誤解を恐れずに
言うならば、
私は
「自己肯定」
という言葉がどうも
しっくりこない。
もちろん、
その意味は知っているし、
重要さもわかっている。
なくてはならないもの
だということも。
しかしどうしても
「肯定」
という言葉に
ひっかかる。
「肯定」という
言葉の裏には必ず、
「否定」が
セットだからだ。
自分を否定し続けていた
人が、
それではいけない。
自分をもっと
肯定しなければ。
と、決意して、
自己イメージを変え、
人生を新たに
歩み始める姿は
何度も目にしてきた。
しかし私は
「自己肯定」を
唱える人達には
どうしても
不安定さを感じてしまう。
「否定」を
「肯定」に
変えただけだからだ。
それは
「解釈」の変化
「視点」の変化
に過ぎない。
次元が
同じなのだ。
同様に、
「物事を肯定的に
捉えよう」
という人にも私は
不安定さを感じてしまう。
「物事を
肯定的に捉える」
のと
「物事を
否定的に捉える」
のは、
同じ次元だからだ。
同じ次元に
いるうちは、
「どっちが正しいか?」
という
闘いに過ぎない。
だから、
自己肯定に
努力している人が、
それでも
大きな失敗をしてしまうと、
途端に
自己否定に戻ってしまう。
「私には
素晴らしいところが
あるんだ」
と、努力して
思っていても、
それを覆す出来事が
あれば、
「やっぱり私は
ダメだった」
となるのだ。
「素晴らしいか」
か
「ダメか」
のせめぎ合い。
そこにいるうちは、
本質は
何も変わらないのだ。
安定度合いは
何も
変わらないのだ。
・・・・・・
「私は前向きに
生きることを
信条としています」
という人がいれば、
「後ろ向きな気持ちが
あるのが
人間の当たり前の
姿ですよ」
と私は伝える。
すると、
多くの人達が
とてもホッとした
お顔になる。
どんな心があっても
いいじゃないか。
それが
人間なんだから。
というメッセージを
これまでは私は
何千人、何万人の
人達に
伝え続けて来ただろうか。
「前向きか」
「後ろ向きか」
という世界から
解放されて初めて
人は、
自分自身の本当の
人生の道を
歩み始める。
どんな自分も
愛せるように
なるからだ。
「愛」とは、
「前向きさ」では
ない。
「人を愛する」
とは
「前向きに生きる」
ことではないのだ。
「前向き」も
「後ろ向き」も
どっちでもいいじゃん、
というところに
愛はある。
そこかしこに
すべてに
愛はあり、
それを知るものが
本当に
人を愛せるのだ。
・・・・・・
そんな話をした時に
ピンと来ない人が
いる。
そんな人は
コーチをやっては
ならない。
それよりも
もっと自分自身の人生に
真剣になった方が
よい。
自分と向き合うことに
真剣になった方が
よい。
これも誤解を恐れずに
言ってしまえば、
残念ながら今の日本には
「にわかコーチ」
が多い。
自分の人生と
自分自身と、
しっかりと向き合うことも
せずに、
人をサポートする
からだ。
それをもって
「私は人を愛する人生を
進んでいる」
と言う人もいるが、
それは残念ながら
「自己愛」
だ。
本当の愛
ではない。
そして残念ながら、
そういった人ほど、
「前向きに生きる」
ことが大切だ、と
口を酸っぱくして
言い続ける傾向にある。
ひどいことを
言うようだが、
なぜこうもはっきり
言えるかと言えば、
かつての私自身が
そうだったからだ。
おかげさまで
だから私はよく
叩かれた。
どこで叩かれたかと
言うと、
企業様で、だ。
自己愛の頃から
私は
企業のコーチを
していた。
企業のコーチを
する、というのは
自己満足のレベルでは
済まされない。
だから
自己満足、自己愛レベルの
コーチは
叩かれることに
なるだろう。
どれだけ叩かれても
どれだけ失敗しても、
それでもくじけずに
進み続ける。
私は、
人を、組織を、
サポートし続けるのだ、と
進み続ける。
その中でこそ、
自己愛から
本当の愛への
自己変革が
成される。
その成長度合いと
加速度合いが
人や組織に、良い影響を
与える。
「完璧な私になってから
私はコーチを始めます」
とか
「もっと成長してから
私は本格的にコーチ活動を
始めます」
という人もいるが、
それも自己満足であり
自己愛だ。
叩かれて、叩かれて、
それでも真剣に
自分と人に向き合い続ける。
その現場でしか
得られないものが
ある。
というか、
それしかない。
それが人生だ。
そんなこともわからず、
そんなところから
逃げてしまう人は、
コーチをやっては
ならない。
私はやはり、
本物のコーチを
育成したい。
真剣な
コーチを。
つづく