チームパフォーマンスコーチ

最速で進みたい?

ゆっくりと
進むべき時は、

本当に
ゆっくり
進んだ方がいい。

スピードは
自分の意思で
しっかり
決めることだ。

速く進める
ようになった人ほど、

実はこの
ゆっくり
というのがとても
難しい。

ついつい
先急いでしまう。

行動を
し過ぎてしまう
のだ。

ところが
その行動が
ちょっと余分
だったりして、
結果的に
進みが遅くなる。

ゆっくり
と見えて、
実はそれが
最速のための
必要なペース。

真本音で生きる
とは
こういうことだ。

つまり、
最適なペースを
自分で
定めながら、
結果的に
最速となる、という。

ところで
「最速」について
だが、

「最速がベストな
生き方なのですか?」


問われることが
ある。

もちろん
そういうわけでは
ない。

人生を
どのようなペースで
進めるか?は
その人が
それこそ真本音で
決めている。

ただ、
この十年で、
最速で進みたい!

真本音で思っている
人が
私の周りに随分と
増えてきた。

このブログも、
最速で進む人
向けに
書かせていただいて
いるつもりだ。

だから
最速でないスピードで
進もうとする人に
とって、
私の言っていることは

よくわからない

という印象と
なるだろう。

それでいい。

以前のこのブログでは
都度都度、
いろんな人向けに
書かせて
いただいた。

が、
今は実は
かなり絞っている。

最速で進もうと
する人

のみに

向けて
書かせていただいて
いる。

それが
良いことかどうかは
わからないが、

そういう人を
こそ
私はサポートしよう、

数年前に
決めた。

最速で進もう
とする人は、

側から見ていて
ハラハラする
くらいに
これまでのご本人を
大きく逸脱した
スピードを出そうと
している。

本当に
危なっかしい。

が、
それくらいの
人をこそ、
私は
応援したいと
思っているんだ。

つづく

そして何も無くなった

狙いを定めて
進みたいのに、

どこに
狙いを
定めれば良いか?

見当も
つかない。

ということが
ある。

いや、
正確に言えば、

本当は
わかっている
のだ。
頭では。

わかっては
いても
なぜか

感覚的に
納得が
いかないのだ。

もっと
別の何かを
目掛けて
行かなければ
ならないのでは
ないか?

どうしても
そのような問いが
目の前に
立ち塞がる。

だから
その問いと
向き合うのだが、

答えが
わかる気が
しない。

わかって
いるのに
まったく
わからない。

この感覚は
なかなか
辛い。

・・・

高い視座に
上ってみる。

かなり
上の方から
全体を
俯瞰する。

しかし
これでは効果は
ないらしい。

そういうこと
ではないのだ。

では、

もっと深く
潜るか?

いや、
それも違う。

どうも
観点がすべて
本質的に
違うのだ。

・・・

ふと、
私はこのまま
ここにいて
いいのだろうか?

そんな
根本的な
気持ちなった。

ひょっとして
ここにいること
そのものに

意味が
なかったのか?
と。

ここで
YESと答えて
しまえば、

これまでの
私の人生は
何も意味はなかった
ことに
なってしまう。

恐ろしい
問いだ。

しかしもう
向き合わねば
ならない。

なんだ、
ここまできて
人生、
リセットかよ。

・・・

スーッと
落ちた。

堕ちた。

どこまでも。

闇の中を。

そして
私は
消えていった。

・・・

何も無くなった
その状態の
まま、

どれだけ
眠っただろう?

じっと
見つめる
目と
私は対峙
していた。

ただ
じっと
見つめるだけの
目。

私自身の
目だ。

他の誰
でもない。

大きな目
だった。

私の全身
よりも
何十倍も
大きい。

目に表情は
なく、

ただ
見つめるだけ
だったが、

対峙している
間に、

ふと、

これが私か、

思えた。

いや、
正確には
私、
ではない。

人、だ。

すべての人の
大きさ、だ。

・・・

そして
私は
もとに戻った。

異常な状態に
入っていた
ようだ。

生まれてから
ずっと。

我に返ったら
もう
何もなかったよ。

何もない
ところからの
スタートなんだな、

そこで初めて
人というものを
理解できた
気がした。

私には
何もない。

私には
何もできない。

それが
私。

それが
人。

それを
しっかり
理解したとき、

やっと
足が動き始めたよ。

その
向かう先に

私が
本当に
狙いたいものが
あった。

22年前の話。

つづく

唯一、確かなもの

答えは
たった一つ
だろうか?

本当は
いくつもの
自由に選べる
答えが
あるのでは
ないのか?

こうでなきゃ
いけない、

勝手に自分で
決めつけている
だけで、

本当は
どうでもいい
のでは
ないか?

この
気持ちは、

決断

ではなく
ただの

執着

では
ないのか?

・・・

いくつもの
波が
来る。

次から
次へと。

乗り越えても
乗り越えても

新たな
波がくる。

これが人生
であると
割り切れば
良いのか?

それとも
本当は
こんな波の多い
場所へ
入る必要は
なかったのか?

・・・

遠くを
見渡せる
丘の上。

あまりに
遮るものが
ないので、

逆に
不安になる。

遠くに
目指すものが
見えた。

でも、
見えてしまった
が故に

その、遠さを
知ってしまった。

あんなに
遠くまで
行こうと
していたのか。

呆然となる。

・・・

絡み合った
糸。

赤色、
青色、
黄色、

無数に
絡み合う。

それを
解こうとして
力を込めれば、

糸は
毛玉のように
なって
凝り固まり、

もう二度と
ほぐれそうに
ない。

一本一本
もっと
丁寧に
見つめていれば、

実は簡単に
区別できたかも
しれないのに。

・・・

後ろからも
前からも
押され、

後ろにも
前にも
行けず、

右と左は
崖で。

もうどうしようも
なくて、
佇んでいる。

何をどうすれば
良いのか
わからない。

もう
何もかもを
捨ててもいい、
とも
思ってしまう。

・・・

人間。

本当は
簡単なことを
より
難しくしてしまう
存在。

人間。

わかったつもりに
なっても
迷い続け、

途中からは
迷っていること
すらも
わからなくなる。

私は
人間。

これを
愚か、と
言うのか?

