仲間

仲間がほしいなら

 

自分一人でも

進もう、

 

と覚悟を持つことで

初めて

真の仲間ができ、

 

最初から仲間を

求めることで、

 

いつまで経っても

真の仲間とは

出会えない。

 

・・・そうでも

ないんじゃないか?

 

という疑問を

持ちながら

何度も試し、

 

やはりそうなのだ、

何度も痛感する。

 

それがこれまでの

私の人生だったように

思う。

 

真の仲間

とは、

 

気の合う仲間でも

相性の合う仲間でも

ない。

 

そんなことは

はっきり言って

どうでもいい。

 

自分が

自由奔放で

いられるかどうか?

 

自分が

全力で進む時に、

その状態の時にこそ

調和ができるかどうか?

 

そして

お互いがいることで

自分の限界を

どんどん壊していける、

 

つまりは、

 

お互いに自分自身を

(これまでの自分を)

破壊し続けられるかどうか?

 

こそが

大事だと

今の私はつくづく思う。

 

そういう人は

結果として

一緒にいて

とても安心するし、

居心地が良い。

 

でも決して

気が合うわけでも

相性が良いわけでも

ないのが

笑える。

 

そこを笑い合える

のが

笑える。

 

私が

「自分の真本音を

大事に生きるといいよ」

言い続けているのは、

 

まさしくそれこそが

真の仲間を

引き寄せることに

直結するからだ。

 

そして私達は、

真の仲間と出会えて

初めて発見できる

「道」

がある。

 

一人でも進もう

として初めて

仲間ができ、

 

仲間ができて

初めて

真の道が観える。

 

まったくもって

人生というのはねぇ・・・。

 

つづく

 

まだ仲間になってはならない

 

仲間というのは

いいなぁ、

と思う。

 

本当に

いいなぁ、と

思うが故に、

 

私は

こうも思うのだ。

 

一人ひとりが

まだ

自律できて

いないうちは、

 

仲間になっては

ならない、

 

と。

 

どれだけ

相性の良い人同士

でも、

自律する前に

仲間となってしまえば、

 

必ず、

 

依存が生まれる。

 

お互いが

寄りかからなければ

いられない

グループとなる。

 

「この仲間が

いるからこそ

私はがんばれる」

 

という状態。

 

じゃあ、

仲間がいなければ

どうなるの?

 

ということだ。

 

もちろん、

 

人というのは

依存し合う存在

だ。

 

依存し合わねば

存続できないように

できている。

 

だからこそ

良い依存関係が

大事であり、

 

私はそれを

依存ではなく

 

「調和」

 

と呼んでいる。

 

調和とは、

一人ひとりが

ちゃんと

大地に立っている

状態だ。

 

一人でしっかりと

歩くことができる

人同士が、

 

さらに

相乗効果で力を

発揮し合い、

 

共に進化し合う

 

状態だ。

 

そこからは

常に

新たな何かが

生まれるし、

 

ある意味、

 

すべての人が

「リーダー」

であり

「コーチ」

である。

 

すべての人が

「主役」

であり

「サポート役」

である。

 

その状態に

なるためには、

 

まずは

一人ひとりの

自律が

必須だ。

 

・・・・・・

 

これからの

時代。

 

誰かが

誰かを

支えるような

仲間は

もう要らない。

 

ぐらいに

私は

思っている。

 

ちょっと

極端かも

しれないが。

 

でも、

真本音のレベルでは

もう誰も

そういった仲間を

望んでいない。

 

特に

若い人達からは

それを

ひしひしと

感じる。

 

馴れ合いは

いやなのだ。

 

本当の

仲間。

 

共に

道を創る

仲間。

 

私自身も

そういった仲間を

慎重に

丁寧に

一人ずつ増やして

行こう。

 

私は、

仲間の在り方

こそが

 

ダイレクトに

世の中の在り方

インパクトを与える

のだと

思っている。

 

つづく

 

たった一人しかいなくても

 

あなたは

たった一人。

 

他は

誰もいない。

 

広く

永遠に続く

大地に

一人。

 

孤独。

 

そんな

不安な中でも、

 

それでも

あなたが

進みたい道とは

何ですか?

 

周りに誰も

理解者が

いなくても、

 

それでも

あなたが

切り拓きたい

道とは

何ですか?

 

いや・・・、

 

孤独な道は

私は進みたく

ない。

 

人の協力を

得られない道で

あれば、

私が進むことは

ない。

 

・・・と、

あなたは

思っているかも

しれませんが、

 

いえ、

あなたの中には

間違いなく、

 

たった一人でも

進みたい道が

 

存在して

います。

 

たった一人でも

その道を

行く。

 

そんな覚悟を

 

あなたは

生まれながらにして

持ち合わせて

います。

 

そこにそろそろ

気づけると

よいですね。

 

誰しもが

孤独は

いやですから、

 

というよりも、

私達のあらゆる

恐れの

根元には、

 

孤独への

恐れ

 

がありますから、

そんなことは

考えたくも

ないかも

しれません。

 

しかし

最も根源的な

恐れに

立ち向かって

までも、

 

