もし
自分の立ち位置が
わからなくなったら、
自分のため
だけに
動いてみよう。
他はいっさい
考えない。
自分の素直な
想いのみに
従う。
思いきって
それをし続けることで
初めて
気づけることがある。
人によっては
これ
結構な勇気が
必要かもしれない。
でもね、
そういう人ほど
あえて
オススメするよ。
徹底的に
自分のために。
自分だけの
ために。
後先考えず。
結果的には
道を開き、
真の自分の立ち位置を
見つける、
最短の方法
かもしれない。
つづく
もし
自分の立ち位置が
わからなくなったら、
自分のため
だけに
動いてみよう。
他はいっさい
考えない。
自分の素直な
想いのみに
従う。
思いきって
それをし続けることで
初めて
気づけることがある。
人によっては
これ
結構な勇気が
必要かもしれない。
でもね、
そういう人ほど
あえて
オススメするよ。
徹底的に
自分のために。
自分だけの
ために。
後先考えず。
結果的には
道を開き、
真の自分の立ち位置を
見つける、
最短の方法
かもしれない。
つづく
もっと
高い場所から
物事を
観てみよう。
まるで
人生全体を
俯瞰するように。
今、あなたは
人生における
旅路の、
どの場所にいて、
そこで
何をしている?
今、
本当にそこで
それを
していて大丈夫?
迷っている
ことは何?
状況に
惑わされず、
人生全体から
観て、
ここから本当に
進むべき道は
どれ?
今のままの
進み方で、
間に合う?
自分の人生を
生ききることは
できそう?
本当にやりたい
ことを
やりきることは
できそう?
人生の終わりに
後悔のない
完了感
を得られそう?
今のあなたは、
そのままの
あなたで
大丈夫?
つづく
心の中に
点滅する何か
が
観えたら、
それは
合図だ。
その「何か」に
しっかり
意識を向けよう。
解釈を
せず、
ただ、
純粋なる意識を
向けよう。
点滅から
伝わってくる
メッセージ。
それは
自分自身の
真の声だ。
本当は
どうしたいか?
本当は
どちらに進みたいか?
本当は
何から離れたいか?
それらの
ダイレクトな
メッセージ。
それを受け取るのは
怖いかも
しれない。
しかし、
点滅している内
だ。
点滅が
消えてしまったら
もう遅い。
今ならまだ
間に合う。
しっかり
自分自身からの
メッセージを
受け取ろう。
つづく
やっとのことで
山頂に立ったとしても、
そこまで行って
それが自分の目指していた
山ではなかったと
わかる。
そんなことは
良くあることだけど。
結局、意味がなかった
と
思われがちだが、
そんなことは
ない。
どのような山だと
しても、
山頂まで行くこと
自体が
素晴らしい。
たとえ
本来の山とは
異なっていても、
そこまでの
プロセスと
達成したことで得られる
数々のもの、
が
次の歩みに
間違いなく貢献して
くれる。
やりきる、
ことだ。
やりきって
初めて
わかることがある。
だから
やりきった自分を
まずは
褒めてあげよう。
さぁ、そして
しっかり褒めた
上で、
次だ。
もう一度、
山を下り、
スタート地点に
戻るのだ。
ここを中途半端に
するから
いけない。
ちゃんと
下りきって
初めの一歩
から
やり直しだ。
その潔さを
持つからこそ、
ここまでの経験が
活かされる。
初めの一歩
に
戻ることは、
後戻りでは
ない。
次のステージに
進むことだ。
やりきった
からこそ、
次に進める自分に
なれたんだ。
つづく
洞穴の中に
入り込んで、
出てこれなくなっている
人がいる。
自ら
入ったのに、
出口を忘れて
しまったのだ。
外に出よう
という
意志はある。
しかし
そう焦れば焦るほど
どんどん
深みにはまっていく。
本当は、
この洞穴は
自分が創り出したものだ
と
自覚をするだけでも
良いのだ。
それだけで、
目の前に
出口は現れるだろう。
もっと言えば、
それは
洞穴のように
見えているだけの、
ただの
幻影だ。
自分自身が
創り出した幻影に
自分が
惑わされている。
何が幻影で、
何が実在か?
