チームパフォーマンスコーチ

自分を信じるのは難しい

合図を
ずっと
送り続けてるんだ。

ずっと
ずっと。

どれだけ
送っても、
気づいて
くれないんだ。

そっちじゃ
ないよ!
って。

でも、
気づいて
くれない。

そっちに
向かっちゃうんだ。

どうしても。

・・・・・・

綺麗な
光が
導いてくれる。

点々と
光が
連続して
灯り。

その向こう
には、
何がある?

何も今は
見えないかも
しれないが、

本当に
望んでいる
ものが、

世界が、

あるだろ?

・・・・・・

時折、
右上の方から

強い光が
差し込んでくる。

自分の魂を
えぐるように。

痛い。

光なのに、

いや、
光だからこそ、

痛い。

でもここで
痛がるのは
とても
健康だという
ことだ。

・・・・・・

難しく
考え過ぎなんだ。

頭で
判断し過ぎ。

グルグルと
同じ場所で。

だから
訳がわからなく
なる。

考えるよりも
見つめろ。

その先を。

そして
光の痛さを
そのまま

痛い!

と感じ取り、
泣けばいい。

そう、

素直に
泣けばいいんだ。

・・・・・・

合図を
送っているのは

自分自身だと
知ってるだろ?

本当は
最初から。

だからこそ
目を背けて
いたんだろ?

自分なんかに
負けて
たまるか!
と。

人はね、

自分自身に
対してこそ

意地を張る
んだ。

意固地に
なるんだ。

自分との
信頼を創り出す
のが、

実は一番、
難しいんだ。

・・・・・・

自分を
信じて
あげるんだ。

簡単に
できることでは
ないよ。

でも、

まずは、

その意志を
持つところから
だよ。

つづく

ずれるのも大事だ

ずれてるな、
この人とは、


思っても、

そのずれは
どのレベルの
ものだろうか?

という
視点を
大事にする。

根底が
ずれているのか?

表面が
ずれているだけか?

根底の
繋がりが深い
が故に、

表面が
ずれるということは

よくある。

その場合は、
本質的には
ずれている、というより
ずらしている、というのが
近い。

表面をずらす
ことによる
調和。

不調和に見える
調和。

それを
創り出している。

表面のずれ

必要だ。

むしろ
完全にずれが
なくなるのは、
退化・衰退への
始まりだ。

必ずどこかに
ずれを
生じさせ、

そのずれが
次の進化を
生む。

だから、

根底の繋がりが
深い人ほど、

表面のずらし

あえて大きくする
こともある。

だから、

繋がっているはずの
この人なのに、

心配することは
ない。

むしろ、
そのずれを

楽しむくらいが
ちょうどいい。

つづく

この気づきは大きい

天地が
引っくり返る
ような、

激しい感覚

襲われることが
ある。

それも、
コーチングなど
人と向かい合って
いる
その最中に。

グルンッと。

一瞬、
目がまわり、
焦点が定まらなく
なる。

非常に重要な
局面の時ほど、
それが起こる。

それは
何だろう?と
ずっと思っていたが、

やっと
わかった。

それは
「入れ替わり」
だ。

ちょっと説明が
難しいが、

私と
クライアントさんの
振動数の入れ替わり、

が、
一瞬、起こるのだ。

基本、
私達人間は一人ひとり
振動数が異なるので、
それが入れ替わる
ということは、
体はそのままで
魂と心がそっくりそのまま
入れ替わるのに
等しい。

一瞬だけ
だが。

でもこのインパクトは
とてつもないと
思う。

なぜ
そのようなことが
起こるのか?

これが起こることで
どんな影響が
あるのか?

は、
まだこれから
探究せねばならない。

が、
表面的な現象で
言えば、

これが起こった
直後に、
大きな発想の転換や、

チームであれば
話し合いの流れの
転換が
起こりやすくなる。

後で振り返って、
なぜあの時
あのような展開に
なったのだろう?

不思議に思う時は、
大抵、
これが起きている。

で、
今回のこの
気づきは、

私にとっては
とてもメリットが
大きい。

これも説明は
難しいが、

あぁそうか、
そんなことか。
振動数を
入れ替えるだけの
ことだったのか!

・・・と、
言葉で表現すれば
このようなセリフの
感嘆符が、
私の中で
浮かび上がっている。

私のコーチングは
また変化しそうだ。

人のサポート
というのは、
あまりに深い。

人、という存在
自体が
深いから、
当然か。

つづく

軸を見直そう

軸を
洗う。

自分の軸に
いろんな
余分なものが
くっついている。

いつの
間にか。

そういう
もんだ。

だから
常日頃から
チェックが
必要なのだが、

それとは
別に、

ある節目の
ような
タイミングで

軸を
ゼロから
原点から
発想し直してみる
といいよ。

それが
本当の軸で
あるならば、

ゼロ発想を
しても、
やはり同じところに
戻ってくる。

しかし
ゼロ発想する
ことで、
さらに深堀り
できたり、
幅が広がる
こともある。

そして何より、
ゼロ発想
することで、

ずっと大事に
してきたものなのに、

ここからは
もう
要らないな、

と自然に思うことも
出てくる。

そうなれば
もう
それは、余分なもの。

自分の軸
からは
剥がしてしまえば
いい。

軸は
進化する。

進化するのが
軸だ。

大本は
同じだが、
進化は
続ける。

それが
私達人間の
軸。

軸を
固定化
させないことだね。

つづく

自由に生きようとする人の言葉

自由に生きよう、
としている人が
いる。

しかしその人は、
自由の重みを
よく知っている。

そこにかかる
責任も。

不自由の方が
楽だ、
と考える人は
多い。

ある程度の
自由、

というのを
求める人も
多い。

だが、
この人は、

完全なる
自由


求めている。

人生は
長くなくても
いい。

名声も
要らない。

何も
残さなくていい。

自分の痕跡
など
なくていい。

人知れず
いたい。
注目すら
浴びたくない。

本当は
気配すら
漂わせたくない。

・・・変わった
人だ。

じゃあ、
完全なる自由
になれたら、

何をしたい?

