時間と距離

遠ざけよう

 

きっとそれは

何もなかった

のだろう。

 

ある、と

思い込んで

いたのだろう。

 

ないものを

ある、と

思い込む始まりは

 

その後、

物事がどう

展開しようが

 

辛いものとなる。

 

自分が

実はそれに関して

何の意志(意思)も

持っていなかった

という事実を

 

どこかで

受け止めなければ

ならなくなる。

 

いや、そこで

もし受け止めることが

できたなら、

それだけで

やり直しは効く。

 

しかし多くの場合、

せっかく

始めたのだから、

惰性で続ける。

 

もしくは、

 

自分に意志(意思)が

まったくなかった

という事実そのものを

受け止められない

ままでいる。

 

やはりそれは

ちと、辛い。

 

意志(意思)が

ないことは

いけないこと

ではない。

 

大事なのは、

 

この件について

自分には

意志(意思)がないのだ

ちゃんと自覚すること。

 

そして

そういうことは

一刻も早く

 

手放す

 

ことだ。

 

手放す、とは

捨てることでは

なく、

 

自分から

距離を置く

ことだ。

 

あらゆる物事に

距離感

はとても大切で、

 

自分の意志(意思)の

ないことは、

自分から遠くに

置けばいい。

 

そしてもし

意志(意思)が

生まれれば、

 

その時点で

近づけばいい。

 

遠くに置くべきもの

遠くに置いていないと、

 

本来

近くにあるべきもの

が、

寄って来れなくなる。

 

人生は

調和、だ。

 

調和とは

距離、だ。

 

何とどう距離を

置くか?

 

何を近づけ

何を遠ざけるか?

 

その視点で

すべての物事に対して

距離の調整を

しよう。

 

すると、

 

止まっていたものが

流れ出すよ。

 

つづく

 

調和を決めるもの

 

本当に大事なもの

が何か?

 

がわかると、

 

これまで

大事にしてきてものが

どうでもよくなる。

 

であれば、

手放せばいい。

 

どうでもよいものは

手放せばいい。

 

ちょっと

極端な言い方だが。

 

いつも言うことだが、

手放すとは、

捨てることではない。

 

距離を離す

ことだ。

 

今よりも

遠くに置く

ことだ。

 

この世の中の

調和は、

 

時間と距離

 

で決まる。

 

最善のタイミングで

最善の行動を

起こす。

 

これが

時間による調和

だ。

 

と同時に、

 

最善の距離で

最善の関わりを

する。

 

これが

距離による調和

だ。

 

この二つを

大事にし続ける人は

(もしくは、組織は)

 

あらゆることが

調和し始める。

 

具体的に

何をするか?

 

何を選択

するか?

 

よりも、

 

どのタイミングで

するか?

 

どの距離感で

するか?

 

の方が

実は

大事なんだ。

 

真本音度合いが

高まるということは、

 

この二つを

見極める力が高まる

ということと

イコールだ。

 

つまり

真本音度合いが

高まると

 

手放すべきものを

手放せるように

なる。

 

だから、

 

自分が

本当に大事にしている

ものが何か?

わかればわかるほど、

 

「今、私は

何を手放すか?」

 

という問いを

大事にするといい。

 

私はこの問いを

毎日毎日

自分に問うている。

 

答えがわからなくても

問い続けることが

また大事なんだ。

 

つづく

 

私達は永遠の1秒にいる

 

半世紀以上も

生きていると、

 

1分1秒という

一刻一刻の時間が

とても

愛おしくなる。

 

そんな感覚

わかりますよね?

 

私は時々、

何もせずに

目を瞑り、

 

1秒1秒の時間が

過ぎていくこと

のみを

 

感じるようにしている。

 

それ以外の

ことは考えない。

 

ただ

時間の流れのみ

見つめる。

 

すると

不思議な感覚に

なる。

 

そこに

「永遠」

を感じるのだ。

 

1秒という

時間の奥には

「永遠」

がある。

 

そこはまるで

無限の宇宙の

ようだ。

 

しかも

とてつもなく

神秘的だ。

 

その「永遠」は

真っ暗闇の

ように

感じることも

あれば、

 

白色に輝く

光の世界のように

感じることも

ある。

 

どちらが良い悪い

ではなく、

どちらも

そこにはあるのだろう。

 

そして

その「世界」を

この1秒に

込めている。

 

