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人には
鍵みたいなもの
があってね、
それを知らずに
扉を閉じたまま
ずっと
生き続けているんだ。
でも、
ある時ある人と
出会った時に、
あー、この人と
出会えたから
もういいかな、
と
自分にOKを
出して、
その鍵を
開けるんだ。
扉が開くと、
その向こうに
ずっと隠れていた
ものが
姿を現す。
それが
「本来の自分」
だったりする。
しかもその
「本来の自分」
は、
これまでの自分の
個性とは
真逆のものを
たくさん持っていたり
する。
能力もそう。
これまで
まったく使ってこなかった
力を
突然使い出したりする。
未経験の個性で
未経験の力を
使う。
本人にとって
みれば、
自分が自分では
なくなってしまった
感じ。
でもその
個性と力のその
向こう彼方に、
確かに
観えてくるんだ。
本当の
ビジョンが。
これを自覚
した時、
その人は初めて
本当に
認めるだろう。
以前の私は
仮の姿だった、
と。
そういった意味で
出会いとは
ある意味
恐ろしい。
と、当時に
とてつもなく
素敵だ。
出会いによって
人生は
とんでもなく
刺激的な変化を
することになる。
人との出会いは
自分との出会い
でもあるんだ。
つづく
これから出会う
人達から
まるでメッセージの
ような
「意思」
のような
何かが届くことが
ある。
明確には
よくわからない。
感覚が
あるだけだ。
しかし私は
その感覚を
とても大事にする。
その感覚を得る
ことで、
今まさにやろうと
思っていたことを
やめてしまった
こともある。
あそこで
やめなかったら
きっとこの出会いは
なかったな、
と
後になれば
わかるのだが、
もちろんその時は
わからない。
わからないが
故に私は
感覚を大事にする。
違和感のあることは
だから
一切やらない。
出会うか
出会わないか。
これが人生に
与える影響は
あまりにも大きい。
出会いを大事に
するということは、
出会う前の自分も
大事にすることだ。
今のこの
一歩一歩。
これを大事にする
ことが
すべての出会いや
縁を
約束通りに
芽生えさせ
育むことになる。
出会いは
原因でもあるが、
結果だ。
出会えた!という
結果を呼ぶのは、
今の自分だ。
つづく
心身ともに
静かなとき、
私は自分自身に
エネルギーが満ちる
のを感じる。
静かな悦び
と共に、
自分の中を
ゆっくりと
強大なエネルギーが
循環している。
それは血液が
ゆっくりと循環する
のと同じだ。
循環が滞りなく
行われることこそ、
私達にとっては
正常で健全な在り方
の礎となる。
良い仲間と
共に、
良い出会いがある。
それが今の私を
実に健全に
してくれているのだろう。
静かに
感謝の想いが
積もってくる。
・・・・・・
一つ、
問いが浮かんだ。
こういう時の問いは
特に重要だ。
「ここから私は
どんな風を吹かそうか?」
どうやら
私自身が発信源となって
何かを始める
ようだ。
何だろうな?
今はまだわからないが、
答えはもう
ここにある、
ということはわかる。
しかもその答えは
私自身をまた
相当に楽しませて
くれそうだ。
一つ、出会いが
あれば、
一つ、風が吹く。
今回はその風を
私自身が
あえて
吹かせてみる。
これは
楽しみだ。
・・・・・・
最近、
なぜかよく
「未来」が私に迫ってくる。
その「未来」は
あまりに明るく
輝いているので、
中身は見えないのだが、
その輝きを
感じるたびに、
無性に
ウキウキしてくる。
このウキウキは
ひょっとすると
私にとって初めての
体験かもしれない。
だから慌てず
静かに行こうと
思う。
私は慣れないウキウキ
がくると、
すぐに地に足が
つかなくなるので、
ちゃんと足元を
踏み締めながら、
着実に進もうと
思う。
つづく
自分が全力疾走
することで
初めて出会える
人がいる。
もし
全力疾走をしなければ
決して
出会えない。
そういう人が
何人もいる。
本当なら出会えるのに
出会えないままに
人生を終えてしまう、
というケースは
実はとても多い。
出会う、
とは
すごいことなのだ。
私達の人生は
人との
コラボだ。
どんな人と出会うか
によって
人生は大きく変わる。
どんな人と
出会い、
どうコラボするか?
これが人生を
決める。
どう生きるか?
とは
誰と、どう生きるか?
ということに
他ならない。
自分の人生には
必ず、
他者を入れなければ
ならないし、
他者との調和性を
高めることが
より良い人生に繋がる。
そしてそのためには、
自分の人生においては
自分自身が
リーダーであらねば
ならない。
自分の人生においては
リーダーとして
全力疾走をしなければ
ならない。
そしてここで言う
全力疾走とは、
常に全力を出し続ける
ということでは
ない。
全力を出すべき
その瞬間に
全力を出せる自分で
いること。
その瞬間に
自分の100%を
実際に出せること。
これができる人は
本当に必要な時に
必要な人と
出会うことができ、
その人との
コラボも
必要な発展の仕方を
する。
そして以上のことは
私達の真本音を
抜きにしては
決して実現できない。
一歩一歩、
真本音で進むことが
良い出会いを
生み出す。
真本音を忘れて
しまえばしまうほど、
本当は出会えるのに
出会えなかったという人が
増えてしまうのだ。
つづく
真本音で
着実に
人生を進めれば、
私達は
出会うべき人と
出会える。
真本音度合いが
高まれば、
その予感・予兆すら
わかるようになる。
そして
最善のタイミングで
出会い、
出会ったその瞬間から
その人との間で
エネルギーの循環が
始まる。
そして
それまでよりも
さらに
自分の意図を超えた
素敵な展開が始まる。
ただし。
焦っては
ならない。
相手のある
ことだ。
独りよがりでは
いけない。
私は
自分自身に
戒めていることが
ある。
それは、
出会いを
喜び過ぎないこと。
私の場合、
あまりに嬉しくて、
ついつい相手を
引っ張ってしまう。
自分のペースに
巻き込んでしまう
ことがある。
それをしてしまうと
結果的に
回り道になる。
相手の
あることだ。
嬉しい出会いで
あればあるほど、
ゆっくり
じっくりと
自分自身を
オープンにしていこう。
とはいえ、
思わずニヤニヤ
してしまうかも。
まぁそのくらいは
いいだろう。
出会いを楽しむ
のは、
人生の醍醐味の
一つだ。
つづく
人との出会いに
期待してはならない。
出会いが人生を
変えることは
もちろんあることだし、
出会いは
人生においては
宝物のようだ。
だからと言って
そこに期待をして、
「出会うために
今日を生きる」
ことをしてはならない。
出会いを目的と
してはならない。
・・・・・・
それよりも、
「今の自分の生き方」
を
大事にしよう。
私は本当は
どう生きたいのか?
