もし仮に、
私達に翼が生えた
とします。
翼を広げれば、
自由に大空を
飛ぶことができます。
空からも
地面からも
両方から
物事を見ることが
できるように
なりました。
足で走るよりも
何倍もの速度で
移動できるように
なりました。
地面のみにいる時には
大きな障害だった
ものも、
翼を使えば、
ヒョイっと
ひとっ飛びです。
その翼は
とても力強く、
誰か他の人を抱えて
飛ぶこともできます。
まだ翼の生えて
いない人を抱えて、
あえて空に
連れて行き、
そこからすべての物事を
眺めてもらうことも
できます。
そのような翼を
私達は手に入れたと
します。
・・・・・・
ところが、
せっかく手に入れた
翼を
まったく使わずに、
私はずっと
地面を走り回れば
良いのだ、
これまで通りに。
と思ったとします。
そして
翼を使わずに、
足を使って
全力で地面を走り回り、
いかに地面を
スピーディーに走るか?
ということに
全力を費やしていたと
します。
私はこれを、
「現実逃避」
と呼んでいます。
ちょっとキツい
言い方ですか?
でも
それが事実です。
本当は翼を
使えるのに、
それを使わずに、
別のことに
自分の労力と時間を
費やす。
本当は、
全力を尽くすべき
ことがあるのに、
そこに向かわずに
別のことに
全力を注ぐ。
「全力を注ぐ」
ということについては
素晴らしいことだと
思いますが、
「全力を注げばいい」
ということでは
ありません。
私達にとっては、
「どこで、何に対して
全力を注ぐか?」
こそが大切であり、
それをしっかりと
見極め、
実行することを、
「真剣に生きる」
と
私は呼んでいます。
努力や全力を
言い訳にして、
本来すべきことを
まったくしていない人、
本来進むべき道を
まったく進んでいない人、
は、
とても残念ですが、
多いです。
どれだけ努力をしても
どれだけ全力を
尽くしても、
現実逃避をしていては
私達の真本音は
力を発揮しません。
それどころか、
「真剣に生きているフリ」
をしている自分を
最も嫌がります。
よく私は、
「真本音が家出する」
という表現を
使うのですが、
そういった人の
真本音は
まるで家出をして
しまったかのように、
まったく機能しなく
なります。
当然、
その人本人には
とてつもないストレスが
生じます。
あまりに
とてつもないので、
心の中が麻痺します。
麻痺をしながらも、
現実逃避をし続け、
本来ではないところに
全力を注ぎ、
「私は全力を尽くしている」
と自己満足している
わけです。
私はそういう人を
許しません。
命の無駄使い
だと思うからです。
ちょっと
キツ過ぎますか?
でも、それくらい
キツい見方をして
関わらないと、
その人は
現実逃避をいつまでも
やめようとしないのです。
・・・・・・
私はいつも
申し上げます。
本当は
人生は
もっと楽に
進める、と。
なぜ、
楽にならないか?
と言いますと、
現実逃避を
しているからです。
現実逃避をすることで、
無駄な確執が
起こります。
無駄な不調和が
起こります。
そしてそこでまた
無駄な全力が
増えていくのです。
そのサイクルから
いい加減に
抜け出しませんか?
自分のためにも。
人のためにも。
つづく