向き合う

向き合う、の本質

 

人生をかけて

一つの楽器を探究し続けている

ある演奏家が

 

その楽器を弾いていると、

 

自分がその楽器を

弾いているのか、

 

自分がその楽器から

弾かれているのか、

 

わからなくなる、

 

という話を

聴いたことがある。

 

つまり、

 

自分と楽器の

区別が

つかなくなるらしい。

 

そうなると

完全に

自分という範疇を超えた

メロディーが

流れ出すらしい。

 

そしてそのメロディーを

聴きながら、

さらに

そのメロディーに

委ね、

 

自分と楽器と

メロディーと、

 

それらの区別が

つかなくなる

らしい。

 

実はこれ、

 

すごくよくわかる。

 

私もコーチングで

クライアントさんと

向き合っていると、

 

よくその状態に

なる。

 

自分と目の前の

クライアントさんとの

区別がつかなくなる。

 

今、語っている

その言葉が、

 

自分の言葉なのか

クライアントさんの

言葉なのか、

 

よくわからなく

なる。

 

しかしそういう時に

こそ、

 

びっくりするような

感動的な発想が

生まれる。

 

だけど、それは

後でそう思うことで、

その時その瞬間は

その発想そのものが

 

自分である、

 

という感覚なので、

そこにその発想が

存在すること自体が

 

とても自然で、

 

そこにその発想が

あるのが当たり前

 

という感覚だ。

 

恐らく私は

その状態こそが、

私達人間が

最も創造性に富んでいる

状態なのだろうと

思っている。

 

楽器と向き合う。

 

人と向き合う。

 

それは本質的には

同じことだ。

 

向き合う

ということには

それ自体に

力があり、

 

それこそが

私達人間本来の

力だ。

 

私達は

向き合うための

存在

とすら思えてくる。

 

向き合わずして

何が人間か、

とすら思うのだ。

 

向き合うことで

私達は

 

「一つ」

 

になる。

 

一つになることで

創造が始まる。

 

ただし、

 

無理に一つに

なる必要はないし、

 

上記で書いたような

相手と自分の

区別がつかなくなる

というところまで

行く必要もない。

 

むしろ、

むやみにそこまで

入り込むことは

しない方が良い。

 

ただ、

 

感覚として、

 

あぁこの人と私は

今、

一つになれている感覚が

ちょっと芽生えてるな、

 

くらいが

ちょうど良い。

 

相手と自分を

ちゃんと分離して

区別している自分と、

 

相手と自分が

それでもどこか

一つになれている

感覚と、

 

その両方を感じ取れる

状態。

 

これが

ベストだ。

 

そしてこの状態には

誰もがなれる。

 

向き合えば

良いだけだ。

 

向き合うことに

慣れればいい。

 

向き合うとは、

意識を相手に

向け続けること。

 

それを真摯に

やり続けるだけだ。

 

つづく

 

また意識が飛んだ

 

最近の私自身の

変化として

自覚しているのは、

 

無我夢中に

なるようになった

 

という

ことだろうか。

 

これまでも

もともと集中力は

かなり高い方だと

思う。

人によく言われた。

 

しかし

コーチングをしている

時とか、

人と向き合っている

時とかは、

 

集中しつつも、

どこか意識が

拡散し、

 

別のところから常に

自分自身を

客観視している

自分がいた。

 

それが私自身の

長所でもあると

思っていたのだが、

 

それが

なくなった。

 

コーチングに

無我夢中に

なるのだ。

 

だから

「時間」を忘れる。

 

コーチングの最中、

自分の

意識が飛ぶ。

 

気がついたら

終わっている。

 

という状態。

 

昔は

こんな感じだった

のかもしれない。

 

でも

昔と今とでは

似て非なるもの

のような気もする。

 

どちらにせよ、

今の私にとっては

 

これはとても

良いこと

 

だと

感じている。

 

プロとして

意識が飛ぶことは

良くないことだと

私はずっと

思ってきたが、

 

今は

まぁ良いかな、

 

自然に思える。

 

それでしか

できないことを

きっと

しているのだろう。

 

人との

向き合い方は

人それぞれだと思う。

 

ベストだと思える

向き合い方を

すれば良いと思うが、

 

「向き合い方

そのものを

進化させよう」

 

という

意志は持ち続けた

方がいい。

 

いろんな向き合い方に

挑戦すると

いい。

 

人と向き合う

とは、

 

自分自身の進化にも

直結するからね。

 

つづく

 

向き合えば突破できる

 

人と向き合って

いると、

 

その人が

どんどん

静かになっていくのが

わかる。

 

まずは

心が静かになり、

 

そして

魂が静かになる。

 

これは別に

私が向き合っているから

という

わけではない。

 

そもそも

「向き合う」

という行為自体に

そういう力がある。

 

人と人は

向き合うもの。

 

向き合うことで

共に生きるように

私達人間はできているな

本当に毎日

実感する。

 

ところが残念ながら、

形だけは向き合いながらも

実は何も向き合っていない、

という関係が

多い。

 

だからみんな

疲弊するし、

 

心が騒がしくなる。

 

そして

いろんなことが

混乱して

何が何やら

わからなくなる。

 

自分を失う。

 

自分を失ったまま

人生も仕事も

進めてしまう。

 

その根本原因は

向き合っていないからだ。

 

つくづく思う。

 

人と人は

向き合うもの。

 

向き合うからこそ

観えてくる答えは

実に多い。

 

向き合えば

すぐに突破できることも

 

向き合わないから

いつまでも

そこでズルズルと

悩み続ける。

 

向き合う関係を

増やしていけると

いいね。

 

向き合う気持ち良さを

思い出せると

いいね。

 

つづく

 

現場で得たこと

 

私は

「現場」

を大事にしている。

 

もう四半世紀近く

「コーチ」の仕事を

しているが、

 

これだけは

ずっと大事に

し続けた。

 

どれだけ理論が

素晴らしくても、

どうしても

机上の空論

というのが

嫌だった。

 

だから

迷ったらいつも

「現場」で

人と向き合った。

 

昔の私は

反応本音がとても

ひどく、

エンティティも

ひどかったので、

 

心が非常に

不安定だった。

 

だからすぐに

自信をなくすし、

自分を見失うし、

 

仕事に出るのが

人と会うのが

とても怖くなった。

 

でも

そういう時こそ

私は勇気を奮って

人に会いに行った。

 

それだけは

昔の私を

褒めてやりたい。

 

内に籠ろうと

してしまう精神状態の

時こそ

 

私は必死に

外に向かった。

 

人と

向き合い続けた。

 

まだ「真本音」という

概念すら見つかって

いなかった頃だが、

 

その時から

私の人生理念は

「向き合う」

だった。

 

それをとにかく

実践し続けたので

今があるのだと

思う。

 

「向き合う」

というのは

人に力やエネルギーを

与えてくるのものだ。

 

恐らく、

生命力の源は

「向き合う」

という行為ではないか。

 

人と人は

「向き合う」生き物

だ。

 

「向き合う」ことを

前提に

創られているのでは

ないか、と

思えるほどだ。

 

組織でも

人間関係でも、

 

そこにいる人達と

向き合えているか

どうか?

 

すべては

そこに尽きる

よく「現場」で感じる。

 

だから私の

サポートの本質の一つは

 

いかに

そこにいる人達が

向き合える状態に

なるか?

 

である。

 

逆に言えば、

 

みんな、

 

向き合ってない。

 

形だけ向き合っている

という人が

多過ぎるのが

 

今の世の中の

大問題点だ。

 

今の世の中の

最重要課題は

 

「向き合う」

かもしれない。

 

私も人生において

様々な課題や

理念が

生まれた。

 

でも

最初の理念は

「向き合う」

出し、

最初の課題も

「向き合う」

だった。

 

そしてそれは

今もずっと

継続している。

 

一生のテーマ

だな。

 

つづく

 

出会ってよかった

 

やっぱり

向き合うかどうかだな

改めて思う。

 

人と人が

出会うのは

ご縁だが、

 

その縁を

本当に生かせるか

どうかは

 

運に任せる

わけにはいかない。

 

せっかく出会った

のだから、

その縁を

宝物として自ら磨く。

 

それをする

唯一の方法が

「向き合う」

だな、と。

 

ちゃんと

目と目を合わせ、

 

意識を

相手に向け続け、

 

自分の価値観とか

考えとかに

執着せずに、

 

その「場」そのものを

大切にする。

 

しかし

自分の価値観も

考えも

必要に応じて

ちゃんと表明する。

 

そして

相手の話を聴く。

 

喋る時も

聴く時も

意識は相手に

向け続ける。

 

そんな基本的な

ことを

一つ一つ丁寧に

続けることで、

 

この人と私は

なぜ出会ったのか、

理屈を超えて

わかる瞬間が来る。

 

その人と私は

何を創造すれば

よいのか、

理屈を超えて

わかる瞬間が来る。

 

その瞬間その場に

吹く風は

実に気持ちよく、

 

そんなときに

つくづく思うのだ。

 

この人と出会って

本当に良かったな、

とね。

 

つづく

 

外へ外へ

 

私達人間は

社会的生き物なんだな

つくづく思う。

 

自分は本当は

何者か?

 

を知るためには、

人と向き合うしか

ない。

 

答えは

自分の内側には

ない。

 

いや、

本当はあるのだが、

それは

人と向き合い続ける

中で刺激を受け、

初めて顔を見せるように

なる。

 

人に向かわずして、

社会に向かわずして、

 

自分を知る

ことはない。

 

それが

私達人間の

本質だ。

 

だから、

自分らしく生きる

ためには、

 

自分らしい

コミュニケーションを

探究する必要がある。

 

「探究」というと

堅苦しいが、

 

要は、

 

どうコミュニケーション

とることが、

本当に楽しいか?

 

を探すのだ。

 

向き合う

とは

楽しいこと。

 

しかも

自分にしかできない

向き合い方がある。

 

それこそが

その人の個性だ。

 

個性とは

人との向き合い方

なんだ。

 

極端に

言えば。

 

だから、

 

迷ったら

人と向き合おう。

 

積極的に

人と関わろう。

 

オープンマインドで

人を感じながら

世界を感じながら

生きよう。

 

すべての答えは

自分の内ではなく、

 

外にある。

 

つづく

 

上手く進めるわけがない

 

物事を

順調に進める。

 

・・・とは、

物事を

ぶつからないように

上手く進める、

ということではない。

 

むしろそれは

真反対だ。

 

物事を

順調に進める。

 

・・・とは、

必要なぶつかり合いを

必要な瞬間に

きちんとする、

ということだ。

 

そこから

逃げるからこそ、

おかしくなる。

 

不調和が起き、

余計に

回り道になる。

 

物事が

順調に進まない

人は、

余計なことばかり

している。

 

余分なことに

人生や仕事の

大半の時間を

費やしている。

 

それは、

ぶつからずに

上手く進もう、

という

ある種の「逃げ」が

根本原因だ。

 

逃げる人ほど

余計なこと

余分なことが

多くなる。

 

断言

できるね。

 

・・・・・・

 

生きる、

とは

関わる、

ということだ。

 

関わる、

とは

摩擦すること

だ。

 

時には

ぶつかることだ。

 

別に

喧嘩をしろ、と

言っているわけでは

ない。

 

ぶつかり合いとは、

エネルギーの

交換だ。

 

エネルギーの

循環だ。

 

そして

向き合う

ということ。

 

向き合うことで

私達は

自分自身の範疇を

超える

発想や行動や

結果を

「初めて」

生み出せる。

 

それが

人間。

 

人間とは

そのように

できている。

 

だから、

ぶつかり合いから

逃げるということは

人間であることを

やめようとする

行為だ。

 

そして私達は

人間なので、

人間らしく生きることが

自分らしさとなり、

それが

幸せの「感覚」として

自分に

押し寄せ続けるように

なる。

 

「充実感」

と言ってもいい。

 

もし毎日に

充実感がないとしたら、

それは

自分自身が

ぶつかり合いから

逃げているからだ。

 

充実感のなさを

他の人や

環境のせいに

している場合ではない。

 

自分の

生き方の

問題だ。

 

・・・・・・

 

もう

いいじゃないか。

 

諦めて

ぶつかっちゃいなよ。

 

どうせ

人生は

ぶつかり合いの

道だ。

 

ぶつからずに

進もう、

ではなく

 

気持ちの良い

ぶつかり合いを

しよう。

 

そのためには、

自らの意志で

ぶつかって

行くんだ。

 

向き合って

行くんだ。

 

つづく

 