今、本当は
何をしたいのか?
それを
「人生の視点」から
真剣に問おう。
自分自身に。
問い続けよう。
たとえ答えが
出なくとも、
問い続けるべきことは
ある。
粛々とそれを
続けることで、
日々は間違いなく
進化していく。
真本音度合いは
高まっていく。
その結果として、
日々の調和も
高まり、
出会うべきタイミングで
出会うべき人と
出会える、
という「結果」を
得る。
・・・・・・
以上をあえて、
私の表現で
さらにシンプルに
言い直そう。
「現象」に
期待してはならない。
自分の中の
「実在」に
目を向けること。
「実在」を
粛々と
行動に移し、
自らの意思で
「現象」を
創り出すことだ。
これがすべての
調和の原点だ。
もうすでに
あなたには
できるはずだ。
つづく
私とあなたが
出会えたということは、
それぞれ
真摯に人生を
進めて来れた
証だろう。
ここまで
よく来たなぁ、と
まずは
お互いを称え合おう。
と同時に
出会いは
スタートだ。
出会ったことで
私達は
新たな「覚悟」を
求められる。
出会わなければ
できないこと
に
私達はこれから
立ち向かって
いく。
その準備が
できたらこその
出会いであるが、
準備ができた
ことと
これからさらに
進むことは
また
別のことだ。
本番は
ここからだ。
これまでは
序章に過ぎない。
これまでお互いに
培ったものを
私達は
超えていかねば
ならない。
これまでの
私達に
執着している
場合ではない。
壊すべきものを
壊すのは
これからであり、
そこは
かなりの勇気が
必要かもしれない。
まぁでも、
そういったことを
すべて
引き受けた我々
だからこそ
こうやって
同じ時間に
同じ空間に
いるのだろうね。
これから私達は
未知の領域に
進むのだろう。
だいぶ
怖いかもよ。
でも、
一歩一歩
楽しんで行こうよ。
つづく
ここのところ、
出会いや
再会が
増えている。
そして決まって
想定外の
展開に
つながっている。
もちろん
想定外に
素敵な展開だ。
こういう時に
感謝
という想いは
溢れてくる。
いったい私は
誰に感謝
しているのだろう?
と
ふと思う。
もちろん
出会ったあの人、
再会できた
あの人に、
だが、
でも、
それだけか?
そういう展開に
なった
必然の流れや、
運命的なものや、
人智を超えた
様々な力や
摂理や、
実在・現象問わず
たくさんの人達の
想いや願いや、
恐らく
いろんなものに
私は
感謝している。
でも、
その中でも特に、
今気づいたのだが、
きっと私は
私自身に
感謝している。
私の真本音に
感謝している。
私の反応本音に
感謝している。
私の
魂に、
心に、
体に、
私の細胞の
一つ一つに、
私のすべてに
きっと
言いようのない
感謝をしている。
のだと
思う。
自分が自分に
感謝するなんて、
昔の私には
考えられない
ことだったなぁ。
なんで
こんなにも
私は変わることが
できたんだろう?
いや、実は
「変わった」という
実感は
あまりない。
振り返れば
変わったなぁ、
とは思うが、
振り返らなければ、
私はずっと
私のまま
生きてきた
気がする。
ただし。
やっぱり
真本音を大事に
するように
なってからだなぁ。
自分自身の
真本音を大事に
生きる
ということは、
結果として、
自分自身のすべてを
大事に生きる
ということに
なるんだなぁ。
ということは
それはイコール、
自分の周りの
あらゆるものを
大事に生きる
ことに
なるんだな。
おかげさまで
そういうことを
自身で
しっかり体験できた。
こんな
幸運はないのだろう。
体験できたから
こそ、
それを
人のサポートに
活かすことが
できるのだと思う。
あぁ、
もともとできの悪い
自分でよかった、
と
苦笑いしながら
思える。
・・・ように
なれたんだな。
これから、
「令和」
という新しい時代に
入る。
ただ名前が
変わるだけじゃん、
と
思うなかれ。
これは
実在の世界の
一つの反映だ。
実在の世界は、
・・・つまりは、
私達の心の中の
世界は、
根底から大きく
変貌している。
これまでも
そうであったが、
その変貌が
一つの境界を
超えた。
人の成長で言えば、
「脱皮した」
というのと
同じことが、
実在の世界全体で
起きた。
そう、
「起きた」
のだ。
すでに
「完了」
している。
その反映が
「平成から令和」
への
移行だ。
だからこれは
とてつもなく
大きな
節目だ。
その節目を
迎えるにあたり、
日々起きている
この
出会いと再会。
やっぱ、
本当に
感謝でしょ。
つづく
あぁそうか。
私はこの出会いを
一つのきっかけに
するのだったな。
これを一つの
合図とし、
私は新たな波を
始めるのだったな。
その波は
顕在意識のレベルの
自分の頭には
まだ漠然と
したものであるが、
しかし、
私の心の奥の
方には、
もうすでに
確固たるものが
出来上がっている。
この感覚。
出来上がって
いることを
思い出す感覚。
何となく
久しぶりだ。
この感覚を
味わい、
いざ、
さぁ始めよう!