問うと、

目をキラキラ
させながら
答えるのだ。

人を
守りたい。

人を
支えたい。

一歩を
踏み出せない人の
後押しをしたい。

・・・と。

私は
影にいたい。

日の目を
見たくない。

でも、
たくさんの人に
光が当たって
ほしい。

その人らしく
なってほしい。

そのために
私は
働き続けたい。

で、
ひっそりと
猫のように
誰にも知られずに
死んでいきたい。

・・・ある
企業の
幹部さんの話だ。

当然、いつも
目立つ場所には
いるのだけど、

本当は
こんなことを
願っているんだな。

実績も能力も
あり、
ビジネスの最前線に
いる人の
本当の願い。

でもきっと
この人は
願いを実現するのだろう。

しかも
この10年以内に。

彼には
完全な自由を
感じるから。

つづく

混濁した情報の受け取り方

次々と
入ってくる
情報。

私は、一旦、
その全てを
そのまま
受け止める。

自分に
インプットする。

その後、
セルフコーチング
により、

不必要な
情報や
違和感のある
情報を

自分の中から
削除する。

しかし
不必要な情報は
本当に多い。

それは
最初からわかって
いるが、

それでも
一旦はしっかり
インプットする。

インプットした
上での
削除、

というプロセスに
意味がある。

このプロセスが
あるからこそ、

生きている
情報の意味が
より深まる。

考察が
深まる。

情報の
混濁。

何がどのように、
そして、
なぜ、

そのように
混濁しているか?

理解できる。

そうすると、
次に自分が
どのように
情報を発信すれば
よいか、が
明確になる。

混濁している
からこそ、
必要な発信
の仕方がある。

一つ一つの
言葉に
気をつけ、

同じ意味でも
言い回しを
丁寧に
選択する。

情報が
あり過ぎる
というのは
生きづらい。

選択肢が
あり過ぎる
というのは
生きづらい。

しかし私達は
その中で
生きていかねば
ならない。

受け入れ
削除し
考察する。

面倒だが、
丁寧に
続けていこう。

つづく

お遊びは終わりだ

一本道に
見えていた
ものが、

まるで
無限を思わせる
数の

星に
なった。

分離
したのか?

いや、
すべては
一つだ。

でも、
星々に
なっちまった。

今はただ、
呆然と、

その夜空を
見上げる
のみ。

・・・・・・

背後から
忽然と
声をかけられる。

誰?

と、
振り向くと、

そこには
私、
がいた。

あ、
私、だ。

すぐに
納得がいった。

でも、
私が目の前に
いるということは、

この私は
誰だ?

この私は
本当は
実体のない
ただの幻か?

・・・と、
わかってしまった
瞬間に、

この私は
消えた。

・・・・・・

私は、
幻の中に
埋没していた
ようだ。

どれくらいの
期間?

何年?

いや、
何十年?

いや、
何百年?

何千年?

何万年?

もっと、か・・・?

・・・・・・

あの星々は
すべて
経験したな、


わかった。

果てしのない
旅路だな、
と。

そして、
今、がある。

ここから
見上げる
私、がいる。

なるほど、

すべては
一つ。

星々に見える
彼らは、

ファミリー
でもある。

なるほど、

すべては
一つ。

私はさっきから
ずっと、

たった一つの
道のみを
見つめている。

・・・・・・

幻の私は、
それはもう、

愛おしいよ。

戻ろうと
思えば、

またすぐにでも
戻れるよ。

でも、
それを楽しむ
だけの
時間はなくなって
しまった。

もう、
お遊びは
終わりだな。

つづく

もう激流にいるんだ

時折、
川に滝が
あるように、

一気に
ステージを
変える
瞬間がある。

ずっと
緩やかだった
のに、

忽然と、
水が落ちる。
滝壺に。

そして
滝の後は、
激流だ。

あの
平穏な日々は
どこに行った?

もう
戻らないのか?