人と向き合おう

 

人生を

斜に構えている人は

結構多い。

 

そういう人ほど、

私とは向き合って

くれない。

最初は。

 

だから

ちょっとずつ

近づいて行く。

 

本当に

ちょっとずつ。

 

すると

ある瞬間から、

ほんの一瞬だけ

向き合うことが

できるようになる。

 

でもその一瞬が

できるようになったら

とても嬉しい。

 

その後は

向き合える瞬間が

ぐんぐん

増えて行く。

 

すると

特に私が何も

しなくても、

 

何も

言わなくても、

 

斜に構えていた

その人の姿勢が、

嘘のように

消失していく。

 

人生に対して

素直になる。

 

真摯になる。

 

すると

自ら歩き始める。

 

特に私は

何もしていない。

 

ただ、

できるところから

少しずつ

「向き合う」

ということをしているだけ。

 

これが

「向き合う力」

だ。

 

誰もが

持っている。

 

・・・・・・

 

向き合うというのは、

別に

喧嘩をすることでは

ない。

 

意見を言い合う

わけでもない。

 

もっと言えば、

言葉を発する必要

すらない。

 

向き合うというのは

ただ

「向き合う」

だけだ。

 

しかしそれが

できない。

 

ほとんどの人が

できていない。

 

形だけは

向き合ってはいるが、

本質は全然

向き合っていない

ケースが多い。

 

「向き合う」

とは、

意識を完全に相手に

向けることだ。

 

ちょっと大袈裟に

言えば、

「相手に委ねる」

ことだ。

 

これがお互いに

できるようになると、

その二人のコミュニケーションは

劇的に変化する。

 

居心地の良いものと

なるし、

 

創造的になる。

 

もし、

組織のすべての人が

その状態になれたら、

それはもう

凄いことになる。

 

・・・・・・

 

向き合うことに

慣れてほしいな。

 

誰とでも

向き合ってみて

ほしいな。

 

景色が変わるから。

 

人生が

変わるから。

 

もし人と向き合うのが

怖い場合は、

 

最初は

「物」と向き合って

みよう。

 

例えば、

いつも自分が

使用している鞄とか。

 

意識を完全に

鞄に向け、

 

鞄に自分を

委ねるんだ。

 

わかるかな?

 

いろいろなものに

やってみるといい。

 

・・・・・・

 

向き合わないことで

起きている問題は

非常に多い。

 

逆に言えば、

向き合うだけで

解決することも

非常に多い。

 

だから私はまずは、

向き合う状態を

創るサポートをする。

 

それだけで

多くの問題は

片付いていくが、

 

それでも片付かない

問題は

その後に、

みんなで向き合いながら

対策を考え

一歩ずつ解決する。

 

これが私のサポートの

常套手段だ。

 

・・・・・・

 

もし人生を

好転させたければ、

 

人と向き合う

ことだ。

 

一人一人と

丁寧に

向き合っていく。

 

これなくして

本質的な好転は

ない。

 

つづく

 

迷ったら人に会う

 

人と

向き合えば

向き合うほど、

自らの人生の

道を見出していく、

 

というタイプの

人がいる。

 

ある意味、

「コーチ」に向いている

タイプとも言える。

 

あえて

「コーチタイプ」

という言い方を

すれば、

 

コーチタイプの人は

自分一人では

決して

人生の目的も使命も

ビジョンも

見つからないように

できている。

 

人と向き合い続ける

関わりの中で

ヒントを見出し、

 

かつ、

人の願いをサポートする

という過程の中で

自らのビジョンが

明らかになっていく。

 

自分はコーチタイプかな、

と思う人は

もし人生に迷ったら、

とにかく

人と会うことを

オススメする。

 

そう言えば私も

昔は、

自分を見失ったり、

モチベーションがゼロに

なったり、

絶望感や虚無感に

苛まれた時ほど、

 

ガムシャラに

人に会いに行った

覚えがある。

 

自分の中からは

決して

答えは出ず、

しかし

人との会話の中で

「救い」の手を

差し伸べられたなぁ。

 

誰かから

具体的な答えを

教えてもらうわけでは

なかったが、

 

人と会ったその直後に

ふと、

「気づき」として

欲しかった答えが

観えたりしたものだ。

 

まぁ、今も

ずっと同じか。

 

迷ったら、

人に会う。

 

人から答えを

得ることを

期待するのではなく、

 

向き合う

という行為の連続

によって、

気づきを得る。

 

ということを

試してみてほしいな。

 

つづく

 

すぐに向き合えるわけじゃない

 

人と向き合う

時に、

私が常に大事に

していることの

一つは、

 

その後の展開

すべて

完全に

手放すことだ。

 

つまり、

自分の意図している

方向への

働きかけを

ゼロにするのだ。

 

意識の上では。

 

これをすると、

その場は

「私」という個人の

創り出す

狭く窮屈で

偏った場から

開放される。

 

その場は、

「共に向き合い

共に創る」

という

場となる。

 

すると、

最初は例えば

二人で語り合い

二人の相乗効果で

場は創られて

行くが、

 

その後、

さらにそれすらからも

開放される。

 

ちょっと変な

表現になるが、

 

宇宙の摂理

委ねた場

 

となる。

 

すると、

思わぬ良い展開

となる。

 

だから私は

毎日のように

思っている。

 

なんであんな

展開に

なれたのかな。

 

もう完全に

俺の範疇を

超えた展開だったな。

 

俺の力では

どうにもできない

場だったな。

 

・・・と。

 

個人のコーチング

においても

企業でのミーティング

においても

 

本当に毎日の

ように

そう思えている。

 

だから私は

「痛感」するのだ。

 

人というのは

向き合う存在

である。

 

と。

 

向き合わねば、

人としての価値は

半減どころか、

何十分の1にも

ならないだろう。

 

・・・・・・

 

ただしこの状態が

起こるためには、

その前提として

必須のことが

ある。

 

真本音度合い

の上昇

である。

 

ある一定以上に

真本音度合いが

高まらなければ、

 

そのような

宇宙の摂理に

委ねる場とは

ならない。

 

と同時に、

そこにいる

一人ひとりが

 

まずは真剣に

一人で考える、

という

準備も必須だ。

 

真本音度合いの

高まった人が

前もって

真剣に考えたことを

 

その場で

開放し、

 

自らの意図も

すべて

開放する。

 

これによってのみ、

自分達の範疇を

超えた

創造的な話し合いが

実現する。

 

だから私は

この状態になるために、

まずは

一人ひとりを

サポートする。

 

一人ひとりが

自力で自身の

真本音度合いを

常に高め続けられる

状態にする

サポート。

 

そして、

真本音状態で

思考・発想する

サポート。

 

この二つの

サポートにおいて、

私が最も

重要視しているのが、

 

セルフコーチング法

 

だ。

 

セルフコーチング

の手法を抜きに

その二つの力を

身に付けることは

できない。

 

・・・・・・

 

だから結局

いつも同じ話に

なってしまうが、

 

自分との

向き合い方を

マスターすることが

 

人との

本当の相乗効果を

促す向き合い方を

マスターできる

のだ。

 

企業においては、

とにかくすぐに

ミーティングをしよう、

という風潮に

なるが、

 

私はきちんと

一人ひとりの準備が

整わない限りは

複数人による

発想の場は

「持たない方がよい」

くらいの極端な

言い方をしている。

 

ちゃんと

準備をして

ちゃんと

臨む。

 

向き合う

ということに対して、

もっともっとみんな

真剣になった方が

いいな。

 

つづく

 

本当は、あなたは私なんだ

 

私は私。

 

あなたは

あなた。

 

私と

あなたは

別物だ。

 

という

認識。

 

これがこの世の

常識であり

事実だ。

 

しかし、

本当は

実在のレベルの

次元の高い

ところでは、

 

私はあなた

であり、

あなたは私

であり、

 

すべては一つ

 

だ。

 

しかし

こんなことを書くと

 

「わけがわからない」

 

と思われてしまう

可能性の方が

高い。

 

でもこれは

確かに真実であり、

私達はすでに

これまでの人生で

こういったことを

何度も経験

してきているはずだ。

 

・・・・・・

 

例えば、

共に何かに

熱中している時。

 

大好きなアーティストの

ライブとか。

 

誰かの

応援とか。

 

合唱などで

一緒に歌っている

時とか。

 

そこにいるみんなが

本気を出して

同じものを

共有し、

同じことに

意識を向けている

時などは、

 

自分と周りとの

区別が

つかなくなっている

と思う。

 

皆が

一体化している。

 

例えば、

人と向かい合っている

時。

 

本当に意気投合し、

共感し、

ワクワクしながら

話し込んでいると、

 

自分とその人は

一体化している

はずだ。

 

時間とも

一体化し、

知らぬ間に

何時間も経っている

という

こともある。

 

それが

すべては一つ

となっている

状態だ。

 

これは正確には

「一つになる」

というよりも、

 

「もともと一つだと

いうことを

思い出している」

 

状態だ。

 

次元の高い

状態。

 

これが、

日常において

当たり前と

なったとしたら、

 

世の中は

もっと素晴らしいものに

なると

思えないかな?

 

・・・・・・

 

一つになっている

状態は

 

本来は

特別な状態では

なく、

 

何かに

高揚している

状態でもなく、

 

非常に

静かで

力が抜けていて

普通で

 

自然な

状態だ。

 

実は、

真本音度合いが

高まり、

人としっかりと

向き合うと、

 

いつも

この状態が

当たり前となる。

 

むしろ、

そうでない時の

方が

「珍しい」状態で、

 

違和感を

覚えてしまう。

 

そして、

その状態で

発想される

あらゆることは、

 

とても

創造性に

富んでいる。

 

一人で発想する

よりも

数十倍もの

素晴らしい発想が

生まれる。

 

人と人が

向き合うとは、

 

本来の私達、

つまりは

一つである私達を

思い出す

最も簡単で

自然な方法なのだと

 

私は

思っている。

 

・・・・・・

 

もっと

人と人は

向き合ってほしいな、

いつも思う。

 

でもそれが

できないのには

とても単純な

原因がある。

 

要するに、

 

自分自身と

ちゃんと向き合えて

いないから

だ。

 

自分と

向き合える人は

人とも

向き合える。

 

単純な

ことだ。

 

私が

セルフコーチングの

手法を

多くの方々に

お伝えしたいのは

 

こういった

シンプルな

理由からだ。

 

つづく

 

ちゃんと向き合えば

 

人と向き合って

いる時に

いつも感じるのは、

 

言いようのない

幸福感だ。

 

実はそれは

誰と向き合っていても

同じだ。

 

例えば、

私のことを否定したり

非難する人と

向き合っていたとしても、

 

やはり

同じ幸福感を得る。

 

それは私が

人格者だから

ということでは

ない。

 

それが

「向き合う」

ということの

素晴らしさなのだ。

 

しかし恐らく

こういったことを

書くと、

 

「私には

よくわかりません。

たけうちさんだから

わかるんでしょ。」

 

と思う人も

多いだろうなぁ。

 

でもね。

 

はっきり言うと、

それは

違う。

 

もしこの幸福感を

得られないと

したら、

 

まだ「向き合い方」が

中途半端なんだ。

 

かといって

「幸福感を得るために

私はちゃんと人と

向き合おう」

とは

思わないでね。

 

そのような意図を

持てば持つほど、

向き合い方は

中途半端になって

いく。

 

良い向き合い方の

ポイントは

たったの二つだ。

 

一つは、

 

自分の意識を

しっかり相手に

向け続けること。

 

相手の表情や

息遣いや空気感

などが、

よ〜くわかるくらいに

意識を向け続ける

こと。

 

相手から

何を言われようが、

どんな会話になろうが、

それだけは

やめないこと、だ。

 

もう一つは、

 

自分の心の動きは

自由にしておく

こと。

 

つまりは、

心の中では

どんな心の声が

出ても、

どんな気持ちが

湧いても、

構わないんだ。

 

しっかり向き合う

ためには、

無心にならねば、

 

とか

 

心を白紙状態に

したり、

心の淀みを

無くして

純粋な自分でいよう、

 

などと

思わないことだ。

 

だってそんなの

無理だろう。

 

心の中は

何を考えていても

いいんだ。

 

と、それくらい

自分の心を自由に

しておく。

 

ただ、

意識のみを

相手にずっと

向け続けるんだ。

 

たったこれだけ。

 

これを本当に

しっかり

やってみてほしい。

 

実は私達は、

自分の嫌いな人や

苦手な人には

これを

やらない。

 

そりゃそうだ。

嫌いなんだから。

 

