チームパフォーマンスコーチ

0が1となる

足音が
後ろから
追いついて
きた。

ずっと
待ち望んで
いたやつだ。

遅いよ。

待ったぞ。


言いたいところ
だけど、
それはまぁ
さすがに
可哀想か。

むしろ、

よく来たなぁ、

悦ぶことに
しよう。

そう、
これは
純粋な
悦びだから。

待つことに
慣れすぎた
私の人生かも
しれない。

待ちながら
一生が
終わってしまう
可能性だって
まま
あったのだ。

しかし
そのような不安の
中でも
じっと待った。

やってダメなら
しょうがない、

ではなく

待ってダメなら
しょうがない、

という
気概だ。

0が1
となる。

1は2
となり、

2は4
となり、

4は8
となる。

今、私が
聴いているのは

1の足音
だ。

遅いぞ、
1よ。

でも、
嬉しいぞ。

つづく

気づきは要らない

この
気付きは、

私の
これまでの
経験則から

来ている
ものか?

とても
納得感のある
すがすがしい
気づき
であるが。

もし
そうである
ならば、

私は
これを
捨てよう。

もはや
気づきに
すがすがしさ

要らない。

経験則など
もっと
要らない。

そのような
もので
もし
事が成せたと
しても、

それは
私の望んでいる
ものではない。

もう、
気づきには
振り回されない。

私は
私の気づきは
もう
要らない。

世界の気づき

ほしいのだ。

つづく

孤独のくせに

その人の
孤独は

ここに
残ったままだ。

それを
静かに
拾い上げる。

胸に抱く。

苦しい。

ずっと
孤独と共に
あったのか。

誰にも
言わずに。

人には
耐えられる
ことと
耐えられない
ことが
あるのに。

これを
拾い上げて
しまっては
もう、

ひょっと
すると

私も
耐えられない
かも
しれない。

人間
なのでね。

でも、
耐えて
見せる。

人間
なのでね。

これも
あなたが
残したものだ。

あなたの
ものだ。

だから
私が
最後まで
抱く
こととする。

孤独は
光の中ですら
生きる。

孤独の
くせに
永遠だ。

しかも
そこには
あなたの
愛が
少しだけ

残って
いるよ。

つづく

感覚だけの目標

目標があれば、
まっすぐ
進める。

一目散に。

そこのみに
集中して
未来に向かえば
いい。

目標は
必要だ。

ただ、

その目標を
今、

顕在化

するか
どうか?
だ。

目標は
確かにある、
という
実感・感覚のみを
知るだけで、

あえて
それを明確に
せずに
胸に抱き続ける。

その状態の
方が、
脇目も振らずに
まっすぐ
進める人も
いる。

そういう
時もある。

あなたの
今は
どうだ?

あなたには
真の
目標がある
はずだ。

それを
顕在化する?

しない?

それを
今、
決めるべきだ。

つづく

始まりは脱力

緩やかに
進んでいるように
見えて、

実は
それこそが
最短ルートで

直登

だったり
するんだよ。

だいたい、

力を込めて
全身が
強張りながら
進んでいる時は、

自分が
思うほど大して
進んでいない
もんだ。

力を
抜こう。

脱力だ。

それが
基本だ。

力を抜いて
一度、
すべてを

あらゆる
現実を

しっかりと
見つめて
みよう。

観察だ。

あるがままに
観るんだ。

どうしても
力を
抜けないなら、

力を抜ける
自分になる、
ことこそを
まず第一の課題と
した方がいい。

脱力しなきゃ
観えないんだ、
いつまで経っても。

力を
入れ続けながら
焦って
次の判断を
し続ける。

・・・このループから
いかに早く
脱け出せるか?
だ。

自己管理の
第一歩は
まずは
脱力、から。

その上で、
全力を出すべき
ことを
しっかり
選別しよう。

ここは
私のすべての
力を
注ぐ場所であり、
瞬間である、

本気で決める
こと。

そして
そこにこそ
照準を合わせて
進んでいく。

それが本当に
できるのは
「自分」
だけ。

自分の人生に
おいては。

脱力、

そして

集中。

そのように
進める自分に
なろう。

つづく

そのがんばりは頑張りだ

自分は
何に
がんばれば
よいか?

ここを
間違えては
いけない。

何でもかんでも
がんばることが
素晴らしい、
とは
思わないこと。

それでは
肝心なところでの
成長が

かなり

遅くなる。

私は今
何に
立ち向かう
べきか?

