チームパフォーマンスコーチ

なんだこの体験は?

言葉にすると、
あえて

「現実」

としか
言いようのない
ものが、

凄い情報量で
一気に
押し寄せてくる。

まるで
火山が噴火
したかのように、

その
マグマ達が
一気に
自分に向かって
くる。

避けようにも
避けられない。

自分は
その凄まじい
噴出に
呑み込まれる。

そして
自分が
わからなくなる。

まるで
毎回、
「死」というものの
瞬間を
体験しているかの
ように。

・・・今、
このような体験を
している人が
増えている。

日常生活の
ある場面で
突如として
そうなる。

いったい私は
どうしてしまったのか?

極度の不安に
なる。

こういった体験に
よって
まるで
気を失うかのように
なるのだが、

でも実際は
何も起きていない。

何も起きずに
平穏そのもの。

でも
自分自身には
そのような
爆発的な何物かが、

つまりは
それは
「現実」としか
表現できないものが、

押し寄せ
自分を
包み込む。

いったい私は
どうしたのか?


不安になるのも
当然だろう。

しかし
これこそが

「実在」


体験する最初の
ステップだ。

「実在」
というのものが、
いかに凄い
情報量か、
わかるだろう。

「実在」
というものが、
いかに
凄い存在感か、
わかるだろう。

それを
目の当たりに
すれば、

私達がこれまで
「現実」であると
認識していた
この世の数々の
「現象」が

単なる
「映像」でしかない
ということを、

しかもそれは
かなり淡く
儚いものである
ということを、

理屈ではなく
瞬時で
理解できるだろう。

私達は、
「現象」の世界を
生きているが、

その根っこには
すべて
「実在」がある。

これまでは
「実在」と「現象」は
断絶していた
のだが、

この数年をかけて、
いや、
特にこの数ヶ月で、

それらは
急激に
「一致」してきた。

とはいえ
まだまだ一致度合いは
低いのだが、

繋がってきた
のは
確かだ。

そのため、
日々をしっかり
真本音で生きる
人ほど、

上記のような
体験をする可能性が
高い。

上記のような
体験をしなければ
ならない、
ということでは
もちろん、ない。

しかし
もしそのような
体験が
あるとするなら、

それは
健康な体験の
一つだ。

決して
不安になる
必要はない。

むしろ
その爆発的な
情報量の「現実」は、

直観の
大本となる。

むしろ
自分の身を
完全に
委ねてみるといい。

そのうちに
この体験すらも
自分で
コントロールできるように
なるから。

つづく

愛する、について

愛する

という
向き合い方に
よって

物事が一気に
打開する

という進み行きを
この仕事を通じて、
私は無数に
体験してきた。

誰もが
人を
愛することが
できる。

しかし、
なぜか、
普段、
それを
していない。

まぁ、
私も昔は
そうだったのかな。

本来、
愛とはエネルギー
であり、

愛する

とは、
そのエネルギーを
伴った行動の
ことだ。

形だけの
愛、
というのも
多いね。
そういう意味では。

それに、

愛という
エネルギーを
伴っているにも
関わらず、

そのエネルギーの
照射の方向が
ずれてしまっている

という例も
多い。

相手に
ちゃんと
愛が
向かっていない。

愛は
あるのに。

だからいつも
思う。

向き合わず
して
愛は
相手には
伝わらない。

どれだけ
深い愛が
あっても。

そして、

人を
愛さない人は
人から
愛されることも
ない。
決して。

愛し合う、
とは
愛というエネルギーの
循環だ。

どちらかが
どちらかへ
一方通行で
エネルギーを
照射するのでは
なく、

そこに
エネルギーの循環
が起こり、
それがどんどん
増幅されていく。

循環とは
力のあるもの。

良い循環は
進化を生む。

愛は
循環によって
進化していく。

これはもちろん
恋愛に限った
ことではなく、

ビジネスでも
同じだ。

愛の循環を
生み出す
ビジネスが
増えてほしい。

つづく

自由になれる訳

大海原を
自由に
泳ぎまくる

イルカの
ようだ。

時々、
海面から
ジャンプし、

空をも
飛ぶ。

跳ぶ
というよリも
飛ぶ、
だ。

枠なんか
意識して
いない。

自分は
海に生きる
生き物だなんて
意識していない。

自由に
行く。

自由に
飛ぶ。

仲間達も
いる。

彼と出会うと
みんな
自由になる。

海面から
飛び上がる。

彼は実は
命の尽きる日を
知っている。

そこのみは
自由では
ないのだ。

いやむしろ、
その日を
ちゃんと決めて
おり、

それを
全面的に
受け入れている
からこそ、

あとは
すべてが
自由なのだ。

