- ホーム /
- チームパフォーマンスコーチ
私は、
私自身の力のなさと
自分の未熟さに
いつも
愕然とします。
またまた謙遜して・・・、
と思われるかも
しれませんが、
本当に
そう思うのです。
と同時に
こうも思うのです。
未熟なのが
人間なのだ、と。
未熟にこそ
人間としての
魅力が
いっぱいに詰まって
いるのだと。
とはいえ、
未熟さは
心と魂を搔きむしるくらいに
悔しいです。
もっと自分に
力があれば!
と
本当に思います。
目の前の
Aさんの力になれない
自分自身の
未熟さを思い知った時、
私は
傲慢だとわかっては
いるのですが、
何もできない自分を
本当に責めてしまいます。
私はここにいて、
Aさんの何が問題か?
がわかっているのに、
私には
何もできないのか・・・。
この悔しさを
現場でいつもいつも
私は
味わい続けてきました。
その悔しさと
申し訳なさが
私の道を創ってきた
という言い方も
ある面では
その通りに正しいのです。
・・・・・・
私は
もっと成長したい。
もっともっと
成長したい。
この世で
できることを
もっと増やしたいし、
もっと深めたい。
毎日毎日
そう思っています。
恐らく私の
この想いは、
世の中全体の
真本音の想いと
一致します。
高い次元においては
すべての人が
「一つ」
です。
すべての人の
真本音はつながっており、
いつも
同じ思いを共有
しています。
今、
すべての人の
共通の想いの
根底にあるのは
搔きむしるほどに
何とかしたい!
と思う
成長意欲です。
そこに共鳴している
からこそ、
私の中からも
その成長意欲が
ダムが決壊したかのように
放流されています。
・・・・・・
今の私の
最大のテーマは
後継者育成
です。
私と同じことの
できる人の
育成です。
おかげさまで
何人かの人達が
私と共に進もうと
してくれています。
私が彼らに
最も伝えたいのが、
この
成長への貪欲さ
です。
進化への
貪欲さです。
もちろんこれは
伝えてわかってもらう
類のものではありません。
しかし
すべての人に
そういった進化への
貪欲さは
既に最初から
存在しているのです。
その自らの欲求に
気づけるかどうか?
気づいた者は
その欲求に
素直に進むでしょう。
一見、
あまりに無茶なことでも
笑いながら
その方向に
進むでしょう。
私の後継者には
そここそを
受け継いでほしい
ですね。
・・・・・・
今日、私は
自分にできる
最大のことを
し尽くしました。
もうこれ以上の
一日はないな、
と思います。
そういった一日一日を
少なくとも
この8年間は
続けています。
でも・・・。
それでも私は
もっともっと
何とかならないか?
と
もっともっと
できることは
あるのではないか?
と
本当に強く
思うのです。
一日一日の
満足感は
半端ないです。
もちろん
後悔もありません。
でも、
これまでのままでは
いやだ!
とも、
一方で思うのです。
私は
もっと脱皮したい。
脱皮すべきものが
なくなったとしても、
それでももっと
脱皮したい。
そう思える
この素直な気持ちこそが
人間な本性なのだな、
と思い、
私は明日からも
これを大切にしながら
生きていきます。
つづく
あなたの中心にある
その、まるで
祈りのような願いは
この1ヶ月で、
とてつもなく
大きく、そして
深くなりましたね。
今のこの
一日一日は
とてもとても重要で、
今のこの
一日一日を
どう過ごすかによって
この後の
数十年の人生が
決まってしまう
くらいの
インパクトがあります。
恐らくあなたは
それを
無意識によく
おわかりなのですね。
あなたが
とても
「今この瞬間」を
大切にされていることが
わかります。
ですから、
あなたに意識を
向けるだけで、
それだけでもう私は
癒される感覚を
得るのです。
でも本当は
これこそが
私達人間の
本来の力なのですね。
世の中全員の人が
あなたのような
生き方ができれば、
どれだけ素晴らしいだろうと
私は思います。
あなたはある意味
とても
無垢です。
でもその一方で
人間の暗い部分、
汚い部分も
たくさんご存知です。
あなた自身の中にも
そういった部分は
たくさんあるでしょう。
でも
そんな自分もすべて
あなたは
その無垢な眼差しで
見つめています。
すべてを
許す眼差し。
だからこそ
人は癒されるのだと
思います。
あなたには
悩みがあります。
悩むことに対しては
あなたには
躊躇がありません。
落ちるときは
徹底的に
落ちますね。
で、
一番底まで落ちたら、
元気いっぱいに
また浮上してきます。
悩むことからも
落ちることからも
あなたは
決して逃げようと
しません。
生きるということに、
人間である
ということに、
とても真摯ですね。
あなたの
その願いは
何でしょう?
その
眩いばかりの
光のもとは
何でしょう?
あなたは今まだ、
自分自身の放つ
その光の強さに
戸惑っています。
まだまだ
自己コントロール力が
不足しています。
光が強ければ
強いほど、
コントロールが
効かなくなるという
矛盾のような状態に
今はありますね。
でも、
それもまた
人間。
それもまた
人生。
コントロールの
効かない自分と
向き合い続けることでしか
見つからないものも
あります。
それを今のあなたは
毎日、真剣に
為し続けています。
私はあなたを
本当に尊敬し、
本当に心から
応援します。
あなたと出会えたこと
そのものが、
私の誇りです。
つづく
私達の人生には、
「今しかできないこと」
があります。
過去の自分では
できなかったこと。
と同時に、
未来の自分にも
できないこと。
つまりは、
今の未熟さがあってこそ
できること。
そういったものが
必ずあります。
今を大切にする、とは
今しかできないことを
やり切る
ということでもあります。
私達は
目指す自分の姿と
今の自分の姿と
見比べて、
「あぁ、まだまだだなぁ」
と落胆します。
そういった落胆が
成長意欲を掻き立てて
くれることも
確かにありますが、
今の自分は、
今のこの瞬間にしか
存在しないのです。
今の自分。
この自分。
ここにいる自分。
・・・だからこそできる
一つの行動。
それを一つ一つ
丁寧に
人生に刻みつけて
いきましょう。
・・・・・・
大変、ありがたい
ことですが、
私よりも若い方達が
「たけうちさんみたいな
力を持ちたい」
と言いながら、
私から学ぼうと
されています。
本当に
ありがたいことです。
彼らは、
自分と私(たけうち)の
能力を見比べて
「自分はまだまだ・・・」
と少し落ち込みます。
そしてとても真剣に
私に向かってきます。
そんな彼らの
真剣さと真摯さと、
彼らの放つエネルギーが
本当に心地よく、
あぁ、俺もう、
死んでもいいかな。
と思えるくらいに
幸せになります。
(死にはしませんが。)
でも、
彼らは、今の私(たけうち)と
自分自身を比べる
のですが、
そりゃ、能力劣っていて
当たり前ですよね。
だって、私は
22、3年もずっとこの仕事
続けてるんですから。
今の彼らの年齢の頃の
私は
はっきり言って
今の彼らの足元にも
及びません。
ですから私は
純粋に彼らを
尊敬しています。
尊敬できる人達に
教えることができる、
という
この悦び。
この悦びを
どう表現すれば
よいでしょうか。
・・・・・・
人一人の人生は
短いです。
ですから、
人の意志や願いや祈りは
人から人へと
伝承されていきます。
それをすることこそが
私達人間の
根本的欲求の一つ
だと思います。
一人の願いが
他の人の願いと共に
絡み合い、融合されながらも
永遠に続いて行く。
願いや意志は
目には見えませんが、
ずっと「ここ」に
残ります。
そういった自分の
願いに基づいて、
今ここを
大切にしましょう。
自分の願いに基づき、
今ここにいる、
今にしかいない
自分が、
今しかできないことを
するのです。
それが
人生です。
人生の
醍醐味です。
今を
かみしめましょう。
今は
今にしかありません。
今を
かみしめることが
できる人は、
永遠を
かみしめることが
できるのです。
つづく
目の前に
Aという道と
Bという道が
あったとします。
今、その
分岐点にいます。
どちらの道を
進むか?
を迷っています。
Aの道を見れば、
特に障害は
なさそうです。
道は結構
まっすぐに伸び、
先の先まで
見渡すことができます。
Bの道を見れば、
こちらには
ゴツゴツとした
たくさんの岩などが
見えます。
あんな障害物を
越えていかなければ
ならないのか、と
少しゲンナリします。
しかも障害物の
その先は
見えません。
その道が
どこまで続いているのか?
まっすぐ続いているのか?
さえも
わかりません。
さて、
どちらの道を
行きましょうか?
・・・・・・
難易度は
どう見ても、
Aの方が低そうです。
Bにはたくさんの
障害物がありますし。
充実度は、
わかりません。
Aは平凡そうですが、
AにはAなりの
充実感を得られそうです。
Bは冒険が
できるかもしれません。
でも、
いつも不安いっぱい
かもしれません。
でも、
「あえて困難な道を
行きなさい」
という話もあるもんなぁ・・・。
「苦労は買ってまでも
しなさい」
とも言われるし・・・。
でもひょっとすると、
ここから見える障害物を
越えさえすれば、
その先はとても
楽な道になっているかも・・・。
反対にAは、
ここから見ると楽そうだけど、
進めば案外、
ここからは見えない障害が
あるかも・・・。
どっちが
楽しいだろう?
どっちが
自分らしいだろう?