その要所を
掴むこと。

ズレたがんばり
は、
ただの
“頑張り”。

つまり、
頑固に我を
張っている
だけ。

もう
それでは
何も進まない
どころか
大きく後退する、
そんな
時代なんだよ。

特に
今年からは。

今、
世界は
二つに分かれている

捉えるといい。

「進む人達」
のいる世界と、

「進まない人達」
のいる世界。

どちらの世界に
身を置くか?

進み方の
調和性は
根こそぎ、変わる。

“頑張り”
とは
単なる
自己満足。
つまりは
「進まない人達」
の世界における
行為だ。

それくらい
明確に
捉えるといい。

本当は
あなたは
何に
立ち向かうべき?

今は!

つづく

一瞬以外は風

一振りで
済むところを、

二振りも
三振りも
しない。

最低限
最小限
でいい。

余分なことは
一切しない。

そのかわり、
その 
一振りに

魂を込める。

魂を
込めるには、
力を
抜き切る
ことだ。

全身全霊

脱力。

ただ、

一振りの
瞬間のみ
1000%の
力を出す。

一瞬の
勝負。

一瞬に
すべてを
懸ける。

そんな生き方

いつからか、
私は
目指してきた。

が、

今年は
ますます
そこを極める。

研ぎ澄ます
だけ
研ぎ澄ます。

そう
決めた。

もう
回り道は
しない。

最短で
行く。

ダイレクトに
そのままの
自分を出す。

ただし、
一瞬だけね。

あとは
風に
流される。

風に
連れて行って
もらうよ。

一瞬の
ために。

つづく

何もなくなる私もなくなる

私が
私である、
という
自我を失くし、

不特定多数
の中の
一つの存在
である、

ただ
それだけ、

という
感覚になることが
時々ある。

何の色も
ない。

“私”という
概念すらなく。

自分を失う
というのは
怖そうなイメージが
あるし、

それは
自分であることを
放棄するような
投げやりな
イメージもあるが、

実は
その瞬間の
私は
結構、悦びで
満たされる。

私は
何者でも
ない。

その
言いようのない
開放感。

解放感。

当然そこには
私の使命は
なく、

願いもなく、

すべきことも、
人生そのものも、

ない。

過去も今も
未来もなく。

ただ、
そこにある
一個の存在。

その感覚で
街を歩いて
いると、

とても純粋に
“風”を
感じることが
できる。

“風”は
常に
吹いているのだ、

わかる。

“世界”は
常に
動き、揺らめいて
いるのだと。

脈々と
何かが
流れている。

それをただ
不特定多数の中の
たった一個の
存在として
感じている。

ある種の
“無”の感覚。

それは
孤独ではない
のだ。

孤独という
概念そのものが
消えている
というか。

そんな感覚に
しばらく
浸っていると、

その後、
いつもそうなる
のだが、

ある瞬間から
急に
ガーっと
“私”が
入ってくる。

まるで
夢から覚める
ように。

そして
凄い勢いで
私の中で
“私”が輝き出す。

そこで
思い出すのだ。

私は
“私”であった、
と。

そして
素直に思える
のだ。

私は
“私”を
引き受けよう、
と。

この感覚が
ひょっとすると、
“覚悟”
ということかも
しれないね。

つづく

不満足の結晶体

短くて
いいから、

最も
的確な
言葉が
ほしい。

短くて
いいから。


だけでなく、

身体の
すべてが、

全部の
細胞が
悦ぶような。

言葉を
介してしか
表現できない
ような
この
限られた
狭い世界の
中で、

窮屈さを
いつも感じながら
私達は
自己表現を
し続ける。

自分を
表す術を
探しながら、

いつ何時も
満足を
得られずに。

不満足の
結晶体、
人間。

不満足が
不満足な
言葉で
自己を表す。

不満足
同士の
やりとり。

それが
我々の
関わり、
コミュニケーション。

あなたに
どうしても
伝えたいことが
ある。

でも
それを
どうしても
的確に
表せないんだ。

伝えられ
ないんだ。

この言葉は
私じゃない。

でも、
私そのものの
言葉を
見つけたい。

あなたに
伝えるために。

私自身が
あなたに
伝わるために。

私が
あなたを
理解するために。

つづく

こんなことが楽しいなんて

丘に登る
一本道が
ある。

だが
その道は、

二次曲線的に
どんどん
急になる。

最後は
まるで
垂直の壁の
ようだ。

こんなの、

と言えるのか?