無限

進化を
生まない。

有限
だからこそ
進化は
始まる。

それを
彼はよく
知っている。

だから
自ら
体現している。

私は
自由の象徴だ。

宿命を
飲み込む
からこそ、

私は
自由だ。

と。

つづく

好きな方へ

渦中に
飛び込む。

自らの
意志で。

傍観する
くらいなら、

生きている
意味はない。

私には
関係ない、

という
一言を
言うくらいなら、

私という
存在の
意味すらない。

この人生は
私のもの
だから。

ここにある
渦中は
私のものだ。

であれば
堂々と
中心へ行く。

たとえ
そこで人生が
終わっても

それなら
それで
本望だ。

・・・そういった
肚の据わった
人と
向き合うのは
実に
気持ちがいい。

心も魂も
軽快になる。

あなたは
自覚して
いないだろうが。

その真剣さが
あなたの
魅力なんだ。

だから
心から
奨めるんだ。

好きな方に
行けばいいよ、
と。

つづく

壊さねばならない時

守るべきもの

何か?

それだけを
とにかく

明確
にしよう。

これだけは
ちゃんと守る!


決めよう。

その上で、

あとは
すべて
ぶった斬れ!

ぶち壊せ!

ちょいと
怖い表現に
なったが、

現実を
進めるためには
必要なこと。

守るべきものを
守ることで

壊すべきものを
壊せるんだ。

つづく

この人生の意味

初めて
この世に生まれた
瞬間を

我々は
覚えていない。

母親から
切り離される
その瞬間を。

一人の個

として
分離される
その瞬間を。

赤ん坊は
自分と他人の
区別が
ついていない。

自分と
自分以外との
区別が
ついていない。

しかし
個として
すべてから
分離された、

という
事実は
確かにあるのだ。

そして
その
「誕生」の瞬間、

我々は
すべての記憶を
失くす。

いったん
すべてが
リセットされる。

なぜなら
それが
人生の意味
だから。

分離の区別が
わからずに、

しかし
それでも
日々を重ねる
ことで

徐々に
分離の区別を
知っていく。

自分と
自分以外が
別物であることを
知っていく。

分別が
ついてくる。

それを一般には
「成長」
と言うが、

それは
本質的には
この世の次元に
合わせて

自分の次元を
落としている

ということ
だ。

すべてが
分離している
世界に入り、

その次元に
自分を
合わせながら、

いったん
すべてを
リセットする。

実はこれは
人にとって
最も過酷なことでは
ないか。

その「過酷さ」を
我々は
全員
体験してきた。

最大の
過酷さから
始まるのが
この世の
人生だ。

だから
我々には
それをくぐり抜けた
逞しさが

根底に
備わっている。

逆に言えば
その逞しさを
備えることが
できなければ、

この3次元の
世界の
過酷な人生は
生き続けられない
のだ。

これほど
調和のない
世界は他になく、

しかし
その中で
我々は
調和を生み出して
いく。

言わば、
戦士
のようなものだ。

一人ひとりが
戦い続けて
いる。

人生とは
戦いである。

その事実と
対峙せずして

我々は
自身の道を
開くことは
できない。

「逃げ」
からは
残念ながら
何も生まれない。

我々の
真本音は
それをよく
わかっている。

だから、

真本音で生きる
とは

やりたいこと
だけを
やればいい、

という
生き方とは
対極にある。

どのような
現実に対しても
真に
自分らしく
向き合い、
道を開く。

・・・それが
真本音で生きる
ということだ。

この過酷な
人生に
あえて
立ち向かう
理由が
我々にはあるんだ。

理由、
つまりは
願い、

あるんだよ。

どれだけ
記憶を
失くしてもね。

つづく

人が孵化するとき

卵が孵化
するように、

人も
孵化する。

そんな時、
よくあるのが、

熱が出る

という
現象。

体が非常に
不安定に
なるので、

タイミングが
合えば、
ウィルスに
感染してしまうことも
ある。

しかし、

孵化を原因
とした
高熱(もしくは病気)
であれば、

あまり心配
することはない。

それは
じっくりと
休息すべき時、

という
真本音からの
合図。

実際に、
全く体が
動かなくなるし、

気力も
ほぼほぼ
ゼロになる。

それでいい。

孵化をする
時は、

全エネルギーを
そこに
注がねば
ならない。

集中せねば
ならない。

そういった
意味で
本当は、
「休息」では
ないのだが、

顕在意識レベル
では
「休息をしっかり
とろう」

決めた方がよい。

中途半端に
活動しないこと。

つづく

まっすぐ行こうとしても

まっすぐ進もう
とする
あまりに

無理をして
いないかい?

