チームパフォーマンスコーチ

未来に向かうのではなく

スーッと
一本だけ
ロープが
垂れている。

ここを
登るしか
ない。

他は
何もないのだ。

ここから
脱け出す
には。

であれば、
躊躇している
暇はない。

すぐにでも
ロープに
飛びつく。

しかし
たった一本の
細いロープを
腕力だけで
登るのは
キツい。

どう考えても
あんな高さの
出口に
たどり着けるとは
思えない。

でも
他に方法が
ないのだ。

迷っている
暇はない。

勢いで
ロープに
飛びついた。

強引に
登っていく。

本当に
強引だ。

案の定、
すぐに
疲れ果てた。

せっかく
いくらかは
登ったのに、

ズズズッと
ずり落ちる。

しまいには
地面まで
落ちた。

結局
最初にいた
場所、
地面に。

もう
体力は
残っていない。

でも
出口に行く
には
このロープしか
ない。

どうする、
俺?

何か
知恵は?

・・・ない。

知恵が
出ないなら
行くしかない。

もう一度、
ロープに
飛びつく。

しかし
先ほどよりも
もっと早く
落ちた。

もはや
体力は
残っていない。

時間は
ない。

諦めるか?

・・・

普通であれば
もう
間に合わない。

間に合わせる
のは
あきらめて、

それでも
何度も
何度も
挑戦する。

期限には
間に合わずとも
それでもずっと
挑戦しているうちに、

随分と
日にちはかかったが
ついに
ロープを
登り切ることが
できる。

・・・これが
通常の
人生だ。

私達は
何度も
期限に間に合わない
という
体験を続けた。

それでも
登り続ける
うちに
力をつけた。

この地道さが
人生だった。

・・・

・・・が、

ロープを
登らずに、

あの
高い場所にある
出口を
こちらに
引き寄せる、

吸引する、

という
方法が
実は
あったのだ。

もちろん
普通では
ない。

反則技
かも
しれない。

それでも
あったのだ。

未来に
向かうのでは
なく、

未来を
ここまで
吸引する
唯一の
方法が。

もう、
間に合わなかった、
では
済まされない。

それが
今。

ならば、
吸引するしか
ないでは
ないか。

つづく

誰かおらんかな?

固そうに
見えて、
実は
柔らかい。

それが
私達の
発想力だ。

きっかけさえ
あれば、

皆、
自由発想
できる。

思いもよらぬ
面白い発想、
斬新な発想は
浮上する。

しかし
きっかけが
ない。

その
きっかけ
とは、
多くの場合、

良い問い

だ。

しかしこれが
また
難しい。

なぜかと
言えば、

良い問い
とは、

問いの内容
そのものも
もちろん
だが、

タイミングも
大きな要素
だから。

最も的確な
言語を選び、

最も的確な
雰囲気で、

最も的確な
タイミングで、

その人に
投げる。

もちろん
強弱とかも
重要な要素で、

これを言い出したら
キリがない。

でも
私の体験上、
上記の様々な
要素が
ほんのわずか
ズレるだけで、

発想は
出なくなる。

コーチという
役割が
必要な所以だが、

残念ながら
これだけの質の
問いを投げられる
コーチは
なかなかいない。

でも、
そういった素質を
持った人は
いくらでもいる。

いくらでもいる
が、
この問いの力を
養うのは
相当に地道な努力が
必要なので、

ほとんどの人が
途中で
やめてしまう。

誰か、
やり切ってくれる
人、
おらんかな?

私は、
こういった
問いの力を持ち、

そして
私と一緒に
企業等の
サポート現場に
入ってくれる人を
探している。

これから
現場はどんどん
増えるし、

私は
現場以外に
すべきことが
どんどん
増えるから。

誰か
おらんかな?

つづく

足りないのは基本

基本的なこと
しか
できず、

応用が
まったく効かない、

という人は
基本的なことも
実は
できていない

ということだ。

本当の意味で
基本が
わかれば
応用は
効くはずだ。

応用を効かす
のは
楽しいことなので、
ついつい
基本の修得の
前に
応用に入ってしまう。

が、
それでは
ダメ
だ。

そう、

ダメ!

