チームパフォーマンスコーチ

対峙は常から

洞窟から
溢れ出るものが
ある時に、

しっかりと
それらと
対峙できるか?

どんな時も。

つまりは
どんなに
調子の悪い時
でも、

しっかり
対峙できる
自分で
いられるか?

ということを
私は常に
大切にしてきた。

私は
私の弱さを
知っているので、

だからこそ
余計に。

いざという
時に
逃げ腰に
ならぬよう。

どんな
瞬間にも
対峙すべきものと
対峙できる
ように。

・・・・・・

対峙、
とは
戦うことばかり
ではない。

共に
愛し合うのも
対峙の
一つだ。

守ることも
守られることも
対峙だ。

全身を
さらし、
全身で
感じ、
全身で
発する。

そこに
余分な防波堤や
防御の壁や
クッションや
緩衝材などは
一切
必要ない。

素っ裸の
ままに
対峙することが
対峙、だ。

だから
ある時は
大きく傷つけられる
かもしれない。

ダメージを
得てしまうかも
しれない。

でもそれが
どうした。

そうなったら
そうなった時だ。

というくらいの
開き直りで
ここにいる。

そんな自分

育ててきた。

強くなれたか?

問われれば、

全くその
実感はない。

だから
私は弱い、
という
自己イメージの
ままでいる。

ただそのことと
対峙できるか
どうかは、
別次元の
話だ。

やるべきことを
やる。
そのために
対峙する。
あらゆる
現実と。
存在と。

すると、
そこでしか
起きない現実が
展開を
始める。

地道な対峙は
ある瞬間に
現実を
ゴリッと
動かすんだ。

つづく

本当にこれで良いのか

昔からの
やり方を
変えよう!
という動きは

今の世の中の
あちこちで
始まっているし、

様々なものが
実際に
壊されたり、
再構築されたり
しているが、

本当に
それで
いいのか?

それらは
本当に
壊したことに
なるのか?

本当は
もっと
肝心なところを
壊さなければ
ならないのでは?

我々は。

・・・という
疑問符はずっと
私の中にある。

壊すフリ、

という言葉が
どうしても
浮かんでくる。

本当に壊す
べきところには
触れずに、

そうでない
ところを
懸命に壊して
満足している。

結局は、
何も
変わったことに
なっていない。

世の中は
何も
変わっては
いない。

いやむしろ、
荒んでいる
だけ。

・・・では
ないか。

穿った見方
ではないと
思う。

なぜなら
本当に
壊し、
本当に
変わっているなら、

私達は
もっと
幸せ感に溢れる
はずだ。

内側から

芯から

溢れるエネルギー

あるはずだ。

私達は
何度も何度も
表面的な部分を
取り繕って
きた。

それが私達の
歴史だ。

それを
もう
本当に
やめなければ
私達は
本当に
終わってしまうよ。


私の中のどこか
が、
ずっと警笛を
鳴らし続けている。

私は
自分自身の
この警笛を

最大限に
尊重する。

そして
私のすべきことを
決めていく。

自分の
責任において。

つづく

私の願い一つ

美しいものを
美しいと
感じてくださる
人。

そんな人
との
出会いは、

私自身を
救ってくれる。

恩恵。

という言葉

浮かぶ。

こんな人と
出会えるなら、

私なりの
この人生は

なかなかの
もんだな。


自己を承認
できる。

美しいものを
美しいと
感じ取れる
人は
美しい。

そんな人
との
語り合いも
美しい。

美しい
時間。

美しい
人生。

できるだけ
私は
そうありたいし、

これからを
担う
子ども達にも
そんな人生を
送ってほしい。

可能で
あれば、

でき得る限り
美しい社会に
して、

バトンを
受け渡したい
ものだ。

つづく

私の自由

自分を
縛っていることに
全く気づいていない
人は多い。

これはずっと
変わらない。

私は自由に
生きる!

宣言している
人ほど、
その傾向が
高い。

自由の
履き違えだ。

・・・・・・

自由になる
ためには、

自由になれる
自分自身を
まずは
手に入れなければ
ならない。

それは、

どんな環境でも
生きていける
自分


なるという
こと。

環境を
選ばなければ
自由になれない、

という状態では
どこにいても
自由には
なれないからだ。

ただしこれは、
依存しては
ならない、
ということでは
ない。

人間はそもそも
依存し合う
生き物だ。

そこを
誤魔化して
いても
自由にはなれない。

大切なのは、
自らの意志として、

私は今、
何に
どのように
依存するか?


決めること。

これを自由に
決められることが
本来の自由への
第一歩だ。

・・・・・・

本来の依存
とは、

まずは
自らが自らの
足で立つ
ことができる、

もしくは
そうなろうという
本気の意志が
あることで
成り立つ。

ただ闇雲に、
意図せず
無意識に
依存する状態を、

寄生

と言う。

ただ本能的に
自分を守るため
だけに
寄生する。

残念ながら
そんな人は
多い。

日本の国力が
ずっと
下がり続けて
きたのは、

根本的には
それが
原因だと
私は思う。

・・・・・・

寄生する先

探し求める。

自由を
求めながら。

誰か、
私を自由に
してくれる人は
いませんか?


探し求める。

それを
続けている社会
では
いつまで経っても
同じ次元に
いるしかない。

そこを私は
変えたい。


思って、
もう30年近く
やってきた。

もちろん、
知らず知らずの
うちに、
私自身が
何かに
寄生していたことも
あった。

そこから
脱け出すのは
怖かった。

が、
そこにずっと
居続けることこそ、
本当の恐怖。

ということは
よくわかる。

人はもっと
強くあらねば
ならないし、

本当は
それはできる。

私にできること

限られているが、

それでも
できることの
最大は
やり続ける。

それが私の
自由だ。

つづく

丸い人間になりたい?

