真剣

そいつは無理だ

 

真剣に進む

のと

無理をする

のとは

まったく異なる

ことだ。

 

というよりも、

真逆だ。

 

第一、

無理をしていては

真剣になることなど

できない。

 

真剣とは、

全力を出すべき時に

全力をきちんと

出すこと。

 

そんな自分で

い続けること。

 

そんな生き方を

持続すること。

 

全力を出すべき時に

もし全力を出せないようで

あれば、

最速で進むことなど

できない。

 

全力を出すべき時に

全力を出せないのは、

どこかで無理を

しているから。

 

つまり、

「無理」とは

「真剣」を

阻害するものだ。

 

ただし。

 

「無理」をしたことの

ない人は

「真剣」に生きることは

できない。

 

矛盾しているように

聞こえるかもしれないが。

 

無理をして無理をして

無理をして、

 

自分の限界を味わって、

限界を痛感して、

痛い思いをして、

 

それでやっと

「無理をしない」とは

どういうことか、

「真剣に生きる」とは

どういうことか、を

我々は学べる。

 

だから、

真剣に生きるために

上手に無理をしないように

しよう、

と思う人は

いつまで経っても

真剣にはなれない。

 

かといって、

無理をしていることに

自己満足している

人もいる。

 

私は毎日、無理を

している。

それだけ必死に生きている。

凄いでしょ。

 

・・・と自己満足している。

 

こういう人も

真剣にはなれない。

 

難しいかな?

 

いや、

やることは

単純だ。

 

私はいつ

全力を出すべきか?

常に考えながら

生きればいい。

 

そして、

その瞬間に本当に

全力を出せるためには

どうすれば良いか?

常に考えながら

生きればいい。

 

その探究を続ければ、

最初は「無理」ばかりに

なるかもしれないが、

そのうちに

「真剣」になれるよ。

 

つづく

 

全力の向こうの真剣

 

真剣さ、って

何だろうね。

 

真剣さって、

力を抜くことだと

思うんだよね。

 

力の抜けてない人を

見ると、

あぁまだまだ

真剣じゃないな、

って

よく思うよ。

 

とはいえ、

なかなか本当の意味で

力を抜くところまでは

いかないけどね。

 

力、と言っても

余分な力

という意味で、

 

真剣な人は、

いざという時に

凄まじい力を

一点に

集中できる。

 

それをするためには

通常は

力を抜いていないと

無理。

 

「一点」

に自分のすべてを

込めることの

できる人。

 

それが

真剣な人。

 

そこまでの域には

届いていないと

しても、

そこまでの域を

全力で目指している人は

 

やっぱり

真剣、と言っても

いいかな。

 

もし、

力を抜くことが

どうしてもできない、

 

もしくは

わからない、

という人は、

 

「力を抜こう」とは

思わない方が

いい。

 

むしろ

逆を目指すといい。

 

つまりは、

全力を尽くす。

 

いつも

全力を尽くす。

 

全力を

出し切って

出し切って

出し切って、

 

限界を

超える。

 

限界を超えても

どうにもならない

状態になった時に

 

初めて

体験的に

観えてくるものが

あるし、

 

初めて

フッと力が抜ける

かもしれない。

 

だから。

 

形ばかりの

力を抜く

というのは

やってほしくないな。

 

それは

真剣のマネに

すぎないし、

 

それは

全力にすら

なってないから、

 

ただの手抜き。

 

それじゃあ

残念ながら

道は開かないね。

 

「全力を

打ち込めるものが

ないんです」

 

とは

言わないでね。

 

全力とは

生き方だから。

 

全力を打ち込める

ことに全力になる

のは

むしろ全力じゃない。

 

何にでも

全力で取り組む。

 

それが

全力。

 

やるなら

徹底的に

全力になってほしい。

 

すると

その向こうに

「真剣」

が観えてくるよ。

 

つづく

 

全力と真剣と本気

 

「真剣」と「全力」は

ちょっと違う。

 

「全力」とは

文字通り、

その時出せるすべての力を

出し切っている状態だ。

 

「真剣」とは

自分がどこで全力を

出すか?

を、きちんと見極めて

生きている状態だ。

 

もう少し言えば、

普段の全力の力を

100とするならば、

 

いざという時に

1000の力を出せる

自分となれるように

生きている状態。

 

それが「真剣」。

 

当たり前だが、

朝から晩まで全力で

いたら、

そうはならない。

 

どこで自分は

全力になれば良いのか?

 

そのためには

どこで力を抜き、

どこで自分を整え、

どこで自分を癒し、

どこで自分のエネルギーを

磨くか?

どこで自分の能力を

磨くか?

 

などに意識を向け、

自然体で生きることが

肝要だ。

 

そうでなければ

1000の力は出ない。

 

本来、自分の出すべき

力は出ない。

 

この生き方をすることで、

自分の人生の目的は

自然に観えてくる。

 

・・・・・・

 

「真剣」と「本気」も

ちょっと違う。

 

「本気」とは

真剣な人が、

ここで全力を出そう

と決めて、

全力を出しきっている状態

だ。

 

そしてそれが本当に

できる時はただ一つ。

 

その人の人生の目的

に向かう時だ。

 

自分の使命を

果たそうとする時だ。

 

つまり。

 

真剣な人が

目的を見つけ、

目的のための行動を

全力でとっている状態。

 

これが

「本気」の状態

だ。

 

・・・・・・

 

自分は本気である、

思い込んでいる人が

多過ぎる。

 

あなたの「本気」は

そんなもんじゃ

ないだろう。

 

真剣に生きる

こともせず、

 

全力を出すことも

せず、

 

ただ、

「私は本気です」

とは

言うなかれ。

 

第一、

本当に本気な人は、

「私は本気です」

なんて言葉は

決して口にはしない。

 

本当に本気な人は

みんな、

こう言うんだ。

 

「なんか、

毎日が楽しくて

しょうがないんですよ!」

 

そう言って、

最高の笑顔で

笑うのさ。

 

つづく

 

おいおい、軽いなぁ

 

私のビジネスパートナーの

一人は

今、

自分の会社のホームページを

創っている。

 

どうやらそこに

私も載せてくれる

らしい。

 

「たけうちさん、

たけうちさんの写真を

載せたいのですが、

二つ候補がありまして。

写真Aと写真Bですが、

どっちがいいですか?」

 

2枚の写真を

見せられた。

 

私は迷うことなく、

 

「Aはちょっと変だから、

Bがいいな」

 

返した。

 

「わかりました!

そうします」

 

返事。

 

数日後、

ほぼ出来上がったホームページ

を見せてもらった。

 

そこに載っていたのは

写真Bじゃなくて

写真A。

 

「あれ?

写真Aになってるけど・・・」

 

「あーそれですね。

やっぱ、Aの方がいいかな

って思って。あはは」

 

・・・この軽さ。

 

私はこの軽さを

『真剣』

と呼ぶ。

 

・・・・・・

 

本当に真剣な

人は、

 

軽い。

 

もちろん、

真剣じゃない人で

軽い人も

いっぱいいる。

 

そういう軽さは

私は勘弁してもらいたい

のだが、

 

真剣な人の持つ

その独特の軽さを

私は愛する。

 

それは言葉を

換えれば、

 

『遊び心』

 

とも言える。

 

遊び心とは

柔軟性そのもの

でもあるが、

 

その柔軟性とは、

 

「常に原点に返る」

柔軟性だ。

 

あらゆる情報を

自らにインプットし、

あらゆる経験や

あらゆる試行錯誤を

経て、

 

その上で

原点に返る。

 

そして

答えを出す。

 

こんな情報が

あったから

こうしよう。

・・・ではない。

 

こんな経験をしたから

こうしよう。

・・・でもない。

 

打合せでこう決まった

から

こうしよう。

・・・すらない。

 

あらゆることを経て、

すべてを自分自身に

インプットした上で

 

原点に返るのだ。

 

そして

決断をする。

 

だから一見すると、

突拍子もない答えに

なることもある。

 

しかしそれが

真剣な人の

特長の一つだ。

 

これ、

一歩間違えれば、

単なるいい加減

と見られたり、

独断

と見られたりして、

 

ギクシャクや混乱の

もとになることも

あるが、

 

本当に真剣な人が

これをやると、

 

結果的にはすべてが

調和する。

 

これが実に

楽しい。

 

・・・・・・

 

気がつけば、

私の周りは

真剣な人ばかりだ。

 

だから皆、

軽い。笑

 

軽くて

明るい。

 

しかし、

深い。

 

そんな人達と今、

いろんなビジネスが

展開し始めている。

 

だから私も

ますます真剣に

なる。

 

つまり、

軽くなる。

 

一年後が

どうなっているのか、

まったく予測のつかない

展開になっているが、

 

この

予測のつかなさ

も、

軽やかに楽しみながら

進むつもりだ。

 

つづく

 

ガムシャラのすすめ

 

何でもかんでも

ガムシャラに

突き進めばいい、

というものではない。

 

無駄なことは

する必要はないし、

常に全力を尽くすこと

だけが

「真剣」ということでは

ない。

 

いかに楽に進むか?

