チームパフォーマンスコーチ

過去はここにある

懐かしい風が
フッと
吹く。

懐かしい自分が
フッと
出る。

過去が
目の前に
蘇る。

過去は私と
共にいる。

いつもいつも。

経験は私と
共にいる。

いつもいつも。

それがわかって
いるからこそ、

手放せるんだ。

経験するから
わかること
ばかりだ。

でも、
役目を終えた
経験は
手放すべきだ。

懐かしい風。

懐かしい自分。

フッと、
私はそれらを
手放した。

つづく

ふいにするかもしれないよ

近くの星と
遠くの星。

同じ星だが、
遠くの星は
やはり

あまりに
遠い。
手が届かない
感じだ。

近くの星は
憧れでは
あるが、
頑張れば
行ける気はする。

そういった場合、
我々人間は
まずは近くの星から
目指すといい。

そこを目指し
そこを達成した
その上で初めて、
見える景色がある。

すると、
最初は遠過ぎて
あまりに実感のない
星だったものが、

手が届くかも・・・

という
印象になるかも
しれない。

今の自分と
未来の自分は
異なるのだ。

今の自分の
感覚が
ずっと未来永劫続く
ということはない。

今日、決断
できなければ、

明日、決断
できる自分に
なればいい。

それが
基本だ。

それを重々
わかった上で、

しかしそれでも
最初から
遠くの星を目指して
しまう。

これが私の
生き方・行き方だ。

やはり
他の人には
オススメできない。

場合によっては
人生全体を
ふいにするかも
しれないから。

しかしそれでも
最初から
遠くの星を目指して
しまう。

そんな気配の
人達が
今、
私以外に増えて
いるのは、
驚くべきことだ。

つづく

本当に強くなるには

変な表現だが、

心の左半身が
麻痺している
ようだ。

酷使しすぎた
ようだ。

しかし
今の歩みを
止めるわけには
いかない。

幸い、
心の右半身は
健全だ。

これでは
バランスが悪いだろう

思われがちだが、

そうでもない。

心は
体と異なり、
独特の、絶妙な
バランスをとることは
できる。

本当に心が
健全な人など、
今のこの社会には
ほとんどいない。

皆、各々の
傷を負っている。

心の傷、
というよりも
魂の傷
という表現の方が
より適切かもしれない。

誰もが
健全さを忘れている。

その中で
やるべきことに
邁進すれば、
それは
麻痺の一つも
起こすだろう。

私は私の心を
最低、
あと23年は
もたせなければ
ならない。

そのためには
逆に、

麻痺しようが
どうなろうが、
それでも進み続ける
という術を
身に付けなければ
ならない。

何かあれば
すぐに止まってしまう、
・・・という「弱さ」では
それこそ23年も
もたないだろう。

無謀は
行けないが、

ちゃんと術を
講じながら、

決して
止まらない
という選択を続ける。

人は
進むための
存在だ。

人が歩みを
止めたら、
それこそそれだけで
死んでしまう。

何があろうとも
進みながら
強くなるしかない。

止まって
強さを取り戻して
また動いて、
弱ったらまた止まって、
強さを取り戻して
また動いて、

・・・では、
いつまで経っても
強くならないのだ。

私達は
もっともっと
自分を鍛えねば
ならない。

あなたも
そうではないか?

つづく

なぜそんな無茶な進み方を

もし
煙が立ち込めて
いて、
周りがまったく
見えない状態に
入ってしまったら、

誰だって

煙の薄そうな
方向に逃げるだろう。

まずはそちらに
逃げてから、
客観的に
煙の外から
状況を観察する。

これが最も
妥当な
対処法だろう。

しかし私は
私の人生において
それを
して来なかったのだな、

最近、ようやく
自覚した。

煙が立ち込めて
きたら、
私はその
最も濃い方向に
自らを進めた。

自殺行為に
等しい。

でも
それをせずには
いられない
何ものかが、

何らかの
理由が

私には
明確にあったのだ。

煙の
最も濃い方向に
行けば、
死ぬかも
しれない。

しかしその代わり、
その煙の
根源を
ダイレクトに
知ることができる。

ダイレクトに
理解して
根本的対応をする方が
早いか?
それとも
私の命が尽きる方が
早いか?

そういった
スレスレのところを
私は躊躇なく
進んだ。

とてもとても
人にオススメできる
生き方ではない。

その怖さを
知っているが故に
私はこれまで
誰にもそういった
進み方を
奨めてこなかった。

実際、
これからも
奨めないだろう。

しかしなぜ
私は
そのような生き方を
続けたのだろう?

