自由

真の自由を語る

水の落ちる
ツルッツルの
垂直の
岩。

本来は
登れるはずは
ないのに、

私の手足は
その岩に
ピッタリと
吸い付く。

まるで私は
ヤモリ
になったようだ。

昔、
インドを旅した
時に、

安宿では
壁にヤモリが
無数に
くっついていた。

ヤモリと共に
寝起きして
いた。

今の私は
その
ヤモリそのものに
なったようだ。

岩に張り付く
こと
自体が
目的であり
幸せであるかの
ように、

私は
ピッタリと
垂直の岩と
同化している。

・・・

落ちてくる
水は、

時々は
激しい。

私の
あらゆるものを
洗い流して
くれる。

浄化して
くれる。

次第に私は
意識そのものを
手放し、

無の状態
となる。

すると、
私なのか
岩なのか
水なのか
それとも
それ以外の
あらゆる存在
なのか、

よくわからなく
なる。

個である
私と
全体である
世界との

区別が
わからなく
なる。

重力という
存在も
私の中からは
完全に
消える。

・・・

するともう
岩も
必要と
なくなる。

私は自由に
飛び回る
ことができる。

完全なる
自由。

しかし
その状態の
時にはすでに

私は
私という
個ではない。

自由
とは、
個として存在
している場合に
感じるもの。

個ではない
私にとって
自由か否か
などは
どうでもいい
ことだ。

しかしその
どうでもいい
状態こそが、

真の自由。

・・・

気がつけば
私は
地面に
落ちていた。

大地に
仰向けに
寝そべり、

自我を
忘れていた。

個に
戻ると、
私は
言いようのない
窮屈さを
感じた。

しょうがない
な。

ここで
生きるためには
なくては
ならないものだ。

個となり
分離も
できる。

全体と
一つにも
なれる。

それこそ
また
真の自由。

ヤモリじゃ
ない、
私は人間だ!

などと
言っている
うちは、

自由は
手に入らんよ。

つづく

完全なる自由

 

何もない

広い空間に

一人でいると、

 

いくら自由でも

不安になるだろう。

 

むしろ

狭い部屋に

閉じ込められて、

 

「この中なら

自由だよ」

 

と言われた方が

余程、楽だ。

 

私達人間には

そういうところが

ある。

 

制約のある中

でこそ、

自由を謳歌できる。

 

しかし

完全なる自由は

不安であるし、

 

実際、

何をして良いのか

さっぱり

わからなくなる。

 

ところが

みんな

自由を望む。

 

「自由」をただ

漠然と

捉えながら。

 

「不自由でないこと」

が、自由である

と。

 

だから

一度、しっかりと

自分に問うてみよう。

 

私は何から

解放されたいか?

 

もし

解放されたら

私はどうしたいのか?

 

解放の先に、

私が望むことは

何だろうか?

 

・・・・・・

 

実は

私自身のことで

言えば、

 

私も昔は

制約の中での自由

の方が

落ち着く人間だった。

 

しかしどうも

今はもう違うようだ。

 

完全なる自由を

私は楽しむ。

 

真本音度が

高まると、

 

ある時ある瞬間から

どうも

そうなるらしい。

 

そしてそうなると

逆に、

 

今、状況的に

どのような不自由が

あったとしても、

 

そんな状況の

中でも

完全なる自由な自分

でいられるのだ。

 

さて、

これはどういった

ことだろうか。

 

あなたは

本当は

どんな自由を

得たい?

 

つづく

 

自由かどうかは

 

本当に自由な

自分になろう

すればするほど、

 

それを阻害し、

縛りくる存在が

 

自分自身である

 

ということが

よくわかる。

 

自由とは

何か?

自分で定義し、

 

その定義によって

自分を

縛る。

 

望む自由を

自分で設定し、

 

その設定によって

自分を

縛る。

 

やっと自由に

なれた!

思った瞬間から

 

その自由に

縛られている。

 

自由とは

どこにもない

ではないか。

 

思うのだが、

しかし

 

そういった

諸々の外にこそ

 

自由はある。

 

つまり、

自由とは

我々には自覚

できないもの

なのかもしれない。

 

私の経験のみ

にはなるが、

 

側から見ていて

本当に自由だな

と感じる人は、

自分のことを

「自由だ」

とは語らない。

 

自由かどうか、

という

もうその次元に

いないのだ。

 

「私は自由です」

と語る人には逆に、

私はよく

不自由を覚えた。

 

ひるがえって、

今の私は

自由なのだろうか?