と思えた時に、
ちゃんと始められる
自分でいること。
いつでも
始められる準備を
整えておくこと。
自分自身を
整えておくこと。
本来の自分を
開花させて
おくこと。
そのための
約50年だったな。
ちゃんと
歩いてきて
よかった。
もちろん
回り道はたくさん
あったけど、
しかしそれらも
すべて
糧にしながら、
こなす
のではなく
不器用に
ぶつかりながら、
その一つ一つの
痛みを
大切にしながら、
ちゃんと生きてきて
よかった。
ちゃんと
始められる自分に
なれていて
よかった。
さぁ。
ここから何を
始めるか。
自分の中で
決めていることを
ゆっくりじっくりと
顕在化して
行こう。
準備が
できたからこその
出会い。
人生は
本来は
それに溢れるものだ。
多くの人が
そうなるといいな
と思う。
そして私自身も
そういった出会いを
静かに長く
大切にしたいと
思う。
つづく
私は
毎日毎日、
私を
リセットする。
何もない世界に
ポツンと
一人。
佇む私を
そのまま
感じ取る。
人生で培った
あらゆるもの、
人生で得た
あらゆるもの、
人生で育んだ
あらゆるもの、
それらを
いったんすべて
手放す。
能力も
ない。
志も
ない。
生きる目的も
ない。
何もない。
そんな自分に
いったん
本当に
戻る。
人間は
面白い。
それができたと
しても、
「真っ白」
にはならない。
やはり
「これが私だ」
と思える
個性が
残るのだ。
すべてを
リセットすることで
初めて
自覚することも
ある。
私は
私である。
という
事実が
迫ってくる。
・・・・・・
一方で、
すべてをリセット
すると、
自分が
なくなる感覚も
起こる。
いや、
正確に言えば
「なくなる」
のではない。
「すべてと
一つになる」
と言った方が
いいかな。
すべてと
つながり、
一つであり
全体である
私がいる。
そう、
そうなっても
やはり
そこには
「私」
がいるのだ。
つまり
「私」
とは、
あまりにも
存在が大きい。
この存在感を
すべての人が
体験できると
いいな、
と
いつも思う。
そうすれば
自分自身を
ないがしろにする人は
激減するだろう。
自分という
人間の
存在そのものの
大きさと
尊さを
皆、知れるのになぁ、
と
いつも思う。
・・・・・・
そしてそれを
実感するとき、
実に簡単に
思えることが
ある。
それは、
「人は
変われるんだな」
という
真実だ。
いや、これも
もっと正確な
言い方がいいな。
「人は
変わるために
存在している」
が正確だ。
変わらなきゃ
おかしいのだ。
変わらなきゃ
自然の摂理に
反しているのだ。
しかし、
「変わる」
とは
「自分を失う」
ことではない。
「自分を
取り戻す」
ことであり、
「本来の自分」
をさらに
際立たせて行く
ことだ。
それを
「成長」と
言うし
「進化」と
言う。
・・・・・・
今日も、
いい出会いが
あったなぁ。
なんで
こんなに素敵な
人と
出会えるんだろう?
と、
心では思う
のだが、
でも一方で、
当たり前だよな。
という気持ちと、
これが自然だな。
という気持ち。
そして、
こいつも
俺じゃん。
という
傲慢というよりも
ユニークな
気持ちが
現れる。
俺が
俺と
出会う。
それが
本来の
「出会い」
ではないか。
そして、
俺が
俺と
コラボする。
それが
本来の
「人生」
ではないか。
つづく
だってさぁ、
よく考えてごらんよ。
あなたが
生まれてきたことで、
いったい
どれだけの人が
救われたと
思う?
あなたは
自分の存在なんて
ちっぽけなもの
だと
思っているようだけど、
少なくとも
私は
あなたに
救われたのよ。
そりゃ、ね
あなたがいなければ
生きてられなかった、
なんて
そんな大袈裟な話では
ないよ。
でもね、
私はね、
私の心はね、
随分と
救われたのよ。
あなたの
知らないところ
でね。
そうだね。
確かにあなたは
私に何か
立派なことを
してくれた
わけではないよ。
うん、
たくさん
傷つけられた
気もする。
でも
あなたがいなければ
起こらなかった
ことは
たくさんあるの。
あなたがいなければ
始まらなかった
ことも
たくさんある。
ほんのわずかな
ことかも
しれないけど、
私は
救われたよ。
あの時の
あなたのちょっとした
笑い顔に。
あなたのちょっとした
つぶやきに。
あなたの
存在そのものに。
あなたが
いなければ、
私の人生は
違ったものに
なってるよ。
確かに
それが良かったかどうか、
なんてわからない。笑
でも
私の人生には
あなたとの出会いが
入っているの。
こうやって
あなたと
出会ったのだから。
それが
事実なのだから。
私は
私の人生で
あなたと
出会った。
ということは、
それが
私の人生。
あなたとの
出会いのない
私の人生は
ない、
ってことなの。
あなたは
私の人生で
必須なの。
そこに
良いも悪いも
ない。
厳然たる
事実。
人はね。
誰しもね。
必ず
その人の
「風」
を吹かせるの。
その人
ならではの
「風」。
出会うという
ことはね、
その「風」に
当たる
ということなの。
私は
あなたの「風」に
当たったの。
それによって
私の「風」も
影響を受けたの。
「風」同士が
影響し合って
それぞれが
お互いの「風」を
変化させ合って、
そして時には
「風」と「風」が
新たな「風」を
生み出すこともある。
そうやって
私達は
自ら生み出した
「風」のコラボによって
今、ここで
生きている。
あなたにしかない
「風」があって、
その影響は
測り知れないよ。
私達の体は
こんなにも小さいし、
一個しかないし、
できる行動も
わずかだけど、
「風」は
一度吹いたら
永遠に吹き続ける
んだよ。
その影響は
測り知れない
んだよ。
あなたの存在は
測り知れない
んだよ。
あなたは
あなたの「風」を
生み出し切れた?
あなたにしか
吹かせられない
「風」を
躊躇なく
吹かしてる?