答えは
一つである。

それは
「特異点」を
見つけるためだ。

「人生の特異点」
だ。

もちろん
そんなに簡単に
見つかるものでは
ない。

それも充分に
承知の上で、
私はその生き方を
選び続けた。

煙の根源を
ダイレクトに
知るため、

煙の根源と
ダイレクトに
対峙するため。

これをしなければ
「特異点」を
見つけることは
永遠にできないだろう。

しかしどうも、
そういった
私の生き方と
似た生き方をしている人が
いるようだ。

いるようだ、
というよりも
最近はそういった
人との出会いが
増えている気がする。

あえて
こういう話は
しない。

後押しも
しない。

普通に進んで
くれればいい、と
私は
願っている。

でも
その人には
その人の進み方が
ある。

私がそうで
あったように、
これは誰にも
邪魔されたくない。

だから
そっと見守るだけに
しておく。

きっと将来、
その人とは

同じような
歩みの果てに、

共に力を
合わせている
気がする。

が、
今は何も
意図はしない。

私は私の
進み方を
ただ粛々と
これからも進める。

つづく

活気を決めるもの

海の音が
聴こえる。

風の音も
聴こえる。

人々の賑やかな
話し声も。

活気があるな、
と喜ぶ。

人の内面には
様々な世界が
ある。

それは
その人自身が
自ら創り出すもの。

しかし
その内面は
ほぼそのまま
外面に反映される。

その人自身が
まるで
映画のフィルムの
ような役割を
果たし、

その人の内面が
現実世界に
映し出される。

すべての人々の
一つ一つの
フィルムに
内包されているものが、

もちろん
すべてではないが、
その一部が、

現実に
映し出され
重ね合わされ、

そして現実の
世界が
創り出されていく。

その
重なり具合が
調和しているか
どうか。

私はいつも
それを
あるがままに
感じようとしている。

現実に
起きていることを、

ただ
外面的に
捉えるだけでは
足りない。

外面的に
原因を捉え、
外面的に
対処するだけでは

浅過ぎる。

それでは物事の
根本的な改善には
ならない。

内面と外面の
繋がりを観る。

そして
外面の重なり方を
観る。

外面の重なり方を
調和させるには、

一人ひとりの
内面から
変えなばならない。

しかしそれには
本人の意思が
必要だ。

だからその意思を
真本音に基づく
ものにする、
ための
サポートをする。

真本音であれば
それは
間違いなく
その人の本当の
意志・意思であるから。

そして
真本音に基づく
フィルムとなれば、

外面に現れる
ものすべてが
調和した重なり合いを
自然に醸し出す。

私が毎日毎日、
毎日毎日、
やり続けていることは
そういうことだ。

賑やかで
活気があり、
かつ
調和している。

今は、
そういう場が
増えてきた。

今年に入ってから
急激に。

世界はまだまだ
表面的には
混乱しているし、

それは今後も
さらに激しく
なるだろう。

しかし一方で、
調和の場は
増えている。

混乱か
調和か。

それを決めるのは
我々一人ひとりだ。

つづく

すべてに意味があったさ

水の中を
ビュンビュン
泳いでいく。

まるで
水なんか
ないかのように。

空中を
飛ぶかのように。

まったく
抵抗を感じずに。

自由自在に。

自分の周りに
あるもの
すべては、

自分が
進むために
ある。

すべての存在が
自分の仲間だ、
と。

敵・味方
という短絡的な
表現をあえて使えば、

すべてが
味方だと。

すべての
存在が。

世界は
豊かさに
満ちている。

一見、
不完全に見える
ものも、

それそのままで
完全であり、

一つとして
存在意義のない
ものはなく、

一つ一つが
あるからこそ、
この世界なのだ、
と。

水中を
泳ぎながら
感じている。

あぁ、あんたは
水中を
体験したんだな。

水中を
駆け巡ったんだな。

良い体験を
したな。

で、どうだい、

水中から出て
人間に戻った
今の感覚は?

物足りない
かい?

窮屈かい?

そうでも
ないよ。

水中の感覚は
ずっと
残っているよ、
ここにね。

よかったな。

じゃあやっと
あんたも
いっぱしの
人間だな。

あぁそう思うよ、
私もね。

で、
どうするんだい?
ここからは。

もちろん
自分に素直に
生きるさ。

決めたことを
決めた通りに
やっていくさ。

そうか、
何も変わらなかったな。

そりゃそうさ。

最初から
私はちゃんと
生きている。

そうではない、

思った時期は
長かったが。

すべてが
必要だったんだ。

水中を泳ぎながら
感じたようにね。

つづく

ツルンとした中心核が

自分の
中心核に

変化の兆しが
ないか?

