チームパフォーマンスコーチ

決意表明のようなもの

よく私は
「垂直上昇」
という言葉を
使う。

垂直に
上昇するくらいの
逸脱した
成長の仕方

進化の仕方

を表現している。

ここ数年で
そういった進み方
を目指す人が
本当に増えた。

実際にそれが
できている人も
増えた。

垂直上昇の
影響は
あまりにも大きく
深い。

たった一人が
垂直上昇を始める
だけで、

実在のレベル
では
「全体」に
そのエネルギーが
波及していく。

人の影響力
とは
やはり、
その上昇率、
成長率
で決まる。

今、何ができるか?
とか
今、どれくらいの
力があるか?

よりも
その影響は
果てしなく
甚大だ。

・・・・・・

垂直上昇する
人との
コラボ。

これが
今の私が
推進している
ことだ。

垂直上昇する
人は、

根底の部分が
果てしなく
安定しつつも、

表面的には
とてつもなく
不安定だ。

そりゃそうだ。

逸脱した
進み方は
人の心を
極めて不安定に
させる。
当たり前の
ことだ。

その不安定さを
自分のもの
としながらも、

常に
根底の
果てしない安定を
感じながら
進む。

そういった
人達とのコラボは、

とてつもなく
不安定で
果てしなく
安定している。

それを
事業として
この世の中に
形にしていくことは

きっと大きな
インパクトと
なるだろう。

・・・・・・

異質なもの。

未知のもの。

そういったもの

私達はどうしても
拒絶感を
出してしまうが、

毎日その
拒絶感を
得ながらも、

それでも私は
進みたい。

昨日まで
「最高」だった
ものが、
今日は突然
「最低」になって
しまうかも
しれない。

それを
恐れず、

・・・いや、
大いに恐れれば
良いが、

それも
抱きながら
進もう。

私にしか
できないことで、

かつ、

私には
決してできない
ことを、

これから
激しく
推進していく。

つづく

伝わるコミュニケーションのために

わかりやすく
伝える。

シンプルに
伝える。

これはとても
大切なことだと
思うが、

案外
できていないんだよね。

わかりやすく
伝えるには、

まずは
自分が本当は
何を一番伝えたいのか?

何が伝われば
それで満足なのか?


はっきりくっきり
明確にすることが
必須だ。

「私がここで
本当に
伝えたいことは何?」

という問いを
常に

本当に常に

自分に
投げ続ける習慣は
つけた方がいい。

私自身が
これを始めた時、

まず最初に
変化したのは、

冗談や茶化しの
類の発言が
私の中から
消えてしまった
ということだ。

それまでは
冗談とか言いながら
場を和ませようと
していたのだが、

それが
消えた。

すると、
場は静かになって
しまうので、
それが不安だったが、

逆だと
わかった。

むしろそういった
要らぬ冗談を
言う方が
場は不安定になる。

自分はなんと
余分なことを
し続けていたのだろう、

つくづくわかった。

そして
どんどん私は
無口になっていった。

相手を理解する
ために
良い問いを投げねば、

というのも
いつしか消えていた。

もちろん
私自身の話をする
ことも
ほとんどないので、

私は基本、
コミュニケーションの
場面では

何もしなく
なった。

ただ、
私は本当は
これをここでは
伝えたいのだ、
という認識だけは
持ちながら。

認識は
あるけど
何もしない。

・・・これが
私の基本スタンス
となった。

これがまた
実に
居心地が良い。

何もしなく
なったのに、

それでも勝手に
自分の口が動く瞬間が
くる。

それが
冗談であったり
問いかけであったりも
するのだが、

こっちは
一切の意図を
していない。

だから
スッと自然に
口からそれは
流れ出る。

するとその場は
驚くほど調和し、

気がつけば
私が最も
伝えたかったことが

なぜが
伝わっている

という
状態になる。

で、
完了感がくる。

で、
じゃあまた!

その人と別れる。

今は毎日が
その繰り返し。

本当に
伝えたいことは
何か?

この場で
本当に大事なことは
何か?

まずはこの
把握を。

くっきりスッキリ
と。

丁寧に。

コミュニケーション
改善は
まずはここからだ。

つづく

蜘蛛の糸に掴まれば

蜘蛛の糸が
スーッと
降りてきて、

それに
掴まる。

糸は
スーッと
上昇していく。

それに伴い
私も
上昇するのだが、

途中で
怖くなって
手を放して
しまう。

落ちる!


思ったが、
なんとそのまま
私は
空中に留まっていた。

空中に
浮遊している。

そして
少し意識したら
自由に
空を飛び回ることが
できた。

なんだ
いつの間に
こんな力が?


思ったが、
いやいや実は
最初からできたんだよ、

直観的に
わかった。

蜘蛛の糸は、
自分にできることを
気づかせて
くれる
きっかけだったのだ。

そんなきっかけを
与えてくれたのは
誰だ?

・・・私自身だ。

自分が自分を
引っ張り上げる。

これは
私達誰もが
常に行なっている。

が、
引っ張り上げる
「きっかけ」に
本人が
気づいていない
ケースは
あまりに多い。

私のサポート
とは、

その人の
蜘蛛の糸、

つまりは
その人が
その人自身に
与えている
「きっかけ」に
気づいていただくこと。

これが
メインだと思う。

自分を
成長させるのは
自分自身だ。

自分自身の
導きによってしか
人は
本質的な成長、

つまりは
進化

はできない。

私がよく言う
「実在の自分」
とは、

そのように
自分を成長に
導いてくれる
自分自身でもある。

言い換えれば
「真本音の自分」。

だからこそ
自己対話が
重要となる。

でもみんな、
自己対話
下手くそなんだよなぁ。

わかりやすく
蜘蛛の糸が
垂れてきている
のに、

目の前に
あるのに、

気づかない。

いや、
気づいていない
フリをしているのか。

そこに
糸があるじゃない、
その糸に
掴まってごらんよ!