喜びが、
全細胞に
行き渡る時、

あぁ今の私は
調子が良いなぁ、
と思う。

調子の悪い
時は、
体のどこかが
滞る。

細胞レベルまで
喜ぶことが
できない。

まぁ、
悲しみや憤りも
そうかな。

あらゆる感情が
きちんと
体全体に
行き渡っているか
どうか?

とても大事だ。

・・・・・・

人間は
感情の生き物
だが、

その感情を
抑え込もう
抑え込もう
とする人は
多い。

いやいや
いや。

いつも
開放していれば
いい。

きちんと
全細胞に
行き渡るように。

そうすれば
偏った
歪な
感情の出方は
しない。

抑えてしまう
から、
人を傷つける
ような

そして
自分自身をも
傷つけるような

出方を
してしまう。

もちろん
基本は、
自らの真本音を
大切に
日々を生きる
ことだが、

それができている
人ほど、

自らの感情を

つまりは
反応本音を

大切にすると
いい。

プラスの感情も
マイナスの感情も
自身で評価は
せず、

ただ
あるがままに
味わう。

全身で。

それを
続ければ実に
健康的な日々が
送れる。

・・・・・・

私は丸い
人間に
なりたい。

・・・と
言われる人が
いる。

であれば、

自分の
歪さを
そのまま
いつも表現する
ことだ。

抑える方向で
丸くなることは
ない。

開放して
初めて、

まるで太陽の
ような
光り輝く
丸さを

私達は
得られるんだ。

つづく

それじゃつまらんよ

離合集散。

離れては
集まり、
集まっては
離れる。

延々と
同じ繰り返し。

何が
面白いのか?

変化している
ようで
全く何も
変わっていない
ではないか。

・・・・・・

同じ場所で
踊る。

一生懸命に
踊っているから、
頑張っている
ことに
違いはない。

でもずっと
同じ場所だ。

それに
本当に
意味がある?

・・・・・・

無駄な動き

やめて、

静かで
いいので、

進もうよ。

少なくとも
今とは違う
場所に
向かおうよ。

・・・・・・

同じ場所に
いたら
腐ってしまう。

そのように
我々は
できているのでは
ないかい。

違う場所が
居心地が
良いか悪いかは、

行ってみなければ
わからない。

少なくとも、
同じ場所に
居続けることほど
居心地の悪い
ことはないと
思うけどな。

・・・・・・

離合集散。

どうせ、
離れる存在は
離れていく。

でも、
結局は
また戻ってくる。

それが人の
宿命ならば、

進みながら
それを
しようよ。

パターンを
変えるんだ。

癖を
変えるんだ。

自分が
変われば、

展開は
変わる。

離合集散は
変わらない。

でも
展開は劇的に
変わる。

居心地が
良いかどうかは、
その後だ。

・・・・・・

進む先が
わからなければ、
きっと
ジグザグに
行くことになる
だろう。

それでも
いいじゃないか。

止まっている
よりは。

ジグザグは
だんだんと
小さくなり、

そのうちに
一直線に
なるさ。

そうして
初めて
進む先が
観えてくる。

そこからは、
自らの
意志と選択で

離合集散
できるよ、
きっと。

つづく

不明なものがある

大小様々な
トゲのある、
変な物体が
降りてきた。

トゲが
刺さらない
ように
注意しながら
手のひらで
受け止める。

一見すると
ウニのようだが、

それにしては
トゲがあまりにも
長い。

よく観察
すると、
何かの卵の
ようだ。

何かが
生まれるの
だろうか?

・・・・・・

私達は、
あまりにも自分の
常識と
かけ離れた

「わからないもの」


目の当たりに
すると、

まずは
恐怖と拒絶感が
生まれる。

本能として
当然のことだ。

だがここは
本能に
流されては
ならない、

気がした。

決してこれが
どこかに
飛んでいって
しまわないように、

丁重に扱う
ことにする。

・・・・・・

それは
育った。

卵のように
割れて
中から何かが
出てくるわけでは
ない。

そのものが
育った。

形状は
より歪(いびつ)に
なり、

より
わけがわからなく
なった。

しかしそれでも
丁重に扱う。
それが
どこかに飛んで
いかないように。

・・・・・・

それから
23年経った。

まだそれは
ここにある。

相変わらず
卵のように
割れるわけでは
なく、

それは
無言のまま
ここにある。

形は
より歪に、
そして
かなり巨大に
なった。

これが何か?

相変わらず
わからないが、

しかし
本当はもう
わかっている。

知っている。

だが、
まだもうしばらく
わからない
フリを
していよう。

・・・・・・

それにしても
歪な形だ。

どう見ても
健康体とは
言えない。

何となく
それが何かが
わかればわかるほど、

今のこの形が
不健康だと
わかる。

だから純粋に
心配になる。

大丈夫かな。

これが何か?
わかる日は
近い。

それまでに
何としてでも
私は私を
整えさせねば。

つづく

そんな簡単ではない

中心核が
ゴニョゴニョと
揺れている。

揺れている
時点でもうそれは

中心核とは
言えない。

新しい中心核を
見つけるしか
ないが、

その人は
これまでの
中心核に
執着している。

私は自分を
変えたくない!


叫んでいる。

・・・・・・

後ろから
押される。

前のめりに
倒れそうに
なる。

もう、
これまでの
中心核では
立っていられない
ことは

一目瞭然だ。

なのに
まだ、

こだわっている。

自分を
変えたくない!