「永遠」を

込めている。

 

これが

私達の本来

なのだろう。

 

私達は

1秒という永遠

生きている

存在なのだ。

 

この3次元の

世の中では、

1秒という時間は

過ぎてしまえば

消えていく。

 

しかし本当は

消えては

いない。

 

その1秒は

「永遠」の中に

入るのだ。

 

いや、

もっと正確に言えば、

その1秒は

「永遠」から

やって来て、

「永遠」に

帰っていくのだ。

 

言葉にすれば、

そんなようなことを

感覚として

得るわけなのだが、

 

そうなるともう、

この1秒が

とてつもなく

愛おしくなる。

 

そして当然ながら、

最高の1秒に

したいな、と

思うし、

 

それが

できている実感は

恐らく人間としての

最高の幸せの

一つだろう。

 

だから私はよく、

時間の流れ

のみに意識を

向け、

 

そこに「永遠」を

感じたら、

その視点で

今からの予定を

立てる。

 

この後の時間を

何のために

どのように

活用するか?

 

すると、

一日はとても

輝くものに

なるんだな。

 

つづく

 

一つを決めて、一つをする

 

これは私だけに

限ったことかな?

 

私は、

「ながら時間」

というのが

かなり苦手だ。

 

つまりは、

○○をしながら

△△をする、

という

時間の使い方。

 

一見、効率が

良さそうで、

しかし私は

生産性が極度に

減退すると

実感している。

 

私だけかな?

 

私は、

 

『一つを決めて、

一つをする』

 

というのを、

時間の使い方の

基本にしている。

 

今は

何をする時間か?

 

今は

何のための時間か?

 

今は

何をしてはならないか?

 

今は

何を手放す時間か?

 

というようなことを

はっきりくっきりと

決めている。

常に。

 

こう書くと、

「面倒だなぁ」

とか

「真面目すぎだよ」

思われるかな。

 

いやぁ、

私はまったくもって

こっちの方が

楽だと思っている。

 

なぜなら

一つに集中することで、

発想の

広さも深さも

100倍くらい変わる

からだ。

 

だからもし、

「ながら時間」で

同じことをした場合の

100分の1の時間で

それを完了できる。

 

これ、実は

大袈裟な表現では

ない。

 

以前は私は

「ながら時間」こそが

効率性を高めると

思っていたので、

そればっかり

やっていたが、

 

その当時の私は

睡眠時間もほぼないし、

休日もまったくない

日々だった。

 

でも今は、

当時、一週間くらい

かけて悩んで

導き出していた答えを、

下手をすると

10分くらいで

出せるようになった。

 

今、これを

やればいいんだ。

 

真本音で決めたことを

する

という習慣化は

それくらいの

生産性を

掘り起こしてくれる。

 

そしてもう一つ

良いことがある。

 

それはこのブログでも

よく書かせていただいた

 

『完了感』

 

だ。

 

完了感とは、

「これについては

今、ここで完了したな」

という

確信を持った感覚

のことだ。

 

一つを決めて

一つをする、

というやり方を

大事にすれば、

 

この完了感が

非常にわかりやすく

なる。

 

完了感が出たら、

私はその仕事が

途中でも、

それをやめてしまう。

 

じゃあ

その仕事は

終わらなくなって

しまうじゃないか?

 

と思われるかも

しれないが、

もちろんそうではなく、

 

また別の時間に

「続きをやろう」

と自然に

思える時が来る。

 

そしてそこで

再びその仕事を

始めれば、

 

一気に

カタがつくのだ。

 

人間の集中力は

限られている。

 

であれば、

最大の集中力を

出せるように

すること。

 

それが

時間活用の基本

だと私は

思っている。

 

つづく

 

明日は来るのか?

 

「明日」という

一日が

当然のようにやってくる

と私達は

思っているが、

 

本当にそうだろうか?

と私は

よく思う。

 

今日までと

同じ明日が来る

という

保証はない。

 

しかし、

まるでその保証が

あるかのように

私達は思い込む。

 

それだけ

平和なのだと

言えばそうであるが、

 

悪い言い方を

すれば

「惰性で生きる」

状態に

私達は入りやすい。

 

しかし本当に

その「惰性」を

私達は

望んでいるのだろうか?