と、
滝の前の状態を
思い描くが、

無駄だ。

もう、
変わったんだ。

というよりも
もともと
川はそのように
できている。

最初から
最後まで
平穏のままでは

海には
辿り着けない。

そこに
滝がある。

それは
最初から
そこにある。

予定通り、
ということだ。

平穏な時は
平穏でいれば
いい。

でも、
激流になっても

平穏でいたい

とは
思うなかれ。

ますます
不安定になる。

だって、
ここは、
激流なのだから。

もう、
現実は
変わったんだ。

それを
受け入れなければ、
流れて
行けないよ。

幸い、

川の流れは
上流から下流へと
ちゃんと
流れるように
なった。

昔は
それすらも
おかしかったんだ。

昔に比べれば
健康的に
なったよ。

川の流れは
ちゃんと
海に向かっている。

だから私達は、
流れに
乗ればいい。

平穏な時は
平穏に、

激流に入れば
それ相応の
生き方をする。

予定通り。

最も辛いのは
流れから
降りてしまうこと。

これはもう
生きられなく
なる。

何があっても
流れには
乗っていよう。

激流の
流れ方は
自分自身が一番、
よくわかっている。

それを
思い出すんだ。

どのような
流れであっても

海に向かって
いるのなら、

それは
健康的だ。

私達は、

泣こうが
喚こうが

流れに
乗り続けていれば
いい。

自分の生き方
流れ方を
思い出すんだ。

つづく

ダラダラすると

乱れることが
嫌いで、
安定ばかりを
求める気持ちは
わかるよ。

よく
わかる。
私にだって当然、
その気持ちは
あるさ。

人間
だからね。

でも、
安定を求めれば
不安定になる、
という
法則もしっかり
実在するんだよ、
この世界では。

止まることが
安定だと
思ってるだろ?

止まるのは
イコール、崩壊なんだよ。

自転車と
同じで、

前に進み続ける
ことでしか、
安定できない。

それが
人、というものさ。

しかも
人、って
わがままなんだ。

自分の本当に
望むスピードに
乗らなければ、

真の安定感は
得られないんだ。

スピードが
速過ぎても
遅過ぎても

不安定を
感じてしまうんだ。

で、
大抵の人が、

遅過ぎるん
だよ。

遅過ぎるから
常に
不安になるんだよ。

もっと、
スピードを
あげてごらんよ。

迷う時間を
もっと
少なくして、

決めたら
すぐに
やってごらんよ。

間違ってるか
どうか?を
止まったまま
考えるのではなく、

動きながら、
検証すれば
いいんだ。

で、
間違っていたら
直す。

正しい、と
思えたら、
すぐに次に
向かう。

その連続。

その
スピード感が

「ちょうどいい!」

「これが私の
スピードだ!」


感覚的に
満足できれば、

そこで
真の安定感を
得られるんだ。

だから、

ダラダラ
するな。

ダラダラ
すればするほど、

不安に
なるよ。

休めないの
だよ。

つづく

我欲の作品にするの?

過去と未来が
うねりながら

混ざり合って
いる。

過去なのか
未来なのか

よく
わからなく
なる。

あるのは
ただ、

思い出す
感覚

のみ。

私は、
思い出すことを
そのままに

その
事実のままに

「ここ」で
実践する。

思い出さない
ことは
実践しない。

未来を創る
という
印象も感覚も
そこには
ない。

ただ、
事実通りに

実在通りに

そのまま
素直に。

それだけ
だ。

それは
デジャヴに
近いものかも
しれないが、

デジャヴ
よりももっと
自然だ。

もっと
当たり前だ。

かといって
道は
見えない。

予測も
できない。

そんなことは
関係ない。

全く別の
ところでの
話だ。

ゆっくり
混ざり合い、

時折

凄いスピード

撹拌される。

まるで一つの
料理を
作っている
みたいに。

人生とは
そういうもの
かもしれない。

料理、
というよりも
作品、
かな。

どのような
作品を
作れば良いかは、
もう
よくわかっている。

それは
私だけではない。
皆、
同じだ。

よ〜く
わかっている。

だから
思い出せる。

今、は
全作品の中の
一点。

この一点を
どこにどう
置くか?

もともと
決めていた作品を
そのまま
素直に現せば
いい。

無理に
奇抜に
変えようと
するな。

それを
我欲と言うんだ。

我欲は
もちろん大事。

でも、
我欲だけでは
結局は
良い作品にならない。

自分が
後悔するだけ。

決めた作品を
「ここ」で
ちゃんと作る。

それができる
からこそ、

次の作品に
移れるんだ。

つづく

お節介野郎だ

本当は
この世界には
一つとして
「止まっている」
ものはない。

全ての存在が
「振動」
をしている。

そして各々が
独特の
波長を
醸し出している。

一つの存在が
失われる
ということは、

その「波長」が
なくなる、ということ。

「波長」は
影響が大きい。

目に見えないから
多くの人が
自覚していない
だけで。

一つの波が
消えるのは
影響が大きいんだ。

私からみれば、
これは決して
なくなってはならない
波(波長)だ!

思うものは
たくさんある。

しかしそれらが
平気で
抹消されて
しまう。

今の世の中は
そんな世の中
なんだ。

本当は
存在し続け
なければならない
ものが、

消去されて
しまう。

恐ろしい
世の中、
恐ろしい
時代だ。

会社や組織でも
そう。

この会社からは
決して
失われてはならない
波(波長)が
失われようと
している、

という現実が
どこの会社でも
あった。

私の役割は
その波(波長)を
なんとか、
その役割を終える
まで、
生かし続けること。

そのために
必死のサポートや、

最近では
ヘルプを

する。

ここは、
求められなくても
やる。

やってしまう。

だって、
そうしなきゃ
道が完全に
潰えるから。

そういった
逼迫した会社は
実際、多い。

まぁそれは
世の中全体が
逼迫している
反映でも
あるのだけど。

さらにこれは
一人の個人
についても
同じことが言える。

その人の
中から
決して消えてしまっては
ならない波長が
ある。

のに、
本人が
消そうとするんだ。

お節介だが、
そうしたことを
私は
渾身の力で
止めようとする。

お節介だね。

でも、
見ていられんのだよ。

消してはならない
ものを
簡単に消去し、

どうでもいいものに
執着し続ける。

まずは
一人ひとりが
ここから脱却せねば、

世の中は
変わらんのだろうな。

最近は、
お節介野郎でいいかな、

思ってるよ。

つづく

最後まで見届ける

とても
重要かつ
有効な
刺激を入れることが
できた後は、

私はじっと
観察
のみをする。

その刺激が
何に(誰に)
どのような影響を
及ぼし、
さらにその後、
どう展開するのか?

