限界

限界

 

自分の限界を

超える

スピードが出た時、

 

私達は

目がくらむ。

 

何も見えなく

なる。

 

見る余裕が

なくなる。

 

現実が

わからなくなる。

 

だから本当は

限界を超えるスピードで

進むことは

無茶であり

やめた方がいい。

 

本当は。

 

でも

それをよく

わかっていて、

 

しかしそれでも

あえて

限界を超えたまま

進もうとする人がいる。

 

実は

私もよくやる。

 

これはあまり

お勧めできないこと

なのだが、

どうしてもそれを

やりたいという人を

 

止める術は

ない。

 

だから一つだけ

アドバイスを。

 

どうせ限界を

超えるのであれば、

 

とことん

委ねてしまえ。

 

何という

無茶なアドバイス、

言えなくもないが、

 

しかしそれが

一番良い。

 

限界を超えて

何も観えなくなると

途端に恐怖が来る。

 

恐怖が来れば

身がすくむ。

そして

変なブレーキが

かかってしまう。

 

それが一番

怖い。

 

限界を超える

とは

まさしく限界を

超えることなので、

 

私達自身にはもう

コントロールは

不可能だ。

 

であればもう、

すべてをその流れに

委ねるのだ。

 

諦めるのだ。

 

どうとでもなれ、

と。

 

開き直りだ。

 

これしかない。

 

これしかなくなるのが

限界を超える

ということだ。

 

だから

興味本位で

やらないこと。

 

しかし、

 

やる以上は

完全に

 

委ねてしまえ。

 

つづく

 

何としてでも止めたいのに

 

正直に言おう。

 

私には

決して癒えることのない

悲しみがある。

 

私自身のこと

ではない。

 

この仕事をしていると、

「止まってしまう人」

どうしても

見ることになる。

 

人が

自分の人生を

止めてしまう。

 

それは

自殺という

わかりやすい例

だけでなく、

 

心も体も

実際には

生きているのに、

しかし

ほぼ死んだのと同じくらいに

 

人生を

止めてしまう。

 

進化を

自ら拒絶する。

 

人生の目的を

破棄する。

 

自分の真の幸せを

放棄する。

 

・・・そう決めて

止まってしまう

人がいる。

 

数としては

ほんの数えるくらいの

ものなのだが、

 

それでも

そのような状態に

なってしまう人を

見ると、

 

それに対して

他者は何もできず、

 

何もできない

という事実を

見ると、

 

私は

あまりにも深い

悲しみに落ちる。

 

そして

わかるのだ。

 

この悲しみは

ずっと癒えることは

ないな、と。

 

・・・・・・

 

今。

 

かつてないスピードで

進む人は

急増している。

 

嬉しいことに、

私のクライアントさん達は

皆、

とてつもない魅力を

高めながら

 

前に前に

進んでいる。

 

しかしその一方で、

クライアントさんの

周りには、

 

まるでその反動の

ように、

 

止まってしまう人が

出る。

 

先ほど書いたように

数としては

ほんのわずかなのだが、

 

それでも、

たまに

そんな人が出る。

 

その人に対し、

もちろん

私のクライアントさん達は

最大のサポートをする。

 

時には

私も直接

サポートする。

 

しかし。

 

人が人にする

サポートには

「限界」

がある。

 

その「限界」とは、

能力的な限界という

意味もあるが、

 

「他者がこれ以上

その人を助けてはならない」

 

という

言ってみれば

尊厳上の「限界」も

ある。

 

もしその「限界」を

踏み越えてしまえば、

 

サポートする側も

される側も、

 

その後に

とてつもない「不調和」が

待っている。

 

例えば、

とてつもない

依存

とか。

 

とてつもない

禍根

とか。

 

とてつもない

混乱

とか。

 

だから、

サポートには「限界」が

あることを知り、

 

その「限界」を

きちんと守ることこそが

真の「サポート」なのだが、

 

でも正直私は

止まってしまう人を

見るたびに、

 

あぁ、私に

魔法が使えたら。

 

思ってしまうのだ。

 

しかも私は

その人の

心と魂の痛みや苦しみを

そのまま

感じ取ってしまう。

 

時には

本人は麻痺して

痛みを感じなくなって

しまっていても、

 

私はその

麻酔薬が切れてしまった

かのような、

 

阿鼻叫喚のような

 

その人の苦しみや

悲しみを

あるがままに

受け取ってしまうのだ。

 

そしてそれを感じる時、

私自身も、

 

あぁこれは

癒えることはないな

 

と実感するほどの

深い悲しみに

落ちる。

 

これは

どうしようもない。

 

私の宿命だと

思って

あきらめている。

 

この悲しみは、

次のエネルギーに

転化できるような

生易しいものではなく、

 

目を閉じれば、

いつも

私の背後にあり続ける

ものだが、

 

