その躊躇を取るといい

 

道は目の前に

まっすぐ

伸びているのに、

 

先の方が

明る過ぎて

まるで見えない。

 

見えないのだが、

そこには

明る過ぎるほど

明るい未来が

待っている

のはわかる。

 

でも、

見えない。

 

見えないことによる

不安は

もちろんあるけれど、

 

見えないことが

また

面白く

刺激的だ。

 

見えても

見えなくても

この道を

進んで行くことに

変わりはない。

 

最大速で

進んで行くのだろう。

 

でも

見えない。笑

 

見えないけど

面白そう。

 

・・・こんな感じ。

 

真本音の道を

最大速で進むことを

覚悟した人なら

誰もが実感する

この感覚。

 

ひょっとすると

これこそが

人生の最高の醍醐味

の一つ

なのかもしれない。

 

この感覚までは

まだわからないけど、

この感覚に

もうすぐ達するだろうな、

という人が

 

今、

急増中。

 

いいことだなぁ。

 

そんな時代が

来たんだなぁ。

 

としみじみ。

 

・・・・・・

 

「最大速」

と言うと

大変なことにように

思われるが、

 

実は「最大速」こそが

「経済速度」

だ。

人にとっては。

 

最も楽に進めるし

最も燃費がいい。

 

なぜなら

内側から常に

エネルギーが

湧き続ける状態と

なるからだ。

 

外からエネルギーを

もらう必要が

なくなる。

 

でも面白いことに

内側からエネルギー

溢れるのに、

外からも

大量のエネルギーを

いただけるように

なる。

 

たくさんの人達から

心地良いエネルギーが

押し寄せてくる

のだ。

 

だから、

内からも外からも

満たされる。

 

満たされるから

幸せだし、

エネルギーは

高まっても高まっても

限界はなく、

無限に

幸せ度合いは

上昇する。

 

しかも

もうとっくの昔に

満たされているから、

そのエネルギーを

さらに

他者にプレゼントすることも

できる。

 

それをすることで、

さらに他者から

エネルギーが

返ってくる。

 

そんな人生。

 

とても良いと

思わない?

 

・・・・・・

 

さぁ、

始めようではないか。

 

そんな

人生を。

 

これまで

躊躇して始められなかった

人も、

 

そろそろ

良いのではないか。

 

世の中は

ずっと何も変わらずに

いるように

思うかもしれない。

 

しかし

見えないところで

世の中は

変転した。

 

この変転は

ここからも続く。

 

私の言うところの

「実在レベル」で

ということになるが。

 

実在レベルで

変転すれば、

それは時間差を経て

必ず現象化(現実化)

されてくる。

 

今はその

時間差も

みるみる減っている。

 

だからもう

始めようでは

ないか。

 

自分の

本当の願いに

向かって

 

堂々と

生きてみよう。

 

最初から大きな

歩みをしなくても

いい。

 

ほんの些細な

一歩でもいい。

 

でもその一歩は

自分の中の

大いなる願いに

基づくもので

あるといい。

 

時は来た。

 

・・・なんて言うと

ちょっと格好良過ぎ

かもしれないが、

 

でも本当に

時は来たのでは

ないか。

 

その躊躇を

取るといい。

 

さぁ、始めよう

ではないか。

 

つづく

 

目は開いているかな?

 

本当は私達は、

実に見通しの良い

道に

立っている。

 

さえぎるものは、

何一つとして

ない。

 

霞みさえない、

濃い青空のもと、

 

穏やかな風を

受けながら、

 

伸びやかに

私達は

立っている。

 

しかしそれでも

人は

「何も見えない」

言う。

 

「自分の道が見えない」

言う。

 

目を

閉じている

からだ。

 

もしくは、

目隠しを

し続けているから、

 

もしくは、

相当に分厚いフィルターの

眼鏡を

かけている、

からだ。

 

どれだけ気持ちよく

どれだけ安定した

道でも、

 

目を閉じていれば

進むのは

怖い。

 

当たり前の

こと。

 

だから、

目を開ければ

いい。

 

でも、

開け方が

わからない。

 

残念ながら、

そんな人達が多いのが

今の世の中だ。

 

そこで

大半の人が

とってしまう方法は、

 

目を閉じたまま

上手く進もう

すること。

 

目を閉じたままで、

どちらの方向に

どのように

進めば良いか?