そう簡単には
次の刺激は
入れない。

刺激による
波が
スーッと広がり尽くし、
消えてしまうまで、
じっと
ただ、観察のみを
する。

その方が
楽しいし、

その方が
調和しやすいから。

以前は、
ここを待てずに
すぐに次の
刺激を入れていた。

それが
余分だったな、

今となっては
わかる。

余分なことを
一度すれば、
その後もまた
新たに余分なことを
しなければ
ならなくなる。

余分に余分を
積み上げるような
進み方となる。

それで私は
疲れてしまって
いた。

今は、
そういうところから
自分を
解放してあげて
いる。

たった一つの
小石を、
池にポチャンと
投げ入れる。

投げ入れる
場所と
タイミングさえ
きちんとすれば、

たとえ小石
でも、
そこで生まれる
波は、
ずっとずっと
広がり続ける。

下手をすれば
その「世界」の
岸(端っこ)まで
行き着き、
さらに波が
反射されて戻って
くることもある。

反射した波は
まるで全くの
別物に思えることが
多いが、

いやいや
それも
もとは私が
発したもの。

・・・と、
よく観ていれば
わかる。

自分が発した
波は
最後まで
きちんと
見届ける。

そうした上で
本当に必要な
次の波を
起こす。

最上だと思える
タイミングで。

最上だと思える
強さで。

だから私は
じっとしている
ことが多い。

ほとんど
「待っている」
イメージだ。

でも私にとっては
それが最も
楽しいことなんだ。

つづく

それは偶然だよ

過去から
今ここ、へと

繋がり
続けている
線。

それは
振り返れば、
細い細い
糸のような線。

こんなに
細いところを
たどってきたのか、

びっくりする。

数えきれない
選択肢を
経て
ここに来ている
のだから、
当然と言えば
当然だが。

日常における
ほんの些細な
選択を
変えただけで、

もう、
今ここには
いないかも
しれないのだ。

これを
偶然、というのか、
それとも
必然、というのか。

もちろん
本質は、必然
なのだが、

しかし私達は、
偶然
というのも
楽しみたいよね。

全てが必然、

わかりながらも。

いや、
わかっている
からこそ、

偶然

を楽しめる
のかもしれない。

「偶然、偶然!」


心の中で
叫ぶ。

「ウヒョー、
こんな偶然が
あるのか!」


感嘆する。

最近は特に、
私は
そのような
楽しみ方を
している。

顕在意識の
レベルでは、
未来は
さっぱりわからない。

予想外、
想定外の
ことばかり起こる。

それを
楽しむ。

この後、
どうなるか?

実在が
わかれば
わかるほど、
自然に
見通してしまう
ところはある。

だからこそ
私は
そこのスイッチを
意図的に
オフにして、

何も気づいて
いないフリを

自分自身に
対して

行なう。

そして
偶然
を楽しむ。

この方が
私の場合、
人生が
より充実して
感じられるんだ。

つづく

目を離すな

ほんの小さな
状態
だったのに

ほんの
わずか

よそを
見ている隙に、

一気に
嘘みたいに
大きく
広がる。

景色が
まるっきり
変わってしまう。

ええっ?
これが、あれ?

いつの間に?

と。

だから
肝心なところで
目を離しては
ならない。

自分が今、
本当は
どこにこそ、

目を
向け続けるか?

意識を
向け続けるか?

それを
丁寧に決めて、

決めたら
決して
目を離しては
いけない。

いろんな
ところに
同時並行的に
目を配って

なんてことは
もう
できないんだよ。

時代は
高度に
なり過ぎた。

我々の
顕在意識はもう
それに
ついていけない。

だからこそ、

しっかりと
決める。

どこに
100%の意識を
向けるか?

いつまで
そこに
意識を向けるか?

そして
その次は
何にこそ
意識を向ける
べきか?

すべて
期限付き。

期限が
来たら、

つまりは
最善の
タイミングが来たら、

次の対象に
向かうんだ。

忙しいよ。

次々に
やらねば
ならないよ。

中途半端
では
何も
進まないよ。

一つ一つ
100%で
行くんだよ。

つづく

今日、壊すもの

亀裂が
増えたな。

またこの
1ヶ月
ほどで。

良いこと
だな。

これで
多くのものが
壊れていくよ。

良いこと
だな。

本来、
壊れるべきもの
たちが

なんだかんだ
ごまかし
ごまかし
で、

残り過ぎて
いるんだ。

残って
いるから、
次の重要な
芽が
生まれない。

地中で
待機したままだ。

早く
次々に
新たな芽を
生み出さねば、

間に合わないよ。

だから
本当は
どんどん
壊すべき。

意図的に
でも。

時代は
激しいよ。

壊すスピード
で、
今後は決まる。

生き延びる
ことができるか
どうか?に

直結するんだ。

時代は
激しいよ。

今日、
壊すべきことを
明日に
延ばすことは

もう
やめよう。

つづく

小さな光でも

光が小さい
からと言って、

侮っては
ならないよ。

今は
暗くとも、

思いのほか、
その光は

深い

かも
しれないのだ。

今、目に映る
その
表面的な印象
だけで、

優先順位を
決めては
ならないよ。

大事なのは
タイミングだ。

おー、
このタイミングで
これが
来るか!

