チームパフォーマンスコーチ

新たな関係性に変換する時

背後に
人の気配が
する。

誰かが
私の両肩に
後ろから
両手を乗せてきた。

後ろから
私を
支え、かつ
後押しをしてくれる
格好だ。

この
実在の感覚が
くる時、

私はとても
幸福感を
覚える。

なぜなら
これは、
誰かが開花した
証だから。

しかも
その人は
開花によって
私と何らかの
連携を取れるように
なる。

つまりは
仲間のように
なる。

誰だろう?


私は少し
ワクワクしながら
背後のその
気配に
意識を向ける。

いつも最初は
ちょっと
わかりづらい。

しかし
徐々に誰だか
わかってくる。

あぁ、
あの人か。

ある
クライアントさんの
顔が浮かぶ。

そうか、
そろそろ
あの人とも
サポートする側
される側
という関係を
卒業なのだな。

ここから
新たな
関係が
始まるのだな。

私は
背後の
その気配の人に
問う。

あなたは
いつ、
私から
どのような
問い、
もしくは
どのような
メッセージが
ほしい?

明確な
答えが
返ってくる。

あとは
その通りに
実行するだけだ。

つづく

分身することがある

実在の
レベルで、

自分が
分離する
ことがある。

分身、
と言えば
よいか。

何体もの
私が
発生する。

そして
拡散する。

様々な場所に
散っていく。

そうした
場合、

ここにいる
現象の私は
極度に
集中力が
下がってしまう。

場合によっては
ボーッとして
身に危険が
及ぶこともある。

なので
こういう時は
安全な場所に
座ったりする。

人と
コミュニケーションを
とっている最中に
こうなることも
あるので、

その場合は
さりげなく
コミュニケーションの
輪から
外れる。

見守る風な
状態となるのだが、
実は
見守っても
いない。

ただそこに
ボーッと
しているだけだ。

実はこれ、
私の
二人の息子も
時々、
同じ状態になる。

次男など、
子ども園で
長くその状態に
入ってしまい、

園の先生方が
心配されて
早退して
帰ってきたことも
ある。

心ここに
あらず
状態。

私は昔から
よく
そうなっていた。

今は
実在の様子が
わかるので、
理由がわかって
いるが、
昔は、私は
すぐにボーッとなる
私自身が
本当に嫌いだった。

さて、

分身し、
分散された
実在の私(達)は
何をしているか?
と言えば、

その時その時で
状況は異なる
のだが、

多くの場合は、

同時に
様々な人達の
実在の状態を
感じとり、

そこで
同時に
何が起きているか?


掴もうと
している場合が
多い。

大体、
こういう時だ。

例えば、
あぁ、
この企業は
今、まさに
実在のレベルで
大きく
変貌しようと
しているのだな、と
わかるのは。

これは
千載一遇の
チャンス。

分身分散
していた
実在の私(達)が
様々な情報を
持ち帰ってくる。

とはいえ、
具体的なことは
現象の私には
わからない。

わかるのは
「千載一遇の
チャンスだ!」
という
強烈な感覚と、

その直後に
浮上する

強烈な
直観だ。

その直観
とは、

今、
私は
何をすれば
良いか?

という
ことだ、
多くの場合。

例えば、
今、私は
ここで、
誰と会い、
その人に
何を
問いかけ、
何を
メッセージすれば
良いか?
というような
ことだ。

私は
確信の感覚のみ
を持ちながら、

しかし
思考レベルでは
何もわからない
まま、

自信はない
のに
確信いっぱいの
眼差しで、

その行動を
そのまま
実行する。

すると、
当の私自身が
びっくりするような
展開が
起こっていく。

これが
いつも私が
行なっていること。

実在と現象、
両方の
現実を大切にした
私なりの
サポートだ。

つづく

真本音と名づけたもの

揺れ揺れに
荒れている、

その人は。

心が
乱れに
乱れている。

大混乱。

あること
ないことを
口走る。

私は
黙って
ただすべてを
そのまま
受け止める。

うなづいて
聴くだけ。

しかし、

聴けば
聴くほど
より
感情は溢れ、

収集が
つかなくなる。

それで
いい。

その人の
感情に
私の全身が
溺れてしまう
くらいになり、

そこで
ようやく
観えたのだ。

その人の
中心の
光が。

混乱して
混乱して

取り乱して
取り乱して

我を
失って

初めて

実は
その中心に

どのような
混乱が
あっても
変わらずに
存在し続ける
もの、

(それは
強い光のように
観える)

・・・が
見つかるんだ。

混乱を
極めることで
初めて
決して混乱
しない部分を
認識するんだ。

我々
人間は。

それを
私は
「真本音」

名づけたんだよ。

つづく

亀裂が安定を生む

ある瞬間に
ふと、

空間に
亀裂が入る
ことがある。

もちろん
それは
実在レベルの
話だ。

亀裂が
見つかると、

以前の私は
恐怖を
感じていたが、

どうも
そうではない

わかった。

亀裂は
チャンスだ。

今ここの
枠を
破る。

内側
から。

だから、
亀裂を見つけると
私は
かなり
積極的に
その亀裂に
飛び込む。

飛び込むと
どうなるか?

