チームパフォーマンスコーチ

それは空虚ではない

 

大きな悩みや

迷いの後に、

心に

 

空っぽ状態

 

が訪れたら、

それは

 

絶望でも空虚でも

ない。

 

それは

 

希望の空っぽ

だ。

 

あらゆる

不必要なものを

心の中から

手放した状態だ。

 

この状態に

ならねば、

開かない扉がある。

 

今、

その扉が

開こうとしている。

 

だからあとは

 

待てばいい。

 

もう考えることは

やめにして、

 

悩むことも迷うことも

終わりにして、

 

待てばいい。

 

その状態を

恐れる必要はない。

 

ただ、

待てばいい。

 

つづく

 

どう流れてる?

 

自分自身の

エネルギーの流れを

意識することは

できるかな?

 

人は誰しもが

エネルギーを循環

させている。

 

外からエネルギーを

取り入れ、

 

自分自身も

エネルギーを発し、

 

それらのエネルギーを

様々な方向や角度で

流し続けている。

 

いや、

 

健康であれば

流し続ける状態が

持続するのだが、

 

不健康になれば

一部や全体が

滞ったり、

流れが途切れたりする。

 

私はコーチングを

させていただく時、

必ず

その人のエネルギーの

流れを感じ取る。

 

流れが良くない場合は

流れが良くなるための

やりとりをする。

 

当然と言えば

当然だが、

 

その人が

自らの真本音を思い出したり、

発見することで、

流れは急激に良くなる。

 

さて。

 

皆さんのエネルギーの

流れは今、

どんな感じだろう?

 

例えば私の場合、

 

今の私は

とてつもなく大きな

循環を創り出している

ようだ。

 

一見すると、

「循環」とはわからないほど

の巨大さなので、

 

地面から空に向かって

垂直に

エネルギーが昇り続けている

ように観える。

 

巨大な滝が

下から上に

昇り続けているようだ。

 

私の場合、面白いことに

このように

エネルギーが下から上に

流れることもあるし、

逆に、上から下に

流れることもある。

 

下から上に流れている

時には、

心は高揚するだろうと

思いきや、そうでもなく、

 

むしろ、

通常よりもさらに

心は鎮まってくる。

 

そして

観察力が高まる

ようだ。

 

何かを待っている時に

こうなることが多い。

 

そう。

 

私は今、

待っている。

 

タイミングを

計っている。

 

絶妙のタイミングを

見極めることで、

その後の展開が

大きく変わる「何か」を

始めようと

している。

 

ヒリヒリするような

緊張感がある。

 

その緊張を

エネルギーを下から上に

流しながら、

大きな大きな循環を

描くことで、

 

自らを鎮めて

いるのだ。

 

私はこの時を

待っていた。

 

と言えるような

何かが

始まるのだな。

 

つづく

 

たくさんの種を

 

芽が出る。

 

思わぬところから

思わぬ芽が

生える。

 

これこそが

人生の醍醐味だと

私はいつも思う。

 

ところが私達は

ついつい

芽を意図的に

出そうとする。

 

もちろん

それは大事な

ことだが、

 

その「意図」を

持ち過ぎのように

思う。

 

人生の醍醐味は

 

「種蒔き」

 

にあり。

 

・・・だと思うのだ。

 

自分の願いを

大切に抱きながら、

 

一つ一つ

丁寧に種を蒔く。

 

その種は

芽が出るかどうか

わからない。

 

だから、

芽が出ますように

祈りながら蒔く。

 

丁寧に

だが

 

たくさんたくさん

蒔く。

 

意図的に

芽を「出させる」

のではなく、

 

祈りながら

たくさん「蒔き続ける」

のだ。

 

たくさんの

種を蒔けば蒔くほど、

 

思わぬところから

芽が出るもの。

 

それが

とても感動的で

 

とても嬉しい。

 

人の育成も

そうだし、

 

ビジネス構築も

そう。

 

人生のあらゆる

ことが

そうではないか。

 

人事を尽くして

天命を待つ、

 

と言うと

硬くなってしまうが、

 

今日、私は

どんな種を蒔こうか?

 

と、

楽しみながら軽やかに

しかし真剣に、

 

人生を進めたい

ものだ。

 

つづく

 

次元で変わる

 

やはり

次元だな、

つくづく思った。

 

同じメンバーでも

その時その時の

次元が異なる。

 

次元の高い状態での

話し合いと、

次元の低い状態での

話し合いでは、

 

まったく同じテーマ

だとしても

 

話の展開が

根本から変化する。

 

私はコーチの仕事を

続けることで、

 

その場の次元

 

が、

ある瞬間にグッと

高まるという経験を

日常的に

させていただいている。

 

その瞬間は、

本当に空気が

変わる。

 

私の目に映る

その瞬間は、

その場全体が

一瞬、蜃気楼のように

観える。

 

グググッと

場全体が

透明なまま光り輝くのが

観える。

 

その瞬間から私は

私が場を引っ張るのを

やめてしまう。

 

その場の人達に

完全に委ねてしまう。

 

すると、

想定を超える面白い

展開となる。

 

創造的な展開と

なる。

 

次元が高まる

ということは、

その場の一人ひとりが

 

「私は何者か」

 

を思い出している

状態だ。

本質的には。

 

たとえそれを

顕在化していないと

しても、

 

その人は

本来のその人

 

となっている。

 

で、後ほど私は

そのお一人お一人に

対して、

 

あなたは側から

観ていたら、

まるで◯◯でしたよ、

 

フィードバックする。

 

それをすることで

さらに次元が高まる

頻度を上げていく。

 

次元の高い自分。

次元の低い自分。

 

人はあらゆる次元の

自分を最初から

持ち合わせている。

 

それこそが

人という存在の

魅力だ。

 

人生の魅力と

言ってもいい。

 

その魅力を

もっともっと味わう

ためにも、

 

もっとみんな

高い次元の自分を

知れるといいね。

 

つづく

 

今、問うてみよう

 

今回は一つ、

とてもシンプルな問いを

ここに投げよう。

 

自分自身に

問うてみて、

 

もし何か発想が

浮かんできたら、

それを

大切にしてください。

 

問いは

これです。

 

『私は今、

何を待っている?』

 

 

もし答えが

浮かんだら、

 

その浮かんだものを

大切にし、

 

ちゃんと

待ってください。

 

そして

待っているものが

成されることで、

 

その後に

 

進んでください。

 

それまでは、

しっかりと

待つこと。

 

そのメリハリが

大事です。

 

つづく

 

