チームパフォーマンスコーチ

強引に向き合う

ある意味、
笑顔とは
その人の
すべてが
現れる。

作り笑顔
ではなく、

本心からの
純粋な笑顔を
思わず見せる
ことがある、
誰もがね。

その瞬間の
空気感に
その人の
生き様がすべて
現れるんだ。

・・・・・・

私のクライアントさん
たちは、
そういった笑顔が
とても素敵な人が
多い。

逆に言えば、
自然な笑顔に
濁りがある人は、

どうも
私を無意識に
避けるようだ。

多分、私が
真正面から
向き合ってしまう
からだろう。

人間誰もが
邪(よこしま)な気持ちは
持っているが、

その生き方が
板について
しまっていたり、

そういった自分と
向き合えない
人は、

私と向き合うのが
怖くなってしまう
ようだ。

私自身で
言えば、

自分も
含めて、

人の邪な部分

いやというほど
観てきたので、

それが
人間だし、

そこがまた
人間の深さ
だし、

人間の
味だし、

という
捉え方こそ
すれ、

邪な心があるから
この人はどうこう、
という
評価的な目は

ゼロ、だ。

そう、
いつの間にか
ゼロ、になって
しまった。

その部分で
人を評価しても
何の意味もない
ということが
ある時期から
腑に落ちたから。

だから、
その人の心の
中を
覗き込もう
とか、

その人の心を
洗いざらい
浮かび上がらせて
やろうとか、

そういった
意図は、
皆無だ。

でもきっと
だからこそ
怖いのかも、
とも思う。

・・・・・・

ある時期から
私は、

私と真正面から
向き合って
くださる人のみを
クライアントに
することにした。

それで
私自身もとても
楽しく仕事を
させていただいて
きたが、

ここにきて
ちょっと
様相が変わって
きた。

私に対して
逃げ腰の人をも、
追いかける
ように
なってきた。

自然に
私自身が
そのように動いて
しまうのだ。

ある意味
多少強引に、
逃げ腰の人を
逃がさないように
向き合うように
なっている。

きっとこれには
深い意味が
あるのだろう。

まぁ何となく
わかっては
いるけどね。

ただ、
私の願いは
一つ。

すべての人が
本来の
素敵な笑顔で
笑い合え
ますように。

これだけ
だね。

つづく

怖かったあの人が

それはまさしく
再会の眼差し
だ。

初対面とか
そうでないとか
関係なく。

眼差し同士の
重なり合い、
絡み合い、

そこから
生まれる
深い悦び。

再会した
ということは
それなりの
意味がある。

以前とは
異なる
関係性、

以前とは
異なる
現実展開を

共に創って
行くのだろう。

以前に
戻る必要は
ない。

今のあなたと
今の私と

そのままで
素直に

共に
時間を経た
変化を

楽しもう。

再会。

再会を
恐れるな。

怖かった
あの人も

もう
怖くない
かもよ。

つづく

原点のパワー

原点に
帰る。

そこには
何が
あるか?

かつての
自分の
出発点。

初心。

それを
改めて
目の当たりに
した時、

何を
感じるか?

いつの間にか
忘れてしまって
いたこと、

いつの間にか
いい加減に
してしまって
いたこと、

いつの間にか
誤魔化して
いたこと、

・・・人間なので
当然、
心も痛くなろう。

でも
それでも
今は、
原点にもう一度。

ここからの
歩みのために。

・・・・・・

原点に戻る
ことでしか
得られない
パワー、エネルギー
というものが
ある。

出発点の
パワーは
永遠だ。

本当はその
パワーは
今ここに
ずっとある。

ずっとあった。

それを素直に
浴びようと
しなくなった
自分がいた
だけで。

その事実を
知ること
だけでも
めっけもんだ。

・・・・・・

ここからの
私達の歩みは、

原点パワーが
絶対的に
必要だ。

自分は
何のために
これを
始めたのか?

自分にとって
自分の
真本音にとって

最も健康的な
パワーが
そこにある。

ここからは、

日々、
毎日、
毎朝、
原点に
帰ろう。

つづく

問い一つ

一つ、
フワフワと
問いが
降りてきた。

・・・

何から自由に
なるために、

今、何にこそ
エネルギーを
注ぐ?

・・・

脱皮する人

またまた急増。

あなたも
そうでは
ないかな?