いついかなる
時も、

無理をしている
感覚があれば、

それは
「まっすぐ」
のように見えて、

実在は
「まっすぐ」では
ないのだよ。

「まっすぐ」

表層的に
捉え過ぎては
ならない。

表面上は
クネクネと
曲がりくねっている
ようでも、

その実在では
「まっすぐ」
ということは
多々あるんだよ。

なぜなら
この現実世界
こそが
「まっすぐ」では
ないから。

曲がり
くねっているから。

曲がりくねった
世界で
まっすぐ進む。

本来は
とても難易度の
高いことを
しているのが
我々だ。

だから
「まっすぐ」に
こだわり過ぎると
逆に
曲がってしまう。

だから
あえて
今のあなたには
こうアドバイスしよう。

もっと
適当でいいよ。

つづく

なんだよこの場は

一つ、
石を投げて
みる。

すると、

たった一つの
石なのに、

同時多発的に
3つの波紋が
広がった。

なぜだ?


思うよりも、

なんだ
ここは?

という疑問が
湧いた。

面白いので
もう一つ
別の石を
投げてみた。

しかし今度は、
何も
起こらない。

ポチャンと
確かに石は
落ちたのに、

水面に
波紋が
浮かばない。

なんだ
ここは?


そりゃ
なるわね。

ならば、

同時に
3つの石を
投げてみた。

かなり
インパクトの
あるヤツだ。

すると
波紋、
というよりも

水面全体が
揺れた。

幾千もの
波紋が
交差する。

そして
それらの揺らぎが
まるで
生み出したかの
ような

新たな光が
生まれ、

それが
空に
飛んで行った。

なんという
場だ。

これだから
“企業”
は面白い。

“組織”
は面白い。

“人”を
理解したと
しても、

“企業”を
“組織”を
理解できた
ことには
ならないね。

つづく

素晴らしいアイデアなのに

ここに
アイデアが
ある。

とても
素晴らしい
ものだ。

なのに、

それが
何かが
わからない。

目の前に
あるのだ。

しかしそれは
卵のように
殻に
閉ざされており、

中身が
わからない。

素晴らしい
アイデアが
あるのだという、

その存在は
わかるのに、

肝心の
中身が
わからない。

・・・こんな
時ほど
面白いことは
ない。


思わないかい?

こういう時
こそ、
私は
人生の醍醐味
だなぁ、

思うし、

その今の
「在るのに
わからない」
という
状態を
満喫する。

卵のまま
であるなら、

その卵を
いつも大事に
大事に
抱き続けよう。

いつどの
瞬間に
卵は
割れるのか?

中から
何が
飛び出すのか?

それを
待つ。

待ちながら
日々を
過ごす。

ワクワク
するねぇ。

まさしく
今の私が
その状態
なのだが、

同じ状態の
人、

多いんじゃない?

つづく

呆れているよ

頼みます。


言われても、

それに
応えられる
時と
応えられない
時が
ある。

基本、

その人自身が
真本音で
望んでいないことを
頼まれたら、

応えることは
できない。

どれだけ
強く
お願いされようとも。

頑なになっている
わけではない。

体が
動かないのだ。

「わかりました」

「わ」の字も、

「いいですよ」

「い」の字も、

決して私の
口からは
出てこない。

時には
まったくの
無表情になることも
ある。

だからそんな時は
怖いだろう。

時々、私は
私自身でさえも
私のことが
怖くなる。

人には
人情というものが
ある。

だから
ちょっとくらい
妥協して、

真本音だー
反応本音だー
なんてことは
言わずに
対応しても良いだろう、

顕在意識では
思うのだよ。

だけど
ダメ。

やはり
ダメ。

私は
人をサポートさせて
いただくことを
生業としている。

たとえそれが
仕事で
なかったとしても、

それを使命として
生きている。

そう
決め切っている
私が、

その人の
真本音が
望んでいないことに
手を貸すことは
ない。

その代わり、

真本音で
進む、
特に
未知の領域に
進もうとする
人には、

その人の
真本音が
望むだけ、
私は
それにお応えしたい。

たとえ
命が尽きる
ことになっても。

・・・と
言うと、
大袈裟に
聞こえるかい?

実はそうでも
ないんだな。

それだけ
とことん
やってしまう。

極端な人間だな

私自身が
呆れているよ。

つづく

今、必須の問い

よく言う
ことだが、

一日の
始まりは

新たな人生の
始まり
でもある。

今日
という人生。

これまでとは
異なる
理念で

一日、
生きてみないか?

・・・

今日一日を
生きる、
私にとっての
初めての
理念は何だろう?