こそが

大切だし、

 

どこで力を抜き、

どこで力を込めるか?

 

について

見極めることこそが

「真剣」だと

思う。

 

そういった前提の

上で、

あえて言うが、

 

「みんな、

もっとガムシャラに

なった方がいい!」

 

ガムシャラを

知らずして、

 

楽もヘッタクレも

ないだろう。

 

どこで力を抜き、

どこで力を込めるか?

 

は、

ガムシャラな経験が

あってこそでは

ないか?

 

・・・と私なぞは

思うのだが、

私は古い人間か?

 

・・・・・・

 

上手く進もうとすることと、

 

楽な道を進むことは、

 

似ているようで

真逆なことがある。

 

例えば、

人間関係。

 

波風を立てずに

上手く立ち回ろう、

とか

自分の本音は抑えて

迎合しながら

ぶつかり合うのを

避けよう、

とか。

 

そのように

上手くやろう上手くやろう

とすればするほど、

人間関係は

本質的に悪化の一途を

たどる。

 

そして気がついた時は、

周りの誰からも

信頼されず、

楽な道どころか

最も茨の道を

進むことになる。

 

一見、大変そうに見えても、

一人一人、

一つ一つ、

丁寧に向き合う人こそが

結果として、

楽に道ができていく。

 

・・・ということが

現実的に起きていることだが、

 

しかしそれが本当に

わかるためには、

人間関係を良くしよう!と

ガムシャラになった

経験を経なければ

無理だろう。

 

頭だけで

楽な道を考えれば、

 

ただの

小賢しいヤツ

 

にしか

ならないな。

 

特に若い人達には

そうなってほしくない。

 

小さく

まとまってほしくない

のだ。

 

・・・・・・

 

とはいえ、

むやみに困難に向かえ、

 

ということでもない。

 

それはそれで

単なる自己満足だ。

 

私のオススメは、

今、目の前にある

現実。

 

例えば、

目の前にある仕事。

 

与えられた

役割。

 

そこに対して一度、

ガムシャラになっては

どうだろう。

 

いや、

モチベーションが

上がらないから。

 

という人もよくいるが、

モチベーションが上がるとか

下がるとか、

この際、関係ない。

 

やる気があろうが

なかろうが、

まずはガムシャラに

なってみるのだ。

 

そんな無茶な。

 

と思うかもしれないが、

それが必要なことも

あるんだ。

 

特に今の

あなたにはね。

 

つづく

 

エネルギーが道を照らす

 

自分の中から

エネルギーが湧き出てくる

のであれば、

 

そのエネルギーの

使い途が

必ずある、

ということだ。

 

ところが、

それがわからない

という人が

多い。

 

わからないから

エネルギーを

放っておく、

という人が。

 

下手をすると

せっかく湧き出ずる

そのエネルギーに

蓋をして

なかったことにする

人さえいる。

 

実は、

若い人に

多い。

 

もし

エネルギーが

湧くならば、

 

誰よりも

自分自身が

そのエネルギーを

感じ続けること

だ。

 

そのエネルギーを

常に

観察すること。

 

そのエネルギーを

抱き続ける

こと。

 

何がなんやら

さっぱりわからなくても、

それをとにかく

大切にすれば、

 

「現実」が

その「エネルギー」に

ついてくる

ようになる。

 

「現実」が

そのエネルギーによって

徐々に

流れ始めるのだ。

 

変化を

始めるのだ。

 

するとその

変化の中で、

ふと、

エネルギーの使い途

直観する。

 

人生は

面白い。

 

自分の道が

わかることで

エネルギーが湧く

こともあれば、

 

エネルギーが

湧いてから、

そのエネルギーが

ヒントになって

道が観えてくる

こともある。

 

いずれにしても、

そのエネルギーは

自身の真本音が

もたらしている

ものだ。

 

・・・・・・

 

人生において

自分のエネルギーを

常に

100%出し続けている

人がいる。

 

これは実は、

間違っている。

 

エネルギーとは

そのように使うもの

ではない。

 

それに

常に100%出すことを

「真剣」とは

言わない。

 

それは単なる

「ガムシャラ」

である。

 

ガムシャラと

真剣は

違う。

 

もちろん

ガムシャラに生きる

ことが大事な

時もある。

 

真剣とは、

いつ、どの瞬間に、

ガムシャラになるか?

を見極めながら

生きている状態

だ。

 

力を抜くところでは

しっかりと

力を抜き、

 

そのかわり、

いざというところで

100%ではなく、

1000%の力を

出す。

 

それができる

自分でいる。

 

それができる

生き方を

する。

 

それが

真剣に生きる

ということだ。

 

つまり、

真剣に生きる

とは、

自分自身の

エネルギーマネジメント

をすることである。

 

・・・・・・

 

真本音で生きる

のと

真剣に生きる

のは

ほぼほぼ

イコールである。

 

私達の真本音は、

自分の中から

必要なだけ

エネルギーを開放し、

 

それを

必要な場所で

必要な瞬間に

必要なだけ

活用しようとする。

 

真本音に

素直に生きることで、

 

私達は

自分自身のエネルギーを

有効活用できるし、

 

今の自分の

1000%を

出せる瞬間を

生み出すし、

 

それにより、

自分の枠を超えたり、

可能性を

無限に引き伸ばす

きっかけを

創り続ける。

 

それはある意味、

とても冒険的で

刺激的で

楽しくもある。

 

・・・・・・

 

私の中にある

心の大地。

 

今日、

その大地に

小さな亀裂が入り、

そこから

新たなエネルギーの束が

溢れ始めた。

 

抑えていたものが

破れ、

まるで血しぶきのように

エネルギーが

溢れ出しているのを

今、私は

茫然と見つめている。

 

このエネルギーは

何のために

どのように使うのか?

 

それを

明日以降の私は

楽しみたいと

思っている。

 

つづく

 

躊躇を外してみようかな

 

「完了感」。

 

何かを100%

やり切った

感覚。

 

99%ではなく、

101%でもなく、

100%の時にしか

得られない

独特の感覚。

 

それが

今の私にある。

 

なぜだか

わからないのに、

ある。

 

時々、

こういうことがある。

 

理由もなく、

完了感のみが

湧き上がる。

 

こういう時は

実在のレベルで

何かを

完了させたのだろう。

 

「実在」とは

心の中の現実。

 

心の中で

確固たるものとして

生まれたもの。

 

恐らくであるが、

長年かけて

構築を目指して

やり続けてきたことが

完成したのだろう。

 

もちろん、

本当の意味での

完成は

ない。

特に実在に

おいては。

 

しかし、

一つの段階において

何かが完成し、

次のステージに

入っていくのだろう。

 

・・・・・・

 

実在における

完了感を得た

ということは、

 

これからそれが

現象化

するということだ。

 

つまり、

心の中の現実が

実際のこの世界の

現実として

現れる。

 

それが何かは

今のところ

まだ自分でも

把握できていないが、

 

何となく

楽しみである。

 

・・・・・・

 

さて。

 

これから私は

何をしようか?

 

もちろん

コーチを育成する

ことは

決めている。

 

そのコーチと一緒に

たくさんの

現場に入ることも

決めている。

 

まだまだ

やることは多い。

 

これからさらに

増やしていく。

 

ただ。

 

これまでの私を

私は一つ大きく

変えねばならない、

 

と、今わかった。

 

これまでの私は

私の真剣さを

私以外の人に向ける

ことを

躊躇してきた。

 

いや、

そのつもりはなかった

のだが、

今、本当に

そう思った。

 

変な言い方

であるが、

私は私の真剣さが

実は、ちょっと怖い。

 

真剣すぎる

からだ。

 

私のこの真剣さを

受け止め切れるのは、

私の妻だけであると

これまでは

思ってきた。

 

しかしそれでは

いけない。

 

それでは

進めない。

 

私は私の真剣さを

徐々にではあるが、

解放しようと

思う。

 

実在で

何が完了したかは

わからないが、

そうしなければ

その完成したものは

現象化できないと

今、わかった。

 

ちょっとずつ

躊躇を

外そう。

 

う〜む、

勇気が要るね。

 

つづく

 

怖いからこそ見つめよう

 

今、

問題の核心は

何か?

 

本当は、

このダイレクトな

問いに素直に

向き合えば、

 

ほとんどの問題は

8割方は

解決してしまう。

 

しかし私達には

その、

素直さ

がない、

 

場合が多い。

 

核心を観る

のが

怖いのだ。

 

だから

まずはそこから

目を背けることに

全力になる。

 

もちろん、

そうなっている自分を

自覚することは

ない。

 

自覚できたら

大したものだ。

 

だから私は

いつもいつも

この問いを

大切にしている。

 

今、

問題の核心は

何か?