器を決めている

 

自分の未熟さを

愛せば、

 

きっと

人の未熟さも

愛することができるだろう。

 

本当の意味で

自分に厳しく

できる人は、

 

人にも厳しく

できるだろう。

 

自分を大らかに

笑いながら

許せる人は、

 

人にも

大らかに接することが

できるだろう。

 

自分への

対し方。

 

人への

対し方。

 

詰まるところ

これは

イコールだ。

 

よく、

器が大きい小さい

という話を

私も仕事柄、するのだが、

 

実は

よく思うのは、

 

器って、

その人に最初から

備わっているもの

というよりも、

 

器って、

その人自身が

選んでいる。

 

「私はこれくらいの

器で生きよう」

 

と。

 

しかしその

選び方が、

 

真本音で選んで

いる人と、

 

反応本音で選んで

いる人と、

 

に分かれる。

 

真本音で選んで

いる人は、

良い意味で

本質的に「等身大」で、

 

人生もビジネスも

調和し続ける。

 

第一、

本人が自然体で

一緒にいて清々しい。

 

みんながこういう

生き方ができれば

いいのに、

側から観ていて

よく思う。

 

無理をするのが

人生だと、

皆、ちょっと思い過ぎだ。

 

自分を変えなきゃ

ならないと、

皆、ちょっと思い過ぎだ。

 

等身大のまま

進むからこそ、

本質的な成長が

できるのだと思うよ。

 

つづく

 

体を労る

 

真本音度合いが

高まることで、

どんな変化があったか?

 

という問いを

いただいて、

一つ、ふと気づいたこと

がある。

 

それは

自分自身の体

とても大事にするように

なったということだ。

 

とは言え、

無意識に自然に

そうなった

と言った方が正確だ。

 

思えば、昔は

自分の体をずっと

酷使し続けた。

 

恐らく、自分の体の

ことは

優先順位として

最も低かったのでは

ないか、とさえ思う。

 

それが今は、

常に

自分の体と対話

をしている。

 

朝、起きる時も

何か食べる時も、

 

仕事をする時も

休憩する時も、

 

一日のうちに何度も、

私は

体と対話する。

 

もう起きて

大丈夫か?

 

今、食べたい?

 

食べたいものは

何?

 

ちょっと歩こうか?

 

このまま

集中し続けて大丈夫?

 

何か私に

リクエストは?

 

・・・などなど

常に語りかけているかも

しれない。

 

おかげで

若い時よりも今の方が

数十倍も健康な

気がする。

 

体にちょっとした

異変を感じたり、

 

ちょっとした

不具合を感じたり、

 

そんな時は

特に注意しながら

体との対話を繰り返す。

 

だから今は

 

変な言い方だが

 

自分の体との

ラポール(本質的信頼関係)が

できている気がする。

 

思えば、

 

私が「真本音」という

概念と出会えたのも、

最初は

体の不調からが

きっかけだった。

 

体は、

私自身、というよりも

どちらかと言えば、

私のパートナーという

捉え方をしている。

 

とは言え、

今でも物理的に

酷使し続けていることは

変わらないので、

 

特に

多くの方々からの

ストレスやエンティティを

受け取るのは

私の体なので、

 

年齢も重ねたし、

 

これからは

さらに労ってあげたいな、

と思う。

 

体に

感謝だ。

 

つづく

 

ストレートに

 

「場と一つになる」

というのが

私にとっては

人生の醍醐味の

最大の一つかも

しれない。

 

私の場合、

なのだが

 

人と向き合っていると、

その人と一つになる

というよりも、

 

その場と

一つになる

のだ。

 

そしてその時間は

恐らく

「自分」をなくしている。

 

これは

悪い意味ではなく。

 

イメージで言えば、

その場の空気感

そのものになり、

 

一つ一つの

そこにあるすべての存在に

分子原子レベルで

溶け込んでしまっている

ような感じだ。

 

だから

無我夢中

に近くなる。

 

よく記憶をなくす

くらいになる。

 

気がつくと

1時間とか2時間が

あっという間に

過ぎている。

 

1〜2秒の

感じだ。

 

無我夢中と言っても

力が入っている

わけではない。

 

ただ、きっと

集中力はもの凄い

のだろうな。

 

そして最近は

以上のような感覚の

度合いが

急速に高まっている

気がする。

 

この一年半くらい

ほとんど飲まなくなったが、

以前は毎日のように

ウイスキーを飲んでいた。

 

それも必ず

ストレートで。

 

いろんなウイスキーを

舌や喉だけでなく、

全身で味わい

楽しんでいた。

 

今は、その時の

感覚に近い。

 

その人との

その場を

ストレートで

味わっているような。

 

年齢を重ねた

からかな・・・、

 

その一秒、

その一瞬を

本当に味わっている

気がする。

 

つまりは

人生をストレートに

味わっている

というか、

ね。

 

そう言えば先日、

ある初対面の若い人

から、

 

真本音度合いが

高まると

どうなりますか?

 

問われた。

 

その時、とっさに

出てきた言葉が

 

人生の一瞬一瞬が

本当に愛おしくなり、

幸せになるかな、

 

だった。

 

あんまり普段

そういう言い方を

私はしてこなかったので、

 

ちょっと

意外だったな。

 

つづく

 

渦だ

 

人と向き合う

ことで、

世界の状態を

感じ取れることが

よくある。

 

今日もコーチングの

最中に、

 

世界のうねり

 

を感じた。

 

超巨大な渦の

ようなうねりが

 

ゆっくりだが

激しく

続いている。

 

その流れは

一定ではない。

 

瞬間的に

とても速くなったり、

 

止まっているのと

同じくらいに

スピードを落としたり。

 

しかし

激しさは

変わらない。

 

エネルギーが

ほとばしっている。

 

人は、

 

こういったうねりを

感じ取ると、

 

たとえそれが

無意識だとしても、

 

次の二つの

どちらかの選択を

する。

 

一つは、

 

「うねりに委ねる」

 

という選択。

 

もう一つは、

 

「うねりに抗う」

 

という選択。

 

後者のほとんどは

恐怖によって

為される。

 

ここでやはり、

普段の

真本音の度合いが

モロに影響する。

 

真本音度合いの

高い人は

苦もなく委ねることが

できる。

 

しかし低い人は

怖くてそれができない。

 

結果として

抗うのだが、

 

抗えるわけが

ない。

 

そして渦に

呑み込まれ、

溺れる。

 

これまで以上に

自分を失っていく。

 

渦に委ねることの

できる人は、

 