まるで太陽の
黒点のように、

ちょっとした
歪みのような。

一見すると
それは小さくとも
とても不安定な
感じなので、

不安になるかも
しれない。

しかしそれは
とても大事な
歪み。

その歪みが
あるからこそ、
まるでそこから
皮が剥がれ、

それは
葡萄のように、

中から
ツルンと
新たな核が
生まれるだろう。

その
生まれたて
ホヤホヤの核は

不慣れな
うちは、
とても敏感で、

この世に
生まれたての
赤ちゃんや幼児が
一つ一つの現実に
過剰反応するように、

感情豊かに

恐ろしいほどの
生きる実感を
与えてくれるだろう。

しかしそれも
じきに慣れる。

その敏感さは
そのまま
感受性の豊かさ
となる。

そして
様々な未来が
観えてくる。

この未来は
好き!
この未来は
嫌い!

と、
未来に対しても
敏感になり、

自ずと
自らの進むべき道が
わかってくる。

敏感なことは
悪くない。

むしろ私達は
鈍感に
なり過ぎたのだ。

敏感なことは
悪くない。

一つ一つの
体験を、

未来への
一歩一歩を

もっと
味わおうでは
ないか。

つづく

絶望感に見舞われたら

私達の心には
結構簡単に

絶望感


湧くもんなんだよ。

本人が
気づいているか
どうかは
別として。

心の奥の方に
ひっそりと
湧くこともある。

でも
そういったものほど
怖いけどね。

絶望感には
敏感であると
いい。

絶望感が
あるからと言って
それ自体が大問題だ
と思わない方が
いい。

絶望感は
簡単に湧くもの
だから。

むしろ
絶望感を覚える方が
健康的だ。

自分自身が
創り出す絶望感も
あるが、

人から感染する
絶望感も
多い。

絶望感というのは
ウィルスに
似ている。

人から人へ
伝染する。

だから
絶望感があることで
絶望しない方が
いい。

それよりも、
その絶望感と
しっかり向き合うこと。

その絶望感は
何を
言っているのか?

何を
自分自身に
伝えようとしているのか?

その中身を
理解して、

その上で
自分の意思で
しっかり対処・対応しよう。

場合によっては
中身を理解するだけで、

その絶望感は
満足して
消えていくかもしれない。

理解しただけでは
消えてくれない場合は、

現実的に
何に対してどう対処すれば
良いかを
しっかり考えよう。

そして
自分で行動を起こそう

決めること。

その決断だけで
また
絶望感は
消えていくことも多い。

結局は
意志・意思だ。

自分の人生は
自分で開くんだ、
という
意志・意思で
決まる。

絶望感は
すぐに宿る。

でも
大事なのは
そこからの自分の
生き方だ。

つづく

自己コントロールのために

高く高く
上空に舞い上がり、

自分の人生

今の自分の
立ち位置を

俯瞰して
みよう。

人生全体の中の
どの場所に
今のあなたは
いるだろうか?

そして
どのような姿勢で
どのように
振る舞っている
だろうか?

ちゃんと
毅然と
今と向き合っている
だろうか?

毅然と
未来に向かって
いるだろうか?

このままの毎日は
あなたの望む
未来へと、
繋がっているだろうか?

地上に降りて、
今度は
あなた自身の
すぐ横に立ってみよう。

すぐ間近から
見つめるあなたは
どう観える?

あなたの
空気感は?

意識はちゃんと
外に(現実に)
向かっている?

外を(現実を)
あるがままに
見つめてる?

目はきれい?
澄んでいる?

自らの意志で
進もうとする
空気感は出ている?

最後に、

鏡で実際の
自分の顔を見つめて
みよう。

あなたの顔は
どう?

良い表情を
している?

良い目を
している?

エネルギー
度合いは?

自分の目を
見つめていると、
パワーをもらえる?

それとも
奪われる?

周りの人達は、
そのあなたといつも
関わっているわけだ。

あるがままの
自分を
見つめてみよう。

客観的な
自分のチェック。

とても大事だ。

まずいな
このままでは、

思ったら、

わずかでも良いから、
自分の生き方
在り方、
動き方を
変化させてみよう。

あなたを、
あなたの人生を
コントロールできるのは
あなただけだから。

つづく

本気で目指そうよ

手の届かない
ものを
求めても
意味がない。

・・・と
よく言われるが、

本当にそれは
手が届かない
のだろうか?