でも、

そんな人にこそ、

勇気を持って

やってみてほしい。

 

すると、

何かが大きく

変わると思うよ。

 

そして

「あるがまま」に

人を観る、

というのが

少しわかるかも

しれないね。

 

まぁこれも

意図しないで

ほしいけど。

 

面白いことに、

長年連れ添った

夫婦や家族ほど、

 

こういったことが

疎かになっている

ケースが

極めて多い。

 

身近な人、

大切な人には、

当たり前に

こういったことを

し続けたいね。

 

「向き合いたい」

というのは、

人の根源的な

本能の一つだと

私は

思っている。

 

人と向き合わない

人は、

どんどん心が

荒んでいく。

 

人と向き合う人は

常に

何かが満たされる。

 

だから

向き合おう。

 

ちゃんとね。

 

つづく

 

疲れた時ほど人と向き合おう

 

変な言い方だが、

 

疲れた時は

仕事をするのが

一番だ。

 

クライアントさんの

エネルギーの高まりを

感じると、

私も凄く癒される。

 

クライアントさんの

エネルギーと

私のエネルギーが

循環を起こし、

 

渦を起こし、

 

その回転が

どんどん速まり、

 

エネルギーが

さらに

高まり合っていく。

 

気がつくと、

疲れが

吹っ飛んでいる。

 

そういう意味では

幸せなお仕事だと

思う。

 

真のエネルギーの

高まりは、

 

地に足をつけた

安定感と、

 

魂レベルの

静謐さと、

 

そして

ユーモア溢れる

遊び心と、

 

それらが

渾然一体となる。

 

そんな人と

向き合ってごらん。

 

本当に

幸せだから。

 

生きている

実感も得られるし、

 

癒される

悦びも感じる。

 

クライアントさんから

私は

そうしてもらえるし、

 

同じことを

私もクライアントさんに

できているのだと

思うと、

 

それ自体が

また嬉しい。

 

ただしこれは

コーチングの仕事に

限ったことでは

ないね。

 

ちゃんと丁寧に

一人一人

一回一回

人と向き合うことで

 

そういった

関係性は

誰もが創り出せる

はずだ、

本当は。

 

人間とは、

向き合うことを

前提として

生まれた存在であると

私は日々、

実感している。

 

だから、

人と向き合わずに

生きている人を見ると、

 

人間としての

悦びの大半を

知らずに生きているように

思えてならないし、

本当に

勿体ない生き方だと

思う。

 

向き合うことの

爽快さを

教えるのが

「コーチ」の役目だとも

思う。

 

元気になってから

人と向き合う

のではない。

 

人と向き合うことで

私達は

真の元気さを

生み出していく。

 

それが

人間の本質だね。

 

つづく

 

開き直って対峙せよ

 

私達は

「今この瞬間」

に生きている。

 

「今この瞬間」

以外の現実は

ない。

 

本当は

実在のレベルでは

「今この瞬間」

とは

「永遠」であり

「すべて」であり

過去も未来も

あらゆるものが

「一つ」になっている

のであるが。

 

しかし

私達の顕在意識は

「今この瞬間」

のみを

「現実」と

認識している。

 

であれば、

「今この瞬間」を

受け入れよう。

 

「今この瞬間」に

自分に起きている

あらゆる状況を

受け入れよう。

 

「今この瞬間」

自分のものに

するのだ。

 

目をつぶったり、

目を逸らすから、

それは

自分と乖離

していく。

 

自分の

コントロール外

となる。

 

「今この瞬間」

対峙せよ。

 

すべての現実

向き合おう。

 

向き合うことで

恐怖を感じたり、

絶望を感じる

こともあるだろう。

 

次の一歩が

まったくわからなく

なることもあるだろう。

 

であれば、

向き合うだけで

いい。

 

わからなければ

ただただ

向き合い続ける

だけでいい。

 

それだけで

「現実」は

自分のものとなり、

 

そこから

自分の人生が

始まる。

 

もう何十年も

人生を生きているのに、

いまだに

自分の人生に

なっていない人が

いる。

 

「今この瞬間」

対峙せよ。

 

私は

厳しいことを

言っているかい?

 

いや、

最も楽な生き方を

言ってるんだけどね。

 

つづく

 

厄介だがシンプルなんだ

 

人は

変われるか?

変われないか?

 

問われれば、

 

やはり、

 

「変われる」

答えるだろう。

 

この仕事を

続けていれば、

絶望的な場面には

幾度となく

出会う。

 

人の

変わらなさ

に失望したことなど

本当に

数えきれない。

 

もうちょっとなのに、

なんであの人は

あと一歩が

出ないんだ。

 

なぜ

そこで逃げてしまう。

 

なぜ

同じことをまた

繰り返すのか。

 

なんでこうも

この人は

変わらないのか。

 

・・・そういった

憤慨や

悲しみや

虚しさは

いやというほど

体験したし、

 

何度体験しても

まるで初めてかの

ように

辛かった。

 

私自身が

本当に

絶望してしまったことも

ある。

 

しかし

その度に、

想定外のところで

「人は変われるのだ」

という

体験をプレゼント

された。

 

人は

変わらない。

 

変わろうとしない

人は

いっぱいいる。

 

でも

やはり、

人は変われるんだ。

 

この印象が

ここまで現場に

い続けている

今の私の真実だ。

 

・・・・・・

 

いつだったか。

 

この人を

変えよう。

 

と意図することが、

その人の変化を

阻害する

という事実に

気がついた。

 

他者による

無理強いの意図は

その人を

頑なにさせる。

 

たとえ

表面上は

無理強いしていなくとも、

心の中に

その意図を持ち続ければ、

それが確実に

無意識レベルで

その人には伝わる。

 

それが

その人を

より頑固にさせる。

 

だからもう

「この人を変えてやろう」

という意図は

いっさい手放すことに

した。

 

とはいえ、

これは大変

難しいことだった。

 

とはいえ、

いつしかそういった

意図を

私はまったく

持たなくなった。

 

もちろん、

口頭では

「この人はどうすれば

変わるか?」

というお話はする。

 

しかし、

実は

私の心の中では

その意図は

完全に手放している。

 

それができるように

なってから、

人が

劇的に変わる瞬間を

目の当たりにする

頻度が

劇的に増えた。

 

人は

面白い。

 

変えようとすれば

変わらず、

 

その意図を

手放せば

変わってゆく。

 

ただし、

意図を手放すのと

何もサポートしない

のとは

まったく別の話だ。

 

人はどうせ

変わって行くのだから

もう何もしなくて

いい。

 

とやってしまうと

また、

その人は永遠に

変わらない。

 

まったく

厄介だ。

 

でも

だからこそ

面白い。

 

・・・・・・

 

人との関わりは

奥深く、

一見、とても

複雑で、

 

しかし実は

極めて

シンプルだ。

 

そのシンプルさ

気づけると

強い。

 

人との関わりで

揺らぐことは

なくなる。

 

しかしその

シンプルさとは

頭での理解では

理屈では

到底説明のできない

ものだ。

 

「感覚」として

身につけるしか

ない。

 

そのためには

多くの人と、

 

人生で

出会う

すべての人と、

 

向き合い続ける

ことだ。

 

まずは

向き合うこと。

 

これがやはり

すべての

スタートだと

思う。

 

シンプルに

人と関われる人を

私は増やしたい。

 

できれば

全人類が

そうなれるといいな

と、

願っている。

 

つづく

 

現実と向き合っているかどうかの判断基準とは

 

なんでみんな

こんな苦しいままで

平気なんだろう?

と、よく思う。

 

心が麻痺しちゃってる

のかな。

 

私は

人と向き合うと

その人の苦しみを

そのまま感じ取ってしまう。

 

その人が

感じているのと

まったく同じように

感じてしまうのだ、

ということに

10年以上前に気づいた。

 

もちろん、

その苦しみの詳細は

わからない。

 

実際にその人に

何が起きているのかも

わからない。

 

でも、

苦しみの感覚は

ありありとわかるし、

それが、

悲しみなのか

怒りなのか

絶望なのか、

 

そして、

それをその人自らが

創り出しているのか、

それとも

誰かから受け取って

しまっているのか、

 

などはわかる。

 

時々は、

その人の

心の叫び声が

聴こえたりもする。

 

「助けてくれ〜!!」

 

と叫んでいる人は

いっぱいいる。

 

にも関わらず、

その人は表面上は

へっちゃらな顔を

している。

 

最初は

それは装っているのかな、

とも思っていたが、

どうも違うようだ。

 

多くの場合は、

自分で自分のその苦しみに

気づいていない

ようだ。

 

「気づかないまま

行けばいいじゃないか」

 

という意見も

あるだろうが、

やはり

そうはいかない。

 

苦しみが

ある限界を超えると、

それは

「病気」に

なってしまうから。

 

それは、

体の病気として

現れることもあるし、

心の病気として

現れることもある。

 

苦しみを

苦しみと

感じることの

健康さ。

 

それを私は常に

訴えている。

 

・・・・・・

 

現実と

きちんと

向き合っているか?

 

という

問い。

 

これを受けて、

向き合っていると

迷いなく答えられる人は

稀ではないか。

 

人は本当は

現実と

向き合えば向き合うほど、

楽になる。

 

しかし

現実には

苦しみの象徴が

たくさんある。

 

だから

目を背けたくなる。

 

目を背ければ

その時点で

現実逃避だ。

 

現実逃避は

多大なストレスを

生む。

 

この状態のまま

人が人を

サポートすることは

極めて難しい。

 

サポートする側の

人間は、

少なくとも

現実とはきちんと

向き合い続けており、

自ら発生させるストレスは

最小限であるのが

望ましい。

 

それができている人を

私は

「コーチ」

と呼ぶ。

 

・・・・・・

 

現実と

きちんと向き合っているか

どうか?

 

その最も簡単な

判断基準は、

 

「自分の家族と

きちんと向き合って

いるかどうか?」

 

・・・だ。

 

家族というのは、

やはり

大事だ。

 

その人の人生の

基盤になる。

 

家族との関わりは

人生との関わり

に反映される。

 

自分の家族と

向き合えていない人が

コーチをやると、

最悪のコーチングになると

言っていい。

 

表面上は

どれだけ素晴らしい

コーチングになったとしても、

根底が

あまりに脆弱に

なるのだ。

 

家族と向き合えていない

コーチは

その時点でもう

本物ではない。

 

・・・・・・

 

どれだけ

セルフコーチングをして

内面を整えたとしても、

 

自分の目の前にある

現実を整えずして

人生は

進まない。

 

その「現実」の

最も基本となるのが

「家族」

だ。

 

例えば、

両親。

 

例えば、

兄弟姉妹。

 

例えば、

妻、

もしくは、夫。

 

例えば、

子ども。

 

関係が

上手くっているかどうか、

ではない。

 

もちろん

上手くいっていることに

越したことはないが。

 

関係が

上手くいっていても

いっていなくても、

 

ちゃんと

向き合い続けているか

どうか、

だ。

 

つづく

 

怒りについて語る

 

怒りは

抑えない方が

いい。

 

怒りが湧く

というのは、

人として

当たり前のこと。

 

人生やってれば

必ず発生

するもの。

 

怒りが発生

すれば、

それを開放

すればいい。

 

ただしそれを

単なる反応として

人に向けては

ならない。

 

反応は

次の反応を生み、

反応の相乗効果は

怒りを何十倍にも

増幅させる。

 

そしてその循環から

出られなくなる。

 

それを

怒りの開放

とは言わない。

 

むしろそれは

怒りを閉じ込めている

行為だ。

 

怒りの開放

とは

怒りと向き合う

ことだ。

 

人は

怒りが発生すると

多くの場合

向き合わない。

 

向き合えば

コントロールできる

はずのものが、

向き合わないから

コントロール不可

となる。

 

怒りに任せて

思わず

怒りそのものの行動

や振る舞いに

走ってしまうというのは、

怒りに向き合っていない

ことによる

最も典型的な

現象だ。

 

その人は

怒りに呑まれた

振る舞いをしながら、

怒りから

逃げ続けている。

 

それでは

怒りが開放される

ことはない。

 

怒りはさらに

塊となり、

その人の中に

残り続け、

育ち続ける。

 

怒りの開放とは

真逆の行為だ。

 

・・・・・・

 

怒りとしっかり

向き合い、

自分は今、何に

怒っているのか?

ハッキリくっきりと

知ること。

 

それが

向き合うという

こと。

 

いや、

自分が何に怒っているか?

