人の放つエネルギー
は、
中途半端だと
キツい。
それは
エネルギー
というよりも、
単なる「圧」のように
感じられる。
せっかくの
エネルギーが
「人を圧するため」に
作用してしまう。
そうなると
周りの人達は
必然的に
イエスマン
になる。
人を圧するエネルギー
は怖い。
そのエネルギーからは
誰もが
逃げたくなる。
離れたくなる。
気がついたら
周りに誰も
いなくなっていた。
・・・イケイケどんどん
の人の多くは
そのような結末に
なりやすい。
すべては
中途半端なエネルギー
の作用だ。
・・・・・・
中途半端なエネルギー
は、
中途半端な志
から来る。
その志は
残念ながら
本当の志ではない。
多くは、
志のふりをした
自己顕示
であったりする。
もしくは、
志のふりをした
承認欲求。
要するに、
自己愛の形。
自分が可愛く、
自分のために
「まわりのため」の
ふりをしている。
ちょいと
言い方がキツい
かな。
でもあえて
事実のみを言えば
そういうことだ。
かつての私も
そうだったので、
よ〜くわかる。
・・・・・・
真本音の志。
これはみんな
持っている。
たとえまだそれが
明確でなかったと
しても、
そこに気づき
そこに向かえば、
その人からは
本来のエネルギーが
放たれるように
なる。
本来のエネルギーは
最初はまだ
微弱かもしれない。
しかしそれは
「中途半端」
ではない。
中途半端とは、
量のことでは
ない。
エネルギーの
質のことだ。
純粋な
エネルギーかどうか?
だ。
本来のエネルギー、
純粋なエネルギーは
もちろん時には
それが明る過ぎて
一見すると
人を圧してしまうかも
しれないが、
それはあくまで
表面的なこと。
本来のエネルギーとは
愛そのものでも
ある。
それは
実在のレベルでは
人をあたたかく
包み込む。
そんなエネルギーを
放つ人と
向き合うと、
私は一瞬で
その人とつながる感覚を
得ることができる。
もちろん最初から
そういったエネルギーを
発している人は
稀だ。
しかし
ある時ある瞬間に
突然、
中途半端なエネルギー
が
本来のエネルギー
へと
変換される。
それは
予測できない場合が
多い。
突如として
変質するのだ。
もちろんその
理由の大本は
真本音で生きる
ことだ。
・・・・・・
私が、組織において
「要(かなめ)」
と呼ぶ人達は、
そういった
本来のエネルギーへの
変質が
起こりやすい人の
ことだ。
そういった人は
どの組織にも
必ずいる。
社長が
「いや、ウチには
いないよ、絶対」
と言われても、
これまでいなかった
試しがない。
そういった
「要」になる人を
見つけるのが
「コーチ」である私の
役割だ。
今日、
ある会社の
思わぬ人が
「要」として
浮上した。
急浮上。
それがとても
嬉しかった。
人は
変わるものだ。
つづく