こんなところを
私は
行こうと
しているのか?

いやだよ。

だって
進めば進むほど
急になるんだろ?

進めば進むほど
苦しくなるんだろ?

最初は
そう思っていた。

しかしそれでも
その一本道を
行ってしまう自分。

勝手に
足が前に出る
のだ。

そして
だんだんと
二本足では
進めなくなり、

四つん這いで
進むように
なり、

とうとう
垂直に
攀じ登る状態と
なるにつけ、

実は
この進み方が
一番、楽で

しかも
楽しい!

ということが
わかってしまった。

なんだ
人間も、
本当は
四つ足で進む
生き物なのか。
ただし、
それは
垂直な場合に
だけ。

と、
妙な納得を
した。

垂直とは
最短。

四つ足
とは
全エネルギーを
進むことにのみ
使う状態。

つまりは
全集中状態。

最短ルートの
全集中状態こそ
我々人間の
悦びなのだ。

これまで
ずっと
恐れてきたことが、

実は
最も楽で
楽しいことだったとは!

なんという
ある意味
不条理な
世界か。

さて。

そうやって
垂直の壁を
攀じ登り、
ついに
丘の上に出た。

するとなんと
丘だと
思っていたのに、
まだまだ
先があった。

なだらかに
広い平原が
続き、
ずっと先に
次の二次曲線が
見えていた。

あそこもまた
最後は
垂直なのだろう。

しかし
あの二次曲線までは
遠い。

あそこまで
また
二本足で
トボトボと
歩いて行かねば
ならないのか。

二本足は
つまらない。

だから
走ろう。

また垂直の
壁を
攀じ登りたい
のだ。

あぁ、
これが
人間の
宿命か。

つづく

ちゃんと継ぐよ

命とは
儚いものか?

いや、

命とは
永遠だ。

私達は
別個の存在
じゃない。

すべて
繋がっているよ。

もし
誰かが
いなくなっても

他の誰かが
その人の
意志を継ぐ。

しかも
その人は
いなくなったのじゃ
ない。

ちゃんと
実在し続けている。

私は
あなたの
意志を継ぐ。

ずっと
そう決めて
いたし、

これからも
そうだ。

私は
あなたの
意志を継ぐ。

つづく

出口への一歩

一つのものを
千の視点から
同時に
眺めるような

不思議な
感覚が、その時
あった。

万華鏡の
ような、

無数の
プリズムの
ような、

交錯する
光の
乱舞の中で、

私は
一つとても
大事なことを
気づかせて
もらったんだ。

目の前には
垂直の
壁があり、

その壁は
全体が
滝になっている。

八方塞がり
で、
どこにも
進みようのない
状況。

そこに
確かに
出口を見たんだ。

出口は
ここには
ないのだが、

でも確かに
ここにしか
ない。

ないのに
ある。

あるのに
ない。

その意味が
最初は
わからなかった
のだが、

それがやっと
その時
わかったんだ。

すべての
次元は
今ここに
重なり合っている
と。

次元は
分離しているが、
すべて
ここにあり、

その意味に
おいて
一つである、と。

であれば
私のいる
次元のまま、
あの出口を
出られるはずだ、
と。

ここに
ないのに
ここにあり、

ここにある
のに
ここにない
もの。

その両方を
私は
すべて
信じよう、と。

どちらが
正しいか?
ではなく、
どちらも確かに
ここにある。

そして、ない。

そのすべてを
引き受ける
こと。

それこそが
覚悟なんだと、
ようやく
気づけたんだ。

そして
次の瞬間に
自分が
どの一歩を
踏み出せばよいか、

手に取るように
わかった。

理屈では
ない。

理由も
ない。

ただ、そこには
確信
のみが
あったんだ。

つづく

大いなるものがある

大いなるもの

としか
言いようのない
何かを

感じたことは
あるかな?

