕方、

自分の心を「観る」コツ

などを

お伝えいたします。

 

つづく

 

人としての生き方を取り戻す最初のステップとは

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

大事です。

・・・ということを前回記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

人間としての

普通の生き方・・・。

 

これも前回書きましたが、

まずそのためには、

私達は私達の心にもっと

意識を向けなければ

なりません。

 

私達の心とは

宇宙と同じです。

 

とてつもなく広く

とてつもなく深いです。

 

そこには

すべての真実が

存在しています。

 

すべての答えが

すでにあるのです。

 

にも関わらず、

私達は外に答えを

求めます。

 

本当の答えとは

外にはありません。

 

自分の人生の答えは

自分の中にあります。

 

ただその答えを見出す

きっかけとして

外からの刺激が

必要な時があります。

 

外に意識を向け、

内側にも意識を向ける。

 

両方を観察する。

 

それがまずは、

人としての普通の

生き方です。

 

つまり最初のテーマは

『観察』

です。

 

私達は、あまりにも

観察をしていません。

 

例えば、

机の上に

ペットボトルが置いてあった

とします。

 

それを見た私達は

「あっ、ペットボトルがあるな」

と思います。

 

それで終わりです。

 

しかしそれは

観察ではありません。

 

「ペットボトルがあるな」

という解釈をしているに

過ぎません。

 

観察とは、

そのペットボトルを

あるがままに

よく見ることです。

 

あるがままに見る。

・・・これを

『観る』

と表現することにします。

 

ペットボトルを観る

ことにより、

そのペットボトルの

細かい部分が目に入る

と思います。

 

例えば、

ラベルの模様とか、

そこに書かれている文字の形

とか。

ペットボトルに刻まれている

ギザギザの形とか。

 

もしお手元に

ペットボトルがあれば、

ぜひ一度、まじまじと

観てみてください。

 

普段、気づいていないものを

たくさん観ることが

できます。

 

それが

観察です。

 

ペットボトルの観察が

できたら、

今度は、外にあるあらゆるものを

観察してみてください。

 

観てください。

 

例えば、

いつも会社に行く道のりで

目に映る様々なもの。

 

それらをよく

観てください。

 

世界が違って

観えるはずです。

 

それができたら今度は

人を観察してみてください。

 

いつも接している

職場の人とかご家族とか

お友達とか。

 

電車の中の見知らぬ人でも

よいです。

 

いろんな人を

観てください。

 

ひょっとするとそれだけで

人生観が変わるかも

しれません。

 

実際に昔、

私がそれをしてみた時は、

私は本当に

人生観が変わったと

思いました。

 

自分がいかに

世界を観ていなかったか、

現実を観ていなかったか、

人を観ていなかったか、

ということにかなりの

ショックを受けました。

 

そのように、

外の世界を観察し続けたら、

今度はいよいよ

同じような感覚で、

自分自身を観察します。

 

まずは鏡で

自分の顔や姿を

ありありと観てみてください。

 

どんな表情、

どんな空気感でしょうか。

 

そして

自分の心を観察します。

 

「心を観察する」のと

「心の中で解釈する」のは、

根本的にまったく

異なります。

 

自分の心をまるで

他人の心のように、

あるがままに

観てみてください。

 

最初はそれがどういうことか

まったく理解できない人も

いるかもしれません。

 

でもそれでも、

観察しようとしてみて

ください。

 

どうしてもそれができない人は、

自分の心の中に浮かんでくる

自分の気持ち達を

何か紙にそのまま

書いてみてください。

 

そして紙に書かれた

自分の気持ち達を

観察します。

 

そういったことを

続けてみてください。

 

すると、

ある時に自然にわかるはずです。

 

自分の心の

あまりの広がりと

深さを。

 

心とは宇宙と同じ

であることを。

 

それを実感できるまで

続けていただくとよいですね。

 

心が宇宙と同じくらい

広くて深いものであると

実感できたら、

それだけでもう

人間を観る目が違ってくる

はずです。

 

つづく

 

今まさに次元を上がろうとしている人へ

以前にも一度、書かせていただきましたが、

次元を一つ上がる、

というのは相当に大変なことです。

 

ですが、

今はそれを成そうという人が

急増しています。

 

次元が一つ上がるというのは、

私がいつも表現している

「脱皮」

というもののの中でも

最大級のものです。

 

その直前にいる人が今、

急増しているのです。

 

次元が上がる直前まで来ますと、

人は、どんな人であっても

極度の不安定になります。

 

すると、

自分の最も弱い部分が

クローズアップされます。

 

例えば、

以前は新しいことにチャレンジしよう

という場面になると

非常に臆病になり、そこから

逃げ出そうとする、

・・・そんなパターンを持っていた人が

自分の努力によって

新たなことにも躊躇なく

チャレンジできる自分創りが

できていたとしましょう。

 

次元を上がる手前に来ると、

その人は、

まるでこれまでの努力が

まったく水の泡ではないか、と

思ってしまうくらいに

臆病になります。

 

新たなことに対するチャレンジ

どころか、

ほんの些細なことに対しても

気弱になり、

少し極端に言えば、

生きることそのものに対しても

気弱になります。

 

いったい自分は

どうしてしまったのだろう?

