怒りについて語る

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怒りは

抑えない方が

いい。

 

怒りが湧く

というのは、

人として

当たり前のこと。

 

人生やってれば

必ず発生

するもの。

 

怒りが発生

すれば、

それを開放

すればいい。

 

ただしそれを

単なる反応として

人に向けては

ならない。

 

反応は

次の反応を生み、

反応の相乗効果は

怒りを何十倍にも

増幅させる。

 

そしてその循環から

出られなくなる。

 

それを

怒りの開放

とは言わない。

 

むしろそれは

怒りを閉じ込めている

行為だ。

 

怒りの開放

とは

怒りと向き合う

ことだ。

 

人は

怒りが発生すると

多くの場合

向き合わない。

 

向き合えば

コントロールできる

はずのものが、

向き合わないから

コントロール不可

となる。

 

怒りに任せて

思わず

怒りそのものの行動

や振る舞いに

走ってしまうというのは、

怒りに向き合っていない

ことによる

最も典型的な

現象だ。

 

その人は

怒りに呑まれた

振る舞いをしながら、

怒りから

逃げ続けている。

 

それでは

怒りが開放される

ことはない。

 

怒りはさらに

塊となり、

その人の中に

残り続け、

育ち続ける。

 

怒りの開放とは

真逆の行為だ。

 

・・・・・・

 

怒りとしっかり

向き合い、

自分は今、何に

怒っているのか?

ハッキリくっきりと

知ること。

 

それが

向き合うという

こと。

 

いや、

自分が何に怒っているか?

などは

百も承知だ、

と言う人がいる。

 

でも残念ながら、

それは違う。

 

ずれている。

 

その人が

怒りの原因だと

思っているものとは

ずれているのだ。

 

本当はその人は

そこで怒っている

のではなく、

もっと別のところに

怒りの源泉が

ある。

 

それが見つかって

おらず、

それを放置するからこそ、

怒りは

開放されない。

 

そしてその人は

怒りの塊と

化していく。

 

・・・・・・

 

もちろんこの世の中、

「向き合う」なんて

そんな生易しくない

怒りもたくさんあるだろう。

 

それは充分

承知している。

 

人間の持つ

本当に深い怒りに

私も何度も触れてきたし、

私自身も

そこから抜け出せなく

なったこともある。

 

怒りとは

まるで宇宙のように

無限に深まっていく。

 

でもだからこそ、

私達は

怒りと向き合わねば

ならないのだ。

 

怒りに対して

逃げ腰になることで

私達は

怒りに呑まれる。

 

怒りを愛せ、

とは言わない。

 

ただ、

怒りと

向き合ってほしい。

 

怒りを

まっすぐに

見つめてほしいのだ。

 

・・・・・・

 

すべての怒りが

開放されたとしても、

それでも残る

怒りがある。

 

それこそが

本物の

怒りだ。

 

これを私は

 

『真本音の怒り』

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

真本音と結びついた

怒りだ。

 

そして、

真本音が望む

怒りだ。

 

そういうものが

あるのが

私達人間であり、

 

真本音の怒りには

私は

思いっきり呑まれる

ことをお勧めする。

 

真本音の怒りに

呑まれ、

その怒りに委ね、

 

その怒りに任せた

行動をとれば、

 

すべてが

調和していく。

 

それは大変

勇気が必要なこと

かもしれないが、

 

それでも私は

それをお勧めする。

 

実際に

私はその通りに

している。

 

すると面白いように

すべてが

調和していくのだ。

 

私達の真本音は

「最善の道」

を進もうとする。

 

今、怒ることが

最善の道だと

判断すれば、

その通りにするのが

私達の真本音だ。

 

だから私は

真本音の通りに

淀みなく

まっすぐに

怒る。

 

それが

人を愛することの

一つの形であると

私は

確信している。

 

つづく

 

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