あなたの
望むことは
すべて、

本当は
手が届くのでは
ないか?

今の自分

基本にし過ぎて
いないかい?

過去の自分

縛られ過ぎて
いないかい?

真本音で生きる
とは、
過去の経験の
延長線上でしか
生きられない、
という
人生から
自分自身を解放
することでも
あるんだよ。

経験を超えた
人生。

そういうことが
人には
できるんだ。

自分の中に
どうしようもない

抑えようのない

願いが
生まれてしまう
だろう。

それに
蓋をしたり

無視したり

するのでは
なく、

一度、
堂々とそれを
目指して
みないか。

私達は、
「非線形」の成長を
することが
できる。

それを本気で
望むかどうか?
の違いでね。

そんな時代が
始まったんだよ。

その願い、

本気で
誠実に
目指してみないか?

つづく

大変なのはわかっている

やっとここまで
来れたな、

思ったら、

また
後ろに引き摺られる。

前に進むのは
時間も労力も
かかるのに、

後ろに引き摺られると
あっという間に
もとの場所に。

進んでは
戻り、

戻っては
進むのだが、

戻るのは
速い速い。

やっぱり
もといた場所の
方が、
居心地が良いから。

人間誰しも
そうだろう。

しかしそれでも
私達は
進まねばならない。

いつまでも
同じステージで
足掻いているわけには
いかない。

時間が
ないのだ。

人生の時間が
足りないのだ。

随分と無茶な
目標設定を
したものだと思う、
我々は。

しかし、
何がとうあっても
自分自身との
約束だ、それは。

約束を
果たすために
我々は
ここにきた。

それを誠実に
思い出すか、

忘れたふりを
するか。

その違い
だけだろう。

力は、
ある。

もともとね。

眠っている
だけだ。

それを
揺り起こすのも
自分自身。

早く目を
覚まし、

先に
進もう。

もともと
大変だとわかって
いて、

ここに
来たんだから。

つづく

私のサポートの本質

境目と区別。

これが
大事だ。

私のコーチング
とは、
クライアントさんに

境目と区別

を自分で
見つめることが
できるように、

サポートさせて
いただいている。

・・・結局は
そういうことなのかも
しれない。

例えば、

今日は昨日と
同じ自分として、

昨日の
延長線上の自分
として、

物事に取り組めば
良いのか?

それとも
あえて
昨日までの自分を
否定するかの
ように、

大きく変えて
物事に取り組めば
良いのか?

例えば、

ここからは
これまで学んだことを
活かしながら
進めば良いのか?

それとも
あえて
これまで学んだ
あらゆることを
手放した状態で
進めば良いのか?

つまりは、

経験上の人生を
今日は
進めば良いのか?

経験を超えた
人生を
今日から始めるのか?

その
境目と区別。

例えば、

Aさんとの関係。

Aさんとは
昨日までと同様
もっともっと向き合い、
共に人生を紡ぎ合い、
共に同じ方向を
見つめながら
進めば良いのか?

それとも
あえて
ここからは
これまでの関係を
大きく変えて、

一気に
Aさんから離れる
方向に
進めば良いのか?

その
境目と区別。

昨日と今日は
同じではない。

そして
昨日までのように
今日を送れば
良いのか?

昨日までとは
別物の
今日を送れば
良いのか?

いつから
そうなるのか?

今は
どうなのか?

境目と区別。

当然であるが
これが最も
よくわかるのは、
その人自身だ。

なのに
気づかないままに
進んでしまう。
惰性のように。

その判断を
自ら見極める。

そのためのサポートを
させていただいている。

境目と区別。

ここからの時代は
これまで以上に
これが大切だと
私は思う。

つづく

とても大切な問い

今回もまた、
このタイミングで
重要な問いを
一つ。

・・・

あなたが
これまで観えなかった
ものが
観えるようになるために、

今、
手放すべき
自分の信念は何?

・・・

これまでは
ずっと大切にしてきた
けど、
ここからはもう
必要ない信念。

これまでは
その信念があったからこそ
道を開くことが
できたが、
ここからはもう
あなたの道を
阻害してしまうだろう信念。

それは
何だろう?

ちゃんと自覚して
ちゃんと手放そう。

自分で自分を
阻害する必要は
ないんだ。

つづく

誰か教えてほしい

謎多き
存在が、

人だ。

謎を
解けたと思ったら
すぐに

次の謎が
来る。

あの人は
やっとこさ、
ここまで来て、

あと一歩

あと一息

だったのに、

なぜここで
引き返そうと
するのか?