この仕事を

始めた時から私は

そこは

あきらめている。

 

この悲しみは

ずっと

増え続けるのだろう。

 

でも

それをすべて

受け入れながら進むのが

私のすべきこと

なのだろう。

 

結局はいつも思うのだが、

 

そう思えるところまで

私は

とことん、自分を

悲しませてあげることに

している。

 

・・・・・・

 

こういうことを

ブログに書くのはどうか

とも思うのだが、

 

なんか今は

書いた方が良い気がして

書いてしまった。

 

かつてないスピードで

進もうとしている人が

急増する一方で、

 

自分の人生を

止めてしまおうとする

人も

 

今は、

 

一人、また一人と、

増えている。

 

私は

これを

止めたい。

 

何としてでも。

 

でも。

 

人間としてできる

ことには

 

限りがあるんだ。

 

私達は

人間なんだ。

 

つづく

 

限られた中でできること

 

残念ながら、

私の体は一つしかない。

 

時間も

一日24時間と

限られている。

 

もちろん、

人としての集中力も

体力も気力も

人並みに限界はある。

 

もう51歳だしね。

 

ところが、

私が一回のコーチングや

研修などで使う

エネルギー量は

年々増している。

 

それだけのエネルギーを

注いでも大丈夫な人が

増えてきたからだ。

 

だから、

今は一日が終わると、

私の生命エネルギーは

ほぼ、ゼロに近くなっている。

 

それを朝までに

復活させるのが

私の夜の仕事の一つだ。

 

残念ながら

眠るエネルギーすら

残っていない。

眠るのには

エネルギーが要るんだよ。

 

だから寝ずして

自分を復活させねば

ならない。

 

こんなことをもう

7〜8年やってるのだが、

ここにきてさらに

私は一日のエネルギー量を

大幅アップさせねばならない。

 

泣き言を言いたい

わけではない。

 

むしろここからはちょっと

傲慢なことを

書かねばならない。

 

私はこれから

お客様を

選ばせていただくことにする。

 

もちろんこれまでも

それはやってきた。

 

私は

私がお客様にしたいと

思える人のみを

お客様にさせていただいて

きた。

 

具体的に言えば、

「この人を、

たとえ無料でも

サポートしたいか?」

と自分に問い、

 

迷いなく

「したい!」

と思える人と

契約をさせていただいてきた。

 

でも残念ながら

今後はさらに

それを絞らねばならない

と思っている。

 

人間としての

私の限界を超えない

ように。

 

というよりも、

ちゃんと私が

生き続けられるように。

 

これは

冗談でも何でもない。

 

切実な問題だ。

 

だからと言って

私は病気でも何でもない。

 

実に健康なのだが、

ただ

一日に使える

エネルギーに限りがある

ということだ。

 

・・・・・・

 

正直、

こんなことをブログで

書くことになるとは

思わなかったが、

 

何となく

書いておいた方がいい

と思うので

書きますね。

 

これから私は

さらにお客様を絞らせて

いただくと思う。

 

絞り方は単純。

 

その人の

「本気度合い」

で決めることにする。

 

もちろんそれは

私の主観となって

しまう。

 

あぁこの人

本気だな。

 

と本当に思える人。

 

そんな人は

周りへの影響も

大きい。

 

そんな人を優先的に

サポートさせていただく

ことにする。

 

こうやって書いていても

傲慢だよな、俺。

・・・と思うのだが、

 

でも、もうこれをしなければ

ならないし、

それをすることが

世の中に対する

「最大の効果」

となるのも

一方ではわかる。

 

どこまで

やっていいか?

 

どこからは

やってはならないか?

 

このギリギリの

見極めの中で、

これから私は

判断をし続けていくことに

なるだろう。

 

私は本気の人を

これまで以上に

徹底的に

サポートしていくことに

なると思う。

 

つづく

 

この世界の限界を超えていこう

3次元の世界に住む

私達の目は、

何かと何かをすべて

分離して捉えています。

 

例えば、

私とあなた。

私とパソコン。

パソコンとマウス。

マウスと書類。

書類とコーヒーカップ。

コーヒーカップとコーヒー。

コーヒーと時計。

時計と壁。

壁と窓。

窓と隣の建物。

・・・

 

すべてが分離され

区別された世界。

 

それがこの

3次元の世界です。

 

ここで私達が見ているものは

すべて

私達の脳が感知している

ものです。

 

脳が感知できないものは

私達は感知できません。

 

そしてその脳そのものが

3次元のもの。

 

3次元世界のための

もの。

 

最近は脳科学もかなり

進んできたようですが、

それでもまだ私達は

脳のことについて

1%も理解できていない

と聞きます。

 

間違ってならないのは、

脳の理解が

人の理解である、

と思い込むことです。

 

あくまで、

脳の理解とは、

この3次元世界の理解に

過ぎません。

 