あなたの「風」は
私を救い、
そして
多くの人を
救っていく。
その自覚を
しっかり持ってね。
だからもう
こんなところで
立ち止まらないで。
人生は
まだまだ続く。
だって
あなたの「風」を
待っている人が
いるのだから。
あなたとの
出会いを
待っている人が
いるのだから。
つづく
真本音度合いが
高まると、
「出会いの感覚」
にすごく敏感に
なれます。
例えば私の場合、
知り合いの経営者から
ある社長さんを
ご紹介いただいたと
します。
その社長さんと
初めてお会いした
その瞬間に、
「あっ、この人の会社には
私の出会うべき人が
いるな」
と直観します。
すると、
もう一歩その社長さんに
近づきたいな、
とか、
もう一歩その社長さんの
会社のことを知りたいな
とか、
そんな気持ちに
自然になります。
で、その通りに
していると、
気がつくとその会社の
サポートに入らせて
いただく展開となります。
そしてそこで
本当に「出会い」が
起こります。
よく
「赤い糸で繋がっている」
という言い方をしますが、
実在のレベルでは
それは本当に
あります。
その「赤い糸」に
敏感になるには、
自分自身の真本音に
素直に生きることです。
・・・・・・
出会うべき人とは
出会った瞬間に、
「あっ、この人だ!」
とわかるケースが
ほとんどですが、
時々、
わかるまでに
時間のかかることも
あります。
その場合は
自分自身の真本音が
わざとそのように
しています。
恋愛に喩えれば、
会った瞬間に
一目惚れするケースと、
じっくり時間をかけて
関係を育て、
その結果
「この人のことが大好きだ」
と実感できるケースが
あるのと同様です。
どちらが良い悪い
ではなく、
どちらも必然です。
そういったプロセスを
楽しむことが
大切です。
でもいずれにしても
その大切な人とは
出会わなければ
何も始まりません。
・・・・・・
時々、
人との出会いを求めて
生きている人が
いますが、
残念ながら
出会いを目的にしている
うちは、
本当に出会うべき人とは
出会えません。
赤い糸の人とは
出会えないのです。
まずは、
自分自身の人生を
しっかりと
生きること。
自分の真本音の道を
進むこと。
その道の途上に
必然的に
出会いは起こります。
その道を行かずに
出会いばかりを
求めれば、
本来の道から
外れてしまいます。
外れれば
一生出会えなく
なります。
出会いを求めるのは
その時点で
依存です。
自らの人生は
自ら創り上げていく
という自立心と
自律心を持った人に
出会いは起こります。
・・・・・・
私はおかげさまで、
本当にわかり合える
人達が
周りにたくさんいます。
いつの間に、
こんなにも
満たされた人生に
なれたのだろう?と
びっくりします。
以前の私は
ずっと孤独でした。
私のことを
本当に理解してくれる人は
世の中には一人もいない、
と信じていました。
人間なんて
わかり合えないのが
当たり前。
わかり合うなんて
ことを求めること自体が
間違いだと
ずっと信じていました。
それが本当に
どうしたことだろう、と
心の底から
びっくりです。
こういった状態を
創りたい、と
求めたわけでは
ありません。
自分の真本音に
素直に、
一日一日を、
そして
一刻一刻の時間を
過ごすようになった
だけのことです。
以前は
敵ばかりでした。
でも今は、
本当に仲間に
恵まれています。
理解者が常に
一緒にいてくれます。
みんな
そうなるといいな、
と思います。
新たに
企業様のサポートに
入ると、
孤独な人がそこには
たくさんいます。
皆、
自ら孤独の中に
入り込んでいます。
以前の私と
一緒です。
勿体ないなぁ、と
本当に思います。
私がその孤独を
癒してあげよう、
などと
おこがましいことは
思いません。
私にできることは
丁寧に
一歩一歩、
そういった人達と
真本音で関わる
ことだけですね。
つづく
人生を、
一本の糸に
喩えてみましょう。
自分の人生を
赤い糸だと
思ってください。
そして、例えば
Aさんの人生を
青い糸だと
思ってください。
赤い糸と
青い糸が
交差する瞬間が
あります。
要するに、
ご縁のある状態、
出会いの瞬間
ですが、
交差した瞬間から
その人との展開は
以下の二つのいずれかに
分かれます。
一つは、
交差するだけの展開。
もう一つは、
交差した瞬間に
共に
「結び目を創る」
展開です。
前者は、
交差したその時は
共に人生の時間を
共有しますが、
その後に
またそれぞれの
糸(人生)をたどって
行きます。
後者は、
「結び目を創る」
ことで、
その後、それぞれの糸を
たどったとしても、
必ずまた次の
交差の瞬間が来ます。
もしそこでまた
「結び目を創る」
のであれば、
さらに二つの糸は
その後も
交差を続けるでしょう。
「結び目」は
創れば創るほど、
一心同体に近づいて
いきます。
赤い糸と青い糸が
統合され、
融合され、
紫色の糸として
進化していくかも
しれません。
・・・・・・
大切なのは、
結び目を創る
人とは
きちんと創ること。
そして逆に、
結び目を創らない
人とは
決して創らないことです。
ここを間違えると、
二つの糸の
調和が乱れます。
つまり、
人生がお互いに
乱れていきます。
時々拝見するのですが、
どんな人とも
必死に「結び目」を
創り続けようとしている人が
います。
「結び目を創る」
ことが
人を大切にすること
であると、
ご縁を大切にしていること
であると
勘違いしてるのです。
・・・・・・
自らの真本音を
大切に生きていれば、
今出会ったこの人が
結び目を創るべき人かどうか、
すぐにわかります。
結び目の
本質的な創り方は
簡単です。
この人とは
結び目を創るんだと
自分自身にOKを
出せばよいのです。
そしてその
OKの意識で、
相手の目を見つめます。
すると
その瞬間に
はっきりとした絆を
感じます。
それは
一瞬のこと。
こうやって
結び目を創るべき人達と
一つ一つ丁寧に
出会いを楽しんでいく。
これも
人生の醍醐味の
一つですね。
つづく
私達が人生において、
意図的にできないことは
数多くありますが、
その代表的なものの一つは、
「出会い」
ですね。
これだけはどうしても
意図や思惑では
実現できません。
そして、
意図的にできない
もう一つ代表的なものが、
「他者からの一言」
です。
しかし、
私達の人生において
非常に重要な転機の
きっかけとなるのが、
この
「出会い」
と
「他者からの一言」
ではないでしょうか。
あの人のあの一言が
なければ、
今の自分はない。
あの一言がなければ、
自分の人生は
まったく違った展開を
していただろう。
・・・そういったことが
誰にでもあるのでは
ないでしょうか。
もし仮に、
意図的にそれらを
得ることができたとしたら、
逆に
人生を変えるほどの
インパクトは
ないはずです。
私達の人生は、
意図を超えたところで
展開していきます。
その事実を
謙虚に受け止める
必要があるのでは
ないでしょうか。
・・・・・・
とは言え、
その「出会い」も
その「他者からの一言」も
偶然の産物では
ありません。
すべてが必然
です。
すべてが必然ですが、
その必然を
意図的に起こすことが
不可能だと言うことですね。
では私達はいったい
何を
意図すれば
よいのでしょうか?
実は、
その問いに対する
とてもシンプルな
答えを
私は持っています。
「私は」というよりも、
それが自然の摂理だと
思うのですけどね。
その答えは
簡単です。
「真本音に素直に
生きること」
これ以上でも
これ以下でも
ありません。
自らの真本音に
一歩一歩
素直に生きている人には
必然的なことが
本当に必然的に
起こります。
必要な「出会い」が
必要なタイミングで
起こります。
不必要なことは
起こりません。
そして、
必要な「他者からの一言」が
必要な瞬間に
プレゼントされます。
それはまさしく
プレゼントです。
そのプレゼントが
あった直後に、
そのプレゼントが
もしなければ
到底くぐり抜けられないような
出来事に放り込まれた、
あぁあの一言があって
本当によかった!
ということが、
皆さんにもあるはずです。
それが
日常茶飯事のように
普通に日々
起こるようになるのが、
真本音で生きている人の
ありがたい現実です。
ですから、
感謝ばかりが
湧き起こります。
感謝とは
無理に意図的に
するものでは
ありませんね。
本来は。
自然に
泣けてくるくらいの
勢いで
心の底から
湧き上がるのが
感謝の想いです。
誰かに対する
本気の感謝の想いは
自分自身を
本当に幸せに
してくれます。
感謝しなければ!