かつての自分

しがみついている。

・・・・・・

滑稽だと
思うかい?

笑える
かい?

笑えない
だろ。

それが
人間だから。

あの人も
そうだけど、
私達も
似たようなものさ。

中心核を
変えるのは
怖いもの。

いざ
自分がそうなれば
わかる。

その
あまりの
恐怖を。

・・・・・・

言うは易し
行うは難し。

客観的に
見つめ
評論するのは
誰だって
できる。

自分事に
なった時に
私達は
知るんだ。

自分の
正体と
不甲斐なさを。

・・・・・・

で、
堕ちるんだ。

結局、
自分は
何もできない
ではないか、
と。

口先だけでは
ないか、
と。

あまりの
自身の
情けなさを
目の当たりにし、

泣きつくし、

後悔し尽くして
堕ちる。

徹底的に
そうなって
初めて

芽生える
ものがある。

それが、
真の強さだ。

そうして
初めて私達は

中心核を
入れ替える
ことが
できるようになる。

だから
小手先で
「やった風」で
満足せず、

とことん
痛い目に
遭った方が
早いんだよ。

つづく

この激しい悔しさは

悔やんでも
悔やんでも
悔やみきれない、

という
想いがあるなら、

その気持ちを
ずっと
愛するといい。

そんなこと
できん!

言われそう
だが。

それでも
やるんだ。

理屈ではなく
その気持ちを
丸ごと

胸の中心に
抱くんだ。

どんなに
苦しくても。

・・・・・・

その激しい
悔やみは、

真本音レベルの
後悔だ。

反応本音レベルの
後悔であれば、
それは
胸に抱けば
徐々に
消えていく。

薄れていく。

が、
真本音レベルの
後悔は
消えない。

むしろ
より激しく
顕在化する。

それは
自分の体が
もぎ取られるような
痛みを伴うが、

しかし
それでも
愛することで
やっと
浮上するものが
ある。

それこそが
ビジョン。

真のビジョン
だ。

・・・・・・

さぁ、
どうする?

その苦しさに
立ち向かう?

立ち向かえば
そこに
出口はあり、

立ち向かわねば
回り道となる。

どちらを
選ぶことも
できる。

どちらを
選んでも
罰せられることは
ない。

が、
これ以上
悔恨を深める
方向には
行ってほしく
ないな。

つづく

ついに始まった

強い風が
吹き始めている
のが
わかるかな?

とてつもなく
強い風だ。

しかも
これからさらに
強まっていく。

“進化の風”

言ってもよい。

実在レベル
の話だが、

世の中は
ついに
勝負に出たな、
という
印象だ。

荒治療。

これで
ダメなら
諦める。

という
くらいの、
賭けに出た
ようだ。

・・・・・・

その風に
乗るには
相当の力が
必要だ。

その力とは
真本音の
力。

残念ながら
自らの真本音を
大切にできない
人にとっては、

その風は
害でしかない。

災害のような
ものだ。

これまで
何とか平穏に
過ごしてきたのに、

突然に
大型台風に
襲われたような
もの。

しかも
その台風は
通り過ぎ去る
ということが
ない。

恐らくきっと
今後
消えることは
ない。

少なくとも
20年間は。

・・・・・・

その中で
いかに
生きていくか?