その流れに乗る

ことで、

その渦は、

 

新たなステージへと

導いてくれる。

 

そう。

 

渦とは、

「引き上げ」だ。

 

準備のできた人を

次のステージへと

一気に引き上げて

くれる、

エスカレーターの

ようなものだ。

 

恐らく

この2ヶ月ほどの

うちに、

 

多くの人が

次のステージに

進むだろう。

 

さらに

「自由」に生きる

ステージへ。

 

それは、

今の世の中の

現象における混乱とは

無関係の

 

あくまで

実在レベルの話だ。

 

つづく

 

どんなに成果が出ても

 

成果が出れば

出るほど、

 

自分を見失う

人は多い。

 

物事が上手く

運び、

皆が喜び、

 

一つ一つに

手応えと

成長を感じる。

 

しかし

そのような素晴らしい

現象が起き続けても、

 

実はそれは

自分自身の真本音とは

真逆の道に進んでいる、

 

ということは

あるのだ。

 

ある意味、

この状態こそが

最も危険とも言える。

 

もちろん

その状態の本人は

自分は幸せだ、

思っている。

 

しかし、

第三者が向き合えば

一目瞭然だ。

 

表情が

おかしい。

 

目つきが

おかしい。

 

目は輝いているが、

輝き方が

変だ。

 

そして何よりも

凄いエンティティ(ストレス)

だ。

 

でも本人としては

その状態は

幸せなつもりなので、

 

そこから

抜け出せなくなる。

 

そしてそれが

限界まで続き、

 

様々なものが

膨張の限界を迎え、

 

ある時に

すべてが弾ける。

 

破裂する。

 

中には、

破裂する前に

病気になってしまう

人もいる。

 

残念ながら

そこまで行かないと

なかなか本人だけでは

気づけないものだ。

 

私も経験があるし、

誰もが

一歩間違えれば

そうなる。

 

それが人間だ。

 

とは言え、

これからの時代、

もうそういった

回り道はしない方が

いい。

 

こういう時にこそ、

良いコーチがいたり、

 

もしくは

その人自身に

セルフコーチング力が

あると、

本当に助かる。

 

自分自身が

自分とちゃんと

毎日、向き合うこと。

 

そして、周りに

いつも

真正面から向き合って

くれる人が

いること。

 

それは、

私達の人生を、

そして命を

救ってくれることも

あるんだよ。

 

つづく

 

ダイレクト

 

あえて

回り道をしながら

進む、

という人生の進み方

もあるが、

 

もう、

ダイレクトに

進もう。

 

少なくとも私は

ダイレクトに進む

ことにした。

 

人生の時間は

あまりにも

少ない。

 

それに対して

自分がすべきこと

したいことは

あまりにも

多い。

 

限られた時間の

中で

何をどこまで

果たすことができるか?

 

刻一刻と

進む時間。

 

その1秒1秒を

今はとてつもなく

大切に思う。

 

・・・こういう風に

書くと、なんだか

とても窮屈な生き方に

見えるが、

 

逆だ。

 

本当に今ここの

この1秒を

大切にする生き方は、

 

自己を根本から

開放する。

 

とても軽くなり、

自由になる。

 

真の自由とは

その生き方の中にこそ

ある。

 

今のこの1秒は

無限である。

 

限られているが

無限である。

 

その真実を

感じ取りながら

生きることが

できる。

 

まぁそう考えると、

時間が限られている

ことや、

 

様々な限界の中で

生きるこの世界は、

 

それ自体に

とてつもない価値が

あるな、とも思う。

 

とにもかくにも、

もう

ダイレクトに進む。

 

これまでも

そうして来たが、

 

ここからは

もっと、そうする。

 

つづく

 

揺れるしかない

 

原点。

 

本当は

ここに戻る

だけで良い。

 

でも

それを

見失う。

 

見失うから

彷徨う。

 

彷徨っている

うちに

実は彷徨っていた

ということ

自体を

忘れる。

 

そして

 

他から与えられた

何物かを

原点のように

思い込む。

 

本来とは

異なる

原点もどき。

 

それに依り

生き続けることで

 

完全に自分を

失う。

 

しかしどこかで、

その事実は

自分自身が

よくわかっている。

 

だから

何らかのきっかけで

その

わかっていることを

わかりそうに

なると、

 

揺れる。

 

大いに

揺れる。

 

その揺れは

原点を失っている

事実を

思い出しそうに

なっている

ことによる。

 

その揺れは。

 

まずい。

 

これは

まずい。

 

この揺れ方は

まずい。

 

・・・と

本能的に

感じたら、

 

もう

逃げられない。

 

その場合の

最善の対処法は

 

あきらめる

 

ことだ。

 

揺れに任せ、

 

極度の不安に

呑み込まれる

ことだ。

 

自分自身を

失った私達は、

 

これを経ずして

 

もと(原点)には

戻れないのだから。

 

大丈夫。

 

あらゆる揺れは、

 

それに委ねる

ことで、

 

必ず

いつか

止まるものさ。

 

つづく

 

静かに自信なく

 

「自信がない」

という気持ち。

 

これまで

数限りなく

クライアントさん達から

聴いた言葉。

 

であり、

 

これまで

数限りなく

私の中にもあり続けた

気持ち。

 

私はいつも

一日の始まりと

終わりには

必ず、

心を整えるための

セルフコーチングをする。

 

一つずつ

すべての心達を

見つめ、

存在承認する。

 

存在承認することで

浄化される心達は、

今の私には

必要のない者達だ。

 

しかし、

最後によく

一つだけ残る心が

ある。

 

それがこの

「自信のなさ」

だ。

 

この気持ちを

私は

愛する。

 

この気持ちを

私は

大事に抱く。

 

これがあるからこそ

私は

ここまで着実に

歩いてこられた。

 

これがあるからこそ

私は

私でいられた。

 

「自信がないから

進めません」

 

という言葉も

本当にたくさん

聴いて来たが、

 

私の場合、

 

「自信がないからこそ

進むことができる」

 

のだ。

 

きっと私は

最も自信のない方向に

人生を進めて来た

のだと思う。

 

自分は今、

本当は

どの心をこそ、

宝物とすべきか?