なんだ。

とはいえ、
人の育成に
おいては、

基本もまだ
できないのに、
あえて
現場に出て、
応用的な難問に
立ち向かっていく

という
やり方もある。

実際、
私もそのように
ずっと
やってきたかも
しれない。

しかしその場合も
自分は
基本すら
まだできていないのだ
ということを
きちんと自覚しておく
必要がある。

基本の修得
というのは
本当に
大変だ。

しかも
飽きちゃうし。

でも
一流の
本当に力を持った
人ほど、

常に
基本に
立ち返っている。

基本的な
ことを
しっかり丁寧に
やり続けている。

生半可な状態で
応用ばかりを
効かす。

だから
調和しないんだよ。

やるべきことを
しっかりやる。
毎日。
基本的な
ことを。

道を開く・拓く
最も大事なことだと
私は思うな。

つづく

大き過ぎる小さ過ぎる

本当の大きさ
というものが
ある。

あらゆる
ものに。

あらゆる
人に。

実在の
大きさだ。

私はなぜか
昔から
これだけは
わかった。

何となく
だが。

もちろん
大きければ
いい、
というわけでは
ない。

すべての
物事に、

もちろん
人にも、

等身大という
ものがある。

つまり
最も自然で
ちょうどよい
大きさ、だ。

企業も
そうだ。

ある社長の
ある会社には
その会社
ならではの

ちょうどよい
大きさ、
等身大というものが
ある。

どれだけ
経営力の高い
社長でも、

等身大以上の
規模を
目指してしまうと
途端に
不調和が起こる。

それでも
無理に
経営をし切って
しまう人もいるが、

等身大で
いった方が
もっと
世の中への影響も
お客様も
社員さんも

そして
自分自身も

幸せに
なるだろうに、

思うことは
よくある。

なんでみんな
規模の大きさ
ばかりを
目指すのだろうか?

もちろん
資本主義社会
というのは
大きくなり続ける
ことが
宿命となっている。

しかしそれでも
自分にしか
できない経営を
目指すといいのに、

よく思う。

経営者だけでは
ない。

あらゆる人が
そうだ。

自分の大きさを
小さく
見積り過ぎている
人も多い。

もっと大きな
視野で
もっと大らかに
そして自由に
未来について
発想すればいいのに、

これも
よく思う。

小さく
見過ぎたり、
大きく
見過ぎたり。

あるがままの
自分を
観れるように
なると、いいな。
みんな。

つづく

凄い発想を得たければ

たった一つの
ヒントで
100の発想が
生まれることが
ある。

その人は、
100の発想を
生み出す
凄い人だ!

言われたり
するが、

それよりも、
最初の
その
たった一つの
ヒントを

ヒントとして
キャッチする
ところが
本当は凄いのだ。

何が
ヒントになり、
何が
ヒントには
なり得ないか、

しっかり
判別している。

こればかりは
解釈によっては
絶対に
成されない。

意図や思惑
によっても
もちろん
成されない。

人事を超えた
部分での
働きがあるのだが、
しかし
それと出会うには
やはり
人事を尽くす
しかない。

要するに
普段の生き方
だ。

必要な発想が
ある時だけ
しっかり真剣に
生きるのでは
ない。

普段から
しっかり真剣に
丁寧に
生活をしている
こと。

そう、
日常生活
だ。

日常生活を
どれだけ大事に
できているか?
によって、

人生で本当に
必要なヒントが
目の前に
来るかどうか?

そしてそれが
来ているかどうかを
判別できるかどうか?