それを区別
できるように
なるには、
すべては
自分が行なっていること、
すべては
自分が創り出したもの、
という
真理、・・・というよりも事実
を、
素直に受け入れる
ことだ。
つづく
人生には
いろんな岐路
がある。
どの選択を
するか?
・・・はもちろん
大切だが、
いつ決めるか?
・・・は
もっと大切では
ないか、
と
いつも思う。
決断の
タイミング。
同じ選択でも
タイミングが
ズレれば、
必ず
不調和が起こる。
真本音度が
高まる
ということは、
そのタイミングが
掴めるようになる
ということだ。
ちょっとあえて
極端な言い方を
すれば、
真本音は
環境は選ばない
(こだわらない)
が、
タイミングは
とても精密に
選ぶ。
1秒も
ズラさないように
する、
というのが、
真本音の
特徴だ。
タイムマネジメント
の本質は、
タイミングマネジメント
だ。
つづく
心の中で
暴れるものが
あるならば、
それを
しっかり
直視しよう。
「暴れる」
ということは
自分を見てほしい
のだ。
見つめて
ほしいのだ。
自分の心が
自分自身に
求める存在承認だ。
暴れている
自分の心を
もし可能なら、
大らかに
見つめよう。
もし難しければ、
震えながらでも
良いので、
向き合おう
という
姿勢を示すだけでも。
暴れる心は
怖いものだ。
もともと
怖くて見れない
からこそ
暴れているのだから。
しかし
あくまでもそれは
自分自身の心
だ。
他人ではない。
だからちゃんと
向き合おう。
自分を
大切にしたい
なら。
自分自身と
向き合わずして、
自分の望む人生など
創り出せるわけが
ないのだから。
つづく
自分は今、
落ちていっている
と
思うなら、
その感覚を
消してはならない。
落ちる感覚。
それに
素直であろう。
人間、
落ちるときも
あるさ。
落ちるのは
人の宿命、
とも言える。
一度、
落ちなければ
理解できないことも
ある。
落ちることが
必須とは
言わない。
でも、
もし自分が
落ちているなら、
それを
誤魔化すのだけは
やめよう。
誤魔化しは
一番、キツい。
そのキツさに
どれだけ蓋をしても、
後々、結局は
その蓋は取れてしまう。
そうすると
ツラさも
数十倍だ。
素直で
いよう。
どうせ
落ちるなら、
ちゃんと
底まで。
大丈夫。
人には
「底」
がある。
「底」まで
落ちれば、
あとは
浮上するしかない。
つづく
自分の期待値が
高過ぎると、
期待通りに
いかない
という現実の
前で
失望をしてしまう。
だからそもそも
期待はするな、
というのが
本来だと
私も思う。
期待するよりも
粛々と
自分のすべきことを
やり続ける。
それが
本質。
それを重々、
わかった上で、
しかしそれでも
期待したくなる
ことがあるだろう。
どうしても
止めても止めても
期待してしまう。
であれば、
徹底的に
期待してしまおう。
中途半端
でなく、
とことん
「こうなるといい」
「こうなるだろう」
「こうなると最高だ」
と。
そしてもう
そうなることが
当然である
とばかりに
その気になって
一直線に
進んでみれば
いい。
それで
上手く行くかどうかは
わからない。
しかし、
たとえ上手くいかなく
ても、
ガックリと
心の根底から
失望しても、
そこまでの徹底した失望は
むしろ
すがすがしい。
そのすがすがしさ、
潔さ。
それを何よりも
自分自身が
一番よくわかっている
ので、
そういう人は実は
立ち直りも
早い。
やりきった
感。
それがあるか
どうか、だ。
だから
「期待する」
という行為も、
やりきった感
が出るくらいまで、
徹底的に。
つづく
物事には
順序がある。
その順序を
本人が
真本音で決める。
結局、私がずっと続けている