霊感とか、
スピリチュアルとか、

そういった
ものを
超えて。

あくまでも
現実的な
レベルの
感覚として。

それは、

内面的とも
言えるし
外面的とも
言える。

そういった
ものさえ
超えている。

ただ、
一言で
表せば、

「実在」

ということに
なる。

確かに
ここに
存在している
もの。

何か。

言葉では
表現できない
けれど、

もし
無理矢理に
表現すると
すれば、

大いなるもの

としか
言いようのない
もの。

人生を
真剣に生き、

挑戦すべき
ことに
挑戦し、

向き合うべき
ものに
向き合い
続ける。

そういった
生き様で
進み続ければ

誰もが
どこかで
感じ取るものでは
ないか。

大いなるもの。

あえてさらに
無理くりだが、
別の表現で表せば、

世界の全てが
そこに
凝縮された存在

とも
言える。

もしそれを
感じ取ることが
できるなら、

できれば
それを
一日中、
感じながら
生きるといい。

「それ」が
あなたを
支配することは
ない。

むしろ
「それ」は
あなたの自律を
望んでいる。

あなたの
自律こそが
「それ」そのものの
パワーとなる
のだから。

より
自由に。

そういえば
今日のクライアントさんが
とても
良いことを
言われていた。

「私の求める
自由とは、

Freedom
ではなく、

Liberty
である」
・・・と。

そう、
「それ」は
あなたの
Libertyを
望んでいる。

「それ」は
あなた自身でも
ある。

そして
「それ」は
あなたが
活用できるものだ。

あなたが
主だ。

つづく

影響を強めよう

人には
誰しも

揺るがぬ
意志

がある。

ない、
人は
いない。

ただ、
自分で
気づいていない
人は
やたらと
多い。

じゃあ、
そういう人は
放っておけばいい、

というわけには
いかない
のだ。

そもそも
私達は、

揺るがぬ
意志

があるからこそ
生まれて
来れる。

大変な
苦痛の中を

母親の体内から
外の世界に
出る、

その意志
こそ、

本来、私達が
持っている
揺るがぬ意志に
他ならない。

ここにいる、
ということ
自体が、

自分自身が
揺るがぬ存在
である証。

それを
もう
思い出さねば
ならない。

できる限り
多くの
人達が。

そのための
働きかけが
必要だ。

人が人に
影響を
及ぼす。

それがますます
重要になる。

人が人を
変えることは
基本、できないが、

変える
きっかけは
与えられるかも
しれない。
一つの
影響として。

それを私は
今年は
ますます
強く行なおうと
思っているし、

きっと
皆さんも
そうだろう。

毅然と
強く、

自分を
信じて、

素直に
影響を
与えていこう。

つづく

やりたいことがビジョンではない

「やりたいことを
やればいい」

・・・と、
言われ過ぎでは
ないか。

最近の
世の中は。

だから
安易な方向に
進んでしまう。

自分が
本当は
何をやりたいと
思っているか?


自分で
知らぬまま。

本当は
今ここで
立ち向かわねば
ならない
現実がある。

それを
乗り越えてこそ
その後に、

自分の本当に
やりたいこと

が、
観えてくるのに。

目の前の
現実から
逃げる口実として、
やりたいことを
設定し、

「私は本当は
これをやりたかったんだ!」


自己満足の答えを
出し、
そちらに進んで
しまう。

私の表現で
言えば、

その時たまたま
湧き起こった
反応本音「のみ」に
従う道だ、
それは。

その道は
年齢と共に
どんどん狭まる。

どんどん
自分を
失っていく。

「ビジョン」
という言葉も
安易に使われ
過ぎだ。

「ビジョン」とは
そんなに簡単に
見つかるものでは
ない。

「私のやりたいこと」

ビジョンではない。

真のビジョンとは

やりたいこと

すべきこと

の一致点にこそ
存在する。

本当に
世の中にとって
これから必要なことは
何か?

本当に
人にとって
これから必要なことは
何か?

範囲や規模の大小
ではなく、

自分の等身大の
視野で、

自分の置かれた
この「現実」
もしくは
「環境」への
眼差しを持ち、

本当に
すべきことは何か?

見つける。

「現実」「環境」
に対して、
私は何を
すべきか?

何をするために
私はここに
生まれて来たか?