などは

百も承知だ、

と言う人がいる。

 

でも残念ながら、

それは違う。

 

ずれている。

 

その人が

怒りの原因だと

思っているものとは

ずれているのだ。

 

本当はその人は

そこで怒っている

のではなく、

もっと別のところに

怒りの源泉が

ある。

 

それが見つかって

おらず、

それを放置するからこそ、

怒りは

開放されない。

 

そしてその人は

怒りの塊と

化していく。

 

・・・・・・

 

もちろんこの世の中、

「向き合う」なんて

そんな生易しくない

怒りもたくさんあるだろう。

 

それは充分

承知している。

 

人間の持つ

本当に深い怒りに

私も何度も触れてきたし、

私自身も

そこから抜け出せなく

なったこともある。

 

怒りとは

まるで宇宙のように

無限に深まっていく。

 

でもだからこそ、

私達は

怒りと向き合わねば

ならないのだ。

 

怒りに対して

逃げ腰になることで

私達は

怒りに呑まれる。

 

怒りを愛せ、

とは言わない。

 

ただ、

怒りと

向き合ってほしい。

 

怒りを

まっすぐに

見つめてほしいのだ。

 

・・・・・・

 

すべての怒りが

開放されたとしても、

それでも残る

怒りがある。

 

それこそが

本物の

怒りだ。

 

これを私は

 

『真本音の怒り』

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

真本音と結びついた

怒りだ。

 

そして、

真本音が望む

怒りだ。

 

そういうものが

あるのが

私達人間であり、

 

真本音の怒りには

私は

思いっきり呑まれる

ことをお勧めする。

 

真本音の怒りに

呑まれ、

その怒りに委ね、

 

その怒りに任せた

行動をとれば、

 

すべてが

調和していく。

 

それは大変

勇気が必要なこと

かもしれないが、

 

それでも私は

それをお勧めする。

 

実際に

私はその通りに

している。

 

すると面白いように

すべてが

調和していくのだ。

 

私達の真本音は

「最善の道」

を進もうとする。

 

今、怒ることが

最善の道だと

判断すれば、

その通りにするのが

私達の真本音だ。

 

だから私は

真本音の通りに

淀みなく

まっすぐに

怒る。

 

それが

人を愛することの

一つの形であると

私は

確信している。

 

つづく

 

オープンな生き方をしましょう

人の声に

耳を傾ける。

 

本当にこれが

できる人は

素敵です。

 

ところが、

傾けているつもりで

まったく人の話を

聴いていない、

という場合があります。

 

というか、

ほとんどがそれです。

 

なぜなら

私達には自分自身の

「解釈」

というフィルターが

あるからです。

 

人が何をどう

伝えようとも、

どうしても自分の

フィルターを通してしまう。

 

これが

私達人間です。

 

能力が高まり、

経験と実績が高まり、

人望が高まり、

・・・そういった状態に

なればなるほど、

いつの間にか、

自分の解釈の権化に

なってしまいます。

 

私自身も本当に

ここだけは

気をつけています。

 

気をつけていても

知らないうちに

裸の王様になっていた

ということが

何度もあります。

 

そういった時、

周りの人達は

決して自分には

反対意見を言いません。

 

ほぼみんなが

イエスマンになります。

 

私は私自身に

反対意見を言ってくれる人が

いなくなった時に

とても注意をします。

 

そして、

常日頃から

私と接してくれている

人達が、

どのような空気感と

眼差しで

私を見てくるか?を

注意します。

 

本当に私といて

みんなは

幸せなのだろうか?

という視点で

できるだけあるがままを

感じ取ろうとします。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングの

素晴らしいところは、

自分自身の心の声に

耳を傾ける

というところです。

 

自分の心の声を

あるがままに聴く

というのは、

実は結構難しいのです。

 

なぜなら

他の人との関係と

同じく、

私達は自分自身の心の声

に対しても

解釈のフィルターを

つけてしまうからです。

 

自分の心なのに、

自分でフィルターを

通すのですよ。

 

ですから、

多くの人達が

自己理解ができて

いません。

 

自分自身のことを

誤解していますし、

現実とは違う

自己イメージを

持っています。

 

自分のことなのに

自分が一番わかっていない、

というのも

私達人間の特徴の

一つです。

 

ですから、

セルフコーチング力が

高まることで、

自己理解が進みます。

と同時に、

そこで培った

「あるがままを受け取る力」

は、

対人関係においても

活きてきます。

 

つまり、

セルフコーチング力の

高い人は、

人とのコミュニケーション力も

高くなるのです。

 

・・・・・・

 

少し言葉を変えれば、

 

自分と向き合うことの

できる人は、

人とも向き合うことが

できる

 

ということになります。

 

「向き合う」とは

あるがままを受け取れている

状態です。

 

そして人生は、

あるがままを受け取れて

こそ、

本当の面白味も

醍醐味も

味わえます。

 

自分の解釈のフィルターを

バリバリに

張り巡られている

ということは、

要するに

自分の世界の中に

閉じこもっている

ということです。

 

自分という狭い世界に

閉じこもったままで

人生を進むのと、

すべてをオープンにし、

広い世界をそのまま

感じ取りながら

人生を進むのとでは、

当然、

人生展開も幸せ度合いも

満足度合いも

根本的に変わります。

 

オープンな生き方を

しましょう。

 

それが自分を

生かすということです。

 

そのためにも

まずは自分と向き合う

ことが大切ですね。

 

つづく

今しか出ない答えがある

セルフコーチング法とは

つまるところ

「自分との向き合い方」

です。

 

「自分と向き合う」

という言葉を

私はよく使いますが、

よくよく考えたら、

「自分と向き合う」

って、

わかるようで

わからないですよね。

 

学校の授業では

そんなことは

教えてくれなかったし、

社会に出てからも

もちろん

誰も教えてくれません。

 

でも私達は全員、

一生涯、

「自分」という人間と

共に歩まねば

なりません。

 

「自分」とはつまり

自分自身なので、

ここにいる自分が

自分で、

他人ではない存在で、

自分とは私のことで、

・・・ん?

 

本当に

「自分」とは私の

ことなのかな?

 

「自分」だと思っている

この存在は、

本当の本当に

私なのかな?

 

そう思い込んでいる

だけではないのかな?

 

「自分」を観ている

この私は

いったい、誰?

 

自分の心を

見つめているこの私は

いったい、誰?

 

「自分」と「他人」を

区別しているこの私は

いったい、誰?

 

「自分」を励ましている

この私は?

 

「自分」を蔑んでいる

この私は?

 

ここでこうやって

考えている私は

「自分」と一致しているのか?

 

・・・というように

わけがわからなく

なりませんか?

 

「心」って

物質なの?

物質じゃないの?

 

物質ではないのなら、

ここに存在している

この私の「心」って

いったい何?

 

私のこの

人格って何?

 

私という存在は

何?

 

そもそも

本当に私はここに

存在しているの?

 

体は確かに

ここにあるけど、

心は

本当に存在しているもの?

 

昨日の心と

今日の心は

変化しているけど、

これはいったい何?

 

なぜ変化するの?

 

変化するということは

別物になるの?

 

昨日の心は

幻?

 

昨日の心と

今日の心は

どっちが本物?

 

もしくは、

そもそも本物なんて

ないの?

 

そもそも、

なんで私は

こんなに悲しむの?

 

なんで私は

こんなに寂しいの?

 

なんで私は

こんなに人を

羨むの?

 

人の幸せを見たときに

生まれるこの

嫉妬心は何?

 

どうして、

こんなに私は

他人と自分を

比べるの?

 

そもそも

他人とは何?

 

自分とは何?

 

比べることで

発生するこの

疲れは何?

 

私はいったい

何がしたいの?

 

あの人はいったい

何がしたいの?

 

何のために

ここにいるの?

 

何のために

関わっているの?

 

何のための

人生なの?

 

何のための

私なの?

 

・・・次々と生まれる

問い。

 

これらの問いに

あなたは

真摯に向き合おうと

思いますか?

 

それとも

面倒ですか?

 

どうして私達の中には

このような

問いが発生

するのでしょうか?

 

・・・・・・

 

私は一つの問いと

出会った時、

その問いに対する答えが

すぐに浮かぶ場合、

その答えを

捨てることにしています。

 

すぐに浮かぶ答えとは、

これまでの自分が

出す答えです。

 

問いに対して、

これまでの自分が

出す答えは

意味がありません。

 

「今の自分」が

出す答えこそが、

今、必要な答えです。

 

答えは

一つではありません。

 

正解も

不正解も

ありません。

 

今この瞬間に

発生する

「最善の答え」が

あるだけです。

 

その

「最善の答え」を

見出すことが

人生においては

とてつもなく

大事です。

 

それは、

これまでの自分、

過去の自分に

こだわっていたり

執着していては

出ないものです。

 

今の自分だからこそ

出せる答えが

必ずあります。

 

それを見つけるのが

セルフコーチングの

本質です。

 

・・・・・・

 

私はあの出来事の

どこに後悔を

しているのだろうか?

 

その問いに対して、

今日出す答えと

明日出す答えは

異なるかもしれません。

 

それで

良いのです。

 

今日しか

出せない答え。

 

今しか

出せない答え。

 

・・・があります。

 

それこそが

重要です。

 

今しか出せない答えは

今しか出せません。

 

それはまるで

人と人の縁と

同じです。

 

赤い糸で

結ばれたような

ご縁のある答え。

 

そんな答えと

スムーズに出会うには、

的確な問いを

的確なタイミングで

投げることです。

 

セルフコーチング力とは

それができる力を

言います。

 

・・・・・・

 

「私」と「自分」は

別物です。

 

そう捉えると

セルフコーチングは

とても面白く

なります。

 

「私」が「自分」と

向き合い、

「私」が「自分」を

より自分らしく

育て上げていく。

 

こんな感覚が

とても大事なのです。

 

つづく

 

自分と向き合う力を養うために

「問うて、待つ」

 

これがセルフコーチングの

基本です。

(→前回記事)

 

それは、

単に「思考する」のとは

本質的に異なる

行為です。

 

「思考する」とは

自分事です。

 

「問うて、待つ」とは

ある意味、

他人に対するコミュニケーション

です。

 

他人に対して

向き合っている

ようなもの。

 

この

「向き合う」

というのが

とても大事です。

 

よく私は

「自分と向き合う」

という表現を使います。

 

これはつまり、

自分をまるで

他人のようにして

客観的に

向かい合うということです。

 

それは、

自分から離れる

ということにもなります。

 

自分からいったん離れ、

離れた場所から

自分を見つめる、

自分の声を聴く、

自分の空気感を

味わう、

ということになります。

 

そこで

ポイントとなるのが、

「意識を完全に向ける」

ということです。

 

・・・・・・

 

「意識を完全に向ける」

 

とは、

どういうことでしょうか?

 

例えば、

目の前にペットボトルが

あるとします。

 

それを見て、

「あぁ、ペットボトルが

ここにあるなぁ」

と思うことは、

意識を完全に向けていることには

なりません。

 

それは単に、

「ペットボトルがあるなぁ」

と解釈している

もしくは、思考している

だけのことです。

 

意識を完全に向けるとは、

そのペットボトルを

よく観察する

ということです。

 

よく観察すると、

細かい部分が

リアルに見えてきます。

 

例えば、

ペットボトルの

ラベル。

どのような色を使い、

どのような文字を使い、

どのような文言が

そこに書かれているか?