サポートとは
そういうことではないか、
と
最近はよく思う。
同じことを
やるにしても、
順序が変わる
ことで、
展開の仕方が本質的に
変わる。
本来は
スムーズに行くはずなのに、
順序を少しだけ
・・・ほんの一部分だけ
変えるだけで
それが頓挫すること
さえある。
私達の真本音は
最善の選択
をし続ける。
どんな進み方が
あらゆる調和を
起こし、高めるかを
現実を
あるがままに
観ながら
判断する。
順序と言っても
「答え」があり、
その通りに行けば良い
ということではない。
現実と理想の
狭間で
都度、変更を加えなければ
ならない。
そういったことも
含めて、
順序をしっかり
決める。
真本音で。
これで人生の
進み方は
根本的に変わる。
つづく
ゆっくりゆっくり
進まなければ
ならない時が
ある。
「とにかく急げ」
という気持ちを
ゼロにすべき
時が。
丁寧に
一歩一歩。
着実に
土台の上に
土台を重ねる
ように。
ここを怠ると、
後々に
大変な目に遭う。
やはり、
土台は
大事だ。
自分のビジョンに
向かおうと
するならば。
大事なビジョンで
あればあるほど。
ただし、
土台が既に
できているのに
スピードアップ
しない人もいる。
土台があるのに
進まないのならば、
その土台は
あっという間に
腐っていく。
丁寧に
進む時か。
まっしぐらに
進む時か。
そのメリハリ
だな、
人生は。
つづく
人には、
丁寧に教えなければ
ならない時が
ある。
あまりに
知らなさすぎる
から。
知らないことを、
「そんなことも
知らないのか」
と
済ましてしまうと
何も進まない。
例えば、
2歳の子に
自分の人生を
自由に生きなさい、
と言っても
何もわからない。
極端に言えば
そのようなことを
やってしまうことが
ある。
こちらが
思っている以上に
わかっていない、
という状態に
ある人は多い。
ちゃんと
教えなければ
ならない。
丁寧に丁寧に。
その段階を
超えて
初めて、
コーチング的
コミュニケーションは
機能するようになる。
つづく
自分の悲しみに
素直な人は
いいね。
ちゃんと
悲しみ、
それを
引き受け、
そして
次に進む。
どれだけ
悲しんでも、
私達の前には
私達の道が
ある。
そこを
進まなければ
ならない。
宿命。
人の宿命。
私達は
人だから。
人は
悲しむもの。
例外は
ない。
悲しみは
苦しいもの。
それも
例外はない。
だから皆、
向き合わなく
なる。
そして
自分の知らない
ところで、
悲しみの湖が
溜まっていく。
私のクライアントさんは
深い悲しみを
心の奥に湛えている
人が多い。
まずはそれらと
向き合うところから
いつもスタートする。
悲しみを
苦しみとして
きちんと感じきる。
それは
辛いことだが、
それをする人が
真本音の道と
出会えるんだな。
これもまた
宿命。
つづく
真本音の怒り
というのが
ある。
許しては
ならないことが
ある。
そこで許せば、
それにより、
あらゆる不調和が
発生する。
当然、
怒られないことで、
その張本人の人生も
不調和が
より一層、濃くなる。
反応本音のみによる
感情は、
だいたい、意味のない
確執を生む。
しかし
真本音の怒りは、
ちゃんと
丁寧に
誠実に
ぶつけること。
相手に
ダイレクトに
向かい合って。
これが
愛だ。
愛の一つの
カタチだ。
つづく
頑固だねぇ、
と
つくづく溜息が
出る。
そういう人が
多いな。
頑固
というのは、
特にこだわる
必要のないところで
こだわり続ける状態、
と
ここでは
定義しよう。
つまり
悪い意味で
言っている。
真本音度が
高まると、
頑固さは
激減する。
本当に
大切にすべきところは
どこか?