つづく

寄生関係

寄生し合う
関係
というのが
ある。

人間同士の
話だ。

一見すると
自律していそうな
人同士が
これをやっている
こともある。

自律した人
であれば
あるほど、

ある特定の
人とだけ
これをやって
しまうことが
ある。

まぁそれは
本当は
自律できている
とは
言えないの
だけどね。

・・・・・・

苦手な人
というのは
いるもんだ。

普通なら
シャンと普通に
生きることが
できるのに、

その人が
目の前にくると、
なぜか途端に
普段の自分を
保てなくなる。

そして、
ある意味
自分を守る
ために、

その人に
寄生する。

するとその場合、
大抵は、
相手もその人に
寄生し始める。

双方互いに
寄生し合う。

するともう
止まらなく
なる。

・・・・・・

エネルギーの
高い人同士が
これをすれば、

周りへの
悪影響は
測り知れない。

ある会社の
幹部さん同士が
これをした
結果、

ある程度の
規模のある会社
でも、
一気に組織が
おかしくなる
ことがある。

なんか
最近、
この組織
おかしいぞ。

と、
独特の空気と
流れが
じわじわと
湧いてくる。

こういった
場合、
できるだけ早い
段階で、
その空気感の
もとを
探り出さねば
ならない。

そして
そういった場合に
よくあるのが、

幹部さん同士の
寄生のし合い
だ。

・・・・・・

これの修復は
大変、難しい。

が、
やらねば
ならない。

二人が正常な
関わりに
戻れるように。

細心の注意を
払いながら、
私は
二人に
近づいていく。

つづく

あなたの光なのだから

蝋燭の光
のような、

わずかな
儚い光だが、

その光が
灯ったという
それだけでも

大きな
希望だ。

灯れば、
育てれば
いい。

灯すまでが
大変だ。

・・・・・・

光の
揺らめきは

一見すると
何かの
メッセージのようにも
感じる。

だがそこで
考えすぎては
ならない。

それは
ただの
揺らめきだ。

自然現象
だ。

物事に
意味を
持たせすぎては
ならない。

・・・・・・

その光が
育っているか
どうかは、

自分で
判断するもの
ではない。

他者が
判断するもの。

自己判断は
手放し、
ただ、
光にまっすぐ
向き合える
自分として

まっすぐに
生きること
だ。

・・・・・・

光は
受け継がれる。

どんな
小さな光でも、

必ずそれは

そこに
在り続ける
限り、

受け継がれる。

それこそ
我々人間が
すべきこと。

人間の
役割、使命だ。

・・・・・・

あなたの
中に、

すでに
灯っている
光が
あるはずだ。

それを
まずは
あなた自身が
自覚しよう。

それを
まっすぐに
見つめ、

君を
守るよ。

・・・と
宣言しよう。

あとは、
まっすぐに
進むだけ。

つづく

膨張に注意

膨張は
危険だ。

特に
ここからは
その危険度が
さらに
アップする。

膨張は
気持ちいい。
一見すると。

でも
その気持ち良さ

溺れてしまう。

そして
気がつけば
抜け出せなく
なり、

必ず
破裂する。

その、
破裂までの
時間が

かなり
縮まるのだ。

ここからは。

だから、
挽回する時間や
余裕が
なくなる。

致命傷と
なる。

そうならない
ためにも、

膨張の
気持ち良さ
に対する
感度を
高めておくこと。

あぁ
この感覚、
この気持ち良さ、
・・・やばいな。

と、
可能な限り
早く
自分にストップを
かけること。

こればかりは
注意が
必要だ。

真本音の道

進めば、

どんどん
道は開く。

が、
そこで
イケイケどんどん
となり、
膨張の道に
入ってしまう。

我々人間には
本当に
よくあること。

気をつけよう。

つづく

泳ぐか飛ぶか

自由に
泳ぐ。


決めている
人がいる。

自分に
飛ぶ。


決めている
人がいる。

「泳ぐ」

「飛ぶ」。

似ている
ようで
本質的に
異なる。

「泳ぐ」と
決めている
人は、

自分自身に
「水」
という枠を
課す。

もし枠を
課さなければ
逆に
自由から
遠のくのだ。

それを
よく
わかっている
人たち。

反対に、

「飛ぶ」と
決めている
人は、
あらゆるものを
手放し
続ける。

例えば、
自分が精魂
込めて
創り上げた
環境があったと
しても、

必要が
あれば
一気に手放す。

自分から
引き剥がす。

常にその
覚悟を
持ち続ける人。

自分が
「泳ぐ人」か、
「飛ぶ人」か?

この
見極めが
本当に必要に
なってきた。

泳ぎたいのか
飛びたいのか?
という
ことではない。

泳ぐと
決めているのか、
飛ぶと
決めているのか?

・・・だ。

つづく

簡単に言葉にするな

言葉を紡ぐ
というのは、
本当は
かなり高度な
ことなのだと
思う。

言葉に
なる前の
本当の想い
を、

言葉に
した途端に
壊してしまう。

壊さない
までも、
とても浅いものに
してしまう、

ということは
私達にとっては
日常茶飯事だ。

先日、
出会うことが
できた
ある経営者は、

ご自分の
想いを
上手く言葉で
表現できない
ようだった。

彼の
素晴らしいところは
それを
無理に言葉に
していないこと。

表現できない
ことを
表現できない
ままに
留めておいた
こと。

それは
経営者として
どうだろうか?