 

そこを見誤らずに

これからも

進みたいものだ。

 

つづく

 

混乱の中心にあるもの

 

心の中が

大混乱しているな、

思ったら、きっと

 

心の中心の

中心には

今、

 

絶対的な「問い」

があるだろう。

 

絶対的、という

表現をあえて

使うのは、

 

その問いの答えは

恐らく、

あなたの人生にとって

「絶対的」な影響を

及ぼすからだ。

 

つまりは

この後の人生は、

その「答え」の

通りになっていく。

 

その「答え」を

見つけ出すという

ことは、

これからの人生の

流れの源を

見出すにも等しい。

 

それくらいの

影響力のあるものを

あなたはすでに

創り出した。

 

いや、

 

きっとそれは

もともとあなたの

奥の奥に在り続けたもの

だが、

 

それが

幾層もの殻を

破りながらも、

ようやく顔を

出したのだ。

 

きっとその「答え」と

向き合うことには

極度の恐怖が

伴うだろう。

 

「答え」の前に

ある

「問い」と向き合うこと

だけでも

かなりの勇気が

必要だろう。

 

しかし

これこそが、

 

私達が「自分」として

生きるための

 

なくてはならない

関門であり、

ステップだ。

 

ここを超えるために

ここまで

がんばって来たのだ、

とも言える。

 

問いと向き合えば、

答えは必然的に

わかり、

 

それはあなたを

根底から

変えるだろう。

 

人生を

変えるだろう。

 

さぁ、どうする?

 

問いと

向き合うか?

 

つづく

 

何者?

 

これまでとは

違う生き方、

 

これまでとは

違う在り方、

 

これまでとは

違う役割、

 

これまでとは

違う立ち位置、

 

これまでとは

違う自分。

 

自分自身の

本質部分について、

 

ここまで来た

自分とは

本質的に大きく

変化をしよう、

変革をしよう、

という意思を持った

人が

非常に増えている。

 

これまでの

延長線上には

ない

自分になろう、と。

 

私もそうだ。

 

例えば、

私であれば、

これまでの私を

一言で表せば、

 

『私はすべてと向き合う

コーチだ』

 

という表現に

なるだろう。

 

これを私自身の

基本立ち位置

もしくは

基本の役割として

私は

生きてきた。

 

これを

ちょっと前から全く異なる

ものに変えた。

 

その内容はまだ

教えられないが。

 

あなたは

どうだろう?

 

あなたも

大きく変わる、

もしくは

変えたい

のではないか?

 

「私は何者か?」

 

これをできるだけ

シンプルに表すと、

どうなる?

 

今はそれを

しっかり自覚すると

いいね。

 

つづく

 

伸びるとは壊すこと

 

人の個性

というのは、

結構

当てにならない。

 

この人は

こんな個性なんだな、

という印象など、

 

一瞬にして

消えてしまう

ことは多い。

 

だからある時から

私は、

「この人はこうだ」

決めつけないことに

した。

 

その方が

楽しい。

 

そして

決めつけない自分に

なれたからこそ

 

逆に

 

「この人はこうだ」

あるがままに

今のその人を

見つめることが

できるようになった。

 

評価をしている

のではない。

 

あるがままを

明確に言語化

しているだけだ。

 

そして、

 

言語化できた

その瞬間から、

 

その人はその

言語化された個性を

壊しにかかる。

 

人は

壊れる。

 

個性など

壊れてしまう。

 

それでいい。

 

壊れれば壊れる

ほど、

その奥から

 

さらに次の個性が

芽を出す。

 

それが伸びれば

また

壊れる。

 

きっと我々人間は

壊すのが

好きなのだ。

 

壊さないと

次に行けないからな。

 

「個性を伸ばす」

 

とよく言われるが、

確かにそれは

大事だな。

 

でもその本質は

 

「個性を壊す」

 

ということ

なんだよ。

 

つづく

 

迷い切る

 

自分で自分を

説得する

必要はない。

 

説得など

せずとも、

 

答えはそこに

ある。

 

そこにある

答えを

掘り起こせばいい。

 

見つめれば

いい。

 

迷う、とは

答えのある

証拠だ。

 

悩む、とは

答えが

掘り起こされる

前兆だ。

 

だから、

答えがちゃんと

わかる前に

決めないことだ。

 

その「決め」は

「決め」ではない。

 

すでに存在している

答えを見つめずして

決めることは

 

すべて

誤魔化し

だ。

 

まやかし

だ。

 

答えは

ある。

 

あるから

迷う。

 

あるから

悩む。

 

存分に

迷い、

 

存分に

悩むといい。

 

迷い切り、

悩み切る。

 

これは私達

人間の

大いなる力だ。

 

つづく

 

始めたいね

 

まずは、

一人で立って歩く

ことが大切だ。

 

たとえ

誰もいなくなっても、

 

自分一人に

なったとしても、

 

それでも

この道を進もう、

覚悟することが

大切だ。

 

自分一人でもやろう

という意志がなければ、

 

そういった人が

もしいなければ、

 

どれだけ人が集まっても

それは

烏合の衆だ。

 

物事は進まない。

 

だから私は

そういった連携は

一切とらないことに

している。

 

一緒にビジネスを

しましょう!と

 

本当によくお誘い

いただいて

大変、有難いのだが、

 

しかし

そこに依存心を

感じてしまう場合は、

 

残念ながら私は

すべてお断り

することにしている。

 

やはり、

進まないからだ。

 

覚悟があるか

どうかは、

 

向き合えば

わかる。

 

言葉はなくとも、

向き合えば

わかる。

 

覚悟のある人は

空気感で

すぐにわかる。

 

そういう人とは、

一緒にぜひ

試行錯誤をしたい。

 

共に成功する、

ではない。

 

この人とは

共に試行錯誤したいな、

思えるかどうかを

私は大切にしている。

 

これまでの

私自身の枠を超えた

良いビジネスを

さらに始めたいし、

 

広げていきたいな、

最近はよく思う。

 

それだけ

覚悟を持った

素敵な人達が

 

おかげさまで

 

周りに増えてきた

からだろうな。

 

本当に、

ありがたい。

 

つづく

 

どっちだ?

