チームパフォーマンスコーチ

掴みたい

川の下流に
光が見える。

泳いでそれを
掴もうとする。

しかし
光は逃げる。
さらに下流に。

それをまた
必死に追いかける。

泳ぎに泳ぐ。

その内に
泳ぎ方が
板についてきた。

最小限の労力で
最大のスピードを
出す泳ぎ方が
わかってきた。

にも関わらず
光には
追いつけないのだ。

泳いでも
泳いでも
追いつかない。

それでも
光に
真一文字に
ついていく。

で、
ふと気がつくと

海に出ていた。

大海原。

上流も下流も
ない。

どこに行くのも
自由。

あまりに
広々とした
世界なので、

逆に
恐怖に襲われる。

でも、
泳ぐ力は
それなりについた。

もちろん
川での泳ぎ方と
海での泳ぎ方は
異なるだろう。

でも
泳ぐ、という行為
そのものについては

その本質は
もう
身についている
実感がある。

これまでの泳ぎが
通用しなくなる
かもしれないが、

でもやはり
私はさらに
先に行こう。

光はまだ
見えるのだ。

どこに行くのも
自由だが、

やはり私は
あの光を
掴みたい。

この気持ちが
続くうちは。

光は
どこに行くのか?

わからないが、
ただわかるのは

私はあの
光を掴みたい。

光は先に
進む。

私を導く
ように。

このまま私は
導かれようでは
ないか。

つづく

正面にいる

目の前に
何か
強烈な存在が
在るのではないかな?

その存在は
あなたをじっと
真正面から見つめ
続けているのでは?

私は
ここにいるよ、
と。

ちゃんと
はっきり私を
正面から見つめてほしい、
と。

それこそが
本来のあなた
なのでは?

もう
気づくべき時が
来ているのに、

必死になって
気づかないフリを
している。

怖いから
そういうことを
してしまうのが
我々人間なのだけど、

でも結局は
そうしていることが
一番苦しいのだ。

・・・ということを
しっかり
目を開けた後で
気づくものまた我々。

目を開ければ
楽し。

目を閉じたままなら
苦し。

単純なこと。

それが
我々。

だからもう
あきらめて
目を開けたら
どうかな?

つづく

探究のススメ

探究心。


もっとみんな
持った方がいい。

探究とは

『?』

だ。

私達の心の中には
日常的に
様々な「?」が
発生する。

そこに
敏感になり、

一つ一つの「?」を
丁寧に
拾い上げることだ。

最初は
興味のあることから
で良いと思う。

たくさんの「?」を
どんどん
増やすこと。

オススメは
探究用の
専用のノートを
一つ作ること。

私はいつも
探究用の手帳を
必ず携帯している。

ふと発生する
「?」を
次々にメモする。

そして
タイミングをみて、
探究のための
時間にする。

手帳に書き溜めた
「?」について
じっくり考える。

自分なりの答えが
出れば、
また次の「?」が
発生する。

自分なりの答えが
出ない場合は、
情報収集をする。

こういったことの
積み重ねは、
セルフコーチング力
そのものを育てる。

内面的なこと。

外面的なこと。

何でもいい。

何でも良いから
自分流探究を
みんなもっと
やった方がいい。

つづく

問題だろ

「ここが問題だよね」

伝えると、

「そんなにひどいことを
言わなくても・・・」

返ってくることが
ある。

これは日本人の
悪い癖の一つじゃないかと
私は思っている
のだが、

みんな、問題を
曖昧にしていないか?

何が悪いのか?
どこに問題があったのか?


ちゃんとクッキリ
明確にしないと、

対策の打ちようが
ないではないか。

曖昧なまま
馴れ合いのまま
進むから、

後で問題が
大問題に変質し、

どうにも
手をつけられなく
なる。

まだ小さなうちに
ちゃんと手を打って
おけばいいのに。

大概は、
多くの問題は
最初からでかいわけでは
ない。

火種から始まり、
徐々に
育っていくものだ。

膨張、だ。

膨張すれば
それはいずれは
必ず
破裂する。

大膨張の上に
大破裂を起こしてしまう
人生を
送る人が
あまりに多くないか?