どちらにもそれなりに
楽しさはありそうだし、
自分らしさは・・・、
よくわからない。
う〜む、
どうしよう。
考えれば考えるほど
わからなくなってくる。
・・・・・・
こんな場合、
私だったらどうするか、
を書きますね。
私の場合、
極めて単純です。
わからない内は、
動かない、
のです。
そうは言っても
早く決めなければ
ならない時も
あるでしょう、
・・・とよく言われます。
しかし、
わからない内は
頑として
動きません。
わからない、
とは
「今、決めてはならない」
という
真本音からの
合図です。
今、決めてはならない
のに
今、決めてしまうと
後で必ず
混乱や混沌が起こります。
そして、
結局は物事の進みが
遅くなります。
「風が吹く」
まで
私は待つのです。
・・・・・・
風は
必ず吹きます。
どちらかの方向に
「追い風」が
吹くのです。
そうしたら、
「追い風」になる方向の
道を進みます。
それだけの
ことです。
そこに自分の解釈は
まったく
入れません。
ただし、
そのためには
「風を感じられる自分」
でいることが
大事です。
「風を感じられる自分」
とはつまり、
「真本音度合いの高い自分」
ということです。
常に毎日を、
「自分が本当に
大切にしたいものを
大切にした生き方を
し続けいる」
ことです。
そしてその上で、
ちゃんと自分の迷いと
向き合い続けること。
具体的には、
常に自分に
「問い」を投げ続ける
ことです。
この場合の問いとは、
「Aに行くか、Bに行くか?」
です。
これを常に自分に
問い続けます。
しかし
頭で答えを出そうとは
しません。
理屈で考えながら
答えを出すのは
ただの「解釈」です。
解釈による答えには
必ず「迷い」がつきます。
答えに「迷い」がついている内は
「答え」ではありません。
ですから「答え」が出るまで
ただただ、問いを自分に
投げ続けるのです。
そして「答え」は
「風」が教えてくれます。
これが
セルフコーチング
です。
・真本音度合いを高めた状態で
・自分に必要な問いを投げ続ける
シンプルに言えば
これがセルフコーチングの
真髄です。
これをすれば
常に最善の選択を
し続けることが
できます。
自分と向き合い、
現実と向き合う
人は、
風を感じられるのです。
つづく
あなたの
「真の仲間だ」
と思える人を
6人選び、
思い浮かべてみて
ください。
6人をなかなか選べない
場合は、
とりあえずの6人
でも結構です。
その6人が
あなたの周りに
いるイメージを
してください。
あなたを中心として、
あなたを6人がぐるりと
取り囲んでいる
イメージです。
どの場所に
誰がいるか?
もっとも
しっくりきて
落ち着く場所を
設定してください。
あなたと
6人との距離も
最も落ち着くものを。
さて、
それができましたら、
目をつぶって、
しっかりと
自分が6人の中心にいる
ことを
実感します。
ここでもし
違和感があれば
メンバーや場所などを
修正してください。
違和感なく
カッチリとハマる
感覚があれば、
これはもう
イメージではなく
「実在」です。
そうなれたら、
6人すべてに同時に
意識を向けます。
向け続けます。
するとある瞬間から、
6人と自分が
「一つ」
になれる感覚が
くると思います。
そこまで集中して
続けてください。
・・・・・・
そこまでできたら、
次に
6人に問うてください。
「今の私は
ちゃんと私の人生を
送れてるだろうか?」
と。
すると、
6人の一人か二人から、
もしくは、
6人全員から
答えが返ってくると
思います。
その答えを聴いて、
さらに問いかけたいことが
あれば、
問いかけてください。
自由に
キャッチボールを。
それが終わったら
次の問いです。
「今の私が
最もしたいことは
何だろう?」
そして同様に
キャッチボール。
さらに次の
問いです。
「君達は(6人のことです)、
私に何をしてほしい?」
そして
キャッチボール。
その中で、
自然に、
あっ、今、
これをしよう!
とか、
あっ、今、
彼に連絡してみよう!
など、
「こうしよう」と思うことが
あれば、
すぐに実行に
移しましょう。
・・・・・・
私達にとって
「仲間がいる」
という感覚はとても
幸せなことです。
特に
「6人いる」
という感覚は、
私達に安定と共に
進化への意欲を
喚起してくれます。
ちょっと変わった
セルフコーチング法ですが、
とても面白い発想が
生まれますので、
ぜひ
お試しを。
つづく
怖い。
・・・こんな感情が湧くとき、
私達は思わず
その怖いものから
目を逸らしてしまいます。
その瞬間から
私達の中には
解釈と
イメージが
始まります。
イメージとは
幻影です。
事実とは
異なるもの。
私達が勝手に
自分の解釈により
生み出しているもの。
それにより、
恐怖はますます
増長し、
ますます私達は
その対象を
見れなくなります。
見ないことによる
恐怖。
観ないことによる
恐怖。
これが私達を
苦しめます。
怖いものほど
光を
当ててしまう。
怖いものほど
つぶさに
観察してしまう。
その勇気を
出すことで、
私達はどれほど楽に
進めることか・・・。
・・・・・・
夏だけに、
最近よくテレビで
怪談話をしている
ようです。
もし、
あなたの目の前に
幽霊が現れたら
どうしますか?
多分、
怖いから
一目散に逃げようと
しますよね。
私も以前でしたら
絶対そうしてました。
でも
恐らく今の私は
その幽霊に
光を当てると
思います。
もし、
光がなければ、
暗い中でも
かなり真剣に、
その幽霊を
観察すると思います。
・・・というか、
毎日、それを
しているようなものですけど。
私は日々、
たくさんの人達から
エンティティ
(ストレスの実体化したもの)
を受け取っています。
エンティティとは
日本語で
「生き霊」と
訳されます。
まぁ、恐らく、
幽霊というのは
こういうのを言うのだろうな、
と毎日思っています。
それはもう
なかなかに凄いです。
どんな人にも
エンティティは必ずあり、
それを私は大量に
受け取るので、
毎日が
幽霊だらけのような
ものです。
で、私は帰ってから
その幽霊たちを
つぶさに観察します。
実は彼らは
観察するだけで
成仏していきます、
多くの場合。
観察とは
意識を向けること。
意識を向けるとは、
愛のエネルギーを
注ぐ
第一歩です。
つまり彼らは
愛を求めています。
その愛を感じることで
彼らは
どんどん浄化、
成仏します。
私は彼らの声を
聴きます。
彼らの声を聴くことで、
エンティティの持ち主が
普段、どのような傾向の
苦しみを抱えているのかを
理解することができます。
実は、
エンティティの浄化で
夜眠れずに
朝までかかってしまった
ということは
ザラにあります。
実は、
私がこのブログを
夜中に書いていますのは、
どちらにしても
エンティティの浄化を
夜中に行なうためです。
浄化して
スッキリしたところで
このブログを
書いています。
まぁ時々、
スッキリできないままに
書くこともありますが。
しかし、
真本音度合いを
高めれば、
どれだけ強い
エンティティでも
それによってこちらが
揺らぐことは
一切ありません。
真本音の光は
エンティティを
癒すのです。
エンティティ達は皆、
「ありがとう」と
言いながら
成仏していきます。
こういうの
霊感っていうのかなぁ?
でも私には
霊感があるとは
思えないのですよね。
ただ実在を
キャッチしているだけ。
実在のキャッチと
霊感は
本質的に異なるものだと
私には思うのですが、
まぁ、
よくわかりません。
・・・・・・
光を
当てましょう。
怖いものがあったら、
そこに光を
当てるのです。
そしてそれらを
つぶさに
観察します。
事実がどうなのか?
実際がどうなのか?