言うと、

現象面では
何かが
とても安定する
のだ。

例えば、
その場の空気が
一瞬にして
安定する、とか。

すると逆に
私は無茶が
できる。

冒険的な
振る舞いが
できる。

例えば、
その場にいる
Aさん、

そのAさんは
なかなか
自分の殻を
破ろうとしない人、

そんな
Aさんに
無茶振りを
したりする。

すると
びっくりする
くらいに
Aさんは私の
言葉を
素直に
受け止める。

実在の
亀裂は、
どうやら
突破口なのだ。

突破口に
飛び込むと
現象は
安定し、

これまで
不安定で
できなかったことが
急に
できたりする。

実在と
現象、

両方の現実と
共に生きる

とは、
例えば
こういうことだ。

つづく

混乱の極みへ

海と山が
合わさっている。

海の中に
山が生まれ、

山の中に
新たな海が
生まれる。

それらが
混ざり合うことで
一見すると
混乱の極み
となる。

混乱・混沌・・・。

しかし
本来、秩序とは
こういった
一見すると
混乱・混沌の
中にこそ
存在する。

表面上の
まとまりは、
実は
脆弱だ。

最も
エネルギーが
高く、かつ、
あたたかく、
かつ、自由で、

そして
調和が
取れているのは、

混乱・混沌を
楽しんでいる
時だ。

混乱・混沌が
循環している
時だ。

私達には
どうしても
「まとめよう」
という
癖がある。

これを
外してしまうと
いい。

「まとめよう」
として
仕組みが
出来上がるのでは
ない。

混乱・混沌の
中から
自然発生的に
浮き上がる、

そう
まるで
大荒れの海の
中から
突如として
陸が浮かび上がる
ように、

それが
本来の仕組み
だ。

我々人間は
そういった
真の仕組みを
生み出すために
ここにいる。

だから、
混乱・混沌へ
突き進もう。

混乱・混沌の
方向へこそ、

舵を切ろう。

つづく

躊躇を外そうと思う

発信の仕方を
かなり
変えようと
思う。

これまでは
かなり
自制していた。

自分の
本当の部分を
出さないように
してきた。

でも
もう
それでは
間に合わない

わかった。

それに、
実在レベルで
この世の中も
整った。

強引に
整えた
という話も
あるが。

だから
発信の仕方を
変えようと
思う。

実は、
ちょうど一年前、
一冊の本を
書いた。

中身は完成
したし、
ほんの一部の人
には
読んでも
いただいた。

でも、
製本もしなかったし
出版もしなかった。

それに、
4年前から、
毎晩、
「ヴォイス講座」
という名目で
一日、10分くらいずつ
一人で
実在と現象についての
解説をする
録音も続けてきた。

現時点で
1,373回分ある。

膨大な量だが、
まだ
本当の核心部分
には
至っていない。

それをそのまま
世に出すかどうか

わからないが、

こういった内容を
少しずつ
何らかの形で
展開することも
考えようかと
思っている。

PodCastも
始めるつもりだ。

とはいえ
こちらはまだ
タイトル(100タイトルくらい)
が決まっただけ。

今日から
まずは
プロトタイプの
録音を始める。

ただこちらは
仲間と共に、
しっかりしたものに
完成させるので
それなりの
時間がかかるだろう。

実は、
別の仲間と共に
すでに
YouTubeも
TikTokも
始めている。

ただ、
まだまだそこでは
私は
実在のエネルギーを
躊躇している。

手探りで
徐々に開放していく
つもりだ。

だからまだ
多くの人には
案内せず、
こっそりやっている。笑

こちらも
これからだ。

さらに、

今年の春を
目標に
新商品を
大々的に発表する。

これも
仲間と一緒に
やっている。

世の中に
大きな
刺激を入れる
新サービスだ。

さらに、
他にも
まだ語れない
様々なプロジェクトが
走っている。

これまでの
私は
ずっと

「躊躇」

の中にいた。

自分の本来を
出すことよりも、

世の中のペースに
合わす

ことを
優先した。

ここからは
少しずつだが、

躊躇を
外す。

それによって
逆に
みんな
引くかもしれない。

どうなるかな?