ではないですね、
本当は。
感謝は
自然に湧くものです。
・・・・・・
真本音で
生きましょう。
迷ったら、
自らの真本音に素直に
行けばよいのです。
それ以外の
「最善」は
ありません。
そしてそれができる
ためには、
自らの真本音と
きちんと向き合い、
語り合えることが
必須です。
それが
セルフコーチング
です。
本当は、
「セルフコーチング」
などという
なんか特別な感じのする
手法など
必要ないんですけどね。
人が人として
普通に健全に
生きることができれば
自らの真本音の意思は
必ずキャッチできる
ものですけどね。
でも、
残念ながら
それがなかなかできない
今の社会です。
多くの人達が、
自分自身の真本音の
意思を知らないままに
もがいています。
普通に生きましょう、
と言っても、
普通じゃない生き方を
してしまいます。
ですからあえて
「セルフコーチング」
などと、言わなければ
なりません。
コーチも
セルフコーチングも
必要ない世の中になれば
いいなぁと
思います。
でもそうなるためにも
コーチや
セルフコーチングが
必要ですね。
・・・・・・
来月か、再来月に
新しい
セルフコーチング系の
公開講座を
始めようと思っています。
ただ、
講座というと、
どうしても受講料も
かかりますし、
時間をとって
わざわざ出かけなければ
なりません。
もちろんそれが
ベストだとは思いますが、
「講座に来なければ
何もわからない」
という状態はどうかな?
と最近、
思い始めました。
そこで、
まずは動画を配信しようと
思っています。
それをご覧いただいても
特にお金はかかりません。
動画をご覧いただき、
自分なりに
セルフコーチングを
していただき、
それでも
「もっとしっかりと学びたい」
と思った人のみが
講座に来れるような、
そんな仕組みにしようと
思っています。
そういったやり方を
しないと、
なかなか「真本音」は
広まらないな、
と思っています。
多くの人が
どんどん
「真本音」の存在を知り、
どんどん
自分自身と向き合い、
自らの
本当に望む人生に
舵をとってほしいな
と、
心より願っています。
つづく
私達の人生において
大きな転換のきっかけと
なるものに
「出会い」
がありますが、
その一方で、
「別れ」
というものがもたらす
影響も大きいですね。
出会いは概して
嬉しいものですが、
別れは概して
寂しいものですし
大きな悲しみを
伴うこともあります。
そのため結果的に、
「本当は今、
別れなければならないのに、
別れられない」
という現実を
創り出してしまっている
人が多いのが、
今の世の中の一つの傾向です。
実は、
どれだけ素敵な出会いを
重ねてきても、
きちんと別れるべき人と
別れないことで、
真本音度合いを著しく
落としてしまい
人生の不調和が始まって
しまった、
という人を私は
とても多く観てきました。
「別れ」とは
とても大事なものです。
そして
いつ、誰と別れるか?
を
私達は自らの真本音で
決めています。
もちろん
AさんとBさんが別れる場合、
Aさんの真本音が決めている
別れのタイミングと、
Bさんの真本音が決めている
別れのタイミングは
完全に一致します。
そしてその通りに
別れることができた場合、
二人の人生は
新たなステージに進み、
次の出会いと展開が
二人ともに起こり、
二人ともが
さらに真本音度合いの高い
人生を送ることができます。
別れるべき時に
しっかりと
別れましょう。
もし相手が
反応本音のレベルで
「別れたくない」
と言ったとしても、
その「情」に流されずに
しっかりとそれを
断ち切りましょう。
・・・このように書くと
寂しいでしょうか。
悲しいでしょうか。
冷たい人間だと
思われるでしょうか。
「別れる」という言葉と
ほぼ同義語として、
「手放す」
という言葉もあります。
手放すのも
本当に大事なことです。
本当に必要なタイミングで
別れを自ら切り出せる人、
そして
手放すことのできる人は
愛の深い人だなぁ、
と私は思います。
では、
「別れる」とか「手放す」
という行為の
本質とは
何だと思いますか?
それは私は
「距離を離す」
ということだと
捉えています。
「距離」
とか
「距離感」。
実は私達の真本音は
これをとても
大事にしています。
同じAさんとBさんでも
二人の距離や距離感が
真本音で望むものと
ずれていたら、
そこには不調和が
起きてしまうのです。
逆に言えば、
「調和」とは
「距離(感)で決まる」
と言っても
言い過ぎではないでしょう。
特に私達が今いる
この「3次元」という世界は
すべてが分離している
世界です。
分離しているが故に
一つ一つの物事
(その中に当然、「人」が
含まれます)
との距離(感)が
あらゆるものの展開に
影響を与えます。
その距離(感)とは、
心の中の距離(感)と
実際の距離(感)の
両方があり、
その両方を
真本音の望むものと一致させる
ことが「調和」のためには
必須です。
ちょっと
わかりづらいですか?
もう少し詳しく
お話しした方が
良さそうですね。
事例を交えて。
ただ、そのためには
ちょっと文章が長くなりますので、
続きは明日に。
まずは今回は皆さんに
二つの問いを
残しておきます。
単純に
直観でお答えいただくと
よいですね。
以下の問いを
自分自身に向けて
投げてみてください。
「私の人生において、
私はあらゆるものと
適正な距離感を持つことが
できているだろうか?」
そして、
「私が今、もっと
距離を離すべきものとは
何だろうか?」
つづく
あなたは、これからの人生で
どんな人と
出会いたいですか?
あなたの出会いたい
理想の人を
描いてみてください。
もちろん、一人だけで
なくても結構です。
こんな人と、こんな人と
こんな人と、さらにこんな人と
こんな仲間と、こんなチームと
こんな家族と、・・・
出会えるといいな。
とにかく
発想されるだけ
描いてみてください。
できれば
何かにそれを書いてください。
書けば書くほど、
さらに発想が広がる
可能性があります。
本当にそのような出会いが
可能なのかどうか?
現実的なのかどうか?
などは
一切、考えないでください。
ワガママで結構です。
独りよがりで結構です。
自己中心で結構です。
とにかく自由な心で
理想の人達を
描いてみてください。
そして。
描き切れたなぁ、と
完了感が出たら
次の発想に進みます。
あなたの描いた
理想の出会い。
理想の人達。
その人達と本当に
出会えたとします。
理想のタイミングで
出会えたとします。
すると、その後、
どのような素晴らしい展開が
待っているでしょうか?
どのような未来が
待っているでしょうか?
あなたはその人達と共に
何をしたいでしょうか?
それをした結果、
どんな現実が手に入る
でしょうか?