一般的には
言われそうだが。

しかし彼の
そのスタンス
によって、
私は
彼の言葉になる
前の
そのままの
想いを、

ダイレクトに
感じ取ることが
できた。

それは
測り知れない
深さを湛えた
想い。

これは
確かに
言葉には
できないな、

私も思った。

が、
そこをサポート
させていただくのが
私の役割だ。

一つずつ
一歩ずつ
確かな言葉を

探し出して
いこう。

つづく

実在を認識しなければ

海とも山とも
つかぬ
まだ
形になる前の
「大自然」

眼前にある。

気がする。

まだ
形がないので
何も
見えない。

見えないが、
すごい
存在感だ。

存在が
そのまま
こちらに
ワーッと
襲いかかってくる。

が、
それが実に
心地良い。

・・・・・・

形になる
前の
存在。

そのもの。

これが
いわゆる
「実在」
だ。

残念ながら
私達の脳では
実在を
実在のまま
キャッチするのは
難しい。

多少の変換を
交えながら、
自分の脳に
合ったやり方で

私達は
感じ取る。

それが
イメージ的に
くることも
あるし、

音響のように
くることも
あるし、

ただ、
感覚のみで
くることも
ある。

だが
いずれにしても
すごい
存在感だ。

そりゃそうだ。

実在
だからだ。

「実在」と
言われる所以は
そこにある。

・・・・・・

それに比べて
私達が普段
目にしている
現実、
つまりは
「現象」
とは、

なんと
淡いものか。

儚くて
今にも
消えそうに、
私には
感じられる。

実在を
感じ取れる
ようになれば、
現象の薄さが
わかって
しまうのだ。

だからこそ
あえて
実在を感じ取れる
自分に
なれたとしても、

感じることに
ブロックをし、
あえて感じない
ままに進む、
という人は
多い。

多い、
というか
多かった、
と言うべきか。

しかし
ここからは
ちょっと様相が
変わってきた。

あえて実在を
感じ取らずに
進む、
という状態では
対応しきれない
世の中に
なってきたのだ。

だから、

実在を感じ取る
という
本来の能力を
思い出そうと
する。

そういった人が
急増しており、

そういった
サポートも
随分と
増えてきた。

もう、

顕在意識レベル
でも、
実在を認識
しながらでなければ、

辛すぎる
のだ。

もっと楽に
スムーズに
進むためにも

一人でも
多くの人に、
その本来の能力を
掘り起こす
お手伝いを
したいと、

私は今強く
思っている。

つづく

闇雲に進むサポート

闇雲に進む
ことが
大切な時も
ある。

そこで
いろんなものに
ぶつかり、
痛い目に遭いながら
身につく力が
ある。

今は
そうせねば
なるまい、

決めたら
闇雲に行けば
いい。

徹底的に。

ただ、実は
その進み方自体
を私は
「闇雲」
とは言わない。

自分の意思で
決めている
ならば、
それらはすべて
順当な道だ。

順風満帆な
道だ。

「闇雲」とは、
何も考えて
いないこと。

意思のない
状態のまま
進むこと。

惰性で
進むことだ。

しっかり
自分の意思で
進む限り、
それはもう
闇雲ではない。

・・・・・・

自分の意思で
あえて
徹底的に
闇雲に進むことを

「真闇雲」


表現することに
しよう。

今、この
真闇雲が必要な
人達が
増えている。

良い意味で
痛い目に
たくさん遭わねば
ならない人達が。

やはり、

痛い目の体験は
人生の糧に
なる。

その糧を
真本音レベルで
得よう!

決めている人達。

そんな人達との
関わりが
随分と増えた。

そうした場合

私のサポート
とは、

あえて
八方塞がりの
状態まで
追い詰めること、

・・・なんだ。

しかも
ただの八方塞がり
ではない。

その人が
真本音で望む
八方塞がりだ。

これは、
キツい。

絶望感も
甚だしい。

その状態に
入った時の感覚を
私は

「滅宇感」


呼んでいる。

「宇」とは
すべて、という
意味なので、

全てが滅する感覚
という意味だ。

通常の八方塞がり感
の1000倍も激しい
イメージだ。

しかし、

この
滅宇感と対峙
してこそ、

初めて
開かれる「出口」
がある。

その「出口」を
くぐり抜ける
ために

真闇雲に
進もうとする。

実は、
これは私の
これまでの人生
そのものだった。

私の人生は
滅宇感と
共にあり、

全ての滅宇感と
向き合い続けて
きた。

これは私だけの
人生パターンだと
これまでは
思っており、
だからこそ
滅宇感に関しても
語ってこなかった
のだが、

どうやら
そうではない、

気づいた。

滅宇感を
求め、
そこにこそ存在する
出口を求めている
人は、

想像以上に
多いことが
わかった。

だから
そのようなサポートが
ここからの私の
本流に
なりそうだ。

ということは、
今後の私は
相当、厳しい顔を
見せていくことに
なるだろう。

意図するわけ
では
ないけどね。

つづく

大の大人の涙

桜の花が
舞い散る
ように、

ひらひらと
何かが
私の体に
触れながら
落ちている。

涙かな、
と。

そう
思ったんだ。

悲しさと
嬉しさの
ごちゃ混ぜの。

誰のかな?

確認する
のが
ちょっと
怖かった。

・・・・・・

あの人の
あの時の
涙を
ふと思い出した。

随分と
昔の話だ。

体の大きな
50歳近い
仕事の能力が
とんでもなく
高い
大の大人が、

人の目を
憚らず、
大声を上げながら
泣きじゃくった
のだ。

当時の私は
20代半ば頃。

呆然と
それを見ながら、
その人の
本音に
初めて触れて、

人間、という
存在の本音に
初めて
触れたような
不思議な感覚
だった。

あの時の
あの感覚が
今、
蘇っている。

・・・・・・

人は
本音を出さない。

出したいのに
なかなか
出せない。

大切な
一言を、

大切な
感情を、

ついつい
抑え込む。

そして
人間関係で
最も大事な
部分を

崩壊させる。

もうそんな
崩壊は
見たくない、
という
単純な気持ちが

私がこの
仕事を
続ける理由と
なっているのかも
しれない。

・・・・・・

そこまで
わかった時、

このヒラヒラが
何か?
誰のか?
わかった。

私はすぐさま
連絡を
入れた。

急遽、
その人に
会わなければ
ならない。

私の仕事は
いざという時の
瞬発力が
命だ。

つづく

チームコーチング

テーブルを
囲んで、
語り合う。

普段、
一緒に仕事を
している
人達同士なのに、

普段とは
全く異なる
顔がのぞく。

その度に
どよめきが
起こる。

関係性が
変わっていく。

そして、
結果として
意図せずに
仕事の質が
変わっていく。

チームコーチング。

これの面白さを
知ったは、
コーチングと出会う
よりも
もっと前だ。

日本にコーチングが
広がり始める
よりも
もっと前から
私はこれを
やり続けていた。

日常とは
別の
空間(場)を
強引にでも
社内に創り出す。

当時は
「社内塾」
という名前で
やっていた。

それが私の
仕事の
原点だ。

・・・・・・

何のノウハウも
スキルも
ないままに。

今から
思えば
私がやっていた
のは、

「向き合う」
だけの場。

今だったら
コツもわかるが、
その当時は
コツどころか、

私自身が
コミュニケーション
下手だった。

なのに
「向き合う」だけで、
場は
どーにかこーにか
機能し始め、

中には
売上利益が
急拡大したり、

窮地から
脱したり、

という会社も
出てきた。

人間、
向き合えば
何とかなる、
向き合わなければ
何ともならない、
という
私の信念は
その時にもう
醸成されたのだと
思う。

どうすれば
この人達は
向き合えるように
なるのか?