ちゃんと
問題を見ていない
からだ。

「ここが問題だよね」

はっきり受け止めない
からだ。

つづく

意図持ちすぎ

皆、
意図を持ちすぎ
だと思うのだ。

意志・意思は
大事だ。

でも、
ちゃんと自らの
意志・意思を
確認できたら、

あとは
臨機応変で
良いと思うのだ。

私達は
「現実」と「自分」
とのコラボで
生きている。

意図を持ちすぎると、
このコラボが
澱む。

本当は
「委ねればいい」

言いたいところだけど、

この言葉、
人によっては
誤解されやすいことが
わかってきたので、
今は慎重に使うことに
している。

委ねる、
ということを考えるあまり、
自分の意志・意思を知らず知らず
失ってしまう場合が
あるようなのだ。

もちろんそういうことでは
ない。

私達は
ちゃんと意志・意思
を持つからこそ、

肝心なところで
委ねることが
できる。

この意味が体験的に
わかる人は
「委ねよう」と思えばいい。

イマイチまだわからないなぁ、
という人は
まずは自分の意志・意思を
しっかり持ち、

その上で「現実」をよく見て、
聴いて、
感じて、

そして
「こんな展開がいいな」という
プロセス面における
意図や思惑に
執着しないよう、

臨機応変に
自分の行動を
変えていこう。

プロセスは
どうでもいいや、
というくらいに。

ここに執着すると
結局は
何も見えなくなる。

何も
わからなくなる。

気がついたら
自己満足、
自己欺瞞、
そして
傲慢になって
しまうこともあるんだな。

知らぬ間にね。

つづく

覚悟をもつ?

「覚悟」
というと、
仰々しいものに
なってしまう。

もっと
良い言葉は
ないだろうか?

スッと
一本の筋の
通った
想い。

それは
小さくも
揺るがない。

揺るがないように
しようと
努力している
わけではない。

最初からもう
揺るがない。

いや、
揺らぐとか
揺るがないとか
そういった次元には
ない。

ただ、
そこにある。

あるがままの
想い。

変わることの
ない。

その時その瞬間の
たまたまの
現象ではない。

ずっと
確かに存在
しているもの。

実在
しているもの。

そう。

始めからずっと
そこに
あったもの。

これからも
ずっと
在り続けるもの。

永続的に。

永遠に。

願い
という言葉。

祈り
という言葉。

それらはとても
近いが
でもやっぱり
ちょっと違う。

もっと
自然なもの。

もっと
果てしない
もの。

もっと
身近なもの。

そういった
想いというか
気持ちというか、

そういった
存在が
自分の中に
あるのだと気づいた
その瞬間から、

明らかに
人生は変わる。

自分は
変わる。

本来の人生、
本来の自分
へと。

なんだ
この道だったな。


わかる。

思い出す。

我に
返る。

それを側から
見れば、
う〜んやはり

「覚悟」と
なっちゃうかなぁ。

覚悟の権化。

今日もある
クライアントさんを
観ながら。

つづく

まだ伝えない

10の言葉を
説明を加えながら
懸命に伝えようと
するよりも、

たった一つ、

その一つだけを
伝えれば
その瞬間に
その人の奥深くに

響き渡る言葉。

私はいつも
それを探す。

探し出すまでは
無闇に
伝えない。

ということを
大切にしている。

結局その言葉が
見つからず、
何も伝えられなかった
としても

それはそれで
いい。

まだ伝えるべき
タイミングでは
なかったのだ、

思うことにしている。

言葉。

それは
魂が乗るもの。

ただしその
魂とは、

私の魂であり、
私の目の前の
その人の魂
である。

二つの魂が
響き合う

そんな一言が
ある。

それを探す
喜びと
冒険心にも似た
スリル。

いつも間にか
これが私なりの
コミュニケーションの
楽しみ方に
なった。

言葉とは
単なる記号かも
しれない。

しかしその
記号を

「架け橋」

にするのは、
その言葉をかけ合う
その人達同士だ。

共に
架け橋を探し合う
コミュニケーション。

それが
企業でも家庭でも
友達同士でも
恋人同士でも、

もっともっと
広まればいいな
と思う。

つづく

現実がゆがむ

現実が
ゆがんで見える
感覚って
わかるかな?