これも思いつくだけ
たくさん発想します。
こんなことが
起こるといいなぁ。
こんな未来が
手に入るといいなぁ。
こんなことが実現できたら
もうこれ以上の
幸せはないなぁ。
これも、
ワガママでも独りよがりでも
結構ですから
自由に描きます。
さて。
まだ終わりません。
そういった未来が手に入ることで
さらに、
どのような出会いが
起こると思いますか?
どんな人達と出会い、
どのようなつながりが
広がっていくと思いますか?
今のこの世の中では
そんな出会いは無理だよ、
と思えることであっても
構いません。
現実的でなくでも
構いません。
どんどん発想してください。
そして。
それらの出会いによって
その後にどのような
未来が展開するでしょうか?
自由に、さらに自由に
発想を。
そして。
さらにその後、
どのような出会いが
あるでしょうか?
そして。
さらにその後、
どのような未来が
開くでしょうか?
そして。
さらにどのような
出会いが?
さらに、
どのような未来が?
・・・・・・
というように、
あなたの発想が続くうちは
それを延々と
続けましょう。
もうこれで
満足。
ここまでの未来が
手に入れば
言うことはない。
・・・と思ってからが
スタートです。
その先、
をぜひ発想して
ください。
あなたの理想の幸せ。
あなたから出てくる
最高の発想。
・・・それが
あなたの「枠」です。
自分自身にはめていた
「リミッター」
です。
その「リミッター」を
取り払ってしまってください。
何度も申しますが、
実現可能かどうか?
はまったく考えないでください。
大事なのは、
あなたの心の奥から
どのような発想が
飛び出してくるか?
です。
発想の
掘り起こしです。
どのような夢物語でも
あなたの心の中から
生まれる発想はすべて
あなたのものです。
発想のリミッターを
外していただきたいのです。
それが
目的です。
リミッターが
外れたな。
なんか、すごく自分は
自由な心に
なれているな。
そんな風に思えたら
それでOKです。
そこまで行ったら、
最後の問いです。
その問いの答えは
ぜひ、
頭で考えずに、
ひねり出さずに、
自然に浮かび上がってくるものを
そのまま言葉に
してください。
その問いは
これです。
「私が最高の出会いと
最高の人生を送るために、
今、
最も大事にしたい
私自身の生き方は
何だろう?」
自然に浮かぶ
言葉があるはずです。
それらをすべて
紙に書き出してください。
できるだけ
シンプルな言葉が
よいです。
書き出した言葉のうち、
本当に今、
大事にしたいなぁと思える
「生き方」を
表した言葉を
一つ、選んでください。
それが、
あなたの真本音の願い
の可能性が
高いです。
私達の中には
たくさんの真本音の願いが
ありますが、
その中で最も簡単に
見つけ出しやすいのは
「今ここで、どのような
生き方をしたいか?」
という、
生き方に関する願いです。
これを私は
『人生理念』
と呼んでいます。
これが私の人生理念かな、
と思える一つのワードを
選んでみてください。
選んだら、
それを24時間、
大事にしてみてください。
その理念の通りに
行動しなきゃ、
とは思い過ぎないことが
コツです。
行動に移せるかどうか?
よりも、
いつもその理念を
心の中心に大切に
抱き続けてください。
いつも思い出していて
ください。
それをしながら
いつもの日常を
過ごしてみてください。
それだけで
あなたの空気感が
変わります。
あなた自身は
気づかないかも
しれませんが。
そして、
これまでと同じ日常なのに、
いつもの風景なのに、
少し違って観えるように
なるかもしれません。
自分の行動パターンが
少し変化するかも
しれません。
ただし、
そういった「結果」を
求めないでください。
ただただ、
自分の選んだ理念を
大切に心の中心に
抱いてください。
これが
真本音で生きる
第一歩です。
真本音度合いを高める
第一歩です。
つづく
「願い」について
書かせていただいています。
(→前回記事)
反応本音の願いとは、
達成することで完了する願い
です。
それに対して、
真本音の願いとは
永遠に願い続ける願い
です。
・・・という言い方もできます。
永遠に願い続ける、とは
ゴールがない
ということです。
ゴールがないということは
一見すると
満たされることがない、
という印象を持つかもしれません。
しかし
満たされないものを満たす
願いこそが
反応本音の願いです。
つまり、
満たされるまでは
満たされない
ということですね。
それに対して
真本音の願いにはゴールは
ありませんが、
ゴールがなくても
満たされている
のです。
なぜなら、
真本音の願いとは
その願いを持つこと自体で
満たされるからです。
そしてさらに、
その願いに向かって
一歩ずつ進むだけで
その一歩一歩で
満たされるからです。
満たされるからと言って
じゃあ終わりにしよう
とはなりません。
満たされても
満たされなくても
さらに進みたくなるのが
真本音の願いです。
そして、
最初から満たされているけれども
一歩ずつ進めば進むほど
さらに満たされ感は
増していきます。
100%だと思っていた
満たされ感が
進めば進むほど、さらに
高まります。
120%にも、200%にも
1000%にも
100万%にも。
実際に私のクライアントである
ある社長さんは、
真本音の願いに気づいてからの
ご自分の経営の満足度について
「100万%です」
と笑いながらお答えに
なりました。
100万%です、とは
言いながらも、
それでも、
まだまだ足りない表現かな、
と思ってしまいます。
要するに、
数字で表すことができないレベルの
満たされ感が
あるのです。
私はこれを
「魂の満足」
と表現します。
心の満足と
魂の満足は
まったく次元の異なる
ものです。
魂の満足は
それを得ることで
歩みが止まるものでは
ありません。
それを得ることで
ますます
前に進もうという意欲と
エネルギーが
湧いてきます。
内側から。
私はそれを
「内発的モチベーション」
とも呼んでいます。
それは
私達の魂からもたらされる
動機付けです。
さて。
魂に動機付けされた人は
どうなるかと言いますと、
まずは、
「出会い」が変わってきます。
真本音の願いは、
他の人の真本音の願いと
共鳴します。
いえ、
それは「共鳴」と言うよりも
「共振」
と言った方が正確でしょう。
共振し合った人同士が
必然的に出会い、
出会った瞬間から
それは「共感」を生みます。
出会ったばかりで
まだお互いのことを
ほとんど何も知らないのに、
なぜか
お互いのことが
理解し合える。
何の説明も解説も
必要とせずに、
ただ一緒にいるだけで
もう、
わかり合えている「感覚」
がある。
そのような出会いが
多発します。
自分が
真本音の願いで生きているか
どうか?
をチェックする最も
簡単な方法が、
そういった出会いが今、
増えているかどうか?
をみることです。
最近、出会い自体は多いけど、
本当に共振し合える人は
どうだろうか?
