厳しさ

怖くても進もう

 

ほんの小さな

ドブがあった。

 

幅は30cmもない。

 

小さな子どもでも

一跨ぎで

越えられる

ものだ。

 

私は4歳だった。

 

そのドブの前で

立ち往生していた。

 

ドブの向こうには

当時まだ若かった

親父がいた。

 

親父は

ドブを跨いで

越えられない私を

苛立った。

 

「大丈夫だよ。

こんなの簡単に

越えられるよ」

 

と言いながら、

何度もその見本を

見せてくれた。

 

そうだ。

こんなの簡単に

越えられる。

 

・・・と、

頭ではよくわかって

いたのだが、

それでも私は

その簡単な一歩を

踏み出せなかった。

 

怖かったのだ。

 

頭では

大丈夫と

わかっていても、

どうしても

怖かったのだ。

 

そのうちに

親父は本当に

苛立って、

ついには大声を

上げた。

 

「こんなものも

越えられないのか!」

と。

 

私はそんな親父が

怖くて、

ついに一歩を

踏み出した。

 

すると

何のことはない。

 

本当に

簡単に越えられた。

 

それだけの

ことなのだが、

何故がとても鮮烈な

思い出として、

この年までずっと

私の脳裏に

こびりついている光景だ。

 

・・・・・・

 

大丈夫だよ。

あなたには

きっとできるよ。

 

・・・と、

いつも微笑んで

くれる人。

 

そんなことも

できんのか。

さっさとやれ!

 

・・・と、

厳しく叱る人。

 

どちらも人生では

必要だ。

 

私自身も

どちらの役割も

これまでは

行なって来た。

 

自分自身に

対してはどうだろう?

 

私は結構、

自分に対しては

ずっと後者で

いたのかな。

 

結構、

自分に厳しく

して来たように思う。

 

いや、

自分への厳しさ

以上に、

他人に厳しくしたことは、

きっと

一度もない。

 

自分への厳しさ

と同じくらいに

もし他人に厳しく

したら、

きっと耐えられる人は

一人もいないだろう、

思って来た。

・・・ということに

今日、気がついた。

 

私はもともと

とても怖がりなので、

私に厳しくしてくれた

人達には

とても感謝している。

 

その人達のおかげで

初めて

一歩を踏み出せたことは

数知れず。

 

あれがなかったら

ひょっとすると

今の私はもう

生きていないかも

知れない。

 

厳しさ。

 

本当の

厳しさ。

 

今の世の中にも

ひょっとすると

これが必要なのかな?

 

人間は、

怖さを越えて

もっともっと先に

進まないといけないと、

最近、特に強く

思うんだ。

 

つづく

 

愚かで悲しいけど

 

もがいている人は

多い。

 

もがくのが

人だろう。

 

人の愚かさを

蔑んだり、

あざ笑う人が

いるが、

 

私にはどうしても

それができない。

 

もちろん

人は

愚かだ。

 

例えば、

もがく必要のない

ところで

もがいたりする。

 

例えば、

もがいている

フリをする。

しかも

その事実に自分自身が

気づかない。

 

例えば、

自分は被害者だ、

と言いながら

もがきながらも

他者を傷つける。

しかも

それに自身では

気づいていない。

という

人もいる。

 

本当に

愚かだと思う。

 

でもやはり

それが人だとも

思う。

 

この仕事に

真剣に向かえば

向かうほど、

人の愚かさを

許している自分がいる。

 

しかしだからこそ

私は

人に厳しくできる

のだと思う。

 

・・・・・・

 

昔、

学生時代の友人が

 

「やさしさとは

厳しさだ」

 

と言った。

 

おー、いいこと

言うねー!

 

と私は共感したが、

もちろんその時の私は

単に言葉の格好良さに

共感していただけだ。

 

今の私は

どうだろう?

 

ちょっとは

その言葉の真の意味は

わかったのかな?