進みたい道が

 

あなたの

中心には

確かに

存在している

はずです。

 

そろそろ

そこに

目を向ける

ときですね。

 

一人でも

進もう、

 

とする覚悟。

 

それは

あなたの

存在意義そのもの

でもあります。

 

そこを

しっかり

自覚し、

 

その想いと

願いを

しっかりと

抱き、

 

たった一人でも

歩き始めた

その時にこそ、

 

あなたの

本当の仲間、

 

ファミリー達は

 

あなたの

人生に

現れるのです。

 

あなたには

仲間が、

ファミリーが

います。

 

しかし

彼らは、

 

あなたが

たった一人でも

進もうとする

 

その

尊い意志にこそ

共鳴

するのです。

 

つづく

 

真の仲間と、なぜ出会うのか?

イメージしたことは

実現する。

 

・・・とよく言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

イメージしても

実現しないこと、

たくさんありませんか?

 

それはイメージの仕方が

弱いからだ、

とも言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

どれだけ克明に

イメージしても、

実現しないことは

たくさんありませんか?

 

私達の心の中は

『実在』の世界

です。

 

しかし、

「実在」と「イメージ」は

根本的に異なります。

 

「実在」とは

言葉の通り、

実際に存在するもの

です。

 

「イメージ」とは

単なる幻影です。

 

言葉は悪いですが、

妄想です。

 

空想です。

 

実際に存在するものと

幻影の違い。

 

それは根本的な

違いです。

 

私達の心の中には

「自分が人生で進む道」

が、

実在として

そこに存在しています。

 

その「道」を

自ら見つけることができれば、

その「道」は実在ですから、

一気に現象化します。

 

現象化とは、

心の中にある実在が

この現実世界に

投影・反映されることを

言います。

 

つまり、

「実在」が投影されて

「現象」(現実)となります。

 

それが要するに

「実現」ですね。

 

ところが、

「実在」と「イメージ」の

区別がついていないので、

それを恐らく

「イメージすることは実現する」

と表現しているのでしょう。

 

私達にとって大事なのは、

自分の中にすでにある、

 

『実在の道』

 

を見つけることです。

 

それはすでにあるので、

「イメージ」のように

自分の顕在意識で

創り上げるものでは

ありません。

 

それはまるで

宝物探しのようです。

 

心の中の

宝物探しの冒険に

出るのです。

 

それが、

自分自身の人生の道を

探す、ということの

本質です。

 

さて。

 

ここからが肝心です。

 

これからの人生の

イメージの道ではなく、

「実在の道」

を見つけることができたと

します。

 

すると、

何が起こるでしょうか?

 

実は、

「実在の道」とは

自分だけのものではありません。

 

それは、

多くの仲間達と共有し、

共に歩く道

なのです。

 

ですから、

自分の中に存在する

「実在の道」と

まったく同じ道を持っている

Aさんが、

必ずどこかにいます。

 

もちろん、

一人だけではありません。

Aさん、Bさん、Cさん、・・・。

何人もの

仲間達がいます。

 

「実在の道」を

見つけるということは、

そういったAさんら仲間達との

出会いの始まり

でもあるのです。

 

道を見つければ、

出会う。

 

・・・というようになっています。

 

ところが、

これも、実は、ということ

なのですが、

「実在の道」とは

一気に道のすべてが

見通せるわけではありません。

 

次回以降で

詳しく書こうと思いますが、

多くの場合、

「道」と言っても、

「次の一歩」が観えるだけ

です。

 

「次の一歩」が観えて、

その「一歩」を踏み出せば、

さらに「次の一歩」が

観えてくる。

この

連続によって徐々に

道が明確になり、

そして

ある時ある瞬間に、

一気に先が見通せるように

なります。

 

もちろん例外もありますが、

これが最も一般的な

「実在の道」の進み方です。

 

しかも、

道を進むことよりも前に

「出会い」が先にくることも

あります。

 

何年も前に出会ったAさんが、

実は、共に道を歩む仲間だった

ということもあるのです。

 

そのように、

「道」そのものは実在しており、

全体像ももちろんしっかり

あるのですが、

その全体像のほんの

ワンピースを

一つずつ明確にしていく、

しかも、時にはランダムに。

 

・・・というように、

まるでジグソーパズルを

しているかのように

私達は道を進んで行きます。

 

だからこそ面白い、

とも言えますが。

 

初対面で

会った瞬間に通じ合える、

そんな人は

間違いなく「仲間」です。

 

そして、

「実在」を感じ取れるように

なった人は、

目を閉じるだけで

わかるはずです。

 

もう、「仲間達」は

最初から共にいるのだと。

 

これから出会う

たくさんの仲間達も

すでに実在レベルでは、

自分と共にいるのだと。

 

今日も深夜3時過ぎから

この文章を書いていますが、

目を閉じると、

いえ、

目を閉じなくても、

私は「仲間達」の存在を

今ここに感じます。

 

そしてその「仲間達」と一緒に

この文章を書いている。

・・・そんな感覚です。

 

文章だけではない、

私のすべての活動の

一つ一つは、

現実世界ですでに

出会っているかどうか?に

関係なく、

共に道を歩む仲間達と共に

力を合わせ

魂を込めて

行われているのです。

 

それが、

私達人間の

「普通の生き方」

です。

 

つづく

 

あなたは本当は孤独ですか?