他者から

教えてもらったり、

アドバイスを

もらったり。

 

目を閉じたまま、

自分の手を

引っ張ってくれる人を

見つけ、

その人に

依存したり。

 

一生、

目を閉じたままで

いい、

思っているようだ。

 

もしくは、

一生、目を開けることは

できないと

思い込んでいるか。

 

もしくは、

すでに自分は

目を開けていると

思い込んでいるか。

 

今、

まだ自分は

閉じているという

自覚をすることが

第一かな。

 

自覚できれば

開けたくなる。

 

開けたくなったら、

その自分の

想いに、

素直になることだな。

 

そうなれば

あとは

方法論だ。

 

ただし、

何かをちょっとやって

すぐにパッと

開くものでは

ない。

 

開くには、訓練が

必要だ。

 

毎日毎日の

地道な習慣が

必要だ。

 

その方法を

私は

セルフコーチング法

呼んでいる。

 

自分が

自分自身の

目を開かせるために、

 

自分を

サポート

し続ける。

 

そして

目を開くことが

できたら、

 

次は、

進むための

サポートに入る。

 

それも

セルフコーチング。

 

自分の最大の

コーチは

自分自身。

 

みんなが

そんな状態に

なれればいいな、

思う。

 

そして

自分で自分を

コーチできるように

なれば、

 

その人は今度は

他者を

コーチできるように

なる。

 

他者に

セルフコーチングを

教えることが

できるようになる。

 

私は世の中に

本物の力を持った

コーチが増えることを

切に望んでいるが、

 

そのためには

やはり、

この順番が

大切だな。

 

つづく

 

その道ではないよ

 

無理矢理に

進むことは

良くない。

 

川が

川上から川下へ

流れていくように、

 

自然の摂理に

沿って

流れて行けば

いい。

 

普通に

流れればいいのに、

私達はついつい

余分なことをする。

 

時には

川下から川上へ

上ろうとしてしまう。

 

当然、

それには困難が

伴う。

 

その困難を

越えることが

成長である、

と考える向きも

あるが、

 

どうしても

私にはそれは

自己満足に

見えてしまう。

 

ちゃんと自然に

流れて行けば、

その流れに

乗ることで

発生する

「進むための課題」

が来る。

 

自然に流れる

からこそ、

 

進むからこそ、

 

目の前に

立ちはだかる

課題が来る。

 

どうも

その課題から

逃げるために、

あえて

川下から川上へ

向かい、

 

「俺は

すごいだろ」

 

「俺は

頑張っているだろ」

 

「俺は

挑戦しているだろ」

 

とやっている

人が多いのが

現実ではないだろうか。

 

あなたのその

悩みや課題は、

あなたが今、

本当に取り組む

ものなのか?

 

それが

あなたの人生

であり、

 

あなたの

真本音の願い

なのか?

 

・・・・・・

 

自然に流れる

というのは

楽なことであるが、

 

しかし

楽なことでは

ない。

 

「進む」

という意味では

楽に進めるので

あるが、

 

いつも言うように、

人間とは

「進化を望む」

生き物だ。

 

進化のために

乗り越える壁を

私達は

自ら自分に

課す。

 

それが

楽ではない。

 

楽だったら

課題とは

言えないから。

 

しかし。

 

楽ではないが、

それとしっかりと

真正面から

向き合えば、

 

それに

真正面から

取り組めば、

 

その一歩一歩

魂に満ちるような

充実感が

生まれる。

 

それを感じながら

日々、進むことは

とても

楽である。

 

楽では

ないけど、

とても

楽。

 

という状態に

入る。

 

「進む」

とは

「安定」

である。

 

自転車が

前に進んでこそ

安定するように、

 

前に進むことで

感じることのできる

安定こそを

私達は皆、

求めている。

 

・・・・・・

 

進めば進むほど、

不安定さを

感じる

その方向に、

 

本来の

道はない。

 

それは

あなたの進む

道ではない。

 

もっと

安定を

求めればいい。

 

ただしその

安定は、

止まることによる

安定ではない。

 

進もうと

決意することだけで

安定感を得る、

その道だ。

 

川下から

川上へ進もうと

している人は、

自分を

偽っている。

 

本当は

その道は違う、

とわかっているのに

自分を偽り

その道に進もうと

する。

 

もう一度

言おう。

 

あなたの

その道は

あなたの

道ではない。

 

もっと

あなたには

安定の道が

あるはずだ。

 

もっと

ぐんぐんと

進める道が

あるはずだ。

 

もう、

自己満足の

進み方をするには

もったいない

時代に入った。

 

これからは

川の流れが

とことん速くなる。

 

早くその流れに

乗ることだ。

 

あなたの

人生の流れ

だ。

 