 

・・・・・・

 

問題の核心は

恐怖感の

その先に

ある。

 

そりゃそうだ。

 

問題の核心

だからこそ

恐怖感が湧く。

 

つまり、

最も怖い方向を

見つめれば、

そこに

実にシンプルな

核心が

潜んでいる。

 

いや、

本当は潜んでなんか

いないのだが、

あまりの恐怖によって

そいつの前では

私達は

目を瞑ってしまうのだ。

 

全力で

目を瞑る。

 

で、

わからない

わからない

と言い続ける。

 

時には、

目を瞑っているその

まぶたの上に、

くっきりとした

キラキラの目を描いて、

 

ほら、

私、ちゃんと

目を開いているでしょ!

 

とアピールする

人もいる。

 

もちろんやはり

本人にその自覚は

ない。

 

逃げることに

必死だという

自覚が。

 

そういう人と

向き合うと、

あまりの恐怖感と

あまりの拒絶感に

私は

言葉を失う。

 

怖いものを

怖いと言えれば、

もっと楽になるのに。

 

本人は最も

楽ではない道を

邁進する。

 

まぶたの上に

描いた偽物の目を

堂々とこちらに見せ、

 

ほら、

私はこんなに真剣に

自分の使命に

向かっています、

 

と訴え続ける。

 

自分の人生を

邁進しています、

 

と。

 

・・・・・・

 

そのように

全力で逃げようと

する人は、

 

どうやら

私からのお墨付きを

もらいたいようだ。

 

つまり、

「たけうちさんが

いいね、って

言ったから、

私はこれで

いいんだ」

という

お墨付きだ。

 

このお墨付きを

ほしいが故に、

あえて私に相談

してくる人もいる。

 

しかし私は

決して

そのような「お遊び」

にお付き合いする

ことはない。

 

そのような

「お遊び」は

ダメですよ。

もっと

真剣に生きましょうよ。

 

というニュアンスの

空気感を

ほんのちょっとだけ

私は

その人に向ける。

 

すると多くの場合は、

とても残念なことに

一目散に

私の前から

去っていく。

 

私は別に

「もっと強くありなさい」

とは

一言も言っていない。

 

私はただ

「もっと真剣になろうよ」

伝えているだけだ。

 

真剣になる、

とは

自分の弱さを

知ることだ。

 

自分の恐怖を

知ることだ。

 

知ればいい。

 

だって

人は

弱いから。

 

でも、

自分の弱さを

素直に認めることで、

人は

一歩ずつ

強くなっていけるから。

 

完璧な人間など

いない。

 

何度も言うが、

私だって

人間として相当の

ヘナチョコだ。

 

でも私は

そのヘナチョコぶりを

知っている。

 

そこから

目を逸らさないように

している。

 

それだけで

いいのだ。

 

それだけで、

ちゃんと

進めるのだ、

私達は。

 

「あるがまま」を

見つめよう。

 

それができれば、

問題の核心は

すぐにわかるし、

 

そしてその核心は

実は、

結構、可愛いものだった

ということも

わかるのだ。

 

つづく

 

コーチを育成しよう

 

真剣な人って

やっぱり

いいなぁ。

 

真剣な人って、

上手く進もう

なんて

考えていない。

 

いろんなものに

ぶつかってもいいから

前に進もうと、

そればかりを

考えてる。

 

だから私は

言う。

 

もう少し

ゆっくり

進んでも

いいですよ、

と。

 

私、結構

この一言を

言うのが

好き。

 

早く

やりなさい、

とか

もっとスピードアップ

しなさい、

とか

本当は

言いたくない。

 

ちょっとちょっと

やり過ぎじゃない?

お伝えするときの

幸福感といったら。

 

・・・・・・

 

真剣な人ほど、

怖い、怖い、

と言う。

 

怖さに対して

素直なのだ。

 

怖い、怖い、

と言いながらも

進んで行く。

 

怖いから

止まる、

という選択肢は

ない。

 

怖いのと

止まるのとは

まったくの別物だと

いうことだ。

 

むしろ、

自分が怖がっていることを

素直に認めない人の

方が、

歩みは遅いかな。

 

人間なんで

怖いのは

当たり前。

 

怖がりが悪い

なんてことは

一つもない。

 

怖がっている自分を

噛み締めれば

いいし、

愛すればいい。

 

その方が

淡々と前に

進める。

 

・・・・・・

 

前に進む、

とは

プラス指向で生きる

ということでも

ない。

 

私はね、

プラスでもマイナスでも

どっちでもいい

と思ってる。

 

プラス指向でいなきゃ、

と思い過ぎると、

マイナスの心に

フタをしてしまう。

 

フタをされた

気持ちたちは

だいたいは

フタをされたことに

反発して

10倍くらいに膨れ上がる。

 

だから、

プラス指向で

生きなきゃ、

と思っている人の多くは、

そう思えば思うほど、

マイナスの心が

隠されている。

 

そんな辛くて

難しいことを

するくらいなら、

 

そんなの

どっちでもいいじゃん。

 

と思いながら、

進んだ方がいい。

 

まぁ、

私自身がもともと

「超」がつくくらいの

マイナス指向の

人間だったから

そう思うのかも

しれないけどね。

 

・・・・・・

 

怖くてもいい。

 

マイナスでもいい。

 

でも

進む。

 

でも

自分のやることを

やる。

 

自分のやることは

真本音が

知ってる。

 

真本音に素直に

動く。

 

それを

するだけ。

 

それが

真剣に生きる

ということ。

 

これをすると

結構

ぐうたらになる。

 

そうそう。

 

真剣な人は

結構みんな

ぐうたらだ。

 

でも、

いざという時に

1000%の力を

出す。

 

そして

「いざという時」

をよく

わかっている。

 

だから

真剣なんだ。

 

・・・・・・

 

怖がりでも

いい。

 

マイナスでも

いい。

 

ぐうたらでも

いい。

 

それでも、

私はコーチとして

人を真剣に

サポートしたい、

 

というコーチを

私は育成

したい、

真剣に。

 

なのでそろそろまた

コーチ養成を

やろうと

思ってます。

 

つづく

 

そろそろ本気にならないかい?

 

「本気」

とは、

 

「真剣+目的」

 

によって

生まれるものだと

私は思います。

 

「真剣」

とは、

無駄なことを

しないこと。

 

本当に、

全力になるべきところで

全力になれる

生き方をすること。

 

ということは、

自分が

何のために

生きていけばよいのか?

自分の

人生の目的は何か?

自分には

どんな役割があり、

どこに自分のすべての

力を注げばよいのか?

を自覚し、

 

その通りに

素直に生きている

状態です。

 

真剣な人は

普段は

肩の力が抜けて

います。

 

淡々と、

飄々と

生きています。

 

しかし、

いざ、という時に

とてつもない集中力を

発揮します。

 

その、

いざ、という時のために

すべてを整えている

からです。

 

それを

「真剣」

と言います。

 

その

「真剣な人」

が、

 

いつまでに

これをしよう、

 

いつまでに

これを成そう、

 

いつまでに

これを実現しよう、

 

というように、

「期限付きの目的」

を持った時に

 

「本気」

が生まれます。

 

「期限付き」

というのが

ポイントです。

 

・・・・・・

 

期限のついた目標

嫌がる人がいます。

 

もっと

自由に

自然に成果を

上げたい、

と。

 

しかしそれは

自由でも

自然でも

ありません。

 

なぜなら、

私達の真本音は

「期限」

を決めているからです。

 

私達のいる

この3次元世界は、

時間の流れが

一定です。

 

しかも

過去から未来へと

一方向にしか

時間は流れません。

 

これは

「3次元」

という世界特有の

ものです。

 

そして、

であるが故に

あらゆるものに

「期限」

があります。

 

例えば、

私達の人生の時間にも

「期限」が

ありますよね。

 

すべてが

「無限」ではなく

「有限」です。

 

それがこの

3次元世界の原則

であり、

掟です。

 

その中で

生きるからこそ

価値があります。

 

ということは、

すべての物事には

「期限がある」

ということを

受け止めることが

非常に重要です。

 

「期限なしで

自然に進みたい」

 

というのは、

この世界の否定

です。

極端に言えば。

 

この「3次元世界」での

人生を

否定しているのと

同じなのです。

 

・・・・・・

 

ですから私は

あらゆることに

「期限」を

設けています。

 

例えば、

私の人生の寿命にも

「期限」を

設けています。

 

私は人生の

終わりを

すでに設定しています。

 

もちろん、

それ以上に生きる

可能性もあります。

 

しかし、

期限を設定し、

その時までに

人生の目的を果たす、

と決めた方が

あらゆる発想が

次々と生まれて

くるのです。

 

モチベーションも

上がります。

 

エネルギーも

湧き続けます。

 

それが

人間です。

 

期限設定が

嫌だ、

という人は、

その期限が

反応本音で設定したもの

だからです。

 

私達の真本音は

あらゆることに

期限を決めていますので、

それを

自覚すればよいのです。

 

つまりは、

「真本音で期限を決める」

ということです。

 

これをすることで

人生には

気持ちの良いメリハリと

刺激と

冒険と

そして、

安定が得られるのです。

 

「期限」に

目を瞑る人は

不安定になります。

 