・・・

今の私達に
必須の
問いだ。

つづく

愛の場面

分離している
二つの存在が

一つに
なろうとする。

その際に
発生するエネルギーを
私は
“愛”
と呼んでいる。

この仕事を
長年やっていると、
どうしても
このエネルギーとしての
“愛”を
感じ取ってしまう。

ある同じ人でも
“愛”が
大量に発生する
瞬間と
そうでない時が
ある。

あぁこの人は
こんな場面で
“愛”が湧き出るのだな、

という気づきは
その人への
サポートの大きな
指針となる。

どんな瞬間に
“愛”が大量発生
するか?

そこにこそ
その人の個性や
役割や能力が

さらには
使命が

凝縮されている
から。

“愛”のない
人はいない。

しかし
日常生活で
“愛”が
発生されていない人は

残念ながら
多い。

ないのでは
ない。

あるのに
発生させられない
のだ。

つまりは
そういった場面を
自らの人生で
創り出すことが
できていないのだ。

反応本音のみで
生きる、とは
そう言うことである。

それは自らの
“愛”を
減退させる、

・・・というよりも、

“愛”の場面を
減少させる。

自分の輝ける
場面は
自分で
創り上げる。

これが本来の
人生だ。

これが
自律ということ
でもある。

“愛”のない
人はいない。

自分を活かす
とは、

自分ならでは

“愛”の場面を
増やす
ということだ。

つづく

場のエネルギー

この場の
エネルギーは
凄いな。

溜息が
出る。

下から上へ
突き上げるような
エネルギーの
流れ。

身体が
浮き上がるような
感覚。

心地が
良い。

時々
そういう場が
あると、

私はふと
立ち止まり、
そのエネルギーを
しばらく
満喫する。

普通の街中でも
それをするので、

突然立ち止まる
私を
変なヤツだと
見ている人は
多いかもしれない。

人も
一期一会だが、

場も
一期一会
なんだよ。

人も変化する
のと同様、
場も変化する
からね。

同じ場所を
再び訪れたと
しても、

まったく同じような
エネルギーとは
限らないのだ。

だから私は
良い場と出会ったら
すかさず
満喫する。

時には
場と
対話する。

新しい土地に
行く場合は
特に楽しみだね。

そこに
どんな人達が
いるか?


同様に、

そこに
どんな場が
あるか?

・・・がね。

近々また
初めての場所に
行くのだが、

今から
少しワクワク。

つづく

もう一度

扉は常に
開かれている
ことを

信じると
いい。

人生は
やり直しが
効く。

もう一度!


本気で
思えたところが

スタートライン
だ。

年齢は
関係ない。

これまでの
道のりも
関係ない。

後悔?