ずっと
永遠に近い時間を
かけて

ここまで
来たのに。

本当に望んでいた
ものを
自力で掴む
ことが

やっとできるように
なったのに。

誰にも
何にも
邪魔されず、

自由にそれを
手に入れることが
できるのに。

なぜ
最後の一歩が

一息が

出ない?

これで
終わってしまうと
思い込んでいるの
だろうか?

ここからこそが
始まりなのに。

いやでも
違うな。

そんな理由では
ない。

それくらいの
理由であれば、
いくらでも対処は
できる。

何も出来ない
私。

他者としては
何の力にも
なれない。

なぜそこまで
強固な決心で、

諦めるのか?

謎だ。

誰が教えて
ほしい。

何か
手立ては
ないものか・・・

つづく

運命とか宿命とか

毎日をちゃんと
真本音で
生きていると、

生きる理由
とか

人生の目的
とか

どうしようもなく
それが

「わかる」

瞬間は
必ずくるんだ。

最初は
理屈ではなく。

単なる
「感覚」
としてくるんだ。

感覚なので、
意味は
わからない。

でも
感覚なので、
全部
わかってしまう。

感覚でね。

最初から
わかった上で
ここにいるんだな、
と。

感覚でね。

すると
どうしようもないくらいの
安心感が
くる。

次に
不安がくる。

さらに
その次に、

自分の
運命とか宿命とか

そういったものが
目の前にじっと
横たわっているのを

やはり感覚で
知り、

ストン

何かが
肚に落ちる。

そっからだよ。

本当に
落ち着いて
生きることが
できるのは。

何があっても
心は揺らいでも

魂は
揺るがなく
なるのは。

皆、
そうさ。

あなたも、
そうさ。

つづく

真の能力開花とは

掬い上げるように
能力とは
掘り起こされる。

本来の自分の
力は

それが発揮されるか
どうかは、

すべて
自分自身が
決めている。

眠っているものを。

自分の意志と
自分の行動と
自分の姿勢を

評価判断では
なく、
解釈でもなく、

ただじっと
本来の自分は
観察し続けている。

そして

何かがカチッと
完了した時、

この瞬間だ!