人間そのもの

愚か、と
言うのか?

わからない
が、

少なくとも
私は

愚かだ。

・・・

私達は
このままで
いい。

人間
なのだから。

私達は
このままでは
いけない。

人間
なのだから。

どっちでも
いいか
どうか?も

どっちでも
いい。

ただ、
一つ。

そんな
自分を
じっと見つめる
自分がいる。

そいつは
何も
言わない。

何も
しない。

でも、

そいつ
だけは

確か
なんだ。

つづく

七色の手助け

虹の
ようだけど
虹じゃない。

七色に
輝いている
けど、

それは
一直線だ。

上から
下に

垂直に
降りてくる。

それを
頭のてっぺんで
受け止める。

するとその
七色は
私の身体を
貫くんだ。

貫かれた
私は
まるで崩壊する
ような
衝撃は感じる。

のだが、
それは実に
心地良く、

その時は
もう
自分をこのまま
失ってもいいや、
とさえ
思ってしまう。

自分自身が
その
七色そのものに
なったかの
ような。

それでいいよ、
という
感覚。

これがしばらく
続いた後で、

ふと
自分自身を
取り戻す。

七色は
いつの間にか
消えている。

ただ、
私の中は
綺麗に、

細胞の一つ一つ
まで

浄化されて
いる。

身体の内側と
心も魂も、
一回
シャワーで洗い流した
感じだ。

七色、
あれはもちろん
実在であるが、

あれは
私ではないな。

何かもっと
別の存在の
ものが、

集約されて
ここに
もたらされている
気がする。

完全に理解
することは
もちろん
不可能だが、

でも
今ここに
実在し、

綺麗さっぱり
するという
この感覚、

この現実は
大切にしよう。

いつか
七色と
対話ができると
いいな、と
思っている。

いや、本当は
今でも
できるはずだが、

そこに
エネルギーを使う
必要を
今はあえて
感じていない。

それよりも
私には
他にすることが
ある。

対話は
もう少し先まで
とっておこう。

つづく

実在の振動

昔、
山を登っていた
時に、
台風のような
大雨に見舞われた
ことが
何度もあったが、

それはもう、

上からも
下からも
横からも

破壊力のある
雨達が
容赦なく
私を叩いた。

風も
凄いから、

岩にへばりついて
踏ん張って
飛ばされないように
した。

でも確かに
その時、私は

生きている
実感

というものを
得ていた。

この状況から
一刻も早く
逃げ出したい、

という
気持ちと共に、

確かに、
ずっと
このままの状態で
いたい、
という私も
いた。

こんなに
生きている実感を
ダイレクトに
感じられることは

なかなか
ない。

1秒1秒の
必死さ、
濃密さ。

そうなった時に
初めて
喚起される

独特の心、
感覚、
そして
振動。

そう。

あの時の
私は
独特の「振動」を
していた。

普通ではない
波長を
出していた。

あれ以来
ずっと私は
あの「振動」を
求め続けたのかも
しれない。

・・・

今になって
わかる。

あの「振動」は
実在の振動
だった。

実在の自分と
直接に
結びついている
証のような
もの。

命そのものを
感じ取れたのは
そういう意味では
当たり前の
ことだった。

あの時、私は
本来の自分を
取り戻していた
のだ。

・・・

山の上や
嵐の中に
いなくても、

今は毎日、

いや、
この1秒1秒
一刻一刻、

私はその
振動で
生きている。

私は常に
実在を
感じ続け、

実在と
共にある。

そう考えると、
登山というのは
私に
最初の実在体験を
もたらしてくれた
貴重なものだった。

私達は、

いや、
この世のすべての
存在は

振動
し続けている。

独特の
波長を持ちながら。

本当の成長
とは、

自分の振動数を
変えて行くこと。

同じ振動数で
いるうちは、

その成長は
見せかけだ。

振動数を
変えるには、

やはり、

必死に
ならねば
ならない。

私は
登山でも
必死だったが、

普段の
仕事でも
必死だ。

その連続が
よかった。

24時間
必死になる
必要はない。

でも、
一日に一度は、

必死に
なろう。

つまり、
全意識を集中する
時間、

全身全霊で
取り組む時間を
持とう。

振動数を
変えるんだ。

自ら
意図的に。

つづく

行け!

まっすぐに
進みたい。

今こそ、
まっすぐに!

という
気持ちが喚起
されたら、

それはもう
思し召しだ。

存分に
まっすぐな道を
選択すれば
いい。

もはや
我々に
回り道は
必要ない。

直登ルートを
堂々と
登ればいい。

どう見ても
まっすぐには
行けないような
現実が
目の前に
あったとしても、

まっすぐに
進みたい、

という
自分の自然な
気持ちをこそ、

最優先に。

今さら
もう、

妥協は
要らない。

手加減も
要らない。

躊躇なんて
もってのほか。

わがまま
だろうが、
何だろうが、

素直な自分を
出し切る
ことこそ、

今の私達が
すべきこと。

まっすぐ
以外の
選択肢はない、

くらいの
思い込みで
結構だ。

行け!

行っちゃえ!

