明日は来るのか?

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「明日」という

一日が

当然のようにやってくる

と私達は

思っているが、

 

本当にそうだろうか?

と私は

よく思う。

 

今日までと

同じ明日が来る

という

保証はない。

 

しかし、

まるでその保証が

あるかのように

私達は思い込む。

 

それだけ

平和なのだと

言えばそうであるが、

 

悪い言い方を

すれば

「惰性で生きる」

状態に

私達は入りやすい。

 

しかし本当に

その「惰性」を

私達は

望んでいるのだろうか?

 

もちろん人間は

これまでと同じ日々が

続くことで

安心する。

 

コンフォートゾーン

という言葉もあるが、

一度、安心安定を

感じてしまうと、

そこから抜け出ることは

なかなかに

難しい。

 

ただしそれは

心で言えば、

表面的なものだと

私はいつも

感じる。

 

「惰性」が生み出す

不安定さに

どれだけの人が

気づいているの

だろうか?

 

私達は

「惰性」、つまりは

何も考えずに

慣性の法則のように

進むことで、

本当は

不安を蓄積させる。

 

例えば幸せな

日々が続いたとして、

この幸せは

本当にずっと

続くのだろうか?

どこかで不安に

おののく。

 

そして

いつの間にか

「この日々を

ずっと守りたい」

と思うようになる。

 

それ自体は

大切なものだが、

しかしその気持ちは

多くの場合、

「今の日々」

「今の毎日」

への

執着になってしまう。

 

その「執着」に対して

私達の心は

とてつもなく

不安定になるのだ。

 

「執着」とは

依存。

 

「依存」とは

何かに寄りかからないと

生きていけない状態

だ。

 

それはつまり、

「私は自力では

立てない」

ということ。

 

もちろん人は

皆で助け合いながら

生きるものだが、

 

「自力で立てる」

という基盤の上での

助け合いと、

「寄りかからないと

生きていけない」

という状態での

助け合いは、

 

本質的には

まったくの別物だ。

 

私達の真本音は

そういった

「依存」や「執着」を

まったく

望んでいない。

 

本当には望んで

いないことを

やり続けることで、

私達の中には

「そんな自分で

良いのか!」

という、

罪悪感、つまりは

自分を責める気持ちも

発生する。

 

これがまた、

不安や不安定さを

生み出す。

 

「明日も今日と

同じ一日が来る」

 

というのは

もちろん

思い込みだ。

 

私達は明日、

人生を終えるかも

しれない。

 

あらゆる状況が

一変するかも

しれない。

 

別に脅すつもりは

ないし、

悲観的になれ、

ということでも

ない。

 

ただ言いたいのは、

 

私達はもっと

自分の「毎日」を

愛した方が

よいのではないか。

 

ということだ。

 

自分の「時間」を

 

自分の「人生」を

 

自分の「命」を

 

もっと

愛した方が

よいのではないか。

 

私達は

本当に自分の

愛する人には

常に自分の

意識を注ぐ。

 

それと同じように、

自分の時間、

人生、命、

そして、

今日という一日、

明日という一日、

 

もっと意識を

注いだ方が

よいのではないか。

 

人のサポートを

させていただく

中で、

 

そして

企業サポートの

現場で、

 

いつも私は

そう思う。

 

もっと

自分を生きよう。

 

それは、

時間を愛する

ところから

始まる。

 

つづく

 

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