判断する。

一気にすべてを
開花させるわけでは
ない。

少しずつ。

必要な分だけ。

掬い上げる
ように。

しかし着実に
開花は進む。

無茶ではなく、

着実に、

しかし
必要なその時に
ちゃんと間に合う
ように。

それが本来の
能力開花だ。

つづく

必死から恩恵へ

やってできない
ことはない。

と、
信じて進んで
コケる。

一つとして
思うように
進まない。

そんなこと
ばかりだった
気がする。

私の人生の
話だ。

しかし
振り返って
これだけは!と
誇れるのは、

とにかくいつも
必死だった
ということ。

必死だったので
なんとか
やってこれたのかな、
とも
ふと思ったのだ。

力を抜くべき
ところで
力を入れて、

力を入れるべき
ところで
ガス欠を起こす。

そんなんばっか
だったけど、
必死だったことは
間違いない。

上手くやろう
というのは
もちろんあったが、

本当に上手く
行かせられるような
器用さはなく、

大概、ドツボに
ハマったので、

結局
必死になるしか
なかった、
最後には。

そんな自分が
愛おしいな、

実は今日初めて
思ったかもしれない。

ふと思ったのだ。

今の私の
毎日は、

恩恵ばかりだ。

幸せなこと
ばかりが
やってくる。

もちろん
真本音で生きる
ということに
シフトチェンジしたからだ、

言えばそうだが、

今回はあまり
そういう結論には
したくないところが
あってね。

ゴツゴツ
ぶつかりながら
歩いてきたのが、

それこそが

良かったの
かな、と。

今日、また
素敵な人達と
出会えたんだ。

恩恵だよ。

本当に
ありがたいことだ。

必死にきて
良かったな、と

そういう気分で
思えたんだ。

つづく

出会いの前に

きっと
幸せな出会いに
なるな、

思う。

とても大切な
人達。

人生に
とっても、
仕事に
とっても。

ここで出会い、
その瞬間を
境にし、

一つ一つ
お互いの人生を
紡いでいく。

それはきっと
あまりにも
情熱的な展開に
なるのだろうが、

その情熱を
高揚したまま
受け取り発散する
よりも、

ただ淡々と

出会いのその
一瞬から

ただ淡々と

丁寧に
紡いでいきたい。

お互いの
時間と
足跡を。

より
幸せになるのは
わかっている。

より
豊穣な人生に
なるのも。

だからこそ
その悦びを
大事に
抱き、

静かにその時を
迎えたい。

あなたとは
静かに
出会い、

静かに
歩みたいのだ。

つづく

素敵な一日

水平線に沈む
太陽を見ながら、

今日という
一日を想う。

今日も
すべきことを
すべて
完了させることが
できたな、と、

満足感と
共に。

しばらく世の中は
暗くなり、

また時間が
経てば
次の朝が来る。

そこからは
一体、
どのような一日が
始まるのだろうか。

「一日」
という単位は
絶妙だな、と

いつも思う。

「一日」に
合わせた人間の
体になっているのだから
当然と言えば
当然だが。

それにしても
「しっくり」
くる。

「一日」を
本当に大切に
できたならば、

それは
「自分」を
本当に大切に
できたことに
なる。
この、独特の
満足感。

「一日」を
本当に大切に
できたならば、

それは
「人生全体」を
本当に大切に
できたことに
なる。
という感覚に
なれる。

もし
人生をシフトチェンジ
させたいと
願うならば、

まずこの
「一日」を
変えてみよう。

と言っても
最初からすぐに
大きく変える
必要はない。

「今日はここだけ
変えてみよう」

と、
しっかり自分の
意思で決め、

それを
実行する。

やり過ぎず、
途中で
諦めず。

ちょうど
100%、
決めたことを
する。

ちゃんと100%で
止めれば、

独特の
「完了感」が
くる。

それは
「完全調和」の
感覚だ。

この感覚で
「一日」を
完了させることが
できれば、

次の「一日」も
素敵な始まり方
になる。

人生を
大切にしたい
ならば、

まずはこの
「一日」を。

今から始まる
「一日」から。

つづく

真に成熟した人とは

私達は
卵の殻の中に
いる。

何度
殻を破って
生まれても。

またすぐに
卵になる。

だから
殻を破り続ける
ために
ここにいるようだ。

いつまで
たっても
未熟なのか?

そう。

いつまで
たっても
未熟だ。

そういった
事実を
真に受け止め

その
未熟さを
真に受け入れ

未熟であり続ける
この歩みを
真に楽しめるように
なったら、

それが
成熟
ということでは
ないか。

成熟した人
とは、

自分の未熟さに
悦びを感じられる
人。

さらに
もっともっと

殻破りを
楽しめる人。

もっともっと
進化し続ける
意志を持つ人。

だから
より
謙虚になれる。
真摯になれる。

誠実に
なれる。

穏やかに、

そして
強く。

やさしく、

そして
厳しく。

つづく

未来か、足元か

足元を
見るか?

遠く
未来を
見るか?

もちろん、
両方大事だ。

両方を
繋ぐことが
大事だ。

しかしあえて
「今は」
ということで
言おう。

今は
遠く未来を
しっかり
見つめよう。

遠いから
わからない、
ではなく。

遠くても
できるだけ
はっきりくっきり
見つめよう。
強い意志で。

今はそれが
できるはず。

未来が
見えれば
見えるほど、

足元も
くっきり
見えてくる。

今は、
あえて、
不必要なくらいに

遠く未来を
見つめよう。

つづく

ここでまた問い一つ

今回はまた
ここで
重要な問いを一つ。

・・・

日常生活の
ルーティンの中で、

一つだけ何かを
壊すとしたら、

何を壊す?

・・・

日々の習慣、
毎日の生活に

少しヒビを
入れる。

それにより、
ちょっとした
引き金として
何かとても
大切なことが
起こる。

今はそんな
予兆のある
空気感だ。

何も起こらない
かもしれない。

でも、
何かが起こる
かもしれない。

その「何か」が
ちゃんと
発現するように、

その糸口として、
毎日の自分の
習慣を
少しだけ
破壊してみよう。

つづく

無謀だが、行くよ

滝が
見えるだろう。

天地を
切り裂くように。

垂直に
そそり立って
いるだろう。

あそこを
ダイレクトに
越える勇気は
あるかい?

普通じゃ
できないだろう。

私にも
できる気は
しない。

何がどうあっても
不可能だと
思うよ。

でも
考えてごらんよ。

ここで
引き返すくらい
だったら、

最初から
こんなところまで
来ていないだろ?

不可能なのは
わかっていて、
それでも
来たのだろ?

「自分」という
範疇では
決してできない道を
進むという
意志でのみ
来たんだろ?