それを

つかむことだ。

 

そのためには、

本当は

あなた自身が

よくわかっている

あなた自身の

真の課題に、

 

勇気を持って

向き合うことだ。

 

つづく

 

子へ 友へ

 

ここから

進もうとしている

人へ。

 

あなたの

これまでの

悔恨のすべてが

あなたの

財産だ。

 

時間は

後戻りできない。

 

だからこそ

そこまで

悔やみ

悲しむ。

 

だからこそ

それは

宝物だ。

 

魂を

かきむしるくらいの

それがあるから

あなたは

あなたにしか

できない

次の一歩を

見出せる。

 

あなたにしか

出せない

一歩を

踏み出せる。

 

自分は

人として

未熟だ。

 

あなたは

そんな経験を

数え切れないほど

重ねてきたかも

しれない。

 

しかし

やはり

それこそが

あなたの

道だった。

 

その道が

あるからこその

今のあなた

だ。

 

もちろん、

今のあなたも

未熟だろう。

 

これからの

あなたも

悔恨をいくつも

重ねるだろう。

 

しかしやはり、

それを重ねる

未来にあなたも

 

それがあるからこそ

あなた

なのだ。

 

悔しさを

捨てず、

悲しみを

隠さず、

 

涙を

止めず、

 

そのままで

 

あるがままで

 

そのままの

あなたで

 

あるがままの

あなたで

 

これからも

信じる道を

進んで行って

ほしい。

 

あなたが

あなたで

いる限り、

 

あなたが

自ら

進もうとする

限り、

 

皆があなたを

支えるだろうし、

 

少なくとも

間違いなく

 

私は

あなたを

応援するよ。

 

つづく

 

ここからはまっすぐだ

 

目の前に

まっすぐな道が

延々と

続いている

イメージをしてみて

ください。

 

もし

どうしても

曲がった道しか

イメージできない場合は、

 

どうすれば

まっすぐな道に

なるだろうか?

 

と自分自身に

問うてください。

 

まっすぐな道に

なるために、

今の自分に

必要なことは

何だろうか?

 

まっすぐな道に

なるために、

今の自分が

変えなければ

ならないことは

何だろうか?

 

などの問いも

よいでしょう。

 

まっすぐな道を

イメージできる人は

その道を

一気に進もうと

今、

決意しています。

 

しかもその

スピードは、

恐らく、

過去最高

です。

 

過去最高の

加速と

過去最高の

速度を

出そうと

しています。

 

過去最高を

記録するために、

 

今の自分に

必要なことは

何だろう?

 

今の自分が

今のうちに

準備しなければ

ならないことは

何だろう?

 

と、

自分に問うて

みてください。

 

・・・・・・

 

「過去最高」に

挑戦しようと

する人が、

 

今、

過去最高に

増えていると

私は最近

強く実感しています。

 

結構、

今の私は

感無量です。

 

あぁやっと

こんな時代に

なったのだなと、

なぜか

とても思えます。

 

まずは

この状態までに

来たかったんだ、

私の真本音も

笑っています。

 

きっと今、

私と同様に

真本音が笑っている

人が

多いのでしょう。

 

とても

穏やかな

気分です。

 

実在のレベルで

これだけ

穏やかさを

感じるのは、

ひょっとすると

生まれて初めて

かもしれません。

 

・・・・・・

 

「まっすぐな道」

の彼方に、

もし観えるものが

あれば、

それをしっかりと

キャッチしてください。

 

例えば私の場合、

七色に輝く

光が観えます。

 

その光と

じっくり向き合って

いますと、

何となく伝わってくる

メッセージが

あります。

 

それを言葉に

すると

次のようになるでしょうか。

 

「あなたはまだ

本当の自分を

まったく知らない。

これからだよ、

本当に楽しいのは。」

 

はははっ。

 

まぁ、

楽しみましょうか。

 

つづく

 

たった一人しかいなくても

 

あなたは

たった一人。

 

他は

誰もいない。

 

広く

永遠に続く

大地に

一人。

 

孤独。

 

そんな

不安な中でも、

 

それでも

あなたが

進みたい道とは

何ですか?

 

周りに誰も

理解者が

いなくても、

 

それでも

あなたが

切り拓きたい

道とは

何ですか?