心配でも
あるが、

もう
そうしなければ
間に合わないのだ。

私が
ここにきた
意味が
なくなるのだ。

つづく

心は何度も壊れたよ

人としての
自分の心が

完全に
壊れる

という経験を
私はこれまで
何度もした。

実は、
今も
そうだ。

数日前に、
完全に
壊れた。

私は
私の心が
粉々に
砕かれたことが
わかった。

何かの事件や
きっかけが
あったわけでは
ない。

日々、
無理を
し過ぎた。

心の限界を
超える
負荷を
与え続け過ぎた。

だから
壊れるのは
当たり前。

自業自得
だ。

しかし
壊れたにも
関わらず、
このようにして
平然と
していられるのには
訳がある。

実在の
おかげだ。

心とは
一つの
現象だ。

現象が
壊れても、
実在が
しっかりしていれば、

壊れたまま
自分で
いられる。

そして
実在の力に
よって

壊れた
現象である
心を
癒し続け、

復活させることも
できる。

これまで、
この14年間で
何十回も
やってきたこと。

現象は
修復が
可能だ。

しかし
実在そのものが
壊れること
もある。

そうなると
もう
深刻だ。

修復できない
ことはないが、

それには
非常に長い
時間と
労力がかかる。

とはいえ、

今、私達が
いるこの
世の中は、

実在も
たくさん
壊れている。

壊れては
修復する、

繰り返し。

これまでは
致命傷とも
なり得る展開も
あったんだよ。

何度もね。

それらを
スレスレで
かわして
ここまで
ようやく来れた。

実在で
やっていることを
私達のほとんどは
意識化していない。

無意識の
世界での
話だ。

でもみんな
大変な
苦労をしている。

私も
そうだ。

でも、
山は
乗り越えたんだ。

この
14年間で。

実在を
感じながら
現象に
向かう。

ここからは
それが
できるんだ。

つづく

強く思っている

自由が
ない。

あらかじめ
描かれた
絵本の世界の
中を、

定められた
物語に
従って

歩み続けて
きたみたいだ。

現実であると
思い続けてきた
すべてが、

単に
紙に描かれた
精密な絵に
過ぎなかった。

あの激しい
滝ですら、
ただの絵の具の
激しい走り描き。

そこに
真の実感は
なく、

ただ、
自分が内面的に
創り出した
感覚のみが
ある。

私達の
脳の創り出した
現実世界とは、

実は
そのようなもの
ではないか、

ある時、
それこそ激しく
実感した。

14年前の
ことだ。

実在を
知ってしまった
からだ。

実在とは
脳は関係の
ない世界。

本当に
ここにある
世界。

脳という
私達の機関を
介して初めて
わかる世界では
なく。

ただ、
ここに
ある。

それを
脳を介さずに
感じた時の
その
衝撃は
あまりに凄まじく、

しばらくの間、
私は
滝のように流れる
自分自身の涙を
止めることが
できなかった。

私達は
実在の中で
生きている。

それを
ダイレクトに
感じず、

脳によって
自分の創り出した
物語に
変換しながら。

実在を
薄っぺらく
絵に描いたものが
現象。

そうとわかった
時、
私は一度、
この現象の世界
(つまり、私達が
現実であると
認識している世界)

生きることの
意味を
失った。

あれから
本当に
たくさんの
試行錯誤と
冒険があった。

今は、
実在と現象は
セットで一つ

わかる。

現象のみでも
ダメ。
実在のみでも
ダメ。
どちらか一方では
それは
「世界」では
ない。

二つ揃って
「現実」
であると。

この世界に住む
私達は
現象に意識を
とられ過ぎだ。

もっと
実在を
感じ取らねば
ならない。

でも今、
その感性の
高い人は
急増している。

感性は高い
のに、
本人はそれを
頭で(理屈で)