きっと私は
無意識的に
こういった状況が
くるのを
知っていのだと
思う。

そのために、
できるだけ多くの
人達が
真本音で生きられる
よう、
サポートを
繰り返してきた。

ここにきて
ようやく
私自身の活動の
意味も
改めて
わかってきた。

真本音を
ないがしろにする
人にとって
その風は
大型台風だが、

真本音で
生きる人たちに
とってそれは、

心地良い
高原の風。
しかも
自分の歩みを
後押しして
くれる。

それくらいの
「差」が
ここからは
出始める。

恐ろしい
くらいに。

そう、
ある意味
恐ろしい時代と
なった。

ずっと
言い続けて
いるが、

世の中全体の
真本音度合いは
高まり続けて
いる。

だから
「世の中」から
すれば、
よこしまな生き方を
続ける人々が
気持ち悪いのだ。

だから
風を起こした。

それは
しばらく
吹き続ける。

恐ろしい時代
だが、

でも
私達のやることは
これまでと
何も変わらない。

自らの真本音で
生きるのだ。

自らの人生に
向かって。

つづく

苦労について

人としての
当たり前の
感情が
ある。

その
あらゆるもの

ないがしろに
しては
ならない。

あらゆる
ものが
あなたの
ものだ。

・・・・・・

「苦労」
という言葉が
ある。

この言葉の
本質は、

「苦しみを
労わる(いたわる)」
こと。

つまりは、
自分自身の
苦しみを、

自ら
大切にする
ということだ。

・・・・・・

先日
初めてお会いした
新たな
クライアントさん。

その方は
過去の人生に
おいて
大変な目に
遭ってきた。

しかし
それらを全て
しっかりと
受け止めて、

今の自分の
願いに
繋げていらっしゃる。

「ご苦労
されたんですね」


私が
申し上げたら、

「実は、その
ご苦労、という
言葉を
受け取るのに
慣れていなくて」


言われた。

そこで私は
上記の意味を
お伝えし、

言い直した。

「本当にご自分の
苦しみと向かい合い、
受け入れ、
今に繋げて
いらっしゃるんですね」
と。

するとその人は
最高の笑顔で
にっこりされた。

私は
改めて、

ちゃんと
ご苦労されている
人を
サポートさせて
いただきたいな、
と、

そしてそれが
できる今に対して
感謝しかないな、

思えたんだ。

つづく

止まることのできない時代

答えと
しては、

やっていく。

それは
もう
決まっている。

じゃあ、
やれよ。

今すぐに、


言いたくなるが、

動かんの
だよな、

人は。

・・・・・・

あーだこーだ、

できない
理由を
並べる。

みんな
そうだ。

もちろん
かつての
私も。

だから
よくわかるよ。

怖さも
あるし、

不安も
あるし。

さらには、

怠惰な
気持ちも。

それを
やればもう
怠けられない
からなぁ、

止まって
しまう。

それもまた
人間。

・・・・・・

だが、
もう
待っては
いられない。

タイミングを
逸すれば、
次のタイミングまで
時間が
かかり過ぎて
しまう。

道が開くか
どうかは、

すべて
タイミングに
かかっている。

最適な
タイミングの
前で、

あーだこーだと
言っている
場合ではない。

・・・・・・

能力的な
不安が
あるなら、

もう、
やってしまえ。

能力など
あとで
ついてくる、

という
くらいの
乱暴な気持ちで。

でないと
一生、
能力はつかない。

やってみなければ
わからないこと
だらけだ。
この世界は。

やるか
やらぬか、

それのみで
決まる。

・・・・・・

止まれば
死ぬ。

そういう
時代だ。

体は
生きていても

心と魂は
死ぬ。

そういう
時代なんだ。

そこは
本当に
これまでとは

本質的に

勝手が
違うんだよ。

つづく

リミットがあるんだ

ゲートが
開く。

その向こう
から、

何か
ものすごい
ものが
迫ってくる。

それは、
たくさんの
魂たち。

たくさんの
子どもたち。

初々しい、
新たな
旅路を始める
人たち。

・・・・・・

世の中は
変わっていくな。

現象的な
世界の動き
とか、
AIの進歩
とか、

そういった
ことではなく。

実在の
根本的な
部分が
変わっていく。

いや、

正確に
言えばもう

変わった、


言うべきか。

その変化に
私達は
ついて行かねば
ならない。

変化に
取り残される
ということは
イコール、

崩壊への道
ということに
なってしまう。

それが
世の中の
掟のような
ものだ。

・・・・・・

実在と現象

繋ぐ。

これが、
私のやり続けて
いることだ。

そのために
私は生き、

そのために
私は
仕事をする。

あらゆる
人と
関わる。

それ以外の
ための
時間は
今は、
1分も1秒も
ない。

・・・・・・

そういった
私の

ある意味
逸脱した生き方
に共振する
人達が
増えている。

増えているが、
まだその出会いは
わずかだ。

共振は
感じるのに
出会えていない。

だから
急がねば
ならない。

実在と現象の
断絶には
リミットがある。

そのリミットを
越えてしまえば、
もう
もとには
戻らない。

そうならぬ
ように。

私は
今日も明日も
最大のことを
し続ける。

つづく

強引に向き合う

ある意味、
笑顔とは
その人の
すべてが
現れる。

作り笑顔
ではなく、

本心からの
純粋な笑顔を
思わず見せる
ことがある、
誰もがね。

その瞬間の
空気感に
その人の
生き様がすべて
現れるんだ。

・・・・・・

私のクライアントさん
たちは、
そういった笑顔が
とても素敵な人が
多い。

逆に言えば、
自然な笑顔に
濁りがある人は、

どうも
私を無意識に
避けるようだ。

多分、私が
真正面から
向き合ってしまう
からだろう。

人間誰もが
邪(よこしま)な気持ちは
持っているが、

その生き方が
板について
しまっていたり、

そういった自分と
向き合えない
人は、

私と向き合うのが
怖くなってしまう
ようだ。

私自身で
言えば、

自分も
含めて、

人の邪な部分

いやというほど
観てきたので、

それが
人間だし、

そこがまた
人間の深さ
だし、

人間の
味だし、

という
捉え方こそ
すれ、

邪な心があるから
この人はどうこう、
という
評価的な目は

ゼロ、だ。

そう、
いつの間にか
ゼロ、になって
しまった。

その部分で
人を評価しても
何の意味もない
ということが
ある時期から
腑に落ちたから。

だから、
その人の心の
中を
覗き込もう
とか、

その人の心を
洗いざらい
浮かび上がらせて
やろうとか、

そういった
意図は、
皆無だ。

でもきっと
だからこそ
怖いのかも、
とも思う。

・・・・・・

ある時期から
私は、

私と真正面から
向き合って
くださる人のみを
クライアントに
することにした。

それで
私自身もとても
楽しく仕事を
させていただいて
きたが、

ここにきて
ちょっと
様相が変わって
きた。

私に対して
逃げ腰の人をも、
追いかける
ように
なってきた。

自然に
私自身が
そのように動いて
しまうのだ。

ある意味
多少強引に、
逃げ腰の人を
逃がさないように
向き合うように
なっている。

きっとこれには
深い意味が
あるのだろう。

まぁ何となく
わかっては
いるけどね。

ただ、
私の願いは
一つ。

すべての人が
本来の
素敵な笑顔で
笑い合え
ますように。

これだけ
だね。

つづく

怖かったあの人が

それはまさしく
再会の眼差し
だ。

初対面とか
そうでないとか
関係なく。

眼差し同士の
重なり合い、
絡み合い、

そこから
生まれる
深い悦び。

再会した
ということは
それなりの
意味がある。

以前とは
異なる
関係性、

以前とは
異なる
現実展開を

共に創って
行くのだろう。

以前に
戻る必要は
ない。

今のあなたと
今の私と

そのままで
素直に

共に
時間を経た
変化を

楽しもう。

再会。

再会を
恐れるな。

怖かった
あの人も

もう
怖くない
かもよ。

つづく

原点のパワー

原点に
帰る。

そこには
何が
あるか?