このタイミングで
これが
起こるか!

と、
ある種の
絶妙なタイミングで
目の前に
現れるものは、

大概、

深い光を
湛えている。

だから、

小さなことだ、

と、
勝手に解釈して
流してしまったり、

無視すること
なかれ。

明るさよりも
もっと
重要なものが
ある。

明るさは
育てれば
いい。

深さは、
なかなか
育てられないんだ。

つづく

もっと人のせいにしろ

沈もうと
している。

沈む必要など
ないのに。

なぜ
そんなにも
自分のせいに
する?

あなただけの
原因では
ないはずだ。

もちろん、

全ては
自分事。

自分が
引き起こしている、

という見方、
捉え方は
大切だ。

当事者意識、
大切だ。

それは
自律への
基本。

が、
それができる人で
あればあるほど、

もっと
客観的に、

離れたところ
から、

物事の
本質的な原因を
見つめるべきだ。

本当に
自分だけが
悪いのか?

本当は、
○○さんにこそ
原因が
あるのでは?

○○さんの
あの考え方が、

行動が、

あの振る舞いが、

あのやり方が、

元凶となって
いるのでは
ないか?

このように
客観的に
観たり、

仮説を
立てたり、

それを
検証したり、

するのは
責任回避
ではない。

むしろ、
誰よりも
あるがままに
物事を
捉えるからこそ、

責任を
果たせる。

だから、
当事者意識を
しっかり
持っている人ほど、

私はよく
アドバイスする。

もっとしっかり
人のせいに
しなさい、と。

全ての原因を
自分のせいにして、
それで終わり、
というようには
決してしないように、
と。

「私が原因」
・・・それだけでは、
物事は
何も進展しないんだよ。

つづく

突破口への問い

たった一つ
しかない
突破口のような

重要ポイントを
くぐり抜ける
ために、

たった一つ
の問いを
明確にする。

問い、とは
答え、と
セットで
存在するので、

問いが
わかれば
自動的に
答えも
手に入る。

今、
目の前にある
たった一つの
問いとは、

・・・

あえて
最も逆風だと
思う方向に
進むとしたら、

そこには
何がある?

そして、
あなたには
何が必要?

・・・

たった一つ
と言いながら、
二つになったが、笑

硬いことは
言わず、
この問いは
重要だ。

今の私達に
とって。

つづく

待っている人がいる

仲間が
ほしいだろ?

本当の
仲間が。

そう願うなら
まずは
自分がしっかり
生きることだ。

自分の
本当の願いと
今を
結びつける
ことだ。

願いが
はっきり
わからなくとも
いい。

わからなく
ても
今ここの一歩は
何となく
わかるはずだ。

まずは、
余分なことは
やめよう。

じっと
落ち着いて
今ここに
存在し、

100%の気持ちで
やろう!
と思うことのみ
やろう。

それ以外は
やらない。

何も
出てこないなら
何も
やらない。

それくらいの
気持ちで
今を生きる。

すると
今ここ
における
感性が
開き始める。

この世界を
感じ取る
感性が
開き始める。

すると、
気持ち悪い
ことが
増える。

そうしたら、
気持ち悪い
ことは
もう決して
やらない。

自分が
心のみでなく
全身で、

全身の
細胞が

悦ぶような
ことのみを
選択するように
しよう。

これを
続ければ、
その先に必ず、

出会い

がくる。

仲間との
出会いだ。

共に
同じものを
目指し、

共に
成長する

仲間達。

思っている
以上に
たくさんいるよ。

でもまずは
一人目
からだ。

あなたを
待っている
人がいる。

だから
ちゃんと
今日を
生きよう。

つづく

日々の調和は

これまで
自分の世界だと
信じていた
ものが、

急に
ひん曲がって
歪んで
消えようとしている。

なんだ
これは?

私がいたのは
単なる
蜃気楼の中
だったのか?

そう
わかった時の
ショックたるや・・・。

当然で
あるが、

何を信じれば
良いものか?
まったく
わからなくなった。

足元の
地面が
急になくなってしまった
感覚。

立つことも
座ることも
できない、
極度に不安な
浮遊感。

慌てて
地面を探した。

安定の
場所を。

しかし
そんなものは
始めから
なかったのだ。

単なる
思い込みのみで
自分で自分の
地面を設定していた。

さぁこの
事実を
受け入れることが
できるかどうか?

もう、ここに
かかっている。

空中に
浮遊しながらも

頼りになるのは
自分の意志
のみだ。

さぁ、
どう生きる?

ここから。

どう進む?

・・・・・・

世界の終焉
というのは
あるんだ。

物理的な
意味ではなく、

内面的な
意味でね。

本当はすでに
崩壊が
始まっているのに、

それを
あたかも
何も起きていない
かのように
誤魔化し続ける
人は
残念ながら多い。

でも、
違うだろ?