問えば、

 

正直、

よくわからん。

 

どっちでも

いい。

 

・・・と

思うようになった

ので、

ひょっとすると

自由に

近づいているの

かもね。

 

ただし、

 

やはり私の

探究テーマは

「自由」

だ。

 

自由とは何か?

人生の

実践現場を通じて

探究し続けたい。

 

その意志は

変わらない。

 

この意志は

自由にさせておいて

あげたい。

 

つづく

 

源泉

 

みんながもっと

自由になれると

いいな。

 

真の自由

に。

 

環境による

不自由があるから

自由になれない、

というのではなく。

 

逆に

環境による

自由があるから

私は自由だ

というのではなく。

 

環境、

つまりは

自分以外のあらゆるもの

によって

もたらされる自由

ではなく。

 

いかなる環境に

おいても

 

自ら

 

生み出せる

自由。

 

真の自由とは

そういったものだ。

 

真の自由で

ある人は、

 

力の源を

得ている。

 

だから、

真の自由な人ほど、

束縛を

楽しむ。

 

自由になれない

環境を

楽しむ。

 

楽しむ、とは

ちょっと短絡的な

表現かも

しれないが、

 

楽しむ、とは

自身の力の源から

エネルギーが

展開できている

状態。

 

それを

という視点から

表現すると、

 

楽しむ

 

となる。

 

だから結構

奥の深い感覚

なんだ。

 

自由な人は

何でも

楽しめる。

 

だからこそ

逆に

自分がどれを

選ぼうか、と

 

自らの本当に

望む選択が

できる。

 

だから、

 

あの人は

望む選択ができるから

自由だ。

 

ではなく、

 

あの人は

真に自由な人だからこそ

望む選択ができる。

 

ということだ。

 

自由とは

すべての源。

 

誰もが

本当は

戻れる場所。

 

つづく

 

自由

 

問いを。

 

あなたにとって

自由とは

何だろう?

 

自由は

本当に

手に入れたい?

 

自由を

手に入れたあなたは

どうなる?

 

そもそも

本当は今すでに

自由ではないかい?

 

自由の反対は

不自由なの?

 

不自由の反対は?

 

自由はあなたに

何をもたらし、

何を失わせる?

 

あなたの人生に

自由は必要?

 

あなたは

自由に

何を与える?

 

あなたは

自由を

どう育てる?

 

それは

あなたの人生に

どんな意味を

もたらすだろう?

 

 

・・・これらを

とてつもなく真剣に

自由に

考えてみるといいよ。

 

つづく

 

自由・・・

 

まずは

 

『自由奔放』

 

を知ることだ。

 

自由奔放とは

どういうことか?

 

その本質を

知ることだ。

 

それがわかったら

自由奔放に

生きては

ならない。

 

次に行なうのは

 

『自由自在』

 

に生きることだ。

 

「自由自在」

とは、

「現実」をちゃんと

見つめ、

 

「現実」に合わせ、

 

「現実」の中で、

 

これだ!!

 

と、最も納得の行く

一歩を

踏み出し続ける

こと。

 

つまりは

自分自身を

自由にコントロール

する状態だ。

 

これができるには

「自由奔放」

を知らねば

ならない。

 

「自由奔放」

を知る者のみが

「自由自在」

に生きることが

できる。

 

その結果、

自分の本当に望む

方向に

 

現実を拓く

ことができる。

 

私達は

 

自由奔放に

生きるために

ここにいる

のではない。

 

私達は

 

自由自在に

生きるために

ここにいるんだ。

 

つづく

 

苦しみを語る

 

いつも私は

人の苦しみについて

考える。

 

人は

苦しむ生き物

だ。

 

それを完全に

自らの中から

排除することは

極めて難しい。

 

その苦しみの

多くは、

その人自らが

生み出しているもの。

 

苦しみとは

現象そのものなので

実在としてのそれは

存在しないのだが、

 

しかし

その現象が

苦しい。

 

実在のない

もの。

 

ただ、

感覚のみが

現象として発生

するもの。

 

それが

苦しみだ。

 