 

時折、私は

自分でも驚くほどに、

人に対して

厳しくなる。

 

よくあれだけ

厳しくできたもんだ、

呆れることもある。

 

でも、

それこそが

その人への最大の

やさしさだ、と

 

やはり信じているから

できるのだと思う。

 

・・・・・・

 

やさしいフリは

もう

やめた。

 

やさしいフリは

人を結果的には

傷つけることを

何度も経験した。

 

いつから

フリ

をやめたのだろうな。

 

もう覚えていないが、

その代わりに

自分の中に

湧き上がる怒りや

憤りを

大切にするように

なった。

 

怒りや憤りを

しっかりと見つめていると、

その根底には

「愛」を感じた。

 

あーそうか、

この怒りをその人に

ぶつけることは

「愛」をぶつける

ことなんだ、

確信するようになった。

 

そんな時は

必ず、

怒りをぶつけるように

した。

 

そこに私は

躊躇をしない自分で

あろうと

ある時から決めた。

 

面白いことに、

そうしてから

私の人生の調和が

始まった。

 

・・・・・・

 

私は人格者では

ない。

 

ただの一人の

人間だ。

 

だから

私自身、愚かな部分を

無限に

持っている。

 

私はいつも

その自分の愚かさを

見つめている。

 

もしこれが

できなくなったら

今の仕事は

即、辞めるだろうな。

 

恐らく今、

私は

「人間」というものが

とても好きだ。

 

愚かな部分に

関しては

本当に嫌なのだが、

それでもきっと

人間が好きだ。

 

今日も

とても悲しいことと、

とても嬉しいことが、

両方あった。

 

悲しい時は

本当に悲しくなり、

嬉しい時は

本当に嬉しくなる。

 

あー俺は

人間なんだ、と

今日も

思った。

 

だから明日も

人間のできる最大を

やろうと、

心に決めている。

 

つづく

 

ちょっと厳しくしようかな

 

すべてのものには

エネルギーが

ある。

 

エネルギーを

発する

ということが

「存在する」

ということだ。

 

そして

すべてのエネルギー

には

それぞれの

波長があり、

強さがある。

 

もちろん

私達人間も

同様だ。

 

私の人や組織への

サポートの本質を

一言で表現すれば、

 

「エネルギーを高める」

 

ということに

なるのかもしれない。

 

ただし。

 

エネルギーが高まる

というのは

やる気が出る、

とか

気合いが入る、

とか

「うおっしゃーーーっ!」

と叫ぶように

なるとか。(笑)

 

そういう短絡的な

ことではない。

 

一般的には、

本当の意味で

エネルギーが高まれば、

 

その人は

安定し、

逆に

静かに落ち着く。

 

表面上の行動は

むしろ

穏やかになる。

 

しかし

とても

明るい。

 

明るいと言っても

明るさを

前面に出している

わけではない。

 

静かなのに、

明るいのだ。

 

「険しさ」が

なくなる、

 

という表現でも

良いかもしれない。

 

私は

どのような企業様でも

まずは

その時その時の

本質的な明るさ

を観る。

 

もしくは

感じる。

 

そして

エネルギーを高める

ための

方策を一つずつ

打っていく。

 

私がいつも

言葉にしている

「真本音度合いを

高める」

というのは、

 

エネルギーを高める

ための

最も基本的な

方策だ。

 

そして実際に

エネルギーが

高まり続けると、

 

どのような

人でも組織でも

ある「臨界点」

を超える。

 

一つの

枠が外れる

のだ。

 

すると、

まるでフタが取れた

かのように、

ワッとエネルギーが

溢れ出す。

 

眠っていた

(まだ隠されていた)

エネルギーが

まるで噴火のように

溢れるのだ。

 

そこからその

人や組織は

新たなステージに

入るのだが、

 

そのエネルギー量は、

私がいつも

拝見しているイメージで

言えば、

 

一気に10倍以上に

なる。

 

このエネルギーの

解放(開放)は、

感性の豊かな人で

あれば、

すぐに感じ取れる

はずだ。

 

・・・・・・

 

ところが。

 

本来は

エネルギーの開放は、

人にとって

非常に幸せなことで

あるにも関わらず、

 

それを

拒む人が

時々、いる。

 

エネルギーの開放は

本来の自分の

開放でも

あるのだが、

 

それを

拒む人が

いる。

 

その人達は

溢れ出すエネルギーの

放流の中で、

 

必死に

自分の身を丸くし、

固まり、

エネルギーの流れに

逆らおうとする。

 

