悲しみ

これはあなたの心だ

 

今日も大きな

塊を

受け取った。

 

心の塊

だ。

 

重い。

 

それを

いつもの通り

そのまま

あるがままに

感じ取る。

 

悲しみ、だ。

 

悲しみの

塊だ。

 

深くて重い

悲しみ達。

 

人間というのは

ここまで深く

悲しむことが

できるのか、と

改めて

こちらも悲しくなる。

 

これだけの

深さだ。

きっと本人は

この自分の悲しみに

蓋をしているのだろう。

 

この心は

本当はその人の

ものだ。

私がこうして

受け取るべきもの

ではない。

 

もっと自分の心と

向き合えば

いいのに。

 

ちゃんと向き合い、

ちゃんと感じ、

 

悲しいなら

悲しい、と

感じ、

 

しっかりとその

事実通りに

感じ尽くせば、

 

もっと簡単に

進めるのに。

 

多くの人は、

前に進むために

前に進もうとしない

心達に

蓋をする。

 

それが

最善だと

思い込んでいる。

 

違う。

 

断じて違う。

 

すべての心は

その人のもの

であり、

 

すべての心は

ちゃんとここにある

「存在」だ。

 

「存在」は

存在しているのだから、

ちゃんと

見つめ、感じ取る

ことだ。

 

これができるから

こそ、

現実と向き合える。

 

現実と向き合わねば、

前に進むことなど

できるわけがない。

 

一つ一つの心と、

 

自分の心と、

 

丁寧に向き合えば、

楽に進めるのだ。

私達人間は、

そうなっているのだ。

 

自分の心から

逃げては

ならない。

 

逃げれば

余計に苦しくなる。

 

逃げれば

余計に

進めなくなる。

 

もう私達には

止まっている時間は

ないのだ。

 

つづく

 

悲しみが溢れる

 

実は、

 

真本音の悲しみ

 

というのも

ある。

 

もちろん、

真本音そのものに

感情はない。

 

真本音が

「悲しみ」という自らの

反応本音を

活かしているのだ。

 

悲しみと

祈りが

結びつく。

 

それが

真本音の悲しみ

だ。

 

そうなると、

悲しみも

エネルギーに変わる。

 

悲しみも

次へのパワーと

最善の一歩に

変わる。

 

そう考えると、

私達の心には

(反応本音には)

 

やはり一つも

無駄なものはない。

 

・・・・・・

 

先日、

ある人から

「トラウマはどうすれば

解消できますか?」

というご質問を

いただいた。

 

それに対して私は

 

「トラウマは宝物だ」

 

とお答えした。

 

トラウマは

そのままにしておけば

自分にとっては

辛いものでしかないが、

 

しかしこれも

真本音と結びつくことで

祈りのエネルギーへと

変換される。

 

そのトラウマが

あるからこそ、

 

そんな自分で

あるからこそ、

 

見出せる道があり、

やり遂げられること

がある。

 

自分にとって

これは良いもの。

これは悪いもの。

 

良いものは

大切にし、

 

悪いものは

消去しよう。

 

・・・ということは

必要ないのだ。

 

そういうことでは

ないのだ。

 

それよりも

私達がすべきは、

 

これまでの経験も

 

その経験で得た

自分の心も

 

すべて

 

活かすことだ。

 

それが

自分の人生では

ないか。

 

そしてそのためにも

私達にとって

必須なのは、

 

真本音で生きる

こと。

 

真本音度合いを

高めること。

 

つまりは、

自分自身の

本当の願いや祈りに

基づいて

 

今この瞬間を

生き続けることだ。

 

つづく

 

何としてでも止めたいのに

 

正直に言おう。

 

私には

決して癒えることのない

悲しみがある。

 

私自身のこと

ではない。

 

この仕事をしていると、

「止まってしまう人」

どうしても

見ることになる。

 

人が

自分の人生を

止めてしまう。

 

それは

自殺という

わかりやすい例

だけでなく、

 

心も体も

実際には

生きているのに、

しかし

ほぼ死んだのと同じくらいに

 

人生を

止めてしまう。

 

進化を

自ら拒絶する。

 

人生の目的を

破棄する。

 

自分の真の幸せを

放棄する。

 

・・・そう決めて

止まってしまう

人がいる。

 