これまで
信じていたものは
とっくの昔に
崩壊を
始めていて、

日々、
崩れ続けている。

まだしばらく
大丈夫だ、
などと
根拠のない思い込みに
すがっていては
ならない。

もっと
しっかり
生きるんだ。

今日、
自分が
何をすれば良いか?

自分自身が
よくわかっている。

決めている。

決めている
ことを
その通りに
実行すること。

怖くとも。

内面的世界の
崩壊は、
物理的世界の
崩壊よりも
数十倍も
速いし、激しい。

しっかり
立ち向かおう。

今は
そういう
時代だ。

・・・・・・

世界は
自分が創る。

自分の世界の
創始者は
自分自身だ。

本当は
いかようにも
自由に
創世できる。

しかし
そうわかるまでは
時間がかかる。

まずは
今日できることを
今日やろう。

それをすれば、
明日のことは
明日、ちゃんと
わかる。

日々の
自律。

日々の
調和。

自分しだいだ。

つづく

信じるしかあるまい

広く広く
無限に
広がっているような
大地の
真ん中にいる。

どこにも
指針はない。

自分で全て
決めねば
ならない。

この不安。

不安を
消す必要は
ない。

むしろ
不安こそ
宝だ。

不安が
あるからこそ
一歩一歩が
着実になる。

勢いで
進んでは
ならない世界だ。

一歩
進んでは
しっかり
その影響を
確かめ、確かめ。

実行と
検証。

これが
これまで以上に
必要だ。

未知の世界。

未知の領域。

ここは
これまで
体験したことのない
世界。

そこに今、
私達はいる。

実行するなら
自分が
納得する
最大の選択を。

堂々と。

ここで
謙虚さは
要らない。

胸を張って
堂々と。

そして
一歩進めば、

その度に
現実を
よく観察しよう。

この一歩が
どう、
反映されるか?

どう
跳ね返って
くるか?

どう
響き渡って
いくか?

それらを
事実のみを
よくよく
見つめよう。

そして
止まることなく
次の一歩を。

私達に
できるのは
これしかない。

正しい答えは
過去の経験からは
いっさい
導かれない。

頼れるのは
自分の
判断、決断のみ。

自分の一歩を
信じよう。

信じるとは
意志だ。

つづく

気がつけば先頭に

ずっと後ろから
それが
まっすぐに
飛び続けるのを
追いかけてきた。

そいつの
背中を
見つめながら。

ただ
ついていくのが
精一杯だった。

置いていかれ
ないように。

それだけを
いつも
心に抱いていた。

本当に
必死だった。

が、

ふと
気がつくと
自分の前には
何もなくなっていた。

いつの間にか
そいつは
自分の後方に
いた。

追い越して
しまったのだ。
知らず知らずに。

今度は
そいつが
必死に
ついてくる様子だ。

これは一体
どうしたこと
だろう?

これから
自分は
どうすれば
良いのか?

どこを
目指せば
良いのか?

先頭。

それは
自由。

しかし
誰も
導いてくれない。

どこに
向かうか?

どこを
目指すか?

自由だからこそ
訳が
わからない。

確信が消え、
迷いのみが
心を覆うが、

いやしかし、
違うぞ。

ここからだ。

本当の
確信に
従って進むのは。

これまで
先導してくれて
いた、
そいつに

心からの
感謝を。

しかしここからは
自分で行く。

自律だ。

怖い。

が、
行く。

・・・こんな人が
今、
増えている。

もう、
これまでと
同じバターンで
生きていては
いけないよ。

つづく

変わってもいいんだ

一つの場所で
じっと
していたかと
思うと、

瞬時に
移動する。

凄まじい
速さなので
目には
留まらない。

気がつけば
そこに
残像のみが
残っている。

実体は
ない。

どこに行った?

どこに消えた?