その眼差しが
基本であり、

そこを本当に
真剣に考えながら
進むからこそ、

「そうか、私は
本当はこれを
やりたかったんだ!」

が、
見つかる。

それが
「真のビジョン」
だ。

すべきことで
やりたくないことは
もう
するな。

やりたいけど
すべきことでは
ないことも
もう
するな。

一致点のみを
探そう。

とことん
探求しよう。

そこに
あなたの
存在意義が
あるのだから。

つづく

情を断ち切ってほしい

情に流される

という言葉が
ある。

昔の私は
これの権化だった。

むしろ、
情に流される
ことこそが

人間にとって
大切なことだ、

くらいに
思っていた。

今は
真逆の
捉え方だ。

「捉え方」
というよりも、
本当にたくさん
痛い目に遭いながら

文字通り
痛感した
ことだ。

私は
「情に流される」
のと
「愛」

真逆だと思っている。

ちょっと
短絡的過ぎる
表現かも
しれないが。

ただ今回は
あえて、
短絡的表現を
連発してみたい。

「情に流される」
とは
自己満足
そのものだ。

「情に流される」
ことで
人生は止まる。

「情に流される」
とは
現実逃避の
形だ。

「情に流される」
とは
本来すべきことを
放棄している
最も典型的な
振る舞いだ。

「情に流される」
とは
誰も愛していない。
誰も
大切にしていない。

「情に流される」
とは
依存、そのものだ。

・・・とまぁ、
これくらいに
しておこうか。

皆さんは
どう思う?

なぜこんなに
短絡的なまでの
表現をするか?
と言うと、

私は皆さんに
もっと
「毅然」と生きて
ほしいからだ。

毅然と生きる
人とは、

手放せる人

断定する人

断れる人

・・・だ。

これも
短絡的表現。

しかも
「否定的」印象ばかり
受けるかも。

しかし
それが必要
なんだ。

真本音で生きる
人は、
自然に
毅然となり、
情に流されなくなる
が、

しかしここからは
もっと
意図的に
毅然となり、
情を断ち切って
ほしい。

本当に必要な
ことにのみ、
自分自身の
エネルギーを
注いでほしい。

時間が
ない。

一気に
貫くしかない。

自分の
道を。

情に
流されず。

2024年は
そういった年だ。

つづく

自分にしかできないこと

真本音度合いが
高まると、

「自分」という
内面に存在する

実に様々な
個性を

把握できるように
なる。

真本音とは
内面における
「自己の大地」
のようなものだ。

「大地」
の感覚を
得ることで、

私達は
本質的に
安定する。

そして
自分という人間の
内面を

洗いざらい

見つめることが
できるように
なる。

これまで
怖くて
無意識に
蓋をしていた自分、

とか

トラウマ的な
存在として
無きものに
したがっていた自分、

とか

嫌いで嫌いで
しょうがなく
その存在自体が
耐えられないと
感じていた自分、

とか。

そういった
自分自身までをも

あるがままに
見つめる

ことが
できるようになる。

それが
真の自己開放の
第一歩となる。

自分のことを
自分が
把握する。

この当たり前の
こと

だけど、

本当に難しい
こと


できるように
なることで、

私達は
初めて
真の自分自身に
近づいていく。

そして
いつの間にか、

すべての自分


愛せる自分と
なる。

すべての個性


活かせる自分と
なる。

人生は
長いか?

人生は
短いよ。

私達には
「本当はやりたいこと」

たくさん
あり過ぎる。

それに対して
自分に与えられた
人生の時間は
少な過ぎる。

一刻も早く
自己開放をし、

本来
やりたかったことに
集中できる
自分になろう。

せっかく
「ここ」に
来たのだから。

「ここ」
でしかできない

かつ

「自分」
にしかできない
ことを
やろう。

始めよう。

つづく

誰、にする?

今年は、
誰との
「結びつき」

深めようか?