なぜならそれは、

自らの真本音の意志に

フタをしている

ことになるからです。

 

私達は皆、

期限を

決めているのです。

 

その事実に

素直になることが

人生の安定と

安寧を得る

最重要ポイントの

一つです。

 

・・・・・・

 

もうそろそろ

「本気」

になりましょう。

 

加速をする

人達、

つまり、あなたに

お伝えしたいのは、

 

それだけ加速する

理由と意味を

知りましょう、

ということです。

 

加速の先には

「期限」

があります。

 

「期限付きの目的」

があります。

 

それを、

自覚しましょう。

 

それがわかれば、

あなたは自然に

「本気」

になれるでしょう。

 

つづく

 

それは本当の全力ではない

 

もし仮に、

私達に翼が生えた

とします。

 

翼を広げれば、

自由に大空を

飛ぶことができます。

 

空からも

地面からも

両方から

物事を見ることが

できるように

なりました。

 

足で走るよりも

何倍もの速度で

移動できるように

なりました。

 

地面のみにいる時には

大きな障害だった

ものも、

翼を使えば、

ヒョイっと

ひとっ飛びです。

 

その翼は

とても力強く、

誰か他の人を抱えて

飛ぶこともできます。

 

まだ翼の生えて

いない人を抱えて、

あえて空に

連れて行き、

そこからすべての物事を

眺めてもらうことも

できます。

 

そのような翼を

私達は手に入れたと

します。

 

・・・・・・

 

ところが、

せっかく手に入れた

翼を

まったく使わずに、

 

私はずっと

地面を走り回れば

良いのだ、

これまで通りに。

 

と思ったとします。

 

そして

翼を使わずに、

足を使って

全力で地面を走り回り、

いかに地面を

スピーディーに走るか?

ということに

全力を費やしていたと

します。

 

私はこれを、

 

「現実逃避」

 

と呼んでいます。

 

ちょっとキツい

言い方ですか?

 

でも

それが事実です。

 

本当は翼を

使えるのに、

それを使わずに、

別のことに

自分の労力と時間を

費やす。

 

本当は、

全力を尽くすべき

ことがあるのに、

そこに向かわずに

別のことに

全力を注ぐ。

 

「全力を注ぐ」

ということについては

素晴らしいことだと

思いますが、

「全力を注げばいい」

ということでは

ありません。

 

私達にとっては、

 

「どこで、何に対して

全力を注ぐか?」

 

こそが大切であり、

それをしっかりと

見極め、

実行することを、

 

「真剣に生きる」

 

私は呼んでいます。

 

努力や全力を

言い訳にして、

本来すべきことを

まったくしていない人、

 

本来進むべき道を

まったく進んでいない人、

 

は、

とても残念ですが、

多いです。

 

どれだけ努力をしても

どれだけ全力を

尽くしても、

現実逃避をしていては

私達の真本音は

力を発揮しません。

 

それどころか、

「真剣に生きているフリ」

をしている自分を

最も嫌がります。

 

よく私は、

「真本音が家出する」

という表現を

使うのですが、

 

そういった人の

真本音は

まるで家出をして

しまったかのように、

まったく機能しなく

なります。

 

当然、

その人本人には

とてつもないストレスが

生じます。

 

あまりに

とてつもないので、

心の中が麻痺します。

 

麻痺をしながらも、

現実逃避をし続け、

本来ではないところに

全力を注ぎ、

 

「私は全力を尽くしている」

 

と自己満足している

わけです。

 

私はそういう人を

許しません。

 

命の無駄使い

だと思うからです。

 

ちょっと

キツ過ぎますか?

 

でも、それくらい

キツい見方をして

関わらないと、

その人は

現実逃避をいつまでも

やめようとしないのです。

 

・・・・・・

 

私はいつも

申し上げます。

 

本当は

人生は

もっと楽に

進める、と。

 

なぜ、

楽にならないか?

と言いますと、

 

現実逃避を

しているからです。

 

現実逃避をすることで、

無駄な確執が

起こります。

 

無駄な不調和が

起こります。

 

そしてそこでまた

無駄な全力が

増えていくのです。

 

そのサイクルから

いい加減に

抜け出しませんか?

 

自分のためにも。

 

人のためにも。

 

つづく

 

好きなことだけをやればいい?

 

今日、私の

あるクライアントさんに

 

「もっと好きなことだけを

やってください。

やりたくないことは

やめてください。」

 

とお伝えしました。

 

「100%やりたい!と

思えることだけをやる、と

決めてください。」

 

・・・と。

 

しかしこのアドバイスは

一般的には

非常に危険です。

 

私は滅多なことでは

こういったアドバイスは

しません。

 

なぜ私はあえて、

このクライアントさんに

このようにお伝えしたのか?

 

その理由は

明確です。

 

彼は常に

「自分の限界を

超え続ける」

という生き方を

日々、実践されている

からです。

 

猛スピードで

進化を続けている

人だからです。

 

・・・・・・

 

逆に言えば、

自分の限界を超えるような

挑戦をしていない人に

このアドバイスをすれば、

その人は

ますます自分の枠に

閉じ込もってしまうでしょう。

 

そうか、

自分の好きなことのみを

やればいいんだ。

 

と喜びながら、

自己満足の人生を

進むでしょう。

 

現実逃避に

入るでしょう。

 

残念ながらこの世の中は

自分の好きなことだけを

やって生きていける

ようにはできていません。

 

なぜなら

私達の真本音が

それをさせません。

 

しかし、

「いや、たけうちさん、

私は自分の好きなことだけで

生きていますよ」

と時々、

言われることがあります。

 

その場合は

以下の二つのケースの

どちらかです。

 

一つは、

そうは言っても、

その人には「すべてを引き受ける」

覚悟があり、

好きなことに向かう途上における

あらゆる現実を

しっかりと受け止めている

ケースです。

 

好きなことに向かう途上において

自分のすべきことを

しっかりと為しながら、

それらを引っくるめて

「好きなことだけをやっている」

と表現しているわけですね。

 

私自身も実は、

これに近いところがあります。

 

もう一つは、

「好きなことだけをやっている」

と言いながらも本当は、

その人は

好きなことをやっていない

というケースです。

 

つまりは、

自分の真本音で思う

好きなことではなく、

反応本音レベルでの

好きなことに

取り組んでいるだけ

ということです。

 

これはつまり

先程書かせていただいた

自己満足や現実逃避と

同じことです。

 

残念ですがこのケースは

必ずどこかで

道が閉ざされます。

 

もちろん

自分自身の真本音が

道を閉ざすのです。

「もっと真剣に生きようよ」

というメッセージとして。

 

・・・・・・

 

好きなことのみに

生きる、

というのは

大変なことです。

 

人生に対する

自律した覚悟も

必要です。

 

そして、

その覚悟を持ちながら

好きなことに向かう人には

独特の空気感が

漂います。

 

この人は

自らの足で

歩いている人だな、と

すぐにわかります。

 

そういった人にこそ

私は

「もっとわがままに

なってください」

と強くお伝えします。

 

結局はそうなることで、

すべてが調和する

からです。

 

その人の「わがまま」は

周りの幸せに

必ずつながるからです。

 

それを、

「次元の高い人」

と私は呼んでいます。

 

次元の高さとは、

人生を引き受ける度合いと、

すべての現実を

引き受ける度量によって

決まります。

 

つまりは、

人生に対する真剣さで

決まります。

 

自分の本当に好きなことは、

自分の次元が

高まることで

初めて観えてくるのです。

 

・・・・・・

 

自分の枠から

出ようとせず、

反応本音レベルの

好きなことのみを

やろうとする。

 

そういった生き方を

している人を見ると、

私は本当に

もったいないなぁと

思います。

 

あなたは

そんなもんじゃ

ないのに。

 

と、

どうしても思って

しまいます。

 

お節介かも

しれません。

 

傲慢かも

しれません。

 

でも、

やっぱり。

 

私達人間は、

そんなもんじゃ

ないのです。

 

つづく

 

 

<ご案内>

人生に対して

真剣になる、

と言うと、

なんかとっても大変そう、

とか

疲れそう、

という印象があるかも

知れませんが、

 

まったく

逆です。

 

真剣になればなるほど、

楽になる

のが人生です。

 

真剣になればなるほど、

心の内側から

エネルギーが湧いてくる

のが人生です。

 

そして、

真剣になればなるほど、

心も魂も満たされ、

幸せ感いっぱいになるのが

人生です。

 

そんな状態になるために

どのように自分と

向き合い、

どのように自分の

心を見つめ、

どのように行動に移せば

よいか?

 

どうすれば

人は、自然に

真剣になれるのか?