というのが、
いつもの私の
メッセージだ。

糸に捕まる
のは
最初は怖いかも
しれないが、

本当は
ちっとも
恐ろしいことは
ないんだよ。

つづく

不安との関わり方

現象レベルの
不安は
しっかり
持っていた方が
いい。

この世の中
には、
様々な不安や
心配がある。

お金の不安、
人間関係の
不安、
事業の不安、
結果の不安、
安全安心に
関する不安、
・・・。

個人的な
ものから
社会的な
ものまで、

数限りない。

不安のない
人生はなく、

人生を
送るのであれば、
不安がなくなる
こともない。

不安の中に
埋没し続ける
ことは
お奨めできないが、

しかし、
自分の心に
浮かび上がってくる
不安の一つ一つに

しっかりと
目を向けることは
とても大切だ。

解決できない
ことを
悩み続ける必要は
ないが、

どんな不安が
今、自分の中に
発生しているか?
は、

きちんと
観察、把握した方が
いい。

でないと、
不安の「置き換え」
をしてしまうのが
私達だからだ。

例えば、
本当はAについての
不安があるのに、

そのAについて
向き合ったり
考えたりするのが
億劫なため、

全然関係のない
Bに意識を向け、

Aの不安への
感覚のみを
持って
Bに向かうことで、

私は今、
Bについて
とても悩んでいる、

と、
思い込んで
しまうのだ。

これも一種の
現実逃避だ。

これをしている
うちは、
何をしていても
心が本当の意味で
安らぐ瞬間は
来ない。

もちろんたとえ
Bを解決したと
しても、

心は
キツいままだ。

不安の「置き換え」

純粋な不安よりも
何倍も
キツい。

本当は私は
Bではなく
Aに悩んでいるんだよ!

と、
自分が自分に
合図を送っている
から、
自分で自分の心を
より苦しめるのだ。

こういったことに
エネルギーを
費やすよりも、

私は今、
これが不安だ、


純粋にスッキリ
把握し、
それらの不安を
ちゃんと
存在承認しよう。

それができれば
その「奥」が
わかるようになる。

つまり
自分の根っこの
部分が今、
どうなっているか?

感覚で掴めるように
なる。

結果として、

私は今、
表面上は
こんなにもたくさんの
不安があるのに、

なぜか
根本的には
こんなにも
悦びに満ちている、

というような
ことが
わかるようになる。

表面の自分と
しっかり向き合える
人は、
基本的には
根本の自分は
悦ぶのが
私達人間だから。

そして
その根本の悦びが
増す方向に
人生を進めていく。

それが
真本音の道だ。

不安を
なくそうとする、
その方向に
努力しては
ならない。

不安は
あるのが普通だし、
あるのが
健康だからだ。

それよりも
不安と共に進む
自分で
あり続けよう。

つづく

難易度高えな

私のクライアントさん
の中には

一般の人が休んでいる
年末年始にこそ
大変なお仕事に
向かわねばならない
人達もいる。

「もう死にそうです!」
と、
必死に
生命力の全てを
使い続けている
人もいる。

その状態を
私も共に
感じながら、

改めて、
2024年から
2025年にかけての
この節目の意味も
観えてきた。

今回は、
わかりづらい
節目だった。

実は私は
ずっと
ここに節目はなく、
地続きである、

認識していた。

だから
私自身は
節目を
創らないように
創らないように
あえて
してきた。

昨年から
そのまま自然に
今年に流れ続ける、
ことを
してきた。

が、
それをしなければ
越えられない
節目だったのだと、

今になって
観えてきた。

以前も
書かせていただいたが、

2024年は
「1」の年。

2025年は
それを
「2」にする年。

しかし実は
「2」
とは
「1」
からは
生まれない。

「1」を
培ったからこそ、
あえて
「ゼロ」に
戻る。

「1」を経ての
「ゼロ」。

「原点」。

だからこそ
そこから
一気に
「2」が生まれる。

ただしこれを
意図的に
やってはならない。

意図すれば
崩れる。

地続きで
行くからこそ、
自然に
「ゼロ」に戻れる。

・・・と、
そのような
何と言うか、
非常に
難易度の高い
節目だった。

あの必死の
クライアントさんの
叫びを
全身に感じながら、

それを
振り返りながら
ようやくそれに
気づいたよ。

このように
ここからは
さらに
難易度が
高まるよ。きっと。

が、
それを意識
し過ぎて
意図を持ったら
負けだ。

何がどうあっても、
これまで通りの
私達で
進んでいく。

「1」を
創り上げた
私達で
行くんだよ。

つづく

本来の自分の感覚を思い出す方法

自分の中の
最も深いところは

中心
にある。

自分の中心
に入れば、

その中心の
さらに
中心がある。

さらに
その中心に
入れば、

さらにその中に
中心がある。

このように
中心の中心の
中心の中心の・・・


どんどん
入り込めば、

無限に
中心に
向かい続ける。

それくらいに
私達は
深い。

・・・・・・

ところが、

もうここまで。

これ以上は
中心には
入れない。

・・・という
ことがある。

それは
自分自身が
自分に
ストップをかけて
いるということだ。

それ以上
深く入っては
ならない。

今の自分には
まだその準備が
できていない。

・・・という
自分なりの判断
だ。

その場合は
無理をしては
ダメ。

その中心地点で
じっと
落ち着こう。

・・・・・・

中心から
出る必要は
ない。

その中心地点
のまま、

そこから
自分を
広げていく。

大きく大きく
どこまでも
広げていこう。

イメージで
広げる
というよりも

感覚で

広げる。

宇宙の彼方まで
広げるつもりで、

しかし
徐々に、
ゆっくりと、

広げ続けると、
ある瞬間に、

ふと、

「ここ」に
戻る。

今、体が
存在している
「ここ」に
戻る。

そして
体と自分が
一致する。

現実と
自分が
一致する。

あぁ私は
ここにいるんだな。

・・・と
何の違和感も
なく
自然にそれを
受け入れられる。

それが
当然のこと。
それが
真理。

実に
普通、のこと。

そんな感覚に
なれたら
終了。

以上、
本来の自分の
感覚を
取り戻す、
最も簡単な方法。

つづく

育ててはならない芽がある

芽が出れば、
それを
伸ばせばいい、

という
単純なことでは
ない。

育てては
ならない
芽は、ある。

芽を
見つければ、
誰だって
育てたくなる。

育てれば
育てるほど
愛着が湧く。

そして
その芽に
執着を始める。

本当は、

執着を
呼び覚ます
芽であれば、

育てない
方がいい。

本当は、

芽は常に
無数に
生えては
消えていく。

多くを
気づかない
だけなのだ。

必要
なのは、

芽に
気づくことと、

芽を
選別すること。

どちらも
難しいこと
だが。

・・・・・・

人のこと
の方が、
まだよく
観える。

じっと
観察さえすれば
わかることは
多い。

一つ
発芽すれば、

必ず、
その人の

まずは
目が、

変わる。

目の光が
深まる。
輝きが増す。

よく
観ていれば
わかる。

あぁ何か
発芽したな、

直観する。

直観したら
より丁寧に
観察をする。

そして
その人の
言動の変化と
目の輝きが

どれだけ
連動しているか?