つまり
現象的思考で

否定している。

もう
そのような
状態では
立ち行かない
時代だ。

ここからは
本当に
実在と現象の
コラボで行く。

つまりは、

真っ当な
時代だ。

健康な
時代だ。

健康な時代の
生き方を

進み方を

私はもっともっと
発信せねば
ならないかな、

強く思っている。

つづく

離れた方がいい

目の前の
物事を

とても
遠くから

眺めて
みる。

とても
遠くから。

豆粒の
ように。

すると
面白いことに

近くで
見ているよりも
さらに
敏感に
感じ取れるものが
ある。

そう。

遠くの方が
冷静に
感じることが
できるんだ。

近いから
こそ
麻痺することが
あるんだ。

麻痺は
災いのもと。

私達は
普段、
麻痺し過ぎて
いる。

麻痺は
不調和の
もと。

もっと
遠くていい。

もっと
離れた上で
感じれば
いい。

それも
現実と
向き合うための
一つの
やり方だ。

つづく

だいたい10分の1だ

区別をする
ということが
とても大切な
時がある。

例えば、

「後押し」

「見守り」。

人を
サポートする
場合に、

後ろから
少し強めに
働きかけるのが、
「後押し」。

何もせずに
じっと
見つめるのが、
「見守り」。

・・・という
ように、
区別すると、

確かに
この二つは
明確に
区切った方が
良い、とわかる。

最も
良くないのが、

見守るべき
時に
声をかけて
しまうこと。

その
一声が

少し大袈裟に
言えば、

致命傷になる
ことがある。

本当は
見守るだけの
ことで
その人は
次のステージに
進めたのに、

一声を
かけてしまったが
故に、
こちらへの
依存心が湧き、

同じ場所で
バタバタして
しまう。

・・・そんな
場面は、
結構、多い。
特に
上司部下の
関係においては。

いや、
親子関係でも
そうかな。

どうしても、
上に立つ
立場の人は

余分なことを
しがちだ。

ほんの
ちょっとした
「やりすぎ」
が、

想像以上の
不調和を
生み出す。

人間関係
というのは
かなり
難しいものだ。
特に
上下関係は。

ちなみに、
私自身も
ついつい
「やりすぎ」に
なりそうだ。

これだけ長年、
人のサポートの
お仕事を
続けていても。

今でも、
私が心の中で
「こうしよう」

思うことで、

でも
実際には行動に
移さないことは、

10分の9

はある。

つまり、
10のうち
9は、

自らの行動を
止めている。

それくらいに
ついつい
「やりすぎ」て
しまいそうなのだ。

大切な人で
あればあるほど、

私達は
そうなる。

本当に必要な
「後押し」
は、

10のうちの
たった1
くらいだ。

あとは
黙って
じっと
「見守る」
だけでいよう。

つづく

断て

もともと
一つだった
ものが

二つに
分かれて、

それぞれが
別々の道を
進む。

とはいえ、

時には
再会するし、

時には
共に進む
こともある。

もともと
一つだった
ので、

片割れの
ことは
よくわかる。

再会の
瞬間に
すぐに
わかる。

すぐに
わかるが
その再会が
不調和を
生むこともある。

片割れ
だからこその
強烈な
不調和。

本当は
その不調和に
こそ
立ち向かう
必要がある。

片割れの
ことだからね。

ただし、

本当に
優先すべきは

自分自身だ。

ちゃんと
自分の
人生の目的を
考えよう。

私には
残念ながら
この不調和に
付き合っている
暇はない。

と、
スッキリ
思うことが
できれば、

もう、
自分の道を
行けばいい。

とはいえ
それは
片割れを
放っておくという
ことだから、

気持ち的には
あまりにも
辛いだろう。

だが、
そこは
人生の選択
だ。

まずは
自分自身の
目的を
優先させること。

この人生に

時間は
ない。

この人生は

未開の地に
突き進まないと
いけないんだ。

生半可な
調和では
行けない。

不調和の
ままでは
進めない。

キッパリ
断て。

今、
すぐに。

もう
間に合わない。

つづく

天と地の熱さ

その想いの
出所は
なんだ?

源は?

そこはきっと
とてつもなく
熱いところだろう。

その熱さが
問答無用に
伝わってくるよ。

あなたは
情熱という
言葉を
よく使うが、

もう、
そんな言葉は
要らないね。

情熱を超える
真の熱さが
あなたの
原点だ。

人は皆、
余分な何かを
まとっている。

その
余分なもの
こそが
自分である、と
思い込んでいる。

そんなものは
脱ぎ捨てれば
いい、

あなたの
ように。

武装を固めて
進むよりも、

素のままの
自分で
進もう。
その方が
余程、楽しいね。

天と地が
あり、
その間に
私達はいる。

大いなる
ものの中に
抱かれるように。

その存在は
小っぽけな
ものだが、

でも実は
それは
幻だ。

天と地に
抱かれながらも
天と地を
抱く。

それが
私達という
存在だ。

人間だ。

だから
あなたのその
熱さは、
天と地の
ものでもある。

繋がって
いるんだよ、
あなたは。

私達は。

すべては
一つ。

そして
すべては
分離している。

これは
矛盾では
ない。

これが
“世界”という
ものさ。

つづく

その生き方とはさよならだ

槍で、
腹部を貫かれた
ような

そんな鈍い
痛みがきた。

吐きそうに
なる。

そこをグッと
こらえる。

これは
目の前の
この人の
痛みだ。

いつも
こんな痛みと
共に
生きているのだ、
この人は。

そう思うと
泣けてくる。

しかし
泣いている場合
ではない。

同じ人間として、
ついつい
同情してしまう
のだが、

その気持ち
(反応本音)