つづく

エネルギー転調の時

ずっと
一定のリズムで
循環していた
ものが、

突然、
そのリズムを
狂わせることが
ある。

特に
自分自身の
エネルギー。

私達は
生きている以上、
常に
エネルギー循環を
自らの体内で
続けている。

それは
気の流れ
とも言えるものだが、

それが突然に
混乱するかの
ように
グチャグチャに
乱れることが
ある。

しかしもし
その様子が
自分なりに
きちんと把握
できているので
あれば、

それは
どれだけグチャグチャ
でも、
実は、混乱では
ない。

そのグチャグチャにも
ある一定の
リズムがある
はずだ。

エネルギー循環に
新たなリズムや
流れを与えるための
少々強引な

転調

のようなものだと
思えばいい。

ただ、
こうなっている
時の私達の
心は、

とても不安定に
なる。

それは
しょうがない。

大事なのは
その不安定さに
不安になって、

取り乱した
言動をとること
だ。

こういう時こそ
普段の
観察力が
試される。

普段から自分を
あるがままに
見つめ続けて
いれば、

こんな時は
強い。

不安定で
取り乱している
自分自身を

そのまま
見つめ続ける
ことができる。

そして
それさえできれば、
もうあとは
何もいらない。

むしろ
グチャグチャ
している
自分のエネルギーを

その
転調ぶりを

楽しめば
いい。

転調には
それほど時間は
かからない。

転調の後に
訪れる、
新たなリズム、

新たな旋律、

そして
新たな風。

それはとても
新鮮で
気持ちの良い
ものだ。

生まれ変わった
ような
気持ちにもなれる
ので、

新たな人生の
始まりの
面持ちで、

楽しく
進めばいい。

つづく

さらに上から見る自分

山々に
濃い霧が
立ちこめる。

徐々に
何も
見えなくなって
いく。

それを
ただ
茫然と
眺めている。

世界は
閉ざされる。

自分の行く
道も
閉ざされるのか。

また、
彷徨い歩く
ことに
なるのか。

・・・

気がつくと、
あれから
どこも
歩いていないのに、

頂上、
つまり
てっぺんに
立っていた。

ここは
霧の上。

眼下は
すべて、
霧の中。

眼下は
あんなに
暗いのに、

ここは
こんなに
明るい。

なぜ、私は
ここに
立てているのか?

・・・

ふと
気がつけば、

今度は
またもや
霧の中に
いた。

すでに
何も見えない。

暗い樹々、
湿った空気、

重い身体。

もう、
歩くことも
ままならない。

その場に
へたり込む。

もう、
ここまでか・・・。

・・・

と、
次の瞬間、

またもや
頂上にいる自分。

これは
どうしたことか。

途端に
身体が
軽やかになる。

これは
どうしたことか。

・・・

行ったり
来たり。

霧の中に
入ったり、

頂上に
出たり。

何度も何度も
入れ替わる。

遊んで
いるのか?

何かに
惑わされて
いるのか?

それとも
すべて
夢か?

・・・

本当は、
そのような自分を

さらに
遥か天空から
眺め降ろしている
自分が
いる。

行ったり
来たり

自分を。

それを
見ながら、

愚かだな、

などとは
思わない。

むしろ、
感心して
見ている。

ちゃんと
やるべきことを
やっている、
と。

このまま
見守ろう。

彼は、
自分は、

あのままで
いい。

あのまま
やり続ければ、
本来得るべきものを
得られるだろう。

・・・

そんな、
天空の自分を
一瞬で良いので
思い出す。

それだけで、

安心して
我々は
この世界に
埋没できるんだ。

つづく

二点集中?三点集中?

一点集中が
大事だ。

と、
このブログでも
随分と
書かせていただいた。

そうすると
どうしてもその
一点を
見つけようと
するだろう。

もちろん
私もそうだった。

が、
今は「一点」の
在り方が
急激に
変化してきたようだ。

実は、
最初は、
それは
「一点」ではなく、

「二点」だったり
「三点」だったり
する、

ようになって
きたのだ。

つまり
二つの点とか
三つの点を
同時に
攻める。

攻める、
という言い方は
良くないかも
知れないが、

同時に
そこに
最大のエネルギーを
かけるわけだ。

それを
することで、

「二点」とか
「三点」だと思っていた
それらが、

実は、「一点」
だったとわかる。

「一点」に
集約されてくる。

という
現象。

しかしこれは
難易度が
高い。

単純に
二点集中とか
三点集中というのは
エネルギーが
分散してしまう。

それに、
同時に同じくらいの
力をかける
というのは
人間である以上、
どうしても
やりづらい。

もしやれる
としたら、

完全に自分の
直観に委ねる、

という方法
しかない。

つまりだ。

これまで
日々、
徹底的に
自分の真本音に
素直に生き続けてきた
人は、

この二点集中とか
三点集中というのは
やりやすい。

そうでない
人は、
かなり難しい。

というのが
如実に表れる
ようになった、
ということだ。

だから、

やっぱり、

いつもの結論に
なってしまうが、

基本が
大切だ。

真本音で
生きる。

今この瞬間を。

これの
連続。

それ以外に、
ここからの時代を
渡っていく
決定的な術は
ない。

逆に言えば、
これができている
人は、

これまで以上に
堂々と、

力が分散しようが
何だろうが、

自分のやりたい
ことを

やればいい。

つづく

特訓の完了

まるで
バットで球を
打ち込んでいる
ように、

激しい衝撃と
打撃音と
火花が散る。

ノックを
しているのか?

何かの
特訓か?