 

例えば、

ペットボトルの

形状。

どんな形をしていて、

どこがどのように

でこぼこしていて、

どんな直線があり、

どんな曲線があり・・・。

 

などなど、

ペットボトルの

「あるがまま」が

「事実」として

見えてきます。

 

これを

「観える」

と言います。

 

対して、

「見える」

とは、

自分の解釈の入った

みえ方です。

もしくは、

自分のフィルターのかかった

みえ方です。

 

私達は常に、

あらゆる物事を

自分の解釈や思考や

自分なりの思い込み

(これをフィルターと言います)

を通して

みています。

 

それを普通に

「見る」とか

「見える」

と表現します。

 

「観察」とは

あるがままをみること、

それを

「観る」とか

「観える」

と表現します。

 

「意識を完全に向ける」

とはつまり、

それを「観る」

ということです。

 

・・・・・・

 

そして

「向き合う」とは、

相手を「観る」

ということに

他ありません。

 

何の思考も

解釈も

思い込みも

なく、

何のフィルターも

なく、

ただ、あるがままを

観る。

 

そして、

あるがままを

聴く。

 

そして、

あるがままを

感じる。

 

これが

「向き合う」

ということです。

 

そのため、

「自分と向き合う」

とは、

いったん自分から

離れて、

その上で

あるがままを

観察したり

聴いたり

感じることを

言います。

 

それをするのが

セルフコーチング

です。

 

・・・・・・

 

ですから、

セルフコーチング力を

高めるためには、

「完全に意識を向ける」

練習をすることを

お勧めします。

 

つまりは、

あらゆるものを

観察する練習を

するのです。

 

例えば、

電車に乗ったら、

一緒の車両にいる人達を

観察します。

 

人を観るのが

ちょっと恥ずかしい場合は、

物でもよいです。

 

天井を観たり、

広告を観たり、

吊り革を観たり、

いろんなものを

あるがままに

観察します。

 

私はよく

研修やコーチングの合間に

散歩をします。

 

その時、必ずしているのが

歩きながら

様々なもの、

もっと言えば

「世界」そのものを

観察しています。

 

意識を完全に

「世界」に向けながら

歩くのです。

 

それが非常に良い

ウォーミングアップになり、

研修中も

人に完全に意識を向ける

ことがしやすくなります。

 

あるがままに

向き合うことが

できれば、

そこから得られる情報は

「凄まじい」ものがあります。

 

よく私は

クライアントさんから

言っていただきます。

「たけうちさん、

どうしてそんなことまで

わかるのですか?」

 

その答えは

実に単純です。

 

「あるがままに観ている」

からです。

 

「あるがままに聴き」

「あるがままに感じている」

からです。

 

この

「あるがまま」を

自分自身に対して

できるようになれば、

「自己理解」は

一気に深まります。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングの基本は

「問うて、待つ」

です。

 

これをもっと

正確に表現すれば、

「問うて、向き合って、待つ」

ということになります。

 

ここでどれだけ

向き合えるか?

つまり、

あるがままを

観たり、聴いたり、

感じ取れるか?

が、

セルフコーチングの質を

決めます。

 

ただ、

このように書くと

非常に難しく

感じられるかもしれません。

 

でもやはりこれも

「慣れ」

です。

 

コツさえわかれば、

一気に

セルフコーチング力は

増していきます。

 

自転車に乗るのと

同じ。

 

自転車も最初は

上手に乗れませんが、

慣れればすぐに

片手運転も

できるようになります。

 

慣れるかどうか?

やるかどうか?

だけのことです。

 

つづく

 

愚かでもいいじゃないか

すべての人の中に

愚かさはあります。

 

自分の愚かさを

一番わかっているのは

自分自身だと

言えるでしょう。

 

しかし、

愚かさが限度を超えてしまうと

私達は

自分の愚かさに

フタをします。

 

愚かさに

向き合えなく

なるのです。

 

自分は愚かではない。

自分は愚かではない。

自分は間違ってはいない。

自分は間違ってはいない。

自分は精一杯やっている。

自分は精一杯やっている。

・・・・

 

必死に自分に

言い聞かせるようになります。

 

愚かさを見ずに

前向きに

行こうとする。

 

本当のことを言えば、

これこそが最も

愚かなことです。

 

自分の愚かさにフタをして

前向きに生きる人は、

ほんのわずかな成果に

焦点をいつも当て、

ほんのわずかな成果を

クローズアップさせ、

そこで自己満足します。

 

その成果の影で、

いったいどれだけの人に

迷惑をかけているか、

いったいどれだけ多くの

悪影響を

周りに与え続けているか、

には

まったく目を向けません。

 

残念ながら、

そういう人からは

周りの人の心は離れていきます。

 

しかし誰もその人に

「あなたは愚かだよ」

とは言ってはくれません。

なぜなら、

何を言ってもこの人には

届かないだろう、と

皆、あきらめているからです。

 

孤立無援。

 

愚かさにフタをして

前向きに生きている

つもりになっている人を見ると

私はいつも

この言葉が浮かびます。

 

私達の真本音(魂)は、

自分の愚かさを

責めることは

いっさいありません。

 

「愚かだから自分は

ダメな人間だ」

と自分を評価することも

いっさいありません。

 

真本音(魂)は

ただただ、

あらゆる自分を

見つめ続けます。

 

あるがままの自分を

見つめ続けます。

 

時々、次のような

お声をいただきます。

 

「真本音を大事に

生き始めたら、

自分の愚かさが

どんどんクローズアップされて

苦しくなった」

と。

 

恐らくその人は、

自分の愚かさに

フタをしていたのでしょう。

 

しかし真本音で

生きるようになって、

心の安定度合いが

一気に高まったのでしょう。

 

心が安定したことで、

愚かさと向き合おうと、

無意識に決意を

されたのでしょう。

 

そして、

フタを取り払った

のでしょう。

 

フタの奥から溢れる

愚かさの数々。

 

フタをする度合いが

高ければ高いほど、

その苦しみは

大きくなります。

 

しかし、

これまではただ

フタをしていただけであって

本当はその人は

その苦しみと共に

ずっと生き続けていたはずです。

 

つまり、

麻痺していた苦しみが

顕在化しただけのこと。

 

ですが、

顕在化することで、

すべての苦しみは

徐々に浄化されていきます。

 

自らの愚かさと

向き合う人を私はいつも

「美しいな」

と感動してみています。

 

自らの愚かさと

向き合う人は

自分以外の人々の

愚かさとも

向き合うことができ、

自分以外の人々の愚かさを

許すことができます。

 

人の大きさとは、

自分自身の愚かさと

向き合った度合いで

決まるのではないか、と

私はよく思います。

 

人は

愚かなもの。

 

愚かな部分を

持っているもの。

 

でも、人は

それだけではありません。

 

様々なものを

持つのが

私達人間です。

 

性善説とか性悪説とか

そういったものを超えて、

あらゆるものを

包含できるのが

人としての尊厳であり

人としての凄みです。

 

人は皆、

大きいのです。

 

本当は。

 

でも、

本当は大きいはずの自分を

小さくしてしまうのが、

自分の愚かさを認めないこと、

自分の愚かさにフタをすること、

自分の愚かさから逃げること、

です。

 

人は

小さくなってしまうと

自分自身の真本音すら

信じられなくなります。

 

そして、

愚かさにフタをするのと

同じように、

真本音にも

フタをしてしまいます。

 

真本音は

そのような自分に対しても

抗うことはしません。

 

フタをされたままの状態で、

再びフタを開けてもらえるのを

ただただ

じっと待っています。

 

愚かでも

いいじゃないですか。

 

ダメダメな自分でも

いいじゃないですか。

 

私達が持っている

最大の力の一つは

「向き合う力」

です。

 

あるがままの自分と

しっかりと

向き合ってほしいな、と

私はいつも切に

祈っています。

 

つづく

 

人の中心に何があるか?を知り、生き続けることができました

人の本能の中心には

「進化」

があります。

 

・・・ということを私はよく

言いますし、

このブログでも書いてきました。

 

では、

進化の中心とは

何でしょうか?

 

これを言語化することは

非常に難しいのですが、

現時点でこの世の中で

一般的に用いられている言葉の中で

最も近いものを選ぶとすれば、

 

『祈り』

 

となります。

 

「祈り」と書くと、

途端に宗教チックになったり

スピリチュアルな臭いがしますが、

でもやはり、

最も近い言葉はこれかな。

 

これまでのブログでも

何度も書かせていただきましたが、

私はもともと

ひどい人間でした。

 

いまだに、

かつての私以上に

反応本音やエンティティの凄い人に

出会ったことがありません。

 

かつての私以上に

執着の凄い人に

出会ったこともありません。

 

あのままの私でもし

進んでいたら、

私は間違いなく私の命を

絶っていたでしょう。

 

その場合、だいたいいつくらいに

それをしていたかも

今となってはリアルに

わかります。

恐らく10年以上前に

私は自分が自分でいることに

耐えられなくなっていたと

思います。

 

そんなにひどい私でしたが、

幸いなことに

自分の真本音を実感する

瞬間に出会えました。

 

それ以降、

私は私の人生理念を

「向き合う」

という言葉として設定し、

何があっても

どんな状況でも

自分自身と向き合い続けることを

誓いました。

 

激しい反応本音達。

 

目もくらむような

エンティティ達。

 

(エンティティとは、

ある一定以上の濃度に高まった

ストレスの集合体を言います。

日本語に訳せば、

「生き霊」となります。

そう書くと、怖いですが、

すべての人にエンティティは

あります。常に。)

 

それらと向き合うことは

吐き気をもよおすなどという

生易しいものでは

ありませんでした。

 

でも私はそれを

それこそ取り憑かれたように

毎日続けました。

 

その結果たどり着いたのが

「祈り」

でした。

 

私は私の中心に

確固たる「祈り」があることを

ついに自覚ました。

 

その「祈り」とは

言葉になるものでは

ありません。

 

しかし確かにそれは

「祈り」です。

 

「祈り」は永遠に

続くものです。

 

何かが達成されることで

成就するものでは

ありません。

 

しかしその「祈り」に

触れるだけで、

すべてが満たされる

気がしました。

 

私は

自分自身と「向き合う」のと

同じくらいの真剣さで

私以外の人々と

「向き合う」ことを大切に

しました。

 

多くの方々から

毎日、多くのストレスや

エンティティを

受け取りました。

 

これも私の宿命なのですが、

私ほど、

他者のストレスやエンティティを

自らの中に吸収してしまう人も

まだ一度も見たことが

ありません。

 

その人のエンティティを

受け取ると、

私はその人が苦しんでいるのと

まったく同じ苦しみの感覚を

覚えました。

その人が実際に

何に悩んでいるのか?までは

当然わかりませんが、

その人の苦しみそのものは

感覚として、その通りに感じるのです。

 

これが私の体質でした。

 

100人の研修を行なえば、

100人の苦しみを

私はいつも受け取って

きました。

 

それらとすべて

向き合い続けてきました。

 

向き合うことで

それらはすべて浄化される

のですが、

その浄化をするために

朝まで眠れなかった日など

数えきれないほどあります。

というか、

それが日常化していました。

 

私自身の苦しみ。

 

人間の苦しみ。

 

それらのすべてと

向き合い続けることが

私の宿命なんだと

完全に(良い意味で)諦めたのが

2007年のことです。

 

私には

何もできない。

 

人を救うなんてことは

当然できないし、

世の中をどうとかしようなどとは

おこがましい、の極致だ。

しかし、

私はただ

「向き合う」ことを

し続けよう。

私にできる最大の行為が

「向き合う」ことだ。

 

・・・そう決めて、

とにかく

「向き合う」ことに徹し、

それのみをしよう、と決め、

あとは自分の中から

あらゆる「思惑」や「意図」を

手放しました。

 

するとようやく

実感できたのです。

 

あぁそうか。

 

すべての人の中心に

「祈り」

はあるのだな、と。

 

それは決して言葉にすることは

できないけれども、

それを大切にした生き方の

できている人は

その人の心も人生も

満たされるのだな、

と。

 

「真本音」とは、

その人の「祈り」から

発せられる全意識です。

 

「祈り」に基づいた

生き方をするのか?

 

それとも

それを自ら裏切る

生き方をするのか?