かつての
自分の
出発点。

初心。

それを
改めて
目の当たりに
した時、

何を
感じるか?

いつの間にか
忘れてしまって
いたこと、

いつの間にか
いい加減に
してしまって
いたこと、

いつの間にか
誤魔化して
いたこと、

・・・人間なので
当然、
心も痛くなろう。

でも
それでも
今は、
原点にもう一度。

ここからの
歩みのために。

・・・・・・

原点に戻る
ことでしか
得られない
パワー、エネルギー
というものが
ある。

出発点の
パワーは
永遠だ。

本当はその
パワーは
今ここに
ずっとある。

ずっとあった。

それを素直に
浴びようと
しなくなった
自分がいた
だけで。

その事実を
知ること
だけでも
めっけもんだ。

・・・・・・

ここからの
私達の歩みは、

原点パワーが
絶対的に
必要だ。

自分は
何のために
これを
始めたのか?

自分にとって
自分の
真本音にとって

最も健康的な
パワーが
そこにある。

ここからは、

日々、
毎日、
毎朝、
原点に
帰ろう。

つづく

問い一つ

一つ、
フワフワと
問いが
降りてきた。

・・・

何から自由に
なるために、

今、何にこそ
エネルギーを
注ぐ?

・・・

脱皮する人

またまた急増。

あなたも
そうでは
ないかな?

つづく

寄生関係

寄生し合う
関係
というのが
ある。

人間同士の
話だ。

一見すると
自律していそうな
人同士が
これをやっている
こともある。

自律した人
であれば
あるほど、

ある特定の
人とだけ
これをやって
しまうことが
ある。

まぁそれは
本当は
自律できている
とは
言えないの
だけどね。

・・・・・・

苦手な人
というのは
いるもんだ。

普通なら
シャンと普通に
生きることが
できるのに、

その人が
目の前にくると、
なぜか途端に
普段の自分を
保てなくなる。

そして、
ある意味
自分を守る
ために、

その人に
寄生する。

するとその場合、
大抵は、
相手もその人に
寄生し始める。

双方互いに
寄生し合う。

するともう
止まらなく
なる。

・・・・・・

エネルギーの
高い人同士が
これをすれば、

周りへの
悪影響は
測り知れない。

ある会社の
幹部さん同士が
これをした
結果、

ある程度の
規模のある会社
でも、
一気に組織が
おかしくなる
ことがある。

なんか
最近、
この組織
おかしいぞ。

と、
独特の空気と
流れが
じわじわと
湧いてくる。

こういった
場合、
できるだけ早い
段階で、
その空気感の
もとを
探り出さねば
ならない。

そして
そういった場合に
よくあるのが、

幹部さん同士の
寄生のし合い
だ。

・・・・・・

これの修復は
大変、難しい。

が、
やらねば
ならない。

二人が正常な
関わりに
戻れるように。

細心の注意を
払いながら、
私は
二人に
近づいていく。

つづく

あなたの光なのだから

蝋燭の光
のような、

わずかな
儚い光だが、

その光が
灯ったという
それだけでも

大きな
希望だ。

灯れば、
育てれば
いい。

灯すまでが
大変だ。

・・・・・・

光の
揺らめきは

一見すると
何かの
メッセージのようにも
感じる。

だがそこで
考えすぎては
ならない。

それは
ただの
揺らめきだ。

自然現象
だ。

物事に
意味を
持たせすぎては
ならない。

・・・・・・

その光が
育っているか
どうかは、

自分で
判断するもの
ではない。

他者が
判断するもの。

自己判断は
手放し、
ただ、
光にまっすぐ
向き合える
自分として

まっすぐに
生きること
だ。

・・・・・・

光は
受け継がれる。

どんな
小さな光でも、

必ずそれは

そこに
在り続ける
限り、

受け継がれる。

それこそ
我々人間が
すべきこと。

人間の
役割、使命だ。

・・・・・・

あなたの
中に、

すでに
灯っている
光が
あるはずだ。

それを
まずは
あなた自身が
自覚しよう。

それを
まっすぐに
見つめ、

君を
守るよ。

・・・と
宣言しよう。

あとは、
まっすぐに
進むだけ。

つづく

膨張に注意

膨張は
危険だ。

特に
ここからは
その危険度が
さらに
アップする。

膨張は
気持ちいい。
一見すると。

でも
その気持ち良さ

溺れてしまう。

そして
気がつけば
抜け出せなく
なり、

必ず
破裂する。

その、
破裂までの
時間が

かなり
縮まるのだ。

ここからは。

だから、
挽回する時間や
余裕が
なくなる。

致命傷と
なる。

そうならない
ためにも、

膨張の
気持ち良さ
に対する
感度を
高めておくこと。

あぁ
この感覚、
この気持ち良さ、
・・・やばいな。

と、
可能な限り
早く
自分にストップを
かけること。

こればかりは
注意が
必要だ。

真本音の道

進めば、

どんどん
道は開く。

が、
そこで
イケイケどんどん
となり、
膨張の道に
入ってしまう。

我々人間には
本当に
よくあること。

気をつけよう。

つづく

泳ぐか飛ぶか

自由に
泳ぐ。


決めている
人がいる。

自分に
飛ぶ。


決めている
人がいる。

「泳ぐ」

「飛ぶ」。

似ている
ようで
本質的に
異なる。

「泳ぐ」と
決めている
人は、

自分自身に
「水」
という枠を
課す。

もし枠を
課さなければ
逆に
自由から
遠のくのだ。

それを
よく
わかっている
人たち。

反対に、

「飛ぶ」と
決めている
人は、
あらゆるものを
手放し
続ける。

例えば、
自分が精魂
込めて
創り上げた
環境があったと
しても、

必要が
あれば
一気に手放す。

自分から
引き剥がす。

常にその
覚悟を
持ち続ける人。

自分が
「泳ぐ人」か、
「飛ぶ人」か?