注視する。

目の輝く
瞬間と、
行動の変化が
一致すれば
するほど、

その芽は
その人にとって
必要なものだ。

しかし
多くは、ここで
ズレるのだ。

行動は
変化したが、
目の輝きとは
タイミングが
ズレる。

その場合は、
その芽は、
徐々に
執着を生み出して
いく。

その芽は
育てては
ならない。

・・・・・・

人を観察
することで、

自分自身を
観察する目が
養われる。

自分の観察は
難易度が
高い。

が、
できないことは
ない。

毎日、
人をしっかり
観察し、

そして
自分も
観察しよう。

まずは
自分の目を
よく
観るようにしよう。

目の状態を
常に
チェックする。

以前の私は
これをするために、
どんな時も
いつも
手鏡を持っていた。

そして
コーチングの
合間に必ず、
自分の目を
チェックしていた。

すると
自分の目の観察を
通じて、
自己把握が
できやすくなった。

もちろん
完璧ではないが。

皆さんにも
お奨めする。

自己観察力を
高めて、

自分の芽は
自分で選別し、
育てよう。

つづく

自分の中に答えがなければ

あぁもう、
自分の中からは
答えは出ないな、


わかることが
ある。

その場合は、
一人で考えるのは
やめる。

考えても
答えが出ない
ことは
考えない。

その代わりに、

自分に
何をインプットするか?

どんな
刺激を入れるか?

何を
体験させるか?

誰と会うか?

誰とどんな
会話をするか?

などを
かなり綿密に
発想する。

自分の中に
答えがない
ということは、

インプットが
必要

だと言うことだ。

もしくは、
自分以外の誰か
によって
「答えがもたらされる」
可能性もある。

それが
きちんと起こる
ように、

いつまでに
どのタイミングで
何をするか?


速攻で決める。

自分一人では
わからないことで
ウジウジしない。

オロオロ
しない。

セルフコーチング
の基本。

・・・・・・

共創の時代、
という
言い方が時々されるが、

ここからは
きっと
本当にそうだ。

私もますます
共創していく
ことにする。

共創するために
必須なのは、

各々の
自律だ。

自律している
人同士でなければ
共創は
絶対に無理だ。

そう思うと、
準備は随分と
整ったなと
思える。

まずは
4本の
共創の流れを

一気に
進めることと
する。

つづく

謙虚にいく

人間は
人間の尺度で

価値あるもの
価値ないもの


勝手に判断
しているが、

もちろんで
あるが、
人間の価値観が
正しい、とは
限らない。

例えば
私の場合、
「次元」の話を
よくするが、

次元が高い
次元が低い

という尺度
一つとっても、
皆、勝手に
「こうに違いない」

決めつける。

決めつけ
たがる。

実はその行為
そのものが
次元を低めている
のだけどね。

例えば、
人間は
動物よりも
自分達の方が
次元が高い、

勝手思っているが、

本当に
そうか?

「動物的欲求」
という言葉を
使えば、

それは
すなわち
「自己実現欲求」
よりもかなり
下等なものだと
決めつけているが、

本当に
そうか?

私達はもっと
本質的な
視点、

本質的な
問いを
持たねばならない、

そうでなければ
今後はもう
やっていけなくなる
のではないか、

特に最近は
強く思うよ。

人間よ
奢るなかれ。

・・・と、
自分自身も
含めて、

戒める気持ちが
強く
湧いてくるよ。

私達はもっと
謙虚に生きねば
ならないのでは
ないか。

実は、
年末年始

珍しいことに
私は
インフルエンザに
罹った。

病の状態で
年末年始を
過ごすというのは
人生で
初めてのことだった。

が、
それが良かった。

私は
繭に閉じこもる
蚕のように、

じっと
「羽化」のための
時間を過ごした。

全く
何も
しなかった。

昨年
やるべきことは
やり尽くしたし、

せっかくなので
実在も
現象も
あらゆる活動を
ストップした。

自分自身の
電源を落とし、

「羽化」のみに
集中した。

そんな時間を
潜り抜けて
最初に浮かんだ
言葉が、

人間よ
奢るなかれ。

・・・だ。

きっと私は
これから
昨年とは
比べものにならぬほど

激しく
活動する。

だからこそ、
謙虚に
行く。

素の自分
として
行くよ。

つづく

完全自由の基礎

世界の中に
いる自分と、

その世界を
外側から
眺めている
超巨大な自分。

この二つの
自分を
常に同時に
感じ続ける。

この15年間、
ずっと私が
やり続けている
ことだ。

これをすると
自己分離を
起こしてしまう
のではないか?