もう一歩

二歩
も。

自分の意志
として
その人に
近づく。

その人の
人生と
自分の
人生を

融合させる
ように。

その
「誰」
が、
特に今年は
重要になる。

2023年までに
培った
あらゆるものを
今後に
活かすためには。

もちろん
一人
に絞らなくても
いい。

ただ、
しっかりと
自分の意志として、

今、
決めることだ。

つづく

わかってからでは遅い

心の内面
には、
たくさんの自分
がいる。

数え切れない。

彼らが、
必死になって
なんやかんや
言い合いながら、

何か
準備をしている。

暗闇の
中で
一部分だけ
スポットライトが
当たり、

スモークの
ようなものが
立ち込めている。

その中で
踊っているようにも
見える。
皆、
バラバラな踊りだが。

時には
殴り合いに近い
やりとりも
あるようだ。

徹底的に
試行錯誤を
繰り返している。

が、しかし
「何か」は着実に
創られていく。

スポットライト

こちら向きに
照らされているので、

彼らの姿と
彼らが
創り上げている
ものは
よくわからない。

すべて
シルエットのみで
確認できること。

そしてついに
歓声が
上がった。

皆で
万歳を
している。

完成した
ようだ。

準備が
整ったのだ。

皆が
私の方を
向いた。
シルエットだが
それはよく
わかる。

私は彼らに
応えなければ
ならない。

その「何か」は
相変わらず
よく見えない。

しかし彼らは
私の答え・応え
を求めている。

ここでいつも
人生の選択
なのだ。

そのよくわからない
「何か」を
きちんと把握してから
答えよう・応えよう
とする選択肢と、

よくわからない
ままで良いから
今ここですぐに
答えよう・応えよう
とする選択肢。

私がこの人生で
取り続けたのは、
常に
後者だった。

一見すると
それは
無謀とも言えた。

しかし私は
彼らを
信じた。
本能的に。

よくわかってから
進むのでは
遅いのだ。

間に合わない
のだ。

今回も
そうだ。

これまで
見たことのない
巨大な
「何か」がある。

正直、
震える。

だが、
今回も
先延ばしには
しまい。

彼らが
自信を持って
私に奨めるならば、

私は
私の意志として
彼らに応え
答えよう。

「やるよ」
と。

つづく

いいねぇ、その憤り

憤り、
というのは
決して
悪いものでは
ない。

自分の中の
深い憤り。

もしそれを
見つけることが
できれば、

それとしっかり
向き合うことで、

私達は
自分の進む道を
見出せるかも
しれない。

それは
自分のミッション、
つまりは
自分の本来の
役割を

理解するための
きっかけに
なるかも
しれない。

きっとその
憤りには、

悲しみも
セットでついて
いるだろう。

しかし
と同時に
実は
悦びも存在している
のではないか。

深くて強い
憤りが、
悦びと共に
ある。

そのような
憤りを
探してみよう。

それを
”真本音の憤り”

私は呼んでいる。

あなたの
中心に
あるはずだ。

この新たな
年を
駆け抜ける
指針として。

つづく

真成果を出そう

明けまして
おめでとう
ございます。

2023年から
2024年へ。

また一つの
節目
ではあるが、

実在のレベルでは
実はここには
特別な境目が
あるわけでは
ない。

断絶が
あるわけでは
ない。

2023年と
2024年は
地続きで
そのまま
繋がっている。

つまり、
いつもと
何も変わらない。

昨日までの
自分が
そのまま
今日に反映する。

これまでの
自分の
生き様が
「原因」となり
そのまま「結果」が
現れてくる。

ただ、

真本音で
生きる人は、
より
生きやすく
行きやすく
なるだろう。

思えば
2023年も
そういった年
だった。

表現を
変えれば、

真っ当に
生きる人は
真っ当に
進める

という傾向が
一気に高まった
のが
昨年だった。

本当に
健康的な
世の中になった
ものだ、と
何度も感嘆した。

が、
その傾向は
今年はさらに
高まる。

世の中全体の
真本音度合いが
どんどん
高まっていく。

だから逆に、

反応本音でのみ
生きる人は
生きづらく
なるだろう。

ごまかしが
利かなくなる。

こなせば
何とかなる、
ということが
なくなる。

表面上のみ
取り繕う
ということの
効果が出なくなる、
どころか、
あらゆる混乱を
招くように
なる。

そういった
意味で、

世の中は
荒れるだろう。
ますます。

しかし
私達は
その表面的な
出来事には
揺らされずに
行こう。

粛々と、
誰がどうなろうが、
粛々と、
私達自身の
今日すべきことを

今日
行なおう。

真本音に
基づき、

真行動を
起こし、

真成果を
出そう。

真の成果は
ますます
出やすく
なっていく。

楽な時代に
なったものだ。

その
「楽な」
というのを
享受しよう。
堂々と。

そのための
進み方を
私達は
経験を通じて
学んできたんだ。

本年も
よろしく!