が
明確にわかるので、
そこだけを
とにかく
大切にする。
すると、
あとはどうでも
よくなる。
良い意味で。
だから
柔軟性が増す。
最善の選択が
しやすくなる。
ちなみに、
最善と妥協は
違う。
結果的に
同じ選択だと
しても、
最善というのは、
自分自身が
納得している。
「これが今執れる
最も良い方法だ」
と。
妥協は
納得していない。
仕方なくやってる。
誰かのせいに
しながら。
頑固さは
結果的には
妥協せねばならない
状況になりやすい。
真本音の道は
最善の道と
なる。
表面上は
同じに見えても、
本質は
真逆だ。
つづく
自分の足取りが
あまりに
頼りない、と
嘆くこと
なかれ。
頼りない歩みを
経験するからこそ、
成熟が
生まれる。
成熟は
最初から成熟では
ない、
当たり前だが。
きちんと
丁寧に
未熟を果たす
からこそ
成熟になる。
そうやって
真の成熟を
手に入れると
その時点で
また
よくわかるのだ。
成熟とは
成熟では
なかった、と。
成熟とは
真の未熟
そのものだった
と。
つづく
確信は
ここにある。
何も
見えないし、
何も
聞こえない。
何も
感じない。
でも、
ここにある、
のが
わかる。
ならば
確信に
従うのみ。
他の選択肢は
ない。
確信は
確信なのだから。
無理を
するな。
素直に
生きよ。
自分の
確信に
委ねよ。
つづく
水面に
青空と木々が
映っている。
まるで
鏡のように。
石を投げ入れ
波紋が広がって
初めて、
水面だと
わかる。
それくらいに
綺麗に
映っている。
どちらが
水面で、
どちらが
本物か、
が
わからなく
なる。
わからない
ままに
生きていく。
これまで
信じていた
ものが、
ほんの些細な
石のような
刺激で、
急に崩れる。
消えて
なくなる。
そのような
経験が
あるだろう。
これこそが
私である、
と
認識していた
ものが、
ただ
映っていた
だけのもの、
幻影
であったと。
そう。
幻影ほど
はっきり見える
ものだ。
幻影は
幻影であるが故に
自らその濃度を
高めることが
できる。
都合の良い
部分だけの
色を際立たせることも
できる。
お手軽なのだ。
私達は
お手軽なものを
まるで
本物であるかの
ように
取り扱う。
そして、結果、
どこかで躓く。
幻影に生きる
のも
人生だ、と
言い切ってしまえば
それでも
良いかもしれない。
しかしもう
今の私達は
うっすらと
知ってしまっている。
わかって
しまっているのだ。
幻影とは
別のところに
本体がある、と。
実在が
ある、と。
それは
確信めいた
一つの実感だ。
私達は
区別をつけねば
なるまい。
区別をつけて
生きなければ、
満足できない
私達に
既に
なっているんだ。
つづく
やっぱり
やめとけば
よかった。
・・・と思うことは
人生で
多いかい?
いわゆる
「後悔」
というやつだね。
私も
たくさんあるよ。
しかし
よく言われること
だけど、
自分の意志で
ちゃんと進んだ
上での
「後悔」であれば、
それは必ず
次につながる。
着実に
道が開き
続ける。
しかし
自分の意志で
生きることを
せず、
その結果としての
「後悔」は
正直言って
意味はないね。
「ちゃんと自分の
意志で生きなさい」
という
気づきがある
だけ。
そんなことは
最初からみんな
わかっていることだ。
・・・ちょっと
乱暴な言い方かな?
でも
これくらいに
捉えた方がいい。
「後悔」は
大事だが、
意味のない
「後悔」なんて
いくらでもあるんだよ。
意味のない
「後悔」を重ねる
人生は、
意味が
なくなるんだ。
・・・乱暴かい?