思われるかも
しれないが、

実は
逆である。

これを
すればするほど、

自己一致感

が高まる。

今よく使う
言葉で表現すれば

実在と現象が
一致する

ということだ。

本質的な
一貫性が高まる

とも
言える。

・・・・・・

私達には
もともと常に

超巨大な
視点

というものが
ある。

常に外側から
自分で自分を
見つめ続ける
視点。

自分を見つめる
ということは、
自分の立っている
環境も同時に
見つめ、

特に、

自分自身と
環境との
関わり方を
見つめる、

ということ
になる。

自分とは
「自分」という
一個の存在で
成り立っている
わけではなく、

「自分以外」
という存在が
あるからこそ
「自分」
という存在は
生じる。

ということは
「自己理解」
とは
「自己以外理解」
でもある。

あらゆる全ての
存在から
分離・独立して
できたのが
「自分」なのだから、

あらゆる全て
を見ずして
「自分」を見ることは
できない。

この当たり前の
ことを
常に思い出させて
くれるのも、

「自分」を外側から
見つめる
眼差しだ。

・・・・・・

今、一つの
決断を
しようとしている。

行動に
移そうと
している。

そんな自分を
外側の
超巨大な眼差しから
見つめる。

見つめ
続ける。

最初は、
何かに監視
されているかの
ような気持ちに
なるかもしれないが、

慣れれば
それも
消える。

そしてそこで
得られるのは、

言いようのない
「自由」な
感覚。

これが
「完全自由」の
基礎となる。

つづく

要領よく行こう

真正面から
向き合うのと、

何でもかんでも
正面から
ぶち当たるのとは
違う。

大きく
本質的に
違う。

真正面から
向き合えば
向き合うほど、

その人は
実に
柔軟性を
増す。

実に、ね。

よく
現実を
観れば、

隙間が
わかるはずだ。

あぁあそこ
から
ここを
くぐり抜ければ
いいんだ、
という

千載一遇の
ような
出口が。

出口が
観えれば
ダイレクトに
そこに向かえば
いい。

それは
逃げ、では
ない。

私達に
必要なのは、
一刻も早く
速く
「次」に進む
こと。

一つ一つに
ゴツゴツと
ぶつかっていては、

自己満足の
人生で
時間終了を
迎える。

遊んでいる
暇はないのだ。

もし目の前に
ロープウェーが
あれば、

乗れば
いい。

一歩一歩
自分の足で
登らねば、

などと
やっている
暇はない。

与えられた
ものは
全て活用し、

隙間があれば
全て活用し、

ぐんぐん
進もう。

それを真剣に
するからこそ
初めて
向き合わねば
ならない
課題が
立ちはだかる。

これだ。

私達が
本当に向き合う
べき、は。

超のつく
難易度の高い
壁は。

その壁に
ぶち当たる
までは、

要領よく
行こう。

スルスルと。

できる
はずだろ?

つづく

1万分の1

自由発想は
大事だ。

特に新年の
この時期は
大事だ。

が、
自由発想だけで
発想を止めては
ならない。

たくさん発想
したら、

次は
絞り込みだ。

発想は
宝物。

宝の持ち腐れに
しないためには、

それらの
発想を
し尽くした

直後の
自分

だからこそ
得られる
視点で、

発想した
あらゆるものの
中から

これだ!


確信できる
ものを
選び出し、

それを
実行に移す
こと。

1万個の
発想を出して、
その中の
たった一つに
なるかもしれない。

それでいい。

1万個の発想たち
の願いを
すべて引き受けて、

その一つの
発想に

全エネルギーを
込めて

実行に
移そう。

今年からは
これが
実に
やりやすい状態に
なっている。

そんな世の中に
なってきて
いるんだ。

つづく

思いっきりリセット

これまで
まっすぐである

見えていた
ものが、

ひん曲がって
観える。

・・・このような
感覚になったら
それは
正常だ。

表面的な混乱
はともかくとして、

この世の中は
本質的には
ぐんぐん
正常に近づいて
いる。

特にこの
2〜3年の進捗は
目覚ましい、

というより
凄まじい。

自分に素直に
誠実に
生きていれば、

その世の中の
正常化の影響は
ダイレクトに
受けるはずだ。

つまりそれが、
これまで
まっすぐに
見えていたものが
ひん曲がって観える
という現象だ。

・・・・・・

これまで
気持ち悪さを
感じなかったところで
気持ち悪さを
感じてしまう。

これはもう
しょうがない。

麻痺が
覚め始めて
いるのだ。

であれば、
ここからも
素直に行こう。

ひん曲がった
ものは
まっすぐに
直せばいい。

自分自身に
対しても
現実に
対しても。

気持ち悪い
ものは
気持ち悪くない
状態にしよう。

手放すべきは
思いきって
手放そう。

修正すべきは
修正しよう。

そして、

壊すべきは
壊す。

最初から
しっかりと
創り直す。

それに
覚悟をもって
すぐに
取り掛かれるか
どうか?

それが
ここからの
流れを
決定する。

・・・・・・

もし自分の
夢やビジョンまで
ぐらついて
きたら、

それすらも
思いきって
リセットして
しまおう。

その上で
もう一度。

もう一度。

きっと
前よりも
もっと素敵な
ものが、
見つかるよ。

つづく

この一年ですべきこと

カタチになる
前のものが、

カタチになろう
とする
その直前、

強烈な
メッセージを
送ってくることが
ある。

それは
言葉にならない
メッセージかも
しれないが、

たとえ
感覚のみだと
しても、

それをしっかり
受け取る感性は
養っておこう。

もし
微細なメッセージ
にも
気づけるように
なれば、

この世の中には、
実に多くの

カタチになる前
のもの

が存在しており、

それらから
実に多くの
メッセージや
提言が
発信され続けている
ことが
わかるだろう。

もしそれを
きちんとキャッチし
例えば、
ビジネス展開
できれば、

それは大いなる
力となる。

残念ながら
この世の中は
見えないもの
ばかり。

つまり
私達人間の目が
認識できる
波長の範囲は
実に狭い。

本当は
ここ、にあるのに
それに
気づかない。

気づけば
始まるのに、
気づかないので
何も変わらない。

そんなことが
無数に
ある。

感性を養う
とは、
目を見えるように
するのではない。

目に頼らない
受信力を
高めること。
つまりそれは
体感覚だ。

いや、
正確にいえば
体感覚ではない
のだが、
体感覚に一番近い
と言えばよいか。

自分の身体の
反応に
できるだけいつも
敏感であろう。

今日は何か
いつもと少し
違う感じがする。

・・・というような
違和感などに
敏感になろう。

そのためには
意識を常に
外に

現実世界に

出しておく
こと。

出し続けて
いられる自分に
なること。

これができれば、
意識を外に
出したまま
思考する、
ということすら
人間はできるように
なる。

この一年。

そう、
この一年で、
感性をどれだけ
養えるか?

で、
来年以降の
人生が
大きく左右されるよ。

つづく

始動のための自分の整え方

足元に
意識を向けよう。

今、この
タイミングで。

自分の足元には
何が
存在しているだろう?

それは
自分にとって
安定したもの?
それとも
不安定なもの?

それは
自分を
自由にしてくれるもの?
それとも
自分を縛るもの?

きちんと
感覚で
把握しよう。

・・・・・・

次は、
背中だ。

今、自分は
何を
背負っている?

それは
重い?
軽い?

その重さは
適正?

ちゃんと
背負うべきものを
背負っている?