あるのが
当然だろう。

人間
なのだから。

後悔が
あるなら、

後悔の念に
思いっきり
まみれること。

ごまかさない
こと。

人間は
後悔するように
できている。

次の
スタートの
ために。

ごまかしの
スタートなら
しない方がいい。

存分に
後悔して、

存分に
自分自身に
謝って、

自分自身と
和解して、

もう一度。

こっから
スタートだ。

つづく

美味しそうだよ

熟れた実が
生っている。

充分に
食べ頃の
果実達。

美味しそう。

これまでの
努力が
実っている。

あとはそれを
思う存分
食べて

堪能すれば
いい。

という状態
であるにも
関わらず、

自分に果実が
生っていることを
知らない、

信じない、

食べない、

という
人が
かなり多いことが
私はとても
残念だ。

その果実を
実らせるための
これまでの
人生だったのに。

一つのゴールは
すでに
手に入っている
のに。

果実を食べて、
自分の
素晴らしさを
堪能して、

次のステージへ
向かえるのに。

果実を食べたら、
ここからは
「邁進」
できるのに。

果実が生る
までの
人生のステージ、

それを私は
「準備ステージ」
と呼んでいる。

果実が生ってから
さらに先に進む
ステージを
「邁進ステージ」
と呼んでいる。

皆、
邁進ステージに
早く入りたい。

なぜなら、
邁進ステージは
楽しくでしょうがない
から。

人生の本来の
醍醐味とも
言える。

それは
本能的に皆、
知っている。

だけど
邁進ステージとは
未知の領域に
入ることでもある。

未知の領域は
怖い。

それもまた
本能的に
知っている。

だから
邁進ステージの
前で
止まってしまう人が
多い。

そちらに
行きたくないが
ために、

果実が生っている
にも関わらず、

それを
知らないふりを
する。

無意識に。

本当は
知っているのに。

もったいない
なぁ。

でもまぁ、
どれだけ
知らないふりを
していても、

その現実を
受け入れて、

果実を
受け入れて、

堪能して、

邁進ステージに
進むことは
いつでもできる。

ただ、

あまりに遅いと
せっかくの
果実が

腐ってしまう。

腐る前に、
気づいてくれると
いいなぁ。

つづく

追い詰めるコーチ

人間、
面白いもので、

本当に
追い詰められた
時に初めて

その人の
「本来」
が開花を始める。

すべての人が
そうだとは
限らないが、

そういった人は
やはり今でも
多い。

だから、
私としていつも
大事にしているのは、

「ちゃんとその人が
追い詰められること」

だ。

せっかく
追い詰められそうに
なっているのに、
そこで中途半端な
サポートをしては、

すべてが
無駄になって
しまう。

せっかくの
開花のチャンスを
逃してしまう。

当然、
本人も
中途半端に
逃げよう逃げようと
する。

それを
逃げられない
ように、
しっかり
追い詰められるように

・・・と、
そちらの方面への
サポートをする。

表面的に
見れば、
かなりひどい話かも
しれない。

でも
そのひどいことを
コーチとして
私は、やる。

その人が
真本音で
望んでいることで
あるならば。

だから、

特に最近は
私のコーチングや
研修を受けると、

以前より
苦しくなった、

という声が
増えた気がする。

以前は、

わかりやすかった!
とか
スッキリしました!
とか

そういった声が
ほとんどだったのだが。

ようやく私も
真のコーチに
近づいてこれたのかな。

つづく

未知の人間

視界の全くない
道を
歩いている。

いや、
これは道と
言えるのか?

もちろん
自分が今
どこにいて、

どこに向かって
いるのかは
わからない。

しかし、
導かれる
ように
歩いていく。

先に何が
待っているのか?

という
恐れによって
足がすくむことは

もう既に
なくなった。

人間とは
慣れるもの。

凄いものだ。

先に
待っているものが
天国か
地獄か。

そんなことにも
頓着しない
自分が
もう既にここに
いる。

だから
導かれる感覚に
素直に
従うのみ。

何が
導くのか?

誰が
導くのか?


もちろん
わからないままに。

先の方に
何らかの気配が
強まってきているの
ことは
少し前から
感じていた。

この気配は
これまで
経験したことのない
ものだ。

きっと私は
もう
未知の領域に
入っているのだろう。

私の長い
旅路の
記憶にはない
こと。

そこに
分け入ることは
それ自体が
悦びのようだ。

一言で言えば
ウキウキ
している。

やはり、

道は
見えない方が
いい。

見えることで
何かが大きく
失われる。

逆に
見えないことで
得られるものは
多い。

そのように
人間は
創られている。

人とは個。

人間とは場。

私はもう
新たな人間
となっている。

つづく

300%を

一点を
どこに
定めるべきか?

今また
この問いが
とても重要な
局面だ。

いつもの
3倍以上の
力を
出さねばならない。

私だけでは
ない。

みんな
そうだ。

300%の
力。

そのためには
一点を
定めなければ
ならない。

そこにのみ
集中し、
あとは極力
力を抜く。

集中力と
瞬発力。

今はこれが
肝。

つづく

もし気球に乗って・・・

もし気球に
乗って、

上昇して、

その上昇が
止まらなく
なったら、

どうする?

まぁ、
慌てふためく
だろうが、

もう
どうしようもない、

わかったら、

あきらめる?

それとも
最後まで
何とかしようと
する?