を知るのです。
それだけのこと。
それだけのことで
道は
観えてくるのです。
逃げる人生は
苦しい。
向き合う人生は
楽。
その単純な法則を
大切にしたいですね。
つづく
人生においては、
様々な覚悟が
必要です。
その中でも、
私達人間が私達自身に
与える最大級の覚悟
の一つは
「自己破壊の覚悟」
でしょう。
破壊。
・・・怖いですね。
これまでに構築したもの、
これまで継続してきたもの、
これまで育んできたもの、
それらを
破壊することは、
とてつもなく怖く、
そして
いやなことです。
よく、
「創造のための破壊」
と言われますが、
でも実は、
創造を視野に入れた破壊
とは、
もうその時点で
中途半端なものに
なってしまいます。
破壊するなら、
破壊のみに
徹する。
徹底的に
破壊のみに
集中する。
それが必要な時が
私達の人生には
必ず訪れます。
訪れますが、
破壊を回避することも
また
できます。
徹底的な破壊ではなく、
中途半端な破壊で
済ますこともできます。
しかしそれをしても、
残念ながら
その後の「創造」は、
中途半端になりますし、
新たに創造したものは、
それまでの次元と
何ら変わりません。
徹底的に
破壊すべきものを
破壊する。
その勇気を持つことが
必要です。
・・・・・・
先ほど書きました
「自己破壊」。
破壊の中でも
これほど怖いものは
ありません。
自己破壊とは
もちろん、
自分の体を破壊する
ことではありません。
自分の心を
破壊するのです。
正確に言えば、
自分の
「心のパターン」を
破壊します。
しかしながら、
「心のパターンを
破壊すればいいんだ」
という程度の覚悟では
絶対に成せません。
自分そのものを
無にするくらいの
覚悟を持った時に
初めてそれは
成されます。
なぜこのようなことを
書くかと言いますと、
今、
自己破壊の前で
戸惑っている人が
増えているからです。
自己破壊とは、
その人自身の
真本音の意志の
一つです。
もちろん、
自己破壊しても
本当に自分がなくなる
ことはなく、
破壊することで
その後に
「本来の自分」が
目覚めます。
しかしやはり、
「本来の自分が目覚める
から、破壊しよう」
では、
決して破壊は
成されないのです。
それどころか、
当の本人にとっては
そんな理屈は
どうでもよく、
自分が壊れていく
恐怖感のみがあまりに
大きく、
その恐怖に
恐れおののくばかりです。
ですから私は
あえて申します。
その恐怖に
毅然と立ち向かって
ください。
自分がなくなってしまう
という
あまりに深い喪失感に、
毅然と
立ち向かってください。
「私」が消えてしまう。
明日から「私」の人生で
なくなってしまう。
そのような
悲しみに
毅然と
立ち向かってください。
そして
自分の「電源」は
自分で切るのです。
完全に
「デリート」
するのです。
それができるのは
自分だけです。
・・・・・・
私は「自己破壊」を
これまで何度も
経験していますが、
初めての時は、
怖くて怖くて
一晩中、朝まで
泣き続けました。
でも、
この「破壊」をしなければ、
私は私の望む人生、
そして私の使命を
果たせないことも
よくわかっていました。
「破壊」とは
無になることではなく、
新たな「命」が
始まることも
頭ではわかっていました。
でも、
自分が自分で
なくなってしまう
あの感覚の前では
すべてが机上の空論に
思えました。
それでも
一晩泣き続けた後に
意を決して
私は自分を
「デリート」しました。
で、
次の瞬間に
「普通」に
戻りました。
私は
私でした。
でも、
何かが全然
違う。
自分を
取り戻した感覚。
満たされた
感覚。
あの日から私は
急激に
「実在」を感じ取る
力が伸びました。
私に必要な力が
目覚めたのですね。
破壊の勇気を
出した人のみが
得られるものが
あります。
しかしそれは、
何度も言いますが、
得られるものを得る
ための破壊では
中途半端で
得られません。
徹底的な
破壊を。
完全デリート
を。
今、あなたには
それが必要です。
つづく
毎日、人と
向き合っていますと、
人って
可愛いなぁ・・・。
って思う瞬間が
いくつもあります。
その度に私は
まるで恋心を
抱いた時のように
胸がキュ〜ンと
します。
この
キュ〜ンを味わいたくて、
私はこのお仕事を
続けているのかも
しれません。
特に、人の
可愛らしさを感じるのは、
その人の
「命」
をダイレクトに感じ取った
瞬間です。
私達は皆、
もちろん命が
ありますが、
その命の光、
・・・命の力と言いますか、
それを多くの人が
包み隠しながら
生きています。
命があるのに
まるで命があるのが
いけないことのように、
自分の命を
隠しながら生きている
のです。
でも、
その人の真本音度合いが
高まると、
だんだんとその人の
命が
あらわになってきます。
で、ある瞬間に
ツルンと
その人の命を覆っていた
何か余分なものが
取れてしまうことが
あります。
ツルンと取れたら、
まばゆいばかりの
命の光が
あらわになります。
その瞬間はまるで
その人自身がもう一度
赤ちゃんに戻ったかのような
そんな空気感になります。
そして私は
キュ〜ンとなります。笑
人には皆、
可愛さがあります。
本来は
可愛い存在なのです。
みんな。
確かどこかのドラマで
「可愛さこそ最強」
というセリフを聴いたことが
ありますが、
私もそう思いますね。
・・・・・・
あなたの命の光は
本来は
何色ですか?
その光を
あなたは
覆っていませんか?
もし覆っていたと
したら、
どうすれば
光を開放できますか?
私達には
命があります。
命を大切にする
とは、
命を開放する
ということです。
命を開放することで
初めて、
私達は望む人生を
歩むことが
できるのです。
つづく
私は
クライアントさんが
自由になるための
サポートを
させていただいています。
しかし
「自由」という言葉を
使えば、
残念ながらよく誤解が
生じます。
誤解の中で
最も大きなものは、
「私は自由な人生がいい。
でも、今のこの環境にいては
自由になれない。
だから、
環境を変えたい!」
というものです。
今の環境では
自由になれないから
環境を変える。
・・・これって
自由でしょうか?
環境を変えなれければ
自由になれないのだと
したら、
その時点でその人はもう
不自由な人生を
生きています。
・・・・・・
23歳の時。
私は旅をしました。
世界で10指に入る
最貧国の一つと言われる国を
旅しました。
そこで私と同じ
23歳の若者と
出会いました。
その国の人達は
ほぼ、
真面目に働いて
いませんでした。
(あくまで私の印象です。)
しかしその若者は
朝6時から夜中の12時まで
働き尽くめでした。
私は彼と一週間でしたが
生活を共にしました。
私は彼の生き方に
驚愕していました。
周りの誰もが
働いていないのに、
なんで彼だけが
これだけ懸命に
働くのか?
彼は自分の事業を
起こしていましたし、
ボランティア活動も
していました。
病気の人がいると
聞けば、
その人のもとに
駆けつけていました。
彼は毎朝4時に
起床し、
毎朝必死に
お祈りを捧げていました。
一週間経ち、
私が彼のもとを去る時、
思い切って彼に
訊いてみたんです。
なぜ、
そんなにも懸命に
働くのですか?
他は誰も
がんばっていないのに・・・。
すると彼は
びっくりするような
純粋な目を
私に向けました。
そして
びっくりするような
笑顔。
で、あえて
片言の日本語で
私に伝えたのです。
「私はこの国を
愛しています」
「私はこの国を
みんなが幸せになれる
国に変えたいのです」
この一言は
恐らく私のその後の
人生を
大きく変えました。
・・・・・・
この環境では
自由でいられる。
でも、
この環境では
自由ではいられない。
・・・これこそ、
不自由だと
思いませんか?
どのような環境でも
自分の本当の想いに
素直に
生きていける。
そういった人こそが
本当に自由な人であると
私は
学ばせていただきました。
私達の真本音は
環境を
選びません。
状況を
選びません。
どんな時も
どんな環境でも
どんな状況でも
揺るがずに
そこにあるのです。
それが
私達の
真本音です。
つづく
あなたの中心軸を
イメージしてみてください。
もし可能であれば、
中心軸の「実在」を
感じ取ってください。
そして、
ちょっと変な質問
ですが、
その中心軸を
本来の大きさに
してください。
すると
いかがでしょう?
中心軸よりも
あなたの方が
大きいですか?
それとも、
あなたよりも
中心軸の方が
大きいですか?
あなたの中に
中心軸が
ありますか?
それとも、
中心軸の中に
あなたがいますか?
・・・・・・
そしてあなたの
中心軸は、
天と
つながっていますか?
地と
つながっていますか?
天とつながっている場合、
それはどこまで
伸びていますか?
宇宙の果てまで
伸びていますか?
地とつながっている場合、
それは
地球の中心まで
伸びていますか?
地球の中心から
宇宙の果てまで
しっかりと
つながっていますか?
・・・・・・
そしてその中心軸は
まっすぐ
ですか?
それとも、
どこかで曲がって
いますか?
どこかで
ねじれていませんか?
どこかで
途切れていませんか?
・・・・・・
その中心軸は
何色ですか?
その色は、
あなたにとって
居心地の良いもの
ですか?
あなたにとって
癒される色ですか?
あなたに
パワーを与えて
くれますか?
・・・・・・
その中心軸は
光り輝いていますか?
それとも
ただの固体
ですか?
光り輝いている場合、
それは
自然な光ですか?
その光は、
あなただけでなく、
すべての存在に
パワーを与えて
くれますか?
・・・・・・
天と地をつなぐ、
揺るぎなさ。
そしてそれは
とても居心地がよく
癒され、
しかもパワーを
与えてくれる。
そして、
あなたはその中心軸の
中に
安心して
入っていられる。
もし
そのような状態であれば、
あなたの今の日々は
調和しています。
たとえもし今、
表面的(現実的)には
不調和があったとしても、
混乱の中にいても、
その不調和や混乱自体が
調和のための
一つの要素です。
安心して
不調和や混乱を
楽しんでください。
もし、
自分自身の中心軸に対して、
居心地の悪さや
違和感や
弱々しさを覚える場合は、
中心軸のどこに
それらを感じるのか?を
しっかりと
見つめてみてください。
そして
その原因を
探ってください。
見つめていれば、
何となく原因は
わかるはずです。
なぜならそれは
自分自身が一番
わかっていることですから。
私はいつも
このようにして
自分自身の中心軸チェック
をしています。
自らの中心軸と
淀みなく
共にいられれば、
毎日の充実感と満足感は
半端ないです。
皆さんもぜひ、
お試しください。
つづく
ブログを毎日書こう、
と決めて
書き始めたのが、
昨年の8月7日です。
気がつけば、
もう一年です。
おかげさまで、
土日も含め、
一日も休むことなく
書き続けることが
できました。
このブログを
書くにあたって
決めていたことが
ありました。
一つは、
書き溜めは
しないこと。
つまりは、
毎日、一記事ずつ
着実に書き続けること。
それを
習慣化すること
でした。
もう一つは、
自分の中では
一切の妥協を
しないこと。
そのため、
一記事書くのに
平均で2時間は
かかりました。
時には、
6時間、7時間とかかり、
気がつけば朝だった、
ということも
一度や二度では
ありません。
写真にもこだわり、
写真選びだけで
2〜3時間かけたことも
何度もあります。
お客様と夜に
お食事に行くことも
私は多く、
結構ベロンベロンに
酔っ払いながらも
必ず記事だけは
書きました。
習慣化というのは
凄いですね。
どれだけ疲労困憊して
帰宅してから
倒れるように眠って
しまっても、
ちゃんと夜中には
パッチリと
目が覚めます。
・・・・・・
なんでここまでして
書き続けなければ
ならないのだろうか?