だから、

本当は苦しみなどは

ないのだよ、

言われることも

ある。

 

実在の意味に

おいては

その通りなのだが、

 

しかしここは

現象の世界なのだ。

 

現象として在る

ものは在る

のだ。

それもまた

現実。

 

しかもその

現象(苦しみ)は、

 

人から人へと

伝播もする。

 

8割方

今の苦しみが

自分の苦しみだと

しても、

 

あとの2割は

他の人から

受け取ったものであり、

他の人の苦しみを

まるで自分の苦しみの

ように

感じ取っている

ものだ。

 

ところが、

その8割と2割が

逆転することが

ある。

 

人の苦しみを

受け取り

その感覚によって

苦しんでいるのに、

 

その苦しみと

自分の「記憶」の何らかの

現実とを

自分で勝手に結びつけ、

 

あぁこの苦しみは

あれが原因の苦しみだ、

 

自分で勝手に

結論を出して

 

本当は自分の苦しみ

ではないのに

苦しみ続けている人が

いる。

 

自分の苦しみの8割方を

そういうことをしている

人もいて、

実はとても多い。

 

いずれにしても

苦しみとは

苦しいことなので、

私達は

そこから逃げ出したい。

 

だから

苦しみには

背を向ける。

 

だから余計に

苦しみの正体を

知らないままに、

 

人は

苦しみ続けている。

 

・・・・・・

 

今、

私はとても

頭が痛い。

 

その痛む箇所に

意識を向けると、

 

それは

今日コーチングをした

クライアントのAさんの

ものだとわかる。

 

内容までは

さすがにわからない。

 

しかし

どのような類の

苦しみかは

わかる。

 

そして

どれだけの大きさの

苦しみか、も。

 

私はそのAさんの

苦しみと向き合いながら、

それを浄化しながらも、

Aさんの次のサポート

の方向性について

検討をする。

 

こんなことをもう

20年も毎日毎日

休みなく

続けている。

 

だからよくわかる。

 

Aさんはこのままで

いると、

間違いなく

病気になるな、と。

 

人の苦しみは、

それがある境界を

超えると、

3次元化する。

 

つまりは、

物質化する。

 

心が

物理的なものに

変化するのだ。

 

それが

病気となって

現れる。

 

医学的にそんなことが

証明されているか

どうかはわからないが、

 

これは私が

サポート現場でいやでも

実感し続けている事実

だ。

 

だから

病気になる前に

何らかの手を

打たねばならない。

 

どうしようかな?

 

・・・・・・

 

私は

人の宿命について

いつも考える。

 

宿命と苦しみは

セットだ。

 

宿命が苦しいもの

だという

意味ではない。

 

でも多くの人が

自分自身の苦しみと

向き合い、

それを越えようと

するときに、

 

自らの宿命を

受け入れる。

 

そこから初めて

「自由」は

始まるんだ。

 

つづく

 

淀んだコミュニケーションはもうしない

 

実は、こう見えて、

私は

自分の喋りたいことの

10分の1も

喋ってはいないと

思う。

 

普段の会話でも、

コーチングのような

サポート現場でも、

結構、

喋りたいことや

伝えたいことは

心の中に

たくさん浮かんで

来るんだよ、

本当は。

 

でも、

それを口に出そうと

すると、

喉が詰まってしまうんだ。

 

そして、

自分の意図とは

まったく違う言葉が

私の口が

喋り出すことも

実に多い。

 

しかし、

大概その言葉こそが、

その場には相応しい

最善の言葉

だったりする。

 

あぁ、さっきの私の

言おうとした言葉を

言わなくてよかったな、

 

勝手に口が動いて

くれて

よかったな、

 

と、

ほぼ、毎日、毎回

思っている。

 

こういう話を

聴けば、

ひょっとすると

「たけうちさんって

結構、不自由なんだなぁ」

という印象を

持たれるかもしれない。

 

いやいや、

逆だ。

 

私はとても

自由だ。

 

自由だからこそ、

これができると

思っているし、

 

いつもこうなる自分を

自由なヤツだなぁ、

自分で思うのだ。

 

・・・・・・

 

だいたいだね、

私が私の意図通りに

喋ろうとする言葉の

ほとんどには

 

「迷い」

 

がある。

 