でもさ、
本当に
これくらいの
捉え方を
しようよ、我々は。
時間が
ないんだ。
そして、
今こそ
チャンスなんだから。
つづく
心は、
いくらでも
震えれば
いい。
どうぞ、
と。
震えるだけ
震えてください、
と。
心を
落ち着かせよう
としても
それは無理な
話だ。
震えるのが
心。
揺れるのが
心。
自由に
させておこう。
それが
できた時、
そのままの
心を
見つめることが
できた時、
初めて
私達は
私達の内部に
「大地」があることを
感じ取る。
何があっても
揺るがず
震えず
落ち着いて
どっしりとすべてと
向き合える
自分自身。
本当の
自分。
幻影ではなく
実在の
自分。
真本音・・・。
真本音で
生きるのは
難しいかい?
もし難しいと
感じるなら、
それは
心を落ち着かせよう
と
し過ぎている
からだ。
心は
そのままで
いいんだよ。
震えながら
進めばいい。
逆に、
震えながら
進むからこそ、
私達は「大地」を
発見できるんだ。
つづく
水中に
渦ができている。
縦に長く。
深く深く
渦巻いている。
渦の回転に
乗って、
まるで人魚のように
人が
泳いでいる。
渦の回転を
楽しんでいる。
彼らは
何者か?
と
近づいてみる。
あぁ、
生まれたばかりの
「意志」達だ。
渦に体を
慣らし、
泳ぎ方を
覚えたら、
いよいよ
自力で
一つの方向に
進んで行くのだ。
新しい
「意志」達よ。
ずっと
健康であって
ほしいな。
私にできることは
君らの健康を
できるだけ
守ること。
意志が意志として
育まれる
ように。
残念ながら、
この世界では
たくさんの
意志達が死ぬ。
知らぬ間に
亡き者となる。
悲しい世界だ。
それを少しでも
変えていきたい。
だから私は
君らを守る。
そう決めた。
・・・ここで
目が覚めた。
よし、
今日も私は
私の「意志」と共に
進もう。
つづく
もしあえて
「混乱」の中に
突入するので
あれば、
その中心部分まで
行った方がいい。
中途半端な
関わり方は
むしろ危険だし、
本質を見誤る
可能性もある。
避けられる混乱
であれば、
ヒョイっと
避ければ良いが、
どうしても
突入せざるを得ない
のであれば、
中心まで
行こう。
中心に到達
できれば、
そこはまるで
台風の目のようだ。
ほとんどの
混乱の中心は
ポッカリとした
静けさがある。
そこから
起きている現象の
すべてを
はっきりと観察し、
いったい本当は
何が起きているか?
の
真の原因が
観えてくるものだ。
中心近くは
ダメ。
中心近くが
最も激しい。
静かな場所まで
ちゃんと
たどり着くこと。
そして
中心から
外に向かって影響を
与えていく。
内側から
混乱を壊すのだ。
時には、
内側から混乱を
溶かすことも
できる。
中心に入ることで
初めて、
その「ツボ」が
観えてくる。
混乱の中で
混乱しながら
対応する
なかれ。
私が最も
気をつけていること。
つづく
波紋が広がっている
のが見える。
小さな波紋だが、
その中心には
何があるのだろう?
よく目を
凝らすと、
面白いものが
見えた。
誰かが
踊っている。
変な
踊りだ。
でもとても
心地良い
旋律を感じる。
よくよく見ると、
波紋の広がり方も
ちょっと変だ。
なるほど、
こういった広がり方も
あるのか、
と。
ウケを狙っている
わけではない。
本人は至って
真面目だ。
だからこそ
変なんだ。
「変」と言うと
貶しているように
思われがちだが、
逆だ。
変な踊りが
増えるといい。
みんながもっと
個性的に
なればいい。
どのような踊り
でも、
自分が心底
真面目にやるなら、
それなりに
波及していく
そんな世の中に
なれたのだから。
時代は
変わっているんだ。
変な時代
にね。
つづく
サーっと
水平線が
広がっている。
広く広く。
その他は
何もない。
ただの
大海原。
日は昇る
寸前だ。
私はただ
一人。
夜明けを
待っている。
今日は
どんな一日に
なるだろうか?