そういう経験は
あるかな?

実は私は
昔からたまに
あって、

多分、病気では
ないと思うが、

その度に、
ハッと我に返る
心地がしたものだ。

いかんいかん、
この
目の前の現実に
捕らわれ過ぎだ
と。

この現実は
現象だ、
と。

実在は、
本質は、
別にある、
と。

実在の反映が
この現実だ、
と。

その真理を
忘れるな、
と。

言葉で表すと
きっとそんな風な
自分自身に対する
警告に近い
刺激を与えてくれた。

そんな風に
もちろん
明確に認識したわけ
ではないが、

実はこういった
ことが
小学生の頃から
私にはあった。

なので
そういうもんなんだ、

捉えていたのだが。

今振り返れば
ありがたい「警告」
だった。

何か意識のチャンネルが
カチッと
その度に、
変わったから。

その後の自分の
行動が
明らかに変わった
から。

我に返った行動が
でき、
結果的に
思わぬ道が開く
ことが多かった。

もちろん、

現実は
現実である。

現実は
夢幻だ、
という考え方も
あるが、

実は私は
その捉え方は
あまり好きではない。

現実は
現実だろ。

ちゃんとここに
それが
あるではないか、
と。

たとえ幻だったと
しても、
少なくとも
私は
それがここにあると
確実に思っている。

であれば
それこそが現実。

そう思えている
自分を否定しては、
人生を否定するのと
同じではないか、
と。

それは今でも
変わらないが、

でもやはり
一方で、

私達は「現実」に
縛られ過ぎだ。

きっとそれが
「3次元に縛られる」
ということ
なのだろう。

この世は次元は
いくつもある。

すべての次元に
それぞれの
「現実」がある。

現実を大切に
する、
というのは、

3次元だけでなく、
あらゆる次元の
現実を
大切にせよ、

ということ
なのだろう。

そんな視点に
立てた時、

明らかに
私は何かから
少し解放される。

きっとそれが
「自我からの解放」
なのかも。

いずれにしても
重要なことを
ハッと思い出す感覚
なので、

これはこれからも
ずっと
大切にしていきたいな。

つづく

行くか

光が見えるので、
そちらに向かう。

まっしぐらに。

遮るものは
何もない。

ダイレクトに
行ける。

なら、
まっすぐに
行くだけだ。

止めるとしたら
それは
自分自身の
躊躇の心
だけだ。

遮るものは
何もない、
というのは

私の独りよがりな
見方だろうか。

現実が
見えていない
だけだろうか。

傲慢になって
いるのだろうか。

節穴になって
いないだろうか。

そんな疑念が
起こるし、
自分を信じきれている
わけでもない。

だがしかし、

それがどうした
と言うのだ。

何をどう見ても、
そこには
何もない。

何もない
空間の向こうに
光だけが
燦然と輝いている。

しかもそこまで
ひとっ飛びで
行ける。

何かの罠か?

笑わせるな、
私よ。

心配性な
私よ。

そろそろ
そういうのとも
おさらば、だ。

罠でもいい。

節穴でもいい。

傲慢でも
いい。

今、見えている
ものと、
この、爽快な
感覚を

私は信じることに
する。

だから
ダイレクトに
行く。

そう決めた。

つづく

貝だな

まるで貝のように
じっとして
動かない。

完全に
閉じてしまって
いる。

外界との区切りを
明確につけ、

自分一人の世界に
閉じこもっている。

外から
コンコン
と、
叩いてみるが、

まるで
反応がない。

おい、生きてるか?