そんな視点で
観てみてください。
何かを説明しなければ
わかり合えない人が多ければ
それはその人が悪い
のではなく、
自分自身に問題があります。
満たされないものを
満たすための動きを
自分はしていないか?
と、自分に問うてみてください。
もちろん私達は人間ですから、
満たされないものを満たす
ための動きはすればよいです。
しかし同時に
それにより、私の魂は
本当に悦んでいるか?
とも問うてみてください。
以前のブログにも
書かせていただきましたが、
真本音と反応本音は
どちらが正しいか?ではなく、
「つながり合う」関係です。
つまり、
真本音という上司が
反応本音という部下を
「活かす」
という関係です。
満たされないものを満たそう
とするその願いの奥に、
魂の願いが宿っているか?
を問うてみてください。
その問いに対して
理屈で答える必要は
ありません。
自分自身に問うた時に、
スッキリと迷いなく
あぁ何となく今の私は
自分の魂の願いを大切に
できているな、
と思えれば、問題はありません。
思えなければ、
もう一度、心を静かにして
内省をしてください。
満たされるとか
満たされないとか、
そういったこととは関係なく、
私が願い続けていることは
何だろうか?
と、静かに自分に問い、
静かに自分と
向かい合ってみてください。
さて、
では真本音の願いを見つける
最も簡単な方法とは
何でしょうか?
その辺りのことを
次回以降に書かせて
いただきます。
つづく
出会いというものは
必然です。
しかし
出会いというものは
相手のあることです。
自分だけの思うままに
行われるものでは
ありません。
たとえ自分自身の
真本音度合いが
高まったとしても、
次元が上がったとしても、
相手の準備ができていなければ、
出会いは起こりません。
自分の準備と
相手の準備が
きちんと完了した上で
初めて実現するもの。
それが
出会いです。
そういった意味で、
出会いとは
悦びです。
真本音レベルでの
深い悦びです。
ところで、以前に
次のようなご質問を
いただきました。
「本当は
出会ってはいけない人との
出会いというのは
あるのでしょうか?」
はい。
実は、
本当は出会ってはいけない人との
出会いは
実際にあります。
例えば、準備という視点で
言えば、
まだお互いの準備ができておらず、
本来であれば
真本音レベルでは
まだ出会いたくないと
思っているにも関わらず、
出会ってしまった
というケースはあります。
本来であれば、
お互いの真本音度合いと
次元がある一定以上に高まり、
そこで出会うことで
お互いが調和し
相乗効果によって
人生展開が加速する、
・・・そういった相手であったとしても、
タイミングを外した出会いをすることで
不調和が起きてしまいます。
すると、
その人のことを
嫌いになります。
苦手意識が出ます。
本来であれば、
その人ほど相性の合う人はいない
というくらいの相手であったとしても
嫌いになり、
足を引っ張り合うのです。
実は、
そういったケースが
とても多いのです。
特に見られるのが、
経営幹部さん同士。
本来であれば、
相乗効果を発揮するはずの
縁のある人同士が
共に会社を運営するのですが、
出会いのタイミングのズレが
すべてをずらします。
幹部さん同士の
仲が悪い、
というケースはどこでもあること
ですが、
そのうちの何割かは、
そういった
「出会うタイミングを間違った」
ことによる不調和です。
なぜタイミングを
間違ってしまうかと言うと、
簡単に言えば、
その人が真本音通りに
生きていなかったからです。
日々、
自らの真本音を無視した
動きを取り続けることで、
人生のありとあらゆる
タイミングが
真本音の望むものと
ずれ始めます。
その中で起こる一つの現象が
タイミングのずれた出会い
なのです。
しかし、
そういった出会いをしてしまい、
不調和が起きたとしても、
その人同士は
もともとご縁のある人同士ですので、
実は
修正は効くのです。
顕在意識レベルでは
誰がどう見ても
仲が悪く、
お互いがいがみ合い
打ち消し合い
エンティティを出し合っている
そんな関係でも、
根本的な改善が
できます。
その方法は
極めてシンプルです。
お互いの
真本音度合いを
高めればよいのです。
真本音度合いを
高めた上で、
お互いが
「本当に向き合う」
という状態を創ります。
それにより、
徐々に関係が改善したり、
時には、
一気に相乗効果を起こす
本来の関係に
戻れたりします。
「この会社の
経営幹部のAさんとBさんの
不仲がなくなり、
お互いが協力し合えるように
もしなれたとしたら、
どれだけこの会社は
盤石になれるだろう。
何とかなりませんか?」
・・・というご相談は
本当に多いです。
その場合、私は、
そのAさんとBさんの
真本音レベルのつながりを
確認します。
真本音レベルで、
距離が近すぎたり、
本来は出会うべきじゃなかった
人同士が
無理に幹部をされているのか?
それとも、
ただ単に、
出会いのタイミングのズレが
引き起こしている不調和なのか?
後者の場合は、
かなりの確率で
関係改善ができます。
それによりその会社は
本当に盤石になり、
次のステージに進むことが
できます。
しかし本当は、
出会うべきタイミングで
出会うのが一番。
そのためにも、
私達一人ひとりが普段から
一日一日を大切にしながら
丁寧に
自らの真本音に素直に
生き続けることですね。
つづく
イメージしたことは
実現する。
・・・とよく言われますが、
本当にそうでしょうか?
イメージしても
実現しないこと、
たくさんありませんか?
それはイメージの仕方が
弱いからだ、
とも言われますが、
本当にそうでしょうか?
どれだけ克明に
イメージしても、
実現しないことは
たくさんありませんか?
私達の心の中は
『実在』の世界
です。
しかし、
「実在」と「イメージ」は
根本的に異なります。
「実在」とは
言葉の通り、
実際に存在するもの
です。
「イメージ」とは
単なる幻影です。
言葉は悪いですが、
妄想です。
空想です。
実際に存在するものと
幻影の違い。
それは根本的な
違いです。
私達の心の中には
「自分が人生で進む道」
が、
実在として
そこに存在しています。
その「道」を
自ら見つけることができれば、
その「道」は実在ですから、
一気に現象化します。
現象化とは、
心の中にある実在が
この現実世界に
投影・反映されることを
言います。
つまり、
「実在」が投影されて
「現象」(現実)となります。
それが要するに
「実現」ですね。
ところが、
「実在」と「イメージ」の
区別がついていないので、
それを恐らく
「イメージすることは実現する」
と表現しているのでしょう。
私達にとって大事なのは、
自分の中にすでにある、
『実在の道』
を見つけることです。
それはすでにあるので、
「イメージ」のように
自分の顕在意識で
創り上げるものでは
ありません。
それはまるで
宝物探しのようです。
心の中の
宝物探しの冒険に
出るのです。
それが、
自分自身の人生の道を
探す、ということの
本質です。
さて。
ここからが肝心です。
これからの人生の
イメージの道ではなく、
「実在の道」
を見つけることができたと
します。
すると、
何が起こるでしょうか?