 

もちろん人間は

これまでと同じ日々が

続くことで

安心する。

 

コンフォートゾーン

という言葉もあるが、

一度、安心安定を

感じてしまうと、

そこから抜け出ることは

なかなかに

難しい。

 

ただしそれは

心で言えば、

表面的なものだと

私はいつも

感じる。

 

「惰性」が生み出す

不安定さに

どれだけの人が

気づいているの

だろうか?

 

私達は

「惰性」、つまりは

何も考えずに

慣性の法則のように

進むことで、

本当は

不安を蓄積させる。

 

例えば幸せな

日々が続いたとして、

この幸せは

本当にずっと

続くのだろうか?

どこかで不安に

おののく。

 

そして

いつの間にか

「この日々を

ずっと守りたい」

と思うようになる。

 

それ自体は

大切なものだが、

しかしその気持ちは

多くの場合、

「今の日々」

「今の毎日」

への

執着になってしまう。

 

その「執着」に対して

私達の心は

とてつもなく

不安定になるのだ。

 

「執着」とは

依存。

 

「依存」とは

何かに寄りかからないと

生きていけない状態

だ。

 

それはつまり、

「私は自力では

立てない」

ということ。

 

もちろん人は

皆で助け合いながら

生きるものだが、

 

「自力で立てる」

という基盤の上での

助け合いと、

「寄りかからないと

生きていけない」

という状態での

助け合いは、

 

本質的には

まったくの別物だ。

 

私達の真本音は

そういった

「依存」や「執着」を

まったく

望んでいない。

 

本当には望んで

いないことを

やり続けることで、

私達の中には

「そんな自分で

良いのか!」

という、

罪悪感、つまりは

自分を責める気持ちも

発生する。

 

これがまた、

不安や不安定さを

生み出す。

 

「明日も今日と

同じ一日が来る」

 

というのは

もちろん

思い込みだ。

 

私達は明日、

人生を終えるかも

しれない。

 

あらゆる状況が

一変するかも

しれない。

 

別に脅すつもりは

ないし、

悲観的になれ、

ということでも

ない。

 

ただ言いたいのは、

 

私達はもっと

自分の「毎日」を

愛した方が

よいのではないか。

 

ということだ。

 

自分の「時間」を

 

自分の「人生」を

 

自分の「命」を

 

もっと

愛した方が

よいのではないか。

 

私達は

本当に自分の

愛する人には

常に自分の

意識を注ぐ。

 

それと同じように、

自分の時間、

人生、命、

そして、

今日という一日、

明日という一日、

 

もっと意識を

注いだ方が

よいのではないか。

 

人のサポートを

させていただく

中で、

 

そして

企業サポートの

現場で、

 

いつも私は

そう思う。

 

もっと

自分を生きよう。

 

それは、

時間を愛する

ところから

始まる。

 

つづく

 

何のための時間にする?

 

「時間」とは、

削るものでは

なく、

創るものだ。

 

今日一日を

どのような一日に

するのか?

 

その問いに

真摯に向き合い、

 

だから私は今日、

・これをする。

・これをしない。

 

と、

完全に決めるのが

私の一日の始まりの

日課だ。

 

「完全に決める」

とは

「真本音で決める」

ということだ。

 

真本音で決める

ためには

心を落ち着かせる

必要がある。

 

朝起きた瞬間から

バタバタと

何も考えずに

一日を始めてしまうと、

 

もうその時点で

その一日は

雑なものになる。

 

朝一番で

「今日は雑な一日に

するぞ!」

と決めている

ようなものだ。

 

それはつまり、

「私は私の人生を

雑なものにするぞ!」

決めていることに

等しい。

 

そんな人に

望む人生や

望む現実が

起こるはずがない。

 

昨日、

初めてお会いした

ある経営幹部さんは、

 

「私は何のために

生まれてきたのか?

毎日考えることに

しています。

もちろん、答えは

出ません。

本当に出るときは

人生を終えるときだと

思います。

それでも私は

そう自分に問いかける

ことに意味があると

思っています」

 

と言われていた。

 

いいなぁ、

 

と思った。

 

何のための

人生か?

 

何を目指して

いるか?

 

何が課題か?

 

今は何と

真剣に向き合うべきか?

 

私は本当は

何をしたいのか?