大きく変わる。

先日、
ある人が
ご自分のビジョンに
気づかれた。

大きく遠い
ビジョンだ。

でも
その人が
まず決めたのは、

ほんの日常の
些細な習慣を
変える、こと。

毎日をもっと
地道に丁寧に
過ごすこと、
だった。

この感覚が
大切だ。

未来は
今と
繋がっている。

未来を実現
する
ヒントは
今、にある。

それに
きちんと
気づけるのは、

今、を
つまりは
日常生活を
一つ一つ
丁寧に生きている
人のみ。

雑に生きて
いては
何も
手に入らないのだ。

つづく

齟齬はなくならんか

一つの齟齬
が生まれると、

次の齟齬が
生まれる。

ほんの小さな
齟齬、ズレが

気がつけば
手に負えない
くらいに
深刻になっている。

人と人の
コミュニケーションは
難しい。

身近で
あればあるほど
難易度は
増してくる。

齟齬など
ない。

・・・と
思い込んでいる
人は、
思っている以上に
多い。

もっと相手を
理解しなきゃ

わかりながらも
まったくできていない
という人も
思っている以上に
多い。

自分のことは
わからない
からだ。

自分では
やっている

もしくは、
やれている
つもり
だからだ。

本人達が
齟齬だと
思っていない
齟齬を
自覚するためには
どうしても
第三者の協力が
必要だ。

この
第三者の協力が
どうしても必要、
という
事実を、

実は私自身が
ずっと
受け入れて
こなかった。

人と人は
ちゃんと
向き合えば、
必ずいつか
分かり合える
はずだ。

・・・これが
私の信念だった。

が、

どうやら
そうではない
らしい。

と、
最近だよ、

本当に
受け止められる
ように
なったのは。

世の中から
私のような
コーチという立ち位置の
人が
いなくなれば
いい。

・・・これが私の
信念だった。
そのためにも
私は
がんばってきた。

が、

やはり
必要なのだ。

コーチのように
第三者的
立ち位置の人は。

それが
なくても成り立つ
世の中に
するよりも、

本当の意味で
第三者的立場に
立てる人を
しっかり
養成する。

これこそが
必要なのでは
ないか。

逆に言えば、

第三者的立場に
きちんと立てる
人が
増えるかどうか?

これで
私達人類の進化は
根本的に
変わるのではないか。

最近だよ、

そう思うように
なったんだ。

つづく

立っているだけで精一杯

ずっと
曇っていたものが
晴れてきた。

晴れた
向こう側に
観えるものは?

それは
ある意味
予想されたもの
だったが、

しかし
その本質は
あまりに
違った。

想像よりも
ずっと
良かった。

こんなにも
可能性を
感じるもの
なのか・・・。

晴れたことで
初めて
得られる
実感があった。

・・・

私達人間の
空想・想像は

貧弱な
ものだ。

だから、
予測など
意味はない、

くらいに
私は思っていた。

もちろん
正確に言えば、
予測は
大事だ。

これから
何が
起こるだろうか?

丁寧に考える
ことは
何事においても
重要だ。

ただ、
その予測に
自らが
縛り付けられるのは
良くない。

予測は
ただの解釈。
その域は
永遠に
越えられないから。

私達にとって
何がどうあっても
向き合うべきは
「現実」だ。

予測など
意味がない、

わかった上で
しっかり
予測する。

これが
私の進み方
だった。

・・・

ところが、

実際に
晴れてみれば、
その
あまりの違いに、

本当に
予測など
意味はなかったのだ、

呆然とするしか
ない。

これが
現実なのか。

これが
実在なのか。

実在が
現象化するとは
こういう
ことなのか。

わかっていた
はずなのに、

実際に
目の当たりに
すれば、

自分の心など
あっという間に
その迫力に
吹っ飛ばされる。

ここに
立っているだけ
で、
精一杯だ。

つづく

虚無の向こうに

この世の中
は、
儚く消えてゆく
もの
ばかりだ。

どれだけ
強く
見えたとしても。

それらの
ほとんどは
本当は
脆弱だ。

しかも
脆弱なもの
ほど、
強く見せようと
する。

皆、
騙される。

私も随分と
騙されたものだ。

騙されながら
世の中を
知っていった。

虚無。

心が
そんな状態に
何度も
なった。

でも一方で
人間は
虚無には
なりきれない。

徹底的に
虚無に落ちる
ことで、

底に
たどり着いて
しまう。

するともう
浮上するしか
ない。

浮上しても
現実は
変わらない。

でも
現実への
対し方は
変わる。

虚無によっても
絶望
しなくなって
しまった
自分。

麻痺か?

いや
違う。

ちゃんと
痛いし、
悲しいし、
虚しい、
から。

幻滅の人生。

私の人生は
そうだったとも
言えるんだよ、
ある視点から
見れば、ね。

もう
強がりは
よそう。

そのまま

いいじゃないか。

消えるものは
消え、
しかしそれでも
残るものは
残る。

虚無そのもの

そのうちに
儚く消える。

その後に
残るものは・・・?