ひんやりした
空気の
一粒一粒が
何かしら緊張している
ようにも
感じる。
体の強張りを
ほぐしたいなと
思いながらも、
そのままに
して、
ただ私は
待つ。
今日は
多くの人達の
転機となる
大切な瞬間が
来るだろう。
もちろん
私にも。
その瞬間を
捕らえられるかどうか
よりも、
その瞬間の
直後の
スタートダッシュが
命だ。
そこで
次のステージの
進み方が
決まってしまう。
集中力と
瞬発力が
決め手となるときは、
やはり
緊張する。
でも
こんな瞬間は
なかなか体験
できない、
とても貴重なもの。
こういった機会に
恵まれた幸運を
喜ぼう。
これまでの
生き方が
試される。
この時のために
私達は
備えてきた。
今こそ
力を発揮する
とき。
自分の全感性
を使いきり。
つづく
こういう展開に
なるといいな、
と
自分なりに
予定していたものが、
まったく
予定通りに
進まなかった時、
ガックリ
するよね。
力が
抜ける。
やる気が
削がれる。
その状態から
どのように
立ち直ろうか?と
焦るが、
実は
焦る必要はない。
そのままで
いいじゃないか。
やる気の
削がれた
力の抜けた
そのままで。
エネルギーの
高まっている
状態が
いつも良いとは
限らない。
拍子抜け状態
のまま
そのまま
やってごらんよ。
それはそれで
きっとまた
面白い展開に
なるよ。
つづく
表面上、
どれだけ荒れ狂う
激流に
見えても、
その本質を
あるがままに
観れば、
とても静かな
清流だったり
する。
表面のみに
捕らわれること
なかれ。
・・・これは
私がずっと自身に
戒めてきたこと。
特に
我々人間は
表面と本質が
真逆の時すら
多い。
表面に
捕らわれ過ぎる
が故に、
闘い・戦いが
起こる。
混乱が
次の混沌を
生む。
目を凝らす。
耳を澄ます。
体で感じる。
五感だけでなく、
もっと
「素」
のものを
そのまま受け取る。
それを私は
「実在」
と呼んでいる。
実在を受け取る
力は
誰にでもあるんだな、
と
強く実感するのが
最近の日々。
私の周りの人達
だけだろうか?
最近は
皆の感性が
垂直上昇的に
高まっている。
仕事が本当に
やりやすくなった。
表面の混乱に
呑み込まれない
からね。
つづく
大切な答え
は
今ここに
ある。
その答えは
最初は
言葉には
ならない。
その
存在感
のみ。
それを感じ取ると、
それを
両掌に
大切に掬う。
胸の中心に
大切に抱く。
そして
一つになる。
ジワーッと
した
温かさ。
この答えが
もたらしてくれる
ものを
まずは
あるがままに
感じる。
その上で
ゆっくりと
言語化する。
適当な
言語化では
ない。
最も適切な
言葉を
丁寧に探しながら、
感じながら、
言語化する。
言語化された
瞬間から
その答えは
自立・自律を
始める。
それを受け取る
私自身も
その答えに対して
自立・自律
する。
どれだけ
良い答えであっても
その答えに
依存してしまえば、
それは
本末転倒だ。
答えに対して
失礼だ。
自らの答えで
あるが故に、
私達は答えに
依存しては
ならない。
真の答え
とは
真の自律関係で
関わり、
それをすることで
初めて
共に進める。
答えとは
単なる言語
ではない。
魂のある
共に進む
仲間だ。
これもまた
セルフコーチングの
基本の基本。
つづく
まるで
何かに背中を
押されている
ようだ。
そちらに
そちらに
同じ方向に
同じ方向に
進んでいく
自分がいる。
意識としては
左斜め前方に
進みたいのに、
いつの間にか
右斜め前方に
進んでいる、
みたいな。
もちろん、
そういった展開
そのものを
楽しんでいるのだが。
今日は
何が起こるか
わからない。
明日も
どんな展開か。
明後日以降
に関しては
真っ白な状態。
・・・という
感覚だ。
もちろん
これはこれで
楽しい。
未来がわからない
という
この感覚を
私は
昔から最大の
楽しみにしている
節がある。
予想外の
展開。
これ以上に
面白いものは
ない、と。
真本音度が
高まると、
一瞬、
未来を見通す
ような
瞬間は結構
頻繁に訪れるが、
その瞬間と、
未来がまったく
わからないという
感覚は、
両立する
ものだ。
むしろ
その二つが
あるので
より
面白いとも
言える。
この、
制限だらけの
世の中。
限界だらけの
現実の
中で、
自由に生きる
とは
どう生きれば
良いのか?