打ち込むのと
同時に
電撃も走る。

全身が
痺れて
動けなくなる。

それでも
続け、

その中でも
自由に動けるように
何度も何度も
自分を追い込む。

激しい
特訓だ。

この2ヶ月。

ずっと
これを
やり続けた。
一日、24時間。

私は私の
開放度を
どうしても
高めねば
ならなかった。

だから
現実(現象)レベルの
私自身が
立てなくなるほど、

呼吸も
できなくなるほど、

特訓を
続けた。

ホントに
私は
私自身に対しては
容赦がない。

これくらい
人にも
厳しく当たれば
いいのに、

ため息をつく。

これで
死んでしまう
なら、
それまでの
ことよ。

と、
どこかで
開き直っている。

おいおい、
本当に
死んでしまうぞ、

自分にツッコミを
入れる。

しかしそれでも
そんな言葉を
私は無視して、

ただ
淡々と
冷徹に自分を
追い込み続ける。

長い2ヶ月。

いやぁ、
今回はかなり
辛かった。

正直、
もうダメかな
とも思った。

が、
ようやく
やり切った。

これで私は
これまでの
何十倍も

エネルギーを
開放できる。

これまで
できなかった
ことも
できるように
なる。

さぁ、やっと
ここからだ。

つづく

喜びの雨が降る

実在と現象が
あまりに明確に
結びつく、

という
現実が
現れることが
増えた。

世の中
整ってきた
ものだ。

10年前は
こうは
いかなかった。

そして、
私の予想を
超えて、

その結びつきが
見事なくらいに
現実化した時、

必ず
喜びの雨
が降る。

しかも
私が外に出て
歩いているときに

その瞬間を
狙ったかの
ように、

一時的に
激しく降る。

あぁこれは
喜びの雨だな、


わかると、

私はあえて
その雨に
身を晒す。

雨に打たれて
全身を
洗うように
味わう。

私の実在も
嬉し泣きを
しているのが
わかる。

何年かに
一回くらいしか
なかった
この現象が、

今年に入ってから
何回も
起きている。

みんなの顔が
浮かぶ。

みんなが
逞しく
実在を現象化
している
その歩みが。

この雨は
それらの
結晶だ。

つづく

勝手にまとめるな

小さく
まとまるな。

綺麗な円を
描きそうに
なったら、

意図的に
でも

その円を
壊せ。

まだまだ
まとまる
時期ではない。

中途半端で
脆弱な
円であれば、

最初から
ないほうが
ましだ。

そんな小さな
円を
創り出すために
生まれてきた
わけでは
ないだろう。

むしろ、
円を創り出す
ことなど、
忘れるくらいが
いい。

もっと
自由奔放に

無限に
広がっていけ。

自分の器は
自分で
決めるもんじゃ
ない。

未来に
必ずわかる
答えは、

今、
出さなくても
いいんだ。

つづく

一人で行くな

二つの光が、
その間の
中心点を

そのまま
中心とし、

超高速
回転している。

するとそれは
もう、
二つの光
ではなく、

まるで
一つの光の
ように見える。

二つで
一つ。

一つだけど
二つ。

この状態。

これこそが、
進化の
基本形。

宇宙原理
というものが
もしあるとすれば、

その原理の
基本となる
ものだ。

・・・

自分一人で
すべてを
成そう。


すること自体が
そもそも
原理から
外れている。

どんな物事に
対しても、

自分が今、
この件で、

対となる
べき人は
誰か?

を、
真剣に
見つけよう。

共に
一つになる
くらいに
ぐるぐると
回転し続ける、

その相手は
誰だろう?

と。

・・・

もちろん、
相手を
間違えると
大変なことに
なる。

が、しかし、

たった一人で
進むよりは
何倍もいい。

たとえ
上手くいかなく
ても、

それに見合った
気づきは
得られるはず。

正解かどうか

やってみなければ
わからない。

なら、
やろう。

一人で、
ではなく

誰かと
共に。

「誰か」
探しは、

ここからは
これまで以上に
重要だ。

つづく

真の自由を語る

水の落ちる
ツルッツルの
垂直の
岩。

本来は
登れるはずは
ないのに、

私の手足は
その岩に
ピッタリと
吸い付く。

まるで私は
ヤモリ
になったようだ。

昔、
インドを旅した
時に、

安宿では
壁にヤモリが
無数に
くっついていた。

ヤモリと共に
寝起きして
いた。

今の私は
その
ヤモリそのものに
なったようだ。

岩に張り付く
こと
自体が
目的であり
幸せであるかの
ように、

私は
ピッタリと
垂直の岩と
同化している。

・・・

落ちてくる
水は、

時々は
激しい。

私の
あらゆるものを
洗い流して
くれる。

浄化して
くれる。

次第に私は
意識そのものを
手放し、

無の状態
となる。

すると、
私なのか
岩なのか
水なのか
それとも
それ以外の
あらゆる存在
なのか、

よくわからなく
なる。

個である
私と
全体である
世界との

区別が
わからなく
なる。

重力という
存在も
私の中からは
完全に
消える。

・・・

するともう
岩も
必要と
なくなる。

私は自由に
飛び回る
ことができる。

完全なる
自由。

しかし
その状態の
時にはすでに

私は
私という
個ではない。

自由
とは、
個として存在
している場合に
感じるもの。

個ではない
私にとって
自由か否か
などは
どうでもいい
ことだ。

しかしその
どうでもいい
状態こそが、

真の自由。

・・・

気がつけば
私は
地面に
落ちていた。

大地に
仰向けに
寝そべり、

自我を
忘れていた。

個に
戻ると、
私は
言いようのない
窮屈さを
感じた。

しょうがない
な。

ここで
生きるためには
なくては
ならないものだ。

個となり
分離も
できる。

全体と
一つにも
なれる。

それこそ
また
真の自由。

ヤモリじゃ
ない、
私は人間だ!

などと
言っている
うちは、

自由は
手に入らんよ。

つづく

無になれる?

集中力を
高める
ためには、

ダラッとする
力を
高める。

何もせずに
ボーッとする
力を
高める。

これ案外
難しい。

「何もしない」
こと、

できますか?