横に置き。

この人には
厳しい一言を
伝えねば
なるまい。

「生き方を
根本的に
変えなさい」

槍に
貫かれた状態で
生きることは
決して
美しいことではない。

自己犠牲が
美徳だなんて
誰も
言っちゃいない。

あなたの
その痛みは、
誰も
喜んでいないのだ。

あなた
だけだ。

自己満足的に
喜んでいるのは。

その事実に
いい加減に
気づきなさい。

と、
そのように
伝えた。

当然、
その人は
怒った。

もうこれで
この人との
関係は
終わってしまうかも
しれない。

が、
今こそちゃんと
言わなければ。

もっと
楽に生きよう、
とは
このことだ。

怠惰に生きる
ということでは
もちろん、
ない。

あえて
自分で自分を
苦しめ、
痛めつけるような
生き方を
やめよう!
ということだ。

誰も
喜ばないし、
かつ
混乱しか
起こさない
その生き方。

もう本当に
さよならを
するときだ。

つづく

樹との対話

樹の根っこ
にいる。

巨大な
樹だ。

見上げても
この幹が
どこまで伸びて
いるか、
わからない。

宇宙まで
繋がっているのでは
ないか、と
思うほど。

根は
ガッシリと
大地を掴んでいる。

私はそこに
全身を
委ねている。

樹にも
魂はある。

会話すらも
できる。

だから
強烈に
伝わってくる。

強烈な
意志だ。

私は
この樹に
応えなければ
ならない。

どれだけ
巨大でも
樹は
この場所を離れる
ことはできない。

であれば、
私が
動くしかない。

樹の意志を
受け取った
上で。

いつの間に
私は
この樹から
これだけの信頼を
いただけるように
なったのだろう?

根っこに
貼り付けば、
いつも
大いなる祝福を
受ける感覚だ。

私はやはり
これに
応えなければ
ならない。

何がなんでも。

私のような
生き方をして、
すでに
人生を終えられた
人もいる。

私はその人を
芯から
尊敬している。

その人に
負けないよう、
私も私の人生を
生ききるつもりだ。

今、
樹が感じている
ことは、

これまでの
人類の歴史には
なかった
何物か、だ。

この巨大な
樹が
武者震いを
しているようだ。

私も
武者震い。

樹と
魂を共有し、
ここから先を
進んで行こう。

つづく

孤独なんだろ

まだ
臍の緒で
繋がっているうちは
良かったのだ。

しかし
母親の体内から
出た直後に、

その臍の緒
さえも
切られる。

その瞬間
から
私達の孤独は
始まった。

分離感。

断絶感。

すべての存在に
対して。

その孤独に
争うかのように、

そして
その孤独を
打ち消すかの
ように、

時には
逃げるかの
ように、

私達は
生きてきた。

こんなに
辛い世界は
本当は
他には
ないんだよ。

それくらいに
辛く
苦しい
人生の始まり。

それはもう、
真本音を
多くの人が
忘れてしまうのも
よくわかるよ。

私自身も
そうだったし。

私達は
皆、
孤独だ。

という現実を
受け入れられるか
どうか?

それにより
人生の進み行きは
根本から
変わってくる。

孤独を
愛そう!

などとは
言わない。

そんな
生優しいものでは
ないから。

ただ、もう
目を逸らすのは
やめよう。

孤独は
ここに
あるのだから。

この世で
生きている
限り、
ここに
あるのだから。

目さえ
逸らさずにいれば、

孤独から
逃げるための
願い、

孤独を
打ち消すための
願い、

から
私達は
解放される。

そこで初めて
知るのだ。

その奥に
潜んでいる
自分自身の
本当の願いを。

つづく

生きている意味はない

私に
生きている
意味なんか
ないのじゃないか。

という
とても痛い
想いを
浴びた。

まだ若い
その人は、

私の目を
はっきり見ながら、
自問自答の
ように
そう呟いた。

その瞬間、
思い出した
のだ。

私もずっと
そうだったな、
と。

私の場合は、
その人のように
明確に
自覚していたのでは
なかった。

でも、
今、振り返れば、
私の人生とは、

私の存在
なんて
意味はない、

という
無意識の呟き
と 
共にあったのだ。

通常なら、
そんなことは
ないよ、
人には皆、
意味はあるんだよ、

慰めるべき
ところだろう。

ところが
私の口から
出た言葉は、

その気持ち
こそを
ずっと大切に
してほしい、

・・・だった。

もちろん
今の私からは
その気持ちは
跡形もなく
消えている。

しかしそれは
経験
によってでは
ない。

良い経験を
積めば
解消される次元
ではないのだ。

むしろ、
解消されない
からこそ・・・。

そう、

あなたは
あなたで
いられる。

本来の
あなたに
戻るために。

つづく

喉にくるメッセージ

喉が
ヒリヒリする
のだが、

こういう時は
何らかの
強いメッセージが
ある、

ということだ。

何か
私自身が
気づかなければ
ならないことが、

今ここに

ある。

今ここを
逃すと、
その気づきに
もう一度
辿り着くまでには、

かなりの時間が
かかってしまう。

今ここに
ある
気づきは、

今ここで
気づかねば
ならない。

こう書くと、
なんだかいつも
縛られている
ような
印象になるかも
しれないが、

逆だ。

まったく
逆だ。

今ここに
しか
存在しない
気づきを

求める
旅。

これが
人生。

その
人生の醍醐味
は、
言いようのない
爽快さと、

自由さ

がある。

私はこれを
続けている
うちに、

喉が、

アンテナの
ように
合図をくれるように
なった。

喉メッセージ。

今、
ここに、
一つの、
気づきがあるよ、
と。

ゴホンゴホン

咳き込みそうに
なる。

なるほど、
これはかなり
大きな
気づきのようだ。

つづく

どっちが師匠だ?