だからさ、
どれだけこれは
無理だな、と
思っても、

やっぱり
私は
行くよ。

予想通り
落ちて死ぬかも
知れん。

いやむしろ、
そのイメージしか
湧かん。

どう見ても
無謀だろ。

無謀はダメだ
って、
ずっとアドバイス
してきたよな、俺。

そんなことは
わかってるよ。

全部わかっていて
でもやはり
行くよ。

君は
どうする?

ちゃんと
決めた上で
動きな。

まずは俺はもう
行くよ。

つづく

扉を開けてしまった

新たな自分の
個性。

体の芯に
鳥肌が立つような。

心の根底が
揺らされる、
それくらいの
悦びのもとで。

生まれ出づる
個性。

その個性を
開放することは、

これまでの
自分を丸ごと
捨て去ることに
なるかもしれない。

そのような
恐れの中、

しかしそれでも
その開花を
待ち望む自分が
おり、

完全に恐れを
悦びが優ってしまう。

もう、
委ねるしか
ないのか。

その勇気一つで
進む時なのか。

葛藤も起きるが、
瞬時に消える。

抗えないのだな、

半ば諦める。

この個性を
発揮させる時、

道は
変わる。

根本的に。

進み方が
変わる。

根本的に。

それこそ
本来の自分
なのだろうけど、

ついに私は
別人になって
しまうのか。

恐れ慄き
悦び勇み

震えるこの手で
扉を開け、
蓋を開く。

そして、
我に返る。

人間に
返る。

つづく

苦しみそのものだった

かつて、
大きな後悔と
共に、

手放し
見送った
あの願い。

それがまた
蘇ってきた
ようだ。

一度捨てたものを
自分の中で
復活させるのは、

・・・復活を
許してしまうのは、

過去、
あの大嫌いだった
自分を
認めることにも
なる。

それがどうした、
という
次元の高い気持ちも
確かにあるのだが、

今はあえて、
ここにある

この目の前に
横たわる

低い次元の
私自身の
気持ち達に
焦点を当てていたい。

復活はきっと
もう
決めている。

だからこそ、
自分を誤魔化したく
ない。

だからこそ、
低い次元を
ありのままに
あるがままに
見つめ、
感じたい。

今度はもう
逃げない。

痛いものを痛い!

痛烈に受け取りながらも、

それでもその
願いへと
進もう。

かつて
「私」とは
苦しみそのもの
だった。

「人生」とは
苦しみそのもの
だった。

私はまるで
自分を罰するように
生きていた。

その時の
「私」のすべてを
今こそ
感じきる。

そう
決めたんだ。

つづく

本来の道なのに

進めば進むほど
疲弊してしまう
道ならば、

それは本来の
道ではない、


なるはずだが。

しかしどうみても
本来の道である
はずなのに、

それでも極度に
疲弊し続けることが
ある。

その場合、
考えられる
最大の原因は、

スピードだ。

本来のスピードで
進んでいない時に
私達は
疲弊する。

特に
スピードに
こだわっている人で
あるほどに。

最近、私の周りでは
そういった人が
増えてきた。

例えば、
電車で北海道に行こう

決めた場合、
その行き方は
いくらもあるが、

新幹線でなければ
ダメだ、


決めている人
という感じ。

飛行機は違う。
地上を走って
行きたい。
しかし
最速で。

各駅停車とか
普通の特急レベルでは
満足できない
というタイプだ。

もちろん、
各駅停車でも
普通の特急でも
それぞれが
それぞれなりの
良さを満喫できる。

新幹線では
見ることのできない
景色も堪能できる
だろう。

しかしそれでは
ダメなのだと。

飛行機ではなく
地上はちゃんと
走るが、

景色を楽しむ
のではなく、
一刻も早く
北海道に着きたい
と。

なぜそこまで
早く着きたいの?

と問えば、

私の本来の人生は
北海道に到着して
から
始まるんです!
と。

北海道までは
これまで
何度も行ったことが
あるのです、
でも
北海道では
まだまだ私にとって
未踏の地が
たくさんあるんです、
だから
私の人生の時間は
その未踏の地の
探検に当てたいのです!
と。

その気持ち、
私は非常に
よくわかる。

私もそういった
タイプなのだと
思う。

であれば
それをちゃんと
自覚し、

新幹線に
乗ることだ。

一刻も早く
北海道まで
たどり着くことだ。

人生の時間は
あまりに
少ない。

こんなところで
躊躇している
暇はない。

未踏の地に
行きたいならば、

既踏の地は
駆け抜けて
しまおう。

つづく

今、重要な問い

ここでまた
一つ
重要な問いを
投げよう。

・・・

この一年で、
あなたは
何を極めた?