 

それにより、

その人の人生の

「満たされ度合い」は

根底から変わります。

 

どれだけ

現象レベルでの成功を

手に入れても、

その人が自らの「祈り」に

沿わない生き方をしている以上、

その人が真に

満たされることは

永遠にありません。

 

であれば逆に、

自分の「祈り」に基づいた

人生を送ること。

 

「祈り」に基づいた

ビジネスを展開すること。

 

それができれば

どんなに良いだろう。

 

どんなに

幸せだろう。

 

これが私の

サポートのすべてです。

 

人が、

自らの、言葉にならない

「祈り」を実感し、

それを大切にした生き方や

仕事の仕方や

ビジネスの展開が

できるようになる姿は

私のエネルギーの源泉です。

 

そんな人を

一人、また一人と

増やしていきたいというのが

私がここにいる理由の

すべてかな。

 

つづく

 

自分の誤魔化しは、自分が一番よくわかっている

木村さんの「これまでの心と行動のクセ」を

表現すると、以下の二つになります。

 

・「私は常に、一番でなければらない」

・「結局は、私が一番物事をよくわかっている」

(→前回記事)

 

これだけを見ると、自信家であったり

ある種の傲慢さを感じたりしますが、

しかしこの二つの心の根底にあるのは

「不安」

なのです。

 

その不安とは、「自己保身」からきます。

 

もちろん誰もが「自己保身の心」は持っています。

それがない方が不自然ですし、

自己保身そのものは、人間として必要でしょう。

 

しかし、自己保身しているという事実にフタをして

それを自分自身で理解しないままに

自信家としての自分を出す。

 

・・・これは非常に「不安定」です。

 

しかも周りの人達は皆、その不安定さを

何となくわかっています。

 

木村さんが周りからの信頼感を失くしてしまう

最大のクセが現れたと言ってよいでしょう。

 

ちなみに平井さんは、木村さんのことを

「枠の中から出てこないヤツ」

という評価をされています。

 

「自分が一番であり、自分こそが最も

よくわかっている人間だ」

という彼のパターンは、自分以上の人や意見を

目の当たりにすると、

それを潰しにかかります。

そして、

自分自身も決して「これまでの自分の枠」から

出ようとしません。

 

ですから、

「木村は小心者です。

枠から出ようとしないんです。

能力は高いのに」

という評価を平井さんは下しています。

 

しかしその一方で、真本音レベルで見た場合に

「私は、木村にすごく可能性を感じるんです」

という見方も平井さんはされていました。

だからこそ私に、木村さんのコーチングのご依頼をされました。

 

私はアポなしで事務所に現れました。

 

そして木村さんに声をかけました。

「今、少しだけお時間いただけます?」

 

もうそれだけで木村さんは何かを

察知されました。

 

木村さんが怯え始めたのが

すぐにわかりました。

 

大変面白いことなのですが、

いつもいつも私は真本音コーチングをしていますし、

真本音コミュニケーションをしていますので、

そういったコーチングを一度でも体験された方は

私の顔を見るだけで真本音度合いが高まるようです。

 

真本音度合いが高まれば、

あっ、自分は何かがおかしいかもしれない、

と、すぐに感じるようになります。

 

すると中には、

私の顔を見るだけで、罪悪感も発生させる人も

います。

 

木村さんがそうでした。

 

会議室で私は短時間ですが、

木村さんと向き合いました。

 

私が開口一番、

「村瀬さんとのやりとりを平井さんから

お聴きしました」

とお伝えした瞬間に、

木村さんはすべてを合点したようです。

 

「私、やっちまいましたね。」

 

「何をやっちまったんです?」

 

「以前の自分が出ました。

村瀬を私の枠の中に押し込めました。」

 

「そのようですね。

どうしてそうしてしまったかわかります?」

 

「なんか、すごく面白くなかったんです。

村瀬のことを疎ましい、と思いました。」

 

「木村さん、凄いですね。

一瞬でご自分と向き合えましたね。」

 

「いやぁ、お恥ずかしい。

たけうちさんの顔を見るまで、ずっと自分を

誤魔化してました。

自分の中で、あれは正しかったんだ、って

言い訳を続けてました。」

 

「それを続けて、どんな気分でした?」

 

「いや、やっぱり苦しいし、

気持ちが悪かったです。」

 

「そうですよね。

でもその気持ち悪さは、村瀬さんも、そして

他の人も感じてることなんですよ。」

 

「そうですねぇ・・・。

あのミーティングから、チームの雰囲気が

とても悪いです。

みんな、よそよそしい。

あまり会話したくない雰囲気です。」

 

「木村さん、

ここまで人生理念を大事にしてきた木村さんが、

ここで以前のクセを出してしまった理由は

わかりますか?

そのクセが出る瞬間、

どのような心の声が浮かんできたか

わかります?」

 

しばらく木村さんは考え込みました。

あの時の状況を懸命に思い返しているようでした。

 

「・・・あぁ、わかりました。

いやぁ、お恥ずかしい。」

 

「どんな心の声でした?」

 

「“こいつ、俺よりもできるんじゃないか”、でした。」

 

これを聴いた時、私は本当に木村さんのことを

凄い!と思いました。

 

これだけ素直に自分の心と向き合える人は

そんなにはいません。

その心の声を見つけるまでは、大抵はもっと

時間がかかります。

 

「木村さん、自信を持ってください。

木村さんはご自分と向き合う力が高いです。

私が何のフォローもしなくても、

ご自分の心の声を見つけることができました。

これができれば、大丈夫です。」

 

こんなところで褒められると思っていなかったのでしょう。

木村さんはだいぶホッとされたようです。

それによりさらに、

ニュートラルに自分を見つめられるようになりました。

 

「私がもし、私の部下だったら、

こんなヤツは絶対に嫌ですね。

だって、後輩の可能性をどんどん潰していくヤツですから。

平井もそうやって私のことを見ているのかな・・・。」

 

「平井さんの願いはね、

木村さんが木村さんの真本音に素直に生きること、

真本音で仕事をすること、なんですよ。

それができれば木村さんの本当の魅力が出るに違いない、と

平井さんは見ています。」

 

「でも、ついつい以前の自分が出てしまいますね。

難しいねぇ、これまでの自分を壊すのは。」

 

「いえいえ、簡単なことです。

今回、木村さんはご自分で心の声を発見しましたね。

これまでのクセが出てしまうきっかけとなる心の声を。

“俺より、できるんじゃないか”という。

ここまでわかれば8割方大丈夫です。

あとは、この心の声が発生した瞬間に、自分の行動を

止めるのです。

一時停止して、そこで人生理念を思い出してください。」

 

そしてさらに問いました。

 

「木村さん、もしあの村瀬さんとのやりとりの中で、

木村さんの人生理念、“生まれたばかりの無邪気”

を思い出していたとしたら、

木村さんはどんな一言を発していましたか?

あの場面にもう一度戻ったつもりで発想してみてください。」

 

即座に答えが返ってきました。

 

「お前、すげーなぁ、・・・て叫んでました。」

 

「それです、それ!

それでいいんですよ。」

 

つづく

 

否定しなければ、次に進めない時がある

木村さんはフリーズしました。

(→前回記事)

 

恐らく、「自己犠牲」という言葉が

効いたのだと思います。

 

恐らく、その一言は、木村さんの真本音が

最も嫌う一言です。

それをダイレクトにぶち込まれたのです。

 

念のために申しておきます。

 

私はいつもこのようなダイレクトな言葉を投げ続けるような

コーチングをしているわけではありません。

前回記事でも書きましたが、

私はただ、相手の真本音に委ねているだけ、

乗っかっているだけです。

 

その結果、このようなダイレクトなやりとりが

行われました。

つまりそれは、

木村さんの真本音が望んでいるやりとりである

ということです。

 

しばらく木村さんは無言でしたが、

ようやく口を開きました。

少し口調が震えていました。

 

「私に、仕事の仕方を変えろと言われるのですか?」

 

この瞬間、私は

木村さんの真本音が「自分を一気に壊してほしい」

という非常に強い願いを抱いていることを

直観しました。

 

平井さんの時もそうでした。

この会社にいる人達は、潔い人が多いのかな、

と一瞬思いました。

が、次の瞬間、

私は木村さんのその願いにそのまま応えるかのような

やりとりを始めたのです。

 

真本音コミュニケーションの始まりです。

 

木村さんの真本音と、

私の真本音のコラボレーション。

それが、真本音コミュニケーションです。

 

この状態に入ると、

私はある意味、いつも観察者になります。

 

変な言い方ですが、

勝手に私は相手の真本音の望み通りに

動きます。

勝手に口が動き、勝手に言葉を喋るイメージです。

 

しかしそれは何かに取り憑かれてるのではなく

一つ一つのやりとりが確信に満ちています。

 

今はこの一言しかない、

と確信できる一言が私の口から出されます。

 

それを私は、客観的に眺めています。

 

我ながら凄いことを言うなぁ、とか

うわぁ、こんなキツいこと言っちゃって大丈夫かなぁ、とか

いろんなことを思いますが、

それらに関わらず、私は勝手にコーチングを進めます。

 

こんな風に書くと、

まるで超能力のように思う方もいらっしゃるかも

しれません。

それは、たけうちさんだからできることでしょ、と

思う人もいるかもしれません。

 

しかしそうではありません。

 

これが、私達すべての人間が持っている、

本来のコミュニケーションの力です。

 

真本音コミュニケーションという名前をつけているので、

それは特別なコミュニケーションの印象になってしまいますが、

決してそうではなく、

人と人が本当の意味で向き合えば、

誰と誰が行なっても、この状態に自然に入れます。

 

そして、共にこういった状態に入れる人に対して

人は「あぁこの人と一緒に進んでいきたい」と

本能レベルで思えるのです。

 

これが、真のラポールだと私は思います。

 

話をもとに戻します。

 

木村さんと私は真本音コミュニケーションに

入りました。

私は、木村さんを壊しにかかりました。

 

木村さんと壊す、と言っても

木村さんのすべてを壊すわけではありません。

「これまでの木村さんのパターン」を壊すのです。

 

「木村さんの真本音が望んでいないパターン」を

壊すのです。

 

「私に、仕事の仕方を変えろと言われるのですか?」

 

「いいえ、まったくそんなことは思っていません。

ただ、木村さんには、本当に木村さんが望む

仕事の仕方をしてもらいたいと思っています。」

 

「今の私は、本当に望む仕事の仕方をしていないと?」

 

「してますか?」

 

「・・・していません。」

 

ここで、彼は下をうつむき、とても悔しそうなお顔を

されました。

 

「悔しいです。

私は私の仕事の仕方にプライドを持ってやって

きました。

だから、本当に望む仕事の仕方ができている、と

ここで答えられるはずなのに、どうしてもそれができない。

私は、・・・。」

 

木村さんは、私の目をまっすぐに見ました。

 

「私は、今の私に納得していません。」

 

・・・これは完全に木村さんの真本音でした。

この一言を聴いて、危うく私は涙をこぼしそうに

なりました。

 

自然に、私の口から言葉が出ました。

 

「木村さん、

木村さんは、ある意味、平井さんにとって

最高の部下かもしれません。

平井さんのことを一番、理解しているのは

木村さんでしょう。

でもね、木村さん、

あなたが、平井チームのボトルネックなんですよ。」

 

この言葉を、彼はまっすぐに受け止めました。

真本音コミュニケーションだからこそ

できることです。

 

「あなたがボトルネックだということは、

誰かに言われたことではありません。

平井さんももちろん、そのようなことは一言も

言われていません。

でもね、私は確信するのです。

あなたが、平井チームの成長を阻害しています。

間違いありません。

あなたが本来のあなたの仕事の仕方を発揮することで、

平井チームは間違いなく脱皮します。

あなたがそれを止めているのです。」

 

すると、木村さんは驚くべきことを

言われました。

 

「・・・薄々、それはわかっていました。

私は意図的にそれをやっていたのかも

しれません。」

 

こういう時、私は、

人って、本当にすごいなぁ、と思うのです。

 

つづく

 

人が人にパワーを与えるその瞬間

「たけうちさん、ちょっと気になる社員が

いるんですが・・・。」

 

ある日のコーチングで、平井さんがふと私に

言われました。

 

「どうされたんですか?」

 

「鈴村(仮名)のことなんです。

よくわからないのですが、何となく気になります。」

 

「どう気になるのです?」

 

「う〜ん、よくわかりません。

そうですねぇ。

なんか、エネルギーが枯渇しているというか・・・。

表面上は元気なんですが、

なんか不自然さを感じます。」

 

鈴村さんとは、当時27歳の若手男性社員です。

いつも積極的で前向きな印象の方でした。

 

「わかりました。今、彼は社内にいますか?」

 

「はい、いるはずです。」

 

「ちょっと彼の顔を覗いてきますね。」

 

私は事務所に入り、遠くから鈴村さんのお顔を拝見しました。

表面上は彼は普通に仕事をされていました。

が、確かに私も不自然さを感じました。

恐らく、心が弱っています。

何かあったのでしょう。

 

「平井さん、確かに彼には何かありますね。

どうされますか?」

 

「ちょっと今、ここに呼んでもいいですか?