 

そんなことを

お伝えしています。

 

ご興味ありましたら、

以下の電子書籍と動画をご覧ください。

↓↓↓

『人生を真剣に生きたいあなたへ』

 

もっとしっかり頼ろうよ

 

もっとみんな、

人に頼ればいいのに、

と思います。

 

私のクライアントさんは

精神的にも

経済的にも

自立(自律)している人が

多いのですが、

 

面白いことに

そういった人ほど、

きちんと人に

頼りますね。

 

逆に、

自立(自律)できていない人

ほど、

自分でやらなきゃ、

独力でなんとかしなきゃ、

と思い過ぎる傾向に

あります。

 

自立(自律)できている

人は、

自分には

・何ができて

・何ができないのか

がよくわかってるのですね。

 

それは言葉を換えれば、

自分は

・どこに自分のパワーを注ぎ

・どこには注ぐ必要がないのか

がよくわかっている

ということです。

 

真剣に生きているからこそ

それがわかります。

 

・・・・・・

 

「真剣」と「全力」は

違います。

 

「真剣」とは

どこで自分が全力を出せばよいか?

をわかっている状態、

もしくは、

わかろうとしている状態

であると私は思っています。

 

この世は

制限だらけ。

 

人生の時間も

一日の時間も

限られています。

 

体も一つしか

ありません。

 

お金も

有限です。

 

限られたものを

何のために

どのように

使えばいいのか?

 

それを徹底的に

模索し続けている人は

真剣だな、

と私は思います。

 

限られたものを

どのように

使えばいいのか?

その

最も根本にあるのは

自分の

「命」

です。

 

この世における

命とは

限られたものです。

(寿命がありますしね。)

 

何のために

自分の命を

どのようように使うか?

 

これを、

「使命」と

私は呼んでいます。

 

真剣な人は

自分の「使命」を

よくわかっていますね。

 

もしくは、

本気でわかろうと

していますね。

 

・・・・・・

 

私達人間はあえて、

永遠に全力を尽くす

ということが

できないように

できています。

 

そこに

人間としての

価値があります。

 

常に

全力でい続けよう

としている人を見ると、

私は

「真剣じゃないなぁ」

と思います。

 

真剣な人は

常に

「ゆとり」

がありますし、

それをとても大切に

しています。

 

なぜなら、

本当に全力を出すべき瞬間に

全力を出せる自分で

あり続けようと

しているからです。

 

そんな中で、

自分は

誰に何を頼れば

よいのか?

を決めることは

本当に

大切なことですね。

 

これも

セルフコーチングの

重要な要素の

一つです。

 

つづく

 

もっと真剣さが必要だ

 

真剣な人生を

生きることと、

適当な人生を

生きることは、

イコールです。

 

・・・と言うと、

ちょっと極端すぎますか?

 

よく私は、

研修やチームコーチングの

最中に

 

「もっと適当に

やってくださいよ」

 

という言葉を

かけます。

 

なぜならみんな

真面目過ぎるからです。

 

いえ、

真面目なのは

とても良いことだと

思っています。

 

真本音度合いも

結局は

真面目な人ほど

早く高まる傾向が

ありますし。

 

しかし、

真面目過ぎると

「深刻」になって

しまうのですよね。

 

深刻さは

実は、

何も生みません。

 

深刻な思考による

物事の決断は

道を開きません。

 

と断言しても

よいと思っています。

 

そして私は、

「適当」の対義語は

「深刻」ではないかと

思っています。

 

そして

「適当」の同義語が

「真剣」であるとも。

 

真剣な人は

いつも

肩の力を抜き、

朗らかで

軽やかです。

 

真剣な人ほど、

私は

表面的には

「この人、ホント、

適当だな」

と笑ってしまうのです。

 

・・・・・・

 

真剣さとは、

全力を尽くす

ということでは

ありません。

 

真剣さとは、

 

「どこで自分が

全力になるかを

見極める」

 

ことです。

 

本当に全力になるべき

ところで

自分の全力を

きちんと発揮できる

こと。

 

その状態を

常に持ち続けて

いること。

 

そういった人を

観ると、

私は

「真剣な人だなぁ」

と思います。

 

常に

何かに必死で、

「私は頑張ってます」感

を出している人は、

残念ながら私は、

「真剣じゃないなぁ」

もしくは

「この人は、

真剣さというものをまだ

わかってないんだな」

という見方をします。

 

・・・・・・

 

私は、

すべての人が

真剣に生きるといいな

と思います。

 

真剣に生きれば

必ず道は

開きます。

 

しかも

自分の望む現実が

拓かれていきます。

 

そのためには

深刻にならないこと。

 

そのためには、

自分の中の

深刻なものと

しっかりと

向き合えること。

 

深刻さから

逃げることで私達は

本当に深刻に

なります。

 

深刻さと

対峙することで、

私達は

深刻さから

自由になれます。

 

ただし、

その対峙の仕方が

大切です。

 

こここそを

私はすべての人に

お伝えしたい。

 

これが

私の言うところの

セルフコーチングの

真髄です。

 

対峙すべきものと

対峙する。

 

そして、

それをすればするほど

どんどん軽くなる。

 

深刻さから

解放されて

自由になる。

 

そして、

適当に、さらに

真剣に

人生の一歩一歩を

楽しめる。

 

一日一日の

満足感が

格段に上がっていく。

 

私の人生は

最高であると

思えるようになる。

 

すべての人が

そうなれると

本当にいいなぁ、と

私は願います。

 

つづく

 

本当に怒りを感じました

「私はいったいこれから、

本当は、

何をすればよいのだろう?」

 

このような問いが

もし

現れたら、

それは人として

本当に健全なことです。

 

実は、

私達の心の奥底には

常に

この問いが

存在します。

 

この問いは

「ゼロリセットの問い」

です。

 

常に自分を

ゼロに戻す、

原点に戻す、

問いです。

 

私は思います。

 

この問いは

毎日毎日

自分に投げかける価値のある

問いであると。

 

「私がやりたいことは

もう私自身が

よくわかっている」

とか

「私の人生の目的は

もう決まっている」

というように、

この問いについての迷いが

なくなった状態を

私は

「傲慢」

と呼んでいます。

 

それは単なる

思い込み。

 

本当の人生の目的とは

上記の問いを

何度も何度も

毎日のように自分に

投げ続けることによって

初めて見出されるものです。

 

・・・・・・

 

自分の人生の目的を

わかったつもりで

設定し思い込み、

本当はそれは

まったく違う方向なのに

「これが私の人生だ」

と決めつけてしまっている人が

あまりにも多いことに

最近はとても

悲しみを感じます。

 

目的を持つことは

大事。

 

でもそれは

真本音の目的で

あることが

必須です。

 

そして

真本音の目的とは

そうそう簡単には

見つかりません。

 

安易に

目的を設定している人を

見ると、

私はとても

危うさを感じます。

 

まだ

「私は自分のことが

全然わかりません」

と言っている人の方に

地に足がついている

感覚がします。

 

何かを勉強して

それに感銘を受けて、

いいなぁ、と思って、

私もそうしようと

決める。

 

勉強することは

大事ですし、

感銘を受けることも

大事。

 

でもそれによって

自分の人生を

安易に決めないで

ほしいのです。

 

一言で言えば、

机上の空論で

人生の目的を決める人が

多くて、

最近は特にその傾向が

高くて、

困っています。

 

そういった人は

本当に真剣に

人生を生きている人の

足を引っ張るからです。

 

今日、

ある社長さんと

お会いしました。

 

その人は

本当にご自分の人生に

真剣に

向かい合っている人

です。

 

そして、

真剣に人生を模索しながら

真本音で一歩一歩を

実践し続けています。

 

しかし、

多大なるストレスを

抱えています。

 

そのストレスが、

自分の一歩を進む上で

必然的に発生する

ストレスであるならば

全然、問題はありません。

 

しかしその社長の周りには

真剣であるフリをしている人、

もしくは、

自分が真剣であると

思い込んでいる人、

で、実は

自分の本来の人生の課題から

逃げまくっている人が

集まってきてしまって

います。

 

もちろんそれは

その社長ご自身にも

問題はあると思います。

 

が、

それでも私は

憤慨してしまいます。

 

もう少し、

自分の人生に

真剣になったらどうだ?