私には、

私のことを真に

理解してくれて、

私にとっての真の

仲間であると

思える人が

何人いるだろうか?

 

こんな問いを自分自身に

投げたことはありますか?

 

随分前の私は、

この問いへの答えは

「0人」

でした。

 

『真本音』と出会う前の

時代の私です。

 

もちろんそれまでに

親友と言える友人とも

随分と出会ってきました。

その当時には

すでに妻も子供も

いました。

 

共に必死になって仕事をする

職場の仲間もいました。

 

師匠だっていました。

 

しかし、

私のことを本当の意味で

理解してくれているかどうか?

と問うと、

 

あぁ、そんな人は

一人もいないんだ。

 

という事実に気がついて

愕然としました。

 

そしてこう思いました。

 

それが人間なんだ、と。

 

それが

人生というものだ、と。

 

所詮、我々は

孤独なのだと。

 

自分のことを本当に

理解できるのは

自分だけなのだ、と。

 

みんな、

そうなのだ、と。

 

・・・もちろんそれは、

その当時の私の

単なる思い込みです。

 

なぜなら、

今の私には

真の仲間と言える人、

真に私のことを理解して

くれている人、

が本当にたくさん

いるからです。

 

下手をすると、

出会ったその瞬間、

目と目が合った

その瞬間にもう

そう思える時も

何度もあります。

 

それこそ、

思い込みではないか?

と言われそうですが、

いいえ、

それは真実です。

 

なぜなら今の私は

『実在』

を感じ取ることが

できるからです。

 

今、こうしてこの文章を

書いている私は、

自宅の書斎に一人で

います。

 

今、深夜の3時です。

 

ところが、

目を閉じると、

実に多くの人達の

「気配」

を感じます。

 

これも

思い込みでは

ありません。

 

「実在」です。

 

つまり、

実際にここに存在する

ものです。

 

ちなみにこれは

霊感とは違います。

 

私には

霊感はありません。

 

ただ私は

「実在」を

感じ取ることができるように

なったのです。

 

ですので、

常に私は仲間達と

こうして共にいることが

できます。

 

現象(現実)のレベルでは、

(3次元のレベルでは)

遠く離れていても、

実在のレベルでは

距離も時間の差異も

ありません。

 

だから常に

一緒にいるのです。

 

共に

同じ願いを持ち、

同じ方向を向き、

同じ試行錯誤を

している仲間達。

 

この「実在」を感じ取る

という力は、

もちろん私だけに特有の

ものではありません。

 

誰もが普通に

感じ取れるものです。

 

つまりこれも

「普通の生き方」の

一つです。

 

えぇ?

そんなの普通じゃないよ。

と言われそうですが、

いえいえ、

これこそが私達人間誰もが

もともと持っている

コミュニケーションの力の

一つです。

 

『実在コミュニケーション』

 

・・・とも私は呼んでおり、

これは「真本音コミュニケーション」

の形の一つです。

 

真本音で生きることで

こうした力を開花することが

誰もができます。

 

実在コミュニケーションが

できるようになれば、

「直観力を高めよう」どころの

話ではなくなります。

 

「直観」が

通常の思考と同じか

それ以上に普通の状態に

なります。

 

もう本当に

迷わなくなります。

いえ、

正確には迷うことはありますし、

迷うこと自体に

生きる上での大きな意味が

ありますが、

迷いそのものを

本当に楽しめるようになります。

 

心の調子が良いとか

悪いとか、

関係なくなります。

 

心の調子が悪い時は

人間である以上

私にもあります。

 

特に毎日、多くの方達の

ストレスを受け続けていますので、

その影響もあり

ストレスの塊みたいなものに

心が閉ざされてしまうことも

しょっちゅうです。

 

絶望感。

倦怠感。

孤独感。

怒り。

憎しみ。

時には、狂気。

・・・

 

様々な反応本音達に

心が閉ざされることは

この仕事をしていれば

本当に毎日です。

 

でも

それが一体、

何だと言うのでしょうか。

 

心の状態が

絶望的に悪くなったとしても

ただ、

それだけのことじゃん。

 

・・・というように

心の状態の良い悪いに

捕らわれない

自分になれるのです。

 

どんな心になっても

おおらかな気持ちで

それを楽しみながら

観察できる自分。

 

真本音という大地に

立てていることによって

そうなれるのですが、

私が本当に

そうなれたのは、

実在コミュニケーションが

できるようになってからかも

しれません。

 

ですのでこれも

すべての人に

できるようになってほしいな、と

私は願うのです。

 

「実在」のことを書くのは

ある意味勇気の要ることですし、

恐らく誤解も生じるでしょうが、

でもそれでもこのブログでは

そこに挑戦したいな、と

思っている私が

ここにいます。

 

さて、明日から

どんな文章を

私は書くのでしょうね?

 

つづく