背負うこと
自体は
大事。

でも、
自己満足では
いけないよ。

・・・・・・

頭のてっぺん。
つまり
頭頂部。

そこはちゃんと
開放
されている?

そこに何か
邪魔なものが
乗っかってない?

張り付いて
いない?

頭頂部は
大切だ。

そこは常に
開かれた状態を
維持すること。

もし
余分な何かが
そこにあれば、

それが何か?
をしっかり
見つめ、

それを
取り払って
しまおう。

イメージだけで
すぐに
取り払えるなら
それでよし。

それが難しい
場合は、

どんな現実を
どう変えることで、
これは
取り除かれるか?


しっかり発想し、
一刻も早く
行動に移そう。

・・・・・・

最後に
血管全体に
意識を向ける。

血の流れは
気の流れと
連動している。

流れの悪い
箇所は
ないだろうか?


丁寧にチェック
しよう。

流れが悪い箇所
には必ず、
何か余分なものが
ある。

それが何か?
を、やはり丁寧に
把握し、

しっかり
取り除こう。

新たな年の
本格始動だ。

良いスタートを!

つづく

入れ替わり、くるぞ

入れ替わり、


起こるよ。

これから。

結構、
一気に

激しく。

おかげで
心は大きく
揺れるかも
しれない。

そこで
大事なのは、

その揺れ
に、
ちゃんと
自分を委ねること
だ。

揺れちゃいけない
などという
ことはない。

しっかり
揺れること。

慌てふためけば
いい。

それを完全に
やり切ること。

やり切れば、
自分の奥から

真の自分が

浮上する。

真本音
がね。

そうしたら、
この
入れ替わり

対して、

自分は
何を変えるか?

もしくは
何も変えなくても
よいのか?

などの
答えが瞬時に
わかる。

それが
根拠のない
答えだったと
しても、

それをまずは
自分自身が
信じよう。

そして
根拠がなくても
その方向へ、

動いてみて
ほしい。

入れ替わり、
って何?

と訊かれそう
だけど、
それは
体験すれば
すぐにわかるよ。

非常に大きな
変化だ。

きっとこれから
入れ替わりは
どんどん
頻出する。

私達はまだ
これに
誰一人として
慣れていないが、

自分を
慣らしていかねば
ならない。

これくらいの
こと
これから
いくらでもあるさ!

と、
自分を励まし、

しっかり
向き合おう。

つづく

ここからの進み方

闇に包まれて
何も
見えなくなっても

ここからは
もう

焦る必要は
ない。

何も
見えないの
なら、

待てば
いい。

無闇に
動き回らない
こと。

待てば
ちゃんと
出口は
観えるように
なる。

観えてから
動くこと。

観えれば
すぐに
動けるよ。

・・・・・・

待てど暮らせど
来ないものが

この
世の中には

多くある。

しかし
それでも
待つこと。

時間切れに
なることは
もう、ない。

たとえ
ギリギリ
だったにせよ、

それは
必ず、
現れる。

・・・・・・

表面は
荒れても

根本は
どんどん
健康になっている。

現象は
荒れても

実在は
より
安定してくる。

これが
今の世の中の
状態。

自分の道を
間違わず
進もうとする人は、

待てば
いい。

観えれば
進む。

観えなければ
待つ。

この
シンプルな
在り方、

進み方。

その代わり、
観えた瞬間に
躊躇しない
こと。

こう動こう!
という
衝動に
身を委ねれば
いい。

力を入れる
ことはない。

ただ流れに
身を任す
だけだ。

つづく

これからが私達の本領

目まぐるしく
移り変わる
天気のように、

今年の「現実」
は、
移り変わって
いくだろう。

しかしそれは
今年に限った
ことではなく、

来年以降も
ずっと。

年々、激しさを
増し続ける
だろう。

私達は
そうした時代に
生まれてきた。

その事実を
嫌が上でも
体感することに
なる。

でも
これもいつも
言うことだが、

全て承知で
私達は
ここにいる。

ようやく
私達の
本領発揮の時代
となる
わけだ。

・・・・・・

どれだけ
現実=現象の
移り変わりが
あっても、

根底はずっと
安定している。

根底の安定を
感じ続けられる
人ほど、
間違いなく
道を進めるだろう。

そして
根底の安定を
感じられる人
とは、

自分自身の
根底の安定を
常日頃から
感じ続けられる
人だ。

つまりは
真本音で
生きている人。

真本音で生きる人
は、
自分の表面の
不安定、

つまりは
反応本音の不安定
を、

そのままに
しておける。

心の表面が
どれだけ激しく
揺れ動いても、

それは
それ。

そのままで
いい。

・・・となれる。

そして
心の状態によらずに
常にどこか
安定しながら、

今日すべきことを
ちゃんと
今日やる
ことができる。

そういう人は
世の中全体の
不安定を
前にしても、

しっかり自分の
道を
歩き続けられる
わけだ。

やはり全ては
自分事。

自分の生き様
が、
あらゆることの
基本となる。

・・・・・・

人生は
短い。

自分一人で
やれることは
限られている。

だから
躊躇している
暇はない。

やろうと
思うことは
全てやる。

これまでも
そうしてきたが、

さらに
加速させて
いく。

あるがままの
自分を

そのまま

出して
いく。

つづく

真本音の睡眠

ゆっくり
目を覚まし、

全身
伸びをし、

起き上がる。

朝の空気を
感じながら。

ほとんど
寝ていないが
関係ない。

私は今日も
すべて
リセットされている。

一日の始まり方
こそ
その一日を決める
もの。

そう気づいて
からは、

一日の始まり方
を良くするために、
一日の終わり方
を大切にするように
なった。

まずは、
自分自身が
真本音で

もう寝よう

と、思うまでは
寝ない。

私の場合だが、
時には
睡眠を2時間とか
1時間しか
とらないことが
ある。

それはもちろん
仕事が終わらない
ということも
あるのだが、

真本音が
寝させてくれない、
のだ。

長く寝れば良い
というものでは
ない。
あくまでも
私の場合は。

その日その日の
適正な
睡眠時間があり、

明日は
何時何分に
起きたいか?
というのがある。

それに合わせて
眠りに入る時間を
決める。

真本音で
決めているから、
最も良い眠りの
入り方と、

最も良い深さの
睡眠がとれる。

そして必然的に
目覚めが

最高

となる。

私の場合、
休日とか平日とか
関係ない。

いつも気持ちよく
一日が終わり、
気持ちよく
一日が始まる。

もちろん日々、
悲しいことや
辛いことは
ある。
生きていれば。

でも
その時の自分が
できる
最大の心地よさで

一日を終え
一日が始まる。

人間は
なぜ眠るか?