数としては

ほんの数えるくらいの

ものなのだが、

 

それでも

そのような状態に

なってしまう人を

見ると、

 

それに対して

他者は何もできず、

 

何もできない

という事実を

見ると、

 

私は

あまりにも深い

悲しみに落ちる。

 

そして

わかるのだ。

 

この悲しみは

ずっと癒えることは

ないな、と。

 

・・・・・・

 

今。

 

かつてないスピードで

進む人は

急増している。

 

嬉しいことに、

私のクライアントさん達は

皆、

とてつもない魅力を

高めながら

 

前に前に

進んでいる。

 

しかしその一方で、

クライアントさんの

周りには、

 

まるでその反動の

ように、

 

止まってしまう人が

出る。

 

先ほど書いたように

数としては

ほんのわずかなのだが、

 

それでも、

たまに

そんな人が出る。

 

その人に対し、

もちろん

私のクライアントさん達は

最大のサポートをする。

 

時には

私も直接

サポートする。

 

しかし。

 

人が人にする

サポートには

「限界」

がある。

 

その「限界」とは、

能力的な限界という

意味もあるが、

 

「他者がこれ以上

その人を助けてはならない」

 

という

言ってみれば

尊厳上の「限界」も

ある。

 

もしその「限界」を

踏み越えてしまえば、

 

サポートする側も

される側も、

 

その後に

とてつもない「不調和」が

待っている。

 

例えば、

とてつもない

依存

とか。

 

とてつもない

禍根

とか。

 

とてつもない

混乱

とか。

 

だから、

サポートには「限界」が

あることを知り、

 

その「限界」を

きちんと守ることこそが

真の「サポート」なのだが、

 

でも正直私は

止まってしまう人を

見るたびに、

 

あぁ、私に

魔法が使えたら。

 

思ってしまうのだ。

 

しかも私は

その人の

心と魂の痛みや苦しみを

そのまま

感じ取ってしまう。

 

時には

本人は麻痺して

痛みを感じなくなって

しまっていても、

 

私はその

麻酔薬が切れてしまった

かのような、

 

阿鼻叫喚のような

 

その人の苦しみや

悲しみを

あるがままに

受け取ってしまうのだ。

 

そしてそれを感じる時、

私自身も、

 

あぁこれは

癒えることはないな

 

と実感するほどの

深い悲しみに

落ちる。

 

これは

どうしようもない。

 

私の宿命だと

思って

あきらめている。

 

この悲しみは、

次のエネルギーに

転化できるような

生易しいものではなく、

 

目を閉じれば、

いつも

私の背後にあり続ける

ものだが、

 

この仕事を

始めた時から私は

そこは

あきらめている。

 

この悲しみは

ずっと

増え続けるのだろう。

 

でも

それをすべて

受け入れながら進むのが

私のすべきこと

なのだろう。

 

結局はいつも思うのだが、

 

そう思えるところまで

私は

とことん、自分を

悲しませてあげることに

している。

 

・・・・・・

 

こういうことを

ブログに書くのはどうか

とも思うのだが、

 

なんか今は

書いた方が良い気がして

書いてしまった。

 

かつてないスピードで

進もうとしている人が

急増する一方で、

 

自分の人生を

止めてしまおうとする

人も

 

今は、

 

一人、また一人と、

増えている。

 

私は

これを

止めたい。

 

何としてでも。

 

でも。

 

人間としてできる

ことには

 

限りがあるんだ。

 

私達は

人間なんだ。

 

つづく

 

悲しみと共に生きる

 

人は誰しも

心の中に、

深い悲しみを

たくさん抱えている。

 

そんな身に覚えはない、

という人も

時々いるが、

 

いやいや

必ず悲しみは、ある。

 

その悲しみが故に、

自身の真本音の道へ

入れないでいる

人も多い。

 

だから、

トラウマのように

なっているその悲しみを

あらゆる方法で

取ろうと

努力する人もいる。

 

そんな

サポートの仕方も

ある。

 

しかし。

 

私は思うのだ。

 

あえて言おう。

 

その悲しみは

その人にとっての

宝物だ、と。

 

その悲しみが

あるからこそ、

その人

ではないのか。

 

その悲しみが

あるからこそ、

その人生

ではないのか。

 