 

いや・・・、

 

孤独な道は

私は進みたく

ない。

 

人の協力を

得られない道で

あれば、

私が進むことは

ない。

 

・・・と、

あなたは

思っているかも

しれませんが、

 

いえ、

あなたの中には

間違いなく、

 

たった一人でも

進みたい道が

 

存在して

います。

 

たった一人でも

その道を

行く。

 

そんな覚悟を

 

あなたは

生まれながらにして

持ち合わせて

います。

 

そこにそろそろ

気づけると

よいですね。

 

誰しもが

孤独は

いやですから、

 

というよりも、

私達のあらゆる

恐れの

根元には、

 

孤独への

恐れ

 

がありますから、

そんなことは

考えたくも

ないかも

しれません。

 

しかし

最も根源的な

恐れに

立ち向かって

までも、

 

進みたい道が

 

あなたの

中心には

確かに

存在している

はずです。

 

そろそろ

そこに

目を向ける

ときですね。

 

一人でも

進もう、

 

とする覚悟。

 

それは

あなたの

存在意義そのもの

でもあります。

 

そこを

しっかり

自覚し、

 

その想いと

願いを

しっかりと

抱き、

 

たった一人でも

歩き始めた

その時にこそ、

 

あなたの

本当の仲間、

 

ファミリー達は

 

あなたの

人生に

現れるのです。

 

あなたには

仲間が、

ファミリーが

います。

 

しかし

彼らは、

 

あなたが

たった一人でも

進もうとする

 

その

尊い意志にこそ

共鳴

するのです。

 

つづく

 

虚勢を張れば張るほど、道は観えなくなる

自分の中に存在している

本当の「道」を

見極める。

 

そのためには、

真本音と反応本音の区別が

必要。

 

では、どうすればその区別を

つけられる自分になれるのか?

 

・・・そんなお話を

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

反応本音に基づいて

生きているうちは、

私達は虚勢を張ります。

 

すべての人がそう、

というわけではありませんが、

一般的には

声が大きくなります。

 

威厳を出そうとします。

 

いつも無理にでも

元気な自分を

見せようとします。

 

以前の私が本当に

そうでした。

 

私はコーチというお仕事を

真本音・反応本音という

区別がつく何年も前からずっと

続けています。

 

20年くらい前の私の研修や

チームコーチングは

それはそれは

威厳に満ちたものでした。

 

若いくせに。

 

場に緊張感を

張り巡らせていました。

 

当時の私は30歳過ぎ

くらいです。

 

相手はほとんど

年上です。

 

40代50代の経営者の方も

多かったです。

 

そんな方々に向かって

平気で

「お前は甘い」

と「指導」していました。

 

本当にそういった

言い方をしていたのです。

 

私がきつく当たると

その方はビッショリと

冷や汗を流していました。

 

私はその人の

痛いところを

突き続けていました。

 

そうしてその人を

「矯正」して

経営をよくしよう、

俺がそれをしてやろう、

と思っていました。

 

そして、

そういった「指導」をする立場が

自分の役割なので、

自分は誰よりも人格者で

あらねばならないと

決めていました。

 

だから、

心の中に次々に現れる

負の方向の反応本音達を

力でねじ伏せて、

フタをして、

無きものとしていました。

 

で、ある時についに

体を壊してしまったのです。

 

あの時、

私の体が言うことを効かなく

ならなかったら、

私は真本音に気づくことは

できたでしょうか?

 

今でも

そう反芻します。

 

そんな当時、

ある時私はお客様の会社に

車で向かいました。

 

当時の私の睡眠時間は

とても短く、

1時間とか2時間の日々が

続いていました。

 

ですので私は

お客様の会社の近くに

15分くらい前に車で到着し、

車の中で

5分〜10分くらい仮眠をとる、

というのを習慣化していました。

 

5分10分の仮眠をとる

名人でした。

 

その日もちょっと前に到着し、

5分だけ仮眠をとりました。

 

その場合、

シートを倒すわけでは

ありません。

 

通常の座った状態のまま

ウトウトとするのが

コツです。

 

私はいつものように

ウトウトしました。

 

するとその瞬間に、

私は自分の腹から

とてつもない何かが

込み上げてくるのを

感じました。

 

それは、

大量の血でした。

 

ブバババババッ!!

と凄い音を立てながら、

私は口から大量の血を

吐き出しました。

 

血は口から溢れ、

私のスーツは

血まみれになりました。

 

うわっ!どうしよう!