100%とはちょっと違う

言葉達だ。

 

もちろん

本音で思っていることを

私は喋ろうとするので

あるが、

 

それは恐らく、

ちょっと淀んだ本音だ。

 

99.9%以下の

本音達だ。

 

だいたい、

意図した気持ちってのは

そんなもんだ。

 

これを私は

 

『反応本音』

 

と呼んでいる。

 

反応本音の言葉は

私の口からは

決して出ない。

 

出そうと思っても

出ない。

 

きっと私の真本音が

止めているのだろう。

 

・・・・・・

 

さて、その

 

『真本音』

 

だが、

これは

100%の意思であり、

言葉達だ、

とも言える。

 

それは

「わがまま」とは

真逆だ。

 

なぜ、100%になれるか?

と言うと、

相手と(もしくは、世界と)

繋がっているからだ。

 

繋がりを感じた上での

言葉達なので、

そこには

迷いや淀みが

ない。

 

だから

とてつもなく

スッキリと言葉達が

口をついて出て来るのだ。

 

そんな言葉のみによる

コミュニケーションは

もちろん、

調和しか生まない。

 

これを私は

『真本音コミュニケーション』

と呼んでいるが、

 

これができるようになると、

人生が本当に

楽になる。

 

自由になる。

 

自分の意図、

なんていう

ちっぽけで狭い世界から

放たれた、

 

大きな自分として

ここにいられるのだ。

 

・・・・・・

 

私の使命の一つは、

この

真本音コミュニケーション

のできる人を

増やしていくことだ。

 

これは

特殊な能力ではなく、

人類であれば

本当は誰もが

持っている力、

 

しかしみんなが

忘れてしまっている

力だ。

 

まずは、

人をサポートする

立場の人達が

これができないとね。

 

自由な人が

サポートして初めて、

みんなが真に

自由になれると

思うんだ。

 

つづく

 

苦手なものと向き合おう

 

自分の目の前に

現れる

あらゆる「現実」は

 

自分自身の

『生き方』

の反映である。

 

言い切ってもよいのでは

ないか、と

私は常々痛感している。

 

現実は

思う通りには

いかない。

 

この

「思う通り」とは、

顕在意識レベルでの

意図や思惑のことを

言っている。

 

自分の意図通りには

現実は進まない。

 

もし

進んでいるとしたら、

それは

「挑戦」をしていない

からだろう。

 

真の成長や進化とは、

自分の枠を

超えていくことで

成される。

 

枠を超えるためには

どうしても

「思い通りにはいかない」

という現実が

私達には必要だ。

 

しかし本当に大事なのは、

思い通りにいかない現実

が現れた時、

 

それに対して

自分がどうするか?

 

だ。

 

ここで「生き方」が

問われる。

 

・・・・・・

 

本当は、

思い通りにいかない現実

そのものを

楽しめるように

なるといい。

 

でも、

なかなかそれは

難しい。

 

でも、

楽しめる自分

はぜひ、

目指してほしい。

 

そのために必要な

ことは、

 

今ここで起きている

現実を

あるがままに

しっかりと

観察すること、

だ。

 

思い通りにならない現実

からは

私達はどうしても

目をそらしてしまう。

 

逃げようと

してしまう。

 

そこを

踏ん張るのだ。

 

どのような現実も

自分に与えられたものだ。

 

自分の人生だ。

 

自分のものだ。

 

という意識を持ち、

ただただ

向き合うのだ。

 

対処のしようが

わからなくても

いい。

 

うろたえても

いい。

 

弱い心が

噴出してもいい。

 

どんな自分になっても

いいから、

しかしそれでも

向き合う。

 

この「生き方」こそが

すべての道を

開いていく。

結果的には。

 

・・・・・・

 

そういった意味では、

あえて

次のように

言うこともできる。

 

苦手なものほど、

しっかりと

向き合い、

見つめよう。

 

と。

 

例えば、

苦手な人ほど

しっかりと

向き合い、

見つめよう。

 

最初は

辛いかもしれないが、

しかし、

逃げるよりは

よっぽど楽だ。

 

逃げることばかりを

考えている時ほど、

私達が弱く

なることはない。

 

私達が苦しく

なることはない。

 

ちゃんと向き合おう

と、

開き直った時に、

スーッと心が

楽になっていく。

 

本来の自分に

戻っていく。

 

その感覚こそが、

 

『自由』

 

の感覚だ。

 

これを

当たり前のように

知った者こそが、

 

自らの人生において

「本当にやりたいこと」

見つけることが

できるんだ。

 

つづく

 

なぜ縛るんだ?