あとは
本質だけが
残っているだろ。

それはここに
実在
しているだろ。

きっと
これだけは
ずっと
ここにある。

つづく

何としても守るもの

真っ暗な
闇の中

一本の細い
光の直線が

下から上へと
垂直に
続いている。

細い細い
線なのだが、
よく見ると、

細くとも
それは
流れ続けている
一本の
エネルギーだった。

下から
上へ。

細々とした
エネルギーの
ようだが、

でもさらに
眼を凝らして
見つめてみると、

そこには
たくさんの
生命たちが

ひしめき合い
ながら
エネルギーと
共に
流れていた。

下から
上へ。

この暗闇は
どこなのか?

という
疑問は
その時点では
全く
浮かばなかった。

ただ
祈り続けた。

彼ら、

つまりは
たくさんの
生命たち、

彼らが
何とか無事に
流れ続けます
ように。

生命が
続きますように。

なぜこんなに
祈るのか、
自分でもよく
わからなかった。

が、
私は必死
だった。

この世の中
には、
決して
途切れては
ならないものが
ある。

何が
あっても、
これだけは、

守り続けなければ
ならない
流れ
がある。

もしそれを
守りきれずに、

それが
途切れて
しまったら、

何のために
ここに
来たのか?

それこそ
すべてが
意味を失う。

私はきっと
それを
わかっていた。

私の人生、

時々、
後悔の場面が
頭をよぎる。

フラッシュバック
する。

なぜあの時、
私は
あのような
行動を
とったのか?
と。

でも今は
ちょっとずつ
わかりかけて
いるんだ。

私はどうしても
守るべきものを
守りたかった
のだと。

つづく

ちょっと捩れただけ

流れが
捩れてくると、

やけに
不安になる。

激しさは
あまり
変わらないのに。

ほんの少し
捩れるだけで、
まるで
難易度が10倍にも
上がったように。

しかし
よくよく
観察すれば、

ちょっと
ひん曲がっている
だけだ。

複雑怪奇に
なっているわけ
ではないのだ。

ただ、

わずかで
あっても、
捩れるためには
多大なエネルギーが
要る。

本来は
必要のない
エネルギーが
消費、
浪費
される。

だから
捩れを丁寧に
修正しよう。

観察すれば、
どこに力を
どれだけ
加えれば、

まっすぐ


戻るか
わかるはず。

実は
そんなに
難しいものでは
ない。

本質は
変わっていない
のだ。

よーく
観察しよう。

つづく

地球の悲しみは

雲が下の方に
見えるのだが、

それは
今自分が
宇宙に出ている
からだ。

地球も
遠く離れると
小さな存在だ。

しかし
あの
小さな世界の
中で、

毎日
あーだこーだと
生きているのだな。

自分の世界

外側から
眺める。

遠くから
眺める。

そういった
視点や視座の
変換は
有効だ。

しかし
これを
イメージで
行なっても
意味がない。

意味がない、
とは
断定的過ぎると
思われるかも
しれないが、

でもやっぱり
意味がない。

イメージ
ではなく、

実在を
観なければ。

・・・

以前の私は、

実在とは
自分の脳を
介さずに
観たり感じたり
するものだ、

思っていた。

が、
どうやら
私達の脳には

実在を
観たり感じ取る
力が
もともと
あるようだ。

使っていない
だけで。

そういう機能が
備わっている
のなら、

誰でも実在は
わかるはずだ。

・・・

ただし、

実在がわかり
過ぎることで
逆に
心に澱みが
生まれたり、

歩みが遅く
なってしまう人は
多い。

そういう人は
無理に観たり
感じたり
せずに、

ただ、
直観に任せて
生きた方が
いい。

しかし
それにしても
実在を
受け取っている
ことには
違いはない。

要は
顕在化の度合い
の違いだ。

・・・

実在の視点
実在の視座
から
地球を
眺める。

すると
今の地球の
本質的な課題が
手に取るように
わかる。

それは
私達人間全体の
課題でもある。

今の一番の
課題は、

人は
自分と地球を
あまりに
分離して
考え過ぎている、
ということだ。

人と地球が
分断、断絶
されて
しまっている。

あらゆる
不調和は
ここに
根本原因が
ある。

地球は私であり、