この
見極めが
本当に必要に
なってきた。

泳ぎたいのか
飛びたいのか?
という
ことではない。

泳ぐと
決めているのか、
飛ぶと
決めているのか?

・・・だ。

つづく

簡単に言葉にするな

言葉を紡ぐ
というのは、
本当は
かなり高度な
ことなのだと
思う。

言葉に
なる前の
本当の想い
を、

言葉に
した途端に
壊してしまう。

壊さない
までも、
とても浅いものに
してしまう、

ということは
私達にとっては
日常茶飯事だ。

先日、
出会うことが
できた
ある経営者は、

ご自分の
想いを
上手く言葉で
表現できない
ようだった。

彼の
素晴らしいところは
それを
無理に言葉に
していないこと。

表現できない
ことを
表現できない
ままに
留めておいた
こと。

それは
経営者として
どうだろうか?

一般的には
言われそうだが。

しかし彼の
そのスタンス
によって、
私は
彼の言葉になる
前の
そのままの
想いを、

ダイレクトに
感じ取ることが
できた。

それは
測り知れない
深さを湛えた
想い。

これは
確かに
言葉には
できないな、

私も思った。

が、
そこをサポート
させていただくのが
私の役割だ。

一つずつ
一歩ずつ
確かな言葉を

探し出して
いこう。

つづく

実在を認識しなければ

海とも山とも
つかぬ
まだ
形になる前の
「大自然」

眼前にある。

気がする。

まだ
形がないので
何も
見えない。

見えないが、
すごい
存在感だ。

存在が
そのまま
こちらに
ワーッと
襲いかかってくる。

が、
それが実に
心地良い。

・・・・・・

形になる
前の
存在。

そのもの。

これが
いわゆる
「実在」
だ。

残念ながら
私達の脳では
実在を
実在のまま
キャッチするのは
難しい。

多少の変換を
交えながら、
自分の脳に
合ったやり方で

私達は
感じ取る。

それが
イメージ的に
くることも
あるし、

音響のように
くることも
あるし、

ただ、
感覚のみで
くることも
ある。

だが
いずれにしても
すごい
存在感だ。

そりゃそうだ。

実在
だからだ。

「実在」と
言われる所以は
そこにある。

・・・・・・

それに比べて
私達が普段
目にしている
現実、
つまりは
「現象」
とは、

なんと
淡いものか。

儚くて
今にも
消えそうに、
私には
感じられる。

実在を
感じ取れる
ようになれば、
現象の薄さが
わかって
しまうのだ。

だからこそ
あえて
実在を感じ取れる
自分に
なれたとしても、

感じることに
ブロックをし、
あえて感じない
ままに進む、
という人は
多い。

多い、
というか
多かった、
と言うべきか。

しかし
ここからは
ちょっと様相が
変わってきた。

あえて実在を
感じ取らずに
進む、
という状態では
対応しきれない
世の中に
なってきたのだ。

だから、

実在を感じ取る
という
本来の能力を
思い出そうと
する。

そういった人が
急増しており、

そういった
サポートも
随分と
増えてきた。

もう、

顕在意識レベル
でも、
実在を認識
しながらでなければ、

辛すぎる
のだ。

もっと楽に
スムーズに
進むためにも

一人でも
多くの人に、
その本来の能力を
掘り起こす
お手伝いを
したいと、

私は今強く
思っている。

つづく

闇雲に進むサポート

闇雲に進む
ことが
大切な時も
ある。

そこで
いろんなものに
ぶつかり、
痛い目に遭いながら
身につく力が
ある。

今は
そうせねば
なるまい、

決めたら
闇雲に行けば
いい。

徹底的に。

ただ、実は
その進み方自体
を私は
「闇雲」
とは言わない。

自分の意思で
決めている
ならば、
それらはすべて
順当な道だ。

順風満帆な
道だ。

「闇雲」とは、
何も考えて
いないこと。

意思のない
状態のまま
進むこと。

惰性で
進むことだ。

しっかり
自分の意思で
進む限り、
それはもう
闇雲ではない。

・・・・・・

自分の意思で
あえて
徹底的に
闇雲に進むことを

「真闇雲」


表現することに
しよう。

今、この
真闇雲が必要な
人達が
増えている。

良い意味で
痛い目に
たくさん遭わねば
ならない人達が。

やはり、

痛い目の体験は
人生の糧に
なる。

その糧を
真本音レベルで
得よう!