 

俯いたまま

歩けば、

きっと

ずっと前は見えない

ままだろう。

 

それでも

足元が気になるから

ついつい

俯いてしまう。

 

そんな性分の

人が、

 

前を向こうと

している。

 

前を向けば

その瞬間に、

 

すべてが

観えるだろう。

 

すべてが

わかるだろう。

 

しかしそれは

その人にとっては

とても

怖いことなのだ。

 

なぜなら、

 

わかってしまったら、

 

もし

観えてしまったら、

 

もう足元を

見ている場合では

なくなることが

 

予感として

わかっているから。

 

足元などには

目もくれず、

前のみを見つめ

邁進してしまう、

 

そんな自分に

なってしまう、

 

ということを

本能的に知っている

からだ。

 

もう

これまでの自分では

なくなってしまう。

 

もう

これまでの生き方では

なくなってしまう。

 

・・・そういう時、

 

ここで人は

二つのタイプに

分かれる。

 

一つは、

 

開き直って

前を向くタイプ。

 

もちろんその人は

邁進し始める。

 

生き方を

変える。

 

ただし、

 

だからと言って

足元がわからなく

なるわけではない。

 

前を向くからこそ、

足元の「感覚」が

これまで以上に

 

実在として

 

感じ取れ、

下を向いていた時

よりも

より安定して進むことが

できるのだという

 

体験をする。

 

もう一つのタイプは、

残念ながら

 

絶対に前を向くまい

 

決めてしまう。

 

そう決めると

人は面白いもので、

 

足元を見ながら

進むのではなく、

 

進むこと自体を

やめてしまう。

 

その場に蹲り、

手も足も

地面につけ、

 

もうここからは

一歩も動くものか、

意固地になる。

 

動かないという

ことに対して

真剣になる。

 

こうなるともう、

他者からは

何もできない。

 

もちろん

コーチングも指導も

あらゆることが

意味を成さなくなる。

 

二つのタイプ。

 

どちらのタイプを

執るかは、

その本人が決める

しかない。

 

どうかこの人は

前を向きますように。

 

そう祈り続けるしか

ない。

 

人生の

最も肝心なところは

 

何がどうあろうと、

 

本人が決めるのだ。

 

つづく

 

意識を向ける④

 

昨日の続きです。

(→ 意識を向ける③)

(→ 意識を向ける②)

(→ 意識を向ける①)

 

世界に意識を

向け、

 

世界から観た

自分に

意識を向ける。

 

これをずっと続けると

どうなるでしょう?

 

私はちょっと

不思議な体験を

した。

 

一言で言えば、

 

自分の中にも

「世界」がある

「わかった」

のだ。

 

そしてその

自分の中の世界は、

 

自分の外の世界と、

 

完全に

一致する。

 

・・・と。

 

もう一度、言おう。

 

自分の中の世界と

自分の外の世界は

完全に一致する、

 

ある瞬間に

理屈ではなく

感覚として

わかったのだ。

 

それを

「思い出した」

と言うと、

かなりピンとくる。

 

内側の世界と

外側の世界が

完全に一致して、

 

その境目にある

のが

「人間」。

 

するといったい

人間とは

何なのだろうか?

 

そんな疑問が

湧いた。

 

なぜ、

同じ世界が二つあり、

しかも

そこに境目が

あるのだろう?

 

何のために?

 

この疑問を持ちながら

私は日々の

コーチとしての活動を

続けた。

 

すると

また一つわかった。

 

私も含めて

ほとんどの人が

 

内側の世界と

外側の世界が

「一致していない」

と。

 

本当は

完全に一致するはずの

二つの世界が、

一致していないと。

 

そこに

境目があることで

二つの世界は

分離され、

 

分断され、

 

断絶している、と。

 

そしてそれにより

内側の世界も

外側の世界も

それぞれが

それぞれなりに

不調和を起こしている、

と。

 

その不調和により

さらに

二つの世界は

分離・分断・断絶度合いを

高め続けている、と。

 

本当は

二つの世界を

一致させれば良いのに。

 

たった

それだけの

ことなのに・・・。

 

そこでまた

ハッと気づいた。

 

二つの世界を

一致させること

こそが、

 

私達人間の

役割なのではないか。

 

二つの世界を

一致させることで、

 

二つの世界が

より調和する。

 

それをすること

こそが、

人間の役割なのでは、

 

存在意義なのでは

ないか。

 

そしてもし

二つの世界が

完全に一致できたら、

 

人間は

ただの境目ではなく、

 

世界そのもの

 

なれるのではないか。

 

そして

すべてが一つに

なれるのではないか。

 

それを我々は皆、

心の根底では

願い続けているのでは

ないか。

 

それが我々の

共通の願いなのでは

ないか。

 

そこから私は、

 

二つの断絶したもの

不一致になっているものを

一致させていく。

 

・・・その過程を

「進化」

と呼ぶことにした。

 

そして

そのために

我々人間が発する

エネルギー、

かつ

世界が発する

エネルギーを

「愛」

と呼ぶことにした。

 

そして、

 

愛のエネルギーを

高め、

進化に向かうための

 

その時その瞬間、

その人の発することの

できる

最大最高の

そして「最善」の意識を

 

「真本音」

 

と呼ぶことに

したんだ。

 

 

※この項終わり

 

ブログはつづく

 

意識を向ける③

 

昨日からの続きです。

(→ 意識を向ける②)

(→ 意識を向ける①)

 

世界全体に

意識を向ける、

 

つまりは

 

世界全体を

感じ取ろうとする。

 

これを日常的に

続けることで、

私達の意識は

無限に広がっていく。

 

そして常に

「世界」を感じ取りながら

今ここに

向かうようになる。

 

単なる自分の主観

のみで生きるのと、

 

世界全体を感じ取り

ながら

生きるのとでは、

 

自分の生き方

自分の在り方

発想の仕方

行動の仕方

 

さらには

現実の起こり方

 

根本的に違って

くる。

 

意識的に変えよう

としなくても、

無意識的に自然に

変化が始まるだろう。

 

さらに、

 

常に世界全体に

意識を向けていると、

 

ある時ある瞬間から

「世界の中の自分」

感じ取れるように

なる。

 

それは

自分自身に対する

世界からの

客観的視線だ。

 

もし、

これまで自分の

主観のみで生きていた

とすれば、

 

これにより

自己イメージは

かなり変わる可能性が

ある。

 

「自分」という存在

の意味が

突然にわかったり

するかもしれない。

 

それは相当な

インパクトだ。

 

私がこれを

初めて体験した時、

 

私が真っ先に

思ったのは、

 

「いったい俺は

何を遊んできたんだ」

 

「こんなことを

やってる場合ではない」

 

「こんなことに

悩んでいる場合ではない」

 

「俺はもっと別のことで

悩まねばならない」

 

・・・そんなような気持ちが

立て続けに湧いてきた。

 

かと言って

職を変えるとか

環境を変えるとか

そういったことではなく、

 

生き方

を変えようと思ったのだ。

 

そこから

変なことに悩まなく

なったし、

 

必要のないところで

深刻にならないように

なり、

 

人生がかなり

軽くなった。

 

すると面白いように、

人間関係とか

出会う人の種類とか

 