どうするかは
人それぞれ
だろうし、
もちろん
正しい答えは
ない。

こういう発想を
する時、

私の場合、

いつも
私自身思うこと
なのだが、

私は実に
あきらめが
早い。

きっと私は
すぐに
あきらめて、

私が果たして
どのような
最期となるのか、

その最期を
迎える
心の準備を
すぐに整え、

あとは
そこに向かって
まっしぐら。

ほんの
数十秒かも
しれないが、

その
数十秒を
最高のものに
しようと
するだろう。

いや、

まったくもって
格好のいい
生き方じゃないと
思うし、

そんな心構えは
どうなの?
とか
もっと命を
大切にしようとする
気構えはないのか?
とか
言われそうだが、

現に
私自身が自分に
そのように
突っ込んでもいるのだが、

でもやはり
私は
きっとそうする。

抗う
ということを
いつの間にか
私は
忘れてしまったのかな。

いや、
違うな。

今、この流れに
抗おうと
もし決めたら、

きっと
とことん
それこそどれだけ
みっともなくても
抗う気もする。

気球で
私がきっと
思うのは、

ほんの僅かな
時間でも
良いので、

私が愛し、
本当に
良くしようと
日々、思い詰めるだけ
思い詰めて

毎日を
頑張った

地球を

できだけ高い
ところから

できるだけ
広い範囲で

眺めたい、

見つめたい、

その上で
さよならを
言いたい、

ということ
だろうな。

つづく

コーチという仕事

ジェットコースター
のように、
グッと降る感覚が
くると、

私はまるで
異なる世界に
一瞬で移動したかの
ようになる。

しかし
身体は
ここにある。

そして
クライアントさんは
目の前に
いる。

現実は
何も変わらない
のに、
私の意識だけ
別の世界にいる。

そして
面白いことに
こんな時の方が、

目の前の
クライアントさんの
ことが
より
ありありと
わかるのだ。

別世界と
言いながらも
実は
本当の世界に
いるのかも
しれない。

いつもいる
現実の世界の
方が
夢のような。

クライアントさんの
一言一言が
私の胸に
染み渡る。

波長の波が
実際に
観えるようだ。

その波の
最中に
わずかだが
不純物が
生じている。

私はそれを
拾い上げ、
クライアントさんに
告げてみる。

するとその人は
ハッとしたような
表情となり、

その後に
気づきがくる。

その
気づきの言葉は
たった一言
なのに

私の胸を
ダイレクトに
壊す。

その破壊力で
もって
それがその人の
真本音だと
わかる。

そう、

私は
破壊される人。

それが私の
役割。

私はいつも
クライアントさん達に
よって
破壊され、

何度も
破壊され尽くし、

その度に
生まれ変わる。

それが
私にとって
コーチという
仕事。

つづく

サポートのプロになる?

様々な事象を
3次元で
認識しよう、
体系化しよう、

というのが
科学であり、

そこにこそ
科学の意味が
あるのだが、

人の心
というのは
もともと
3次元レベルの
ものではないので、

それを
科学しようと
しても
土台、無理が
あるのは
仕方ないことだ。

そもそも
すべてを
3次元でカタをつけよう
というのが
傲慢な気もするが、

3次元に
住んでいる以上、
そこで実証するしか
確かな方法はない。

心は
見えないもの
だから、

とにもかくにも
想像しながら
仮説を立てるしか
ない。

確信したものを
仮説として、
現実的に
確かめてみる。

しかもそれを
人の
目に見える
振る舞い・行動レベルで
確認するしか
ない。

その不確かさ
の連続で、

それなりの
法則化を
してみる。

法則化したものを
皆さんに
提示してみて、

皆さんなりに
自分としては
どうか?

実験してもらう。

で、また
声を聴く。

とにかくそれを
粛々と
続けてきた。

見えないが
故に
面白い部分と、

見えないが
故に
キツい部分と。

両方が
あるわけだが、

ここが楽しい

思えるならば、

コーチ的な
仕事には
向いているかも
しれない。

ただ、

見えないことの
確認作業は
難しいよ。

自分の解釈を
入れれば
途端に
曇るからね。

解釈だけで
ずっと
進めていければ
良いけど、

それでは
途端に
通用しなくなる。

ボロが
出てしまう。

みんな、
人間、
やってるからね。

知らないこと
とは言え、
皆、本当は
わかっている
からね。

みんな
「人間」の
エキスパートだ。
本当は。

エキスパートに
向かって
説明しても
それが浅ければ、

何となくの
違和感としての
ボロが出る
もんだ。

それは
プロとしての
疑念として
相手には
印象される。

そうなると
もう
仕事には
ならないね。

少なくとも
継続契約には
ならない。

難しいだろ?

それでも
人のサポートを
したいと思うかい?

つづく

生きるぞ

何も
遮るもののない
大海原に

太陽の光が
眩しく
照っている。

吸い込まれ
そうだ。

無限の広がり
とは、
自我を
忘れさせる怖さ
がある。

とはいえ、
何とか
踏ん張って
耐えている。

ほぼほぼ
無風状態。

私は
待っている。

それが
起こるのを。

それが
起こるまでは、
何があっても
ここに居続ける。

倒れは
しまい。

こんなに
安定している
海が、

もうすぐ
根底から
暴れ出すとは
思いもよらない。

どうしても
イメージが
できないのだが、

しかし
ほぼ
間違いない。

海底と
海面が
ひっくり返るような。

空と海が
ひっくり返るような。

一見すると
自然の摂理に
反するかのような
現象が
起ころうとしている。

その
予兆かのように
海についに
ヒビが入り始めた。

まるで大地の
ように。

無限に
連なっていくその
裂け目に、

海水が滝の
ように
飲み込まれる。

今だ!


私はその裂け目に
飛び込む。

ここしか
ないのだ。

出口は。

私はまだ
生きなければ
ならないのだから。

つづく

私がサポートしたい人

電車に
喩えるならば、

各駅停車に
乗って、
ゆっくりと一つ一つ
の駅を
楽しみながら、

途中下車も
しながら

人生を進めたい
という
人はいる。

逆に、

とにかく
目的地があるなら、
まずはそこまでは
新幹線を使って、

一気に
到達したい
という
人もいる。

進み方は
それぞれ。

それぞれの
良さもある。

人生を
どのように
進めるか?