という問いは、
実は、
ほとんど浮かんだことは
ありません。
ただ、
毎日、
本当に毎日ですが、
もうすべてを書き尽くしたな、
さすがにもう
書くことなんてないよな、
と、
記事を書く前には思います。
それでも、
私の真本音は
「書くこといっぱいあるよ」
と私に告げます。
そしてその通りに、
文章が浮かんできます。
よく、
夜中に書いた文章は
朝になって読み返すと、
恥ずかしくなってしまうという
お話がありますが、
そういったことも
一度もありませんでした。
やはり、
真本音に委ねるというのは
面白いものです。
・・・・・・
いつまでこのブログを
書き続けるか?は
私(顕在意識)には
わかりません。
私はただ、
毎日を自分の真本音の
意思通りに
進めるだけです。
真本音の人生は
楽しい。
愉しい。
ただそれだけのことを
お伝えするために
いろいろと
書き続けているだけの
ような気もします。
書くたびに
いろんな人のお顔が
浮かびます。
私は一人では
書いていません。
いつも皆さんと
共にいます。
皆さんの真本音と
私の真本音の
コラボが、
文章になって現れている
のだと思います。
それが続く限りは、
私はこのブログを
続けようと
思っています。
つづく
今のあなたにとって
最も大切なものは
何ですか?
こう問われると、
いろいろなものが
浮かぶと思いますが、
あえて
一つを選んでみて
ください。
その
最も大切なものを
あなたは
手放すことが
できますか?
こう問われると
もちろん、
「手放せます」
と答えられる人は
ほぼいないと思います。
そしてもちろん、
手放さなければならない
ものでもありません。
でも、
あえて
「手放すことが
できますか?」
と問われた時の、
あなたの心の動きに
注目してください。
・・・・・・
「いや、手放せませんよ」
とほとんどの人は
思うでしょう。
問題は
その答えでは
ありません。
そう答えている
自分の心の
その「奥」を
覗いてほしいのです。
「奥」
というよりも、
「土台」
と言った方が
よいかもしれません。
「手放せませんよ」
という心の
「土台」
を感じてください。
その「土台」は
光り輝いていますか?
それとも
暗いものですか?
それは
心を癒してくれるような
気持ちの良いものですか?
それとも
ネチョネチョした
いや〜な感じのする
ものですか?
・・・・・・
もしネチョネチョした
いや〜な感覚の
ものでしたら、
それを「執着」と言います。
もちろん
「執着」は誰にも
あります。
それがあるからダメです、
というお話でも
ありません。
「土台」が執着で
あるならば、
その執着の中身を
観察してほしいのです。
じーっとその執着の
いや〜な感覚を
あるがままに
感じてみてください。
その執着を
完全に味わい尽くそう
もしくは、
細部まで観察し尽くそう
としてみてください。
そうすると何となく、
その執着が
何を望んでいるか?が
わかるかもしれません。
そうです。
執着にはすべて
「望み」があります。
その「望み」が
普段、満たされていないが
故に、
その執着が生まれると
言ってもよいでしょう。
自分の中の
満たされていない「望み」。
それが何か?
を自分で理解することは
とても重要です。
なぜならそれを
満たしてあげられるのは
自分自身だけですから。
・・・・・・
今の私はおかげさまで、
「土台」は
光り輝いているのですが、
昔の私は
もう、ドロドロでした。笑
執着の塊。
私にとって一番大事なもの
について、
「それは俺のものだ!」
と私の執着は
叫んでいました。
そして、
「俺が支配者だ!」
とも。
つまり私は
私自身が支配者に
なりたかったのですね。
当時の私には
非常に厳しい師匠がおり、
ある意味、毎日
自分をいかに抑え込むか?
ばかりを考えていました。
恐らくその反動で、
支配欲が強烈に
高まっていたのだと
思います。
問題なのは、
その支配欲に私自身が
いっさい気づいていなかった
ことです。
ということは、
私の知らないところで
私のちょっとした行動や
表情や、振る舞いや、
そして空気感などで、
私の支配欲は常に
私から滲み出いていた
はずです。
私は無意識に
支配欲を持ち、
無意識に
支配欲を抑えこみ、
無意識に
それが滲み出ていた。
そんな私が
日々を送れば、
どのような人生になるかは
一目瞭然ですね。
・・・・・・
自分の執着を
否定するのではなく、
自分が何に執着しているのか?
をあるがままに
自分が知ることは
大変、意義のあることです。
自分が知るだけで
それだけでもう、
その人の空気感は
変わるのですよ。
つづく
私は年間契約で
継続的に企業様に
サポートに入るケースが
多いのですが、
毎月、その企業様に
通い続け、
皆様の真本音度合いが
高まる中で、
ある時ある瞬間に、
その会社独自の
「真本音の願い」
が誕生するのを
必ず
感じ取ります。
この瞬間。
これは
言葉では言い表せない
くらいの
嬉しさに
私は満たされます。
その会社の
真本音の願い。
これは、
個人個人の
真本音の願いとは
また少し
違った次元のものです。
例えば
100人の社員さんが
いたとして、
その100人の願いが
すべて集積・集約されて
その会社の願いが
醸成される
わけではないのです。
それは、
ポンっと
まったく新しい
命として
生まれるもの
なのです。
・・・・・・
よく、
自分の人生の願いと
会社の願いの
共通部分を
見つけ出したり、
増やしたりしながら
働くことが大切です、
と言われます。
確かに
その通り。
その通りなのですが、
私はここで
いつもちょっとだけ
違和感を覚えます。
共通部分を
見出すということは、
逆に言えば、
ズレた部分もある、
ということです。
もちろん、
自分=会社で
ない限り、
ズレた部分はあります。
それは当然ですが、
でもやはり、
私は
違和感を覚えます。
自分=会社に
なりなさい、
というお話では
ありません。
自分は自分。
会社は会社。
それは
その通り。
でも、
ちょっと違うのです。
・・・・・・
その会社に
真本音の願いが
生まれると
大きく変わることが
一つあります。
それは、
私自身が、
「その会社の真本音」
と語り合えるように
なるのです。
まるで個人の真本音と
語り合うように。
会社は
法人と言いますね。
それは一人の
人として見立てた
言い回しなのですが、
まさしく
会社の真本音の願いが
生まれるということは、
一人の人間が
誕生するのと
同じようなものです。
実在レベルでは。
で、私は、
実在レベルで、
その会社の真本音と
語り合いながら
サポートを進めます。
多くの場合、
そこからサポートの展開が
大きく変わります。
現実の展開が
大きく変わるのです。
私から観れば、
そこにいる社員さん達と
その会社は、
「一つ」
だと、どうしても
思えてしまうように
なるのです。
先程も書きました通り、
個人と会社は
別物ですし、
皆さんはもちろん
そう思っています。
そこは何も
変わらないのですが、
でも、
どうしても、
皆さんが
「一つ」
に観えてしまうのです。
もちろん
「一つ」だからと言って、
皆さんが
会社人間になってしまう
わけではありません。
考え方が
統一されるわけでも
ありません。
愛社精神が
一気に高まるわけでも
ありません。
仕事に対する
考え方も
変わらないでしょう。
それでも
「一つ」
なんです。
そして、
「一つ」である皆さんに
私が向かい合うと、
今、
誰にどんなサポートを
すれば良いか?
という次の一手の
ヒントが
とても掴みやすく
なるのです。
その会社が
大きく変わり始めるのは
そこからです。
・・・・・・
会社も組織もチームも
本来は
「生き物」です。
しかし、最初は
魂がそこには
存在していません。
ですからそれまでは
単なる
「個人の集合体」
です。
でも、
ある時から魂が宿ることで、
それは
「生き物」として
誕生します。
そうなることで、
そこにいる人達は
「一つ」
となっていくのでしょう。
そして
「一つ」になることで、
ますます
一人一人の個性は
際立ち、
異なる個性同士が
相乗効果を発揮
し始めるのでしょう。
この状態に
なるところまでが
まずは私の
サポートの第1幕。
そして、
第2幕からが
本当の意味での
躍進ステージに
入っていくのです。
つづく
今から振り返れば
とても
感謝なのですが、
私はこの人生において
本当に自信を持てた
という経験が、
恐らく
一度もありません。
もちろん今も
自信は
ありません。
「自信」とは
多くの場合、
自分の持っている
能力に対して
持つものだと思いますが、
私は、今、
そして、これから、
私がやろうとしていることや
私が進もうとしている道に
対して、
それに見合った能力が
あるとは
到底思えないのです。
ですから、
どうしても
自信を持つことが
できません。
ずっと
そういった人生
でした。
以前はそれが
いやでいやで
しょうがなかったのですが、
今はそれに
感謝しています。
なぜなら
私のような人間が
自信など持ってしまっては
間違いなく
真本音の道を
踏み外していたと
思うからです。
・・・・・・
これから自分が
やろうとすることに
対して、
それに見合った
充分な能力が
自分にはある。
もしそう
思えたとしたら、
私は間違いなく
自分の能力に
依存
していたでしょうね。
能力を発揮する
そのこと自体に
気持ちよくなり、
能力を発揮するための
人生に
なっていたでしょう。
能力至上主義。
ここに陥ると
自分の真本音の想いが
わからなくなります。
能力とは
あくまでも手段
だからです。
能力を発揮することが
自分を活かすこと
だと
思われがちですが、
いえいえ、
それを目的にしてしまうと、
自分の本当の人生は
観えなくなって
しまうのではないでしょうか。
私だけかな?