・・・

先日、
ある社員さんの
コーチングを
させていただいた。

その人は、
心を無にする
ことが
できる、という。

むしろ
それが最も
簡単なこと
だと。

それは
凄いことだ。

心を無に
するには、

まずは
心を
「そのまま」
にすることが
必要だ。

そして
自分のあらゆる
心達を
観察することが
必要だ。

ただ
観察し、
そのまま、
にしておく。

その先に

がある。

「無にしよう」

意図的に考えて
それが
できたとしても、

その多くは、
無になっている
つもり
の状態だ。

その社員さんは
どうやら
本当に
無にできる
らしかった。

自分と
向き合い続けた
結果だ。

そういう人には
湯水のように
直観が
現れる。

・・・

「何もしない」
でおこうと
思っても

ついつい
いろいろ
考えちゃうん
です。


よく言われる。

当たり前だ。

それが
普通。

しかし
それでも
「何もしない」
時間を

毎日
しっかりと
とる。

最初は
10分でも
いい。

毎日の
習慣とする。

現代人は
これができない
人が多い。

「何もしない」
ことは
価値がない、

とか

怠けている、

とか。

とにかく
抵抗感が
あるようだ。

「何もしない」
ことが
できるように
なれば、

「世界と一体化」
することも
できるように
なる。

すると、

「私」
という個を
超えた
発想・直観が
身近になる。

調和性が
格段に
増す。

これは
訓練のつもりで
やった方がいい。

「何もしない」
力を
高める。

スマホとかを
眺めて
いてはならない。

何の
インプットも
せず、

何の
アウトプットも
せず、

本当に
「何もしない」
ことが
できる自分へ。

言葉を
換えれば、

「電源を切る」
ことの
できる自分へ。

それこそが
自然体。

そんな自分を
早く
取り戻そう。

つづく

嵐を前にして

遠くに
嵐が観える。

かなり
局地的な
ものだ。

あの彼方の
場所は今、
大変な状況
だろう。

竜巻のような
ものすら
観える。

あの嵐は
ここまでくるの
だろうか。

いやきっと
くるだろう。

その前に
避難せねば。

一刻も早く
対応せねば。

通常であれば
そのような
迅速な対応は
必須だ。

が、
ちょっと待て。

あの嵐は
なぜ、
あそこで
発生した?

あそこで
突然発生した
のならば、

ここでも
同じことが
次の瞬間にも
起こる可能性は
ある。

すでに
観えている
嵐への対応だけで
本当に
良いのか?

もっとすべき
ことがあるのじゃ
ないか?

そう考えて
わけがわからなく
なる時、
ついつい焦って
次の動きを
とりがちだが、

そこで大切
なのは、

観察

・・・だ。

観察とは、
腰を落ち着けて
じっと
あるがままを
見つめること。

見つめるだけで
なく、
感じること。

あの嵐は
間違いなく
こちらに
着実に近づいて
いる。

怖い。

だか、
どう動けば良いか、
確信が生まれるまでは、

観察、
だ。

観察、とは
対峙する
ことでもある。

嵐に
完全に
意識を向ける。

すると、
かなり近くまで
来たところで、

その嵐は
忽然と
消えてしまった。

実は
これもよく
あること。

結局は
何も動かずに
いたことが
最善の選択
だった。

いや、
違う。

対峙した
からだ。

意識を
真正面から
向け続けた
からだ。

その生き様と
エネルギー。

これが
嵐に
作用した。

今は、

・・・特に
この2ヶ月で、

実在と現象は
また
劇的なくらいに
近づいた。

人によっては
一致した
とも
言えるくらいだ。

その人の
実在(本質)が

現象(目の前の現実)に
ダイレクトに
影響を与える。

そんなことが
日常茶飯事と
なっている。

一年前には
考えられなかった
状態に

今の私達は
入っている。

それをまずは
私達自身が

自覚を
すべきだ。

つづく

過去に苦しんだことが

過去に
捕らわれてきた
ことが

今になって
復活する、

という
経験もある
だろう。

最近、
その傾向の人が
増えている。

自分の成長
と共に、
過去に払拭した
はずのもの。

それらが
また
自分を苦しめる。

また私は
昔と同じことを
しているのか。

同じ過ちや
同じ苦しみを
引き起こして
いるのか。

そう思って
しまうのも
当然だろう。

だがしかし
そうではない。

これは
過去の繰り返し
でも
焼き直しでも
ない。

全く新しい
課題であり、

道を開くための
一点突破への
ヒントだ、


捉えるといい。

その証拠に
そのような
新鮮な気持ちで
それらと
向き合えば、

過去とは全く
異なる
景色や気づきが
得られるだろう。

私達は
進んでいる。

間違いなく。

似た景色も
本質を
しっかり見つめれば

過去とは
根本的に
異なるものだ。

今日ここで
生まれた
感覚で

今に
向かおう。

今の
最大の課題に。

つづく

自分を説得するなよ

本当に
自由に
できてる?


問うてみると、

途端に
空気が揺らいだ。

表情は
変わらず。

動揺を
隠そうとしている
のだが、

やっぱり
こういうのは
隠しきれない。

自分の中で
何度も何度も
自分を
説得し、

ようやくにして
納得
の状態まで
持って来れたのに。

でもそれは
本当は
納得なんかじゃ
ない。

妥協
というやつだ。

妥協の
危ういバランスの
上に
自分の心を
何とか
立たせているだけ。

だから
たった一つの
問い、

本当に
自由に
できている?

だけで
崩れ落ちそうに
なる。

そんなのは
強さでも
何でもない。

大人は
妥協するもの?

いや、
大人は

妥協と納得の
区別を
しっかり
つけられるもの
ではないか。

もう
いいじゃないか。

自分で自分を
説得
し続けるのは。

そのような
人生から
脱け出したら
どうだろう。

妥協せねば
進めない
現実は
もちろんある。

でも
その場合は、
堂々と
妥協することを
自分で
決定するんだ。

そうすれば
それは
妥協では
なくなる。

「最善」
となる。

私は、
妥協なんか
していない。
これは
最善なんだ。

・・・と
自分を
説得するのでは
なく、

残念だが、
ここは
妥協しよう。
堂々と
妥協しよう。

・・・と
完全に
決めること。

それが
できなければ

妥協は
するな。

つづく

目標設定は後だ

後ろから
押される感覚で

思い切って
行動したことが、

思いの外
上手く行って

しかもそれが
広がり続け、

今ではもう
なくてはならない
流れとなった。

最初のあの
後押しは
いったい、
何だったのだろうか?