これは
今も脈々と続く
テーマだ。

・・・・・・

今日も一日、
難易度の高い
チームコーチング
ばかりだった。

一日に
6つ。

ちょっと多過ぎる
が、
どうしても
今日この日に
必要だった。

その全てが
素敵な展開を
見せた。

タイミングも
ある。

適切な
投げかけも
ある。

だが、
終わった直後の
今、
ふと思ったのだが、

私は
約30年前の
あの頃の
チームコーチングの
感覚を、
忘れていない。

初心を
忘れていない。

あの時の
まま、
あの時の
姿勢で。

そうか。

よっぽど私は
この仕事が
好きなんだな。

つづく

いつでも壊せるか

側から
見ていて
大丈夫かなぁ、

心配になるほど、

急加速
している人が
いる。

特に
私の周りでは。

ちゃんと
真本音の道は
進んでいるのだが、

あまりの
急加速ぶりに
見ているこちらが
ヒヤヒヤする。

しかし、

心配して
向き合ってみると、
充分に
安定している。

大したものだ、

感心することが
最近は
増えた。

・・・・・・

かといって
本人に
自信がある
わけではない。

むしろ、
自信のなさは
日々、増している
ようにも
見える。

しかし
自信のない人
ほど、
急加速しやすい
というのも

真理だ。

人は
自信を持てば、
そこに
留まろうとする
からねぇ。

・・・・・・

夢やビジョンが
明確に
見えるかどうか、

人それぞれだ。

見えても
見えなくても
どちらでもいい、

私は
思っている。

ただ、
最近の大事な
方向性として、

たとえ
見えなくても
いいから、

見ようとする

という
姿勢がとても
大事だ。

そんな
世の中に
なってきた。

未来を
わかろう!
という
意欲が、
どうやらエネルギーに
そのまま
変換されるらしい。

そんな世の中に
変わったんだ。

・・・・・・

先日も
書いたが、

時代の進み方

突発的で、

ある意味
突然変異的に
なっていく。

予測は
ますます
つかなくなる。

今日、
立てた戦略が
明日、
意味を成さなく
なるのも
当たり前と
なっていく。

しかし
だからこそ、
しっかり
未来を見つめようと
する。

戦略も
しっかり立てる。

描いた未来も
構築した戦略も
いつでも
壊す覚悟で。

その在り方

丁寧に
持続すること。

我々に
できる
最も基本的で
効果的な
姿勢。

そんな人が
急加速も
できるんだ。

つづく

瞬発力で決まる

これは
かなりゆっくり
動いていくの
だろうな。

と、
油断していたら
とんでもない
ことになる。

ここからの
時代、
物事の動き方は

瞬発性


一気に増す。

つまり、
予測し得ぬ
タイミングで
グッと
一瞬で物事が
動く。

その瞬間に
しっかり
ついて行けるか
どうか?

人生も仕事も
展開が
根本的に変わる。

・・・・・・

一瞬で
爆発的なエネルギーが
放出され、

それが
現実を突如として
変容させる。

我々人間の
知恵の範疇では
これを
コントロールすることは
極めて難しい。

が、

予兆や前兆は
掴めるものだ。

その感性を
高めることは
できる。

・・・・・・

世の中
全体、

もしくは、

自分の
身の回りの
空気が

ある特定の
波長を
帯びると、

これは
予兆かも


わかる。

もちろんそれが
全て当たるとは
限らないが、

意識して
身構えることで
損をすることは
ない。

身構える
と言っても
力を入れる
わけではない。

むしろ
逆で、

身構える、
とは
いつもよりも
もっと丁寧に

自分を
整える

ということだ。

いつでも
どこでも
瞬時に自分の
スイッチを
入れられる
ように。

自分の
モードを
平常モードから
覚醒モードへ
転換できる
ように。

つまりは
直観的に
動けるような
自分に
なること。

いざという
時に
そうなれるよう、

普段から
日常生活から
自分の生き方を
「鍛えて」おくのだ。

つまり、
丁寧に
生きる。

一つ一つ。

自分の
意思を込めて。

惰性は
しない。

妥協も
しない。

気がついたら
こんなにも
時間を使って
しまった、
という後悔を
ゼロにする。

そういった
常日頃の在り方
が、
自分自身の
瞬発性を
増してくれる。

実は
それこそが
自然体の生き方
なのだが、

ほとんどの
人が
その自然体を
忘れているので、

あえて
「鍛える」
という表現を
使った。

自分を
鍛えるつもりで、
普段の
生活態度に
意識を向け、

しっかり
研ぎ澄まそう。

つづく

“一”という存在について

この世界の
すべてを
ひとまとめに
観察すると、

それは、
シルバーに
輝く
球体のような
感じだ。

あくまで
私の
イメージだけど。

その
シルバーは
それほど
明るくはない。

もっと
明るくなる
はずだが。

それほど
明るくはない
が、
深い。
とてつもなく。

そこには
あらゆるものが

存在が

内包
されている。

それを
外側から
見守る、という
視点が
私にはずっと
ある。

この
10年ほど。

その光の
輝き加減で
世の中全体の
動向が、

ある意味、
手を取るように
わかることも
ある。

しかし、
わかったところで
自分自身が
どうすれば
よいか?

