全力

全力の向こうの真剣

 

真剣さ、って

何だろうね。

 

真剣さって、

力を抜くことだと

思うんだよね。

 

力の抜けてない人を

見ると、

あぁまだまだ

真剣じゃないな、

って

よく思うよ。

 

とはいえ、

なかなか本当の意味で

力を抜くところまでは

いかないけどね。

 

力、と言っても

余分な力

という意味で、

 

真剣な人は、

いざという時に

凄まじい力を

一点に

集中できる。

 

それをするためには

通常は

力を抜いていないと

無理。

 

「一点」

に自分のすべてを

込めることの

できる人。

 

それが

真剣な人。

 

そこまでの域には

届いていないと

しても、

そこまでの域を

全力で目指している人は

 

やっぱり

真剣、と言っても

いいかな。

 

もし、

力を抜くことが

どうしてもできない、

 

もしくは

わからない、

という人は、

 

「力を抜こう」とは

思わない方が

いい。

 

むしろ

逆を目指すといい。

 

つまりは、

全力を尽くす。

 

いつも

全力を尽くす。

 

全力を

出し切って

出し切って

出し切って、

 

限界を

超える。

 

限界を超えても

どうにもならない

状態になった時に

 

初めて

体験的に

観えてくるものが

あるし、

 

初めて

フッと力が抜ける

かもしれない。

 

だから。

 

形ばかりの

力を抜く

というのは

やってほしくないな。

 

それは

真剣のマネに

すぎないし、

 

それは

全力にすら

なってないから、

 

ただの手抜き。

 

それじゃあ

残念ながら

道は開かないね。

 

「全力を

打ち込めるものが

ないんです」

 

とは

言わないでね。

 

全力とは

生き方だから。

 

全力を打ち込める

ことに全力になる

のは

むしろ全力じゃない。

 

何にでも

全力で取り組む。

 

それが

全力。

 

やるなら

徹底的に

全力になってほしい。

 

すると

その向こうに

「真剣」

が観えてくるよ。

 

つづく

 

走れ

 

走れ。

 

転んでもいいから、

走れ。

 

全力以上を

出して

走れ。

 

それを今、

あなたの真本音は

望んでいる。

 

素直に

走れ。

 

・・・・・・

 

上手く走ろうと

するな。

 

上手くやれば

やるだけ、

後が大変になる。

 

あるがまま

でいい。

 

今のあなたが

いい。

 

そのまま

全力で。

 

・・・・・・

 

私達には

できることと

できないことが

ある。

 

できる最大を

すればいい。

 

できなければ

しょうがないでは

ないか。

 

できないことを

できない、と

悩むよりも、

 

全力以上を

出そうと

走れ。

 

もちろん

転べば痛いが、

その痛さは

すべて

糧になる。

 

風に

なれ。

 

風になるくらいの

つもりで

走れ。

 

勢いだけでも

いいから、

 

他は何も

いらないから、

 

ただただ

走れ。

 

未来のあなたが

今のあなたを

ちゃんと

見守っているから。

 

つづく

 

全力と真剣と本気

 

「真剣」と「全力」は

ちょっと違う。

 

「全力」とは

文字通り、

その時出せるすべての力を

出し切っている状態だ。

 

「真剣」とは

自分がどこで全力を

出すか?

を、きちんと見極めて

生きている状態だ。

 

もう少し言えば、

普段の全力の力を

100とするならば、

 

いざという時に

1000の力を出せる

自分となれるように

生きている状態。

 

それが「真剣」。

 

当たり前だが、

朝から晩まで全力で

いたら、

そうはならない。

 

どこで自分は

全力になれば良いのか?

 

そのためには

どこで力を抜き、

どこで自分を整え、

どこで自分を癒し、

どこで自分のエネルギーを

磨くか?

どこで自分の能力を

磨くか?

 

などに意識を向け、

自然体で生きることが

肝要だ。

 

そうでなければ

1000の力は出ない。

 

本来、自分の出すべき

力は出ない。

 

この生き方をすることで、

自分の人生の目的は

自然に観えてくる。

 

・・・・・・

 

「真剣」と「本気」も

ちょっと違う。

 

「本気」とは

真剣な人が、

ここで全力を出そう

と決めて、

全力を出しきっている状態

だ。

 

そしてそれが本当に

できる時はただ一つ。

 

その人の人生の目的

に向かう時だ。

 

自分の使命を

果たそうとする時だ。

 

つまり。

 

真剣な人が

目的を見つけ、

目的のための行動を

全力でとっている状態。

 

これが

「本気」の状態

だ。

 

・・・・・・

 

自分は本気である、

思い込んでいる人が

多過ぎる。

 

あなたの「本気」は

そんなもんじゃ

ないだろう。

 

真剣に生きる

こともせず、

 

全力を出すことも

せず、

 

ただ、

「私は本気です」

とは

言うなかれ。

 

第一、

本当に本気な人は、

「私は本気です」

なんて言葉は

決して口にはしない。

 

本当に本気な人は

みんな、

こう言うんだ。

 

「なんか、

毎日が楽しくて

しょうがないんですよ!」

 

そう言って、

最高の笑顔で

笑うのさ。

 

つづく

 

全力を尽くしてからの話だ

 

自分が

全力を出したら

どうなるか?