と。

 

その社長から

私が受け取ったのは

依存のストレス。

 

多くの人達が

「協力するフリをしながら

その社長に依存する」

ことによって発生する

ストレスです。

 

そのストレスで、

その社長は苦しんで

いました。

 

こういうケースに関して

私はとても

怒りを感じます。

 

何に対する怒りかと

言いますと、

「自己満足」に対する

怒りです。

 

わかったつもりになり

自己満足している

その行為に対する

怒りです。

 

それは、

かつての私がずっと

行ない続けていたこと。

 

だからこれだけ

憤るのだろうな、と

思います。

 

でも、

かつての自分を

戒める意味でも

思うのです。

 

自己満足は

本当にタチが悪いと。

 

・・・・・・

 

なんか今回は

怒りの表明みたいに

なっていますが。

 

でもしょうがない。

 

本当に今の私は

怒っています。

 

真剣な人を

真剣じゃない人が

妨害する。

 

それは、

どこの組織でも

必ずあることですし、

それが

世の常、とも言えます。

 

でもそれでもやはり

私は怒り

憤ります。

 

私はこういった面では

本当に

心が狭いなぁ、と思います。

 

でも一方で

こういうことに

真剣に怒ってしまうのが

私であるとも認めています。

 

これは私の

真本音の怒りです。

 

私は

真剣な人をサポート

したい。

 

自分の人生に対して

真摯な人を

サポートしたい。

 

人生に対して

真摯な人とは、

 

「私はいったいこれから、

本当は、

何をすればよいのだろう?」

 

こういった、

ゼロリセットの問いを

常に自分に投げ続ける

人を言います。

 

思い込みで進まない。

 

自己満足で進まない。

 

私自身もこれから

大切にし続けたい

ことです。

 

つづく

 

貫くべきものを抱き続ける人

決断のできない自分を

わざと創り出す。

 

決断のできない自分として

わざと優柔不断に

生き続ける。

 

それをその人の真本音が

意図して行なう。

 

もちろん、

本人の顕在意識に

その自覚はまったく

ありません。

ただ、

人生を生きることへの

モチベーションが

高まらないことは

自覚しています。

 

やろうと思えば

何でもある程度は

できてしまう。

 

しかし、

本気でとことんそれを

探求したり、

突き詰めたり、

極めることはしない。

どうしても、

そのような意欲が

湧いてこない。

 

本当はもっと

何かに真剣になりたいのかも

しれないけど、

どうしても真剣になれない。

 

こなすだけの

日々。

 

こなすだけの

人生。

 

こなすだけの

自分。

 

それが自分であると

心のどこかで

あきらめてしまっている。

 

しかし

そう思っているのは

顕在意識だけ。

 

本当は真本音のレベルでは

その人は

着々と

自らの人生のミッションへの

道を

進み続けている。

 

それが

「真本音優柔不断タイプ」

です。

(→前回記事)

 

・・・・・・

 

そのタイプの人の

中には、

言いようのないくらいに

強く、深く、鋭い、

貫くべきものが

あります。

 

貫くべきものを

その人はずっと

心の奥の奥の奥に

抱き続けています。

 

決してそれは

その人の顕在意識には

感知できないものです。

 

貫くべきものを

抱き続ける人。

 

それが、

あまりにも強過ぎる人。

 

強過ぎるが故に、

その自分の「本気さ」を

いつ全開にするか?を

とてつもなく慎重に

真本音は見極めています。

 

その人が

本気を出したら

怖いのです。

 

その人自身が

自分を止められないくらいに

凄まじいスピードとパワーで

突き進んでしまうのです。

 

それが激し過ぎるので、

周りの人達が

ついて来れなくなる可能性が

高いです。

 

いえ、

ついて来れないだけなら

まだよいでしょう。

 

エネルギーが高過ぎて、

そのエネルギーでもって

周りの人を

傷つけてしまう可能性さえ

あります。

 

ですからその人は

・・・その人の真本音は

慎重です。

 

世の中全体の真本音度合い

の高まりを感じ、

安定度を感じ、

人々の本質的な強さを

感じながら、

自分が本気を出してもよい

環境ができあがるのを、

じーっと待っていたのです。

 

・・・・・・

 

でも、

準備は整いました。

 

真本音優柔不断タイプの

人達が、

その優柔不断さから

解放されて、

本気を出せる土壌は

整ったのです。

 

あとは、

その人達が

自らの本気さを喚起すること。

そして、

自らの強大なエネルギーを

コントロールすること。

 

それが重要です。

 

私はその二つの

サポートをすることが

役割です。

 

・・・・・・

 

自分は、

真本音優柔不断タイプでは

ないか?

 

そう思った人へ。

 

まずは、本当にあなたが

そのタイプかどうかを

確かめる方法を

お伝えします。

 

以下の通りのことを

してください。

 

まず立ち上がり、

両足を肩幅くらいに広げます。

 

気をつけの姿勢で

肩の力を抜きます。

 

自分のおへその奥の

体の中心と

頭のてっぺんの中心を

結ぶイメージをします。

すると、

体の中に中心軸が

できますね。

 

その中心軸を、

上の方にずっと

伸ばしていきます。

 

ずっとずっと伸ばし、

宇宙の彼方まで

無限に伸ばしてください。

 

それができたら、

次は、

中心軸を

下へ下へと伸ばします。

 

今度は

地球の中心に

たどり着くまで

伸ばしてください。

 

地球の中心と

あなた自身の中心軸と

宇宙の彼方が

一本の線で結ばれましたね。

 

あとは、

その結ばれた一本の線を

観察してください。

 

そうですね。

 

できれば、

5分ほど、観察を

続けてください。

 

そして

その観察した結果を

覚えておいてください。

 

この続きは

明日書かせていただきます。

 

つづく

 

自分を矯正する人生は、深刻になるだけ

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただきましたが、

(→前回記事)

それは、

「反応本音のクセ」

の一つです。

 

反応本音とは、

私達人間が現実(現象)世界と

関わる中で、

現実(現象)からの影響を受けることで

発生する心です。

 

一つの現実に対して

様々な反応本音が大量に

発生します。

 

そのうちの一つを

私達は選択し、

その反応本音に基づいて

私達は行動します。

つまり、

次の自分の言動や振る舞いを

決定します。

 

その、

反応本音の選び方を

私達は無意識に

パターン化します。

 

それが

反応本音のクセ

となります。

 

「虚勢を張る」

というのはそういったクセの

一つです。

 

もちろん、

それ以外のクセもあります。

 

例えば、

「虚勢を張る」のとは

真逆のクセがあります。

 

それは、

「自分を卑下する」

です。

 

自分なんて

どうせダメだから。

自分なんて

どうせできないから。

自分なんて

価値のない人間だから。

自分なんて

どうせ上手くいかないから。

自分なんて

・・・

と、最初から諦めて

物事に挑戦しない、とか

積極的に取り組まない

などの出方をします。

 

また、例えば、

「人に迎合する」

というクセの出方も

よくあります。

 

自分を出すことよりも、

人の意見に合わせたり、

イエスマンになったりしながら、

その場を取り繕う

ことをすぐにしてしまいます。

人間関係において、

波風を立たせたくない

のです。

波風が立つくらいなら、

自分が我慢すればよい、

と、ほとんどの物事に対して

打算的に考えています。

 

その逆に、

「人を否定する」

というクセもあります。

 

自分の考えが一番正しいと

思い込み、

他の人はすべて未熟だと

思い込み、

自分の考えに合わないことは

すべて否定しようとします。

要するに、

頑固ということなのですが、

悪い意味での

評論家っぽくもあり、

口を出す割には

口だけしか出さない。

自分が責任を負って

すべてを引き受けることは

しません。

理論的に否定するだけの

口だけ大将です。

 

・・・というように

反応本音のクセを書き出せば

本当にキリがないくらいに

様々なパターンがあり、

その一つ一つを

しっかりと見ていくと、

かなり深刻に思えます。

 

自分の

・心と

・行動(振る舞い)と

・起こす現実

に悪循環を起こし、

結果として自分の望まない

人生を創り出します。

 

しかも

面白いことに、

一つの反応本音のクセを

治そうとして

たとえそれができたとしても、

さらに次のクセが

出来上がるだけなのです。

 

一つのクセを見つめると、

深刻になり、

そのクセを必死に治しても、

さらに次のクセが

出来上がる。

 

それに対して

また深刻になり、

クセを矯正しようとする。

 

でもまた次のクセが

浮上する。

 

・・・という感じで、

本当にキリがありません。

 

それをやり続けているうちに

人生が

終わってしまうでしょう。

 

しかもその人生とは、

深刻なクセを治すための

深刻な人生だった、

ということになります。

 

しかし

「深刻な人生」

「真剣な人生」

は根本的に異なります。

 

残念ながら

深刻さからは何も

生まれません。

 

反応本音を矯正し続ける人生

からは

何も生まれないのです。

 

むしろ

自分の本当の「道」を

見出すためには、

その深刻さのサイクルから

抜け出す必要があります。

 

そのための

第一歩とは

何でしょうか?