すぐに結びつく
わけではない。

むしろ、
ジレンマばかり
増えることの方が
圧倒的に多い。

全体を
観てしまうことの
恐怖も
もちろんある。
いつも。

しかし、
観ずには
いられない。

たとえ
厳しい現実で
あっても。

・・・・・・

その、
全体のシルバーの
球体を
私は

“一”

と名付けた。

これで
「ひの」
と読む。

“一”と共に
常に私は
「ここにあろう」

してきた。

“一”と共に
目の前の現実に
向かい、

“一”と共に
目の前の人と
向かい合い・・・。

少なくとも
今の私の一つ一つ
の言動によって
“一”が
喜ぶかどうか?
については
本当に慎重に丁寧に
確認しながら
きた。

ある意味、
子育てに似た
精神状況だ。

それは
私にとっては
悦びであり
幸せの象徴的な
感覚だった。

・・・・・・

ここにきて、
“一”の輝きが
急激に増す
ようだ。

まだ、
実際に
増している
わけではない。

が、
その予兆が
ある。

前兆が
ある。

それもかなり
激しく。

そうなると、
現実レベルでも
きっとまた
ここから
急展開だ。

また、
忙しくなるな。

つづく

今回で3000回

不特定多数の
人達に
発信をすると
しても、

それは
目の前の
たった一人に向けて

向き合い
ながら

語りかける
のと
同じことだ。
本質的には。

実在レベル
での
リアリティある
目の前の
その人に
対して。

その人が
本当に深く
響く
一言を。

そんなこと
だけを
大切にずっと
このブログは
書き続けてきた。

いまだに
一回分
書き終われば、

もう
書くことは
何もないな。

言いたいことは
言い尽くしたし。

と、
思うのだが、

しかし
次の日に
なればまた
浮上する
メッセージが
ある。

その
繰り返し。

それで
今回、
3000回を
迎えた。

一度、
確かどこかで
文章は書いたけど
アップするのを
すっかり忘れて
しまった、
という日が
あったような
気もするが、

しかし
3000日、
毎日、欠かさず
続けられた。

もちろん
今後も
続けていくことに
なると思うが、

一旦、一つの
区切りのような
気がしている。

区切りで
思うのは、

ありがとう!

という
気持ち。

いつも
お読みいただいて
本当に
感謝しています。

つづく

ひらめきの深さを測る方法

ちょっとした
ひらめきと、

深い
ひらめきの

区別は
つくかな?

慣れるまでは、
どちらも
ひらめいた瞬間は
区別を
つけづらいだろう。

その瞬間では

あー、
こうすれば
いいんだ!


盛り上がる。

その感覚は
大事にして、

可能であれば、
すぐに
そのひらめきに
即した
行動を起こす
といい。

行動を
起こしている
その瞬間の
自分と、

一つの行動が
終わり、
その振り返りを
した時の
自分の感覚。

そこをこそ
よく
見つめ、
感じるといい。

深いひらめき
であれば、

行動すれば
するほど、

そして、

冷静に
客観的に
振り返れば
振り返るほど、

さらに
内側から
エネルギーが
湧いてくる。

最初は
盛り上がっていた
のに、
時間と共に
行動と共に
疲弊していく感覚が
あれば、

残念ながら
最初のひらめきが
浅かった
ということだ。

深いひらめき
というのは、
自らの真本音と
繋がる
突破口であり、

架け橋の
ようなもの。

架け橋は
行動と共に
さらに
安定したものと
なり、

さらなる
次のひらめきを
引き起こす。

ということ
なので、
いずれにしても
まず大切なのは、

ひらめいたら
行動に移してみる

という
姿勢だ。

ひらめきを
ひらめきの
まま
留めておくのは

実に
もったいない。

つづく

本当に迷ったとき

中心軸の
ような、
柱の
ような。

その存在は
光り輝いて
いるのだが、

長さが
足りない。

本来の
中心軸なら
天と繋がるくらい
上に伸びるもの
だが、

そいつは
私の身長も
ない。

だがこの
輝きようは
どうだ。

これまで
見たことのない
明るさと
強さだ。

類まれな
中心軸・柱だと
わかる。

が、
まだ
長さが足りない
のだ。

・・・・・・

これが
この世界の
限界か?
それとも
私自身の
限界か?


問う前に
一つ明確に
せねばいけない
ことがある。

私自身が
この軸・柱と
共に生きると、
決めるか
どうか?

まだこの
中途半端な
状態のうちに
決めねばならない
ようだ。

これはちょっと
しんどい。

だが、
時間がないから
こその措置
だともわかる。

どうしよう?

迷う。

・・・・・・

こいつが本当に
上に伸びたら
凄いのだろう
と思う。

が、
伸びるかどうか?

未知数なのだ。

そこに
確信はなく、

そうなると
もう、

信じるか?
信じないか?

ということに
なる。

信じるとは
意志である。

私自身が
その意志を
持てるかどうか、
だ。

・・・・・・

こういう時、
私はよく
空を見上げる。

広い空と
一つになる
感覚を得るまで。

よくそうやって
自分を
一度、
無にしてきた。

まっさらな状態
にまでして、
その上で、

私は何者か?