・・・・・・

 

3次元世界に生きているから

3次元のことを理解できれば

いいではないか。

 

という考え方もあるでしょう。

 

しかし、

私達の実在、つまりは

心の中の世界とは

4次元以上の世界です。

 

最低次元は4次元。

 

そこから

5次元、6次元、7次元・・・

と階層ができています。

 

実は、

そういった数字を当てて

「階層ができている」

という捉え方そのものが

3次元的理解なのですが、

それは

3次元で生きる私達には

3次元での表現の範疇でしか

物事の理屈的理解はできませんので、

致し方ありません。

 

3次元以上のことを

3次元世界において少しでも理解するには

3次元表現をするしか

ありません。

 

ただ、

真本音度合いが高まり

意識の次元が高まることで

頭(理屈)での理解を超えて、

感覚や実感として

私達は4次元以上の世界を

理解できるようになります。

 

それは、

「理解」というよりも

「思い出す」という

表現がぴったりです。

 

そうです。

 

私達は

忘れてしまっている

だけなのです。

この3次元の世界の

中で。

 

・・・・・・

 

実在の世界、

つまり心の中の世界とは

最低次元が

4次元です。

 

そして

5次元、6次元、7次元、・・・

と上がっていって、

最高次元はそれこそ

無限大と言ってよいでしょう。

 

無限大とはつまり、

3次元における数字では

表現しきれない

ということです。

 

それくらいに

私達の心の中というのは

広くて深いのです。

 

それが

人の可能性でもあります。

 

人の可能性は無限大、

とよく言われますが、

本当にそうであることを

私はよく理解できます。

 

ただ、

先ほども書きましたとおり、

3次元に住む私達は

3次元の見方しかできませんので、

その範疇に留まります。

 

つまり

3次元的に考えられる

発想の中で、

さらに3次元的な

「限界」を

自ら設定し、

その中で細々と

生きています。

 

そうです。

 

細々と、です。

 

・・・・・・

 

限界を、

超えましょう。

 

そろそろ。

 

私達は私達の

限界を超えたがって

います。

 

それが私達の

真本音の共通の

意志です。

 

ここまでの世の中は

ほぼすべてと言って

よいですが、

3次元世界の中でいかに

上手く生きていくか?

という3次元発想に

基づいています。

 

人としての

生き方もそう。

ビジネスの仕方も

経営の仕方も

すべて、

3次元世界の中で

いかに上手く生きていくか?

に基づき

開発されてきました。

 

3次元世界における

成功者とは

そのやり方を上手く

実践できた人達です。

 

ただ、

もう誰もがすでに

わかり始めているように、

それらのやり方では

それこそもう「限界」が

きているのです。

 

私達はやり方を

抜本的に

変えていかなければ

なりません。

 

そうしないと

この世界は

どうなってしまうのか?

 

という危機感を

持ち始めているのが

今の私達です。

 

私達は

危機感を

共有しています。

 

しかしその危機感に

対して、

これまでと同様の

3次元的発想で

対処していては、

何も解決できません。

 

これまでの私達は

3次元という現象(現実)の

世界の中で、

3次元的発想によって

生きてきました。

 

しかしこれからは、

実在の世界における

できるだけ高い次元の

意識ややり方を

この3次元世界に

反映させていく必要が

あります。

 

3次元の世界に

高次元のやり方を

持ち込むのです。

 

それによってのみ、

これまで解決できなかった

様々な問題が

一気に解決できる

可能性が広がります。

 

そしてそのやり方は

すべての私達が

心の中ではすでに

わかっていることばかり

なのです。

 

答えはわかっているが、

忘れてしまっている。

 

それだけのこと。

 

忘れてしまっていることを

思い出す。

 

それが私達の

本質的テーマです。

 

高次元の話をしますと、

ついつい人は

「現実とはつまらないものだ」

と考えがちです。

 

しかし

そうではありません。

 

私達はこの

現実世界に生きていますから、

今、目の前にある

「現実」を大切にすることが

私達自身を大切にすること

です。

 

高次元で生きる、とは

現実から離れることではなく、

ますます

現実に向かい合っていく

ことです。

 

高次元の意識で

現実に向かい合い、

高次元のやり方で

一つずつ現実を

変えていく。

 

それが今の私達が

為すべきことです。

 

私はこれまでも

そしてこれからも、

そのためのサポートを

し続けます。

 

そして、

私と同じく

そのためのサポート役を

したいと思っている

人達が今、

増えています。

 

そんな人達に、

「サポートのやり方」

をお伝えするのが、

私のミッションです。

 

サポート役の

サポート役かな。

 

そのための活動を

さらに増やしていこうかと

考えています。

 

つづく

 

自分の可能性は無限? それはハッタリです

このブログをお読みいただいている皆さんは、

自分自身の可能性について

考えたことがあるでしょうか?