私はやはり
一日が、
一つの人生である
ように思う。

しっかりと、
今日という人生を
始め、
終える。

これを繰り返すことで
人生全体が
調和する。

自分を大事に
する、
一つの大きな要素は
ここにもある。

つづく

一つの祈りだ

直滑降、
急降下。

どこまで
落ちるか?

どこまで
堕ちるか?

中途半端は
ダメだ。

とことん
堕ちるところ
まで。

必ず
底は、ある。

底まで
行けば、
あとは
浮上するだけ。

そこまでは
堕ちることに
手を抜くもんか。

・・・・・・

実は、
底まで堕ちても、

もっと
堕ちたい


願ってしまう。

でももう
底、なのだ。

堕ちようにも
堕ちる術は
ない。

もう、ここが
底なのだ。

すぐに堕ちる
人は、
堕ちること
自体を
望んでいる。
本当は。

堕ちている
ことで
安心するから。

浮上をしたり、
幸せを
感じ始めると
とても不安に
なる。

この浮上は、
この幸せは、
すぐに
失われるのでは
ないか、と
思うから。

そしてその
不安に
耐えられなくなり、
自ら
堕ちていく。

その連続。

昔の私の
人生は、
まさにその
連続だった。

堕ちようにも
堕ちない
という
あの、底での
状態が、

私にとっては
不安定の
根源だった。

・・・・・・

しかし
堕ちては浮上し、
堕ちては浮上し、

繰り返している
うちに、

人生の時間は
どんどん
過ぎていく。

気がつけば
同じ場所で
同じことを
ずっとしている。

そのループから
抜け出さなければ
自分の人生の
願いは
絶対に叶わない。

生まれてきた
意味そのものが
失われる。

そう気づいても
なかなかその
ループからは
脱け出せ
なかった。

・・・・・・

私をその
ループから
救い出して
くれたのは、
一つ。

それは
「祈り」
だった。

私は必死に
祈った。

自分のことを、
ではない。

自分以外の
誰かの
ことを。

世の中の
ことを。

世界の
ことを。

そして、
目の前の
その人の
ことを。

私は、
一つの
祈りだ。

これが当時の
私の
口癖だった。

口癖と
言っても、
口には
出さず、

心の中で
これをずっと
呟き続けた。

あらゆる人、
あらゆる存在と
祈りながら
向き合った。

いや、
祈り、として
向き合った。

一つ一つの
日常生活の
振る舞いを
すべて
祈り、として
行なった。

これを
何年も続けて
ようやく
脱け出せた。

私は
私を
救った。

というよりも、
祈りが
私を
救ってくれた。

・・・・・・

今の世の中に
祈り、は
あるか?

ある。

むしろ、
増えている。

本人が
自覚せぬまま、
無意識に
ずっと心の奥で
祈り続けている
人たち。

私は、
そういった人を
敏感に察知する。

初めて
お会いした
瞬間に
わかる。

祈りが
私を救って
くれたから、

祈りで
自分を救おうと
している人の
ことは、

敏感に
わかるんだ。

口に
出さなくとも
いい。

密かに
呟けばいい。

ただ、

自分を救う、
イコール
人を救う、

そういった祈りが
もっと
世の中の隅々まで
行き渡れば
いいな、と
思うよ。

つづく

「2」の年だ

ここにある、
というよりも

右斜め前方
上の方に
ある。

それが
「ここ」。

外れちゃって
いるんだ。

だから
変な感覚だ。

ここにいる
けど
ここに
いない。

外れちゃって
いるんだ。

でも今は
それで
いい。

そのまま
進む。

前のめりな
感じ、
それこそが
今は、いい。

・・・・・・

ようやく、
「0」が
できた。

それが
一昨年。

それが
「1」
となった。

これは
大きい。

これが、
昨年。

そして
今年は
「2」の年
となる。

これも
大きいのだ。

これが
上手くいけば
来年は
「4」となり、
再来年は
「8」となる。

そのように
進めるか
どうか?

それが
かかっている
のが、
2025年。

だから
前のめりくらいが
ちょうどいい。

身を引き締めて
行きますよ。

つづく

真実は無限だ

どこかに
移動する感覚が
くる。

瞬時にして
大移動する。

時には
宇宙の彼方に
行ってしまう
くらいに。

その大移動した
先が
どこか?

ということ
よりも

その場所から
観える
「ここ」が問題だ。

もちろん
宇宙の彼方
だったとしても
「ここ」は
よく観える。

先程までとは
全く異なる
見方ができる。

さっきまで
こうしよう!

思っていたことが

真逆に
覆ることも
ある。

人の目線。

それはいつも
固定されて
いる。

一つの同じ場所
から見ていれば、
いつも同じ答え
しか出ない。

多数の場所から
見れば、
多数の答えが
発想される。

それは
迷いの始まりかも
しれないが、

この迷いを
経なければ
出ない答えが
ある。

私達の真本音は
無限とも言える
答えの中から
たった一つを
選び出す。

一見すると
最初から一つしか
答えはないように
思えても、

実は大概の場合、
答えは
無限にある。

無限から
一つを
選ぶ。

これが
真本音がいつも
していること。

だから
自分自身が
最も納得できる。

どう生きるか?

これから
何をするか?

今、
どう動くか?