自ら選ぶと
いい。

そこを
間違ってしまうと
どのように
進んだとしても、

面白くは
ない。

目的は
大切だが、
プロセスも
大切だ。

時々、

最初は
各駅停車で
スタートしたけど、

やっぱり
新幹線で
行きたい

気が変わる
人がいる。

逆も
しかり。

最初は
新幹線だったけど、
やっぱり
各駅停車だ、
と。

途中から
進み方を
変えるのだって
もちろん
アリだ。

変えたくなったら
変えればいい。

今、

前者のように
人生の進み方の
スピードを
一気に高めたい!

急に思い始めて
いる人が

増えている。

ところが
そのやり方が
わからない、
と。

そうだなぁ。

確かにこれまで
ずっと
各駅停車で
来て、

急に
新幹線に乗ろうと
しても、

まずはその
乗り方が
わからない。

何とか
乗れたとしても、
あまりの
スピードで
怖くなってしまう。

空気感が
全然異なるので、
我を失って
しまう。

新幹線なりに
楽しもうと
思っても、
何をどう楽しめば
良いのか、
わからない。

などなどの
ようになる人も
やはり多い。

結局私は
そういう人の
ための
サポートをしている
のだと思う。

早く
最初の目的地に
到着したい人。

でも
単に移動する
だけでなく、
そのプロセスを
楽しみたいし、

そのプロセスの
中でこそ
成長したい人。

そして、
最初の目的地から
さらに
先に進もうと
する人。

その
「さらに先」
というのは
未開の地だ。

誰も
入ったことが
ない。

そんな人達を
私は
サポートしている
し、

サポート
したいのだ。

数は
そんなに多くない。

むしろ
そういう人達は
「変態」
とも呼ばれる。

でもやはり
私は
「変態」君達と
共に
進みたいのだ。

つづく

攻略本人生?

昔、地球は
平坦だと
考えられていた。

まるで
丸テーブルの
ように。

そして
丸テーブルの
果ては
超巨大な滝が
あり、
海の水が延々と
落ち続けている、
と。

世界には
果てがある、
と。

もちろん
今の我々から
すれば、
そんなはずはない

知っているが、

それはただ
知っている
だけだろう。

映像や写真
などで
球体の地球を
見ただけで、

実際に
生で見たわけでは
ない。

情報がない時代
は、
自分達で
想像するしかない。

その想像力が
昔の人達は
豊かだったのだと
思う。

世界の果ての
滝。

それが実際に
あるかどうか、
ではなく

そういったことを
みんなが
信じていた、
その
みんなの中に
存在した
“果ての滝”。

それを私は
実在で
感じるのだ。

いや、

逆に言えば、
実在のレベル
では
確かにその
“果ての滝”

存在する。

だからこそ、
昔の人達は
それと
繋がるようにして、
世界の果てを
そのように
想像し得た、とも
言えるのではないか。

今の時代、

わからない
ことに対して、
すぐに
情報を得ようと
する。

それって
本当に
人間が
豊かになっている
という
ことなのだろうか?

わからないから
攻略本を
調べる。

・・・という
だけのことでは
ないか。

そこに
“人生”は
本当にあるのか?

私達は
わからないこと
について
もっと想像して
良いのではないか。

未来は
わからない。
自分の
人生のことだと
しても。

じゃあ
未来像を
ネットで調べる
のではなく、

もっと純粋に
自分の想像で、

豊かに

自由に

描いてみては
どうだろう?

ここから
歴史を創るのは
私達だ。

攻略本で
創るわけには
いかないでは
ないか。

つづく

こう映るのか

巨大な樹が
水面に
映っている。

小波に
揺れている。

トツーン
トツーン
と 
音にならない
音が聴こえる。

樹のように
見えて、
あれは
私自身を
映し出している
のだな、

わかる。

大樹は
大きいのだが、
自分からは
動かない。

動けない。

ただその
存在を
示すのみ。

そして
魂に響く
音を
震わせる。

遺す。

それ以上の
ことは
しない。

しては
ならない。

大樹を
活かすのは、

大樹を
活かそうと
する者
のみ。

その者が
現れて
くれるのを
ただ
待つのみ。

少し大きな
波がきた。

大樹の姿は
波によって
揺れて消えた。

振り返ると
そこに
大樹はなし。

私が
いるのみ。

やはり
私はこの生き方で
いよう。

ただ、
もっともっと
大きくありたい。

つづく

惹きつけられた

背後に
引っ張られるような
感覚があり、

思わず後ろを
振り返ったら、

彼がいた。

彼もちょうど
振り返った
ところだ。

同時に
目が合った。

久しぶり
ですね〜!