を問う。

問うて、
その時の最大の
答えを見つけ、

その状態で、
今、自分に
存在する問いと

真正面から
向き合う。

そして
最初の直観に
従う。

あとでどれだけ
後悔しても、
その時の答えは
変えない。

そのように
やってきた。

今回も
そうしよう。

というか、
もう
答えはよく
わかっているような
気がしてきたよ。

つづく

目立たぬように

過去の全てが
私に
語りかける
こと。

正直、
あまりに辛い
ことは
たくさんあった。

もう二度と
戻りたくない
過去も
たくさん。

きっと
記憶から除外した
ものも
数えきれない
だろう。

しかし、
そういったものも
全て含めた
過去全体から

背後から

私に
語りかけて
くる。

「もう、
小さく
進まなくて
いいよ」

・・・と。

そう。

目立たぬよう
目立たぬよう

やってきた。

そう
自覚していた
わけでは
なかったが。

でももう、
いいかな。

そーっと
進むのは
やめようかな。

つづく

10倍はひらめくことができる

本当は私達は
今の10倍以上は
ひらめく
ことができる。

直観力は
今の10倍以上には
高めることが
できる。

単なる思いつき
レベルの「直感」
ではなく、

物事の本質を
掴みきった
「直観」。

それらは、
「世界」から
与えられる。

自分の真の
想いと
世界とが
繋がった瞬間に
それらは
発現する。

で、
実際に
次々に発現され
続けている。

イメージで
言えば、

「世界」から
ひらめきの光
のようなものが、
まるで
光線のように
照射される。

が、
その照射から
私達は
自らの位置を
ずらしてしまうのだ。

だから、
せっかく照射された
光線があっても、

誰もそれを
受け取れない。

そういった
ものが、
10分の9以上
あるわけだ。

もっとみんなが
きちんと
ひらめくことが
できれば、

今の社会課題の
多くは
解決に向かう
だろう。

要は、
私達自身の
問題なんだ。

だから、

ひらめくべき
瞬間に
必然的に
そこに存在する
ひらめきを
しっかりと
受け取る。

これができる
人達を
私は増やしたい。

もちろん
私自身も
そんな自分に
なれるように
精進し続ける。

真本音で生きる
というのは、
そのための
最も基本な
姿勢だ。

つづく

目に見えないものを大切にするには

私達には、

目に見えない
ものを
大切にしよう

という気質が
もともと
備わっており、

近年は特に
その傾向が
高まっている。

それ自体は
良いことだと
思う。

が、
であれば
あるほど、

目の前の
ことを
より
大切にしよう。

目に映る
今ここの
現実を。

・・・・・・

今、ここに
ある
「もの」。

一つ一つの
「もの」

まずは大切に
しよう。

「もの」を
雑に扱う人は
多い。

しかしそれは
「現実」を
雑に扱うこと。

つまりは
「人生」を
雑に扱うことと
イコールだ。

大袈裟な、

思われるかも
しれないが、

まったくもって
大袈裟ではない。

・・・・・・

「もの」を
大切にできると、
「人」も
大切にできる
ようになる。

もちろん
これまでも
大切にしてきた
かもしれないが、

「もの」を
より丁寧に
扱うようになると、
「人」とも
これまで以上に
丁寧に向き合える
ようになる。

ちょっとした
気遣い、気配りが
できるように
なってくる。

案外、
それだけのことで
人間関係は
変わる。

ほんの些細な
一言が
関係に深く
影響する。

今ここに
きちんと心を
込めて
丁寧に向かう
ことは、

それこそ
が、

目に見えない
もの達に
深い影響を
及ぼすんだ。

・・・・・・

SNSもAIも、
私は
丁寧に扱えば
大きな力になる

思っているが、

SNSもAIも
雑に扱っている
人が多い。

雑さの拡大は
雑な世の中
雑な人生に
直結する。

「雑さ」
の影響が
一昔前よりも
圧倒的に
高まっているのが
今の時代だ。

目に見えない
ものを
大切にしたいので
あれば、

まずは自分の
日常生活に
おける
「雑さ」を
取り除くこと。

一つ一つ
丁寧に
生きることだ。

つづく

もうすぐ会えそうだ

私は、
一人じゃない。


本当の意味で
実感
できたのは、

「実在」を
認識できるように
なってからだ。

そして、
それまでの
私は
ずっと
孤独だったのだ、

ようやく
気づけた。

孤独から
逃げるために
どれだけ
私は
エネルギーと
時間を
使い続けてきたか?