つづく

予定通りだ

あまりに
静謐な
その場所に、

見渡す
限り
何もない
その場所に、

ずっと
佇んで
生きてきた。

何もない
のに
あるかのような
錯覚と
共に。

小さく微かに
聴こえる
トツ〜ンという
音。

しかしそれは
私の細胞の
すべてに
響き渡る。

私は
ここに
いる。

ずっと。

私は
ここに
存在
している。

遥か
彼方から、
遥か
彼方に
向けて。

微かな
響きによる
メッセージは、

今こそ


告げている。

だが、
力は入れない。

入らない。

これまでも
そうしてきた
ように、

これからも
同じく
そうする。

何も
変わらない。

のだが、
すべてが
変わる。

根っこから。

ここには
何も
ない。

が、

ここには
すべてが
ある。

ない
はずの
ある。

ある
はずの
ない。

その
融合により、

私は
私たり得る
のだ。

最も遠くに
届くと
いい。

祈りにも
似た
意志。

世界を
ぐらつかせれば
いい。

もう
それで
いいんだ。

躊躇は
外す。

守らなくて
いい。

予定
通りだ。

このまま
行くことに
する。

つづく

始まりの宣言

あなたの
中で

宣言
したいことが
あるのでは
ないか?

あなたが
あなた自身に
対して。

私は
必ず
これをします!

と。

それは、

今から
すぐに
します!

なのか、

2024年に
します!

なのか

人それぞれ
だろうけど、

今まさに
ここ

「宣言」することに

意味が
ある。

宣言とは
決断。

何があっても
必ず
する、こと。

断定的
に。

100%の
潔さを
もって、

自分自身に
宣言する。

今の
あなたは
それこそを
したいのでは?

しっかり
自分の
コアを
見つめよう。

あなたの
中心には
どのような
「宣言」が
ある?

つづく

私は何者か?

宇宙に
近いところから

地球を
見降ろしたときに
目に映る

この星の
曲面。

その
流れる
美しさ。

それを
生で見たことは
ないはずだが、

でもその
美しさそのもの
の「感覚」は、

なぜか
私達は全員
知っている
のではないか。

その「感覚」に
導かれて、
私達は
ここに来た
のではないか。

美しいものが
失われる
悲しさと
恐怖。

何としても
それを
防ごうとする
意欲。

決意。

心の
魂の
奥の奥の方。

そこに
存在する
かすかな
感覚としての
記憶。

それに
触れたとき、
私達は
人生を
急転回させる。

急転回の
のちの
急展開。

そして
そこに存在する
根源的な
問い。

“私は何者か?”

私は
美しさを
守ろうとする
者だ。

私達は
その約束を
果たす
者だ。

“いつから?”

今、
だな。

つづく

生きる実感が少ないならば

探究を
し続ける
人は、

探究を
し続けないと

自分を
失ってしまう。

この人生を
探究のため!

決めている
からだ。

つまり
探究とは
自分そのもの。

探究する
のが
自分であり、

もし
そうでない
ならば、
それはもう
自分ではない、
と。

そう、
心の中心で
決めて
人生を始めている
ため、

探究を
しないことで
自分を失うのは
当然だろう。

結構
たくさん
いるんだ、
その
探究タイプの人
は。

そして
結構
たくさん
いるんだ、
自分が
探究タイプだと
気づいていない
ままの人は。

どれだけ
生きても、

どれだけ
進んでも、

どこか
自分の人生の
ように
感じられない。

まるで
他人の人生を
歩んでいる
ようだ。

人生の歩みの
一歩一歩に
実感がない。

・・・もし
あなたに
そのような感覚が
あるならば、

あなたは
きっと
探究タイプの
人だ。

自分が
本当は
何を
探究したいのか?

まずは
それを
「仮に」
でも良いので
見つけ、
決めるといい。

そして
毎日、
そのことだけを
探究し続ける。

「探究」

自分の心と
生活の
中心に置き、

「探究」の
ために
自分の全人生が
ある、

決めつけ、

「探究」の
ための
生活を始めると
いい。

「探究」

終わりはない。

人生において
どこまで
深掘ることが
できるか?