実は、
「実在の道」とは
自分だけのものではありません。
それは、
多くの仲間達と共有し、
共に歩く道
なのです。
ですから、
自分の中に存在する
「実在の道」と
まったく同じ道を持っている
Aさんが、
必ずどこかにいます。
もちろん、
一人だけではありません。
Aさん、Bさん、Cさん、・・・。
何人もの
仲間達がいます。
「実在の道」を
見つけるということは、
そういったAさんら仲間達との
出会いの始まり
でもあるのです。
道を見つければ、
出会う。
・・・というようになっています。
ところが、
これも、実は、ということ
なのですが、
「実在の道」とは
一気に道のすべてが
見通せるわけではありません。
次回以降で
詳しく書こうと思いますが、
多くの場合、
「道」と言っても、
「次の一歩」が観えるだけ
です。
「次の一歩」が観えて、
その「一歩」を踏み出せば、
さらに「次の一歩」が
観えてくる。
この
連続によって徐々に
道が明確になり、
そして
ある時ある瞬間に、
一気に先が見通せるように
なります。
もちろん例外もありますが、
これが最も一般的な
「実在の道」の進み方です。
しかも、
道を進むことよりも前に
「出会い」が先にくることも
あります。
何年も前に出会ったAさんが、
実は、共に道を歩む仲間だった
ということもあるのです。
そのように、
「道」そのものは実在しており、
全体像ももちろんしっかり
あるのですが、
その全体像のほんの
ワンピースを
一つずつ明確にしていく、
しかも、時にはランダムに。
・・・というように、
まるでジグソーパズルを
しているかのように
私達は道を進んで行きます。
だからこそ面白い、
とも言えますが。
初対面で
会った瞬間に通じ合える、
そんな人は
間違いなく「仲間」です。
そして、
「実在」を感じ取れるように
なった人は、
目を閉じるだけで
わかるはずです。
もう、「仲間達」は
最初から共にいるのだと。
これから出会う
たくさんの仲間達も
すでに実在レベルでは、
自分と共にいるのだと。
今日も深夜3時過ぎから
この文章を書いていますが、
目を閉じると、
いえ、
目を閉じなくても、
私は「仲間達」の存在を
今ここに感じます。
そしてその「仲間達」と一緒に
この文章を書いている。
・・・そんな感覚です。
文章だけではない、
私のすべての活動の
一つ一つは、
現実世界ですでに
出会っているかどうか?に
関係なく、
共に道を歩む仲間達と共に
力を合わせ
魂を込めて
行われているのです。
それが、
私達人間の
「普通の生き方」
です。
つづく
真剣に生きる人であればあるほど、
出会いというものを
大切にしています。
ご縁というものを
大切にしています。
奇跡の出会い、
という言葉も時々聴きます。
私も本当にこれまで
素敵な出会いがありました。
多くの人に救われましたし、
多くの人に力をいただきましたし、
多くの人に支えられました。
あの出会いがなければ、
今の展開はないだろうな、と
言える出会いばかりです。
出会いとは
人生の宝物ですね。
しかしその出会いとは
偶然でしょうか?
いえ、
そうではないですね。
真剣に生きる人ほど、
出会いはすべて必然であることを
どこかでよくわかっています。
自分にとって
本当に必要な人と出会うかどうか?
は、高い次元の私達の意識が
決めています。
次元が高まれば高まるほど、
「すべては一つ」
となります。
次元が低くなるほど、
すべては分離します。
つまり、「私とあなたは別の存在」
と認識します。
私達のいるこの現実世界は
「3次元世界」です。
人の存在という視点で言えば
最も低い次元です。
ここでは、すべてが
分離しています。
ですから、出会いとか
自分に降りかかる物事の多くは
「偶然である」と認識します。
分離しているのですから、
たくさんの分離した存在の内の
ほんの一部と出会うのであれば、
確かにそれは偶然と言えるでしょう。
しかし高い次元から見れば、
すべては一つであり
つながっています。
誰と誰がどう出会うかは、
必然的に決めることができます。
実際に、
私達の真本音は、
自分自身の準備が整うことで
「では、そろそろあの人と出会おうか」
と決めます。
決めることで、
出会います。
出会うことで、
物事が大きく進展します。
しかし逆に、
まだ自分の準備が整っていないな、
と思っている内は、
決してその出会いを実現させません。
出会いとは、
自分だけでなく、相手もいることですから、
自分と相手と、
両方の準備が整うことが
条件となります。
一方の準備が整っても
もう一方が整っていなければ、
その出会いは実現しません。
そういったコントロールを
高い次元の私達は
し続けています。
高い次元においては、
「私」も「あなた」も
ありません。
「すべてが私」です。
こういった話を書くと、どうしても
スピリチュアル的な表現に
なってしまうのですが、
事実はやはりそうなのです。
例えば、今日私は、
嬉しいことに5人の方と出会いました。
すべて、ある一人の人からのご紹介だったのですが、
私は昨日からもう、
自分が喜びで溢れていることを
感じていました。
なぜならこの5人は、
私にとっても、その5人の皆さんにとっても
人生に多大なる影響を与え合う関係である
ということが明確にわかっていたからです。
あぁやっと準備が整ったな、
だから出会うことができるんだな、
ということがわかったからです。
ですから今日の私のテーマは、
喜び過ぎないこと
でした。
あまりに喜び過ぎると、
エネルギーが溢れ過ぎてしまいます。
エネルギーが溢れ過ぎると、
私達の心がそのエネルギーに
呑まれてしまうのです。
そうならないように、
今日は一日、ずっと私は私を抑えていました。
しかしそれでも実際にお会いすると
嬉しくてしょうがありませんでした。
お会いした瞬間から
私達は一つであるという
実感ばかりが湧き上がってきて、
いかんいかん、
この世界では私達は分離しているんだから、
と何度も自分に言い聞かせました。
出会いはすべて
必然です。
それはすべて
高い次元の自分が
コントロールしています。
そして高い次元の自分とは、
すべてが一つ
である自分です。
これを、
理屈でなく
当たり前の「感覚」として
実感できるようになると、
世の中はもっと
健康的に進めると思うのです。
出会いを大切にするのは
当然です。
だって、
目の前のその人は
自分自身なのですから。
これも理屈ではありません。
そう考えなさい、
ということでもありません。
あぁそうなんだ、と
当たり前の感覚として
実感することなのです。
つづく