と問うが、
当然のように
無反応。

これじゃ
生きていても
死んでいるのと
同じじゃないか。


呆れる。

そっとしておく
他ない。

しょうがないので
私は
そこを後にした。

海深く、
閉じたままの
自分。

あれも
紛れもなく
私だ。

私の一つの
姿。

永遠に
あのままか?

いつかは
扉は開くのか?

あの中には
どんな私が
眠っているのか?

固く閉ざされた
殻。

あなたは
いくつ持ってる?

つづく

過去は変わる

もし
「過去」から
今の自分に、

風が吹いて
きたら、

そういう感覚が
したら、

その風の出どころ
である
「過去」の出来事に

意識を
集中させてみよう。

可能であれば、
その出来事を
イメージの中で
良いので、

もう一度
体験してみよう。

その時とは
まったく異なる
印象の出来事に

書き変わる

可能性がある。

事実とは
事実ではない。

私達が
事実だと思っている
過去の出来事の
全ては

私達の解釈
だ。

事実とは、
今この瞬間の
目の前にある現実
以外にはない。

私達は
解釈の生き物。

だから
過去の解釈は
何かのきっかけで
容易に変わる
ことがある。

過去の解釈が
変わることで、

ここからの
自分自身の歩み方が
大きく変化する
かもしれない。

過去を振り返る
ことは
しないのだ、

ということを
信条としている人も
多いが、

もし
過去から風が
吹いてきたら、

それは合図だ。

もう一度、
その過去を
体験し直そう。

つづく

コーチだけじゃ

決意が
固まる人。

決意が
崩れる人。

この二極化が
一気に
高まっている。

あまりに
人生展開の
差が激しい。

これまでの
その人の
生き方・生き様が

ここにきて
一つの結果として

まざまざと
現実に
反映されている。

恐ろしいな、
この世は、

思う。

反面、
ようやく
正常な世の中に
なってきたか、

ホッとする自分も。

誤魔化せば
何とかなる。

誤魔化せば
切り抜けられる。

という
小賢しさが
とうとう
本当に通用しなく
なってきた。

嬉しいが、
厳しい
この世だ。

私はずっと
それを
待ち望んできたが、

いざこうやって
まざまざと
目の当たりに
すると、

少し愕然と
するね。

今後ますます
私は、
私が大事にしてきた
ことを

できるだけ
多くの人達に
丁寧に
伝えていこう。

「コーチ」の範疇に
いることはできない
と、
ここ2〜3年
決めてやってきたが、

本当に
そうなってきた。

もう
「コーチ」だけじゃ
間に合わん。

つづく

感性低下

ピンッ!


閃いた瞬間を
逃さない。

逃さない力。

これこそを
伸ばそう。

自分の中に
実は
大量に発生している

ピンッ!

これを
いかにちゃんと
拾い上げるか?

人生は決まる。

もちろん、

心の中で
雲がいっぱい
立ち込めていたら、

ピンッ!

には
気づけるはずはない。

でも、
雲がなくても
気づけない人は
多いのだ。

感性そのもの

低下している。

これが
我々現代人の
特徴だ。

ここを
何とかしたい。

これも
私の望みであり、
テーマだ。

つづく

力を抜く精進

時には、

気合を入れて
進まなければ
ならないことが
ある。

が、

そこで
本当に気合が
入るかどうかは、

普段、
力を抜いて生きているか
どうかに
懸かっている。

本当に
必要なところのみに
力を込める。

なかなかそれは
難しいことだが、

そういう生き方を
しようと
決めて、

日々、精進する
しかない。

そう、
これは
精進だ。

力を抜く、
というのは
精進するくらいの
真剣さで臨まないと

できるように
ならない。

力を入れ続ける
のは
誰だってできる、
自己満足で
あれば。

余分なところで
力を入れて
疲れてしまう。

肝心なところで
力が出ない。

誰もが
陥ること。

力を抜いて
生きる、

のは
サボっているのでは
ないか、

捉える人は多い。

だから
精進なんだ。

力を抜く
訓練。

力を抜く
特訓。

こういうことを
本当は
子供の頃からちゃんと
教えた方が良いと
思うのは、

私だけだろうか。

つづく

やめた

さぁ、どうしようか?