 

今、

自分を縛っている

ものは何か?

 

という視点で

自分自身を

客観的に見つめることを

オススメする。

 

縛っているものが

悪いわけではない。

 

それを

なくそうという

話でもない。

 

ただ、

それを自覚する

ことが大事だ。

 

私は今、

〜〜に縛られている。

 

その結果、

このような影響を

受けている、

分析できると

尚、良い。

 

・・・・・・

 

自分を縛るものが

皆無な人は

いない。

 

生きる、ということは

何かに縛られる

ということでもある

からだ。

 

そして

自分を縛っている

ものには、

必ずメリットが

ある。

 

メリットがあるからこそ、

私達は

縛られることを

容認している。

 

例えば

ある社長は、

自分が

「経営」に縛られている

ことに気づかれた。

 

正確に言えば、

「これまでの世の中の

経営の仕方」

にだ。

 

だから、

「本当は私はこんな

経営をしたい」

という願いがあったが、

それを無意識に抑え、

世の中のやり方に

倣っていた。

 

それにより

相当のストレスと

迷いを持ちながら

ここまで来たのだが、

 

しかしその道のりには

彼なりの

メリットがあった。

 

彼はもともと

直観型の人間で、

あらゆることを

自分の直観を信じて

推進して来たのだが、

 

経営においては

それを封印した。

 

しかしそのおかげで、

「戦略」と「仕組み創り」

という力を

彼は得ることができた。

 

これが彼にとっての

メリットだった。

 

しかし彼は

もうすでに

「完了感」を得ていた。

 

つまり、

得るべき力は

もう得ることができた、

彼自身が満足

していた。

 

だからこそ彼は

直観型に戻った。

 

戻ったのだが、

これまで培った

戦略と仕組み創りの力が

活きた。

 

直観を戦略や仕組みに落とす

ことが

できるようになったのだ。

 

このように、

縛られているものを

自覚することで、

 

何のために自分は

縛られているのか?

わかるようになる。

 

そして、

それを今後、

どのように活かせば

良いか?

わかるようになる。

 

つまり、

次のステージへの

大事な布石となる。

 

・・・・・・

 

どうせ

縛られるのならば、

 

自らの意思と

願いに基づいて

自らを縛ろう。

 

それもまた

『自由』

ということでは

ないだろうか。

 

つづく

 

自由の前で茫然とするあなたへ

 

どうやら

多くの人達が

 

大海原に

 

自らの船を

漕ぎ出したようだ。

 

その大海原に

名前をつけるとしたら、

 

『自由』

 

ということに

なるだろうか。

 

しかし、大海原と

言うだけあって、

その世界は

果てしなく

広がっている。

 

これまで

自分の船を漕ぎ出すんだ!

がんばってきたのだが、

 

いざ、漕ぎ出してみると、

そのあまりの

世界の広大さに

茫然としているのでは

ないだろうか。

 

「自由」とは、

一見、とても居心地の良い

言葉であるが、

 

いざ、本当に自由になれば

途端に、

これまでとは別次元の

恐怖や不安が

襲ってくるだろう。

 

しかし私は

本当に心を込めて

伝えたい。

 

恐怖に負けるな!

不安に負けるな!

 

と。

 

ここまで来た

自らの意志と願いを

いつも思い出そう!

 

と。

 

・・・・・・

 

いくら大海原に

出たとは言え、

 

進み方は

これまでと同じだ。

 

目の前の

一つ一つの「現実」を

大切にすることだ。

 

大海原は

無限に広がっていても、

私達が一日に

できることは

限られている。

 

ステージが変わった

と言っても、

すぐにスーパーマンに

なれるわけではないのだ。

 

ここにいるのは、

これまでと同じ

自分だ。

 

ただ、

これまで心の中に

渦巻いていた

余分なものが

解消されている。

 

本来の自分の

願いが、

ここにあるはずだ。

 

だからこそ、

「自由」という大海原に

出られたのだ。

 

だからここからは、

願いを持って

進もう。

 

