選択肢

無数にあるんだよ

 

人生の選択肢は

いくらでもある。

 

あの時、

こうしておけば

今頃どうなっていただろう?

 

という疑問は

誰しも一度は

持ったことがあるのでは

ないか。

 

しかしそういった

思い出せる分かれ道

もあるが、

実は、記憶に残らない

細かな選択の場面は

無限と言ってよいほど

あるものだ。

 

例えば、

ある日、ランチに何気なく

入った店で

ちょっとした発想が生まれ、

その発想が

ゆくゆくの大きな展開を

生み出した、とか。

 

そんな場合、

私達はよく

「あの発想があったからこそ」

という記憶の仕方をするが、

しかし実は、

あの時、あのランチの店に

入ったからこそ

その発想が生まれた

のである。

 

もし店が違ったら、

発想は生まれなかった

かもしれないし、

生まれたとしても

そのタイミングが

変わっていた可能性は

充分にある。

 

どんな発想が

生まれ、

それをどのように

行動に移したか?

 

ということと、

 

あらゆる発想や行動の

タイミング、

 

によって

人生の展開は

次々に変わる。

 

そう考えると、

私達はあまりにも無数の

選択肢の中にいる。

 

それが私達の

日常だ。

 

その日常の中で、

「最善」を

選んでいく。

 

一つ一つ、

ほんの些細なことにも

「最善」を

選んでいく。

 

それが

真本音で生きる

ということだ。

 

最善かどうか

わかるのですか?

 

というご質問を

いただくことがある。

 

私は明確に

答える。

 

「わかりますよ」

と。

 

今の自分が

最善の選択を

し続けているかどうか、

は、

 

自分自身の実感として

実によくわかるのだ。

 

それはまるで、

自分が今、立っているのか

座っているのか、

を知るのと同じくらいに

明確にわかるものだ。

 

真本音度合いが高まる

ということは、

それがわかるようになる、

ということでもある。

 

もともと人には

そのような感性が

備わっており、

それが発現する

だけだ。

 

真本音で生きる

ことは、

人としての

もともと持ち合わせている

様々な力を

発現させてくれる。

 

つづく

 

ここで分かれているんだよ

 

人生の分岐点が

観えるかな?

 

これから

あなたの道は

いくつに

分かれているだろう?

 

ちゃんとそれを

観るんだよ。

 

そこに

分岐があるのに

それを認めず、

単に惰性のみで

進むのは

絶対にやめて

ほしいんだ。

 

なぜなら、

この分岐地点まで

来れたのは、

あなたのこれまでの

誠実さと努力の

成果だから。

 

やっとここまで

来れたんだ。

 

ここからが

本番だ。

 

だから、

ちゃんと自らの

選択肢を

自ら見つめ、

真本音で決めて

ほしい。

 

人生に

正解はない。

 

自分の正解は

自分で

決めるんだ。

 

そのためには

ちゃんと

問い

と向き合うことだ。

 

私には今、

どのような選択肢が

あるだろうか?

 

そして私は

どの選択を本当は

したいのだろうか?

 

と。

 

大事な

時間だ。

 

今は。

 

しっかり

自分自身と

向き合う時だ。

 

つづく

 

嫌いになるのは悪いこと?

私達人間には誰しも、

好き・嫌い

があります。

 

嫌いなものがあった場合、

それを

「好きになろう」

とする人がいます。

 

例えば、

嫌いな人がいたとしても

その人のことを

好きになろう、

とします。

 

そういった生き方をしている人を

見ると、

私は素直に、いいなぁ、と

思います。

 

が、その生き方を

無理にし過ぎている人にも

これまで多く出会いました。

 

無理にし過ぎることで、

その人は自分の中の

「嫌い」

という気持ちにフタをして

しまいます。

 

そんな気持ちはないのだと

自分で自分をごまかして

しまいます。

 

その上で、

「好きであろう」

としますので、かなり心に

無理が生じ、

その無理無理感が

おかしな空気を生みます。

 

その空気感は実は

誰もが感じ取っていて、

その人の

「好き」

は、実はとても不自然なものだと

誰もが薄々わかってしまいます。

 

「好きになろう」

という気持ちは大切ですが、

「好きであらねばならない」

までいってしまうのは

苦しいです。

 

そういった人を観ると私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

ちょっと極端に言いますが、

私は思うのです。

 

嫌いなのものは

嫌いでよいではないか。

 

・・・と。

 

「好きだ」

「嫌いだ」

という、自分から湧く

素直な気持ちは

人間として当たり前のものなので、

それはそれでよいではないか、

と。

 

そこを否定することは

人間そのものを否定して

しまっている気がします。

 

ただし、・・・ですが。

 

「嫌いなものは嫌いだから、

そこは避けて通る」

とか、

「嫌いな人とは接しない」

とか、

「嫌いなものはすべて

拒絶する」

とか、

そういった人も私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

そこには

「選択肢」

がないからです。

 

「嫌い」

だから、

関われない。

 

「嫌い」

だから、

離れずにはいられない。

 

「嫌い」

だから、

受け止められない。

 

というのは、

その選択肢でしか

生きられないということです。

 

つまり

「嫌い」なものに

翻弄されている。

 

自分以外の何かに

翻弄されている。

 

・・・ということ。

 

それは、

人生のハンドルを

自分以外の他の何かに

握られているということと

イコールです。

 

一つの視点から言えば、

私は、自由とは

「選択肢の多さ」

にあると思っています。

 

つまり、

選択肢が多ければ多いほど

自由である、と。

 

どのような環境においても、

どのような状況においても、

自分の選択肢を

たくさん創ることのできる人こそが

自由ではないか、と。

 

「嫌いだから、関われない」

というのは、

たった一つの選択肢しか

ありません。

 

