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- 対峙
心の中に
暗く大きく重い雲が
あるならば、
その雲を
無くそうとしては
ならない。
雲とは
対峙するのだ。
対峙、と言っても
戦うわけでは
ない。
ただ、
見つめる。
しっかり
見つめる。
あるがままを
見つめる。
それだけだ。
どのような雲が
現れても、
変わらない。
自分のスタンスを
変えない。
あらゆる雲と
対峙する。
そのままを
見つめ続ける。
これを
一つ一つ誠実に
行なう。
真面目に
続ける。
たったこれだけで
私達は
自分を生きる
ことができる。
雲と対峙
し続ける者は、
対峙している
この自分が
ガッシリと立ち続ける
大地を
感じ始めるだろう。
その大地は
対峙すればするほど
確かなものになる。
そして、
雲は雲。
それは
儚いものであり
弱いものであり
陽炎のように
消えてゆくもので
あり。
もしかすると
本当は
最初からそこには
存在しないもの
だったのかもしれない。
そんなことが
徐々に
わかるように
なってくる。
大地は最初から
そこにあり、
そこに自分は
立っている。
雲から逃げる者は
大地すら
わからなくなり、
雲と対峙する者は
大地そのものが
自分であることを
思い出し、
その眼差しは
愛となる。
そしてその眼差しで
他者を見つめることが
できるようになる。
すべて
始まりは自分
である。
自分の生き方
であり、
自分自身との
対峙の仕方で
ある。
つづく
私は、
一日の終わりには
必ず
自分自身と対峙する。
いや、
場合によっては
一日のうちに何度も
自分自身と対峙する。
目の前に
じっと私を見つめる
私がいる。
それは
見張られている
というのとは
まったく異なる。
むしろ
真逆だ。
自分自身にじっと
見つめられることで、
私は自由に
なる。
そして
シャンと心が
落ち着く。
自由で
落ち着いた
状態。
そこに戻る
ことができる。
私は私に
告げる。
いらんことで
悩むな。
と。
私の悩むべきは
もっと他に
ある。
と。
言われなくても
わかっている。
でも
言われると
何かが
もっとわかる。
元来、私は
悩み過ぎの質だ。
すぐ悩む私を
私は大嫌い
だったが、
私自身と対峙し、
私自身から
「悩むな」と言われると、
なぜか
悩む自分も
それはそれで
人間らしくていいな。
と
思えるのだ。
つまりは
存在承認。
その上で、
もう悩むのは
やめよう、
と
思えるのだ。
これははっきり言って
楽だ。
静かに自分自身と
対峙する時間を
私は本当に
大切にしているので、
だから
一歩一歩の自分の
歩みに
確信を持てるのだと
思う。
こう感じることが
できるのは
私だけではないはずだ。
人間であれば
皆、
同様だと思うのだ。
もっと
対峙せよ。
自分自身と。
世の中は
そうお伝えしたい人
ばかりだ。
対峙すれば
もっと楽に
進めるのに、と。
もっと
対峙せよ。
自分自身と。
自分の人生
なのだから。
つづく
私達は
「今この瞬間」
に生きている。
「今この瞬間」
以外の現実は
ない。
本当は
実在のレベルでは
「今この瞬間」
とは
「永遠」であり
「すべて」であり
過去も未来も
あらゆるものが
「一つ」になっている
のであるが。
しかし
私達の顕在意識は
「今この瞬間」
のみを
「現実」と
認識している。
であれば、
「今この瞬間」を
受け入れよう。
「今この瞬間」に
自分に起きている
あらゆる状況を
受け入れよう。
「今この瞬間」
を
自分のものに
するのだ。
目をつぶったり、
目を逸らすから、
それは
自分と乖離
していく。
自分の
コントロール外
となる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
すべての現実
と
向き合おう。
向き合うことで
恐怖を感じたり、
絶望を感じる
こともあるだろう。
次の一歩が
まったくわからなく
なることもあるだろう。
であれば、
向き合うだけで
いい。
わからなければ
ただただ
向き合い続ける
だけでいい。
それだけで
「現実」は
自分のものとなり、
そこから
自分の人生が
始まる。
もう何十年も
人生を生きているのに、
いまだに
自分の人生に
なっていない人が
いる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
私は
厳しいことを
言っているかい?
いや、
最も楽な生き方を
言ってるんだけどね。
つづく