常に。

 

それだけが

これまでとの違いだ。

 

私達にできるのは、

今、ここにいる

自分を

大切にすること。

 

それはつまり、

今、ここにある現実を

すべて

大切にすること。

 

これまで続けて来た

仕事や

人間関係や

趣味や

あらゆることを

 

これまで以上に

大切にすること。

 

誠実に

向かうこと。

 

願いを持った自分

として。

 

それだけの

ことだ。

 

何かを意図的に

大きく変えなければ

ならないわけではない。

 

そうやって

しっかりと現実の

一つ一つに向かえば、

 

自然に

道が観えてくるんだ。

 

どこに

自分が舵を取れば

よいのか?が、

次第にね。

 

それが観える

までは、

 

一つ一つ丁寧に。

 

一つ一つ誠実に。

 

この「日常」を

大切にしよう。

 

つづく

 

自由、についてつぶやく

 

私の人生において

最重要のテーマの一つは

 

『自由』

 

だ。

 

自由とは何か?

 

本当の自由とは?

 

ということを

もう30年以上、

探究しているのでは

ないか。

 

自由について、

いろんな角度から

このブログでも書いて

いきたいのだが、

 

今日は

こんな角度は

どうだろう。

 

「自由を求めるならば、

枠を大事にしよう。」

 

・・・・・・

 

枠は大事だ。

 

この世は

「枠」だ。

 

私達は

「枠」の中に生まれ、

さらに

「枠」をはめられ続け、

 

生きている。

 

男性女性の区別も

「枠」だ。

 

名前も「枠」だ。

 

生まれた地域も

環境もすべて

「枠」だ。

 

一日が24時間というのも

「枠」だし、

重力も「枠」だし、

 

体が一個しかないのも

「枠」だ。

 

私達の思考さえも

「枠」と言えるかもしれない。

 

この世は

「枠」

しかないではないか。

 

自由とは、

それらの「枠」を

取り払うことだろうか?

 

いや、

そうではない

私は思う。

 

だって

「枠」はなくならないし。

 

それどころか、

「枠」があること自体が

この世の意味だし

意義だし

価値だから。

 

「枠」の否定は

むしろ

 

不自由の象徴

 

のように

私には映る。

 

それは、

この世界の否定

だからだ。

 

否定は

不自由だ。

 

かといって

肯定も

不自由だ。

 

肯定も否定も

どちらでもいいじゃないか、

 

というのが

本来だし、

そこはちょっと

「自由」な感じがする。

 

・・・・・・

 

「枠」を取り払おうと

する人は

多いが、

 

その姿はとても

不自由に

映る。

私には。

 

私は

こう思うのだ。

 

「自由」とは、

どのような「枠」の中でも

自由でいること。

 

わけわからんかな?

 

でもこれは

本質だと思っている。

 

・・・・・・

 

「私は自由に生きたいから、

好きなことしか

やらないんだ」

 

という人を見ると、

本当に不自由な人だな、

と思う。

 

なぜならそれは

 

「好きなことしかできない」

人生だから。

 

好きなことのできる

環境であれば

自由になれて、

 

そうでない環境で

あれば、

自由になれない、

 

ということでしょ。

 

これって完全に

環境に左右されている

人生だ。

 

つまりは、

人生のハンドルが

「環境」にある。

 

人生のハンドルが

「自分」にはない。

 

それを「自由」とは

到底言えないだろう。

 

どんな環境においても

自由に生きれる人が

「自由」な人だと

私は思う。

 

嫌いなことは

やらない。

好きなことだけ

やる。

 

のではなく、

 

すべてを

自分らしく自由に

できることが

「自由」ではないかな。

 

もちろん、

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちが

湧くだろう。

 

しかしその気持ちが

あることで

不自由になるなんて

弱過ぎないかい。

 

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちすら

あるがままにさせて

おけばいい。

 

自由にさせて

おけばいい。

 

でもって

ちゃんとやるべきことを

自分の意志と意思で

行なっていく。

 

これができている時

私達は

「自由」を手に入れている

のだと私は思うけど、

 

どうかな?

 

・・・・・・

 

その人が自由かどうか?