本当は

エネルギーに

身を任せてしまえば

楽なのだが。

 

これまで私は

そういった

「拒む人達」

に対して、

随分とやさしいサポートを

してきたように

思う。

 

「大丈夫だよ」

「怖くないよ」

とゆっくりと

その人のペースに

合わせて。

 

しかし残念ながら、

どれだけそうしても

拒む人は

最後まで拒んでしまう。

 

そして結局は

まるで岩のように

その場に

張り付いてしまう。

 

そうなった時の

その人本人の

ストレスの凄さは、

 

尋常ではない。

 

もちろん

そのストレスは

周りにも波及し、

 

せっかくの

エネルギーの放流が

そこだけ大きく

歪んでしまうケースも

多い。

 

どうすれば

「拒む人」を

サポートできるか?

 

ここを随分と

試行錯誤して

きたが、

 

実は

世の中は変わった。

 

世の中全体の

真本音度合いは

随分と

高まってきた。

 

そして

エネルギーそのもの

も、

随分と高まった。

 

だから

サポートの方向性を

変えようかな、

今日、思った。

 

つまりは、

「拒む人達」

には

 

もっと

厳しくするのだ。

 

別に怒鳴ったり

むやみに

叱ったりする

わけではないのだが、

 

厳しくする。(笑)

 

今後のサポートは、

厳しさの中にこそ

「道」があるのかも

しれない、

という前提のもとで

行なおうと

思う。

 

つづく

 

もっともっと美しくなろう

 

私は、

人の美しさ、って

どこに感じるか?

と言いますと、

 

その人の一貫性

 

に感じます。

 

つまり、

その人の本当の想い

があって、

その想いが

そのまま普段の行動や

振る舞いに現れていて、

 

さらにその想いが

何らかの結果として

カタチとして

結実している。

 

そんな人を見ると、

格好いいなぁ、

と感じるのと同時に

美しいなぁ、

と思うのです。

 

実際、

そういった人の空気感は

とても居心地がよく、

一緒にいるだけで

幸せな気分になります。

 

真本音度合いが高まる

とは、

言葉を変えれば

一貫性度合いが高まる

とも言えるのです。

 

・・・・・・

 

逆に言えば、

どれだけ想いが強くても、

それが想いだけで、

普段の行動に現れず

カタチになっていないまま

そのままを放置している人

を見ると、

私は美しさを感じません。

 

むしろ

想いが強い分、

そのギャップに対して

気持ち悪さを感じます。

 

その気持ち悪さは

本当は

本人もよく感じていて、

それがエンティティに

なったりします。

 

ちなみにエンティティとは、

ストレスがある一定以上の

濃度になり、

実体化したものです。

 

日本語に訳すと

「生き霊」となります。

 

ちょっと怖いですが、

これは人間であるならば

ほぼ全員の人が常に

持っています。

 

エンティティの強い人は

それをまるで風邪のウィルスのように

周りに伝染、伝播させます。

 

すると周りの人達は

そのエンティティを受け取り、

みんな、心の調子が

悪くなります。

 

私は組織活性化の

ご支援に入る場合、

まずはこういったエンティティ対策を

します。

 

まぁ、この辺りのお話は

別記事で書かせていただきますね。

 

とにかく、

人は自分自身の一貫性を

大切にしており、

一貫性のない自分を

感じると、

かなり大量のエンティティを

発生させます。

 

私はまずは

お一人お一人の

一貫性の度合いを

高めることを

人や組織のサポートの

ファーストステップと

しています。

 

・・・・・・

 

要するに、

想いだけでは

ダメなんです。

 

想いだけで

何もやらない人のことを

悪い意味での評論家と

言います。

 

組織において

悪い意味での評論家が

増えれば、

その組織は間違いなく

落ちて行きます。

 

ですので、

 

①まずはその人の

真本音の想いを

明確にすること。

 

これが大事ですが、

次に必須なのが、

 

②その想いを

カタチにすること。

 

が超重要です。

 

そしてもし、

お一人お一人が

②ができるようになれば、

ある意味、

自然に組織は調和を

始めます。

 

そして

③その調和を助長して

さらなる相乗効果を起こす。

 