無限の選択肢の
中に
私達はいる。

自由じゃない
と思っているなら、
そう思っているのは
自分の心
だけだ。

真実は
違う。

真本音は
真実を観る。
しっかりと。

そして
無限から
一つを
選ぶ。

私達は
無限の中に
いる。

それがわかれば
自由になれる。

自分を
縛っているのは
結局は
自分自身に
過ぎない。

つづく

極めて繊細なサポート

濁っている
感覚が
自分の中に
わずかでも
感じられたら、

私の場合、
とても
気持ちが悪い。

気持ちが悪い
と感じられる
こと自体が
健康であると
捉え、

気持ち悪さや
濁りの
原因を
すぐに探り出す。

少なくとも
わずかでも
濁った状態で
お客様と向き合う
ことだけは
ないようにする。

実は
私のお客様は
難易度が
高い。

それは
お客様自身が
難しい人だ、
ということでは
なく、

難しい進み方

選択される人(会社)
ばかりだからだ。

難しい進み方、
とは
その人(会社)の
現時点の器や
容量、限界値を
仮に100と
表現すると、

1000以上のことを
しようとする
人達だ。

ただしそれを
ご本人が自覚
されているとは
限らない。

自覚しながら
やっているなら
その時点でもう
大したものだ。

サポートは
最低限で済む。

しかし
自覚していない
からこそ
難易度が上がる。

その人の
真本音が望む
スピードが
凄いのだ。

そして
目指している
ものも。

もちろん
実在レベルで
観れば、

実在の自分が
望んでいる
通りに
進んでいるだけ
なのだから、

1000だろうが
10000だろうが、
それはその人(会社)の
等身大だ。

しかし
なかなかこの
現象の世界では
簡単にはいかない。

私達には
「心」があり、

「心」が
自分を縛ってしまう、
自分の
限界を「100」と
決めてしまう。

そしてその通りの
現実(現象)が
起こる。

その「心の枠」を
10倍以上に
一気に壊そうと
する。

それだけ
実在レベルの
パワーが大きい
ということだ。

そういう人を
私はあえて
選んで、
近づいていく
ことをしている。

だから
そういったお客様
ばかりになるのは
当たり前だし、
それが私の
悦びだ。

難易度が高まる
ということは、
その人達への
サポートはもちろん
かなり繊細なもの
になる。

たった一言も
間違えられない。

的確な強さの
的確な表現の
言葉を使って、
その人に
的確な大きさの
刺激を
的確なタイミングで
入れ続ける。

それを貫徹
するためには、

私自身には
1mmも
濁りがあっては
できない。

だから
徹底的に
自己管理をする。

毎日、
というよりも
1分1秒。

こうやって
書くと、

何ともまぁ、
大変なことだ、
とか
自分を縛り続けて
窮屈そうだ、
とか

そんなイメージに
受け取られる
かもしれないが、

逆なんだ。

私は、今、
完全に自由だ。

逆に言えば、
完全に自由
でなければ、
こんなことは
できはしない。

極めて
繊細なサポートを
必要とする
人(会社)と

私は
共に進んでいく。

私がずっと
望んできた
人生は、
今、ここにある。

そして
ここからこそ
この日々を、
深化
させていく。

つづく

がんばってきたあなたに

すべてから
自由になる、
とは
どういうこと
だろう?

手始めに、

すべての意図
から
自分自身を
自由にさせて
あげよう。

こうしなければ
ならない。

こんな結果を
出さねば
ならない。

そういった
ことから
一度、
自由になって
みよう。

こういうことを
言えば、
一歩間違えれば
現実逃避に
走ってしまうのが
人間、

ということは
わかっている。

私達はちゃんと
結果を
出さねば
ならない。

それももちろん
わかっている。

そういうことを
ひしひしと
わかった上で、

それでも
一度、
やってみてくれ。

責任感の
ある人、

自分の人生に
立ち向かって
いる人、

であれば、

意図からの
自由の

さらにその
先の世界を
体感できる
はずだ。

そのためにも
まずは、

意図を
手放す。

今だからこそ
もう
やってみても
良いと思う。

すべては
面白いように
調和を
始める。

それだけ
これまで
がんばって
来たじゃないか。

つづく

トゲトゲの私

光のように
見えて、

実は
固体だった。

カチカチの。

トゲトゲの。

しかしそいつは
光のエネルギーに
満ちていた。

ただ
あまりにトゲトゲ
なので
触れることは
できない。

触れた瞬間に
手に
穴が空くよ。

とても
巨大でもある。

扱いきれる
ものじゃない。

だから
好きなように
放っておく。

勝手に
そいつの
やりたいように
やってもらえれば
いい。

私の中心核の
話さ。

自分の中心核
なのに、
自分では
全くもって
制御できない。

正確に言えば、
制御できる自分に
なるように
ずっと
頑張ってきた。

制御できるように
なったことも
ある。

が、その度に
そいつは
私の制御を
必ず、超える。

必ず。

おかげで
セルフコーチング力は
高まったが、

どれだけその
力を
高めても、無駄だ。

最初から
わかっていたよ。

土台、
そいつの制御など
無理な話だ。

というわけで
やっと
「諦め」がついた。

最近のことだ。

57年近くも
足掻き続けたよ。

諦めるのに
57年近くも
かかってしまった。

まぁでも
ちょうどよい
タイミングだ。

ここからは
「諦め」の人生。

私はただ、
自分自身に
委ねるだけ。

これは
主体的、と
言えるのか?

わからない。

わからないが、
覚悟はもう
できている。

つづく

振り回されてもやってるよ

背中に
乗っかる重みが

より
ズシンと
重くなる。

最初から
覚悟している
ことだ。

この重みは
誰も
知らない。

それは
そうだ。

私の人生は
私のもの
だから。

人の人生を
肩代わりすることは
できない。

どれだけ
重くても、
自分の人生の
重みは
自分で背負う。

これが
私達だ。

・・・にしても
重い。

ギックリ腰に
なるんじゃないか?

そういった
心配をよそに、

重くなれば
なるほど、
私の細胞たちは
より加速しようと
する。

それも
正解、だと
知っている。

重いほどに
加速すれば
いい。

スピードが
上がるほどに
重さは
意味をなくす。

ごまかしている
わけではない。

それが
経済速度
なんだ。

適正速度
なんだ。

・・・・・・

私が
乗っかっている
ものを
振り回している
のか?

それとも
乗っかっている
ものが
私を
振り回している
のか?

途中から
よくわからなく
なった。

で、
どっちでも
よくなった。

振り回されて
いてもいい。

それでも
やることを
やるだけだ。

いつの間にか、
ゴールは
観えている。

ゴールに至る
道筋も
観えている。

それを
着実に、
重みを背負いながら
登っている。

決して
道は外さない。

この重みでは
道を外れた瞬間に
すっ転んで
全てが終わるだろう。

だからもう
道は外さない。

実在レベルでは
この調子で
行けばよさそうだ。

あとは
それらを
そのまま素直に
現象化する
だけだ。

ここから
徐々に
現象に比重を
傾けていこう。

次々に
ここで
現実を
創っていくよ。

つづく

リベンジ

大樹が
縦に割れて、
燃えている。

巨大な
火の柱が
暗闇を
明るく照らしている。

なぜ、
割れた?