ということはつまり

人生の展開が

変わり始めた。

 

そこから私は、

 

常に「世界」に

意識を向け、

 

かつ

 

常に

世界から観た「自分」に

意識を向け

続けるようになった。

 

おかげでさらに

心は安定するように

なり、

 

確信

も高まった。

 

さて。

 

まださらに

お話は続きます。

 

つづく

 

意識を向ける②

 

昨日の続きです。

(→ 意識を向ける①)

 

「意識を向ける」

とは

客観的目線であり、

 

それは、

 

あるがままに

観る

聴く

感じる

 

ということだ。

 

そういった

「意識の使い方」

私達現代人は

忘れてしまっている。

 

さて。

 

今回は何を一番

お伝えしたいのかと

言うと、

 

世界に意識を

向けよう。

 

・・・ということだ。

 

「世界」とはつまり

「自分以外の存在すべて」

だ。

 

ある特定の存在に

意識を向けるのでは

なく、

 

世界全体

 

に意識を向けて

みよう。

 

全身全霊を

込めて、

世界全体

を感じ取ってみよう。

 

するとどうだろう。

 

自分の意識が

どんどん無限に

広がっていくのが

わかるだろうか?

 

実際に

世界全体を

観ることはできないが、

 

感じることは

できる。

 

世界全体を

あるがままに

感じ取ろう

とする。

 

本当にできるか

どうか、ではなく、

 

しようとする

のだ。

 

それを一日の内に

何度も何度も

すると良い。

 

ちなみに私は

ほぼ24時間

ずっとこれを

やり続けているのかも

しれない。

ちょっと極端に言うと。

 

これに慣れてくると、

ある時から

 

世界の意識

 

が、

何となく自分に

伝わってくるように

なる。

 

そんなの自分の

思い込みではないか、

言われそうだが、

 

たとえ思い込みでも

良い。

 

世界全体を

あるがままに感じ取ろう

意識を広げること

自体に

意味がある。

 

そしてその状態で

自然に感じ取れること

そのものに

意味がある。

 

世界全体から

伝わってくる何らかの

意識。

 

それを無理に

言葉にしなくても

良い。

 

でもそれを得た状態で

今を生きると、

 

何かが根底から

安定する。

 

ドッシリと

安定する。

 

そして、

今自分がしようと

していることに

 

根拠のない

確信を

持てるようになる。

 

私達は

「世界」の中で

生きている。

 

であれば、

「世界全体」を

常に感じ取りながら

生きると良い。

 

その生き方は

自分自身の開放に

つながっていく。

 

このお話、

まだ続きます。

 

つづく

 

意識を向ける①

 

すべての存在を

・自分

・自分以外

分けたとする。

 

そして

自分以外のことを

「世界」

と表現するとする。

 

すると

すべての存在は

・自分

・世界

のどちらか

ということになる。

 

さて。

 

皆さんは、

・自分

・世界

どちらにいつも

意識を向けている

だろうか?

 

意識を向ける、

とは

もう少し具体的に言えば、

 

「観察する」

 

とか

 

「声を聴く」

 

とか

 

「感じ取る」

 

とか。

 

そういったことだ。

 

ちなみに、

頭の中で思考を

したり、

解釈をしたり

することは

上記の3つのどれとも

違う。

 

頭の中の思考

は、

意識が内側に籠もっている

状態で、

 

それは主観的だ。

 

意識を向ける

とは、

 

客観的だ。

 

つまりは

「知ろう」

とすることだ。

 

もしくは

「体験しよう」

という表現でも

良いかも。

 

そう捉えると、

・自分

にも

・世界

にも、

 

どちらにも

意識を向けていない

人は多い。

 

いつも意識は

内側にあり、

主観的な状態だけで

生きている

という人だ。

 

そういった人は

残念ながら

なかなか自分の視界

から抜け出ることは

できないし、

 

本質的な成長も

難しい。

 

私達は

・自分

を生きているし、

・世界

の中で生きている。

 

まずはその二つに

客観的目線を

向けることが大切だ。

 

それがつまり

「意識を向ける」

ことであり、

 

観察したり

声を聴いたり

感じ取ることだ。

 

さて、

 

今回はここまで。

 

このお話は

明日も続けます。

 

つづく

 

もっと対峙せよ

 

私は、

一日の終わりには

必ず

自分自身と対峙する。

 

いや、

 

場合によっては

一日のうちに何度も

自分自身と対峙する。

 

目の前に

じっと私を見つめる

私がいる。

 

それは

見張られている

というのとは

まったく異なる。

 

むしろ

真逆だ。

 

自分自身にじっと

見つめられることで、

 

私は自由に

なる。

 

そして

シャンと心が

落ち着く。

 

自由で

落ち着いた

状態。

 

そこに戻る

ことができる。

 

私は私に

告げる。

 

いらんことで

悩むな。

 

と。

 

私の悩むべきは

もっと他に

ある。

 

と。

 

言われなくても

わかっている。

 

でも

言われると

何かが

もっとわかる。

 

元来、私は

悩み過ぎの質だ。

 

すぐ悩む私を

私は大嫌い

だったが、

 

私自身と対峙し、

私自身から

「悩むな」と言われると、

 

なぜか

悩む自分も

それはそれで

人間らしくていいな。

 

思えるのだ。

 

つまりは

存在承認。

 

その上で、

もう悩むのは

やめよう、

思えるのだ。

 

これははっきり言って

 

楽だ。

 

静かに自分自身と

対峙する時間を

私は本当に

大切にしているので、

 

だから

一歩一歩の自分の

歩みに

確信を持てるのだと

思う。

 

こう感じることが

できるのは

私だけではないはずだ。

 

人間であれば

皆、

同様だと思うのだ。

 

もっと

対峙せよ。

 

自分自身と。

 

世の中は

そうお伝えしたい人

ばかりだ。

 

対峙すれば

もっと楽に

進めるのに、と。

 

もっと

対峙せよ。

 

自分自身と。

 

自分の人生

なのだから。

 

つづく

 

私の考える潔さ

 

潔さ、って

何だろう?

 

と、

時々考える。

 

きっとたくさんの

答えがあると

思うのだが、

 

私は

真の潔さを

目の当たりにすると

涙が出る。

 

感動という

言葉は

そこには当てはまらない。

 

ただ、

涙が出る。

 

きっと

魂がダイレクトに

泣いている。

 

そしてその潔さは、

そんなに特別な

ものではない。

 

日常の中で

そこかしこに

存在している。

 

例えば、

「風」。

 

道を歩いていて、

ふと

風を感じ、

 

あぁこの風、

潔いな。

 

・・・と感じると

泣く。

 

こういうこと

ない?