のが、組織活性化の

次のステップとなります。

 

・・・・・・

 

さて。

 

②に関しては、

私はいつも結構、

かなり厳しいと思います。

 

厳しい、というのは、

私が厳しくなる

という意味です。

 

想いがあるのに

それをやらない人に

対して、

私は厳しいです。

 

厳しくなければならない

と思っています。

 

真本音の想いに

気づく前の人に

厳しくすることは

できません。

 

なぜなら、

その人の心はまだ

脆弱だから。

 

自分自身の真本音と

出会っていない人の

心は、

脆弱です。

 

弱い人に厳しくしても

潰れてしまいます。

 

しかし、

自身の真本音の想いや

願いに気づいた人は

まるで「大地」に

ガッシリと立ったかのような

安定感と強さを

得ます。

 

そうした人には

厳しくできるのです。

 

その厳しさが

具体的にはどのような

ものか?については

今回は触れませんが、

(もちろん、怒鳴ったり

するような類のものでは

ありません。)

 

その人の真本音が

求めている厳しさ

というものが

必ずありますので、

私はそこに素直に

お応えするのですね。

 

もちろん、

そういった厳しさは

本来私が行なうことではなく、

その組織を構成している

人達同士ができるように

なると本当に素晴らしいです。

 

そんな状態にすることが

私のサポートの

目的の一つですね。

 

美しい人が増え、

美しい人達が

さらに美しい人達を

育成していける。

 

そんな組織にするのが、

私のサポートの

基本です。

 

つづく

 

それは本当に必要な厳しさなの?

厳しさ、

とは何でしょうか?

 

学生の頃、私は登山をやっており、

一人の登山仲間にこの質問を投げてみました。

 

彼は答えました。

 

厳しさとは、

やさしさである。

 

これは今でもかなり

本質をついた答えだなぁ、と

私は思います。

 

本当の厳しさを自分に向けることは、

自分自身への本当のやさしさです。

 

しかし、

本当の厳しさを自分に向けている人が

どれだけいるでしょうか?

 

自己満足の厳しさ

の人はたくさんいます。

 

つまり、

厳しくする必要のないところで自分に厳しくし、

それを乗り越えることで

自己満足しています。

 

そういった人は、

真本音度合いが著しく減少します。

 

こんなに厳しくしているのだから

いいじゃないか。

・・・そんな言い訳をしながら生きています。

 

自分を誤魔化しています。

 

だから人とも向き合えなくなります。

 

自己満足の厳しさを自分に与えているうちは

どんな人と向き合っても

調和は起こりません。

 

ですから私は

本当の厳しさを自分自身に向けることが

できる状態になるまでを、

まずは一人一人サポートします。

 

本当の厳しさとは、

「本当は今、自分は、どんな現実(課題)に

向き合えばいいか?」

をきちんと明確にすること。

 

そして、自分の状態がどのようなものであっても

毎日真摯にその現実(課題)に

立ち向かうことです。

 

こうやって書くと、

それは本当に厳しい感じがするでしょうが、

実は、これをすると私達人間の心は

明らかにパワーが溢れます。

 

内側から力が湧いてきて、

いつも満ち足りた状態になります。

つまり、

幸せなのです。

 

ですから、

本当の厳しさを自分に与えることのできる人は

本当に純粋に

「楽しい」

と実感します。

 

それこそが、自分にやさしくする

ということではないでしょうか。

 

厳しさとは

気持ちよいものなのです。

 

これが、

真本音で生きる、ということでもあります。

(→前回記事)

 

木村さんは最初、

本当の厳しさと自己満足の厳しさの区別が

ついていませんでした。

ですから、

「プロコーチになる」などという

自己満足のビジョンに向かったりしました。

 

でも徐々に

「自己満足は気持ち悪い」

ということが、感覚としてわかるようになりました。

 

そこまで来れば、

充分に人と調和することができます。

 

一方の弓江さん。

彼女が今、向き合うべき現実(課題)は

木村さんだったのです。

 

彼をサポートすること。

それが弓江さんの最重要課題です。

 

ようやくこの二人が

向き合える状態となりました。

 

私はワクワクしながら、

二人コーチングの場に臨みました。

 

つづく