 

これまで自分で自分を

成長させて来たのに、

これまでのがんばりは、

いったい何だったのだろう?

 

・・・とショックを受けることに

なります。

 

しかし本当は

次元を上がるという

滅多にないような脱皮の手前の

不安定期にいるだけのこと

なのです。

 

それを教えてくれる人が

傍らにいればよいのですが、

ほとんどの人が

わけがわからないままに

もがき苦しみます。

 

私はこの時期こそ、

人が人生において

最もサポートが必要な瞬間であると

思っています。

 

もしこの文章を読んで、

ひょっとして自分は

次元が上がる直前かもしれない、

と思われた方は

以下のことをお勧めします。

 

まず、

自分自身の「中心軸」を

意識します。

 

「中心軸」とは

・おへその奥の体の中心と

・頭のてっぺんの中心を

結んだものです。

 

まずは、自分自身のその「中心軸」

を感じ取ってください。

 

そして、

どれだけ心が不安定に

揺れ動いているとしても、

その「中心軸」には

何ら影響がないことを

自覚してください。

 

「中心軸」はとてもしっかりし、

しかもしなやかで柔軟性もあり、

光り輝いているはずです。

 

まずはその安定感を

自覚してください。

 

そしてそれができたら、

常に「中心軸」に意識を向け、

そここそが自分の立ち位置であることを

自覚し続けてください。

 

すべての現象を

「中心軸」から観察するように

します。

 

特に、自分自身の心の動きを

あるがままに観察してください。

 

心は大揺れに揺れている

と思います。

 

その揺れを止めようとせず、

それをそのままに

しておきます。

そして、

ただ観察のみをします。

 

その揺れは、まるで

終わることのない大嵐のように

感じるかもしれません。

しかし

それでよいのです。

 

心の大揺れ具合を

「中心軸」から観察し続ければ、

だんだんと慣れて来ます。

 

どれだけ揺れていても、

その揺れ自体を

「おぉ、すごいなぁ・・・」

と客観的に映画を観るかのように

少しずつ楽しめるように

なります。

 

そこまでできたら

ほぼ大丈夫です。

 

その状態を日々、

維持してください。

 

次元を一つ上がるまでの時間は

人それぞれです。

 

数日で終わる人もいれば、

数ヶ月かかる人もいます。

 

大事なのは、

今のその状態に抗おうとせずに

ただ「あるがまま」を

観て、感じてください。

 

すべての自分の行動は、

「中心軸」にいる自分で

決めます。

 

それだけであとは、

自然の成り行きに

任せましょう。

 

次元を一つ上がることが

できれば、

それまでの大揺れが

嘘だったかのように、

晴れやかで安定した自分に

なれます。

 

パワーも

見違えるほどに内側から

湧き上がって来ます。

 

パワーは湧いて来ますが、

自分自身は

淡々としています。

 

極めて普通の状態。

 

でも、頭はクリアで、

目に映るすべてのものが

輝いて見えるでしょう。

 

すべてを

愛おしく感じるでしょう。

 

無理に、意図的に、

そういった状態をつくろうとは

しないでください。

 

ちゃんと時が来れば

自然にそうなれます。

 

せっかくなので、

滅多にない「今」を

楽しんでくださいね。

 

つづく

 

向き合い方一つで発想が変わる

人を主にすることで輝く人がいます。

(→前回記事)

 

そういったタイプの人は

コーチに非常に向いています。

 

要するに、

『コーチタイプ』

と言えます。

 

コーチタイプの人は

どのように人と関わればよいでしょうか?

 

その基本は

実にシンプルです。

 

それは、

「その人のことをあるがままに観察する」

ということです。

 

実は、

コーチタイプではない人がこれをやろうとしても、

「あるがまま」というのが結構難しいのです。

 

「あるがまま」観察しているつもりでも、

知らぬ間に自分の解釈のフィルターをかけて

その人のことを色眼鏡で捉えてしまう傾向があります。

 

そういった人はむしろ、

自分自身の願いと向かい合って進んだ方が

周りとの調和を起こしやすいのです。

 

コーチタイプの人は、

人をあるがままに観察することで

直観が非常に多く働くようになります。

 

その直観に素直に従って、その人と関わることで

その人にパワーを与えたり、

その人にとっての必要な気づきを喚起したり、

その人自身が自らの指針を見出すサポートを

することができます。

 

相手をあるがままに観察しながらコミュニケーションを

とっている状態を、私は

『レベル3コミュニケーション』

と呼んでいます。

 

コーチタイプの人は

このレベル3コミュニケーションが得意なのです。

 

まず私は、弓江さんに

レベル3コミュニケーションのコツを

お伝えしました。

そして2週間、それを実践していただきました。

 