顔を見ればすぐに

わかる。

 

自由な人は

険しさがない。

 

不自由な人は、

どれだけ好きなことを

やっていても

必ず顔に

険しさが出る。

 

自由な人は、

絶対に

何かを否定はしない。

 

無理な肯定も

しない。

 

そんなものからは

自由になっているからだ。

 

好きは好き。

嫌いは嫌い。

 

自由は自由。

不自由は不自由。

 

やりたいことは

やりたいこと。

やりたくないことは

やりたくないこと。

 

以上。

 

となっている人が、

自由ではないか。

 

だから自由な人は

「枠」を本当に大事に

している。

 

それはこの「世界」を

大事にしていることと

イコールだから。

 

そこにあるものすべて

(つまりは、枠のすべて)

を大事に

しているんだ。

 

自由だから。

 

つづく

 

だいぶ自由になってきた

 

ふと、昨日、

ちょうど一年前のこのブログの

記事を読んでみた。

 

実は私は

自分の書いた過去記事を

ほとんど読み返さない。

 

だから、

ブログを毎日

お読みいただいている

クライアントの皆さんの方が

私よりも

ブログの内容に詳しかったり

する。(苦笑)

 

以前もあるクライアントさんが

「たけうちさん、

こんな文章を見つけたんですよ」

と、

コーチングセッションの最中に

その文章を私の前で

朗読された。

 

「へぇ、なかなか

いい文章ですね。

その人に会ってみたいですね」

 

と私が言うと、

 

「何言ってるんですか。

たけうちさんのブログの

文章ですよ」

 

と、

笑えない冗談のような

やりとりがあった。

 

まぁそれはともかく、

 

珍しくもふと昨日、

ちょうど一年前の自分の

文章を読み返して

みたのだ。

 

すると、

内容云々ではなく、

ある重要なことに

気づくことができた。

 

今の私は

一年前よりも

随分と自由に

文章を書いているな。

 

気づいたのだ。

 

・・・・・・

 

これ、

実は、とても重要な

ことだ。

 

私が躊躇なく

文章を書けるということは、

 

世の中全体の

真本音度合いが

高まっている

ということなのだ。

 

正直、

今の私が完全に

自由か?

と問われれば、

 

まだまだ

躊躇しながら

この文章も書いている。

 

不特定多数の方々が

読まれる文章なので、

当然と言われれば

当然なのだが、

 

私としては

いつも

自分の中にある文章を

そのまま表出している、

というよりも、

 

この文章を書くときは、

常に意識は

「外」に向かっており、

 

「外」との

無意識レベルでの

キャッチボールを

丁寧に行ない、

 

その結果としての

文章を書いている。

 

だからおかげさまで

よく、

「昨日のあの記事、

私のことでしょ」

クライアントさん達から

おっしゃっていただける。

 

それはとても

嬉しいことだが、

でもいつも

誰かを特定して

書いているのではなく、

 

世の中全体との

キャッチボールをしながら

書いている

イメージなのだ。

 

今日も、

そうなんだけどね。

 

そして

その結果として

私が自由に書けるように

なってきたということは、

 

取りも直さず、

世の中全体の

自由度合いが高まっている

ということだ。

 

それが単純に

嬉しい。

 

ただ、

まだまだだけどね。

 

・・・・・・

 

そう言えば最近、

やたらと私の頭の中に

 

「自由」

 

という言葉が

浮かんでくる。

 

自由度合いが

高まる

 

ということと、

 

真本音度合いが

高まる

 

ということは

私はイコールであると

思っているのだが、

 

しかし、

 

「自由」という言葉を

使うと、

とてつもない誤解を

与えることもある。

 

例えば、

最近よく

若い人達から聴く言葉

として、

 

「私は自由に生きたい。

だから

好きなことしかやらない」

 

というものがある。

 

しかしその言葉を

聴くたびに私は、

 

「あぁこの人は

不自由な人だなぁ」

 

と思ってしまう。

 

自由を

履き違えているのだ。

 

だから、

「自由」

ということについて、

 

このブログでは

これから頻繁に

扱っていきたいかな、

とも

思っている。

 

・・・・・・

 

世の中は

本質的な意味で

今、

 

自由度合いを

高めている。

 

・・・と実感している。

 

だからこそ

本来の自由が

広まるように、

 

そんな願いを込めて、

さらにこのブログも

続けていきたい。

 

つづく