その選択肢以外の選択肢を

得られるようにすることが

より自由になるということでは

ないでしょうか。

 

それを「問い」として表せば、

次のようになります。

 

もし何か嫌いなものに遭遇した

として、

 

「嫌いなことはわかった。

では、その嫌いなことに

私はどのように関わろうか?」

 

ということですね。

 

その関わり方に

多くの選択肢があればあるほど

自由です。

 

選択肢が多い、

ということはそれだけ

「最善の選択」

をしやすいということです。

 

選択肢が少ないと、

そこには

「妥協」

が発生しやすいです。

 

「妥協」とは

自分が本当は納得していない

答え。

 

「最善」とは

理想とは違いますが、

今の状況においてはこれが最高だな、

と自分で納得できている

答えです。

 

妥協の道ばかりを

行く人は

自由ではありません。

当然ですが。

 

最善の選択のできる人が

自由なのだと

私は思います。

 

真本音で生きる度合いが

高まると、

単純に言えば、

その、最善の選択の度合いが

高まります。

 

つまりは、

今、自分は何を

最善と思っているか?

が、

すぐに明確になります。

 

そういった人生は

楽ですし、

自由ですね。

 

つづく

 

いつ決断するか? ホントに今?

私達の真本音は、

決断のタイミングを

とても大切にします。

 

いつ、決断するか?

 

同じ答えだとしても、

いつその答えを出すか?によって

その後の展開は

根本的に異なる可能性が

あるからです。

 

決めるべき瞬間に

決める。

 

決めてはならない時は

決めない。

 

後回しにすべきことは

きちんと後回しにする。

 

それが、

本当の意味での

「決断」

のポイントです。

 

決断とは、

決めて断つ

こと。

 

つまりは、

一本の道を決めて、

他の道をすべて

断つこと、

手放すことです。

 

完全に一本に

決めるからこそ

私達はそこに全パワーを

集中させることができます。

 

そして、

全パワーを集中させるからこそ、

物事は成就します。

 

逆に言えば、

99.9%のパワーでは

成就しない物事が

とても多いです。

 

私達の真本音は

100%のパワーを出すために、

いつ、どのような決断を

すればよいか?

を見極めているのです。

 

以上を少し別の視点から

表現すると、

 

「準備ができてから

決断する」

 

という言い方もできます。

 

逆に言えば、

 

「準備ができないうちは

決断しない」

 

ということです。

 

「準備」とは、

自分自身の準備もありますし、

決断することで関わることになる

あらゆる環境(人や組織や物事すべて)

の準備もあります。

 

しかも準備とは、

実在レベルの準備もあれば、

現象レベルでの準備も

あります。

 

それは到底、

私達の頭(理屈)では

捉えきれないものです。

 

そういったあらゆるものを

感知しながら、

私達の真本音は

「準備が整ったかどうか?」

を判断します。

 

準備が整う前に

勇み足で決断してしまうことを

私達の真本音は

望みません。

 

そして、

準備がすでにできているのに

それでも決断を遅らせることも

私達の真本音は

望みません。

 

では、

準備ができているかどうか?

今、

決断すべきことがあるかどうか?

はどこで

判断できるでしょうか。

 

それを言葉にするのは

実はちょっと難しいのですが、

あえて言えば、

 

「自分の内に満ちる光」

 

によって判断できます。

 

よく私は

「自分と向き合う」

という言葉を使いますが、

自分と向き合うとは、

自分を客観的に見つめる

ことでもあります。

 

今ここにいながらも、

自分の姿を

自分の少し離れたところから

見つめることは

できますか?

 

これはコーチングでは

一般的に

「デソシエイト」と呼ばれる

状態です。

 

自分から離れて

客観的に自分を観る

のです。

 

それができれば、

今自分の内側に

どれだけの光が満ちているか?

を知ることができます。

 

自分は今、

光り輝いているのかどうか?

 

その光は、

外から与えられたものか、

それとも

自ら、内側から発しているものか?

 

それを確認します。

 

そして、

「あぁ今の自分は、

自分の内側から光が

満ちているなぁ」

と素直に思えたら、

今が決断の時です。

 

それは、

準備が整っているという

証です。

 

私はどちらかと言えば、

自分がその状態になったことを

まずは察知します。

 

で、その後で、

じゃあ今何か、決断すべきことが

あるんだな、

と気づき、

何を今、私は決断しようとして

いるのだろう?

と自分に問いかけます。

 

自分で自分を

コーチングするのです。

つまり、

セルフコーチングです。

 

すると、そういう時はすぐに

答えが浮かびます。

 

あっそっか、

この件についての決断だな、

と。

 

すると次に私は、

では、答えとしての選択肢は

何と何があるのだろうか?

と選択肢を明確にします。

 

選択肢は二つの場合もありますし、

もっと多い場合もあります。

 

どの道とどの道とどの道が

あるのかな?

ということが明確になれば、

あとは簡単です。

 

では、私はその中で

どの道を選択しようか?

 

どの道を

一本道として

選ぼうか?

 

と、問いかけます。

 

するとすぐに

答えがわかります。

 

それは、

確信の答えです。

 

わかった瞬間にそれは

確信となります。

 

迷いは

一切ありません。

 

決断すべき瞬間に

これをすれば、

とてもスッキリと

決断できるのです。

 

上手く決断できない人は、

このタイミングを

外しているという可能性が

高いです。

 

決断とは、

手放すこと。

 

手放すには

確信が必要です。

 

迷いながら何かを手放す

というのは

きついですし、

執着がどうしても

生まれます。

 

決断すべきタイミングを

逃さない。

 

・・・これ、

ぜひ大切にしてみてください。

 

つづく