・・・とびっくりした瞬間に

目が覚めました。

 

夢だったのです。

 

でも、

あまりにも鮮烈でした。

 

今でもそれは

現実としか思えないくらい

リアルでした。

 

今ならわかります。

 

確かにそれは

夢ではありませんでした。

 

それは「実在」でした。

 

私は「実在」を

感じただけです。

 

私の中から

これまでフタをしていた

反応本音達が溢れ出し、

真本音という存在に

気づいたのは、

その数日後でした。

 

その後、わずか

2〜3ヶ月で、

私は、当時の師匠のもとを

飛び出し、

当時雇われ社長をしていた

会社も飛び出し、

当時の家族からも

飛び出し、

両親のもとからも

飛び出し、

お客様からも

飛び出し、

友人関係からも

飛び出し、

すべてをリセット

することになります。

 

人生がその時一度、

終わったのだな、と

今でも思います。

 

終わったと同時にそれが、

真本音の人生、

真本音の道の

始まりでした。

 

私の中からは徐々に

虚勢は去っていったと

思います。

 

虚勢を張る人生が

いかに辛い人生か。

痛いほど私は

知っています。

 

虚勢を張るエネルギーと

時間があれば、

もっと自分の本当の

願いに向かえばいい。

 

そんな単純なことなのですが、

なかなかそれができないのも

人間です。

 

でもまずは、

虚勢を張っている

自分自身を

自分で認識することですね。

 

そんな自分を

見つめるのです。

 

観続けるのです。

 

それだけで、

そこからは

抜け出せるでしょう。

 

すると

虚勢を張ることそのものが

遊び心のような感じとして

受け取れるようになります。

 

なんだ、

可愛いな、俺、

と。

 

そうなればもう

いつでもそこからは

抜け出せます。

 

虚勢から抜け出すことで、

真本音の道が

初めて観えてきます。

 

つづく

 

私ほど酷い人は、見たことがない

私達の中にはすでに「道」があり、

その「道」を進むことは

とても勇気の要ることだけれども、

いざその「道」に入ってしまえば、

人としての本来の幸せを

存分に感じることができます。

 

・・・というお話をここまで

させていただいています。

(→前回記事)

 

では、その「道」が

本当の「道」なのかどうか、を

どこで判断すればよいでしょうか?

 

本当の「道」かどうか?

 

とはつまり、

 

真本音の道かどうか?

 

ということです。

 

これを見極めるためには、

真本音と反応本音の区別を

つけられる自分になることが

前提となります。

 

真本音と反応本音の

区別。

 

これは実は、

目と鼻の区別がつくのと

同じくらいに簡単です。

 

でもしかし、

それができる人が

現時点では少ないのが

今の社会です。

 

どうして目と鼻の区別が

つかないの?

目は目だし、

鼻は鼻だし、

目を見て「鼻だ」とは

思わないでしょ。

 

・・・などといつも私は思ってしまう

のですが、

でもそういう私自身も以前は

まったくこの区別がついて

いませんでした。

 

人のことを言えません。

 

だいぶ前のブログでも

書きましたが、

以前の私は本当に酷くて、

いまだに、

以前の私ほど反応本音まみれの

人と出会ったことが

ありません。

 

もちろん以前は、

真本音と反応本音という

区別そのものもありませんでした。

 

でもそれにしても

酷かった。

 

私は、心にフタをする

名人でした。

 

例えば、Aさんのことを

憎んで憎んで憎んで・・・

憎み切っていたのにも関わらず、

そういった心にフタをし、

自分で醜い心を見えないようにし、

「自分はなんてきれいな心の

持ち主なんだ」

と本気で思い込んでいました。

 

その頃の私ともし今

出会ったならば、

出会った瞬間に、

「あぁこの人はダメだな。

どんなサポートも効果がないだろう」

と最初からサポートをしない

と決めるでしょうね。

 

それだけ酷い状態でした。

 

これ、本当にマジなんです。

よく

「たけうちさん、そうは言っても

口で言うほどは酷くなかったでしょ」

と言われるのですが、

本当に、マジなんです。

 

手のつけようのない人間、

とは私のことを言うのだと

今でも本当に思っています。

 

そんな私でも

真本音と反応本音の区別が

つくようになりました。

 

ということは、

人類すべての人が

これはできることであると

私は本当に思っています。

 

では、

それだけ酷かった私が

どのようにして

区別がつけられるようになったか?