私は地球である。

・・・と、
そんなことを
言っても
誰もピンとこない。

それが今の
私達人間の
現実だ。

地球の悲しみ

自分の悲しみ

実は一緒
なんだけどな。

つづく

遊ぶのは後だ

キューッと
中心が
光る。

とても
強い輝き。

中心に
意識を
集中すれば、

それ以外は
まったく
見えなくなる。

それでいい。

今、
大切なのは
あの
中心核のみ、
だ。

私達人間の
弱さの
一つ。

それは、

端くれに
意識を
掬い取られる
ということ。

端っこの
どうでも良い
ことであるほど、

なぜか
気を取られ、

足元を
掬われる。

私達はきっと
余分なものが
好きなのだ。

余分なもの
ほど
好きなのだ。

それをまた
楽しむのも
あり。

でも、
本当に意識を
向けるべき
中心核が
目の前にある時は

そんなことを
している
場合ではない。

中心核に
のみ
全意識を
向けよう。

まずは
本当に必要な
ことを
するのだ。

やるべき
ことを
やる。

遊ぶのは
それからだ。

つづく

ファーストインパクト

頭を
もたげた時、

最初に
見えるもの。

それにより
その後の
運命が
決まる。

ファースト
インパクト。

自分自身に
与えるもの。

人は
弱い。

その弱さを
ちゃんと知る者
こそが強い。

人の弱さの
一つは、

ファースト
インパクトで
ほぼほぼ
歩みが決まって
しまう
ということだ。

これは
とても
脆弱だ。

しかし
それが私達
人間。

そこを
受け入れるしか
ない。

だから
タイミングが
重要だ。

同じ物事に
取り組む場合でも、

最初の
タイミング。

その第一歩で
自分に
何が
降りかかるか?

何を自分は
見るか?

何を感じるか?

こここそが
自己コントロールの
肝。

闇雲に
向き合うのでは
ない。

最高の
タイミングで
向き合い
始めるんだ。

つづく

最短を行くと決めた

雨が降れば
傘をさせば
いい。

濡れなきゃ
いけない
いわれはない。

在るものは
活用すれば
良いし、

避けるべき
ものは
避ければいい。

逃げれば
いい。

すべてに
対して
真正面から
受け取ろう
とする
必要はない。

ただ、

自分が今は
何に対して
真正面から
向き合うか?を

丁寧に
しっかりと
自分の意思で
決めることだ。

向き合うもの
とは
向き合い、

そうでないもの

避ける、
よける、
流す、
こなす、
あしらう、
ということでいい。

人生は
メリハリだ。

真剣さとは
メリハリだ。

堂々と
自分の想い
として
メリハリを
つけよう。

それこそが
覚悟
ということだろう。

・・・

ポチャンと
何かが
池に落ちた。

波紋が
広がる。

その波紋を
見つめ、

その波紋と
共に
生きると
決めた。

その波紋が
広がり続ける
ために、
あらゆることを
私はする。

波紋とは
関係のない
ことは
もう、しない。

もしくは、
流す。

適当に
流す。

もはや
人生の時間が
足りない。

あと
たった
22年。

本当にすべき
ことのみに
立ち向かっていく。

もう
余分なことを
している暇は
ないのだ。

・・・

抜け道や
近道が
もし
見つかれば、

私は
躊躇なく
そこを通る
ことにする。

特異点。

・・・つまり、
一気に
ゴールに近づく
特別な道が
もし
見つかれば、

私はそこを
行く。

活用できる
ものは
すべて活用
するんだ。

つづく

一つの問いがわかった

問いが
一つ。

今、
目の前に
ある。

何かは
わからない。

だから
いつも、

この問いは
何だろうか?

という
問いから
私のセルフコーチングは
始まる。

今、
目の前にある
この
光のような
塊の
問いは
何だろうか?

その光の
中に
入ってみる。

その中心
まで
行ってみる。

人が
観える。

2〜3人。

何か
話し合っている。

その
輪の中に
私も入る。

ゴニョゴニョ
言葉が
聴き取れない。
でもなんか
深刻な感じ。

未来が
どうこう
言っている。

未来?

未来?

未来は今、
どれだけ
ズレている
だろうか?

そのズレは
どうすれば
矯正できるか?

いや、
矯正すべきか、
すべきじゃないか?