未来を
見通せるから
こそ
自由。
未来が
わからないから
こそ
自由。
その両方が
あるからこそ
自由。
・・・かな。
つづく
「意図」を手放す
というのは
難しいことだと
思う。
でも、
自分の中の
すべての「意図」を
一つずつ
拾い上げ、
ただ観察する
という
状態に置くと、
すべての「意図」から
自由になる
ことができる。
人間は
「意図の生き物」
だな、と
その度に
思う。
こんなにも
数々の「意図」に
囲まれ
縛られて
生きているのか、
と。
それらの
中には、
自分自身の
生み出した「意図」
もあれば、
環境や
周りの人から
与えらえたもの
もある。
いずれにしても
意識的にも
無意識的にも
大小無数の
「意図」に
縛られてながら
生きているのが
人間だな、と。
セルフコーチングの
力が増せば、
それらから
丁寧に自分を
解放することが
できる。
すべての「意図」を
自分自身から
ちょっとだけ
離し、
すべてを観察できる
状態になると、
「自分」と「意図」
とは
まったくの別存在
なのだと
わかる。
「意図」を
なくした
自分。
ただの
「存在」だけと
なった
自分。
そんな自分にも
意志は
ある。
いや、
そんな自分には
一つの
意志だけが
残る、
と言ってもいい。
その意志こそ
自分自身そのもの
かも知れない。
私はその意志を
「願い」
と呼んでいるが、
「祈り」
と言っても
良いかも。
いずれにしても
それは
言葉には
ならないものだ。
言葉を超えた
意志、
一つの祈り。
私は
迷うといつも
そこに
戻る。
戻る場所に
戻り、
すべてを
見渡す。
これぞ
セルフコーチングの
基本であり
原則だ。
つづく
完全に
すべての制約を
取り払い、
完全に
自由になれたら、
今の私が
本当にやりたいことは
何だろう?
・・・この問いの
答えを明確に
素直に答えられる人は
残念ながら
少ない。
こんなこと
考えても無駄だ。
とか、
こんなこと
考えちゃうと逆に
現実とのギャップが
ありありとわかり
苦しくなる。
とか。
そんなことより
今目の前にある
現実に
ちゃんと向かうことだろ。
とか。
中には、
本当に素直な自分の
心を知るのが
怖い。
とか。
様々な理由で
私達はこういった問いと
向き合わなくなる。
でも私は
やはり、
とても大切な問いだと
思うのだ。
私がこの問いと
真剣に向き合ったのが
20年くらい前。
以後、ずっと
向き合い続けて
いる。
今はお陰様で、
この問いの答えと
ほぼ一致する毎日を
送ることが
できている。
真摯にこの問いと
向き合い続けた
結果だと
思っている。
年齢は
関係ない。
ちゃんと
自分を自由に
できるのは、
自分自身だけだ。
本当の意志に
生きる。
そんな日々を
創り出せるのは
自分自身だけだ。
つづく