表面的には
師匠と弟子

関係でも、

本質的には
それが
逆転している
コンビがいる。

本当は
師匠が弟子で、
弟子が師匠。

師匠が
教えているが、
実は
師匠は
教えられて
いる。

結構
多いんだ。

そんな
コンビを
拝見すると、

いつも
思うのだが、

美しいなぁ、
と。

それぞれが
謙虚に
真摯に
表面的な役割を
担いながらも、

それぞれが
ちゃんと
学び合っている。

親子でも
同様の
コンビがいる。

本当は
親が子で、
子が親で。

親が子を
守っているが、
実は
子が親を
守っている。

親が子に
教えているが
実は
それを通して、
教えられて
いる。

これもまた
美しい。

こういう
関係性を
観ると私は、

人間って
美しいなぁ

思うんだ。

つづく

一瞬だけ本当の場所に

今、
ここに
いるのだが、

本当は
もっと
上空にいる。

高いところ
から
ここを
見降ろして
いる。

本当は
そこに
いる。

だから
短時間だが、
本当の場所に
戻ろう。

感じている
ことが
あるはずだ。

そろそろ
あの
気づきの
タイミングだ。

潮流の
変わる時。

一気にそれを
ここから
始める時。

だが、
仮の場所では
わからない。

本当の場所
から
世界を
眺めなければ、

現在地すら
満足に
把握できないのだ。

狭い世界
だ。

狭い
というのは
視界が狭い
ということだ。

私達は
わざわざ
この
視界の狭さの
中に
埋没している。

あえて
そこで
自分が
どう
生きるか?

それを
試し続けて
いる。

もがく
自分。

あがく
自分。

その
もがき方
あがき方

じっと
自ら観察し、

ある瞬間に
完了感
を得る。

そして
本当の場所を
取り戻す。

取り戻しても
ずっとそこに
いられるわけ
ではない。

時々、
肝心な時に
だけ
一瞬、
戻れる。

ずっと
息のできない
状態でいて、
一瞬だけ
一呼吸だけ
できたかの
ように。

でも
その一呼吸が
大事だ。

それさえ
あれば
確実に
自分の
方向は
わかる
んだ。

つづく

あの人に近づこう

一本指を
立てている。

何かを
呟いている。

あと
一度だけ!

か、

おぅ、
いいねぇ!

か、

この指
止まれ!

か。

意味は
わからないが
あの人は
じっと
一本指を
立てている。

顔は
結構、
寂しげだ。

でも確かに
何かを
期待もしている。

一本指を
立てながらも、
目は
どこか遠くを
見つめている。

虚ろ
ではない。

むしろ
意志がある。

冷静に
見えても、
奥の方で
フツフツと
煮えたぎる意志だ。

もう、
隠すことは
ない。

もう、
始めるのだ。

そうか。

自己開放

しようと
しているのか。

であれば、
私は
あの人に
近づこう。

そうか。

あの指は
アンテナか。

特殊な
波長の。

私はそれに
引っかかった
というわけだ。

つづく

崩壊への亀裂だ

「現実」に
亀裂が
見えるかい?

崩壊の
兆し。

しかしそれは
怖がるべき
ものでは
ない。

その亀裂に
立ち向かうか?
逃げるか?

人の態度は
両極端に
分かれる。
面白い
くらいに。

あなたは
どちら?

気がつけば
亀裂
だらけだ。

どこから
崩壊が
始まっても
おかしくはない。

こんな世の中に
誰がした?

とは
問うなかれ。

こんな世の中に
したのは、
すべての人達
だ。

大人も子供も
関係ない。

皆の
総意だ。

あなたであり
私だ。

だから
この現実は、

この
亀裂たちは、

私達が
自ら
引き受けるべき
ものだ。

修復は
可能か?