 

恐らく、「ある」と答えられる人が

ほとんどだと思います。

 

では、「可能性」とは何でしょうか?

 

可能性とは、無限でしょうか?

それとも、有限でしょうか?

 

今回は、

可能性とは「有限」です、

というお話です。

 

現在このブログでは、

木村さんストーリーをご紹介しています。

(→前回記事)

 

彼はこの後、すごい活躍をすることに

なるのですが、

その彼の活躍の「本質」をお伝えするためには、

その前提として、

どうしても明らかにしておかねばならないことが

いくつかあります。

 

その第1回目が今回である、

という位置付けです。

 

それが、

「可能性とは有限である」

ということなのですが、

ただ、その「有限」の意味が重要です。

 

「有限」という言葉を辞書で調べますと、

「限度・限界のあること」

とあります。

 

私達人間は、自分自身に対して

限度と限界を設ける

という特性を持っています。

 

必ず、自分自身を「枠」にはめるのです。

常に、

今の自分に見合った限度と限界を設定

するのです。

 

これは、私達の真本音の意図です。

 

ですので、よく

「私の可能性は無限です!」

といった言葉を使う人がいますが、

その言葉を放つその人自身の空気感には必ず

不自然・無理

が伴います。

 

つまりは、

ハッタリでそう言っている

ように感じ取れます。

実際に

ハッタリに過ぎません。

 

私達の真本音は、

自分自身に限度と限界を設けることを

非常に大事にしているからです。

 

なぜ限度と限界を設けることを大事にするか?

と言いますと、それは、

自分自身の無限の可能性を発現するため

なんです。

 

なんか、変な言い方になってますが、

これが本質です。

 

つまり、私達人間は、

その時その時の自分に対して的確な限度と限界を

設定することで、結果的に

自分自身を無限に進化させることができる

・・・ということになります。

 

ですから、

今の自分は、自分自身にどのような限度と限界を

設定しているか?

を理解することが、「超」がつくほど重要です。

 

ここを誤ると、

物事の進展が、極めて遅くなります。

 

私達は、自分自身が設定している限度と限界に

即した生き方や、目標設定の仕方をする

ことが大切なのです。

 

つまり、「限度と限界」とは

私達人間にとって、無限の進化を持続するためには

なくてはならないもの

なのです。

 

ですから、次の問いがとても重要であり、かつ

必要です。

 

「私は今、どのような限度と限界を

自分自身に設定しているだろうか?」

 

そして、

 

「私は今、どういった限度と限界の枠の中で

物事の発想をすることが必要だろうか?」

 

という問いです。

 

わかりやすく喩えるならば、

例えば、2歳の幼児がいたとして、

その子に、

「君には無限の可能性があるから

自由に自分のやりたいことを発想して

行動しなさい」

と言っても、危険極まりないし、第一、

本人には意味がわからない

ということです。

 

ですから私達はその2歳の子に枠をはめます。

例えば、公園にその子を連れて行き、

「この公園の中は安全だから、

好きなことをしてもいいよ」

と伝えます。

 

その子は、公園という守られた枠の中で、

自由に遊び、その遊びを通じて、

自分の意志を育てて行きます。

 

要するに、そういうことです。

 

私達の真本音とは、喩えて言えば、

自分自身の「親」であり、「師匠」と言ってもいいかな、

と思うことがあります。

もちろん、真本音とは「本来の自分自身」であるのですが、

「本来の自分」と「今の自分」が

あまりにもかけ離れている場合は、

それは「親」であり「師匠」である、と捉えた方が

受け取りやすくなるケースが多いのです。

 

真本音という「親」「師匠」は、

私達自身を最速で、しかも、一歩一歩着実に

育てようとしています。

 

そのためには、

最初からいきなり、「無限」を提示し、

何の枠もない中で、「自由にしてごらん」とは

決してしないものです。

 

きちんと的確な「枠」を設定し、

その「枠」の中で自分を育て上げ、

その「枠」での「自由」を手に入れたら、

その「枠」を壊し、

さらに大きな「枠」を設定し、その中での

「自由」を学ばせる。

 

・・・そんなことをするのです。

 

ですから、

私達人間に必要なのは、

「的確な枠」

であり、それを最もよくわかっているのが、

私達自身の真本音

だということになります。

 

逆に言えば、

その人は今、的確な枠の中にいるだろうか?

という視点でその人を観察し、

枠が小さ過ぎれば、その枠を外し、もっと大きな枠を設定する、

枠が大き過ぎれば、もっと小さな枠の中にあえて入れる、

というサポートが必要です。

 

そういった的確なサポートができる人こそが、

「コーチ」だと思うのです。

 

特に私は、木村さんにはその視点を

大事にしていました。

 

なぜなら、彼は

「枠設定」

が非常に苦手だったからです。

 

つづく