 

を、

知っているか?

 

知らないので

あれば、

ぜひ

知るべきだ。

 

何でもいい。

 

全力を

尽くしてみる

べきだ。

 

全力を

尽くさなければ

見えない世界が

ある。

 

そして、

全力を

尽くさなければ

見えない自分が

いる。

 

全力とは、

100%の力を

出し切ること。

 

もうこれ以上は

できない、

絶対にできない、

思えるところまで

力を尽くすことだ。

 

それが

真本音の判断か、

反応本音の判断か、

この際、

どちらでもいい。

 

・・・・・・

 

最近、

一つ気づいた

のだ。

 

私の

真本音の話を

聴くことで、

途中までは

真本音度合いを

高めて

いい感じになるのだが、

 

途中から、

自己満足に走り、

 

自分は

真本音で生きている

つもりになっていても、

著しく

真本音度合いを

低めてしまう人が

いる。

 

どうして

そうなるのか?

 

その理由が

今一つ判別できずに

ここまできた。

 

でもやっと

単純な答えの一つに

たどり着いた。

 

「全力を

出したことがない」

のだ。

 

全力を出したことの

ない人が、

真本音の話を聴くと、

 

全力を避けるために

真本音を理由に

現実逃避を

始めるのだ。

 

「私の真本音は

こう言っています。

だから、私は

それをせずに、

これをします」

と。

 

しかしその

「私の真本音」は

本当の真本音

ではない。

 

「真本音」という

言葉を

都合よく

使っているだけの

ことだ。

 

・・・・・・

 

企業様のサポートの

場合、

 

実は、私はこれまで、

真本音度合いの

高まった人にこそ

 

より厳しい現実を

与える、

ということを

してきた。

 

例えば、

その会社の社長から、

その人に対して、

非常に厳しい

「目標」を

与えていただいたりした。

 

厳しい「現実」を

与えられ、

 

しかしそれに対して、

「真本音で

立ち向かう」

ことにより、

 

「どのような状況でも

真本音で生きる

力を養成する」

ことが

できるからだ。

 

真本音で生きる

とは、

好き勝手に動ける

状況をつくる

ことではない。

 

どのような状況でも

私達は

真本音で生きる

ことができる。

 

そしてその結果

自分の望む

道を開くことが

できる。

 

それを

体験を通じて

学ぶことを

私はこれまで大切に

してきた。

 

だから、

真本音度合いの高まった

人にこそ、

あえて

その人にとっては

厳しい現実を

与えたりした。

 

それが、

私が大事にしてきた

「サポート」の

一つだ。

 

それは

言葉を変えれば、

 

その本人が

全力を尽くす場面を

設定した、

 

とも言えるのだ、

ということに

最近、気づいた。

 

・・・・・・

 

全力を尽くした

時の

自分を知ること。

 

これを知らない

人は、

傲慢になる。

 

変な言い方だが、

 

本当に全力を

尽くした人は、

自分の

あまりの力のなさに

茫然と

するはずだ。

 

自分とは、

何もできない人間

だった。

 

という事実に

茫然自失と

なるはずだ。

 

この経験がない

人は、

全力を尽くした

経験がない

ということだ。

 

こうなった時、

人は初めて

「自分」を知る。

 

「自分の現在地」

を知る。

 

そして

そんな人に

「真本音」の話を

すると、

一気に花開く。

 

どこまでも

自分を

開花し続けさせる。

 

・・・・・・

 

傲慢な人

ほど、

「自信がない」

と言う。

 

全力を尽くした

ことがないから、

傲慢なのだ。

 

全力を尽くした

経験のある人は

謙虚だ。

 

謙虚な人は、

「自信がない」

とは

言わない。

 

自信がない

のは

当たり前だし、

 

自信があるとか

ないとか、

そんなことは

関係ないからだ。

 

それよりも、

自分の

本当にすべきこと

(イコール、それは

したいこと)

に、

向かうことが

自分の人生であると、

わかっている。

 

それこそが、

真本音で生きる

ということだ。

 

つづく

 

それは本当の全力ではない

 

もし仮に、

私達に翼が生えた

とします。

 

翼を広げれば、

自由に大空を

飛ぶことができます。

 

空からも

地面からも

両方から

物事を見ることが

できるように

なりました。

 

足で走るよりも

何倍もの速度で

移動できるように

なりました。

 

地面のみにいる時には

大きな障害だった

ものも、

翼を使えば、

ヒョイっと

ひとっ飛びです。

 

その翼は

とても力強く、

誰か他の人を抱えて

飛ぶこともできます。

 

まだ翼の生えて

いない人を抱えて、

あえて空に

連れて行き、

そこからすべての物事を

眺めてもらうことも

できます。

 

そのような翼を

私達は手に入れたと

します。

 

・・・・・・

 

ところが、

せっかく手に入れた

翼を

まったく使わずに、

 

私はずっと

地面を走り回れば

良いのだ、

これまで通りに。

 

と思ったとします。

 

そして

翼を使わずに、

足を使って

全力で地面を走り回り、

いかに地面を

スピーディーに走るか?