なるほど、
そういうことか。

その輪
から
出る。

もとに戻り、
改めて
目の前の光を
観る。

わかった。

「今、私が
変えるべき
習慣は何か?」

・・・だ。

これが
今、必要な
問い。

私だけじゃ
ない。

みんなにとっても
必要な
問いだ。

つづく

別世界コーチング

突然、
別世界に入ってしまう
ことがある。

それは
この世界よりも
大きな世界
だったり、
小さな世界
だったり
する。

どちらに
しても

別世界に
いながら、
この世界を

目の前の
現実を

見ている
という状態に
なる。

すると、
言葉では
言い表せない
妙な
「客観性」

生まれる。

その
妙な客観的視点
から
現実を観ると、

それまでとは
まるで違った
事象として
目に飛び込んで
くる。

その状態で
私は
クライアントさんに
問いを投げる。

よくクライアントさん
から

竹内さんは
突然、
全く脈絡のない
変な問いを
投げてきますね、


言われるが、
それはそのような
理由からだ。

でも、
その突然の
問いによって

急に
突破口が開けたり
する。

というよりも、
それしか
突破口を開く
方法はないのでは、
と 
思えてしまう
くらいだ。

もともと私達には
たくさんの視点が
ある。

人というのは
無意識では
実に様々な視点から
ものを観ている。

しかしそれは
あくまでも
同じ世界の範疇での
視点だ。

別世界の視点
となると、
また様子は全然
違ってくる。

私が
「実在」
という言葉を
使い出したのは
こういったことが
きっかけだったように
思う。

別世界からの
問い。

別世界からの
コーチング。

私はいつの間にか
そういったことを
行なっていたが、

きっと
他の人にも
できるはずだ。

どうすれば
そのような力が
高まるか?

その訓練法を
現在、
開発中だ。

つづく

実は陰鬱じゃなかった

雨の中を
歩いていると、

知らぬ間に
ついつい
意識は
内に籠る。

雨の世界は
暗いから。

濡れるのも
いやだし。

気分が
憂鬱になっていく。

が、

そういう時
こそ、

一つの
訓練だと思って、

意識を
外へ外へ
向けてみよう。

雨粒の
一つ一つを
見つめるくらいに。

一つ一つの
現実を、

外の世界を、

解釈なしに
見つめ、
聴き、
感じよう。

そこには
思っているほどには
悪くない
世界が
広がっている。

気づかなかった
ことにも
気づけるように
なるだろう。

雨だから
こその
美しさも
感じるかも。

実際、

陰鬱に見えていた
世界にも
光と輝きが
あり、

暗いからこそ
それが
際立つ。

内側に
籠って
世界を閉ざすより、

雨が降ろうが
槍が振ろうが

世界そのものに

現実そのものに

意識を
向けよう。

私の場合、
たったこれだけの
ことで、
人生観が
変わったんだ。

つづく

閉塞感に襲われたら

開放されている
唯一の
出口がある。

その出口を
探そう。

もっと
真剣に。

徹底的に。

ここにいる
ことによる
閉塞感がある、

ということは
イコール
必ず
出口もある
ということ。

閉塞感に
閉ざされると、
私達はついつい
自ら内に籠り、

頑なに
なっていくが、

しかし
そういう時こそ
オープンに。

外の世界を

現実を

あるがままに
見つめ、
意識を
広げ続け、

世界と
一つに
なっていよう。

すると
必ず、
出口がわかる。

多くの場合、
出口は
たったの一点
だ。

とても
狭い。

でも、
そこに辿り着けば
一気に
脱け出せる。

ちゃんと
その道は
用意されている。

だからこその
閉塞感。

閉塞感の
中に
閉じ籠るのでは
なく、

外へ外へ
大きく
大きく、

行動より前に
意識を
広げる。

それだけなら
誰でも
できる、
やろうと思えば。

だから
やろう。

つづく

何かに包まれている

今、自分が
包まれている
ものは何か?

そんな
視点を持とう。

良い意味でも
悪い意味でも

私達は
常に
何かに
包まれている。

時には
それらに
知らぬ間に

呑み込まれて
いる。

良い意味でも
悪い意味でも。

自分が
今、
何に
呑み込まれているか?

を知る、
ということでも
ある。

それがわかれば、
自己コントロールは
一気に
効くようになる。

呑み込まれた
ままだと
しても。
それでも
効くようになる。

もしくは、
自分の意志として
もっともっと
呑み込まれて
しまおう!