残念ながら
不可能だ。

というよりも、
この亀裂を
こそ
私達は
望み続けたのでは
ないか。

積年の想いが
ようやくにして
叶い始めて
いる。

その象徴が
この
亀裂だろう。

ここで
逃げたら、
これまでの
私達の
長い長い

いや、

永い永い
道のりが
意味を失って
しまう。

だから
立ち向かおう。

せめて
私達だけでも。

つづく

さよならの時だ

新たな道に
進むのは
怖いかも
しれないが、

どうせなら
笑顔で
行こう。

涙が出るかも
しれないが、

それが人間
だろう。

そりゃ
ずっと同じ場所に
いたいだろうよ。

居心地が
良いからさ。

わざわざ
大好きな人達を
手放す必要も
ないよ、と
ささやく自分も
いるだろう。

行かないで
ほしい、

懇願する人も
いるだろう。

それでも
キッパリ
行く。

スッキリ
進む。

誰が
なんと
言おうが。

それが
あなたの
道だ。

本当に
心から
魂から
応援するよ。

つづく

何もなくなったら

何もない。

私の中には
何もない。

そう
感じたら、

それは
チャンスであると
捉えるといい。

ないように
見えて
実は
すべてがある
状態。

満ちている
状態。

欲が何も
出ないなら、

そのままで
いい。

フッと

無欲の中の
強烈な
願いが浮上
するかも。

もしくは、

何となく
軽く
これをやって
みようかな、

思うかも。

いずれにしても、
無闇に焦って
何かをする
ことなく、

ただ
待てばいい。

自然に
湧き出ずる
ものを。

つづく

フラッシュバックばかり

普段から
過去の私の
振る舞いが
よく
フラッシュバック
するのだが、

最近は
その頻度が
極端に増えている。

真本音度合いの
高まる以前の
私の人生は

後悔
ばかりだ。

いや、

後悔
という概念を
一つにまとめて
形にすると、

私の人生に
なるのではないか、

思ってしまう
くらい。

フラッシュバック
する度に、
その時に
私と関わっていた
人達に向かって

ごめんなさい


謝り続けて
いる。

私は、
余分なこと
ばかりを
していた。

余分なことを
するくらいなら、
何もしない
方がいい。

だが、
何もしない
などということが
私達人間に
可能だろうか?

もちろん
不可能だ。

だから
余分なことを
日々、
積み重ねて
しまう。

余分なことの
集積。

そういった人生から
一つずつ
余分なものを
排除したり、
捨てたり、
手放していく。

真本音で
生きる、とは
そういうこと。

そして、

余分が
なくなることで
初めて
姿を現すものが
ある。

それこそが
自分の
本当の意志
であり、

願いだ。

自分の意志

人生を切り拓く。

自分の願いに
向かう。

そのためには、
できるだけ
シンプルに
生きよう。

一つずつ
余分だと思うものを
減らして
いくしかない。

人によっては
ゼロ
になった方が
良いかもしれない。

かつての
私のように。

過去の
やり直しは
効かない。

その事実を
もっと
厳粛に
私達は
受け止めた方が
いい。

つづく

なぜあの時、行けた

あの時、

逃げるか?
立ち向かうか?

その
たった二つの
選択肢を
突きつけられ、

30秒ほどで
答えを
出さねばならない
くらいに

追い詰められた
あの時。

まだ
真本音という
概念にも
出会っておらず、

それどころか
自分と向き合う
ということ自体が
まったく
できていなかった。

その私が、
ギリギリの状態で
選択をしなければ
ならなかった。

あの時、
もし逆の選択を
してれば、
間違いなく
今の私はなかったし、

私の人生も
とっくの昔に
潰えていたことは
今となっては
よくわかる。

よくぞ、
ちゃんと
選択した、

よくぞ
逃げなかった

あの時の
私を
褒めてあげたい。

でもなぜ
そこで私は
ちゃんと
選択できたのか?

それが
いまだによく
わからない。

心の中は
余分なもの
だらけ。

余分な行動
余分な振る舞い

権化だった
当時の私が、

あの時だけは
間違えずに
進めた。

人が
真本音の道を
進む
ということが
いかに難しいか。

それを
今の私は
痛感し続けているが、

だからこそ
あの時の私の
その選択が、
奇跡のように
思えるのだ。

あの時
なぜ
私は
逃げずに
進めたのか?

どうみても
当時の私から
すれば
デメリットしか
ない
恐怖の道だったのに。

もちろん、
いろんな答えは
考えられるし、
分析もできる。

でも
この問いは
安易に答えを
出してはならないと
思うんだ。

つづく

見降ろすと全然違う

私はよく、
意識を
上に上にと
持っていく。

天から
地を見降ろす
くらいに。

すると、

自分の視界では
見えなかった
もの達が
突然に
観えてくる。

見降ろす感覚

独特のもので、

私の場合、

そこで
いつも
私自身の小ささを
感じ取る。

私にとって
それは
とても良いことで、

それにより
私は落ち着き、

無駄な行動
無駄な選択が
一気に消える。

なんだ、
私には
何もできないじゃ
ないか。

私に
できることは、
私に
できることのみ、
だ。

その事実を
受け止めた
上で、

自分の視界に
戻る。

すると
かなりクリアに
自分の
すべきことが
わかってくる。

誰に何を
お願いすれば
良いか?

誰に何を
お任せすれば
良いか?