その事実に
愕然となった
ものだ。

人生の
時間の使い方
が、
私本来のもの
とは
違い過ぎる。

それを
受け入れることで
初めて、
私は私の人生を
生き始めることが
できた。

・・・・・・

実在の私。
現象の私。

実在のあなた。
現象のあなた。

誰にも
「実在」は
ある。

実在と現象

一致すれば
するほど、

その人は
本質的な元気と
幸せを
常に
感じ取りながら
生きることが
できる。

その
一致度合いを
真本音度合い
とも
呼んでいる。

実在の
自分自身と
出会うことは、

私には
衝撃であった
と同時に、

私はこれまで
何をずっと
遊んでいたんだ、

これまでの人生への
後悔と
対峙することでも
あった。

今からでも
遅くはない。

と、
決意も新たに
一日を始めた
ところから、

人生は
変わり始めた。

実在の私が
最初に
教えてくれた
ことは、

私が私自身と
交わしていた
「約束」
だ。

それは
この人生の
目的であり、

いつまでに
何を
実現させるか?
という
人生の計画
でもあった。

それを
知った時、
私は
あまりの時間の
なさに

焦り、
追い詰め
られた。

最初はまるで
ブラック企業の
ノルマのように
感じられたが、

そのノルマに
真正面から
向き合った
その瞬間から、

私は
言いようのない
幸せ感を
覚えるように
なった。

そしてそれは
「私には
仲間がいる」
「私には
ファミリーがいる」
という
今から考えれば
当たり前の感覚を
私に
もたらしてくれた。

現象の仲間、
現象のファミリー
だけではない。

実在の仲間、
実在のファミリー
が、
いる。

実在ファミリーを
感じ、
彼らと共に
動き始めた。

すると、

そのうちの
何割かと、
この現象の世界
でも
出会った。

出会えば、
すぐに
わかった。

あぁこの人は
実在ファミリーの
誰々さんだ、
と。

ようやく
ここでも
出会えたな、
と。

ただ、
その人本人は
出会った瞬間では
まだ
実在と現象が
分離している。

だから私は
その人を
サポートし、
分離を
一致へと
紡いだ。

で、
この世界でも
仲間と
なった。

今の仲間達は
大体
こんな感じで
仲間となった。

正確に言えば、
私にとっては
ファミリーだ。

で、
なぜこれを
ここで書いているか
と言えば、

ここから
一気に
その「出会い」が
増えそうだからだ。

実在レベルで
ずっと一緒に
歩んできた人との

この現象の世界
での
出会い。

もうすぐ
あなたと
会えそうだ。

つづく

空虚からの脱出

その人の
中にある
「空虚」が

ダイレクトに
こちらに
移り、

ダイレクトに
それらを
感じながら
一体化する、

ということは
日常茶飯事だ。

もともと
昔は
私自身の中に
超巨大な
「空虚」が
あったので、

「空虚」
そのものには
慣れている。

というよりも、
「空虚=私」
というくらいに
それは
私と同一のもの
だった。
自己イメージ
では。

しかし
そうでは
ないんだな、
という事実を
受け入れられた
その瞬間から、

人生が
変わり始めた。

空虚を
埋めるための
行動。

もしくは、

所詮自分は空虚だと
諦めてしまった
上での、
悪い意味での
達観した行動。

そういった
行動が
引き起こす
空虚な現実。

空虚と空虚の
循環。

そのループ
としての
人生から、

スッと

脱け出せた。

それはまさしく
「脱出」
という言葉が
ふさわしい。

脱出できた
私は
ようやく、
自分の本当の
道を

本当に望む
道を

歩き出すことが
できた。

その道を
私は

「恩恵」の道


呼んでいる。

空虚では
ない道は、
たくさんの
恩恵に
巡り合う。

だが、
自分自身が
空虚と共に
あれば、

その恩恵を
受け取れない
のだ。
せっかく
目の前にそれが
きたとしても。

空虚から
脱出できて
初めて
私達人間は
恩恵の道に
入れる。

恩恵を
素直に受け取れる
人は、
恩恵を
人々に、
現実に、
世界に
対して
与え続けることが
できる。

そしてそれが
また
恩恵として
返ってくる。

恩恵の
循環。

その中を
歩み続けるのが
恩恵の道だ。

空虚の道
から
恩恵の道
へ。

その
きっかけとなる
のが、

ほんの
一時的にでも
「空虚」から
出ること。

そのため、
目の前の
クライアントさん
から私は

そのクライアント
さんの中にある
「空虚」を

いったん
すべて受け取る
のだ。

ただし、
それはきっかけ
でしかない。

いったん
空虚から出た
その人が、
恩恵の道に
入れるかどうか?