と彼。

どうして
ここに?

私は
首を傾げる。

いえね、
私もたまたま
なんです。
東京に来るの。

こういう偶然って
あるんですねー!
びっくりです。

あれから
いかがでしたか?
大変だったでしょう。

本当は
ゆっくりその後の
お話を
お聴きしたいの
ですが、

今ちょっと
急いでますんで。

またぜひ
ご連絡ください。
お待ちして
ますんで!

とてもにこやかな
笑顔。

あれは
社交辞令じゃ
ないな。

本当に
嬉しそうだ。

少年のような
キラキラの目。

彼は
足早に
去っていった。

あの感じじゃ、
本当に
連絡してあげたいなぁ。

で、
誰だっけ?

きっと
初対面だ。

つづく

月のメッセージ

昔、インドの
ガンジス川で見た
赤い月を
忘れられないのだが、

どうしても
あの月から
あの時、
私に何らかの
メッセージがあったように
思うのだ。

しかしそれが
わからないままに、
30年近く
経ってしまった。

あの時、何か
音楽に似た
旋律が
流れていたようにも
思う。

あれは
単なる風の音
だったか?

窓にガラスすら
はめ込まれて
いない
安宿のすぐ下に
ガンジス川が流れ、

向こう岸の
さらに向こうから
赤い月が昇る。

月の光が
そのまま
水面に映る。
一筋の道の
ように。

その光景は
リアルに
ここにあり、

今ようやく
メッセージが
浮かび上がって
きた。

メッセージは
水面を
伝わってくる。

・・・

この旋律を
君はいつか
思い出す時が
くるだろう。

これを
思い出したら、
それは合図だ。

その時は、
旋律に意識を
委ねれば、
自ずから答えは
わかるよ。

・・・

今、その旋律が
流れ出して
いるんだ。

私はこれから
どんな問いの
どんな答えを
出すのだろうか。

つづく

海と語る

目の前に
水平に漂う
何かがあって、

これは何だ?

目を凝らして
みると、

海だった。

水中と
水面上と
両方の視点から
観える海。

海は激しく
揺れていた。

なぜこんなに
激しく?


問いかければ、

海の苛立ちが
伝わってきた。

何を苛立って
いるの?

しかし
海は答えない。

しょうがないので
しばらくじっと
観察していた。

無言で
向き合うだけ。

すると
海の底の方に
ボーッと
赤いような光が
観え始めた。

あれは
何だ?

と、また目を
凝らすと、

あまり観て
ほしくないんだ、

海が言う。

なぜ?


問うても
答えてくれない。

観るなと
言われれば
観たくなってしまう
のが
人情というもので、

半ば強引に
その赤い光に
意識を向けて
しまったよ。

そうしたら、
すげー怒り。

海の怒り
の塊。

だから観るな
って
言ったのに。

・・・と海。

懐深い海が
こんなにも
怒ってるんだ。
並大抵では
ないなぁ、

と呟くと、

そろそろ私も
怒ろうかな、
と、

怒りを解放しても
よいかな、
と、

そう思うんだよ、
と、海。

そろそろ何の
怒りか
教えてくれよ、と
頼み込むと、

やっと
答えてくれた。

二つに
分かれちゃった
でしょ、
君たち人間は。

進む者達と
進まない者達に。

何やってんだよ!

怒ってるんだ。

確かに。

それは
面目ない。

弁解のしよう
もないよ。

ただ私は
詫びた。

私は
分かれないけど
いいかい?

と、海。

それは
むしろありがたい。

君が一つの
ままで
いてくれるなら、

人はまた
一つに戻れる
かもしれない。

進まない者達も
本当は
進みたいのだから。

じゃあ私は
私のやりたいように
するよ、

と、海。

なんかちょっと
海と和解
できたかのような
気分だ。

つづく

追い風だからこそ

風が吹く中を
歩いている
のだが、

追い風に
なると
ついつい
走ってしまう。

その方が
楽だから
というのもある。

追い風に
身を委ねるのも
良いのだが、

しかしやはり
基本は
一歩一歩。

追い風の
時こそ。

追い風のうちに
できるだけ
遠くまで
進んでいたい、

という
気持ちも確かに
あるが、

しかしやはり
基本は
一歩一歩。

永続性を
求めるならば。

調子が
良くなると
どうしても
一歩一歩は
雑になる。

わずかな
雑さでは
何も現実は
変わらない。

が、
そのわずかな
ものは
ちゃんと
積み重なる。

雑さは
次の雑さを
生む。

気がつけば
一気に
不調和となって
それは
現実化する。

一つを
丁寧に決め、

一つを
着実に実行する。

追い風の
時ほど
大切にしたい
基本だ。

つづく