本当の意味で
自分を活かすとは、
自分の真本音の想いや
願いに向かって
進むこと。
その道を進むことで
人は進化を始め、
進化の過程でこそ
本来の能力が
芽生えます。
しかも本来の能力は
他者との調和を
生み出します。
つまり、
真本音の道を
進めば進むほど、
どうしようもないくらいの
苦手分野が見つかります。
あっここは
自分には無理だ、
と。
ここは
自分はできるけど、
ここはできない、と。
ここは、
自分が探究すべきだけど、
ここは探究しては
ならない、と。
そういったことが
実に自然に
わかってきます。
それにより、
他の人達とのコラボが
進みます。
真本音の願いとは
自分一人の能力では
決して実現できない
ものです。
人は
人と関わることで
初めて進化をし、
その進化を求めることが
人の本能の中心
ですから、
人は、人とコラボすることを
前提に
生まれてきた生き物
なのです。
それが
自然の摂理。
そこを外れること
自体がもはや、
自分の本当に望む道、
つまりは真本音の道から
外れることなのです。
・・・・・・
私は
自信のない人生で
よかった、と
今は本当に思えます。
そしてこれからも
人生を終えるその時まで
自信がないままで
進めるといいな、と
思います。
自信がないことで、
私が得ることが
できたのは
「確信」
です。
人と関わりながら、
一歩一歩を歩む
その瞬間、
その現場の中で、
「確信」は
必ず生まれます。
あっ、今
これをすれば
いいんだな。
今は、
これを伝えれば
いいんだな。
今は、
これはしては
ならないんだな。
今は、
これは後回しに
すべきなんだな。
そういった、
一歩一歩の「確信」が
日々、発生します、
当たり前のように。
自信を持った私だったら、
これは決して
得られなかったと
今になって
しみじみわかるのです。
つづく
今、
あなたの人生を
あなた自身が進む
スピードは、
あなたが本来
望んでいるスピードに
達していますか?
それとも、
まだまだ
達していませんか?
私達人間は、
自分が本来
望んでいるスピードに
達すると、
まるで止まっているかの
ような
静けさと
安定感と
安心感を
得ることができます。
とても楽チンに
なります。
不思議ですね。
でも、
よくよく考えると
全然不思議では
ありません。
私達は
「進む存在」として
生まれてきたのですから。
「進化」の形が
「人間」なのですから。
・・・・・・
今、
自分が本来望む
スピードを
ますます高めようと
している人が
急増しています。
たとえ、
まだ望むスピードに
達していなくても。
達する前に
もう
もっと加速しようと
真本音で決めてしまう
のです。
そんな人が
急増しています。
ですからある意味
大変です。
今のこの潮流を
感じるにつけ、
凄い時代になったものだ
と
私は感嘆しています。
しかし一方で、
望むスピードと
現時点でのスピードの
乖離が
ますます大きくなる
傾向にもあります。
それは
潜在意識レベルでの
「焦り」を
生みます。
その「焦り」が
蔓延しているのも
ここ最近の
特徴です。
・・・・・・
自分が
「進化」のスピードを
速めようとしている。
という事実を
まずは知ること、
実感することが
大切なのですが、
そのためには、
自分自身としっかりと
向き合わねば
なりません。
自分の「加速欲求」を
知らずに、
ただ漠然と
「焦り」ばかりを感じ、
自分が何に焦っているか
がわからないままに
ますます焦り、
この焦りは
ここから来るのだと、
このことで悩んでいるから
自分は焦っているのだと、
まるでトンチンカンなところで
悩みを設定している人が
多いです。
悩みの観点が
まったく違っていますから、
その悩みの答えを
たとえ見つけられたとしても、
焦りはまったく消えない
どころか、
ますます高まって
しまいます。
今のこの時代ほど、
自分と向き合う
ということが
必要な時代はありません。
自分自身のことなのに、
まったく
自分が理解をしていない。
自分が何に
焦っているかさえも
理解していない。
この状況から
一刻も早く脱却した
世の中にしたいものです。
つづく
もっとみんな、
人に頼ればいいのに、
と思います。
私のクライアントさんは
精神的にも
経済的にも
自立(自律)している人が
多いのですが、
面白いことに
そういった人ほど、
きちんと人に
頼りますね。
逆に、
自立(自律)できていない人
ほど、
自分でやらなきゃ、
独力でなんとかしなきゃ、
と思い過ぎる傾向に
あります。
自立(自律)できている
人は、
自分には
・何ができて
・何ができないのか
がよくわかってるのですね。
それは言葉を換えれば、
自分は
・どこに自分のパワーを注ぎ
・どこには注ぐ必要がないのか
がよくわかっている
ということです。
真剣に生きているからこそ
それがわかります。
・・・・・・
「真剣」と「全力」は
違います。
「真剣」とは
どこで自分が全力を出せばよいか?
をわかっている状態、
もしくは、
わかろうとしている状態
であると私は思っています。
この世は
制限だらけ。
人生の時間も
一日の時間も
限られています。
体も一つしか
ありません。
お金も
有限です。
限られたものを
何のために
どのように
使えばいいのか?
それを徹底的に
模索し続けている人は
真剣だな、
と私は思います。
限られたものを
どのように
使えばいいのか?
その
最も根本にあるのは
自分の
「命」
です。
この世における
命とは
限られたものです。
(寿命がありますしね。)
何のために
自分の命を
どのようように使うか?
これを、
「使命」と
私は呼んでいます。
真剣な人は
自分の「使命」を
よくわかっていますね。
もしくは、
本気でわかろうと
していますね。
・・・・・・
私達人間はあえて、
永遠に全力を尽くす
ということが
できないように
できています。
そこに
人間としての
価値があります。
常に
全力でい続けよう
としている人を見ると、
私は
「真剣じゃないなぁ」
と思います。
真剣な人は
常に
「ゆとり」
がありますし、
それをとても大切に
しています。
なぜなら、
本当に全力を出すべき瞬間に
全力を出せる自分で
あり続けようと
しているからです。
そんな中で、
自分は
誰に何を頼れば
よいのか?
を決めることは
本当に
大切なことですね。
これも
セルフコーチングの
重要な要素の
一つです。
つづく
私は
自分が相手に伝えたいことを
自分が
説明し始めた瞬間に、
あっ、ダメだな
と判断します。
そして、
伝えようとすることを
やめます。
説明しなれば
伝わらない
と感じた時は、
説明しても
伝わらないからです。
もちろん、
きちんと説明すれば
理屈的には
理解してもらえるかも
しれません。
しかし多くの場合、
理屈による理解こそが
本質の理解を
より遅らせる結果となる
ということを、
いやというほど
私は体験しました。
「説明して
わからせよう」
「説得して
わからせよう」
というのは
無理です。
と、
私は自分自身の中では
断定的に思うことに
しています。
説明しなければ
わかってもらえない
ということは、
今は
まだこの話をする
タイミングではないのだな、
と
私は判断します。
そして、
本当のタイミングが
来るのを、
じーっと
待ち続けます。
すると必ず、
そのタイミングは
来ます。
今だ!
と思えたその時には
もう
本当に
説明は不要と
なっています。
多くの場合、
たった一言だけ
その人にメッセージすれば、
その人はすべてを
合点します。
結果として、
この方が
何倍も速く
物事が進展します。
これも
調和の一つの
形です。
・・・・・・
ですから私は
ミーティングとか
面談とか
コーチングをする場合、
その内容
そのものよりも
そのタイミングを
とても大事に
しています。
いつ
その件について
話し合うか?
この
「いつ」
をきちんと捉えれば、
ほぼ8割方、
その話し合いは
成功します。
ですから、
「あぁ、昨日この話し合いを
したら、絶対に
この結論は得られなかったな」
「明日、この話し合いをしても、
まったく別の展開に
なっていたな」
「今日この瞬間しか
なかったのだな」
と思いながら、
ホッと胸を撫で下ろすことが
頻繁にあります。
タイミングが命、
とは
よく言われることですが、
本当にそうだと
私も思います。
・・・・・・
メールを送るタイミングも、
私はとても、
というか、
とてつもなく
大切にしています。
たとえ
緊急を要するメールでも
「今ではない」
と直観したら、
私は絶対に
送らないことにしています。
そして、
「今だ!」
と思えたら、
たとえ夜中でも
メールします。
もちろん
あまり失礼があっては
いけませんが、
そういったことも含めて
私達の真本音は
最善のタイミングを
計ってくれます。
何を伝えるか?
も大事ですが、
いつ伝えるか?
ここの感性を
磨くことも
セルフコーチングでは
重要な要素の
一つなのです。
つづく
こんなに
縛られた世の中
なのに、
自分は実は
完全に自由であると
それが
真実であると
皆、
そうであると
理屈ではなく
「感覚」として
気づけたその瞬間に
真本音の願いは
初めて
自分自身の中心から
浮上し始めます。
それにより、
これまで
「自分の夢だ」
と思っていたことが、
根底から
覆ることも
ありますし、
さらにその夢の
先が
見晴らせるように
なることも
ありますし、
その夢が
全体の中の
単なる一部分で
あったことが
わかることも
あります。
私は今日、
本当に嬉しい
ことですが、
自分のビジョンが
一気に
目の前に迫り、
それがもう
必ず実現するもので
あると、
リアルに
感じ取れる瞬間が
ありました。
いや、
リアルに
感じ取れる
というよりも、
リアルでした。
あぁやはり、
真本音の願いは
一見
それがどれだけ
無謀だと思えても
実現するんだなぁ、
と、
腑に落ちました。
やはり私は
このまま
私の人生に
委ね続けようと
思います。
つづく
私の人生は
私の手には
負えない。
一度、
そう
あきらめてしまって
ください。
手に負えない
のだから、
もう、
どんな意図を持ち
どんな努力をしても
無駄である、
と。
そのように
すべてを
あきらめ、
すべてを
手放してしまって
ください。
もし、
どうしても
そう思うことが
できない、
と言うのであれば、
あなたはまだ
全力を
出し切っては
いません。
その場合は、
どうすれば
自分は全力を
出し切れるのか?