空を見上げた。

今が、

ここが、

決めどころ
だと
今、わかった。

ずっと
迷ってきた。

まだ
決めるタイミングでは
ないと
わかっていたから、

あえて
答えを出さずに
いた。

でも、

一つのコーチングが
終わり、

お客様の
オフィスを出て、

空を
見上げたら、

もう秋の気配の
濃厚な
青空と、

ポカポカ浮かぶ
丸い白い雲たち。

一つの雲が
二つに
分離しようと
していた。

眺めていると
徐々に
二つになり、

離れていく。

二つの雲
となった
その合間の空。

それを
見たときに、

あぁ今が
決めどころだ

わかったんだ。

さぁ、
どうしようか?

もう
答えは出るんだな。

いや、
出ているんだな。

それを
直視するか。

・・・

よし、
もう、
やめよう。

やめることに
決めた。

私にとって
それは
とてもとても
大事なものだけど、

もう
手放すと
決めた。

スッキリ。

つづく

いてぇ

すっ転んだ。

痛かった。

でも
すぐに
起き上がった。

起き上がったら
痛みを
忘れた。

で、
また

すっ転んだ。

それでいい。

それが人生だ。


私は思って
生きてきたが、

すっ転ぶこと
自体を
目的として
そこで楽しみ
過ぎている人も
多いのではないか。

それはそれで
一つの経験かも
しれないが、

もう
その「遊び」からは
卒業しては
どうかな?

ここからは、

すっ転ぶ
ことよりも、

グングン前に
進むこと。

最短の道を。

最大のスピードで。

そして
今からは、
最大の加速だ。

心配しなくても
これからも
すっ転ぶところでは
すっ転ぶだろう。

だからもう
前に進むこと
のみ
考えてはどうだろう?

一時的では
なく、

持続的に、

永続的に、

前に進むことを。

もうその
ステージだし、

そういった
時代だよ。

つづく

自然の摂理だろ

水滴は
上から下に
落ちていく。

決して、
下から上に
落ちることはない。

自然の
摂理。

上から下に
落ちる水滴を、

どのようにして
下から上に
落ちるようにするか?


考えるよりも、

上から下に
落ちるという
摂理をそのまま
大切にして、

上から下に
落ちる水滴を
どう活かすか?を
考えた方が

よほど自然だし、
理に適っている。

ところが
多くの人達が、

いかに
下から上に落とすか?
ばかりを
考えていないか?
今の世の中。

摂理への
反発。

反抗。

それを私は
傲慢
と感じるが
どうかな?

私が今、
とろうとしている
この行動は、

この判断は、

摂理に適って
いるのだろうか?


問うことは
とても大事では
ないかな。

無理なことで
努力するよりも、

もっと
自然に流れれば
良いではないか。

自然の摂理は
私達の敵ではない。

私達自身が
摂理の中で
生まれたのだから。

摂理と共に
生きる。

摂理と共に
成長する。

・・・当たり前の
ことだと
思うんだがなぁ。

つづく

能力の育て方

自分の中に
生まれた
新たな能力を

どう使おうか?


少し悩んでいる。

能力とは
道具のような
ものだ。

道具は
使い方によって
生きも死にも
する。

どうせなら
しっかりと
生かせたい。

活かせたい。

新たな能力の
開花は、

最初は
ほんのわずかな
小さな芽から
始まる。

大切に
慎重に
育てなければ
ならない。

ある瞬間から
それは
グングンと
茎を伸ばすのだが、

その段階に
至るまでが
大変だ。

最初が
肝心。

最初の
使い方、

活用の仕方で
すべてが
決まると言っていい。

そのためにも
まずは
「観察」を
してみよう。

この能力を
どんな場面で
どのように使えば、

この能力は
喜ぶか?