あれだけの
大樹が。

なぜ、
燃えた?

命が
尽きるように。

私はただ、
呆然と
眺めている
だけだが。

すでに
できることは
ないのか。

それでも
ただ
祈っている。

燃えること
自体は
悪いわけでは
ない。

火とは、
生命力の
証でもある。

あれだけの
炎が
次の何かの
誕生につながる
こともあるだろう。

ただ問題は、
割れ方
だ。

あの割れ方
には、
潔さが、ない。

迷いながら、
割れてしまった、
という
気配が濃厚なのだ。

あれだけの
大樹が
なぜ
迷いながら
割れる?

この影響は
測り知れない。

私の呆然の
理由は
ここにある。

・・・・・・

海の向こうに
霞がかり
わずかに観えていた

塔のような
島。

小さな
島。

あそこを
いつかは
目指そうと
やってきた。

もう一歩で
準備が
できたのに。

一旦、
すべてが
ご破算になって
しまった。

私は
膝から崩れ、
もう
永遠に
立ち直れないと
思った。
その時は
本当に。

あれから
もうすぐ
8年になる。

よく
立ち直ったよ。

あの大樹は
もう
完全に
燃え尽くし、

なくなって
しまった。

そして今、
あそこまでは
大きくは
ないけれど、

新たな
大樹が
立っている。

今度は
行けそうか?

今度は
行けそうだ。

つづく

死、について

生きる、
ということを
真剣に
考え始めたのは、

私の場合、
小学4年生の
頃だったかな。

学校から
帰る途中で
一人で歩いて
いたら、

今でも
ありありと
思い出すよ、

ふと、

死の恐怖が
襲ってきたんだ。

そして
当たり前の現実

向き合うことに
なった。

僕はいつか
必ず、死ぬ。

・・・と。

途端に
足がすくんで
動けなくなった。

道端の
ちょっとした林を
見つめていたら、
急に
そうなった。

その林の様相が
今もありありと
蘇る。

いつかは
必ず
死ぬ。

その
リアリティが
私を硬直させた。

今になって
みれば、
よくわかる。

もちろんそれは
無意識では
あるが、
私はその時から
ずっと
「死」と
向かい合ってきた。

それは
私の人生に
プラスだったのか
マイナスだったのか
わからない。

私はすぐに
諦める少年と
なった。

誰かと闘うことから
いつも逃れた。

スポーツを
やっても
個人競技で
自分が勝ちそうに
なると、
相手が可哀想に
なって、
わざと負けた。

いや、
当時は
わざと負けようと
していたわけでは
ない。

でも今はよく
わかる。

私は常に
わざと負けていた。

基本、
自分のことなど
どうでもいい、
という
虚無感があった。

よくそれで
生きてこれたと
思う。

高校の時には、
私は
全人類で
自分が最も
劣った人間であると

完全に
思い込んでいた。

それが
確固たる信念として
自分の中に
確立した。

今となっては
ありありと
それが観えてくる。

あれはあれで
必要だったのだ、
とは
安易に結論は
つけないでおこう。

今も私は
常に
「死」と
向かい合っている。

人はなぜ
「死」を恐怖
するのか?

その恐怖に
意味は
あるのか?

「死」の先には
何があるのか?

それらの
問いに対して
今の私は
明確な答えを
言える。

だが、
それは
本当の答え
なのか?

という
問いは
絶対になくさない
でおこうと
決めている。

つづく

至福に向かう感性とは

ここ、
にいる
という感覚が

どんどん
研ぎ澄まされると、

実は
ここにはいない
という
感覚も芽生えてくる。

どちらが
正しい、
ではない。

どちらも
大事にするといい。

唯一いけない
のは、

ここにいる
感覚がないままで
ここにいない
感覚のみを
育てること。

それは
妄想の人生
への
第一歩となる。

想像力、

伸ばすことは
大切であるが、

そして
想像力は
人間にとって
創造力の源と
なるが、

それが
妄想方向であっては
ならない。
すべて、自我の
満足のみに
向かうことになる。

ここ、
の感覚を
味わう。

自分の
存在感を
ヒシヒシと。

自分の体に
意識を向ける。

細胞の一つ一つ
にしっかりと。

この世界は
現象だが、

現象という
現実の
一つ一つを
大切にすること。

現象だから
と言って
蔑ろにしては
ならない。

現象を愛する
ものこそが
結果的に
実在を愛することが
できるように
なる。

つまりは、
現象を大切に
することで、

今ここに
いる、

という感覚が
育ち、

その先に、
実在が
観えてくる、
感じられてくる。

すると
本当は
ここにはいない
という
感覚が育つ。

両方の感覚を
大切にする
ことはイコール、

実在と現象
両方を
大切にするという
こと。

それができる
ことで、
実在と現象は
一気に
繋がり始める。

人としての
至福の人生の
始まりだ。

つづく

問いは怖い

自分の中に、
特別な問いが
できることがある。

問いであり
メッセージで
あるもの。

ただし
それと向き合う
のは、
それなりの
勇気が要る。

なぜなら
その問いが
きっかけで、
大きく現実に
変化が起こるから。

もっと言えば、
自分は何かを
手放したり
壊したり、

一見すると
自分にとって
とても痛い
ことを
する始まりと
なるから。

そういった
特別な問いが
浮上する直前の
独特の感覚。

この感覚が
起こるだけで、

きたか〜〜!

と、なる。

しかし
向き合わない
わけには行かず、

もうその時点で
ある一定の
覚悟を私は
持つことになる。

で、
そういったプロセス
自体に
意味があり、

問いが明確に
なる瞬間には
すでに、

全てを
受け止める
覚悟は
できている。

だからこそ、
問いが
わかった瞬間に、

答えも
わかり、

次の瞬間には
もう
行動を
起こしている。

問いは、
怖い。

問いは、
本当に
怖いんだよ。

でも
それに
立ち向かうから
こそ、

人生は
開いていく。

自分の中の
問いと
向き合うことこそ、

自分の人生と
向き合う
最初の一歩だ。

つづく