という
発想をした方が
よいですね。
全力を出し切れない
理由と、
それを乗り越える
方法を
じっくりと
真剣に
考えてみてください。
自分の人生は
私の手には
負えない。
そう思える人は
100%そう思い、
そうなんだからしょうがない
とあきらめてください。
そして
次のように
決めてください。
「私はもう
ただ純粋に
自分の人生に
委ねてしまおう」
と。
・・・・・・
実は、
真本音で人生を
進み続けると、
ある時ある瞬間から
自分の
100%の力、
つまりは「全力」では
まったく手に負えない
人生展開となります。
つまり、
自分の人生なのに
自分では
どうしようもなくなるのです。
自分の意図や
思惑では
まったく事が運ばなく
なります。
自分の経験値では
事が運ばないどころか、
望んでいるものと
真逆の展開と
なったりします。
で、
ある時ある瞬間に
思い知るのです。
自分では
どうにもならない。
と。
でも、本当は
そうなることこそが
「本来の人生」
のスタートなのです。
そこからが
本当のスタート
なのです。
そして、
そこからが
人生の本当の
醍醐味を
味わえるのです。
しかし、
人生に身を委ねる
のは、
最初は怖いでしょう。
皆、
怖がります。
私も相当に
怖がり続けました。
でも、
どうにかして
その恐怖を
乗り越えて
ほしいのです。
・・・・・・
もう、
自分がどんな人間か?
なんてことは
どうでもいいじゃ
ないですか。
私は
これを目指して
行きたい!
なんて、
どうでもいいじゃ
ないですか。
もちろん、
自分は大事。
目指したいものも
大事です。
でも、
それを大事にすることと
それに執着することは
真逆の行為です。
自分を
超えてゆく。
その直前に
いる人が
今はとても
多いです。
本当に
自分を
超えられるかどうか?
それは、
これまで自分が
大切にしてきたもの、
これからも
大切にしようとしていたもの、
それらすべてを
手放せるかどうか?
・・・に掛かっています。
そこに執着すれば、
物事は
驚くような展開をもって
人生の道を
阻むでしょう。
執着を手放すまで
阻み続けるでしょう。
なぜならそれは
自らの真本音が
そのように仕向けているから。
そして、
その執着を手放せば、
物事は
驚くような展開をもって
進展するでしょう。
それにより、
それまでの自分が
いかに小っぽけな中に
いたか、
ということが
ありありとわかる
でしょう。
・・・・・・
人生を
本気で進もうと
する人へ。
ちょいと
怖いかもしれませんが、
ここは
がんばりましょう。
そのがんばりに対して、
私は
とことん
サポートさせていただきます。
つづく
昔の私は
ずっと孤独でした。
いえ、
楽しい友人もいましたし、
楽しめる趣味も
ありましたし、
仕事も充実して
いました。
でも、
自分のことは
結局は
誰一人として理解して
くれていない、
理解できる
はずがない。
それが真実であり、
それが人生であり、
それがこの世の中である、
と、ある意味
まったく疑いなく
信じていました。
恐らくここが、
私の苦しみの人生の
原点だったような
気がします。
しかしそんな私が
本当に今から考えると
なぜ?
と思えますが、
人と向き合うお仕事に
就くことになりました。
もちろん
そこに至るまでのストーリーは
あるのですが、
そのストーリーがどうこう
よりも、
やはりこれは、
私がもともと真本音で
決めていた道だったのだなと
思います。
孤独感という根底を
持った私が
毎日、必死に
私以外の人々、つまり他人と
向き合い続けました。
その結果、私は
向き合い続けた
すべての人達から
どんどんパワーをいただけ、
自らの真本音度合いを高め、
そして次元を
高めることができました。
そしてある時に、
本当は自分は孤独では
なかったと、
あまりに強烈に
知ることになりました。
しかしそこに至るまでには
本当のことを言えば、
13、4年かかったのです。
つまり、
私が自分が孤独ではない、
と本当の意味で
実感できたのは
ほんの8年前です。
・・・・・・
それは忘れもしない
2010年のある企業様での
研修の最中。
私は自分が講義をしている
その中で、
突如として
『実在』
を感じ取れるように
なりました。
恐らくその時、その研修では
20数名の方が
いらっしゃったと思いますが、
その瞬間、
私はまるでそこに
何千人もの人がいるような
感覚を得たのです。
しかもそれは
「気のせいかも」
というレベルのものではなく、
あまりにも
鮮烈で、
目の前にあるこの「現実」
の方が、
淡く儚く、まるで幻影のように
観えるくらいでした。
私が今、
「実在」と「現象」という
言葉を使い、
「現実」のことを「現象」と
表現するのは、
この時の体験からです。
・・・・・・
今、私は
仕事部屋で一人で仕事を
していますが、
私は一人では
ありません。
それはそういった
イメージをしているのでは
ありません。
本当に一人では
ないのです。
それは
「実在」です。
例えば、
明日コーチングをする予定の
人達。
その人達は、
今、ここにいます。
私は、
その人達を感じ取り、
その人たちと対話をしながら、
明日のコーチングの準備を
進めます。
何度も言いますが、
それはイメージでも
仮説でも、解釈でも
ありません。
「実在」です。
このように書くと
危ない世界だな、と
思われるかもしれませんし、
それはたけうちさんの
特殊能力でしょ、
と思われるかもしれません。
いえいえ、
決してそうでは
ありません。
ちょっと
心のチャンネルの変えれば、
誰もが「実在」は
そのまま感じ取れます。
これは
特殊能力ではなく、
私達人間がもともと
持っている力であり、
「得意分野」です。
でも忘れて
しまっています、
この現代時社会においては。
忘れざるを得ない
毎日を
皆さんは送ってしまって
いるのですね。
・・・・・・
私達が
当たり前のように
発揮してもよい能力。
その一つが、
「実在」を感知する力
であると
私は思っています。
そしてその力を
思い出すことは、
そんなに難しいことではない、
ということも
わかるようになりました。
例えばもし、
「実在」を感知しながら
ビジネスができたら、
そのビジネスは
どれだけ世の中を
幸せにできるでしょうか。
私の周りでは
それがどんどん
実現していますが、
私はそれを
もっともっと
私の周り以外にも
広げていきたいですね。
つづく
先日、
ある経営幹部さんと
お話ししていた時に、
その方がおっしゃいました。
「たけうちさん、
大きくジャンプするためには、
大きく屈伸しないと
いけないですよね。」
そして、
「屈伸する時って
つらいですよね。
体を思いっきり曲げないと
いけないし、
下の下まで沈まないと
いけないし。
その瞬間は
とても不安定になりますね。」
そして、
「でも、
その屈伸状態を経ないと
大きくジャンプできない
ですよね。」
まさしくそうだな、
思いました。
私はよく
「脱皮」という言葉を
使いますが、
人が大きく脱皮する
その直前には、
思いっきり屈伸する
状態が来ます。
その時その人は
非常に不安定に
なります。
そして、
その人の最も
弱い部分が
クローズアップされます。
当然その時期は
とても苦しみます。
でもその苦しみを
経ることで初めて
大ジャンプが可能に
なります。
・・・・・・
大ジャンプ(脱皮)の
前の不安定。
大ジャンプ(脱皮)の
前に露呈する弱さ。
それはとても
苦しいものですが、
しかし、
それは
放っておかなければ
なりません。
どれだけ不安定でも
どれだけ弱くなっていても、
そこをサポートしては
絶対に
ならないのです。
そのサポートは
大ジャンプ(脱皮)のチャンスを
消し去ってしまうから
です。
しかしまぁ・・・、
私も人間です。
それを放っておくのは
とてつもなく
つらいです。
見てられなく
なります。
ついつい、
手を差し伸べて
しまいそうになります。
そこを
グッとこらえるのが
コーチであると
わかってるんですが。
・・・・・・
今、
脱皮直前の人が
本当に多くて。
その人達の苦しみを
私はダイレクトに
感じてしまうので、
それはもう
毎日、つらいです。
だから私は
祈ります。
私にできるのは
祈ることのみ。
その人が
無事に脱皮できますように。
その人が
真の自由を
手に入れられますように。
その人の
隠れていた本来の魅力が
開放されますように。
私のクライアントさんは
みんな素敵な人達
ばかりで。
本当に私は
大好きで。
大好きな人達が
次のステージの扉を
開けることを、
今晩も祈り続けています。
つづく
人が人を救う、
とか
人が人を守る、
とか
そういったことを
考えるのは
基本的には
傲慢なことだな
と私は思います。
その人の人生は
その人のもの。
押し付けがましく
その人の人生に
割り込んでいくのは
独りよがりの
自己満足になりかねない、
ということについては
私はとても
注意をしています。
でも、
そういったことを
すべて大事にした上で、
それでも
この人を守りたい。
この人を救いたい。
と心の底から
思うことがあります。
それはもちろん
私だけでなく、
すべての人に
あることですね。
この人を守りたい。
この人を救いたい。
本当に真剣に
そう思うことで、
そう思っているその人自身が
急成長することが
あります。
守りたいものがある。
救いたい人がいる。
というのは、
人として
とても幸せなこと
でもありますね。
何かを
守ろうとしている人、
何かを
救おうとしている人、
それを本当に
純粋に
真剣に
想い続けている人を、
私は
守りたいなぁ、
救いたいなぁ、
と、
とても純粋に
思えた
今日でした。
つづく
私達人間にとって
最も悲しいことの
一つは、
自分で自分を
傷つける
ことです。
その中でも特に
きついのは、
自分の魂を
傷つけること
です。
魂を傷つけるとは、
命を傷つけることと
イコールです。
それは
人生を終えてしまう
とか、
そのレベルの話ではなく、
命そのものを
ダイレクトに
傷つけるもの。
すると、
その人本人の
命だけでなく、
他の人々の命も
同様に
傷つけられることに
なります。