 

その第一歩目は、

 

「反応本音を隠さない」

 

ということでした。

 

つまりは、

すべての反応本音を

観察する、ということです。

 

やはりここでも

「観察」

は重要なのです。

 

人間誰しも

見たくない心はあります。

 

こんな心が

自分の中にあってほしくない、

あってはならない、

人として。

・・・そう思う心はあります。

 

でも、

どんな心があっても

よいのです。

 

何があってもOK。

というおおらかな気持ちで

自分の心と向き合うこと。

 

これが重要です。

 

重要ですが、

すぐにできるわけではありません。

 

そこでお勧めは、

自分の心の声を

どんどん紙に書いてみる

ということです。

 

「書く」という行為は

かなり強力です。

 

書いているうちに、

フタが外れるのです。

 

勇気を持って

ちょっとだけ醜い自分の心を

書き始めてみると、

まるでダムが決壊したかのように、

フタをしていた心たちが

溢れ出ます。

 

それをそのまま

書き殴っていくのです。

 

私は初めてこれをやった時、

涙が止まらなく

なりました。

 

あまりに酷い言葉の

数々だったからです。

 

自分が書いている言葉なのに、

自分の言葉とは信じられないくらい

酷い言葉たち。

 

情けなくて悔しくて、

惨めで、

本当に人としての自分を

許せない気持ちになりながらも

それでも

書き続けました。

 

するとある瞬間に

フッと

楽になるのです。

 

私はこれをパソコンで

やっていたのですが、

そのあまりに酷い言葉の数々を

印刷し、

印刷したものを

燃やしました。

 

燃えていく紙を見つめながら

私は自分の心が

燃えていくのを感じました。

 

と同時に

さらに心が楽になるのを

感じました。

 

かといって、

次の日からすぐに

心が変わるわけではありません。

 

次の日もまた、

同じように酷い言葉達が

自分の中から溢れました。

 

でも同じく、

すべてを書きました。

 

そして

燃やしました。

 

これを繰り返すうちに、

数日のうちには、

私はかなりおおらかになっている

自分に気づきました。

 

そうか。

こんな気持ち達を持っているのが

私という人間なんだな。

であれば、それはそれで

しょうがないか。

 

というような、

そんな気持ち。

 

さらにそれを続けると、

そのうちに酷い言葉達は

もう出なくなりました。

 

何かが完了した感覚。

 

出し切った感覚。

 

と同時にわかったのです。

「あの酷い心は

確かに私の心ではあったが、

ただ、私の中に溜まっていた

だけのものなんだな」

と。

 

そうです。

心の中に溜まっているもの。

それが反応本音です。

 

もちろん反応本音とは、

悪いものばかりでは

ありません。

 

人としての喜びとか

嬉しさと、幸せとか

前向きな気持ちとか、

やってやろうという意欲とか、

色々なものがあります。

 

でもそれらの全ては

溜まっている気持ち達。

 

吐き出されれば

消えていきます。

 

すべてが吐き出されても

それでも自分の中に

残っているもの。

 

すべてを吐き出しても

揺るがずに

そこにあり続けるもの。

 

それが

真本音です。

 

私は、

自分の気持ち達を書き続け、

吐き出し続けることによって

初めて真本音の存在を

実感できたのです。

 

つづく

 

自分の道を観るのを躊躇している人へ

私達の中にはすでに

決めている道があります。

 

というお話を

前回いたしました。

(→前回記事)

 

ところがその道を

見つめることができない、

という人がいます。

 

その道を

観るのが怖い

のです。

 

観てしまうと

自分は間違いなくその道を

突き進んでしまうだろう。

何の躊躇もなく

その道に入るだろう。

 

・・・ということが

本人にはよくわかっているのです。

だから逆に、

観るのが怖い。

 

観てしまったら、

これまでの人生、

これまで創り上げてきたもの、

これまでの自分

それらすべてを

自分は捨ててしまうのではないか、

という恐れがあるのです。

 

ですので今、

自分の中に道があるなぁ、

という実感を持ちながらも、

しかしそれを観ることが怖くて

茫然と立ちすくんでいる人が

増えています。

 

その気持ち。

 

同じ人間として

私は強烈によくわかります。

 

私もそこで

相当に苦しみました。

 

しかし、

自分の本当の道を観つめ、

そこを進むことを選択した経験者として

お伝えするならば、・・・

 

苦しいのは、

その場所だけです。

 

その道を観つめる

その直前が

苦しいだけです。

 

いざ、

それを観てしまえば

すべての合点がいきます。

 

これまでの自分の人生の

合点がいくのです。

 

なぜ自分は

ここに生まれてきたのか?

 

なぜこのような

人生だったのか?

 

なぜこのような

自分だったのか?