 

まぁ街中で涙を流す

のは恥ずかしいので、

 

泣く、というより

泣きそうになる

ということなんだけど。

 

この「潔さ」、

説明しようとすると

かなり難しい。

 

しかし私なりに

あえて言えば、

 

潔さって、

 

自分と

自分以外のもの

との

区別をつけること

 

かな。

 

自分は自分。

 

それ以外は

それ以外。

 

じゃあ、

何が自分で、

何は自分ではない存在?

 

例えば、この手は

本当に自分かな?

 

この足は?

 

この髪は?

 

この風は

本当に自分以外の

存在?

 

太陽は?

 

あの人は?

 

この人は?

 

本当は

どれが自分なのだろう?

 

これ結構、

答えが出ない。

 

でも、

きっとこうだろうな、と

ふと

答えがわかる時がある。

 

そしたら、

 

これは自分なのだから、

自分として

在ろう。

 

と、

あるがままの自分

として

そこに存在する。

 

自分以外の存在への

執着は

すべて手放す。

 

ただ、

本当に自分だと

思える存在が

 

本当に自分そのもの

として

 

ここにある。

 

こうなっている状態は

きっと

かなり、潔い。

 

あぁこの風は

潔いな。

 

・・・と感じる風は

 

あるがままの

風として

そこに生きている。

 

逆に言えば、

あるがままじゃない風は

とても多い。

 

自分とは

何か?

 

どれが

自分だろうか?

 

本当に

自分だと思えるものを

 

まずは

潔く、大事にしよう。

 

そっから

潔い人生は

始まるのだと思う。

 

つづく

 

自己理解のための習慣

 

ゆっくりと

何かを語りたい

ときがある。

 

何を語りたい

のかは

わからない。

 

でも、

何かを語りたい。

 

そういったときは、

私はすぐに

パソコンに向かう。

 

文章を

書き始める。

 

頭では

書かない。

 

手、のみで

書く。

 

すると

面白いように

手が

スラスラと文章を

書き進める。

 

手が書いた文章を

後から

目が追い、

頭が追う。

 

そして

それを面白がる。

 

これも一種の

セルフコーチングの

やり方であり、

 

ある意味、最も

初心者向けの

方法だ。

 

できればこれを

毎日、

一日の終わりに

行なうと良い。

 

日記を

頭ではなく、

手で書くようなものだ。

 

とは言え、

毎日、

何か語りたいことがあるな、

という感覚に

なるわけではないだろう。

 

しかしそれでも

毎日、手に書かせて

いると、

 

毎日、一日の終わりには

何かしら

手が書けるようになる。

 

習慣化というのは

面白いものだ。

 

我々現代人は、

 

あまりにも

自分自身の内面を

理解せずにいる。

 

頭の中で

考えていることのみが

自分であると

思い込んでいる。

 

もっと

しっかりと自分を

理解しようとした方が

良い。

 

でないと、

本当に自分の人生を

自分として生きていることに

ならないのではないかな。

 

手で書く、というのは

習慣化するには

とてもオススメの

やり方だ。

 

つづく

 

揺らぎの中心へ

 

心の中に

今、

大きな揺らぎが

ある。

 

大地を揺るがす

ような

揺らぎだ。

 

今、

私自身も含めて

誰もに

それを感じる。

 

だからきっと

あなたにも

それはあるだろう。

 

揺らいでいる時は

揺らいでいることを

自覚した方がいい。

 

人の心は元来、

揺らぐようにできている

ので、

 

大地を揺るがすような

揺らぎは、

自分にとっては

人生の宝物だと

捉えるといい。

 

大きな揺らぎを

体験しなければ、

先に進めないのが

私達だ。

 

逆に言えば、

先に進むために

今の私達は

大きく揺らいでいる。

 

過去最大の

揺らぎ。

 

恐らくこれからの

私達は、

その「過去最大」を

何度も更新して

行くのだろう。

 

自分の揺らぎを

見つめ、

自分の揺らぎを

感じきる。

 

あなたは今、

揺らぎの中に

ある。

 

であればそこに

あえて自ら

埋没してみよう。

 

自分の心の中に

全身を

埋没させてみよう。

 

そして

揺らぎの中を

探検する。

 

ゆらぎの中心を

見つけよう。

 

その中心と

対峙しよう。

 

私の場合、

 

今の私の揺らぎの

中心にあるのは、

 

子どもの笑顔

 

だ。

 

私の知らない

たくさんの子ども達の

笑顔が観える。

 

これが今の私を

揺るがせているのだと

 

意味はよく

わからないが、

 

妙に合点する。

 

恐らくこれは

未来の子ども達。

 

これから私が

出会う子ども達。

 

私はこの子達の

笑顔のために

何かをしなければ

ならないのではないか?

 

そんな疑問が

 

私の心を

根底から揺るがして

いる。

 

この問い、

 

私は大事にしよう。

 

あなたはどうだ?

 

あなたの揺らぎの

中心には

どんな問いがある?

 

つづく

 

27歳のままだ

 

私の場合、

精神年齢は

27歳の誕生日で

止まっている。

 

27歳のあの日、

私は海外を

放浪していた。

 

ネパールで出会った

ある男性の家に

転がり込み、

 

そこにはとても

あたたかい家庭が

あり、

 

そこでまるで

家族のように

時間を過ごした。

 

そんなに裕福な

家庭ではなかったが、

かと言って

貧しすぎるわけでもなく、

 

質素だが

とても豊かな

時間だった。

 

私は本当に片言の

英語しか

喋れなかったが、

 

彼とは

人生について

よく語り合った。

 

彼の年齢は

知らないが、

恐らく当時の私より

10歳も20歳も

年上だったろう。

 

でもまるで

同級生のように

彼は気さくに

私と接してくれた。

 

彼は彼なりの

ビジネスをしていた。

 

私も恐らくは

この一年以上に及ぶ

放浪の旅が終われば、

 

日本に帰って

何らかのビジネスを

するのだろう、と

予想していた。

 

「でも、その前に

見ておきたい何かが

あると思っているんです。

今の私には

見ておかなければ

ならない何かが

あると思うんです。」

 

・・・などと、

かなり偉そうなことを

私は語った。

 

それを聴いて

彼はにこやかに

言ったものだ。

 

「私は神を信じて

いるが、

人生は、人の努力に

よって成されるものだ。

人の力では

どうにもできないことに

関しては、

私は神に祈り、

しかしあとは

私自身の努力によって

人生は動いていく。」

 