それを
観察するのだ。

まったく本当に
子どもの育成と
同じだ。

こんな時
コーチがいて
くれたらなぁ、
とも
思うが、

まぁ、
これをセルフコーチング
で行なうのも
また、

私にとっては
大事なステップだ。

能力は、

雑に扱っては
ならない。

丁寧に
誠実に。

能力にも
意志がある。

能力の意志を
尊重する。

能力そのものと
語り合いながら

育てる
ものなんだ。

つづく

超不安定だろ

現実の世界で
生きれば、

その現実に
揺らされる。

でも、

今のあなたの
その不安定さは、

現実によって
揺らされている
わけではない。

根本が
不安定なのだ。

もともとその
不安定さが
あるところへ、

目の前に
今の現実が
きた。

だから本当は
現実から
受けている影響は
些細なもの。

それは
自らの根本的な
不安定さを
知るための

きっかけに
過ぎない。

じゃあなぜ、
根本的に
不安定なのか?

それは
もう
わかるだろ。

そう、

脱皮
しているからだ。

むしろ
もうそれは
終わった。

出口を
出たんだ。

顕在意識レベル
での
その不安定さは、

その
合図だ。

無事に
出口を出たぞ、
と。

じゃあ
どうすればいい?

委ねれば
いいんだ。

自分自身に
委ねる。

自分が自分を
連れて行って
くれる。

新たな世界の
道の
始め方を

教えて
くれる。

脱皮したら、

次は、
力を抜く。

力んでいる
その自分を

脱ぐんだ。

つづく

意図してまでも混乱を

あえて
混乱させる

ということが
大切な時がある。

他人に
対しても、

自分に
対しても。

混乱させないと
見つからない
答えがある。

混乱させないと
突破できない
壁がある。

混乱させないと
外せない
癖がある。

新たな自分や
新たな状況を
創り出すために

意図的に
混乱させる

くらいの
ことをする。

怖いことだ。

混乱は。

でも、
混乱の楽しさを
知る、
というのも
人生の醍醐味の
一つだ。

よくよく考えると
私の場合、

安定している
よりも
混乱期の方が

これまでの
人生、
圧倒的に長い
かも。

混乱していても
安定していても
関係なく、
次の一歩を
着実に踏み出せる
自分に
なれると楽だね。

そのためにも、
まずは

混乱を
混乱である


素直に受け止められる
自分になること。

混乱に
蓋をせず。

意図的に
混乱させなくても
良いから、

まずは混乱を
受け止めよう。

そして
それに委ねる
ことに
挑戦してみよう。

そこからだね。

つづく

直観はどこから

よく、
「発想が降りてくる」
という
表現を使う人が
いる。

実はこれ、

私はあまり
実感がない。

私の場合は、
あくまでも直観は、

自分の中から
湧いてくる

感覚なのだ。

しかも
本当に深い直観
は、

「思い出す感覚」

だ。

例えば、
スマホをどこかに
置き忘れて
しまった。

どこだろう?


考え続け、

ふと、
「あっ、あそこだ!」

思い出す。

あの感覚に
近い。

つまり、
過去を思い出す
のと
まったく同様の
感覚だ。

未来への
直観なのに
過去を思い出す
感覚。

だから
その直観が
湧いた時点でもう

迷いがない。

そうに違いない
という
過去の事実と
まったく同じ
捉え方だから。

で、
スマホを取りに
行くのと同じ感覚で、

その直観通りに
行動する。

何の抵抗も
なく。

そんな感じだ。

とはいえ、
直観の湧き方は
人それぞれ
だろう。

私の直観は
どこからくるか?

という風に
意識を向けてみるのも
いいね。

つづく

願いの変化

今のあなたの
エネルギーの湧き所

どこだろう?

現実レベルの
話ではなく、
内面的な
湧き所だ。

つまり、

体の内部の
どこから
あなたのエネルギーは
湧いてくるのだろう?

それを
改めて特定すると
いい。

今、
あなたは
大きな変換期に
ある。

エネルギーの
湧き所も
変化するはずだ。

そこをしっかり
特定し、

いつも意識
しよう。

さて、

そしてもし
余裕があるなら、

その湧き所の
中心には
何があるか?