 

すべての合点がいく

のです。

 

そして

何も捨てる必要がないことが

わかります。

 

ただし、

捨てる必要はありませんが、

「手放す」必要のあるものは

ありありとわかります。

 

「手放す」とは

捨てるということでは

ありません。

 

「距離を置く」

ということです。

 

今の距離よりも

もう少しそれを遠ざける

ということです。

 

存在そのものを

捨てたり抹消する必要は

ありません。

 

「距離感」というものは

とてつもなく、と言ってよいほど

大事です。

 

私達の真本音は

すべての物事と

適正な距離をとる

ということを大切にしています。

 

距離感を大切にすることで

調和度合いは

圧倒的に高まります。

 

そういった意味で、

今は何との距離が近すぎて、

何との距離が遠すぎるのか?

がありありとわかります。

 

そしてその修正を

したくなります。

 

間違えてならないのは

「しなければならない」

のではなく、

「自然にしたくなる」

のです。

 

そしてその通りに実行すれば、

もの凄い安心感と

安定感を

得ることができます。

 

その状態で、

「道」に入って行くのです。

 

そして「道」に入れば、

前回記事でも書きましたが、

かつて経験したことのない

充実感を

私達は得ます。

 

常に魂と心が

満たされている状態、

そして、常に

自分の中心からエネルギーが

湧き続けている状態と

なります。

 

そしてそのエネルギーは

他者にもそのまま

照射されます。

 

そのエネルギーを私は

「愛」

と呼んでいますが、

愛のエネルギーを常に

他者に注ぎ続けることのできる

自分となるのです。

 

ですからますます

すべてが調和して

いきます。

 

そういった「現実」が

起こり始めるのです。

 

要するにそれは単純に言えば、

幸せな日々

なのです。

 

ですから、

苦しみは今、躊躇しているその場所

にしかありません。

 

しかと目を開き、

自分の道を観つめれば、

すべてが自然に

動き始めるのです。

 

「道」を歩き始めるのが

普通の状態。

 

人間として極めて

普通の生き方なのです。

 

つづく

 

自分の中には確かに道がある

「直観力」とは

もともと私達誰にも備わっている

当たり前の力です。

 

それを発揮するためには、

私達は人間としての

「普通の生き方」

をすることが大切です。

 

それができていないので、

本来持っている直観力が

発揮されなくなっているのが

現在の私達です。

 

では、

「普通の生き方」を取り戻すために

大事なのは何でしょうか?

 

その最初のキーワードが

『観察』

でした。

 

この「観察」について

前回まで書かせていただきました。

(→前回記事)

 

ここからは次の

キーワードをご紹介します。

 

「普通の生き方」を取り戻す

次のキーワードは、

 

『道』

 

です。

 

私達の中には

「道」がすでに

できています。

 

私達は自分自身の

「道」を

決めているのです。

 

それに一度でも気づいた人は

もう決してその道を

変えることはありません。

 

どんな環境に自分がいようとも、

そこでどのような現実が

起きようとも、

どのような妨害や障害に

遭おうとも、

その道をあきらめたり、

変更することは

ありません。

 

それは

本人にとっては

とてつもなく太く、

まっすぐで

安定して

気持ち良い

これ以上ない「確かさ」を湛えた

道なのです。

 

一瞬でもそれを

感じ取った人は

そのあまりの存在感に

ある意味、

我を忘れます。

 

しかしそれは本当は

「我を忘れる」のではなく

「我を思い出す」

という状態です。

 

本当の自分、

本来の自分を

思い出すのです。

 

あぁなんだ、

これが私の人生だった、

これが

私の生まれた意味だった、

と単純に

思い出すのです。

 

思い出したらもう

そこを進むだけです。

 

間違っていただきたくないのは、

それは、

「あぁこの会社は違ったな」

とか

「この仕事は違ったな」

とか、

そういったレベルの話では

ないということです。

 

どのような会社にいても

どのような仕事に就いていても、

要するに

どのような環境にいても、

その「道」を進むことは

できるのです。

 

むしろ、

「この環境は違う」

とか

「環境が悪いから自分は

自分の人生を歩めないのだ」

と言っているうちは、

決してその「道」は

見つかりません。

 

一人ひとりに必ず

その人ならではの

「道」

はあります。

 

そしてその「道」を

辿ることは、

今この瞬間から

すぐにできることです。

 

その「道」に

気づいた瞬間から

できることなのです。

 

何の難しさも

複雑さも

準備も

必要ありません。

 

そしていざ

その「道」を歩み始めれば、

人生の時間の

一刻一刻は

本当に満ち足りたものに

なるでしょう。

 

なぜならそこには

「自分を生きている」

という実感が

半端ないからです。

 

