原理原則

もっと学び、もっと超えよう

 

人はいろんなことを

法則化したがる。

 

こうすれば、

上手くいきますよ、

という

法則を見出したがる。

 

もちろんそれは

良いことだし、

原理原則を見出そう

という探究心も

人として、

人の本能として、

とても重要なものだと

私は思う。

 

私自身も

現場で様々な原理原則を

見つけさせていただいたし、

それを法則として

まとめもした。

 

しかし。

 

その、

自ら導き出した法則に

自らが

縛られてしまっては

意味がない。

 

とも思う。

 

あえて言うけど、

 

真実は

法則を超えた

ところにある。

 

私はずっと

思っている。

 

法則とは

真実に近づくための

ステップに

過ぎない。

 

もっと言えば、

法則にこだわるあまりに、

真実を見失う

ということが、

あまりにも

多過ぎはしないか。

 

今、

この世の中を

構成している私達は、

 

縛られ過ぎだ。

 

自分自身の

考え方に。

 

自分自身の

法則に。

 

もしくは、

他者の言う法則

に。

 

もっと

自由であっても

良いのではないか、

我々人間は。

 

変な言い方だが、

 

法則を超える

存在が

人間である。

 

とも

私は思うのだ。

 

それが

人間の本来。

 

その本来を

取り戻すために

私は日々、

自分も含めて

様々な人達を

サポートさせて

いただいていると

言ってもよいかな、と。

 

ただし、

法則を学ぶことは

大事。

 

先日、

あるクライアントさんが

とても素晴らしいことを

言われた。

 

「私は先人が得た

知恵を学ぶ。

どんどん学ぶ。

その上で、

私はさらにその先に

行く。」

 

自由に行けば

いいから

何も学ばない。

というのは、

極めて不自由だ。

 

本当に自由な

人であればあるほど、

真実を求めるために

どんどん学ぶ。

 

しかし

その学びに

囚われることは

ない。

 

法則は

学ぶが、

そこには

囚われない。

 

これが

これからの時代、

さらに

私達に必要なこと

ではないか。

 

つづく

 

やはりこれが原理原則だ

 

もう

何度も何度も

言い続け、

そして

書き続けてきた

ことであるが、

 

苦しいことを

苦しい、

感じることは

健康的である。

 

辛いことが

あれば、

辛い

と感じ、

 

悲しいことが

あれば、

悲しい

と感じ、

 

怖いことが

あれば、

怖い

と感じる。

 

イライラする

ことがあれば、

そのまま

イライラ

すればいい。

 

それらは

すべて

健康的だ。

 

感じていることを

そのまま

感じることこそが

健康的だ。

 

ただし、

「感じている」

こととは

つまり、

「反応している」

ということ。

 

その

「反応」

に対して、

「反応」

で返しては

ならない。

 

そこには

明確な自分自身の

「意思」

が必要だ。

 

そして

その「意思」

とは、

「真本音の意思」

であることが

重要だ。

 

何を感じても

いい。

 

何を思っても

いい。

 

ただし、

次の自分の

言動の

すべては、

 

選択の

すべては、

 

真本音の意思

によって

為されるもの。

 

という

生き方ができれば

人生が本当に

楽になる。

 

反応によって

生まれる意思も

あるが、

それは本来の

意思ではない。

 

それは

意思のふりをした

幻影であり、

いつかは必ず

消えていくもの。

 

いつかは必ず

消えていくものに

基づいて

次の一歩を決めて

しまうからこそ、

 

私達は

後悔をするし、

次の苦しみを

生み出して

しまう。

 

本当の

意思。

 

本来の

意思。

 

それに基づいて

次の一歩を

決める。

 

人生も

仕事も

すべて

そうする。

 

その生き方が

できると

いい。

 

それができれば

すべては

調和する。

 

組織も

社会も

調和していく。

 

そしてその

調和こそが

進化を生む。

 

やはり

これがすべての

原理原則だ。

 

つづく

 

これまでの最善が、これからも最善とは限らない

人やチームが脱皮する時に

大切にすべき原理原則の3つ目は、

 

『物事を深く考えない。

表面上のことだけに目を向ける』

 

・・・ということでした。

(→前回記事)

 

私は弓江さんに問いました。

 

「その原理原則を大切にすると、

これから新規事業プロジェクトが脱皮を

きちんと完了するために、

何が必要だと思いますか?

