平常時

刹那的に生きることがベストの時もある

人や組織が「脱皮」をする時、

平常時とは真逆の原理原則が

働くことがあります。

 

その一つが、

『不安定をどんどん自分に与え、

しかも無茶をするとよい』

ということでした。

(→前回記事)

 

さらに、原理原則をご紹介しましょう。

 

それは、

 

『未来のことは考えない。

刹那的になるとよい。』

 

ということです。

 

脱皮時に、未来のことを発想をしても、

真本音の発想は、

一つも出てきません。

 

一つも、です。

 

たとえその時に「これは良いアイデアだ」と

思ったとしても、

脱皮を終えた後で振り返れば、

ほぼ間違いなく、

「どうでもいいこと」に思えてきます。

 

脱皮の時というのは、

私達は、脱皮そのものに対して

必死になります。

それ以外のことには、

エネルギーをかけないようになります。

ある意味の、省エネです。

 

特に、未来の発想に関してのエネルギーは

ほぼ、ゼロになります。

 

そんな状態での発想は、

それこそ悪い意味での刹那的な発想に

過ぎなくなります。

 

むしろ私は、

脱皮時における未来発想は、

すべて「捨てるべき発想です」と

断言してしまうことも多いです。

 

ですので、そういったことはやめて、

「今この場をこなすこと」

のみを考えればよいのです。

 

前回、私は

「脱皮時こそ、自由発想しよう」

ということを書かせていただきましたが、

その自由発想とはあくまでも、

「今、どうするか?」

ということに関する自由発想である

ということになります。

 

要するに、

「今」

に集中するのですね。

「今のみ」

に集中するのです。

 

これが、脱皮時における原理原則の

二つ目です。

 

さて、

原理原則の3つ目をご紹介します。

 

これについては、

木村さんと弓江さんの二人コーチングの場面に

戻りましょう。

 

私はお二人に脱皮についての解説を

しました。

その上で、次のように問いました。

 

「この二人コーチングの真の目的は、

これから脱皮を迎えようとしている

新規事業プロジェクトチームに対して、

何ができるか?

何をしてはならないか?

を発想することだとわかりました。

そんな視点で、

お二人から何かアイデアはありますか?」

 

二人はじーっと考えていましたが、

弓江さんが口を開きました。

 

「せっかくですので、

私は脱皮をするならとことん脱皮をした方が

よいと思うのです。

ですので、新規事業プロジェクトの理念とか

方向性とか、改めてゼロベースで考え直すというのも

面白いと思います。」

 

これは非常に素晴らしい意見ですが、

実は、

「ゼロベースで考え直す」

というのは、平常時にこそすべきことだと

私は思っています。

 

私は、本当のリーダーとは、

常に、あらゆることをゼロベースで発想し直す人である

と思っています。

ゼロベースからの発想は

非常に意義深いものが多いです。

しかしそれは

平常時にこそ、毎日続けることです。

 

では、脱皮時はどうでしょう?

 

脱皮時の原理原則の3つ目は、

 

『物事を深く考えない。

表面上のことだけに目を向ける』

 

ということなのです。

 

つづく

 

地に足をつけようとしてはならない時がある

人も組織も

『脱皮』

をする時があります。

 

そして脱皮の段階においては

平常時とは真逆の選択をしなければ

ならないことがあります。

 

平常時の原理原則が

まったく役に立たなくなるのです。

 

例えば、

「自分にどんどん不安定を与える」

ことが大事になります。

(→前回記事)

 

さらに、次のことも

大事です。

それは、

 

「無茶をする」

 

ということです。

 

平常時においては、地に足のついた選択と行動が

大切です。

 

しかし、脱皮をしている間は、

地に足をつけようとしても、

その、「地」そのものがありません。

それはまるで、

空中に浮かんでいるかのようです。

 

足元がないので、

いつでも「落ちる恐怖」に苛まれます。

そこで多くの人は、

バタバタと足を空回りさせ、

悪あがきをします。

 

しかし「地」そのものがないので

どうしようもありません。

 

ですので、脱皮の時は、

地に足をつけること自体を

あきらめます。

 

空中に漂うままにします。

落ちる恐怖や、実際に落ちる感覚もありますが、

そこは、あきらめてしまうのです。

 

そして、

どうせ地面がないのですから、

無茶をしてしまうのです。

 

こんな時こそ、

自由発想です。

 

ただし。

 

わざと「無茶をしよう」と考えることも

厳禁です。

「無茶をしよう」という意図そのものが、

すでに自分に「無茶」という枠を

はめるからです。

 

ただただ純粋な、

自由発想をします。

 

どうせ、何をしても怖いのだから、

怖さは変わらないのだから、

思い切って心を自由にするのです。

 

すると、

本当にとんでもない発想が

出ることがあります。

 

とんでもない発想が出た場合には

そこに、

立ち向かっていくのです。

 

それを実行に移そうとするのです。

 

大丈夫です。

 

脱皮とは、

私達の真本音の意図に

基づいています。

 

行動に移そうとして、

もしそれが本当に行動できたとすれば、

それは、真本音の行動です。

 

行動に移そうとして、

もしそこで体が止まってしまうのであれば、

それは、私達自身の真本音が

止めている、ということになります。

 

ですので、本当に危険なことは

行動に移すことができません。

 

何をどうしても不安定なまま。

・・・という状況の中だからこそ、

私達は、

「開き直る」

ということができます。

 

開き直った人は

強いです。

 

開き直ることで、

これまで体験したことがないくらいに

真本音度合いを高めることが

できるのです。

 

脱皮とは、

そういった自己革新のチャンスである

とも言えます。

 

『不安定をどんどん自分に与え、

しかも無茶をする』

 

それが、脱皮時における

原理原則の一つです。

 

脱皮時に

きちんとそれができる人は、

脱皮そのものの頻度も

上がっていきます。

 

すると、人生が加速します。

 

私たちは、

脱皮そのものに楽しさを

見出すこともできるようになるのです。

 

それが、

人間の凄さであると

私は思います。

 

つづく