なぜなら
私達は
高い次元においては
「一つ」
だからです。
・・・・・・
魂を傷つける
最たるものは、
自分の人生を
放棄する
ことです。
人生の放棄とは、
怠けるとか
そういった表面的なことでは
ありません。
真本音のレベルで
言えば、
私達は生まれる
その瞬間に
自分自身と一つの
「約束」をします。
その「約束」を
果たすことが
自分の人生を
生きることであり、
自分の人生の意味
そのものとなります。
その「約束」を
放棄すること、
それが
人生を放棄することの
本質です。
それをした瞬間から、
その人はもう
その人では
なくなります。
自分ではない
自分。
ということは、
大袈裟に言えば
自分が存在していない
のと同じ状態になります。
もちろん、
魂レベルの話です。
しかし、
そうなった場合、
その人は
「空虚」そのものと
なります。
「空虚」
つまりは、
「何も無い」
そして
「虚無」。
その人の中心にある
魂は姿を隠し、
その人は
虚無を中心に据えて
心を動かすように
なります。
ですから
何をしても、
何を目指しても、
何を達成しても、
何に喜んでも、
すべてが
空虚です。
私は
そういった人と
出会ったり
向かい合ったりすると、
涙が止まらなく
なります。
もちろんその場で
涙を流すことは
しませんが、
帰宅してから一人で
泣き続けます。
朝まで
泣き続けることも
ざらにあります。
実は
今もその涙が
止まりません。
とても
悲しいです。
・・・・・・
人は
自分を救うことは
できないのでしょうか。
いえ、
もちろんできますし、
そういった現場を
私は数え切れないくらいに
観てきましたし、
体験もしました。
でも、
そうではない人も
確かにいます。
悲しいことですね。
悲しいですが、
私はやはり
私にできる最大のことを
し続けるのみです。
今日できる
最善を尽くす。
その連続
だけですね。
つづく
初めてお会いした
その瞬間に、
「あっ、この人
無茶をする人だな」
と直観する人が
います。
そういう人は
ほぼ間違いなく
本当に
無茶をします。笑
ただし当然のことですが、
本人にはその認識は
まったくもって
ありません。
本人は、
自分は怖がりだ、
と言うのですが・・・。
・・・・・・
無茶するのが
良いことであると、
私は決して
思いません。
それどころか、
人はやはり
しっかりとした
その人なりの基盤を持ち、
その安定の上で
進んだ方がよいと
思います。
一見、
無茶をしているように
見える人も、
実はその基盤が
しっかりとあるのですね。
まるで大地のような
安定したところに
立っているからこそ、
本人は
ゆとりを持って
進んでいる。
でも結果として、
周りからはそれが
無茶である、
と見えるだけのこと。
・・・だと思います。
・・・・・・
あぁこの人、
無茶をする人だな、
と思えるということは、
この人は、
安定した大地に
立っているんだな、
ということと同義です。
つまり人は、
安定すればするほど、
無茶をします。
安定していないから
安定を求め、
安定をしたら
無茶をする。
それが人の本質
であり、
人の面白さでも
ありますね。
・・・・・・
無茶する人と
一緒にいると、
無茶させられます。笑
でも私は
それが楽しくて
しょうがありませんので、
我ながら
困ったものです。
そろそろ私は、
この辺りで一つ、
自分自身のタガを
外そうかな、
と思っています。
タガを外すと、
どんな自分が
出てくるのか?
ちょっとばかり
怖いのですが、
まぁでも、
そろそろ、いいかな。
あなたは
いかがですか?
そろそろ
タガを外す準備は
できているのでは
ありませんか?
つづく
真剣な人生を
生きることと、
適当な人生を
生きることは、
イコールです。
・・・と言うと、
ちょっと極端すぎますか?
よく私は、
研修やチームコーチングの
最中に
「もっと適当に
やってくださいよ」
という言葉を
かけます。
なぜならみんな
真面目過ぎるからです。
いえ、
真面目なのは
とても良いことだと
思っています。
真本音度合いも
結局は
真面目な人ほど
早く高まる傾向が
ありますし。
しかし、
真面目過ぎると
「深刻」になって
しまうのですよね。
深刻さは
実は、
何も生みません。
深刻な思考による
物事の決断は
道を開きません。
と断言しても
よいと思っています。
そして私は、
「適当」の対義語は
「深刻」ではないかと
思っています。
そして
「適当」の同義語が
「真剣」であるとも。
真剣な人は
いつも
肩の力を抜き、
朗らかで
軽やかです。
真剣な人ほど、
私は
表面的には
「この人、ホント、
適当だな」
と笑ってしまうのです。
・・・・・・
真剣さとは、
全力を尽くす
ということでは
ありません。
真剣さとは、
「どこで自分が
全力になるかを
見極める」
ことです。
本当に全力になるべき
ところで
自分の全力を
きちんと発揮できる
こと。
その状態を
常に持ち続けて
いること。
そういった人を
観ると、
私は
「真剣な人だなぁ」
と思います。
常に
何かに必死で、
「私は頑張ってます」感
を出している人は、
残念ながら私は、
「真剣じゃないなぁ」
もしくは
「この人は、
真剣さというものをまだ
わかってないんだな」
という見方をします。
・・・・・・
私は、
すべての人が
真剣に生きるといいな
と思います。
真剣に生きれば
必ず道は
開きます。
しかも
自分の望む現実が
拓かれていきます。
そのためには
深刻にならないこと。
そのためには、
自分の中の
深刻なものと
しっかりと
向き合えること。
深刻さから
逃げることで私達は
本当に深刻に
なります。
深刻さと
対峙することで、
私達は
深刻さから
自由になれます。
ただし、
その対峙の仕方が
大切です。
こここそを
私はすべての人に
お伝えしたい。
これが
私の言うところの
セルフコーチングの
真髄です。
対峙すべきものと
対峙する。
そして、
それをすればするほど
どんどん軽くなる。
深刻さから
解放されて
自由になる。
そして、
適当に、さらに
真剣に
人生の一歩一歩を
楽しめる。
一日一日の
満足感が
格段に上がっていく。
私の人生は
最高であると
思えるようになる。
すべての人が
そうなれると
本当にいいなぁ、と
私は願います。
つづく
本日(7月22日)ですが、
私が主催しております
『TPC養成塾』
の第2期が修了しました。
8ヶ月に渡る長期コースで
少人数制の
非常に濃い講座です。
Facebookグループでの
やりとりを含めると、
ほぼ、毎日受講生さん達とは
やりとりを続けました。
毎朝、私は彼らに
「問い」を投げ続け、
彼らは毎日その問いと
向き合いながら、
各々の人生を進めました。
何度も何度も
「脱皮」を繰り返し、
すべての皆さんが
人生の展開を
大きく変えました。
TPCとは、
「チームパフォーマンスコーチ」
の略です。
これは、企業のような
法人に対しても
「組織(チーム)そのものを
真本音コーチングできる」
力を持ったコーチ
という意味です。
おかげさまで、
第2期を終わり現時点で
私が
「この人はもうTPCと言って
差し支えないな」
と思える力を持った人は
私以外に7名となりました。
内、4名はすでに
自ら屋号を持ち、
生計を立てています。
ほんの3年前までは
真本音に関する研修や
コーチングは、
私以外にできる人は
一人もいなかったのですが、
今はそれが数名に
増えるという
とても喜ばしい状態に
なっています。
もちろん、
現在、私と一緒に企業現場に
入っている人達は
他にもいらっしゃいますし、
修行中の人もいます。
(まぁ、みんな修行中ですが。)
3年前に
「後継者を育成しよう」
と思い立ってから
こんなに早くこの状態に
なれるとは正直
思っていませんでした。
いつも私をサポートしてくださる
プロデューサーの方や
私といつも向き合い続けて
くださる方々に
本当に心より
感謝いたします。
ただ、
まだまだ道は
始まったばかりです。
まずは私の第一の
目標としては、
2021年8月までに、
現時点での私以上の
力を持ったTPCを
6名養成する
というものがあります。
それが成されれば、
私は次の展開に
大きく飛躍することが
できます。
TPC養成塾の第3期は
2019年の初頭に
開講予定ですが、
その前に
どうしてもやりたいことが
あります。
それは、
セルフコーチング系の
新しい講座です。
もうそろそろ
名前を出しても
いいかな。
『ザ・セルフ』
という名の講座を
スタートします。
約半年のコースです。
この講座で
セルフコーチング力を
一気に高めていただき、
その中で
「私はTPCになりたい」
という志を持った人が
もしいらっしゃれば、
その方に
TPC養成塾に進んでいただく、
という流れを創ろうと
思っています。
ただし、
『ザ・セルフ』は
まずは無料動画を
配信しようと思っています。
この動画では、
過去の私の真本音研修の
映像を
そのままお見せしたりも
します。
それをご覧いただくだけで
セルフコーチングや
真本音の最も基本的な
部分は
ご理解いただけると
思います。
まずはそれを観て、
ご自分なりに
セルフコーチングを
楽しんでいただき、
その上で、
もっとしっかり学びたい、
たけうちのサポートを
直接受けたい、
という人のみが
講座にご参加いただく
という仕組みにしようかと
思っています。
今月中には
動画配信できるかな。
真本音。
そして
セルフコーチング。
本当にまずは
これだけは
できるだけ多くの方々に
知っていただきたいかな。
つづく
まるで
ダムが決壊し、
溜まっていた大量の水が
放流されるかのように、
人生の展開が
急激に変わる
ことがあります。
それまでの人生は、
「水を貯蔵するため」
のもの。
そして、
これからの人生は、
これまで溜めたものを
「一気に放流(開放)するため」
のもの。
「貯蔵期」から
「放流期」への
移行は、
ある日突然来ます。
多くの場合、
まったく
その予告も気配も
ありません。
昨日までとは
明らかに異なる
人生展開が
急に始まるのです。
・・・・・・
その人生展開の
変化の激しさに、
多くの人は