表面上のことで良いですよ。」

 

う〜ん、と弓江さんは考え込みました。

すると、木村さんが口を挟みました。

 

「そういうことで言えば、

さっき弓江が言っていた、

ペアが良くない、

ペアを変えるべき、

ということのような気がします。」

 

「あぁ、なるほど!」

 

もともと、新規事業プロジェクトチームが

脱皮をしようとしていることに

気づけたきっかけは、

「ペアを変えるべきではないか」

という検討課題が出されたからでした。

(→【一つになることで、すべてがどんどん晴れ渡っていく】)

 

新規事業プロジェクトチームは

基本的には二人一組で活動をするそうです。

そのペアの組み合わせが良くないと

弓江さんが直観的に指摘しました。

 

しかし、二人ともこれまでは

今のペアの組み合わせが最善であると

思っていたのです。

しかしこの二人コーチングの場で考えると、

今のペアに違和感ばかりが出る、

ということでした。

 

私はその二人の話を聴いて、

なるほど、今のこのプロジェクトチームは

脱皮をしようとしているのだ、

これまで最善だと思っていたことが、

最善ではなくなるんだ、

だから、脱皮のために必要な変化を

ここで起こさなければならないんだ、

ということに気づいたのでした。

 

そうするとやはり、

「ペアの組み合わせを変える」

というのは、

脱皮のためにも必要なことのように

思えます。

 

「では、一度、

ペアの組み方を発想してみましょうか。」

 

「はい、まずは。

それをしないと次の発想が出ない気が

します。」

 

「これまでのペアというのは、

・お互いの能力が補完できること

・相性がいいこと

を基準にして組んでいたのでしたね?」

 

「はい。」

 

「では、これからの基準はどうします?」

 

しばらく木村さんは

無言でいました。

そして私に何とも言えない不思議な

目を向けてきました。

 

「たけうちさん、・・・

ちょっとわけがわからないのですが・・・。」

 

「どうしました?」

 

「ペアをどう変えようか?と考えようとすると、

富士山が噴火しているイメージばかりが

頭の中に出てくるんです。」

 

それを聴いて、

弓江さんの目が、

キラッと楽しそうに輝きました。

 

その二人の様子を見て、

あぁこれは「実在」だな、と私は思いました。

 

「木村さん、いい傾向ですね。

それは単なるイメージではなく、

木村さんの真本音発想がカタチになった

ものですよ、きっと。

私の言うところの、実在、というやつです。

だいぶ、発想が柔らかくなりましたね。」

 

木村さんは少し

照れ臭そうに笑いながら言いました。

 

「でも、イメージは鮮明ですが、

意味がよくわからないのです。」

 

「じゃあ面白いので、

意味がわからないままで

ペアを組み直してみましょうか。」

 

「そんなことができるんですか?」

 

つづく

 

刹那的に生きることがベストの時もある

人や組織が「脱皮」をする時、

平常時とは真逆の原理原則が

働くことがあります。

 

その一つが、

『不安定をどんどん自分に与え、

しかも無茶をするとよい』

ということでした。

(→前回記事)

 

さらに、原理原則をご紹介しましょう。

 

それは、

 

『未来のことは考えない。

刹那的になるとよい。』

 

ということです。

 

脱皮時に、未来のことを発想をしても、

真本音の発想は、

一つも出てきません。

 

一つも、です。

 

たとえその時に「これは良いアイデアだ」と

思ったとしても、

脱皮を終えた後で振り返れば、

ほぼ間違いなく、

「どうでもいいこと」に思えてきます。

 

脱皮の時というのは、

私達は、脱皮そのものに対して

必死になります。

それ以外のことには、

エネルギーをかけないようになります。

ある意味の、省エネです。

 

特に、未来の発想に関してのエネルギーは

ほぼ、ゼロになります。

 

そんな状態での発想は、

それこそ悪い意味での刹那的な発想に

過ぎなくなります。

 

むしろ私は、

脱皮時における未来発想は、

すべて「捨てるべき発想です」と

断言してしまうことも多いです。

 

ですので、そういったことはやめて、

「今この場をこなすこと」

のみを考えればよいのです。

 

前回、私は

「脱皮時こそ、自由発想しよう」

ということを書かせていただきましたが、

その自由発想とはあくまでも、

「今、どうするか?」

ということに関する自由発想である

ということになります。

 

要するに、

「今」

に集中するのですね。

「今のみ」

に集中するのです。

 

これが、脱皮時における原理原則の

二つ目です。

 

さて、

原理原則の3つ目をご紹介します。

 

これについては、

木村さんと弓江さんの二人コーチングの場面に

戻りましょう。

 

私はお二人に脱皮についての解説を

しました。

その上で、次のように問いました。

 

「この二人コーチングの真の目的は、

これから脱皮を迎えようとしている

新規事業プロジェクトチームに対して、

何ができるか?