彼の話を聴いてみたいです。」

 

平井さんは事務所に入り、鈴村さんを

呼びました。

 

突然の呼び出しでしたので、彼はちょっと

緊張した面持ちで会議室に入ってきました。

 

「こんにちは。

すみませんね。突然お呼び出ししまして。」

と私が言うと、彼は少し微笑みながら、

「いえ、大丈夫です」と言われました。

 

彼のその声を聴いた瞬間、

私は、彼の心が相当に弱っているのを感じました。

 

平井さんは鈴村さんに静かに問いました。

 

「どうした、何かあったか?」

 

その瞬間、鈴村さんの肩の力が

ガクッと抜けるのがわかりました。

 

しばらく彼は無言でしたが、ポツリと

「なんでわかるんですか?」

と呟きました。

 

この時期はゴールデンウィークの直後。

 

話を聴くと、鈴村さんはゴールデンウィークに

ご実家に帰られたそうです。

そこでお父さんと大ゲンカをし、

勘当をされてしまったようです。

 

もともとお父さんとの関係はあまりよくなかったらしく、

しかしここまで酷い親子ゲンカはこれまでになく、

彼はお父さんから

「お前のような子供が産まれない方が良かった」

とはっきり言われたそうです。

 

「まぁいつものことですから、私は全然気にしてませんが、

そう言われてからまだ日が経ってないので、

まだ私は少し引きずっているのかもしれません」

と鈴村さん。

 

口ではそう言うものの、

今回のことが本当に心の底からこたえているのが

わかりました。

 

私がびっくりしたのは、

その話を聴いた平井さんの目に

涙が溜まっていたことです。

 

「お前みたいないいヤツに、なんてことを・・・。」

と平井さんは言われました。

 

「いやいや、大したことないですから」

と、なぜか鈴村さんが平井さんを慰めることに。

 

しかし明らかにこれで鈴村さんの心が

元気になったのがわかりました。

 

ここで重要なのは、

平井さんは、鈴村さんの心を元気にしようと、

そのためにこういった言葉を投げよう、という意図を

まったく持っていなかったということです。

 

平井さんはただ単純に

「人間発電所として鈴村さんと向き合おう」

(→前回記事)

としただけです。

その結果、自然に出た一言が

「お前みたいないいヤツに、〜〜」

だったのです。

 

ただただ相手に向き合い、意図せずに語る言葉。

 

真本音度合いの高い人がそれをすると、

その言葉はスッと相手の心に沁み込みます。

 

何の意図もないその一言によって

鈴村さんの心にはパワーが蘇りました。

 

「いやぁ、平井さんにはかないませんよ。

大丈夫です。業務に差し支えるようなことはしません」

と言いながら、鈴村さんは事務所に帰って行きました。

 

平井さんは特に、

何の解決もしていません。

 

ただ気になる社員さんを呼び、

向き合い、

思ったことを口にした、

それだけです。

 

それだけで、社員さんの心にパワーが

宿りました。

 

まさに「人間発電所」の本領発揮でした。

 

この仕事をしていて、私はよく思います。

 

私達は、人のために「何かをしてあげよう」と

思い過ぎではないか、と。

 

何かをして「あげよう」。

 

その時点ですでに、それは傲慢ではないか、と。

 

でもその一方で、

他者だからこそできる関わり方があります。

他者だからこそできる向き合い方があります。

 

それをただただ真本音に素直にするだけで、

人と人はエネルギーを高め合うことが

できるのではないでしょうか。

 

それこそが人の本来の力。

 

「人間発電所」とは平井さんの言葉ですが、

私はすべての人が「人間発電所」になれるといいなぁと

この時は思いましたね。

 

つづく

 

循環が見えれば大したもの

誰もが自分のことを

あるがままに知ることは

怖いです。

 

同様に、組織の実態を

あるがままに知ることは

立場が上の人になればなるほど

怖いです。

 

しかしそれを見つめる勇気を

持たなければ、

人は望む人生を生きることは

できませんし、

組織も望む未来を築くことは

できません。

 

平井さんがなぜ、

本来の自分を取り戻すことができたか?

 

それは、自分の心を

あるがままに勇気を奮って

見つめたからです。

つまりは、

自分と向き合ったからです。

 

そしてその結果彼は、

人とあるがままに向き合うことも

組織とあるがままに向き合うことも

できるようになりました。

(→前回記事)

 

ある時から平井さんはとても面白い表現を

されるようになりました。

「たけうちさん、

今、あの部署の循環が悪いように

思うんですけど」

とか、

「我社の全体的な循環は今は

とても良いですね」

とか。

 

「循環」という言葉を使うようになりました。

 

一見、わかりづらいですが、

でも、平井さんの言いたいことは実によく

わかります。

 

人間に「気の循環」や「血液の循環」があるように、

組織にも何かしら循環しているものがあります。

 

気持ちよく循環できている時は、

組織は非常に健康的ですが、

循環が滞ると、あちらこちらに問題や確執が

起こります。

 

組織をあるがままに見つめるようになった

平井さんは、

何か具体的な問題が起こる前段階の

わずかな「循環」の変化を

察知できるようになったのです。

 

なので、

「たけうちさん、◯◯部の循環、

今、どう思いますか?」

「そうですね。

ちょっと滞り気味ですね。」

「やっぱりですか。

誰が、滞りの原因でしょうか?」

「AさんとBさん辺りのような

気がしますが、どうですか?」

「なるほど、であればきっと

Bさんだな。」

・・・みたいなやりとりが

普通に行われるようになりました。

 

そして問題が起こる以前に

何らかの手を打つのです。

 

手を打つ、というのは大仰なことを

するわけではなく、

例えば、平井さんがBさんに声をかけてみたり、

面談をしたり、

私が単発のコーチングをしたりします。

 

もしくは、可能であれば、

Bさんの役割を少し変えたり、

グループを変えたりします。

 

できるだけ簡単な方法で、かつ

有効な方法を相談して決めます。

 

目的は、

「循環を良くすること」

です。

 

・循環さえ維持しておけば、

組織というのは、ある意味勝手に

成長していくものだ。

 

・成長させようとして無理に引っ張るよりも、

良い循環を保つことの方が、

結果的には効率が良い。

 

これが平井さんの発見でした。

 

あるがままに自分と向き合えば、

あるがままに人や組織と

向き合えるようになり、その結果、

これまで見なかったものが

見えるようになる、ということですね。

 

平井さんの場合はそれを

「循環」と表現しましたが、

表現の仕方、感じ取り方は

人それぞれでしょう。

 

大切なのは、

人や組織への感受性を

養うこと。

 

感受性が豊かになれば、

組織活動はもっともっと

楽しくなるでしょう。

 

つづく

 

自分の口から驚くべき一言が

平井さんにとって、

社長と向き合うことがいかに怖いことか?は

同じような経験をした者として

非常に理解できます。

 

しかしその怖さを乗り越えて、

いえ、正確には、怖さすらそのまま抱きながら、

彼は社長のもとに向かいました。

(→前回記事)

 

以下は、後に平井さんと社長のお二方から

お聴きした内容です。

 

それまでの平井さんは、社長とお話をする場合は必ず、

事前にメールにてアポイントを取っていたそうです。

それは、平井さんの社長への気遣いだったのですが、

この時は違いました。

彼はいきなり社長のもとを訪れ、

「今から、ぜひお時間いただけませんか?」と

お願いしたそうです。

 

後に社長にこの時のお話を聴くと、

これまで見たことのない迫力で、

平井さんが迫ってきたそうです。

その顔を見た瞬間、これは只事ではない、と直観し、

時間を取ることを決めたそうです。

 

実はこれは後でわかったことですが、

この時、社長に予定が入っていなかったというのは

平井さんの勘違いで、

社長には別のアポが入っていたそうです。

ところが、社長はそのアポをリスケして、

平井さんとの面談を選んだそうです。

アポのリスケは、社長が最も嫌うことの一つでした。

大変、珍しいことです。

 

でもそれをさせるくらいに、

平井さんの迫力が凄かったのでしょう。

 

とはいえ、平井さんは社長と向き合い、

そこで自分が何を喋るのか、まったく自分でも

わかっていませんでした。

ただ、「今、向き合わなければ」という確信のみが

あったそうです。

 

誰もいない会議室で

お二人は向き合いました。

社長はただ黙って、

平井さんが喋るのを待っていたそうです。

 

実は私はすでに平井さんに

真本音コミュニケーションをやり方をお伝えして

ありました。

相手に意識を乗せ、相手に委ねることで

それは自然に成されることを。

ただしそのためには、平井さんご自身が

真本音状態でなければなりません。

 

平井さんはとにかく必死に

社長に意識を向けたそうです。

社長のお顔をじっと見つめたその瞬間、彼は

自分は社長の顔を初めてあるがままに見たのではないか、

と思ったそうです。

 

と、次の瞬間、平井さんは自分の口から

驚くべき一言が出されたのを聴きました。

 

「社長、私はこの会社の社長になりたい!」

 

これは、そう告げた平井さんご自身が

本当にびっくりされたそうです。

俺は一体、何を言ってるんだ?と困惑し、

慌てて訂正をしようとさえ思ったそうです。

 

ところが。

 

その後、湯水のように平井さん口から

言葉が溢れたそうです。

それはまるで他人が自分に乗り移り、

自分の体が乗っ取られたような感覚だったそうです。

 

しかし、それこそが平井さんの本心。

本当の平井さんの発する言葉達でした。

真本音の言葉達でした。

 

「社長、私はこの会社の社長になりたい!

でも、これまでの私ではなれません。

これまでは、私は自分をずっと偽り続けてきました。

社長をも偽り続けてきました。

自分の本心とは違うところで、社長に評価されるためだけに

私はやってきたんです。

これを見てください。」

 

と言って、彼はなんと、社長への罵詈雑言を綴った

パソコンの中身をそのまま社長にお見せしたのです。

 

後からこのお話を聴いて、

さすがの私も冷や汗が出ました。

これはまったくの想定外。

でもやはりこれも平井さんの真本音の行動でした。

 

社長は黙って、その罵詈雑言達をしっかりとすべて

読まれたそうです。

 

「社長、これが私の真実です。

私はこの気持ち達をずっと自分の中に抑えて

仕事をしてきました。

酷い人間でした。

でもこれらの気持ちを解放したら、

初めて、私はこの会社を本当に愛していることに、

社員達を本当に愛していることに気づきました。」

 

その後も平井さんの想いは

溢れ続けたそうです。

 

これまで平井さんが、ご自分の想いをこのように

躊躇なく口に出したのは初めてのようです。

これまではどちらかと言えば、不言実行タイプ。

決めたことは着実に実行されてきた人なので、

逆に、これらの想いには説得力がありました。

 

後に社長は、

「正直、あのパソコンの中身を見せられた時は

ギョッとしました。

コイツは病気ではないか、と思ったくらいです。

でも、長年の彼の行動を私は見てきました。

あれだけ会社に尽くしてくれた彼だからこそ、

私はしっかりと彼の話を最後まで聴こうと

その時、思いました。」

 

そして、

「彼の想いを初めてあれだけたくさん聴いたと

思います。

単純に嬉しかったですよ。

一言一言が胸に響きました。

だからこそ私はあの時、彼に厳しく言うことができました。」

 

平井さんの想いの数々を聴いた後で、

その時、社長は次のように告げられたそうです。

 

「君の気持ちはわかった。

では、その気持ちを行動と成果で見せてくれ。

その気持ちに見合う成果が生まれれば、

君はこの会社の社長になれるだろう。

しかしそうでなければ、君に社長の資格はない。

君の気持ちを聴くのは、今日限りにしよう。

これからは、成果ですべてを示してほしい。」

 

その瞬間でした。

 

「私の中にシュッと一つの中心軸が

通った気がしたんです。

自分の頭のてっぺんからつま先まで、

まっすぐな筋が通った感じがしました。

あぁこれが、覚悟を持った状態なんだと

思いましたね。」

 

その次の日からの平井さんは

ありとあらゆる行動が変わったそうです。

 

彼の新しい人生が

始まったのです。

 

つづく

 

今が人生を変えるとき

平井さんにとっての社長は、

ある意味、「すべて」でした。

(→前回記事)

 

「私は、社長と出会ったその瞬間から、社長を尊敬しています。

彼の人柄も経営のやり方も、本当に尊敬に値するものです。

それは今も変わっていません。」

と平井さん。

 

しかし、

「尊敬するがあまりに、私は彼の

”寄生虫”

になりました。」

 

“寄生虫”。

 

何もそこまでご自分のことを酷く言わなくてもいいのに、

と思うのですが、

しかし、これは後の彼(本来の自分を完全に取り戻した彼)

から出た言葉です。

 

彼は、以前の自分のことを、”寄生虫”と

表現しました。

 

「私は昔から、自分が依存したい人を探し出し、

それを見つけると、まるで寄生虫のように取り付く

という人生を繰り返してきました。

最初に寄生したのが母親です。

私は、母の言いなりの自分になっていましたが、

それは私が母に寄生していたのです。

確かに母にも問題はありましたが、

これは私が自分で行なっていたことです。」

 

平井さんは、必ず自分が依存する人を見つけ、

寄生虫のようにその人の血や養分を吸い、

自分のものとし、

しかし本来の自分はどこかに捨ててしまった状態で

生きてきたのだそうです。

 