 

それは、

 

『どうでもいいじゃん』

 

という一種の

おおらかさを持つこと

なのです。

 

「何があってもいいじゃんか」

とか

「どんなクセがあっても

構わないよ」

という

おおらかな目線で

自分の心と行動を

見つめることです。

 

ただし、

あるがままに

見つめること。

要するに

『観察』であり

『観る』ことです。

 

やはりまずはそれが

すべての土台に来ます。

 

そしてその上で

一つ、

とても重要なことをします。

 

それがすべての

始まりとなります。

 

続きは次回に。

 

つづく

 

徹底的に人と向き合い続けて実感すること

前回、前々回と、

「若者を妨げてはならない」

というお話を書かせていただきました。

(→前回記事)

 

が、ここからは、

ただし、・・・・

というお話をしなければなりません。

 

ただし、

条件があるのです。

 

すべての若者を妨げてはならない、

ということではなく、

一つ重要な条件があるのです。

 

それは、

真剣な若者、

もしくは、

真剣になろうとしている若者

に限る、

ということです。

 

言葉を換えるならば、

自律している若者、

もしくは、

自律しようとしている若者

に限る、

ということです。

 

「自律」については、

また改めてじっくり書かせていただく

ことになると思います。

が、ここでは深追いしないままに

書き進めたいのですが、

実は、

すでに自律している若者は

結構いるのです。

 

ただし本人は

「これが自律である」

とは認識していません。

むしろ、

大人達、先人達を見ながら、

自律している自分を

「ダメな生き方だ」と認識してしまい、

せっかくの自律の芽を

自ら踏み潰してしまっている、

という状況にあります。

 

人生の先輩の生き方・行き方を

学ぶことで、

自律から依存の生き方に

自ら修正してしまっているのです。

 

これを私は

社会の損失だと

強く思います。

 

「それこそが自律で、

それこそが重要なんだ」

ということを教える大人が

必要です。

 

少し強烈な表現を使いますが、

私達の世代は、

「依存し合うことで成り立つ社会」

を創ってしまったのでは

ないでしょうか。

 

そして残念ながら、

多くの若者達は、その依存社会に

染まってしまっています。

 

しかし、そこに染まらずに

経験が少ないにも関わらずに

毅然と進もうとしている若者も

いるのです。

それが、

・自律している若者

・自律しようとしている若者

です。

 

私は、そういった彼らを

妨げたくない、かつ、

後ろから後押しができるとよいなぁ、

と思っています。

 

彼らを導くのは

彼ら自身。

 

私が、他者が

導くのではありません。

 

彼らが自らを

存分に導けるような

後押しこそが、

今の世の中には必要です。

 

さて、もう一度ここで

ただし、・・・です。

 

自律している、もしくは

自律しようとしている若者の比率は、

私の実感値だけで申せば、

恐らく2割くらいです。

(結構、多いでしょ?)

 

あとの8割は

鍛えなければなりません。

 

しかし8割の内の半分以上は、

きちんとした刺激を与えれば、

自律、もしくは、自律しよう

とし始める可能性が高いです。

 

しかし適切な刺激がなければ、

依存的人生へまっしぐら

でしょう。

 

依存ではなく自律の道へ

大きく転換するための

適切な刺激を与えるのも、

私達世代の役割であり、

私のやりたいことでもあります。

 

私はこれまで、

本当に多くの人と

向き合ってきました。

 

もちろん、

自分自身とも

徹底的に向き合い続けました。

 

その中で一番実感するのは、

人の持つ

神秘さ

です。

 

人は、

神秘です。

 

人というのは、

向き合えば向き合うほど、

理解すれば理解するほど、

神秘のベールに包まれている“何か”を

より強く実感します。

 

私はその神秘さを、

この世の中でもっともっと

発現させたい。

 

先日出会った

ある20代半ばの社長が、

言われていました。

 

「私は、

シンギュラリティの先の世界を

見届けたい。

そこに責任を持ちたい」

と。

 

この想いは

私も同じです。

 

人が為すことに対して

人として責任を持つ。

 

そのために自分には何ができるか?を

真剣に試行錯誤する。

 

この当たり前の感覚と行動力を

持つ人を

私は増やしたい。

 

これが今の私の

重要なミッションの

一つです。

 

つづく

 

自分を本当に信頼していますか?

平井さんが、依存から自律へと変化できたのは

なぜでしょうか?

(→前回記事)

 

平井さんが、深刻から真剣へと変化できたのは

なぜでしょうか?

 

そのきっかけは、

自分自身との「本能的信頼関係を結べた」からです。

(→本能的信頼関係についてはこちら)

 

要するに、本当の意味で自分自身を

信頼することができるようになったからです。

 

ではなぜ彼は、自分を信頼できるようになったのか?

その答えは極めてシンプルです。

 

「真本音で生きるようになった」からです。

 

真本音とは、揺るがぬ自分です。

どのような状況、どのような環境においても

変わることのない自分です。

 

その自分は、人生に対する揺るがぬ願いを

持っています。

 

何のために自分は生きるのか?

この世の中において、どんな役割を自分は果たすのか?

どのような強みを、どう活かしていくのか?

 

それらを「願い」として明確に抱いています。

 

真本音で生きるとは、

その「揺るがぬ願い」に向かって生きる

ということです。

 

今、この瞬間に自分は何をするか?

今、この瞬間に自分は何を言うか?

 

今、この瞬間に自分は何をしないか?

今、この瞬間に自分は何を言わないか?

 

日常における、自分の一歩一歩を

真本音に素直に出し続ける。

その度合いが増せば増すほど、

自分自身が喜びます。

 

そして、自分の揺るがぬ願いに素直な自分を

自分が信頼するのです。

 

逆に言えば、

自分の真本音をないがしろにした言動を

繰り返すことで、

私達は自分への信頼を失くしていきます。

 

自分への信頼を失くしてしまうと、

自分の「決断」を信じられなくなります。

自分の決断が信じられなければ、

常に「迷う」という状態になります。

 

迷いながら進めば、

当然ですが、物事は進展しません。

 

例え同じ選択をしたとしても、

本当に決断をしてその道を進めば、

どのような障害があっても乗り越えられます。

しかし、

迷いながらその道を進めば、

ほんの少しの障害に出会うだけで、

すぐに止まってしまいます。

 

人生に正しいかどうか、という答えはありません。

大事なのは、

自分が決めた道を進めるかどうか?

しかし、

自分が決めること自体ができなければ、

人生は一向に進みません。

望む未来は決して

実現しません。

 

自らの真本音に素直に生きるかどうか?

 

それで、すべてが決まります。

・・・と言っても過言ではないと私は実感しています。

 

「おはようございます」

と、挨拶一つをするにしても、

それを真本音でするかどうか?です。

 

真本音ですれば、

その人らしい、その瞬間における最善の

挨拶ができます。

 

それができるかどうか、で

その後の展開が大きく変わります。

 

今この瞬間における些細な言動の一つによって

人生の展開は大きく変わります。

 

それをわかっているからこそ、

真剣な人は、今この瞬間を大切にします。

 

今この瞬間に真本音で生きる、

という度合いが高まることを私は、

「真本音度合いが高まる」

と表現しています。

 

真本音度合いが高まれば、

自分を信頼する度合いも高まります。

 

決断力も増します。

直観力も増します。

他者との信頼度も増します。

生産性も、必要な能力も、ほしい成果を手に入れる可能性も

増していきます。

 

では、どのようにすれば

真本音度合いは高まるのでしょうか?

 

それを、平井さんの例をもとに

ご紹介していきます。

 

つづく

 

ゆとりがあるのは真剣な証拠

今回も「自律」について、さらに深掘りします。

(→前回記事)

 

「私は私なりに一生懸命やっています。」

 

企業サポートをしていますと、こういった言葉を

よく聞きます。

 

しかし残念ながら、この言葉も

依存している人の典型的なセリフです。

 

自律している人は決してこのようなセリフは

言いません。

 

「一生懸命」によく似た言葉で

「真剣」

という言葉があります。

 

この二つはよく似ていますが、

本質が異なることは、何となくニュアンスとして

わかりますね。

 

もちろん、どちらも大切なことです。

 

自律している人は真剣です。

しかし、依存している人は真剣ではありません。

 

その違いは何でしょうか?

 

私はよく以下のような喩え話を用います。

 

「一生懸命」とは、

竹刀で必死に練習しているイメージです。

 

竹刀をブンブンと振り回して、

自分の能力向上のために努力しています。

 

もしくは、竹刀と竹刀を使った試合のようなもの。

 

勝つために、一生懸命に試合に取り組みます。

 

一生懸命に練習する人とそうでない人。

一生懸命に試合する人とそうでない人。

 

その二人がいたら、もちろん

一生懸命な方が、能力も実力も上がっていきます。

試合に勝てる頻度も高まります。

 

ですので、「一生懸命」は大事なことです。

 

しかし自律した人から言わせれば、

「一生懸命なんて、当たり前でしょ」となります。

わざわざそんなことはアピールすることではない、と。

 

「真剣」とは、

文字通り、真剣(本物の刀)で立ち合いをしているイメージです。

 

つまりそれは、命のやりとりです。

 

真剣と真剣で立ち合う時、

そこではほんのわずかな隙も見せられません。

 

竹刀の場合であれば、

エイヤッで、思い切って竹刀を振り下ろせば

よいかもしれません。

一か八か、でもよいかもしれません。

その結果、試合に負けたとしても、

それはそれで悔しいですが、次があります。

 

真剣の立ち合いとは、次がありません。

 

負ける、イコール、命を落とす、ということです。

 

ですから、エイヤッというような、

ただの勢い任せの一太刀を出すわけには

いきません。

 

真剣の立ち合いに出る前には、

当然のごとく、最高の自分に仕上げなければなりません。

そうでなければ、命を落とす可能性が高まるからです。

 

立ち合いでは、自分の集中力のすべてを使って

相手に集中します。

相手の呼吸、相手の思考、相手の空気感、

相手のわずかな動き、・・・。

すべてに意識を向け、

本当に必要な動きのみを自分はします。

 

不必要な動きは、命取りです。

 