戸惑うでしょう。
最も注意すべきは、
「放流期」に
入っているにも関わらず、
「貯蔵期」と同じ
生き方(行き方)をすること。
放たれた水の流れに
自分の身を
委ねてしまえば
よいのですが、
それをせずに
ずっと同じ場所に
留まろうとしてしまう
人が結構いるのです。
しかし当然ですが、
ダムは決壊したので、
同じ場所に
留まることは不可能です。
しかしそれでも
足を踏ん張るので
バランスも態勢も
すべてが
おかしくなります。
下手をすれば、
自ら放った水の流れに
溺れてしまうでしょう。
大切なのは、
「私は
昨日までとは
違う自分なんだ」
と自覚すること。
「私の人生は、
昨日までとは
違う人生となったのだ」
と受け入れることです。
・・・・・・
なぜこのようなことを
書くかと言いますと、
今、
非常に多くの人が
この「放流期」に
入ったからです。
もしくは、
入ろうとしている
からです。
これは
世の中全体の潮流と
言ってもよいでしょう。
そして、
真本音度合いの
高い人であればあるほど、
放流の度合いが
激しくなりますし、
「放流」したと思ったら、
それも実は
「貯蔵」の段階で、
さらにその後、
激しい「放流」が起こり、
しかし実は、
それすらもまだ
「貯蔵」の段階で、
さらにさらにその後に
激しい「放流」が起こり、
でも実はまだ
それすらも「貯槽」段階で
さらにさらにさらに
その後に激しい「放流」が・・・
・・・というように、
止めどのない
放流の放流の
そのまた放流の・・・
が起こり続けます。
そして
悟ることになるでしょう。
あぁそうか、
自分のこれまでの人生は
今のこの
「放流」をきちんと
迎えるためにあったのだな、
と。
つまり、
ここからが
本番なのです。
・・・・・・
「放流」を
怖い、などと
思っている暇は
ありません。
「放流」は私達が
何を思おうとも、
勝手に為されます。
ある意味、
私達はそれを
諦めて、
それに抗わず、
身を委ねましょう。
それさえできれば、
あとは
これまで体験したことの
ないような
悦びと充実感と
楽しさが
満ち溢れてくるでしょう。
人生の
醍醐味は
ここからです。
つづく
実は個人的には
「奇跡」
という言葉は
あまり使いたくありません。
安易に使っている
人を見ると、
奇跡なんて本当は
ないのになぁ、
と思ってしまいます。
だって、
すべて「必然」
ですからね。
一見、奇跡に見えても、
そこに至るまでには
着実な
一歩一歩が
必ずあるのです。
しかもそれは
現実(現象)レベル
だけではなく、
実在レベルでこそ。
・・・・・・
このブログでは
ずっと
・実在
・現象(現実)
と言う書き方を
しています。
もともとこの言葉は
大昔の哲学者の方々が
使われていたようですが、
私は彼らがこれを
どう捉えていたか?よりも、
この言葉の持つ
本質的な響きがとても好きで
使っています。
現象の奥には
必ず実在が
あります。
「人間」という
視点で言えば、
・人の起こす現実
・人の行動や振る舞い
・人の顕在意識
・顕在意識のちょっと下の
潜在意識(ほぼほぼ顕在意識)
この4つを私は
「現象」
と呼んでいます。
そしてその奥にある
潜在意識のレベルを
「実在」
と呼んでいます。
一見すると、
本当に実在しているのは
私達の創り出す現実とか
私達の行動や振る舞い
のように思いますが、
いえいえ、
それらは単なる
反映に過ぎません。
心理学の世界で
よく言われるのですが、
それらは
映画のフィルムが映し出した
映像に過ぎないのです。
とは言え、
映像だから意味がない、
実体がない、
とも
私は思っていません。
この世は
映像によって
成り立っていますから、
映像(つまりは、カタチ)
こそが大事だとも
思っています。
つまり、
映画でいうフィルムが
実在ですが、
フィルムも大事、
映像も大事
なのです。
実際に映画を
楽しむためには
映像がなければ
なりませんしね。
どんな
フィルム(実在)があり、
それが
どのように
映像化(現象化)
されているのか?
こここそが
最も大切なところですね。
・・・・・・
そして、
映像(現象・現実)は
私達の脳みそがキャッチ
します。
つまりは、
五感がキャッチします。
しかし、
フィルム(実在)は
五感では
キャッチできません。
脳を使っては
キャッチできない
のです。
ところが、
実在を
そのままキャッチする
力を、本当は
誰もが持っています。
大変、ありがたいことに
私は
ずっとコーチを続けてきたことで
ある時から
実在をキャッチできるように
なりました。
自分の脳を使わずに
映像化(現象化・現実化)
する以前のものを
キャッチできるように
なりました。
もちろん
先ほど述べた通り、
これは私独自の力では
決してありません。
人間であるならば、
すべての人が
もともと持ち合わせている
能力の一つであり、
それは私達人間が
言葉を覚えるのと同様に
努力によって
すべての人が
身に付けることができます。
その方法さえ
知っていれば。
実在をキャッチ
できるようになることで、
あぁ、奇跡なんて
本当はないんだな、と
よくわかります。
すべては
必然です。
起こるべきことが
起きているだけ。
私は、
実在をキャッチし、
実在と現象のつながりを
あるがままに
観察でき、
適切なサポートのできる人
のことを
「コーチ」
と呼んでいます。
そして、
そのような「コーチ」を
私は
増やしていきたいのです。
嬉しいことに、
すでに何人かの人が
「コーチ」として
活躍し始めています。
・・・・・・
「コーチ」になるためには
まずは、
セルフコーチングできることが
必須です。
自分自身の
実在を
脳を使わずに
感知できること。
そして、
自分の実在の意思を知り、
それを的確に
現象化(現実化)
できること。
これができると、
人は
とてつもなく幸せ
です。
まずは
そのような状態になることが
ファーストステップ
です。
そのためにも
セルフコーチング系の
学びの場を
これから増やして
いきます。
楽しみにしていて
ください。
つづく
私達の人生において
安息の地は
どこにあるのでしょうか?
実は、
安息の地は
たった一箇所にしか
ありません。
それは、
「最速スピードの世界」
です。
・・・・・・
「最速スピード」とは、
今の自分の出せる
最速スピード
ということです。
そしてそれは
何に関するスピードか?
と言いますと、
「進化のスピード」
です。
つまり私達は
進化スピードが
「最速」となっている時に
「安息」を得るのです。
・・・・・・
最速スピードに
入ったとき、
私達はまるで
止まっているかのような
感覚となります。
そして
すべての物事が
ありありと観え、
地にガッシリと
足がついている
とてつもない安定感を
得ます。
こうなるともう、
これまで「安定」だと
思っていたものの
すべてが
不安定だったことに
気づけるでしょう。
淡いもの、
儚いもので
あったことが
理解できるでしょう。
と同時に、
私達人間の本質が、
つまりは、
私達は進化の生き物である
ことが
論理を超えた確信として
腑に落ちるでしょう。
・・・・・・
そしてそうなれた時、
私達は
ゆっくりと頭を
もたげます。
本当は
今この瞬間も
最速で前に進み続けて
いるのですが、
やはりそれは
まったくもって
止まっているようです。
すべてが
静止し、
静かにただそこに
存在しています。
その世界の中で
私達は
頭をもたげ、
未来を観ます。
そこには
紛うことのない
一本道が観える
でしょう。
あぁなんだ。
ここをこのまま
まっすぐに
進めばいいだけか。
・・・と、
何だか笑えてきます。
さて。
ではゆっくりと
進むことにしようかな。
と、私達は
呼吸を整え、
前に踏み出します。
それはつまり、
最速からまたさらに
加速し、
最速を超える最速を
手に入れるということ
です。
こうして私達は
自分を超え、
進化を進めていきます。
・・・・・・
さて、
ではゆっくりと
進むことにしようかな。
と、
最速の中で
頭をもたげたその瞬間の
私達の境地を
私は、
『覚悟』
と呼んでいます。
覚悟を持った
状態。
それはまた
とてつもなく
静かで幸せな
瞬間です。
何の力も
入っていません。
自然体の
極みです。
人生において
覚悟を持つことは
すべての人が
できること。
覚悟を持つからこそ、
私達は
本当の意味で
楽になれるのです。
つづく
自分が揺れることを
止めようとする人は
揺れ続けます。
自分は人間なのだから、
揺れるのは
当たり前じゃん。
そんな大らかな目で
自分自身を許せる人は
揺れることは
ありません。
揺れるのは
反応本音。
その反応本音を
あるがままに
受け入れれば、
自然に
真本音が発動
するからです。
真本音の大地に
立った自分は
すべての現実を
楽しめます。
一生懸命
楽しもうとする
のではありません。
普通に
自然に
楽しめます。
大揺れに
揺れている
あらゆる心もそのまま
楽しめます。
そして、
それらのあらゆる
反応本音達を
真本音は
活用します。
それはまるで、
皆から大尊敬されている
経営者が
社員さん達を一つに
まとめ上げ、
共に素晴らしい会社と
素晴らしい現実を
創り上げていくことと
同じです。
「私」という心は
チームです。
チームには
素晴らしいリーダーが
必要です。
真本音とは
「私」というチームの
リーダーたるべき
存在なのです。
・・・・・・
そのリーダーは
誰の心の中にも
存在します。
しかし
そのリーダーに
フタをしたままに
生き続けている人が
多いです。
なんという
もったいないこと。
「私」というチームが
一つの方向に
統合、融合していける
偉大なるリーダーが
ちゃんと
存在しているのに。
そして
そのリーダーに
(ある意味)委ねて
進むことで、
「私」が本当に望む
人生の幸せに
たどり着くことが
できるのに。
・・・・・・
真本音という
リーダーを
自らの中から
発掘しましょう。
それは、
誰もが簡単に
できることです。
地道なやり方ですが、
簡単です。
それを
できるだけ多くの人達に
発信していきたいと
思っています。
そのための
活動を
今月から広げます。
つづく