皆から
後押しを
受けている感覚。

あれがなければ
到底
あの一歩は
出なかった。

あの一歩が
あのタイミングで
出なければ、

間違いなく
私は
ここにいない。

この流れも
起きていない。

人生を変える
一歩。
そしてその
後押し。

しかし、

そう考えると
そういった一歩は
あの時だけでは
ない。

きっと
自分が気づいて
いないだけで、

これまでの
人生で
無数に存在する
はずだ。

とても特別
だけど、
特別には思えない
日常の些細な
振る舞いとしても、

こういった
一歩は
無数に存在する
はずだ。

幸運なのは、
私には
あの
後押しの感覚が
わかったこと。

だから
それ以後は、
その同じ感覚の
得られる方向に
ずっと
人生の舵を
切ってきた気がする。

先日、

ある会社の
社員さんのコーチングを
させていただいた。

その人は
どうしても
目標設定というのが
できないのです、

言われていた。

未来に意識が
向かないのです、
と。

自分の事を
怠惰だと
言われていたが、

初めてお会いして
瞬間的に
わかった。

この人は
間違いなく
今を生きている。

今をとても
丁寧に
生きている、
と。

だから
その人は
後押しの感覚が
よくわかる。

いつも
後押しの方に
自分を
向けている。

こういう人は
下手な
目標設定を
すれば、
淀んでしまう。

その人は
一社員さんだったが、
実質、
その部署を
支えていた。

本人の自覚は
ほとんどない
ままに。

その人の場合は、
未来に意識を向ける
ことで、
その天然の無自覚な力が
なくなって
しまう。

やはり私は
思う。

基本は、
まずは

・・・だ。

今を生きる
ことが
本当にできて、

後押しの
感覚が
わかれば、

初めて
そこから未来が
観えてくる。

目標設定は
そこからだ。

つづく

中心核が点滅し始めたら

これまで
自分の中心核
であると
思っていたものが、

突然に
点滅を始める
ことがある。

消えて
しまいそうだ。

そういった場合、
私達は
極度の恐怖に
見舞われる。

そりゃそうだ。

自分の中心が
消えてしまうの
だから。

でも
安心していい。

中心核は
消えない。
決して。

その、
消えそうに
なっているものは、

これまで自分が
自分の中心核で
あると、
思い込んでいた
もの。

「思い込んでいた」
という表現を
使ってしまうと、
まるで愚かな行為を
していた、という風な
印象になってしまうが、

もちろん
そうではない。

今のこれが
私の中心核だ、

ちゃんと丁寧に
意識をし続ける
ことで初めて、

中心核は
進化し、脱皮する。

もともと私達は
本当の中心核には
なかなか
辿り着けないように
できている。

だから
真剣に「思い込み」
それを
大切にし続ける
という生き方は

人として
とても尊い。

しかしその
尊さが、
ちゃんと今後も
生きるためには、

今、点滅している
その中心核を

キッパリと
手放すことだ。

それができれば
新たな中心核が
突然に
姿を現す。

これまでとは
全く別の場所に。

しかしそれこそが
真の中心核、
に、
一歩近づいた
ということ。

そしてきっと
また
その中心核も
点滅し、消える
時が来る。

その連続
だ。

それを
生きている間、
ずっと真摯に
やり続ける。

これが
私達の
すること。

本来の
生き方だ。

つづく

暖簾に腕押しの人

暖簾に腕押し
という
言葉があるが、

どれだけ
向き合っても
向き合っても

そんな状態の
人は多い。

だからまずは、
ちゃんと
手応えのある人
とこそ、

優先的に
向き合うといい、
のだと
思う。

基本的には。

あくまで
基本的には。

しかし
たまにではあるが、

暖簾に腕押し
のように
感じるのだが、

ちょっと違う
感覚もある、

という人が
いる。

全くもって
嫌になるほど
反応がないのだが、

反応はない
のに、
何かとても深い
ところでの
手応えが
ある、

という
実に不可解な
人。

こういう人は
とてつもなく
面白い。

ひょっとすると
私は
こういう人と
巡り会うために
この仕事を
続けてきたのでは、

思うくらいだ。

暖簾に腕押し
なのに
妙な手応えが
残る人。

そういった人は、
心、ではない
次元の部分で、

つまりそれは
魂の部分で、
と言っても良いが、

言いようのない
焦りと葛藤と
渇望、
がある。

それがあまりにも
深いために
本人が渾身の力で
顕在化しないように
している。

だから
表面的には
暖簾に腕押し。

が、
何かのきっかけで
その
奥にあるものが
一気に噴出する
ことがある。

もしそうなったら
その人は
そこで
根本的に人生を
変える。

生き方を
変える。

生まれ変わる。

本当は
そういう人は
私が想像している
以上に
増えている気が
する。

そんな人達を
発掘したい。

そして
そんな人達に
本当のサポートを
させていただきたい。

つづく

波及は一滴から

たった一つ
だと
思っていたものが、

無数に
広がっていく。

スモール
スタート。

ほんの
一歩のつもりが、

思いもかけぬ
たくさんのものに
波及していく。

そんな
予期せぬ展開は
ある。

というよりも

本当に
物事が展開する
というのは

最も自然な
成り行きと
しては、

それが普通
なのかも
しれない。

だから
初めの一歩、

初めの一滴

こそが
命。

しかもそれは
同じ一歩、
同じ一滴でも

タイミングが
わずかに
ずれるだけで
変わってくる。

だから
なかなか
会心の一歩、
会心の一滴
というのは
難しいかも
しれない。

が、
それこそが
命であると
常日頃、
意識し続ければ、

随分と
チャンスは
広がる。

一歩、
一滴。

私達にできる
最大のことは
これだ。

人間の
すべきこと。

その感性を
高める
日々の自分の
生き方こそ
大切にしよう。

素直に
生きる。

素直な生き方
をする。

淀みのない
今を
過ごす。

この積み重ね
以外に
感性を養う
方法はない。


ここに
おける、

一歩、一滴に
意識を
丁寧に向ける
生き方を
今ここから。

つづく

未来発想のベストタイミング

世界の創世
のような
場面を見たことが
あるかな?