遥か彼方
遠くへ、
それは去って
行った。

なのに
そのことに気づかず、
残像を
本物だと
思い込み、

その残像を
大切にし続ける。

だから
途中で
訳がわからなく
なる。

自分が
わからなくなる。

私達人間が
よく
陥ることの
一つ。

「意志」
の話だ。

「志」
の話でもある。

意志も
志も
一つの場所には
留まらない。

本物の意志や
志は
必ず
進化・深化する。

それが激しい
場合は、
一気に遠くまで
行ってしまう。

そうしたら
自分は
変われば
いいんだ。

表面的には
変わった、
ということに
なるけれど、

本質は
変わっていない。

むしろ、
ずっと同じ場所に
居続けることこそ
本質を変えてしまう
最大の行為だ。

私達は
変わっていく。

意志も志も
変わっていく。

それでいい。

それがいい。

本質さえ
大切にしている
のなら。

もっと
自由で
いいんだよ。

つづく

背中から抜けた

コーチングや
面談をしていて、

目の前の
クライアントさんから
突然、

何か、が

フッと
抜けることが
ある。

よく見ていると、
実際に
何か透明なものが
クライアントさんの
背中辺りから
抜け出していくのだ。

そして
一瞬にして
クライアントさんの
表情から
険しさが消える。

全身に
まとわりついて
いた
重い空気が、

消えて
しまう。

部屋全体の
空気も
完全に入れ替わった
感じだ。

可視化できる
くらいの
ものだから、

相当に重い
何か、だろう。

きっと
クライアントさんの
人生で
ずっと
まとわりついて
いたもの。

本当は
余分なもので、
本当は
必要のないもの。
なのにずっと
持ち続けていたもの。

私達人間には
多かれ少なかれ
こういうものが
必ず、ある。

もっとスッキリ
できるといい。

スッキリする
だけで、
これまで
出せなかった答えが
簡単に
浮上する。

皆、
答えは
持っている。

しかし
その浮上を
阻害するものが
ある。

まずはそれを
取り去ること。

これこそ、
大袈裟でなく
人類全体の
最重要テーマ
な気がするよ。

つづく

詩の面白さ

最近、
というか、
ここ数年のことであるが、

「詩」
に興味を持っている。

自分が書く
というよりも、
読む、ことに。

詩人と呼ばれる
人達は
非常にたくさん
いらっしゃるので、
私はその一部しか
存じ上げていないが、

私が出会った
詩人の詩を読むと、

詩というのは
奥が深いなぁ、と
思う。

普通に話せば
何十、何百という
言葉を重ねるところを、

たった一言

で、
表そうとする。

一つ一つの
言葉の選び方が
尋常ではない。

とはいえ、
全ての詩人が
そういうわけでは
ない。

詩には、
書いている人の
真本音度合いが
そのまま
反映される。

そして
面白いことに、

ある一定以上に高い
真本音度合いの人の
書く詩は、

それを読むと
一つ一つ
一行一行の
文字の向こうから

実在が
浮かび上がって
くるのだ。

私の場合は
イメージや映像として
それが
浮かび上がる
ので、

そこに
書かれている
言葉と、
そこから浮かび上がる
実在のイメージを

その両方を

同時に
味わっている。

これがまた
実に楽しい。

だから、
詩に書かれている
言葉の意味が
全くわからなくとも、

実在のイメージは
浮かび上がるので、

それは実に
シンプルなものが
多く、

あーなるほど
そういうことか!

スッキリもする。

恐らくその
詩人の方達は、

実在を
感じながら
それを彼らなりの
言葉に
表しているのだろう。

小説とか
散文とかでは
こうはいかない。

詩の特徴
だと思う。

言葉というのは
実に
面白いものだね。

つづく

砂粒の一つ

海岸に
立って、

膝まで
海に浸かりながら、

大海原を
眺めながら、

決めたことが
あるんだ。

永遠の中の
今。

今ここに
私がいることは

もし私が
死んでしまえば、

誰も知らない
ことになる。

私の記憶を
持つ人は
いるかもしれないが、

その人達も
人生を終えれば、
いつかは
私の記憶を持つ
人は誰も
いなくなる。

すると、
私がこの世に
存在したことを
知る人は
いつかは
いなくなる。

じゃあ、
長い目で見たときに
私という人間は
存在したことに
なるのか?

存在したか
どうかも
わからない存在。

小さな
存在。

そう考えた
時に、
きっと以前の私なら
そこに
虚しさを感じた
だろう。

もしくは、
私がいなくなっても
何か
残るものを
私は残したい、

決めただろう。

が、
今は違う。

存在したか
どうかも
わからない
小さな存在。

もし私が
その一つと
なれるなら、

私はそこに
それ自体に
無常の悦びを
感じる。

理由は
わからない。

理屈では
なく。

この海岸の
砂粒の一つの
ような。

いてもいなくても
一見、同じように
見える存在。

私はそんな
砂粒で
ありたい。

砂粒の一つとして
自分にできる
最大のことを
したい。

何かが残れば
それでいいし、
残らなくても
それでいい。

ただ、
ここに存在している
ということを、
私は知っている。

私はそんな
私という存在を
ただ、見届けたい。

やること
やろう。

大海原に
向かって、
ただ
そう決めたんだ。

つづく

日帰り出張の日

私の場合、
日帰りで遠くに
出張に行くことが
多い。

まだ
日が昇る前に
家を出て、
終電で帰ってくる、
というような。

そんな日の
朝は
実に清々しい。

これから
だんだん寒くなるが、
キンと冷えた
あの空気感が
何とも言えず、

心身ともに
洗われるようだ。

私はあえて
新幹線の
出発時間の
かなり前に
駅に着くように
している。

電車を待つ
その時間も
好きだし、

他のホームの
電車を眺めて
過ごすのも
好きだ。

要するに
電車好きだが、
それらも含めた
「空間」や
その「場」を

私は
楽しんでいる。

新幹線が
東京駅を出る
頃に、
ちょうど陽が
昇り始めることも
ある。

外の世界も
車内も
濃いオレンジに
染まる。

今日お会いする
クライアントさん達
のことに
想いを馳せながら、

今日はどんな
一日になるだろうか?