ということに

全力を費やしていたと

します。

 

私はこれを、

 

「現実逃避」

 

と呼んでいます。

 

ちょっとキツい

言い方ですか?

 

でも

それが事実です。

 

本当は翼を

使えるのに、

それを使わずに、

別のことに

自分の労力と時間を

費やす。

 

本当は、

全力を尽くすべき

ことがあるのに、

そこに向かわずに

別のことに

全力を注ぐ。

 

「全力を注ぐ」

ということについては

素晴らしいことだと

思いますが、

「全力を注げばいい」

ということでは

ありません。

 

私達にとっては、

 

「どこで、何に対して

全力を注ぐか?」

 

こそが大切であり、

それをしっかりと

見極め、

実行することを、

 

「真剣に生きる」

 

私は呼んでいます。

 

努力や全力を

言い訳にして、

本来すべきことを

まったくしていない人、

 

本来進むべき道を

まったく進んでいない人、

 

は、

とても残念ですが、

多いです。

 

どれだけ努力をしても

どれだけ全力を

尽くしても、

現実逃避をしていては

私達の真本音は

力を発揮しません。

 

それどころか、

「真剣に生きているフリ」

をしている自分を

最も嫌がります。

 

よく私は、

「真本音が家出する」

という表現を

使うのですが、

 

そういった人の

真本音は

まるで家出をして

しまったかのように、

まったく機能しなく

なります。

 

当然、

その人本人には

とてつもないストレスが

生じます。

 

あまりに

とてつもないので、

心の中が麻痺します。

 

麻痺をしながらも、

現実逃避をし続け、

本来ではないところに

全力を注ぎ、

 

「私は全力を尽くしている」

 

と自己満足している

わけです。

 

私はそういう人を

許しません。

 

命の無駄使い

だと思うからです。

 

ちょっと

キツ過ぎますか?

 

でも、それくらい

キツい見方をして

関わらないと、

その人は

現実逃避をいつまでも

やめようとしないのです。

 

・・・・・・

 

私はいつも

申し上げます。

 

本当は

人生は

もっと楽に

進める、と。

 

なぜ、

楽にならないか?

と言いますと、

 

現実逃避を

しているからです。

 

現実逃避をすることで、

無駄な確執が

起こります。

 

無駄な不調和が

起こります。

 

そしてそこでまた

無駄な全力が

増えていくのです。

 

そのサイクルから

いい加減に

抜け出しませんか?

 

自分のためにも。

 

人のためにも。

 

つづく

 

もっとしっかり頼ろうよ

 

もっとみんな、

人に頼ればいいのに、

と思います。

 

私のクライアントさんは

精神的にも

経済的にも

自立(自律)している人が

多いのですが、

 

面白いことに

そういった人ほど、

きちんと人に

頼りますね。

 

逆に、

自立(自律)できていない人

ほど、

自分でやらなきゃ、

独力でなんとかしなきゃ、

と思い過ぎる傾向に

あります。

 

自立(自律)できている

人は、

自分には

・何ができて

・何ができないのか

がよくわかってるのですね。

 

それは言葉を換えれば、

自分は

・どこに自分のパワーを注ぎ

・どこには注ぐ必要がないのか

がよくわかっている

ということです。

 

真剣に生きているからこそ

それがわかります。

 

・・・・・・

 

「真剣」と「全力」は

違います。

 

「真剣」とは

どこで自分が全力を出せばよいか?

をわかっている状態、

もしくは、

わかろうとしている状態

であると私は思っています。

 

この世は

制限だらけ。

 

人生の時間も

一日の時間も

限られています。

 

体も一つしか

ありません。

 

お金も

有限です。

 

限られたものを

何のために

どのように

使えばいいのか?

 

それを徹底的に

模索し続けている人は

真剣だな、

と私は思います。

 

限られたものを

どのように

使えばいいのか?

その

最も根本にあるのは

自分の

「命」

です。

 

この世における

命とは

限られたものです。

(寿命がありますしね。)

 

何のために

自分の命を

どのようように使うか?

 

これを、

「使命」と

私は呼んでいます。

 

真剣な人は

自分の「使命」を

よくわかっていますね。

 

もしくは、

本気でわかろうと

していますね。

 

・・・・・・

 

私達人間はあえて、

永遠に全力を尽くす

ということが

できないように

できています。

 

そこに

人間としての

価値があります。

 

常に

全力でい続けよう

としている人を見ると、

私は

「真剣じゃないなぁ」

と思います。

 

真剣な人は

常に

「ゆとり」

がありますし、

それをとても大切に

しています。

 

なぜなら、

本当に全力を出すべき瞬間に

全力を出せる自分で

あり続けようと

しているからです。

 

そんな中で、

自分は

誰に何を頼れば

よいのか?

を決めることは

本当に

大切なことですね。

 

これも

セルフコーチングの

重要な要素の

一つです。

 

つづく