もちろん
想像でもいい。

そのような
イメージが
ふと湧いたり、

夢で
見たり。

自分が意図して
創り出したもの
でなければ、

そのほとんどは
実在だ。

あなたの中に
確固としてある
記憶だ。

私達は
太古からの
記憶を
共有している。

それがふと
浮上することが
ある。

その頻度が
高まっているのが
今の時代の
特徴だ。

それが浮上
したからと言って、
何も特別なこと
ではない。

自分の過去の
出来事を
思い出すのと
何も変わらない。

ただ、
その共有の記憶を
思い出す
ということは、

それだけ自分の
感性が今、
研ぎ澄まされている
ということ。

そして
自分という
小さな個人としての
発想の枠を
少々超えている
可能性もある。

そんな時こそ、
これからの自分の
進み行きを、

未来を、

発想して
みよう。

意識を未来に
向けるのは、

タイミング

が重要だ。

基本、私達は
今、
に意識を
向け続けることが
大事。

今、
にすべてが
込められている
から。

でも、
時折、未来にこそ
全意識を
向けるべき瞬間
というのが
ある。

自分の意識が
自分を
超えやすくなっている
その瞬間。

それこそが
未来発想の
ベストタイミングだ。

だから、
自分の中から
自然に湧き上がる
イメージや想像を、

勝手に
意味がない、

捨てることなかれ。

それは
実在。

人生の
宝物だ。

つづく

人生、真っ暗闇になったら

ここからの
人生の道が、

進み行きが、

真っ暗で
何も
観えなくなって
しまった
としたら、

それは
大チャンスだ。

大きく
生まれ変わる
くらいに
自分が変わろうと
している兆候だ。

その場合は、

その
真っ暗闇に
対峙しよう。

何も
観えない、

という
その空間に
意識を
向け続けよう。

向けたと
しても
もちろん
何もわからないが。

わからない
どころか
さらに
わからなさ度合いが
増すかもしれない。

自分が誰か?

わからなくなる
かも。

ここにいる
こと自体の
実感も
消えていくかも。

それで
いい。

少々怖いかも
しれないが、
それでも
その暗闇に
意識を向けよう。

すると
ふとした瞬間に
何か
「問い」が
浮かんでくる
はずだ。

私達人間は
「問い」
から始まる。

「問い」を
持つことこそ、
人間である
証。

何もなさそう、

場所にも
「問い」だけは
見出す。

これが
人間。

そしてその
「問い」こそが、
ここからの
あなたの
最初の一歩。

その「問い」に
誠心誠意
答えようと
しよう。

答えれば、
さらに次の
「問い」がくる。

これの
繰り返し。

新たな
あなたの
始まり、だ。

つづく

答えはどこにある?

もし
自分の中心が
頭の中にある

という
気がしたら、

今のあなたは
思考で
判断し過ぎだ。

もちろん、
よく考えることは
大事。

考え尽くさねば
得られない
答えはたくさん
あるから。

しかし
思考とは
あなたの補助を
する役割だ。

本当の答えは
そこには
ない。

答えへの
突破口やヒントが
そこには
あるけどね。

あなたの
中心は
そこではない。

あなたの
中心は
あなたの体の
中心と
一致するはずだ。

そこに
本当の答えが
ある。

体の中心に
意識を
向け続けよう。

すると、
いくつかの
「?」
が浮かぶはずだ。

それを
言語化して
「問い」の形に
しよう。

最も
しっくりくる
言葉として。

そしてその「問い」に
ついて
とことん
考えよう。

考え
尽くそう。

すると
ある瞬間に
自動的に
直観が働く。

それが
あなたの中心
からの
答えだ。

私達の
本当の答えは、

私達の
中心にしか
ない。

誰も
教えて
くれない。

自分で
導き出すしか
ないんだ。

つづく

魂は離れてしまうのだよ

そんなに
下の方に
あるのか。

自分の
足元の
遥か下に。

私の
魂は。

真本音の
出所は。

なぜだ?

なぜ
私から
離れた?

そして
なぜ
そんなに
下った?

・・・

魂を
失った私。

いったい
何をすれば
良いのだろう?

魂で
生きることの
できない
その脆弱性が

極度の恐怖を
生む。

ただ
呆然と佇み
ながら、

とりあえず
自己防衛しか
できなくなった
私。

・・・

私の何が
いけなかった?

私の何を
変えなければ
ならない?

どうすれば
私のもとに
帰ってきてくれるのだ?