決めている人達。

そんな人達との
関わりが
随分と増えた。

そうした場合

私のサポート
とは、

あえて
八方塞がりの
状態まで
追い詰めること、

・・・なんだ。

しかも
ただの八方塞がり
ではない。

その人が
真本音で望む
八方塞がりだ。

これは、
キツい。

絶望感も
甚だしい。

その状態に
入った時の感覚を
私は

「滅宇感」


呼んでいる。

「宇」とは
すべて、という
意味なので、

全てが滅する感覚
という意味だ。

通常の八方塞がり感
の1000倍も激しい
イメージだ。

しかし、

この
滅宇感と対峙
してこそ、

初めて
開かれる「出口」
がある。

その「出口」を
くぐり抜ける
ために

真闇雲に
進もうとする。

実は、
これは私の
これまでの人生
そのものだった。

私の人生は
滅宇感と
共にあり、

全ての滅宇感と
向き合い続けて
きた。

これは私だけの
人生パターンだと
これまでは
思っており、
だからこそ
滅宇感に関しても
語ってこなかった
のだが、

どうやら
そうではない、

気づいた。

滅宇感を
求め、
そこにこそ存在する
出口を求めている
人は、

想像以上に
多いことが
わかった。

だから
そのようなサポートが
ここからの私の
本流に
なりそうだ。

ということは、
今後の私は
相当、厳しい顔を
見せていくことに
なるだろう。

意図するわけ
では
ないけどね。

つづく

大の大人の涙

桜の花が
舞い散る
ように、

ひらひらと
何かが
私の体に
触れながら
落ちている。

涙かな、
と。

そう
思ったんだ。

悲しさと
嬉しさの
ごちゃ混ぜの。

誰のかな?

確認する
のが
ちょっと
怖かった。

・・・・・・

あの人の
あの時の
涙を
ふと思い出した。

随分と
昔の話だ。

体の大きな
50歳近い
仕事の能力が
とんでもなく
高い
大の大人が、

人の目を
憚らず、
大声を上げながら
泣きじゃくった
のだ。

当時の私は
20代半ば頃。

呆然と
それを見ながら、
その人の
本音に
初めて触れて、

人間、という
存在の本音に
初めて
触れたような
不思議な感覚
だった。

あの時の
あの感覚が
今、
蘇っている。

・・・・・・

人は
本音を出さない。

出したいのに
なかなか
出せない。

大切な
一言を、

大切な
感情を、

ついつい
抑え込む。

そして
人間関係で
最も大事な
部分を

崩壊させる。

もうそんな
崩壊は
見たくない、
という
単純な気持ちが

私がこの
仕事を
続ける理由と
なっているのかも
しれない。

・・・・・・

そこまで
わかった時、

このヒラヒラが
何か?
誰のか?
わかった。

私はすぐさま
連絡を
入れた。

急遽、
その人に
会わなければ
ならない。

私の仕事は
いざという時の
瞬発力が
命だ。

つづく

チームコーチング

テーブルを
囲んで、
語り合う。

普段、
一緒に仕事を
している
人達同士なのに、

普段とは
全く異なる
顔がのぞく。

その度に
どよめきが
起こる。

関係性が
変わっていく。

そして、
結果として
意図せずに
仕事の質が
変わっていく。

チームコーチング。

これの面白さを
知ったは、
コーチングと出会う
よりも
もっと前だ。

日本にコーチングが
広がり始める
よりも
もっと前から
私はこれを
やり続けていた。

日常とは
別の
空間(場)を
強引にでも
社内に創り出す。

当時は
「社内塾」
という名前で
やっていた。

それが私の
仕事の
原点だ。

・・・・・・

何のノウハウも
スキルも
ないままに。

今から
思えば
私がやっていた
のは、

「向き合う」
だけの場。

今だったら
コツもわかるが、
その当時は
コツどころか、

私自身が
コミュニケーション
下手だった。

なのに
「向き合う」だけで、
場は
どーにかこーにか
機能し始め、

中には
売上利益が
急拡大したり、

窮地から
脱したり、

という会社も
出てきた。

人間、
向き合えば
何とかなる、
向き合わなければ
何ともならない、
という
私の信念は
その時にもう
醸成されたのだと
思う。

どうすれば
この人達は
向き合えるように
なるのか?