それをここから
どのように
活かす?

・・・

きっと
無意識のうちに
この一年で、
あなたの極めた
ものがある。

それをよく
考え、
自覚しよう。

極めたのに
それを知らない
あなたがいる。

もったいない。

自覚しよう。

そしてそれを
大いに活かそう。

活かすために
極めたのだから。

つづく

手の届かない想いでも

今の自分では
まったく
手が届かないな、

と、
思ってしまったと
しても、

それでもその想いが
自分の中に
確かに在るならば、

私はその想いを
ずっと
抱き続ける。

自分の想いは
まずは
自分自身が
最大に愛し続ける。

すると、
その想いに向かう
今ここにおける
一歩
が、一瞬、
観えることがある。

そうしたら
その一歩を
踏み出してみる。

もちろん
たったの一歩なので、
その想いの実現に
近づいている実感は
まったくない。

しかしそれでも
一歩がわかれば
その一歩を
進む。

その連続で、
いつの間にか、
徐々に
近づいている感が
芽生えてくる。

かと言って、
焦らない。

やることは
変わらない。

「できそうだ」と
思えたから一気に
進む、というのではなく、

今ここにおける
「わかる一歩」を
ただ淡々と
踏み出し続けるのみ。

想いは
深く抱きながら。

私には
人生の目的(ビジョン)
がある。

そこには現時点では
まったくもって
近づいている感は
ない。

55年頑張って
来たが、
道はあまりに遠く、
果てしない。

しかしそれでも
私は
今ここ、の一歩を

真摯に
踏み出し続けようと
思う。

あと23年。

あと23年で
あそこまで
たどり着くために。

つづく

想いは大切だけど

ポツンと
光っていたものが
消えた。

私にとっての
大切な
想いが。

あぁ
消えてしまったな、

寂しくは思う。
一旦はね。

これまでは
その想いこそが

私自身である

くらいには
思っていたよ。

その想いの
ために
頑張ってきた。
生きることをね。

しかし今、
こうして
消えてしまうと、

それは
どうでもよかったんだな、
最初から、


わかるよ。

わかって
しまうよ。

じゃあ、これまでの
その想いで生きた
自分自身は
無駄だったのか?

と言えば、
もちろんそうでは
ない。

その想いを
大切にし尽くした
からこそ、

ここまで
来れたのは
よくわかる。

この境界まで
来れたのは、
その想いの
おかげだ。

でも、
境界を越えた
瞬間に、
想いは消えた。

ステージが
変わったんだ、
と言えば
その通りだ。

でも私という人間の
人格が変わって
しまったのか?
と言うと、
それはまったく逆かな。

これまでは
その想いが
私らしさだった。

しかしここからは、
その想いにこだわる
ことによって、
私は私から
遠のいてしまう。

より
私らしく生きるには、
その想いはもう
いらない、

というよりも
あってはならない
ものなのだろう。

実際、
それが消えてから
私は妙に
開放された
スッキリした気分だ。

また一歩
自由になれた。

これが人間
なんだな、
と。

人は
想いによって
生きている。

しかし
自分の想いに
固執するのは

自分を閉ざす
ことにもなるんだな。

今の想い

大切にしよう。

過去の想い
ではなくね。

つづく

格好いい人とは

時々、
異様な傾き方を
私はする。

異様な
心の傾き方。

前のめりに
なったり、

後ろに
反り返ったり、

右にも左にも
変な風に傾く。

昔はそういった場合、
必死に
バランスを取ろうと
していた。

元のまっすぐな
状態に
焦りながら戻す努力を
し続けていた。

今はそういった
ことは
まったくしない。

なるに任せよ、
という感じに
している。

傾くなら
傾いたままで
いい。

心の状態管理
とは、
まっすぐに戻す
ことが重要ではなく、

今のそのまま
あるがままで
いい、

その状態そのものを
許すこと。

楽しむこと。

・・・ではないか、と
ある時から気づき、
そこから急激に
生きるのが楽に
なった。

自分とは、
修正しなければ
ならない存在だ、

というのを
完全に
手放すところから
本当の人生が始まる、
という
気にすらなる。

そして
そういう人をみると、

格好いいなぁ、

と思う。

格好いい人
とは
傾いたまま
ニッコリと笑える
人だ。

・・・あくまでも
私の考えだけどね。

つづく