思うことも
あるだろう。

生きる、
とは
何かに
包まれること。

とも
言えるのだ。

包まれる
ことを
拒むのではなく、

そこはもう
諦めて、

しかし
包まれた自分
として、

包んでくる
そのものに
対して、

そして、

さらに
その周りの
現実に
対して、

自分の意志で
意思で
丁寧に
対応しよう。

それが
自律という
ことだ。

つづく

途切れそうか

途切れる
ことを

恐れるな。

恐れる
必要はない。

途切れれば、
途切れる
ままに。

それは
「終わり」に
見えるが、

その
「終わり」が
なければ、

次の
「始まり」は
来ない。

私達は
・成功
・失敗
という目線で
ものを見過ぎだ。

脈々と流れる
時間の中で、

人生の中で、

生きている
以上は
続いていく。

いや、
人生を終えても
流れは
続く。

自分が
ここにいた
という
事実は変わらない。

あなたも
私も
必ず
影響を残して
いる。

それが
生きる、という
こと。

その中での
途切れ
とは、

節目
でしかない。

しっかりと
節目を
受け入れ、

受け入れた
自分として、

それこそが
新たな自分だ、

次の
「始まり」を
迎えよう。

つづく

漂う遺志

ある人の
遺志
が、

今ここ
目の前に
ある。

実在と
して。

私はそれを
手に取り、

少し重いな


思いながらも
じっと
見つめている。

観つめて
いる。

その人の
遺志だが、

実は
その人自身も
誰かから
この遺志を
受け取り
生きてきたんだな、

ということが
わかる。

遺志は
人から人へと
移っていく。

ただ、
誰もに
というわけでは
ない。

その遺志の
本質を
受け止められる
人。

いやそれ以前に
ここにその
遺志が
実在していることに

気づかねば
ならない。

この世の中
には
様々な遺志が
漂っている。

そのほとんどは
浮遊した
ままだ。

皆、
寂しそうだ。

私は今、
じっと
見つめている
この
遺志を

受け継ごう
かと

意志を
固めたところだ。

つづく

今、対峙する問い

たった一つの
問いが

今ここに
ある。

それは
次のような
ものだ。

・・・

最も激しい何か

立ち向かわなければ
ならない、
としたら、

何に向かう?

・・・

覚悟と共に
私はその答えと
これから
対峙する。

皆さんも、
きっと
同じだろう。

つづく

本当に大事な答えは

本当に
大事なものは
何か?


訊かれたら、

答えるべき
ことが
あるだろう。

でもそれを
咄嗟に
答えられるのは、

常に
この問いを
自分自身に
投げ続けている
人、のみ。

ただし、

答えは
これが最高だ、

決めつけない方が
いい。

私達は
常に
進化・深化を
続けている。

さっきまでの
最高が
今はもう
最高ではない

可能性は
十分にある。

本当に
大事な答えは
探究し続けること。

だから、
最高の答えは

問いかけられた
その瞬間に
こそ

咄嗟に
出るものだ。

直観的にね。

つづく

世の中は本気だ

時代の
変わり目

時代の
変わり目


ずっと
言い続けて
いるが、

時代が
どう変わるか?
と言えば、

ずっと
時代の変わり目

あり続ける
時代になった

ということだ。

10年かけて
起きていたことが
(現象が)

1ヶ月、

いや

下手をすれば
1日で
簡単に起こり得る、

そんな
時代だ。

私達はもう
その
最中にいる。

AIとかの
話だけでは
ない。

実在レベルの
話、
つまりは
本質的な話も
含めて、だ。

私達人間は
本質的変化を
求め続ける
一方で、

それを
極度に
恐れる。

表面は
変われど
本質は
変わらず。

そんな時代を
私達は
ずっと
生きてきた。

が、
ようやく
準備が整った
のだ。
この10年で。

本質的変化

しても
大丈夫、

・・・とまでは
言わないが、

でも
それを受け入れる
覚悟が
多くの人達に
ついてきた。

それを
「世の中」の実在は
ずっと
待っていたんだ。

皆が、
変化への覚悟を
持てば、

気兼ねなく
変化できる。

「世の中」の実在が
本当は一番、
変化を望んでいた
のかもしれない。

人が
世の中を
動かしているだけでは
ない。

世の中も
人を動かす。

その
相互作用の中で、
今、
「世の中」の実在は
本気だ。

本気で
変わろうと
している。

変わり続けよう
としている。

私達は、
心して
かかろうでは
ないか。

つづく

何に意識を向けるか

気を取られる
何か

あったとしても、

本当に
今、自分が
意識を向けるべき
対象は何か?

