人生の選択肢は
いくらでもある。
あの時、
こうしておけば
今頃どうなっていただろう?
という疑問は
誰しも一度は
持ったことがあるのでは
ないか。
しかしそういった
思い出せる分かれ道
もあるが、
実は、記憶に残らない
細かな選択の場面は
無限と言ってよいほど
あるものだ。
例えば、
ある日、ランチに何気なく
入った店で
ちょっとした発想が生まれ、
その発想が
ゆくゆくの大きな展開を
生み出した、とか。
そんな場合、
私達はよく
「あの発想があったからこそ」
という記憶の仕方をするが、
しかし実は、
あの時、あのランチの店に
入ったからこそ
その発想が生まれた
のである。
もし店が違ったら、
発想は生まれなかった
かもしれないし、
生まれたとしても
そのタイミングが
変わっていた可能性は
充分にある。
どんな発想が
生まれ、
それをどのように
行動に移したか?
ということと、
あらゆる発想や行動の
タイミング、
によって
人生の展開は
次々に変わる。
そう考えると、
私達はあまりにも無数の
選択肢の中にいる。
それが私達の
日常だ。
その日常の中で、
「最善」を
選んでいく。
一つ一つ、
ほんの些細なことにも
「最善」を
選んでいく。
それが
真本音で生きる
ということだ。
最善かどうか
は
わかるのですか?
というご質問を
いただくことがある。
私は明確に
答える。
「わかりますよ」
と。
今の自分が
最善の選択を
し続けているかどうか、
は、
自分自身の実感として
実によくわかるのだ。
それはまるで、
自分が今、立っているのか
座っているのか、
を知るのと同じくらいに
明確にわかるものだ。
真本音度合いが高まる
ということは、
それがわかるようになる、
ということでもある。
もともと人には
そのような感性が
備わっており、
それが発現する
だけだ。
真本音で生きる
ことは、
人としての
もともと持ち合わせている
様々な力を
発現させてくれる。
つづく