行けるとことまで
行ってしまおう!
という意志を
持とう。

そうすれば
その瞬間から

本当の
人生が
始まるよ。

つづく

新生するために

パッと
閃光が走り、

次の瞬間、

自分が
縦に
真っ二つに
切られる。

日本刀で
切られるように。

そんな
感覚に
見舞われた。

私は
二つに割れて
倒れた。

通常であれば
絶命する
ところだが、

それによって
私は
生き延びた
のだ。

というよりも
生き返った
と 
言うべきか。

ということは、
それまでの
私は
生きては
いなかった。

死んでも
いないが、
生きても
いない。

そのような
自分から
解放され、

ようやくに
して
生き始めることが
できるように
なったのだった。

22年前の
話。

今まさに
私に
起きていることは

それに
近い感覚だ。

ただ、
今はそれを
たった一人で
行なっている。

粛々と。

あえて言えば
私は
私を
終わらせようと
している。

その上で
再生しようと
している。

当然であるが、
それには
絶大なエネルギーが
必要だ。

しかも
生命エネルギー
そのものが
必要で、

そういった
意味で、
私はこの肉体が
維持できる
限界まで
毎日、
エネルギーを
使い続けている。

自分を
終わらせる
ために。

かなり
危険なことだ。

しかし
それができるために
私はこれまで
50年以上、
精進してきたのだ。

このプロセスが
必ず
必要であると、

大袈裟に
言えば、

生まれた時から、
幼少の時から
知っていた。

だからいつも
焦りながらも
自分を
追い詰めていた。

なぜ
こんなにも
苦しみの人生を
進むのか?

自分で何度も
問うてきたが、

今になって
ようやく
最もスッキリした
答えが
わかったという
感じだ。

今の
まさに今の
このプロセスを
滞りなく
経るため。

しかも
一人で。

この年末
までに
必ず、
終える。

2024年の
1月1日には、

新生した
私として
立つ。

今は
そのように
決めている。

つづく

うるさい原点?

静かなる
原点と、

うるさい
原点
がある。

あなたの
原点は
今、

どちらかな?

うるさく
感じるので
あれば、

そろそろ
原点そのもの
から

根本的に
変化の
時だね。

つづく

ビッグバンたち

体の中の
すべてを
どこかに
吸い取られるような
感覚がする。

怖い感覚
だが、
なぜか
心地が良い。

吸い取られ
ながらも
私は
どんどん小さく
なっていく。

風船の
空気が
抜き取られる
ように。

そして
最後には
小さな

になった。

ところが
その次の瞬間に、

小さいはずの
その一点の
中に
私自身が
入っていた。

そこは
一点のはずなのに
中は
広大だった。

そして
その広大な
世界から
何かが
無数に飛び出して
いく。

龍だ。

たくさんの
龍たち。

一点から
外の世界へ
無数に
飛び出し、

次々に

になっていく。

星、
というように
見えるのだが、

その
一つ一つは
ビッグバンの
ような
凄いエネルギーを
爆発的に
拡散させている
のがわかる。

その
煌めきたちが
宇宙全体に
広がるかの
ように。

星々の
プラネタリウムの
ように。

昔、
冬山で見た
あの気持ち悪い
ほどの
たくさんの星々の
夜空のように。

一点に
集中した後に、
一気呵成に
広がる。

これこそ
自然界の原理
ではないか。

そのような
爆発的な
動きが、今、
私の中で

実在で

始まっている。

そしてそれは
まだ
序章だ。

つづく

苦より楽を

滝に打たれて
修行すれば
良い、

という
ものでもない。

苦しまなければ
得られない、

という
ものでもない。

堂々と、

最も楽な
道を

求めよ。

最も楽しい
道を

探求せよ。

課題は、
どのような道を
進んでも
ちゃんと
やってくる。
前方から。

進めば
前から
やってくる。

前から
くる課題にこそ、
向き合おう。

それが
本当の
課題。

本当の
壁。

自ら
墓穴を掘る
ことでは
ない。

もっと
遊ぼう。

もっと
自由に。

もっと
自分の想いに
素直に。

つづく

普通じゃ物足りない

これは
逆流か?


思うくらいに
抵抗の大きな

順流がある。

多くの人は
逆流だと
勘違いして、

そのまま
進むのを
諦めてしまう。

しかしそれは
紛れもなく
順流。

しかも
変態性の
高いもの。

変態性、
つまりは
次から次へと
根本的変化

続ける。

その
抵抗のように
感じるものは、

あまりにも
段差の大きな
階段を
登るような
ものだ。

普通の
順流ではもう
つまらない。

変態性の
高い順流しか
興味はない。

そう
決めている
人は
増えている。

あなたも
その一人では
ないか?

だから
気力や
モチベーションが
なくなるんだよ。

普通の道を
行くのは
もう
諦めな。

激しい
抵抗感の
方へこそ、

進むが
いい!

つづく