実践の第一段階として、

「とにかく木村さんを、あるがままに観察する」

ことのみに集中していただきました。

それ以上のことは

「あえて何もしないでください」

とお願いしておきました。

 

すると、2週間後の弓江さんからの報告は

私の予想を超えるものでした。

 

「たけうちさん、

木村という人間は、かなり器が大きいのでは

ないでしょうか。」

 

コーチングの最初に弓江さんはいきなり

そう言われたのです。

 

私は少しびっくりしました。

 

「どうしてまた、そう思われたのですか?」

 

「いえ、何となくですが、

毎日できるだけ、あるがまま、を意識して木村を

観察し続けたら、日に日に彼が大きく見えるように

なったんです。」

 

「特に木村さんのどんな振る舞いを見たときに

そう思われました?」

 

「う〜ん、何か振る舞いがあったからそう思った

というわけではないんですよね。

木村の存在自体に大きさを感じたと言いますか。」

 

「その彼の存在の大きさと、彼の言動が

一致している瞬間というのはどんな時でした?」

 

「・・・あっ、そうそう。

彼が瞬時に決断する時です。

木村はよく思考に入ってしまうのですが、

時々直観的に決断を下す時があります。

その時の木村の表情はとても晴れやかで。

しかも、その場の空気感が安定します。

なんか、守ってもらっているような安心感です。

そんな時に、彼の大きさを感じました。」

 

「いや、すごいなぁ、弓江さんは。

なかなか最初からそこまでの観察は

できないですよ。」

 

「えっ、そうですか?

あるがまま、ということだけ意識すれば

普通にできますよ。」

 

やはりこの人はコーチタイプです。

 

「それ以外に、木村さんについて

何か気づいたことはありますか?」

 

「う〜ん、上手く言えないのですが、

彼、何かに取り憑かれてませんか?」

 

つづく

 

簡単簡単、ツボを押すだけ

組織には「ツボ」があります。

 

人間の体と同じく、

このツボを押せば健康になれる、

このツボを押せば活性化する、

という要所があります。

 

ただ、人間の体と違うのは、

その要所は、移動するということです。

 

具体的に言えば、

「今は誰にどのような刺激を入れることで、

全体の活性化につながるか?」

という、ツボとなる人が必ずいるということです。

 

しかもそのツボは、

人から人へと受け継がれていくもの。

 

そういった前提に立てば、

「今、ツボとなる人に対して、誰をどうつなげばよいか?」

が、組織活性化の最重要ポイントの一つになります。

 

前回の記事では「調和性」という考え方を

ご紹介しました。

(→前回記事)

 

その視点から言えば、

・今、ツボとなる人は誰か?

・その人と調和性の高い人は誰か?

・それらの人達をどのように結びつけるか?

というマネジメントをします。

 

それが「人と人をつなぐマネジメント」の基本です。

 

平井さんは、それをし続けました。

 

上記のように書きますと、

少し難しいことのように感じるかもしれませんが、

それは日常的に活用できることなんです。

 

例えば平井さんがいつも気にしていたのは、

今は誰と誰がランチを一緒に食べると良さそうか?

ということです。

 

ツボになる人がAさんだとして、

今はAさんと調和性の高い人はBさんだから、

AさんとBさんが一緒にランチすると良さそうだな。

そこでは、このようなテーマのお話をすると良さそうだな。

・・・というようなことを考え、

平井さんはAさんとBさんを一緒にランチに誘います。

 

誘わなくても、さりげなくそのような

シチュエーションを創ることもあります。

 

そしてさりげなく、そのようなテーマを

話題として出して、堅苦しくなく、

ランチを楽しみます。

 

例えば、ミーティングや会議も同様です。

 

今は誰と誰がどのようなテーマで

ミーティングを行なえばよいか?

そこでは、どのような席順で座ればよいか?

そして、どのような順番で

意見を求めればよいか?

などを発想し、そういった場を創ります。

 

ただし、発想した通りに絶対に物事を

進めなければならないということでは

ありません。

 

できるだけ綿密に発想しますが、

あとはその場のムードや流れに任せます。

 

「その方が面白い展開になりますから」

と平井さん。

 

こういったことを日常的に

繰り返していくだけでも、

組織の調和度合いや活性度合いは

根本的に変化します。

 

こういったことは平井さんは

最初からわかっていたわけではありません。

 

いつもじっと社員さん達を観察し、

(義務としての観察ではありません。

興味を持ち楽しみながら観察し続けていました。)

いつも順番に社員さん達と面談を続ける中で、

思いつき、自然にやり始めたことです。

 

しかしその効果があまりにも大きく、

いえ、大きいどころか

そういった些細なことから想定外の

面白い展開がたくさん生まれるのを目の当たりにし、

平井さんは

「何気ない日常における、一つ一つの“つなぎ”こそが、

組織活性化の要だ」

と気づかれたのです。

 

しかし平井流リーダーシップは

これだけでは終わりません。

 

普段、このような“つなぎ”をしておいた上で、

ある時、ある瞬間に、

ある大きな刺激を入れるのです。

 

つづく