その人自身の
意志による。

もちろん
そこはサポート
させていただくが、

その人が
生き方を
変えようとしない
限り、
その人はまた
再び
自ら「空虚」を
生み出し始める。

最大のサポート
はするが、
最後はその人自身
が決めること。

私は
祈るしかない。

空虚の道
から
恩恵の道
へ。

すべての人が
そうなってほしい、
というのが
私の願いだ。

つづく

この時代(世界)の掟

後ろ髪を
引かれるものは
たくさん
あるだろう。

その一つ一つ

大切なことかも
しれないが、

一つ一つに
構いすぎて
いると、

肝心なタイミングで
行動を
起こせなくなる。

今は、

進むことが
第一優先だ。

進まねば、
先はない。

そう、

先は
なくなるのだ。

・・・・・・

安定を求める
気持ちも
大事だ。
人として。

だが、

未知の領域に
今の私達は
いる。

未知の領域
においての
安定など

あるはずが
ない。

これまでと
同質の安定を
望んでも、
それはさすがに
無理だ。

ここでは、
進むことでしか
安定は
得られない。

もうその
世界に
私達はいる。

そこはしっかり
はっきり
自覚しよう。

・・・・・・

もう
もとの世界には
戻れない。

もとの時代には
戻れない。

戻っても
破滅が待っている
だけだ。

進むしか
ない時代。

それが
我々の本能でも
あるが、

そういう世界を
我々は
創ってしまったんだ。

・・・・・・

未知の領域の
方が、

実は、
本質的な未来は
観やすい。

未知の領域
だから、
あまりに
わからないこと
だらけだから、
未来は
描けない。

・・・では
ないのだ。

むしろ
実在の自分が
望む未来は

ここでこそ
実現しやすい。

堂々と
自分の意志
として、
未来を描こう。

・・・・・・

ここでの
旅は
始まったばかりだ。

指針は
世界からは
与えられない。

自分で決める
しか
ないんだ。

つづく

本当の向き合い方

人と人が
向き合う場面
というのは、

私は毎日の
ように
拝見しているが、

何度見ても
何度見ても
すがすがしい。

ところが、

向き合って
いるようで
実は
全然そうではない
という
向き合いもどき
というのがある。

残念ながら、
ほとんどの
人間関係が
そうだ。

だから
向き合い方の基本
を私はいつも
お伝えする。

向き合う、
とは
意識を

完全に

相手に向ける
ということだ。

自分の心に
意識の焦点を
当てるのでは
なく。

相手だけを
見つめる。

すると逆に、
自分が
本当に伝えたいこと、
本当に 
この場で
この人と共に
語り合いたいこと
などが
自然に浮上する。

その浮上した
ものに
素直になって
その場を
楽しむ。

意識はずっと
相手に
向けながら。

・・・これは
口頭で説明すると
とても難しそうな
印象となる。

が、
意識して
やってみると
案外、簡単だ。

慣れれば
いつでもどこでも
できるように
なる。

なぜなら、
これこそが
我々人間の
「自然体」だからだ。

チームコーチング
の場では、
私は必ず
そういったことを
お伝えし、
実践していただく。

すると
5分、10分くらいで
皆さん、
できるようになる。

で、
すがすがしい
風が吹くんだ。

その風が
吹けば、
もう
始められる。

つづく

充電スポットの創り方

人が集まれば、
その瞬間から、

場と人との
干渉が始まる。

干渉、
と言っても
悪い意味ばかり
ではない。

波長と波長

重なり合うことで、

時には
お互いを
強め合い、

時には
お互いを
弱め合う。

場にも
真本音度合い
とか、
次元がある。

もちろん、
人にも。

場と人の
それぞれの
真本音度合いや
次元が

影響を
及ぼし合う。

・・・・・・

真本音度合い
の高い人が、

ある一つの場を
いつも
利用していたら、

その場の
真本音度合いは
高まり始める。

そしてその
高まった場に
別の人が
来れば、

場から影響を
受けながら、
その人の
真本音度合いも
高まり始める。

組織で
言えば、

真本音度合いの
高い人達を
「要」として集め、

いつも同じ
会議室で
語り合いを
続ける。

すると、
その会議室の
真本音度合いは
高まり、

今度は
その会議室を
使うことで
他の人の
真本音度合いも
高まり始める。

・・・という感じだ。

私はいつも
これを
活用している。

組織とは、
人だけでなく、

人と場の
コラボだ。

そういった
意味で、

最初から
真本音度合いや
次元の高い
場所に
オフィスを構える
のも
お奨めだ。

自分が
住むところも
そう。

人と場の
コラボ。
その視点を
大切にすると
いい。

・・・・・・

私は以前から、
街のあちこちに
自分の
充電スポットを
創り出している。

もともと
ある程度、
真本音度合いの
高い場を
見つけ、

できるだけ
そこに
行くようにするのだ。

何度も通えば、
私の真本音度合いが
場に影響を
与え、
お互いに共鳴や
共振を始める。

すると
どんどん
居心地の良い
場になる。

特に
お奨めのカフェ
などを
その状態にしておけば、

そのカフェでの
仕事が
とても捗る。

自分自身の
真本音度合いが
高まれば、
そういった活用法も
あるんだよ。

つづく

思った通りでいい

芽が
育つ育つ。

必要な
全ての体験を
吸収しながら。

最初は
インプット
ばかりだが、

そのうちに
溢れるような
アウトプット

くるだろう。

本当に
面白いのは
そこからだ。

思った通りに
行動すれば、
いい。

やってみて
検証して、
やってみて
検証する。

決して
現実に対して
目を瞑らず、

もし上手く
行かなくなったら、
さらに
思う通りに
やることだ。

真本音度合い
が、
まだまだ
高くない人と、

真本音度合い
が、
ある一定以上の
水準を
超えた人とでは、

育成の仕方

ある意味、
真逆になって
くる。

真本音度合い
が高まれば、

極端に
言えば、

能力が
全く伴って
いなくても、

思いきって
思い通りに
やってしまえば
いい。

乱暴だが、
一つの経験から
得られることは
とても多く、

能力は
最短で
ついてくるから。

ゴツゴツ
ぶつかっても、

真本音で
進んでいれば、

その
ぶつかり方

最善となる。

失敗も、
最高の失敗

なるんだ。

自信は
持たなくても
いいから、

思った通り
やってごらんよ。

つづく

ここは全身全霊だ

エネルギーが
一点に
収斂していく
感覚がある
場合は、

今の自分は
そこにのみ
全集中すべきだ、

という
合図だ。

他の一切を
やめること。

思い切って
手放すか、
後回しに
するか。

いずれに
しても
中途半端は
いけない。

99.9%も
中途半端だ。

100%そこに
全集中。

それ以外は
ダメ。

この
メリハリこそ
道を開く
唯一の
進み方。

全身全霊、
全生命力、

いや、
全“命”
を、

そこに注げ。

つづく

星の願いを知るには

自分が
彼方にある
見えない何かと
繋がった感覚が
ある。

時々、
そういうことが
ある。

その、彼方に
意識を向け、
集中していると、

何か、
星のような
ものが
観える。

まだ、
生まれたばかり
の星?

まだ
暗い星?

光を
欲している?

星は何かを
願っている
ようだ。
自分が
光り輝くために。

何だろう?

必死に
受け取ろうと
する。

一つ
閃いたことが
ある。

私一人では
答えが出ない、
ということ。

あぁそうか、
あの人と
あの人と
あの人に
話をしてみよう。

我々でないと
決して
話せない会話を
してみよう。

きっと、
その中で
星のことが
わかる。

星の願い

わかるだろう。

つづく