これは
今も脈々と続く
テーマだ。

・・・・・・

今日も一日、
難易度の高い
チームコーチング
ばかりだった。

一日に
6つ。

ちょっと多過ぎる
が、
どうしても
今日この日に
必要だった。

その全てが
素敵な展開を
見せた。

タイミングも
ある。

適切な
投げかけも
ある。

だが、
終わった直後の
今、
ふと思ったのだが、

私は
約30年前の
あの頃の
チームコーチングの
感覚を、
忘れていない。

初心を
忘れていない。

あの時の
まま、
あの時の
姿勢で。

そうか。

よっぽど私は
この仕事が
好きなんだな。

つづく

いつでも壊せるか

側から
見ていて
大丈夫かなぁ、

心配になるほど、

急加速
している人が
いる。

特に
私の周りでは。

ちゃんと
真本音の道は
進んでいるのだが、

あまりの
急加速ぶりに
見ているこちらが
ヒヤヒヤする。

しかし、

心配して
向き合ってみると、
充分に
安定している。

大したものだ、

感心することが
最近は
増えた。

・・・・・・

かといって
本人に
自信がある
わけではない。

むしろ、
自信のなさは
日々、増している
ようにも
見える。

しかし
自信のない人
ほど、
急加速しやすい
というのも

真理だ。

人は
自信を持てば、
そこに
留まろうとする
からねぇ。

・・・・・・

夢やビジョンが
明確に
見えるかどうか、

人それぞれだ。

見えても
見えなくても
どちらでもいい、

私は
思っている。

ただ、
最近の大事な
方向性として、

たとえ
見えなくても
いいから、

見ようとする

という
姿勢がとても
大事だ。

そんな
世の中に
なってきた。

未来を
わかろう!
という
意欲が、
どうやらエネルギーに
そのまま
変換されるらしい。

そんな世の中に
変わったんだ。

・・・・・・

先日も
書いたが、

時代の進み方

突発的で、

ある意味
突然変異的に
なっていく。

予測は
ますます
つかなくなる。

今日、
立てた戦略が
明日、
意味を成さなく
なるのも
当たり前と
なっていく。

しかし
だからこそ、
しっかり
未来を見つめようと
する。

戦略も
しっかり立てる。

描いた未来も
構築した戦略も
いつでも
壊す覚悟で。

その在り方

丁寧に
持続すること。

我々に
できる
最も基本的で
効果的な
姿勢。

そんな人が
急加速も
できるんだ。

つづく

瞬発力で決まる

これは
かなりゆっくり
動いていくの
だろうな。

と、
油断していたら
とんでもない
ことになる。

ここからの
時代、
物事の動き方は

瞬発性


一気に増す。

つまり、
予測し得ぬ
タイミングで
グッと
一瞬で物事が
動く。

その瞬間に
しっかり
ついて行けるか
どうか?

人生も仕事も
展開が
根本的に変わる。

・・・・・・

一瞬で
爆発的なエネルギーが
放出され、

それが
現実を突如として
変容させる。

我々人間の
知恵の範疇では
これを
コントロールすることは
極めて難しい。

が、

予兆や前兆は
掴めるものだ。

その感性を
高めることは
できる。

・・・・・・

世の中
全体、

もしくは、

自分の
身の回りの
空気が

ある特定の
波長を
帯びると、

これは
予兆かも


わかる。

もちろんそれが
全て当たるとは
限らないが、

意識して
身構えることで
損をすることは
ない。

身構える
と言っても
力を入れる
わけではない。

むしろ
逆で、

身構える、
とは
いつもよりも
もっと丁寧に

自分を
整える

ということだ。

いつでも
どこでも
瞬時に自分の
スイッチを
入れられる
ように。

自分の
モードを
平常モードから
覚醒モードへ
転換できる
ように。

つまりは
直観的に
動けるような
自分に
なること。

いざという
時に
そうなれるよう、

普段から
日常生活から
自分の生き方を
「鍛えて」おくのだ。

つまり、
丁寧に
生きる。

一つ一つ。

自分の
意思を込めて。

惰性は
しない。

妥協も
しない。

気がついたら
こんなにも
時間を使って
しまった、
という後悔を
ゼロにする。

そういった
常日頃の在り方
が、
自分自身の
瞬発性を
増してくれる。

実は
それこそが
自然体の生き方
なのだが、

ほとんどの
人が
その自然体を
忘れているので、

あえて
「鍛える」
という表現を
使った。

自分を
鍛えるつもりで、
普段の
生活態度に
意識を向け、

しっかり
研ぎ澄まそう。

つづく

“一”という存在について

この世界の
すべてを
ひとまとめに
観察すると、

それは、
シルバーに
輝く
球体のような
感じだ。

あくまで
私の
イメージだけど。

その
シルバーは
それほど
明るくはない。

もっと
明るくなる
はずだが。

それほど
明るくはない
が、
深い。
とてつもなく。

そこには
あらゆるものが

存在が

内包
されている。

それを
外側から
見守る、という
視点が
私にはずっと
ある。

この
10年ほど。

その光の
輝き加減で
世の中全体の
動向が、

ある意味、
手を取るように
わかることも
ある。

しかし、
わかったところで
自分自身が
どうすれば
よいか?

すぐに結びつく
わけではない。

むしろ、
ジレンマばかり
増えることの方が
圧倒的に多い。

全体を
観てしまうことの
恐怖も
もちろんある。
いつも。

しかし、
観ずには
いられない。

たとえ
厳しい現実で
あっても。

・・・・・・

その、
全体のシルバーの
球体を
私は

“一”

と名付けた。

これで
「ひの」
と読む。

“一”と共に
常に私は
「ここにあろう」

してきた。

“一”と共に
目の前の現実に
向かい、

“一”と共に
目の前の人と
向かい合い・・・。

少なくとも
今の私の一つ一つ
の言動によって
“一”が
喜ぶかどうか?
については
本当に慎重に丁寧に
確認しながら
きた。

ある意味、
子育てに似た
精神状況だ。

それは
私にとっては
悦びであり
幸せの象徴的な
感覚だった。

・・・・・・

ここにきて、
“一”の輝きが
急激に増す
ようだ。

まだ、
実際に
増している
わけではない。

が、
その予兆が
ある。

前兆が
ある。

それもかなり
激しく。

そうなると、
現実レベルでも
きっとまた
ここから
急展開だ。

また、
忙しくなるな。

つづく

今回で3000回

不特定多数の
人達に
発信をすると
しても、

それは
目の前の
たった一人に向けて

向き合い
ながら

語りかける
のと
同じことだ。
本質的には。

実在レベル
での
リアリティある
目の前の
その人に
対して。

その人が
本当に深く
響く
一言を。

そんなこと
だけを
大切にずっと
このブログは
書き続けてきた。

いまだに
一回分
書き終われば、

もう
書くことは
何もないな。

言いたいことは
言い尽くしたし。

と、
思うのだが、

しかし
次の日に
なればまた
浮上する
メッセージが
ある。

その
繰り返し。

それで
今回、
3000回を
迎えた。

一度、
確かどこかで
文章は書いたけど
アップするのを
すっかり忘れて
しまった、
という日が
あったような
気もするが、

しかし
3000日、
毎日、欠かさず
続けられた。

もちろん
今後も
続けていくことに
なると思うが、

一旦、一つの
区切りのような
気がしている。

区切りで
思うのは、

ありがとう!

という
気持ち。

いつも
お読みいただいて
本当に
感謝しています。

つづく