多分、こんな感じの

ことを言われたのだと

思う。

 

すごくしんみりと

彼の言葉は

私の胸に入った。

 

その日は確か、

私は彼の小さな

オートバイの後ろに

乗せてもらい、

一緒に、片道2時間以上

も走り、

ある丘の上まで行き、

 

そこから一緒に

ヒマラヤの山々を

眺めた後だった。

 

私はもうすぐ

彼のもとを離れ、

ネパールを離れ、

次のどこかへ

行こうとしていた。

 

「お誕生日、

おめでとう」

と彼は笑った。

 

あの日から

私の精神年齢は

止まった気がする。

 

私は今でも

27歳のままだ。

 

ふと気がつけば、

あれからさらに

もうすぐ27年の

歳月が経とうとしている。

 

ひょっとすると

今の私の年齢が

当時の彼の年齢

だったかもしれない。

 

今の私はちょうど、

当時の私の年齢と

同じくらいの人達との

接点が増えてきた。

 

多くは、

すでにビジネスを

しているか、

もしくは、これから

立ち上げようと

している若い人達。

 

彼らと接すると、

私はやはり今でも

彼らと同じくらいの年齢の

イメージで

自分を捉えているのだな、

と思う。

 

でも知らぬ間に、

あっという間に、

私は彼らの倍も

人生を重ねた。

 

もちろん彼らは

私のことを

年配者として見るし、

人生の先輩として

見るだろうが、

 

私の心は、

彼らとはそれほども

変わらない。

 

共に同じ場所にいて

同じ方向を

見つめている気がする。

 

きっとネパールの彼も

今の私と

同じだったんだろうな。

 

つづく

 

世界が入ってくる

 

コーチングの

素晴らしいところの

一つは、やはり、

 

定期的に

そして連続的に

 

そのクライアントさんと

正面から向き合い続ける

ことだろう。

 

継続性というのは

とてつもなく重要だ。

 

継続的に向き合い

続けていると、

 

ある時ある瞬間に、

そのクライアントさんの

 

『世界』

 

が入ってくる。

 

「世界」というのが

何か、というのは

上手く説明が

しづらい。

 

表面的に言えば、

その人の物事への

「見方」とも言えるし、

 

その人の

「解釈の仕方」とも

言えるし、

 

その人の

「生き方の特徴」

とも、

「その人から見た

現実の捉え方」

とも言えるが、

 

しかしどれもが

表現としては

とても浅い気がするし、

 

正確ではない。

 

「世界」という

表現が最も的確で、

 

その「世界」が

スーッと、

私の中に入ってくる。

 

するとその瞬間に

なってようやく

私は

 

そのクライアントさんと

「一つ」

になれた感覚を

得る。

 

そのクライアントさんへの

「理解」

が始まった感覚を

得る。

 

もちろん、

人が人を理解する

というのは

簡単なことではないし、

 

自分自身のことさえ

理解できないのが

人間なので、

 

ましてや

自分以外の人のことを

理解しきる、

などと考えるのは

傲慢の極みだと

よ〜くわかってはいるが、

 

しかし、

その人の「世界」が

入ってくると、

 

その人のことを

「理解」はしきれては

いないが、

 

その人ととても

近づくことができ、

 

その人と何か

とても大事なものを

「共有」できたような

気がする。

 

そして

そこからコーチングは

次元の壁を超えていく。

 

そのクライアントさんと

私は

別人であり、

別の存在であり、

分離しているが、

 

その前提と土台

の上で、

 

常に

「一つ」

として生きることが

できるような、

そんな不思議でしかも

とても心地よい感覚が

ずっと続くようになる。

 

私は

人と人が共に生きる

ということの

本質は

こういうことなのではないか、

 

コーチという仕事を

させていただくことで

知ることができた。

 

この、

理解を超えた繋がりと、

感覚として

常にあり続ける悦びを

知ることは、

 

コーチの悦び

ではなく

 

これは私は

人間としての悦びの

一つであると

思うのだ。

 

お互いがお互いの

「世界」を

大事にし合いつつも、

 

お互いがお互いの

「世界」を

共有する。

 

そんな関係が

増えると、

それこそ本当に

世界は変わるのでは

ないか。

 

つづく

 

地に足がつかないか

 

ひょっとすると

今、あなたは

 

まったく

地に足がついて

いない状態かも

しれない。

 

まるで

空中にいるかの

ように、

 

浮遊しながら、

足をバタバタさせて

いる。

 

地面がないので

不安定で

しょうがない。

 

気持ちも

悪い。

 

早くどこかに

降り立って、

安定したいし

安心したい。

 

・・・という

状態かもしれない。

 

もしそうであれば、

 

ちょっと大変

だけど、

 

しばらくそのままで

いた方がいい。

 

足をバタバタさせる

ことは

疲れるだけなので、

 

その状態であること

を、諦めて、

 

開き直って、

 

静かにしよう。

 

落ち着こう。

 

諦めが肝心。

 

力を抜こう。

 

そして、

風にプラプラと

吹かれていよう。

 

たまには

地面のない不安定さも

 

いいもんだ。

 

不安定そのものを

楽しもう。

 

今のあなたは

旅人のようなもの。

 

新たな

自分の立ち位置を、

 

「人生」そして「生活」

の足場を、

 

ゆっくりじっくりと

探しているんだ。

 

ゆっくりじっくりと

探させてあげて

ほしい。

 

一番良くないのは、

中途半端に

地面に降り立って

しまうこと。

 

本当に納得の

大地を見つける前に

 

降りてしまうこと。

 

いったん降りると、

次、また

空中に上がるまでは

 

時間も労力も

努力も

 

並大抵ではない

くらいに

かかってしまう。

 

そう。

 

今、空中に

漂えているというのは、

 

それ自体が

 

凄いことなんだ。

 

あなたが頑張って

脱皮を繰り返し、

その結果、

 

思いっきり

ジャンプし、

 

ジャンプどころか、

風に乗って

飛び、

 

あなたのこれまでの

狭い世界から

飛び出した、

 

ということなんだ。

 

せっかく

飛び出したのだから、

 

本当に望む大地を

見つけるまで

 

自分の好きに

させてあげよう。

 

だから、

 

さぁ、力を

抜いて。

 

風に揺らめいて、

 

空を見上げて、

 

光を感じて、

 

プラプラと、

 

今しか体験できない

その浮遊感を

 

満喫しよう。

 

つづく