傲慢ではなく、

本当に心の底から

「世界の中心は自分である」

と思えます。

しかしかと言って、

自分以外の全ての存在が

ありがたくてしょうがありません。

 

「自分」と「自分以外のもの」

という分離は

あるのだけれども、

しかし確かに

すべては一つであると

感じ取ってもいます。

 

つまりそれは

高い次元の自分の意識が

発動しているからですが、

それは

「道」を歩み始めることで

成されるのです。

 

そういった

自分の「道」。

 

これを見つけるためには

やはり、

自分自身を「観察」することが

必須です。

 

特に、自分の心を

区別しながら観察することが

重要です。

 

その区別こそが、

「真本音」と「反応本音」

です。

 

つづく

あなたの心は自由ですか?

目を閉じてください。

 

今、自分が一本の道の途上にいるイメージを

してください。

 

イメージといっても、頭で無理に創り出すのではなく、

自然に浮かび上がってくるイメージを

待ってください。

 

道が見えますか?

 

道の先に目を向けてください。

 

これから自分が進んで行こうとしているその道は

まっすぐな一本道ですか?

 

それは伸びやかに未来に向かって、

淀みなく伸びていますか?

 

それは気持ちの良さそうな道ですか?

 

その道の先には、光がありますか?

 

もしそういった感覚がなければ、

あなたには何らかの修正が必要です。

 

今立っている道が違うかも知れません。

 

もしその道で良かったとしても、

その道の先に障害があるのでしたら、

今はまだ、その障害ときちんとあなたは

向き合っていないのかも知れません。

 

今実際に、どれだけの苦境にあろうとも、

あなたの中から自然に浮かんでくる道が

まっすぐに気持ちよく伸びているのであれば、

必ず現実においてもあなたの道は開かれます。

 

もしそうでないならば、

今、何らかの修正が必要です。

 

さらに問います。

 

そのあなたの道の先には、

大勢の人達の笑顔が待っていますか?

 

それとも、それはあなた一人だけの道ですか?

 

もし、あなた一人だけの道だとしたら、

今の現実においては、あなたは独りよがりな

選択をし続けている可能性があります。

 

これから自分の未来がどうなるのか?

 

それを最もよくわかっているのは、

本当は自分自身です。

 

なぜなら、

真本音で進む未来は必ず実現するからです。

 

実現しないのであれば、

それは真本音の道ではないのです。

 

もちろんそれは短期的な意味ではありません。

 

短期的に見れば、物事が上手くいかないことは

たくさんあります。

それらの経験が、真本音の未来を実現するための

財産にもなります。

 

ただ、心を鎮めて自然に浮かぶ道が

まっすぐではないとしたら、

その道は長期的に見ても、あなたの望む未来は

実現してくれません。

 

今、自分は真本音の道にいるのかどうか?

 

今、自分は真本音の通りに進んでいるのかどうか?

 

それを一番よくわかっているのは、

自分自身です。

 

だから、未来がどうなるのかは

自分が一番よくわかるのです。

 

しっかりと、

今あなたの中にある道を見極めた上で、

自分に降りかかる現実と対峙しましょう。

 

先日、あるクライアントさんがおっしゃっていました。

 

「自由とは、何でしょうね?」

 

その方は、続いてこう言われました。

 

「私は、どれだけ状況が自由であっても

心が自由でなければ、それは自由とは言えないのではないか、

と思うんです。」

 

どのような状況下にあっても

心が自由であること。

 

そんな人はきっと、

常に、心の中では、自分自身の真本音の

一本道に立っています。

 

いついかなる時にも、

心が自由な人こそが、

望む未来を創るのだと思います。

 

平井さんのメッセージを思い出します。

 

社長と平井さんの公開コーチングを初めて

社員さん達の前でさせていただいた時、

(→前回記事)

平井さんは社員さん達に向かって、

こう言われたのです。

 

「みんな、もっと心を自由にしようよ!

みんな、窮屈なんだよ。

以前の私も窮屈だった。

でも、今の私は心が自由だ。

そっちの方がよほど仕事は楽しい。

みんな、心が窮屈すぎて、私はつまらない。

私は心の自由な人達と仕事をしたい。

みんな、もっと心を自由にして、

仕事に取り組もうよ!」

 

これが効いた。

 

もちろん、すべての社員さんに効いたわけではありません。

でも、その時はまだわずか数名でしたが、

この平井さんの言葉が、ぐっと響いた人達がいました。

 

彼らはその後、平井さんの会社の幹部として

大活躍をされるようになります。

 

この日が、“平井チーム”の

スタートでした。

 

つづく