このブログをお読みいただいている皆さんは、
自分自身の可能性について
考えたことがあるでしょうか?
恐らく、「ある」と答えられる人が
ほとんどだと思います。
では、「可能性」とは何でしょうか?
可能性とは、無限でしょうか?
それとも、有限でしょうか?
今回は、
可能性とは「有限」です、
というお話です。
現在このブログでは、
木村さんストーリーをご紹介しています。
(→前回記事)
彼はこの後、すごい活躍をすることに
なるのですが、
その彼の活躍の「本質」をお伝えするためには、
その前提として、
どうしても明らかにしておかねばならないことが
いくつかあります。
その第1回目が今回である、
という位置付けです。
それが、
「可能性とは有限である」
ということなのですが、
ただ、その「有限」の意味が重要です。
「有限」という言葉を辞書で調べますと、
「限度・限界のあること」
とあります。
私達人間は、自分自身に対して
限度と限界を設ける
という特性を持っています。
必ず、自分自身を「枠」にはめるのです。
常に、
今の自分に見合った限度と限界を設定
するのです。
これは、私達の真本音の意図です。
ですので、よく
「私の可能性は無限です!」
といった言葉を使う人がいますが、
その言葉を放つその人自身の空気感には必ず
不自然・無理
が伴います。
つまりは、
ハッタリでそう言っている
ように感じ取れます。
実際に
ハッタリに過ぎません。
私達の真本音は、
自分自身に限度と限界を設けることを
非常に大事にしているからです。
なぜ限度と限界を設けることを大事にするか?
と言いますと、それは、
自分自身の無限の可能性を発現するため
なんです。
なんか、変な言い方になってますが、
これが本質です。
つまり、私達人間は、
その時その時の自分に対して的確な限度と限界を
設定することで、結果的に
自分自身を無限に進化させることができる
・・・ということになります。
ですから、
今の自分は、自分自身にどのような限度と限界を
設定しているか?
を理解することが、「超」がつくほど重要です。
ここを誤ると、
物事の進展が、極めて遅くなります。
私達は、自分自身が設定している限度と限界に
即した生き方や、目標設定の仕方をする
ことが大切なのです。
つまり、「限度と限界」とは
私達人間にとって、無限の進化を持続するためには
なくてはならないもの
なのです。
ですから、次の問いがとても重要であり、かつ
必要です。
「私は今、どのような限度と限界を
自分自身に設定しているだろうか?」
そして、
「私は今、どういった限度と限界の枠の中で
物事の発想をすることが必要だろうか?」
という問いです。
わかりやすく喩えるならば、
例えば、2歳の幼児がいたとして、
その子に、
「君には無限の可能性があるから
自由に自分のやりたいことを発想して
行動しなさい」
と言っても、危険極まりないし、第一、
本人には意味がわからない
ということです。
ですから私達はその2歳の子に枠をはめます。
例えば、公園にその子を連れて行き、
「この公園の中は安全だから、
好きなことをしてもいいよ」
と伝えます。
その子は、公園という守られた枠の中で、
自由に遊び、その遊びを通じて、
自分の意志を育てて行きます。
要するに、そういうことです。
私達の真本音とは、喩えて言えば、
自分自身の「親」であり、「師匠」と言ってもいいかな、
と思うことがあります。
もちろん、真本音とは「本来の自分自身」であるのですが、
「本来の自分」と「今の自分」が
あまりにもかけ離れている場合は、
それは「親」であり「師匠」である、と捉えた方が
受け取りやすくなるケースが多いのです。
真本音という「親」「師匠」は、
私達自身を最速で、しかも、一歩一歩着実に
育てようとしています。
そのためには、
最初からいきなり、「無限」を提示し、
何の枠もない中で、「自由にしてごらん」とは
決してしないものです。
きちんと的確な「枠」を設定し、
その「枠」の中で自分を育て上げ、
その「枠」での「自由」を手に入れたら、
その「枠」を壊し、
さらに大きな「枠」を設定し、その中での
「自由」を学ばせる。
・・・そんなことをするのです。
ですから、
私達人間に必要なのは、
「的確な枠」
であり、それを最もよくわかっているのが、
私達自身の真本音
だということになります。
逆に言えば、
その人は今、的確な枠の中にいるだろうか?
という視点でその人を観察し、
枠が小さ過ぎれば、その枠を外し、もっと大きな枠を設定する、
枠が大き過ぎれば、もっと小さな枠の中にあえて入れる、
というサポートが必要です。
そういった的確なサポートができる人こそが、
「コーチ」だと思うのです。
特に私は、木村さんにはその視点を
大事にしていました。
なぜなら、彼は
「枠設定」
が非常に苦手だったからです。
つづく