だから私は、

悲しみを取り除いたり、

トラウマを解消する

ようなサポートは

 

いっさい

しない。

 

・・・・・・

 

当然、

私の中にも

悲しみがある。

 

それもかなり

深い悲しみだ。

 

それのおかげで

随分と

人生の回り道を

したように思う。

 

しかしやはり、

私はどれだけ

自分の真本音度合いが

高まっても、

 

決して

その悲しみを

取り除こうとは

思わない。

 

これは一生、

持っていく。

 

それが私であり、

私の人生だから。

 

いや。

 

むしろ、

 

この悲しみのおかげで

私は

ここまで来れた。

 

今のこのお仕事を

精一杯させて

いただいているのも、

その悲しみの

おかげ、とも言える。

 

ある時に、

決めたのだ。

 

この悲しみと

共に生きていこう、

と。

 

覚悟を

決めた。

 

すると途端に、

道が開いた。

 

そういうことでは

ないのか。

 

・・・・・・

 

悲しみとは

反応本音の一つ

であるが、

 

反応本音とは

本来、

真本音の仲間

だ。

 

この現実世界において、

より間違いなく

真本音の道を

進めるように。

 

そんな目的で

本来は、

反応本音は発生する。

 

人生とは、

真本音と反応本音の

コラボだ。

 

それが

人生の本質。

 

しかし人は、

強い反応本音に

苛まれると、

そこに溺れてしまい、

真本音を

諦めてしまう。

 

もちろん私にも

その時期は

あったが、

 

しかし大事なのは、

反応本音を

消し去ることではなく、

 

真本音を

思い出すことだ。

 

そして

自らの真本音の願いを

抱き続けることだ。

 

自らが、

誰よりもそれを

大切にし続けることだ。

 

それにより、

真本音と反応本音の

コラボが始まる。

 

その瞬間から、

強い反応本音も

「宝物」

となる。

 

深い悲しみも

人生の宝物と

なる。

 

「それがあるからこそ」

の人生と

なるんだ。

 

つづく

 

だいぶ悲しいね

 

私達にとって

「悲しみ」

とは何だろうか?

 

深い悲しみは

多くの場合、

怒りに

転嫁される。

 

ちょっとしたことに

対して

すぐに怒りを

現す人は

 

その心の奥に

深い悲しみを

抱えているケースが

多い。

 

その悲しみを

感じると、

私もとても

悲しくなる。

 

悲しみ

とは

何だろうか?

 

悲しみの多くは

執着を

伴っている。

 

執着というと

キツいかな?

 

柔らかく言えば

望み

と言ってもいい。

 

自分の望みが

思う通りに

叶えられない時、

 

悲しみが

発生する。

 

その望みへの

執着が

激しければ激しいほど

悲しみは

大きくなる。

 

ただし。

 

執着のない

「悲しみ」

もある。

 

そして。

 

執着のない

「悲しみ」は

執着のある

悲しみよりも

圧倒的に

深くて辛い。

 

私達人間は

このレベルの

「悲しみ」を

乗り越えることが

できるのだろうか。

 

よく考える。

 

この仕事を

していると、

随分と多くの

悲しみと

出会った。

 

悲しい!

本人が泣いている

うちは

まだマシだ。

 

しかし、

悲しみの度が

過ぎると、

本人の自覚が

なくなる。

 

麻痺する。

 

自分が悲しんで

いることを

自分が一番

わからなくなる。

 

すると、

悲しみとは別の

出方をするように

なる。

 

残念ながら、

現代社会においては

麻痺してしまっている

人が多い。

 

人は

「悲しみ」を

超えることが

できるのだろうか?

 

あなたは

どう思う?

 

私は

あまりにもひどい

「悲しみ」に

埋没してしまった

ことがあるが、

 

あの時はもう

復活は無理だと

思ってしまった。

 

今でも

どうして復活できたか、

わかるようで

わからない。

 

もう一度、

あの「悲しみ」を

体験したとして、

また復活できる

自信は

ない。

 

それくらいに

深い「悲しみ」は

ある。

 

でもそれでも

私の選ぶ

選択肢は

一つだ。

 

人は

「悲しみ」を

超えられる。

 

それを

まずは私が信じて

進もうと

思っている。

 

つづく