自分自身の呼吸を整え、

自分のすべてのエネルギーをその場に集中させ、

自分が本当に必要だと思う動きのみをとります。

 

そのため、力は抜きます。

本当にいざという瞬間に、すべてのパワーを

込めるために、

心も体も自然体で、力を抜いています。

 

そして、「ここぞ!」という瞬間を待ちます。

 

ここぞ!という瞬間に、ここぞ!という一太刀を

振り下ろします。

 

それが「真剣」です。

 

つまり、ある意味、結果がすべてです。

負ける=死ぬ、だからです。

 

そこには、言い訳も努力もありません。

勝つか負けるか。

それだけです。

 

私達の日常では、もちろんこのような命のやり取りは

稀です。

 

毎日、真剣による立ち合いをしているようでは、

神経が擦り減ってしまい、それこそ寿命が縮まります。

 

しかし、先ほども書きました通り、

真剣な人とは、普段は力を抜いています。

 

本当に「ここぞ」という時に力を発揮します。

 

なぜならそれは結果を出すためです。

 

「私は私なりに一生懸命やってます」

という言葉が、いかに真剣な人から見れば

「変な言葉」として映るのか、

その理由がここにあります。

 

人生に言い訳は必要ありません。

人生に弁解は必要ありません。

 

言い訳や弁解が出た時点で

依存です。

 

私達人間には、真本音があります。

 

真本音には、人生の願いが詰まっています。

 

自分はどんな人生を創り上げたいか?

自分は人生において、何を成し遂げたいか?

そのために自分のどのような個性を活かして、

どのような役割を担いながら、それを果たしたいか?

 

それは私達の真本音が決めています。

 

自分が決めた「願い」を

自分が実現する。

 

そこに真剣な人は、

今、自分が何をすればよいか?

今、自分は何をしてはならないか?

に対して、とても真剣です。

 

そして、今自分のすることのみを

真剣に行ないます。

 

今、自分のすべきことをしない、のは

とても気持ち悪くてしょうがありません。

 

今、自分がしてはならないことをする、のも

とても気持ち悪くてしょうがありません。

 

だから、気持ちの良いことをし続けます。

 

すべき時にします。

しない時には完全に力を抜きます。

 

なので、いつもどことなく

「ゆとり」があります。

 

肩の力を抜き、自然体です。

 

それは自分を完全にコントロールできている

状態です。

 

ですから、真剣な人とは自律した人なのです。

 

自律とは真剣なのです。

 

コーチという視点で、私が平井さんを見ていて

最も変化したと思うのは、

平井さんが、「余分な行動をまったくしなくなった」

ということです。

 

それは日常の些細な振る舞いにも現れました。

 

例えば、

余分な一言を彼はまったく言わなくなりました。

 

以前の彼は、相手を茶化すような冗談を

よく言っていました。

恐らくそれは、場の雰囲気を和ませるための

彼なりのコミュニケーション手段でした。

 

しかしその彼の冗談が、

信頼をなくす要因の一つになっていました。

もちろん、彼本人はそれを知りません。

 

それが、自然になくなりました。

 

私はよく、「真剣性」という言葉を使います。

彼の真剣性が高まることにより、

彼は、余分な一言がなくなりました。

 

余分な行動がなくなりました。

 

余分な仕事をしなくなりました。

 

余分な時間の使い方がなくなりました。

 

結果として、彼には時間ができました。

いつもどの社員よりも忙しそうだった彼が、

今は、誰よりも「ゆとり」があるように見えます。

 

ゆとりのある目線で、彼はすべてを観察します。

 

そして、ほんのわずかでも心に引っかかることを

発見すれば、最善のタイミングと方法で、

それに対応します。

 

そんな彼の立ち振る舞いを見ていますと、

あぁこれが真剣性が高まるということなのだな、

とわかります。

 

真剣性が高まるということは

自律性が高まるということです。

 

自律とは、真剣です。

 

そして真剣な人、自律した人は

一緒にいて、心が和みます。

 

こちらも幸せな気持ちになれますね。

 

自分の人生に対して真剣かどうか?

 

すべてはこれに尽きると、

私は思います。

 

つづく

 

深刻になっても何も生まない

私の本当に望む人生とは何だろうか?

 

この問いにすぐに答えられる人は

稀です。

 

時々、すぐに答える人と出会いますが、

その答えは、大概、浅いです。

 

そんなに簡単に答えられる問いではないですね。

 

でも、

この問いに真摯に向き合うことは

本当に重要なことだと、

私はこの仕事を通じて、深く実感しています。

 

私の本当に望む人生とは何だろうか?

 

答えがわからなくとも、

その答えを真摯に見つけようとする。

 

そういった人には、独特の空気感が

現れます。

 

その空気感をシンプルに表現すると、

「明るい」

「軽い」

「あたたかい」

となります。

 

逆に言えば、

その問いと真摯に向き合ってない人の空気感は、

「暗い」

「重い」

「冷たい」

となります。

 

人は、自分の人生と真摯に向き合う時に

本来の魅力を発揮します。

 

私の本当に望む人生とは何だろうか?

 

その答えを見つけようとしている人は、

「真剣」です。

そして真剣な人は、

明るく、軽く、あたたかく

なります。

 

それは行動ベースの話ではなく、

空気感の話です。

 

自分の人生と向き合わない人は、

「深刻」になります。

深刻な人はすぐに、

暗く、重く、冷たく

なります。

 

あなたは、

真剣な人でしょうか?

それとも

深刻な人でしょうか?

 

平井さんは、

深刻な人から、真剣な人へと

変化したのです。

それにより、

彼の醸し出す空気感が変わりました。

 

ただそれだけのことです。

(→前回記事)

 

では、「真剣」とはどういうことでしょうか?

 

これに対しては私は

明確な答えを持っています。

 

真剣とは、

「自分の真本音に素直に生きること」

です。

 

ということは、

「自分の真本音を無視して生きること」

により、人は深刻になっていきます。

 

真剣な人生は、

明るく、軽く、あたたかく

なっていきます。

 

深刻な人生は、

暗く、重く、冷たく

なっていきます。

 

自分が今この瞬間に創り上げている人生がそのまま

その人の空気感となって現れます。

 

ただそれだけのことです。

 

そして人は、

真剣に生きる自分を

喜びます。

 

深刻に生きる自分を

蔑みます。

 

自分を蔑み続けている人が

自分自身を本当の意味で信頼することは

不可能です。

 

そういった人は、

自分の中に「見たくない自分」が生まれると、

間違いなく、その自分にフタをします。

 

見たくない自分。

例えば、

怒りまくる自分、

人を憎む自分、

すぐに揺れる弱い自分、・・・。

 

そういった自分にフタをして、

見たい自分だけを見るようになります。

 

見たい自分。

例えば、

前向きな自分、

エネルギッシュで強い自分、

人を愛する自分、・・・。

 

見たい自分は居心地がいい。

見たくない自分は居心地が悪い。

だから、居心地の良い自分だけを承認します。

 

そして、

「私は何があっても前に向かうんだ」

と言います。

「私は、どんな時もプラス指向だ」

と言います。

そして明るい表情を作り、

元気を作り、

たくましさを作り、

進みます。

 

そして、

それができている自分に

自信を持ちます。

自分はすごいなぁと、

自信を持ちます。

 

しかしその自信とは裏腹に、

心の奥底ではどんどん不安が増します。

深刻さが増します。

 

自信のある自分だからこそ、

立っていられる。

でもこの自信がなくなってしまったら、

自分はどうなるのだろう?

・・・そんな深刻さが日々、増していきます。

 

何としてでも、

自信のある自分でなければならない。

この自信を失ってはならない。

そんな恐怖感が、心の奥底に

溜まり続けます。

 

その恐怖感を消すために、

さらに前向きな自分を作ります。

 

・・・そんな人が多過ぎる!

 

そんな人が世の中を牽引している。

 

その現実が、私はとても悲しいです。

 

自分の良き部分のみに光を当て、

自分の見たくない部分にはフタをする。

それを前向きとは、言えません。

 

本当の前向きとは、

自分のすべてを受け止めること。

自分のすべてを見つめること。

その上で、それでも前に向かおうとすること。

それが真の前向きだと私は思います。

 

そしてそういった人は例外なく、みんな

明るく、

軽く、

あたたかく、

なります。

 

もっともっと自分の心と

向き合えばいいのに。

 

もっともっと、あるがままの自分を

見つめればいいのに。

 

そうすれば、

もっと楽に進めるのに。

 

そうすれば、

もっと望む現実を創り出せるのに。

 

・・・私はそう思うのです。

 

人は本来、

真剣です。

 

真剣に生きることが

楽しいのです。

 

真剣に生きる楽しさを

思い出すだけのことだと

私は思うのです。

 

それが私のサポートのすべてです。

 

真剣になることの楽しさを

思い出せば、

人は皆、(・・・そうです、全員です)

びっくりするような行動を起こし、

現実を創り上げていきます。

 

そんな時私はいつも

人ってやっぱり凄いんだなぁ、

と感嘆します。

 

つづく