これから起こる
現実の数々に
ワクワクする。

そして一日が
終わり、
終電近くの
新幹線で
帰ってくるのだが、

その時は
その時で、
今日の一日を
噛み締めながら、

言いようのない
幸福感に
包まれる。

電車で始まり、
電車で終わる
という
一日が、
どうにも好きで
たまらない。

一日がまるで
一つの作品の
ように、
感じられるんだ。

つづく

場を味わう

結構、私は
雑踏
というのが
好きで、

ガヤガヤ
している空間で、
一人、仕事をすることが
多い。

カフェとか。

もちろん
場所にもよるが、

人々の気配や
ある種の
騒がしさがあると、

逆によく
集中できる。

かといって
もちろん
静かな場所も
好きで、

山とか自然とか、
誰もいない、

人の気配が
何もない、

自分しか
いない、

という場で
静かに落ち着いて
仕事をすることも
ある。

いずれに
しても、

「場」を楽しむ

ということを
私は
常に一日中
行なっている
かもしれない。

場を楽しみ
ながら生きるのは
人生を
数倍に
充実したものに
してくれる。

自分の
内側に意識を
向けて、
いろんな想像を
することも
好きだが、

その場全体に
意識を向け、

つまりは
自分の外側に
意識を広げ、

場と、
場の中の自分と、
両方を
感じながら
ここにいる、
というのが
何とも言えない
独特の味わいが
ある。

電車が好きなのは
こういうところにも
理由があるかも。

電車という
あの独特の
空間、場。

私はその
空間そのものと
一つになり、
そこにいる。

しかもその場は
移動している。

この
「移動」がまた
楽しい。

歩いていても
良いのだが、

「移動」は
独特の発想
を喚起してくれる。

同じ場所に
いない、場。

同じ場なのに、
同じ場所に
いない。

この状態こそ、
私達人間が
本質的に
望んでいる一つの
カタチではないか。

私達は
安定も望むが、
もっと深いところで
進化も
望んでいる。

私達は
同じ場所に
いたくない存在だ。

しかし
同じ場所にいて
安定していたい
気持ちもある。

その両方を
兼ね備えた
象徴的な場が
電車か。

まぁ、電車以外の
乗り物も
同様かもしれない。

が、私は
知らない人達、
無数の人達の
雑踏があり、

しかもそこに
自由に
乗り降りができ、

人が変われば
空気も変わり、

しかし空間は
同じ。

でも場所は
変わり続ける、
という

やはりあの
独特の感じが
好きなんだな。

自分は
どんな「場」が
好きか?

どんな「場」に
身を置くことで
最も活性化
できるか?

そんなことを
真剣に
考えてみよう。

そして
できるだけ
自分のいたい「場」に
いる。

そんな時間を
増やそう。

それだけで
毎日が
ちょっと変わって
くる。

私達は
「場」と共に
生きている。

つづく

宿命と運命

背中に何か
とてつもなく
重いものが

しがみついて
いる。

ドーン
という重さ。

腰が
砕けそうに
なる。

これは
特定の誰かの
重みではないな。

こんなに
重いんだ。

会社、
・・・いや違うな、
ある意味、
世の中全体
とも言える、
重さ。

何かへの
執着か、

寄生か、

依存か。

頑なに
在り続ける
何物か。

自分たちを
止めるもの。

私達は常に
それらと
闘っているが、

きっと一気に
それらを
払い落とした
のだろう。

勇気を
持って。

だから
それらが
来た。

とても
良いことだが、
私は
辛い。

なぜ
俺のところに
くる?


ずっと
この体質を
恨めしく思って
生きてきたが、

今はもう

そういうものだ、

諦めている。

諦める、
というか

宿命と
いうか。

変わることが
ない、

わかるので、

できること
といえば、
受け止めること
だけだ。

これが
私だ、と。

でもおかげで
世の中の
進化の度合いは
わかる。

スピードも
深さも
手に取るように。

そして
それによって
私の今日、
為すこと、

明日、
為すこと、

わかる。

わかれば
それを
やるだけさ。

宿命を
受け止めて、

運命を
切り拓く。

つづく

最上の言葉を

一つの言葉、


私としては
本当に大事に
したい。

同じ意味
同じ内容の
言葉であったと
しても、

今ここで

この人には

どんな表現で
どんな言い回しと
どんな語句を
選ぶか?

そこに
細心の注意を
払うように
している。

もちろん
思考レベルで
瞬時にそれができる
はずもなく、

ほとんどが
直観であるが、

直観的に
浮かぶその言葉
が、

違和感がゼロ
かどうか?

100%感覚的に
素直に出る言葉か
どうかを、

本当に大切に
している。

0.001%でも
違和感を覚えたら、
もうその言葉は
使わない。

伝えない。


決めている。

以前の私は、
言葉なんてものは
単なる記号だ、
くらいに思っていた
時期もあった。

自分の本当の
想いは
言葉などでは
完璧に表せるはずが
ない、と。

今はまったく
違う。

私達は
言葉で
生きている。
この
3次元世界では。

もちろん
完璧な言葉

ないかもしれない。

しかし
だからこそ
言葉は
価値がある。

言葉はカタチ。

今ここで
差し出し得る
最上の言葉は
何か?

真剣に言葉を
選ぶことこそ、
真剣に生きる
ことの
基本である。


思うように
なった。

そうなれて
からだ。

人生そのものが
調和するように
なったのは。

ところで、

私は
一流の文学を
読むのが好きだ。

なぜなら
一流の文学は
言葉に対して
本当に
真摯だからだ。

私はそういった
作家の描く
物語を、

一つ一つの
言葉を
掘るようにして
ゆっくりじっくり
向き合いながら
読むことが
好きだ。

そんな読み方なので、
たくさん読める
わけではない。

でも
本当に素晴らしい
文学は、
たった1行
読むだけで、
良い刺激になる。

言葉と対峙する
作家の生き様も
感じながら、

物語と向き合う
静かな時間を
ここ数年は
とても大切に
している。

言葉と共に
生きる。

それも
私達だ。

つづく