見つめてみよう。

多くの場合
それは
強烈な願い
だったりする。

湧き所が
変化するという
ことは、

願いも
変化しているかも。

進化している
かも。

それをしっかり
確認してみよう。

つづく

すべてを失った

コトリ

何かが
落ちる気配。

本当に
小さな
何かだ、それは。

にも関わらず、

その気配の
ほんの次の
瞬間、

すべてが
変わって
しまった。

正確に言えば、
すべてが変わった
ような
圧倒的な感覚が
あった。

すると、

つい先程まで
当たり前のように
目指してきた
ものが、

急にどうでも
よくなった。

つい先程まで
大切に守り続けて
きたもの達が、

急に意味を
成さなくなった。

スーッと
自分が消えて
いく。

何もわからなく
なる。

大地が
消える感覚。

何もなくなる
感覚。

ただ
喪失感のみ
残った。

・・・

これは決して
怖いことでは
ない。

一気に
次のステージに
ジャンプした
までのこと。

何も失って
いないし、

何も加わっても
いない。

ただ、

ステージが
変わったのだ。

今はまだ
何もない感覚
だろう。

すべてを
失った喪失感
だろう。

でも
それ自体を
そのままに。

あるがままに。

そうするのが
一番の
早道。

見せかけの
やりがいや、

見せかけの
夢や、

見せかけの
喜びを

持ってくる必要は
ない。

「私」
である必要も
ないのだ。

そのままで。

あるがままで。

何もない
ままで。

つづく

毎日やっていること

私は今、
ちゃんと姿勢正しく
毅然と
立てているか?

私は今、
ちゃんと大地に
両足をつけているか?

私は今、
ちゃんと
向くべき方向を
向いているか?

私は今、
ちゃんと
目指す青空を
広く深く
眺めているか?

私は今、
ちゃんと
今ここにある世界を
味わっているか?

私は今、
ちゃんと次の一歩を
自らの意思で
踏み出しているか?

私は今、
ちゃんと自分の決めた
スピードで
進んでいるか?

私は今、
ちゃんと
関わる人達すべてに
意識を向けているか?

私は今、
ちゃんと
余分なことは
手放しているか?

私は今、
ちゃんと
自分自身でいるか?

私は今、
ちゃんと
以上の問いに
スッキリ気持ちよく
YES!
と答えられるか?

答えられたら、
さぁ
今日も一日を
始めよう。

つづく

決めて断つ

私の背後、

かなり
後ろの方に、


がある。

広大な
海。

水平線。

その向こうに
夕陽が
沈もうとしている。

後ろ髪を
引かれる。

あの世界に
留まって
いたかったな、
と。

それもまた
人生だろう。

居心地の良い
世界で
一生を終える。

それもまた
幸せなのだろうか。

でも私は
それを自ら
手放した。

躊躇なく。

後ろ髪を
引かれるのは、

私もまた
人間だから。

人間らしい
心の現れ。

迷い、乱れ、
後悔、・・・

そんなのは
当たり前だろう。

人間なのだから。

それでも
やはり
自分が信じた方向に

勇気を持って
歩を進める。

すべてを
選択する、

ということは
できない。

選べる道

たった一つ。

どちらの道も
少しずつ、

とやってしまったら
それこそ
すべてがダメになる。

すべてが
衰退し、
崩壊していく。

最も苦しい
進み方だ。

決断。

一つを決め、
他のすべてを
断つ。

これが
人間である私達が
すること。

人間の
使命だ。

私達は
決断するために
生きている。

私達は
決断するために
生まれてきた。

つづく

君は誰だ

誰かに
何かを
頼まれている
気がする。

実際に
そういうことが
あったわけでは
ない。

でも、
誰かから
必死に
何かを頼まれている。

何だろう?


耳を澄ます。

聴こえない。

目を開く。

何も見えない。

これは
自分の五感に
頼っているから
ダメなんだな。

いったん
五感の電源を
落とす。

すると
実在をそのまま
感じ取ることが
できる。

「よろしくお願いします。
強引に私を後ろから
押してください。」

・・・あえて言葉に
すれば
そのような意識が
ずっと私に
向かってきている。

誰かとは
誰だ?