 

それらの問いを

落ち着いた心で

しっかりと

自分に投げる。

 

実はこれをするのは、

私の場合、

朝だけに

限ったことではない。

 

一日中、

ずっと自分に

問いかけ続けている

かもしれない。

 

だから

一日の内で

何度も何度も

リセットする。

 

原点に

戻る。

 

これをしていると、

常に私は

揺るがない私に

なれる。

 

揺るがずに

地に足をつけて

 

「では、今からは

どんな時間を

創ろうか?」

 

と決める。

 

そうすると、

自分の望む以上の

「時間」が

現れる。

 

生きることの

幸せと

充実感を

得ることが

できるのだ。

 

つづく

 

言い訳はダメ?

 

ある物事に対して

もし

言い訳の心が

浮き上がるとしたら、

 

自分の心は今、

整っていないのだな。

 

認識するとよい。

 

とは言え、

 

言い訳はダメ

だから、

言い訳は

しない!

 

と、

気合いを込めて

言い訳を止める

のも

ダメだ。

 

自然に

湧き出る心を

ただ

あるがままに

見つめてほしい。

 

その上で、

言い訳が

たくさん浮かぶ

ようなら、

 

まずは

心を整えるところから

始めた方がいい。

 

言い訳とは

合図だと

思えばいい。

 

「自分の軸が

ない」

 

という

合図だ。

 

本当は

すべての人に

「軸」

はある。

 

しかし、

それを忘れているか、

無視をしているか、

もしくは

その軸から

ズレた発想や行動を

しているか。

 

もちろん

軸なんて

考えたこともない

人もいるだろう。

 

たとえ考えたことが

なくても、

すべての人は

しっかりと

自分の軸を

持っている。

 

でなければ、

この世に

生まれることが

できない。

 

軸とは

生まれた時から

備わっているものだ。

 

軸を思い出すには、

「軸を作ろう」

としてはならない。

 

まずは

自分のすべての心、

あらゆる気持ち達を

観察することが

スタートだ。

 

そのためには、

何もせず

静かに自分と

向き合う時間を

創らねばならない。

 

現代人は

自分と向き合う

時間が

少な過ぎる。

 

そういった時間を

創る努力をせずに

「望む人生」も

へったくれもない。

 

何もしない

時間。

 

ただ静かに

目を閉じて、

移ろいゆく

自分の心に

目を向けるだけの

時間。

 

たとえ10分でも

いい。

 

そういった時間を

持つことが、

すべての始まり

だと

私は思う。

 

つづく

 

望む人生にするための二大要素

 

私達はいわゆる

3次元

という世界に

いるのだが、

 

この世界の

最大の特徴は

 

「時間」

「距離」

 

だ。

 

「時間」は

過去から未来へと

一方向に

一定のスピードで

流れ続けており、

 

その流れ自体を我々が

コントロールすることは

できない。

 

という摂理のもとで

成されているのが

この世界だ。

 

もう一つの

「距離」について

言えば、

 

「距離」とは

「分離」の

象徴だ。

 

距離という概念が

あること自体が

分離を表わしている。

 

この世界では

ありとあらゆるものが

分離している。

 

例えば、

私とあなた

は違う存在だ。

 

もちろん、

私と

目の前のパソコン

も違う存在だ。

 

違う存在だからこそ、

距離がある。

 

私とあなたは

常に異なる場所に

いるし、

 

目の前にある

私のパソコンは、

私から30cmくらい

離れている。

 

3次元の世界を

生きていく、

というのは、

 

この

「時間」と「距離」

どう関わっていくか?

 

ということでもある。

 

なぜこんなことを

書いているかと

言うと、

 

「時間のコントロール」

「距離のコントロール」

こそが、

 

自分自身のコントロール

の根幹に来る

からだ。

この3次元世界においては。

 

言葉を変えれば、

 

時間のコントロール

距離のコントロールが

できずして、

 

自己コントロールは

できないし、

自分の望む人生には

ならない。

 

自分の望む現実を

創り上げている人と

それができない人の

本質的な違いが

ここにある。

 

望む現実を

創っている人は

 

時間をとても

大事にしているし、

 

距離(感)も

大事にしている。

 

そして、

「真本音で生きる」

とは、

この「時間と距離」との

関わりを

真本音で決めていく、

ということでも

ある。

ちょっと極端に

言えば。

 

あなたは

時間をコントロール

できているだろうか?

 

距離(感)を

コントロールできている

だろうか?

 

どうすれば

それができるように

なるだろうか?

 

今後は、

そんなテーマでも

時々、このブログを

書いてみたい。

 

つづく