何をしてはならないか?

を発想することだとわかりました。

そんな視点で、

お二人から何かアイデアはありますか?」

 

二人はじーっと考えていましたが、

弓江さんが口を開きました。

 

「せっかくですので、

私は脱皮をするならとことん脱皮をした方が

よいと思うのです。

ですので、新規事業プロジェクトの理念とか

方向性とか、改めてゼロベースで考え直すというのも

面白いと思います。」

 

これは非常に素晴らしい意見ですが、

実は、

「ゼロベースで考え直す」

というのは、平常時にこそすべきことだと

私は思っています。

 

私は、本当のリーダーとは、

常に、あらゆることをゼロベースで発想し直す人である

と思っています。

ゼロベースからの発想は

非常に意義深いものが多いです。

しかしそれは

平常時にこそ、毎日続けることです。

 

では、脱皮時はどうでしょう?

 

脱皮時の原理原則の3つ目は、

 

『物事を深く考えない。

表面上のことだけに目を向ける』

 

ということなのです。

 

つづく

 

地に足をつけようとしてはならない時がある

人も組織も

『脱皮』

をする時があります。

 

そして脱皮の段階においては

平常時とは真逆の選択をしなければ

ならないことがあります。

 

平常時の原理原則が

まったく役に立たなくなるのです。

 

例えば、

「自分にどんどん不安定を与える」

ことが大事になります。

(→前回記事)

 

さらに、次のことも

大事です。

それは、

 

「無茶をする」

 

ということです。

 

平常時においては、地に足のついた選択と行動が

大切です。

 

しかし、脱皮をしている間は、

地に足をつけようとしても、

その、「地」そのものがありません。

それはまるで、

空中に浮かんでいるかのようです。

 

足元がないので、

いつでも「落ちる恐怖」に苛まれます。

そこで多くの人は、

バタバタと足を空回りさせ、

悪あがきをします。

 

しかし「地」そのものがないので

どうしようもありません。

 

ですので、脱皮の時は、

地に足をつけること自体を

あきらめます。

 

空中に漂うままにします。

落ちる恐怖や、実際に落ちる感覚もありますが、

そこは、あきらめてしまうのです。

 

そして、

どうせ地面がないのですから、

無茶をしてしまうのです。

 

こんな時こそ、

自由発想です。

 

ただし。

 

わざと「無茶をしよう」と考えることも

厳禁です。

「無茶をしよう」という意図そのものが、

すでに自分に「無茶」という枠を

はめるからです。

 

ただただ純粋な、

自由発想をします。

 

どうせ、何をしても怖いのだから、

怖さは変わらないのだから、

思い切って心を自由にするのです。

 

すると、

本当にとんでもない発想が

出ることがあります。

 

とんでもない発想が出た場合には

そこに、

立ち向かっていくのです。

 

それを実行に移そうとするのです。

 

大丈夫です。

 

脱皮とは、

私達の真本音の意図に

基づいています。

 

行動に移そうとして、

もしそれが本当に行動できたとすれば、

それは、真本音の行動です。

 

行動に移そうとして、

もしそこで体が止まってしまうのであれば、

それは、私達自身の真本音が

止めている、ということになります。

 

ですので、本当に危険なことは

行動に移すことができません。

 

何をどうしても不安定なまま。

・・・という状況の中だからこそ、

私達は、

「開き直る」

ということができます。

 

開き直った人は

強いです。

 

開き直ることで、

これまで体験したことがないくらいに

真本音度合いを高めることが

できるのです。

 

脱皮とは、

そういった自己革新のチャンスである

とも言えます。

 

『不安定をどんどん自分に与え、

しかも無茶をする』

 

それが、脱皮時における

原理原則の一つです。

 

脱皮時に

きちんとそれができる人は、

脱皮そのものの頻度も

上がっていきます。

 

すると、人生が加速します。

 

私たちは、

脱皮そのものに楽しさを

見出すこともできるようになるのです。

 

それが、

人間の凄さであると

私は思います。

 

つづく