という問いを
常に
丁寧に
自分に投げながら、

その対象から
意識を
逸らさないように、

集中し過ぎる必要は
ないが、

でも常に
そこに
意識を向け続ける
ようにしよう。

意識を向ける
とは、

あるがままを
観ること
聴くこと
感じること。

いつも言うように
自分の解釈は
一切、
入れない。

ただ観る、
聴く、
感じ取る、

だけでいい。

それだけで
私達には
ちゃんと
直観が働く。

思考は
大事だが、

要らぬ思考は
私達自身を
惑わせる。

今の自分は
何にこそ
意識を向け
続けるか?

愚直に。

ここを
本当に
丁寧に。

特にこの
7月からは。

つづく

低く飛ぶのも大事

低空飛行を
続けていると、

雲や雨の
影響を
いやでも受けて
しまう。

揺れ揺れの
状態で
何とか
前に進む。

本来であれば、
もっと
高く飛べば、

雲から
抜け出せる。

もっと安定して
進める。

それは
わかっているが、
あえての
低空飛行だ。

これを
しなければ
観えてこない
ことは多い。

人の意識の
次元の
喩えだ。

高い次元
だけで
すべてを観よう
としても

残念ながら
この世の中は
見落とすこと
ばかりだ。

高いところから
低いところへ、
という
表現をすれば
傲慢だと
受け取られるかも
しれない。

そんなことは
どうでもいい。

私達は皆、
本来は
高い次元から
低い次元まで
様々な意識の
階層を
持っている。
それが
人間。

ただ、
世の中の
場としての影響を
受けながら、
高い次元を
忘れてしまっている
人は多い。

だから
いち早く
高い次元を思い出した
人は、
意図的に
高低、両方の次元を
行き来するといい。

低い次元は
苦しい。
不安定だし。

でも、
いつでも
高い次元には
戻れる。

最もいけないのは
低い次元を
除外したり
排除しようと
すること。

いつもいつも
くどいようだが、
人は
高低、様々な次元が
あるから
人だ。

そこにこそ
価値がある。

だから
自由に
行き来しよう。

これも
自由のカタチの
の一つだ。

つづく

覚悟の問い

この道は
どこまで
続いているか?

本当に
この道で
良いか?

そう
問うた時の
心のざわめき。

そこにこそ
意識を
向け続けよう。

そして
さらに
次のように
問うのだ。

時間を
止めるか
進めるか?
進めるなら、
私は
何者になるか?

、と。

つづく

巨大な背中

何者か、
がいる。

巨大な
存在。

目の前
だ。

背を
向けている。

まっすぐに
前を向いて
いるのか?

それとも
私を
避けているのか?

わからないが、
話しかけて
みる。

なぜ、
私の真正面に
いる?
これでは
前が見えない、と。

返事は
ない。

無言のまま。

その存在は
進み始めた。

だんだんと
遠ざかる。

巨大さに
よって
塞がれていた
視界が
復活する。

すると
様相が
変わっていた。

これまで
観えていた
世界とは
まるで
別世界。

ここは
どこだ?

焦る。

焦る必要は
ない。

と、
何者かの
声。

そうか、
あの
巨大なやつの
声だ。

観える
世界が変わる
ということは、
私自身も
変わるということ。

これまで
散々
変わってきたのに?

また
変化するの?

こんなもんじゃ
済まないぞ。


またあの声。

わーったよ、

どうせ
私は
進むと
決めている。

ここが
どんな
世界だろうと。

もはや
あの巨大な
存在は
影も形もない。

が、
私にはもう
わかっている。

あれは
私だ。

もうすでに
あれ、
とは一つに
なっている。

これが
今回の変化
だ、と。

つづく

人生への問い

たった一つの
問いが、

人生を変える
こともある。

自分の人生を
だいぶ
離れたところから

客観的に

まるで
他人事のように

俯瞰しながら
自分に
問うてみよう。

「本当に
この人生で
いいの?」

「本当に
このまま進んで
いいの?」

まるで
他人事の
ように。

でも、
答えは
真摯に
受け取ろう。

つづく