わかり合えないよ

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人と人は

わかり合えるのか?

 

問われたら、

私はいつも

あえて

こう答えることに

している。

 

わかり合えません。

 

と。

 

建前ではない。

 

本当に私は

そう思っている。

 

だからこそ、

わかり合おうと

することが

大事なのだと

 

私は思うのだ。

 

・・・・・・

 

わかり合えた。

 

思うことは

傲慢ではないか。

 

極端な言い方だが

これも私は

強く思う。

 

お前のことは

私がよく

わかっている。

 

・・・と

過去に私は

何人もの人から

言われた。

 

その度に、

言いようのない

気持ち悪さを

感じた。

 

不自然さを

感じた。

 

そして

そんなこと

単なる思い込みだろ、

と。

 

だって、

私のことは

私すら

わからない。

 

今、私は

かなり

セルフコーチング力が

あると思う。

 

例えば10年前と

比べれば、

何十倍も、いや

何百倍も

私は深く自分自身を

見つめているし

向き合っている。

 

その分、

自分のことを

理解はできた。

 

しかし

理解すればするほど

わからなくなるのが

人間なんだ、

という

事実も痛感している。

 

・・・・・・

 

わからないことや、

わかり合えないことが

悪いことだとは

私は決して思わない。

 

むしろ

わかり合えないからこそ、

人生は面白いし、

 

我々人間が

体の数だけ分離し、

皆がバラバラに

生きているところに、

この世の意味と意義が

あるのだと思う。

 

もちろん、

 

わかり合えれば

わかり合えるだけ

嬉しい。

 

Aさんとの関係が

以前よりも

深くなればなるほど、

 

理解し合えれば

し合えるほど、

Aさんのことは

好きになるし、

Aさんとの人生も

幸せが増えるだろう。

 

しかしだからと言って

「もう私達は

わかり合えた」

とは

思わない方がいい。

 

逆に言えば、

もっともっと

私達は

わかり合えるのだ。

 

わかり合う

ということには

限りがないのだ、

とも

言える。

 

そういった意味で、

 

人と人は

わかり合えない

 

捉えておくことが、

その姿勢こそが、

大事であると

私は思っている。

 

・・・・・・

 

「わかる」

とは

そもそも

顕在意識レベルの

心の作用だ。

 

私達の顕在意識は

永遠に

「わかる」ことが

ないようにできている。

 

だからこそ、

「よりわかりたい」

「よりわかろう」

とする。

 

それこそが

私達の

顕在意識レベルの

健全な

在り方だろう。

 

つづく

 

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