特に
そういったことが
わかってくる。

と、共に
内側から
湧き上がる
感謝の気持ち。

感謝とは、
こうやって
自然に湧くもの
こそが
心地よい。

つづく

一日で必ず必要な時

じっとしている
べき時に、

クルクルと
回り続ける人が
いる。

落ち着かない
のだ。

クルクル回る
から
余計に
ものがよく観えなく
なる。

そして
安易な一歩を
選択して
しまう。

落ち着け。

まずは。

じっくりと
現実と
向き合おう。

闇雲に
動いてもよい
時代は
終わった。

今は、
一度、安易な
選択をしてしまえば、

その挽回に
かなりの時間を
要す。

ここが、
以前と今の
違いだ。

もちろん、
ただガムシャラに
脇目も振らずに
進むべき時も
ある。

しかし
本当にそれを
すべき時かどうか
は、
しっかりじっくりと
見極めなければ
ならない。

一度、
止まる時間。

すべてを、
見渡す時間。

自分を
整え、落ち着かせる
時間。

それらが
ここからは、
本当に
必須だ。

一日の中で、
必ず
そういった時間を
持とう。

自分を失う
ほど
忙しい時こそ。

つづく

何も上手くいかなくとも

夢に描いた
ものが

第一歩目から
まったく
上手くいかず

失望の連続

続くとしたら、

どうする?

何があっても
夢に向かうか?

サッと
諦めて
次に向かうか?

そういった
人生の選択に

答えは
ない。

答えは
自分で決める
しかない。

大切なのは、
自分で決めた
その答えが、

自分自身で
正解である、

信じられること。

だから
そのためにも

真本音で生きる
ことを
お奨めする。

真本音で
生きるとは、

すべて
上手くいく

ということでは
ない。

ましてや、
すべて思惑通り
ということは

まったくもって
ない。

むしろ、
真本音で生きれば
生きるほど、

予想外、
想定外、

日々、増していく。

じゃあ
何も良いことは
ないじゃないか、

思われるかも
しれない。

しかし
そういったことも
すべて含めて、

調和性が
増していくのだ。

つまりは、

良い試行錯誤が
始まる

ということだ。

良い試行錯誤に
なるために
とても大切なことが
一つある。

それが、

自分の選択を
自分が信じる

という
ことだ。

ところが、
「信じる」
とは
結果ではない。

「信じる」
とは
意志である。

そのため
自分にとって
最も確固たる
意志に基づいた
選択をすることが
必要だ。

だから、
自分の真本音で
決める。

一つ一つ
最大の意志で。

そして
一つ一つ
の歩みを
自分自身が
信じる。

そうすれば

思う通りに
いかないこと
ばかりでも、

それは必ず
次に
繋がる。

そして、

そういった
生き方
行き方

じっと見つめ続ける
存在がある。

そう、
自分自身だ。

自分の生き様を
自分が
ずっと見つめ続け、

良い生き様だなぁ

という
実感と共に
自己イメージが高まり、
自分の歩みは
さらに確固たるものと
なる。

そして
これを続ける人は
常に
「ゆとり」を
持てるようになる。

どのような
現実が
あっても、

どこか
ゆとりを持って
客観的に
それらと
対峙できる。

そこに、
「道」は
拓かれる。

そう。

だからこそ、
まずは
真本音だ。

自分の
真本音で、

今の一歩を

決めるんだ。

つづく

この感覚、あるだろうか

一人では
ない。

皆が
いる。

と、
感覚的に
思う。

感覚的
に。

それを私は

“ファミリー感”


呼んでいる。

実在レベルの
感覚だ。

心では
どれだけ
孤独になっても、

必ず
自分がしっかり
真本音で
生きていれば、

その
ファミリー感
はあった。

その感覚には
随分と
助けられた。

その感覚が
なければ
決して生まれない
発想は
数知れず。

特に、
コーチングなど
人と
接する時間に
それを感じると、

その場
そのものの
次元が
明らかに
高まった。

物事の
展開の仕方の
根っこが
変化した。

この感覚は
他の皆さんにも
あるものか?

もし
すべての人が
この感覚を
得られれば、

世界は
根底から
調和するのでは
ないか。

ファミリー感は
いろんな方向
からくる。

今、私は
それを
背後から
感じている。

私の背中に
あたたかい
光がある
ような。

この感覚と
共に、
私は
世界(現実)と
向き合う。

すると、
私の
すべきこと、
してはならないこと、

ありありと
わかるんだ。

つづく

0が1となる

足音が
後ろから
追いついて
きた。

ずっと
待ち望んで
いたやつだ。

遅いよ。

待ったぞ。


言いたいところ
だけど、
それはまぁ
さすがに
可哀想か。

むしろ、

よく来たなぁ、

悦ぶことに
しよう。

そう、
これは
純粋な
悦びだから。

待つことに
慣れすぎた
私の人生かも
しれない。

待ちながら
一生が
終わってしまう
可能性だって
まま
あったのだ。

しかし
そのような不安の
中でも
じっと待った。

やってダメなら
しょうがない、

ではなく

待ってダメなら
しょうがない、

という
気概だ。

0が1
となる。

1は2
となり、

2は4
となり、

4は8
となる。

今、私が
聴いているのは

1の足音
だ。

遅いぞ、
1よ。

でも、
嬉しいぞ。

つづく