何となく
わかる気がするが、

今はここまで。

きっと
その誰かは、
実際にその人と
お会いした瞬間に
わかるだろう。

そうしたら、

リクエスト
通り、

強く押そう。

つづく

始まりの予兆

私の後頭部、
よりさらに
上の方に、

キラキラ
光りながら
クルクル
回っている

球体がある。

シルバーに
輝きながら。

惑星の
ように。

あれは何だ?

意識を向ける
と、

大勢の人々の
存在を感じる。

あぁ、
地球のような
ものか。

でも、
地球とは
ちょっと違う。

まだまだ
小さい。

そして
まだまだ光が
弱い。

でも本質的には
今の地球よりも
よほど、
光り輝いている。

回転速度は
どんどん
速まっているようだ。

そうか、

また何かを
私は始めるのか。

それは多くの
仲間達を
呼びそうだ。

回転する球が
私のもとに
降りてきた。

ちょい待ってな。

もう少ししたら
私の中に
入ってもらおう。

それまで
もうちょっと。

つづく

なぜこの状況に

黙々と
一つのことに
集中する。

粛々と。

あえて、
他のことは
いっさい
手放してしまう。

一時的に
せよ。

今の私は
「これ」
しかやらない。

今は
「これ」
をやることが
私の人生であり、

「これ」
をやるのが
私という人間だ。

「私=これ」
だ。

「私の人生=これ」
だ。

・・・という
くらいに。

徹底的に
そういった生き方を
するという
ステージを

私達の真本音は
自らに用意する
ことがある。

場合によっては
「これ」に
集中するために、
自分をかなり
状況的に追い込む
ことすらある。

「これ」に
集中せねば、
もう生きていけない、
というくらいに。

もし
自分が状況的に
追い込まれている
のであれば、

自分自身に
問うてみると
いい。

今のこの状況は、

・自らの真本音によって
意味があってもたらされて
いるものか?

それとも

・自らの真本音を無視
してしまったことで
起きてしまっていることか?

このどちらか。

ここをしっかり
直観的に判別し、

もし前者であれば、
今のこの状況の
本当の意味を
考え、
向き合うといい。

そして
「これ」
に完全集中する。

無我夢中に
なる。

これによって
新たな自分、
つまりは
本来の自分が

また一つ
目を覚ます。

つづく

天と地と私の意思

私の場合、

自分の中に
中心軸がある

というよりも、

中心軸の中に
私がいる。

天と地を
結ぶ、

太い光の
柱があり、

その中に
私の全身全霊が
入っている。

中心軸に
すべてを
委ねているのだが、

しかし
私は一つ一つ

自分の意思

大切にしている。

中心軸が
いくら太くても、

いくら
畏れるほどに
大きくても、

この世で
生きているのは
私だ。

私の心であり
体だ。

中心軸に
任せるのではなく、

私は私の
意思で生きる。

すべて
自己責任だ。

だからこそ
逆に、

中心軸は
より活き活きと
光り輝く。

天と地を
結ぶその姿に

神秘性も
増す。

やはり
畏れすら抱きながら、

しかし私は
自分の意思で
そこに入り、

自分の意思で
この世を
生きる。

つづく

原点のみになる

いつも私は
自分の

原点

に戻る。

一つの仕事を
終えたら、

すぐに。

じっと
目を閉じて

自分の全意識を
原点に
戻す。

原点
そのもの
となる。

私は
なぜ生まれて
きたか?

私は
なぜここに
いるのか?

私は
どこに向かって
いるのか?

そのすべての
答えの
場所に。

そこで、

これまで
自分が培ってきた
あらゆるものを

愛し

慈しみ

抱いた
上で、

手放す。

消散させるのだ。

すると
すべてから
自由になる。

原点のみの
私になれる。

その状態で
目を開き、

次の仕事に
向かう。

すると
これまで培った
すべてのものが、

自由の世界

から、
今の私を
助けてくれる。

原点のみと
なった
私を。

つづく