・・・

その状態で
ずっと
生きた。

何年も
何十年も。

そのうちに
それが
普通となった。

これが
私だ、と
思い込むように
なった。

・・・

そこからの
復活は
難しい。

激しい。

痛い。

辛い。

一旦、
死ぬ気に
ならねば、

自分の魂は
戻ってきて
くれなかった。

だから
言うんだよ。

今のうちに
もっと
ちゃんと
生きようよ。

魂が
離れる前に。

ちゃんと
自分と
向き合おう。

つづく

鏡の前だ

鏡を
見ているんだ。

それは。

自分自身の
鏡だ。

それは。

他人じゃない。

自分とは
別個の
現実でもない。

ただの
自分。

それを
象徴的に
映し出している
だけなんだ。

・・・

鏡が
歪んでいるように
見えるだろう。

それは、
鏡の歪み
ではない。

自分自身の
歪みだ。

自分と別個の
ものなんて
本当は
一つもないんだ。

・・・

だからって
おおらかな
気持ちで
生きなければ
ならない、

ということ
ではない。

利他に生きろ
ということでも
ない。

無理に形だけ
表面だけ
取り繕っても

人は本当には
大きくなれない。

むしろ
小さくなって
いく。

より歪んで
いく。

・・・

もっと
素直になる
ことだ。

醜い自分が
映っているなら
それで
いいじゃないか。

その醜さを
直視しよう。

じっくり
見つめ、
観察しよう。

話は
そこからだ。

つづく

慈しみの雨ならぬ

雪のように
観える、

何かささやかで
柔らかいものが

降っている。

降り注いで
いる。

この
世の中に。

これを
感じとっている
人は今、
どれくらい
いるのかな?

この不安定な
現在の中で。

その
雪のような
ものは、
私には

恵みのように
思える。

慈雨
という言葉が
あるが、

慈雪
とでも言うような。

私はそれを
全身を開いて
浴びる。

浴びても
何の
手応えもない。

ただ
私の身体を
すり抜けるように
して、

それは
降り続ける。

それでも
私は
浴びる。

天を
見上げながら。

そういえば
昔の私は
よく
空を見上げた。

お客様との
重要な仕事の
直前には、
必ず時間をとって
空を見上げた。

青空で
あれば、

その青空と
同化できる
くらいまで。

私は
私を
超えたかった。

でないと
太刀打ちできないと
わかって
いたから。

私が最もよく
わかっていたのは
自分の
小ささ。

無力さ。

弱さ。

そんな私が
立ち向かおうと
している。

「私」である
うちは
それは無理だった。

ただ、
どうしても
自己満足には
なりたくなかったので、

常に私は
その時の「私」では
対処できない方に
向かって
歩き続けた。

今もそれは
続けている。

あと私は
現役を
22年続ける、

決めている。

22年後は
78歳だ。

そこまで
昇り続ける。

だからまだ
未熟の未熟だ。

もっともっと
私は私を
超える。

そういった
生き方に
対して、

まぁまぁまぁ、


その慈雪は
語りかけているようだ。

まぁまぁまぁ、
そう
焦らんと。

昇り続けよう
などと
思わなくても
あんたはずっと
昇り続けている
じゃないか、
生まれてから
ずっと。

・・・そう
慰めてくれて
いる。

まぁまぁまぁ、


声を出して
みる。

私の声なのに
私の声では
ないように、

それは
私の心に
染み込んでいく。

つづく

人生のゴールとは

私達の
根源とも
言うべきものが
ある。

それはそれは
言葉には
ならないもの。

でも
確かに
存在するもの。

それを
感覚的にせよ
しっかりと
感じること。

これが
私自身のこの
14年間の
習慣の一つだ。

最初は
一日の始めと
終わりに
感じるだけ
だったのが、

だんだんと
慣れてくると、

・・・人間、
慣れというのは
凄いな、と思うが、・・・

一日中でも
感じられるように
なった。

今では
当たり前の
ように
24時間、
寝ている時も
感じ続けている。

それで
何が変わるの?


問われても
理屈では上手く
説明できない。

でも、
これを感じ続ける
人生と、
そうでない人生を
比較すれば、

きっと私の
この14年は、

出会える人も
含めて

すべて根本的に
変わってきたのだろう
と思う。

そしてその
根源は私に

ずっと
根源的な問いを
投げ続けてくる。

・・・ような
気がしている。

その問いの
一つ一つを
自分なりに
言語化し、

その問いと
向き合いながら
日々に向かうのが、

私のすること
だった。

もちろん
今も
続いている。

これからも
続く。

これをやり切れば
私の人生の
ゴールなのだと
思う。

つづく

さらに、出るよ

時々、
とてもたくさんの
人達が
踊っている

という
映像が浮かぶ。

とても
たくさん。

皆、それぞれ勝手な
踊りなので、
バラバラだ。

でもなぜか、
全体がとても
調和している。

踊れば
踊るほど
エネルギーは
高まり続ける。

もちろん
皆、
幸せそうだ。

ある意味
これは私自身の
目指すビジョン
なのかな、
とも
思うのだが、

ちょっと
違う気も
する。

むしろ、
日々、大勢の
人達と
向き合い続ける
ことで、

彼らから
伝わってくるもの

それらの
総体が
この映像として
現れている気が
する。

つまり
みんな
これを望んでいる
ということかな?

それぞれが
それぞれらしさを
存分に発揮しながら
自由に活動し、

しかもそれらが
完全に調和する。

そのような
世界。

みんなが
望んでいるのかな?

少なくとも
私は
とても深くそれを
望んでいる。

だからそのために
日々、
活動してきた。

まぁ、という
わけであるから、
やっぱり
私自身のビジョンの
気はするが、

でもやっぱり
ちょっと違う
気もする。

世の中は
変わった。

今も
変わり続けて
いる。

安定だった
はずのものが
どんどん
不安定になり、

一見すると
何も安定して
いないように
見えて、

実は
とてつもない
安定性が
根底から
浮上し始めている。

それを
感じ始めている
人も
増え続けている。

統制される
ことで
調和を図るのでは
なく、

もともと
人間本来としての
自然な
調和がある。

それを
目指す人達。

増えているのでは
ないかな。

今、
ここに
私達はいる。

この時代に
共に
人生を
送っている。

それだけでも
大変な
ご縁だろう。

私は
このご縁を
本当に
大切にしたい。

だから
もっともっと
世の中に
打って出ようと
思っている。

つづく