社長もその一人。

 

「私は寄生虫のように生きることこそが

最も楽な生き方だと思い込んでいたようです。

本当はそれこそが最も苦しい生き方なのに。」

 

本来の自分を取り戻してからの平井さんは

過去の自分の生き方が

ありありと見えてきて、そんな自分を

嫌悪しました。

 

しかしその「自己嫌悪の自分」すらも観察することで、

それを存在承認し、愛し、

すべてをあるがままに受け取ることができるように

なりました。

 

”寄生虫”とは、そんな平井さんが

ご自分を評して出された言葉です。

かなりキツイ言葉ですが、

それをお話しされた時の平井さんは

笑顔でした。

「まったくコイツはどうしようもないヤツで・・・」

と笑いながら、自分を指差しながら語る彼を見て、

私はつくづく、この人は凄いなぁ、と

感嘆しました。

 

話を戻します。

 

平井さんは社長に”寄生”していました。

それは完全なる依存状態でしたから、

寄生虫は、寄生している相手から捨てられることを

極度に恐れます。

 

その恐れを振り切りながら社長と向き合う勇気が

最初は平井さんには出ませんでした。

 

彼は正直に私におっしゃいました。

「部下のことは、ありありと観察することができますし、

しっかりと向き合うことも抵抗はありません。

でも、社長と向き合うのは怖いです。

自分の意見をはっきり伝えることで、

私は社長からの評価を失うのではないか、

社長から捨てられるのではないか、

と思ってしまいます。」

 

しかしそういった恐れを抱く自分自身をも

平井さんは観察されました。

そんな自分の心の声をパソコンに打ち続けました。

 

そしてある時、また平井さんは真本音状態と

なりました。

 

私はその瞬間を捕らえて、

彼に問いました。

 

「平井さん、

平井さんは社長に対して何をされたいですか?」

 

「私は、彼と向き合いたい。

私は彼と本当に向き合ったことは一度もありません。

私にとっては、教祖様なんです。

しかし、この関係を続けていては、この会社に未来は

ありません。

私は、彼と向かい合い、今後の経営の方向性や

私自身のリーダーシップについて、

彼と語り合ってみたいです。」

 

私の体の中心は、いつものように

ゾワゾワと痺れました。

 

「では平井さん、それをいつしますか?」

 

「この後、すぐします。」

 

「えっ? すぐですか?」

 

「はい。今が一番いい気がします。

今の私は、社長に何をどう話せばよいか

まったくわからない状態です。

だからこそ、良い気がします。

私のあるがままを彼にぶつけてみたいのです。」

 

「平井さん、怖くありませんか?」

 

「怖いです。笑」

 

「私も同席しましょうか?」

 

「いえ、これは私が一人でやらなければならないことです。

怖いですが、これをすれば私の人生は変わりそうです。

今、すぐに行きます。

社長は今なら事務所にいますから。」

 

なんと平井さんはコーチングを中断し、

そのまま社長のもとへ向かいました。

 

その日はたまたま、と言いますか、

こういうのを「必然」と言うのでしょうか、

平井さんも社長もこの後の予定が何もない状態でした。

滅多にないことです。

 

部屋を出る時に、平井さんは私に向かい、

「たけうちさん、怖いです。

でも、この怖さを拒絶せず、これを持ったまま

社長と向き合ってみます。」

と言って、笑いました。

 

真本音の風。

そういった言葉が浮かぶくらい、

私は平井さんから「風」を感じました。

それはとてつもなく清々しいものでした。

 

この人は本当に凄い。

 

と思ったのと同時に、

人間って本当に凄いなぁ。

と私は呟いていました。

 

つづく

 

リーダーする気がなくなりました

私は、愛とはエネルギーのようなもの

だと思っています。

 

愛というエネルギーに溢れている人は、

どのような言動をしても、

恐らくそれは愛に満ちたものとなるでしょう。

 

逆に、愛というエネルギーを全く発さない人が

どれだけ自分の言動で愛を伝えようとしても、

それは非常に伝わりにくいものとなるでしょう。

 

「私は人を愛せるような人格者じゃないですよ」

と本人は本気で言いながらも、

実に愛に溢れた空気感を醸し出している素敵な人を

私はたくさん知っています。

 

さて、平井さんです。

(→前回記事)

 

平井さんは毎日、自分の中から自然発生する

自分の気持ち達(心の声)を

そのまま書く(平井さんの場合はパソコンに打つ)

ということが日課となりました。

 

このように自分の心を存在承認することは

セルフコーチングの基本です。

 

存在承認とは、愛の基本ですし、

存在承認することは、イコール自分自身と向き合う

ということでもあります。

 

そして自分としっかり向き合える人ほど、

人ともちゃんと向き合うことができるようになります。

 

さらに二週間ほどが経ったとき、

平井さんは次のようにおっしゃいました。

 

「たけうちさん、最近私は人のことが

ありありと見えるようになってきました」

と。

 

逆に言えば、これまでの平井さんは

「人をまったく見ていなかったんだなぁ、

ということがわかりました。」

 

そして非常に興味深いことを言われました。

 

「たけうちさん、

私はこれまで、皆のリーダーとしての自分を

いつも前面に出してきました。

皆を引っ張ろうとしてきました。

でも皆のことがありありと見えるようになったら、

その意欲がなくなってしまったんです。

これは職務放棄につながってしまうのではないでしょうか?

皆にはリーダーが必要なのに。」

 

「平井さん、

それは、リーダーをやりたくなくなったのではなく、

これまでの自分のリーダーシップを

変化させたくなったのではないですか?

これまでとは違うタイプのリーダーに

なりたがっているのでは?」

 

平井さんは少しの間、無言でしたが、

 

「私は確かに、リーダーをやりたい」

と呟きました。

 

私の体の中心がゾワッとしました。

真本音の言葉を聴いた瞬間のいつもの感覚です。

平井さんは真本音ではやはり、

リーダーをやりたいのです。

 

「平井さんご自身は、

どんなリーダーになれると嬉しいですか?」

 

「私は、皆を主役にしたい。」

・・・即答でした。

 

即答しながら、平井さんご自身が驚いていました。

「私は、そんなことを考えてたんですねぇ。

でもそれが、本当に私がやりたいリーダー像かも

知れません。」

 

平井さんから一つ目の真本音の願いが

出たのです。

それは、

「皆を主役にするリーダーになる」

でした。

 

後に、この時のことを振り返り、

平井さんは次のようにおっしゃっています。

 

「あの時から私は、皆を本当によく観察するように

なりました。

そうしたら、皆に対する印象が変わった、・・・というよりも

ひょっとしたら人間観が変わったのかも知れません。

私は、部下を私の色に染めることをいつも考えてました。

・・・いえ、当時は私の色なんて本当はありませんでしたから、

要するに、社長の色に染めることを考えてたんですね。

でも、人をありありと観察していたら、

なんだ、何かの色に染める必要はないんだ、

みんなそれぞれ個性的な色を持っているじゃないか、と

そう思えたんですね。」

 

そこからのコーチングは楽でした。

なぜなら、目指す方向が見えてきたのですから。

あとはそれを目指して進むだけ。

 

ただし、平井さんにとって

それでも大きく立ちはだかる壁がありました。

それが、「社長」でした。

 

つづく

 

自己愛と本当の愛は真逆だ

平井さんはついに、

「これまでの自分」を壊しにかかりました。

(→前回記事)

 

そのためのきっかけとして、

自分自身に「自己愛」という一言を投げました。

 

「自己愛」とは、

これまでの平井さんを一言で表現した言葉です。

 

平井さんは自分自身を、ずっとそういった目で

見ていたのです。

それが「何となく」無意識に抱いていた自分像でした。

つまり、これまでの自己イメージです。

 

それをそのまま自分にぶつけることにより、

内側から自分を壊そうとしています。

 

自分の最深奥にあった自己イメージを

浮上させたことにより、次に起きたのは、

これまで自分がフタをし続けてきた自分の気持ち達です。

 

それは、自分が最も見たくない気持ち達。

平井さんの言葉で言えば

「邪悪な自分」

です。

 

平井さんの心の中に突然、

無数の台風が一気に現れたようなものです。

しかしそれらは、本当は

最初からそこにありました。

それらを平井さんは「何もない」ものとし、

必死にフタをし続けていたのです。

見ないようにしていたのです。

 

それにどれだけのエネルギーを使っていたか?

それは測り知れません。

 

そしてそこで使っていたエネルギーを

人生を前に進めることに使っていたら、

本来の自分として生きることに使っていたら、

平井さんの人生はどうなっていたでしょうか。

 

夜中に平井さんからお電話がかかってきた時に、

私が平井さんにアドバイスしたのは、

浮かび上がってくる「邪悪な自分」を

とにかくすべて紙に書くことでした。

 

出てくるものを、すべて書く。

それはパソコンに打ってもよいです。

平井さんはパソコンで行なったようです。

 

後に、私はその平井さんの書かれた

「邪悪な自分」の発する言葉達を

拝見しました。

 

それはもう酷いものでした。

 

一番多かったのが、

社長に対する恨みの気持ちでした。

ものすごい勢いで、社長を批判し、反発し、罵り、

言葉で殺そうとしていました。

それは社長に対してだけでなく、

平井さんが最も大切にされていたご家族に対しても、

友人知人に対しても、

過去に出会ったあらゆる人達に対しても、

同様に、ものすごい言葉達が書かれていました。

 

平井さんが私にお電話された日は、

彼は朝までかけてそれをやり続けました。

涙が止まらなかったそうです。

自分はなんて酷いことを考えていたのだろう。

自分はなんて酷い人間なのだろう。

その情けなさに襲われながも、平井さんは

自分の気持ち達を書き続けました。

 

最初の一晩が一番きつかったそうです。

 

しかし、一晩がんばったことで、

平井さんはこれまでに体験したことがないくらいに

心がスッキリされたそうです。

 

しかし、「邪悪な自分」の浮上は

一晩では収まらず、日中でも時々溢れてきたそうです。

しかしその度に、5分くらいずつ時間をとり、

ご自分のパソコンにそれを書き続けました。

たった5分でもそれをすると、

非常にスッキリされたそうです。

そして、夜には腰を落ち着かせて、

家でまたそれをする。

それを彼は約一週間続けました。

 

その一週間後に、私は彼にお会いしました。

 

一目、彼を見て、予測されていたこととは言え、

ちょっとびっくりしました。

 

まるで憑き物が落ちたかのように

彼のお顔がスッキリされ、

穏やかだったからです。

 

これは本当にしっかりと

自分自身と向き合ったのだな、と

わかりました。

 

コーチングの最中も、彼は

「あっ、たけうちさん、邪悪な自分、出てきました」

と言われ、コーチングを一時中断し、

パソコンに向かいました。

彼は笑いながら、

「たけうちさんの前だと、いつもよりも酷いのが

出ますねぇ」

と言われ、その場で書かれた「邪悪な言葉達」を

私に見せてくれました。

 

確かに酷い言葉達。

 

しかし、「書く」ということはイコール、

それを吐き出す、ということです。

しかもそれを客観的に笑いながらできるということは、

そんな自分をも受け入れている、

つまりはそんな自分をも愛している、

ということです。

 

ここに至って、平井さんはついに

「本当に自分を愛する」

という状態に入れたのです。

それは

「自己愛」

とは、本質的に真逆のものです。

 

自己愛とは、自己満足の愛。

自己満足の愛を続けているうちは、

自分自身が自分を許すことはできません。

本当の愛を自分に向けたときに初めて、

私達の心は満たされ始めます。

 

自分の心を愛で満たすことで初めて、

人を愛することができるようになります。

 

その第一歩を、

平井さんは踏み始めました。

 

平井さんに限らず、

私達の心の中にはあらゆる自分がいます。

自分の好きな自分もいれば、

自分が見たくない自分もいるでしょう。

 

自分が好きな自分のみを愛しても

それは、自分を本当に愛していることには

なりません。

自分を愛するとは、

自分のすべてを愛することです。

 

愛する、という表現を使うと、

それは難しいことのように思えますが、

そうではありません。

 

愛する、の基本は

平井さんの行なったような「存在承認」です。

 

つまりは、

そこにあるものを、

そこにあるんだね、と

承認することです。

 

もうそれで、愛は自然に

発生します。

 

それができている人特有の空気感が

あります。

平井さんはすでにその空気感を

漂わせ始めていました。

 

このコーチングは案外、早く終わるかもしれない。

 

私がそう思えたのは

その時でした。

 

つづく